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−電線のオルゴール− 目次 |
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第45・46回例会報告 |
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第45回、46回の2度の例会で、『屈折率』から『恋と病熱』まで読みました。参加者が各々感想を語り合い、意見を出し合った内容を大雑把ではありますがまとめてご報告いたします。 −屈折率−
−くらかけの雪−
−日輪と太一−
−丘の眩惑−
−カーバイト倉庫−
−コバルト山地−
−ぬすびと−
−恋と病熱−
ここまで読み進んできて、「詩とは?」「詩の鑑賞とは?」というような詩論にまで、議論が発展しました。詩は解り易い方がよいのか、難解な方がよいのか?徒に理解を混乱させるような表現を賢治がしたのか?多くを語らないのが詩ならば、説明し過ぎると詰まらない詩になってしまう。賢治の場合「心象スケッチ」なので、見たまま、心に感じたままを書いただけなのでしょう。くどくど説明するのではなく、心で感じられるものがどこかで万人に共通すると自負していたに違いありません。私たちは確かに賢治の作品から、その表現が極めて個性的にもかかわらず心のどこかで共感を伴った感動を覚えることが多々あります。「わかる」ことと「「好き」なこととは異質で、「好き」だから「わかっている」とは限らないし、また詩を鑑賞するために「わかる」ことは必須条件ではありません。幼児の描く拙劣ではあるがはっとさせられるような抽象的な絵と、画家の描く抽象画の違いはどこにあるのでしょうか。賢治はむしろ前者かもしれない、というのが皆の一致したところでした。 | |||
『春と修羅』を読む |
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読書会では童話を次々読んできましたが、これで3回ばかり例会で『春と修羅』(第一集)を読んでいます。何の気なしに読み飛ばしていたものも、みんなであちこちつついていると、見えなかったものが見えてきたりします。まだ、「恋と病熱」まで読んだにすごませんが、それにしても何をいいたいのかがよくわからない。読んでわからないようでは表現としては失敗ではないかという意見も出ます。しかし辞書を調べたりしてことばの意味がわかれば、イメージはわいてくるのが多い。別にことさらなメッセージを求めなくても、イメージが伝わってくればそれでいいのではないか。賢治がそんな気がした、そう思えたということで、読むほうもなるほどそういうこともあると思えただけでいいのではないか。それが心象スケッチというものではないかとも思います。後年の作品ではメッセージ性の強いものがあるので、何かを読み取らねばと思ってしまいがちですが、賢治の書いたものだっていろいろあるということでしょう。
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宮沢賢治朗読物語 その2 |
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宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』といえば、ずいぶん有名じゃなあ。が、内容というと、けっこうむつかしいぞよ。大のおとなでも、はたしてどこまで読めていることやら、わからんもんや。何せ夢現(ゆめうつつ)の話でな、ある場面の話をしてるかと思うたら、いつの間にか別の場面になっていたりするんじゃから。スラスラスラーと読んでいったら、「何が書いてあるんか、何が言いたいんか、さっぱりわからんわ〜」というようなぼやきも出てきそうやなあ。よっぽど慎重に読まんと、何が何やら訳がわからんようになってしまう。こればっかりは、やっぱりひとりで読むよりも、吟味しながら何人かで読んでいくのがええと思うなあ。何人かで読んでいったとしても難しい作品じゃが、内容はなかなか魅力がある思うぞよ。その魅力をな、あんたがたにもな、できるだけたっぷりと味わってくれたらええなあと思うとるんじゃよ。
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児童文学の観点から賢治をどう見るか |
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鳥越信さん(聖和大学大学院教授、日本児童文学者協会理事、大阪国際児童文学館理事)は、昨年、「NPO法人国際子どもの本研究センター」を設立し、その事業の一つとして2003年4月から鳥越私塾(毎月1回)を開講。早速参加を申し込みました。1クラス12名3クラスで全36名。名簿を見ると研究職だったり、司書だったり、文庫主催だったり…りっぱな肩書きのあるかたばかり。とんでもないとこに来たかも、と思いつつ、「ごはんより子どもの本が好き」な人ばかりで、塾の3時間はあっというまに過ぎてしまいます。
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編集後記 |
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