会報No.36表紙

会報No.36
−電線のオルゴール−

目次

  1. 第45・46回例会報告−
    読書会「春と修羅」(第一集)−第2、3回目

    川崎 貴
  2. 第46回例会報告−『春と修羅』を読む
    南 義一
  3. 宮沢賢治朗読物語−その2
    友田 清右衛門
  4. 児童文学の観点から賢治をどう見るか
    妹尾 良子
  5. 編集後記

第45・46回例会報告

 第45回、46回の2度の例会で、『屈折率』から『恋と病熱』まで読みました。参加者が各々感想を語り合い、意見を出し合った内容を大雑把ではありますがまとめてご報告いたします。

−屈折率−
 光による視覚の屈折、心の屈折という2通りに読むことができます。初めの3行は光による屈折によって見える光景。3行目最後の「のに」のところで、くっきりと「明」→「暗」への心の屈折が読みとれます。
 南さんが宮沢清六氏の「兄のトランク」の『「春と修羅」への独白』の章の「屈折率について」の部分から抜粋して呼んで下さいました。その場に居合わせたような清六氏の臨場感ある解説、賢治の心情、行動に対する深い共感を持った解釈は、実弟ならではと思わせるものがあって、改めて感心させられました。最後から2行目に段下げされた( )の中の言葉はその前の部分―陰気な郵便脚夫のように―までを書き付けたとき瞬間、再び光が雲の間より射したため辺りがぱぁと明るくなり、アラジンが魔法のランプを手にとったことを連想したという説明です。それで、最終行の「急がなければならないのか」ということばの「のか」は、しかしアラジンの魔法のランプのように簡単に願いを叶えることは出来ず、郵便却夫のようにこつこつと歩いて道を急がなければならない苦しい心境の吐露なのでしょうか。

−くらかけの雪−
 「くらかけ山の雪」から「くらかけの雪」と改題されています。「酵母のふうの朧なふぶき」とは、もわっとした、あるいはふわっとした極く軽い吹雪の表現です。そんな軽い吹雪の中でも、賢治はくらかけ山の雪だけが頼りだと言っています。そして、それが古風な信仰だと言い切るのは、山を崇める原初的な自然信仰が根付いているということなのでしょう。

−日輪と太一−
 「天の銀盤」「吹雪も光り」「赤のズボン」などの表現に視覚的効果があり、美しい情景が想像できます。
 「吹雪も光り」というのは、今まさに吹雪が降り出したところの描写で、実に巧みです。参加者各々が想定した太一の年齢は「5、6歳」「10歳前後」「中年」と様々だったのには驚きました。また、太一はどんな人物かという問いにも「教え子」「近所の子供」「全く空想の人物」「当時線路工夫は赤い作業着を着用していたので線路工夫ではないか」等々、色々な意見が出ました。また最後に「毛布の赤いズボンをはいた」と言い切った締め括りに、晴れ晴れしい気持ちが伺われるという感想もありました。
 吹雪の「白」とズボンの「赤」の視覚的な対比の美しさは「水仙月の四日」に共通のものです。

−丘の眩惑−
 天気雨ならぬ天気雪の現象でしょうか。「ぎらぎらの丘の照りかえし」の“ぎらぎら”は、雪が自ら光っているのでははなく、陽に照らされて光っているので強い表現になっているのかと思われます。「佐野喜」とは浮世絵の版元の名称。風に切り取られた合羽の端が浮世絵の絵柄に見えたのでしょう。「土耳古玉製玲瓏のつぎ目」―空が鮮やかな青いトルコ石を貼り合わせたように見えるらしい。太陽ははっきりとは見えないが、雲の少し上で燦々と照っている。そして笹に積もった雪が陽に暖められて落ちる場面を最終行で、「燃え落ちる 燃え落ちる」と2度繰り返して印象をたたみ掛けて強調していますが、素晴らしい表現で、こういう光景を目の当たりにしてみたい欲求に駆られます。
 例会当日は秋田県出身の妹尾さんに冬の東北での暮らしぶりや雪景色などを解説していただき、理解を深める大きな助力となりました。こうやってじっくり読んでみると、賢治の作品は実に視覚的に想像力を喚起させてくれるものだと今更ながらしみじみ思いました。東北での冬の生活は雪のために辛いことの方が多いはずだし、日常的に見られるものに対しては新鮮な感動を覚えることも少ないと思われますが、賢治が雪の光景をこのように新鮮に美しく見ることが出来るのは驚きです。

−カーバイト倉庫−
 前の作品「丘の眩惑」と制作年月日は同じ。「丘の眩惑」が昼間で、こちらは夜になってからの作品でしょうか。ずいぶん山を歩き回ったせいで恐らく疲れも溜まり相当に人恋しく感じられたのか、灯の光を目指してかなり急いで山を出て来たように書かれています。最後の行は「さびしい」くせに「さびしいためからだけでもない」と強がっているのかとも思われますが、その後の手入れでは、「汗といっしょに擦過する この薄明のなまめかしさは」という表現も見られ、なつかしい以上に肉感的に切迫した感慨があったのでしょうか。

−コバルト山地−
 コバルト山地とは北上山地のこと。「毛無森」とは地名で924mの小山だそうです。「せいしんてき」という表現は萩原朔太郎などの当時の詩の表現の影響なのでしょうか。ひらがなにすることによって観念的な言葉の印象が柔らかくなっています。幻想かあるいは賢治には現実に見えたのか…いずれにせよ賢治はそこに(その光景に)神秘的なものを烈しく感じているようです。

−ぬすびと−
 今回最も議論した作品。「骸骨座」とは明け方の薄明に消えかけた星明かりのこと。「堤婆」とは仏陀を裏切った弟子(法華経では必ずしも悪者ではない)だそうです。「堤婆」は“手入れ”では「青磁」と書き換えられていて「青磁」の方が想像しやすく解り易いという感想と、想像しやすいために当たり前の表現で詰まらない、「堤婆」???と感じるところが面白い、という感想に分かれました。このかめは店先に置かれていて、商品なのか、防火用水を溜めておくためのものなのか、などというようなことにも引っかかってしまう作品です。「長く黒い脚」とは朝陽に浮き出された影でしょうか。朝まだ早い時間なので影が長く伸びていることになります。どろぼうさえもが思わず逃走の足を止め、電線が風にしなる音を聴き入っている光景。ぬすびと=悪人と電線のオルゴールの風流さとの対比。「難解、言葉足らず、説明不足」という理由で、このような賢治の詩は失敗だとの意見もありました。

−恋と病熱−
 全てが???の詩です。何故たましいは疾んでいるのか。恋のせいだろうか?何故烏なのか?たまたま近くの木の枝に止まっていたのだろうか?「やなぎの花」はお見舞い用なのでしょうか?「透明薔薇の火」が病熱のことだとしたら、何と美し過ぎる表現ではないだろうか。賢治は「恋」と「病熱」をどう対比させたいのだろうか?病熱が「透明薔薇の火」ならば、疾むほどの「恋」の焦熱は何の火と言えるだろうか?

 ここまで読み進んできて、「詩とは?」「詩の鑑賞とは?」というような詩論にまで、議論が発展しました。詩は解り易い方がよいのか、難解な方がよいのか?徒に理解を混乱させるような表現を賢治がしたのか?多くを語らないのが詩ならば、説明し過ぎると詰まらない詩になってしまう。賢治の場合「心象スケッチ」なので、見たまま、心に感じたままを書いただけなのでしょう。くどくど説明するのではなく、心で感じられるものがどこかで万人に共通すると自負していたに違いありません。私たちは確かに賢治の作品から、その表現が極めて個性的にもかかわらず心のどこかで共感を伴った感動を覚えることが多々あります。「わかる」ことと「「好き」なこととは異質で、「好き」だから「わかっている」とは限らないし、また詩を鑑賞するために「わかる」ことは必須条件ではありません。幼児の描く拙劣ではあるがはっとさせられるような抽象的な絵と、画家の描く抽象画の違いはどこにあるのでしょうか。賢治はむしろ前者かもしれない、というのが皆の一致したところでした。

『春と修羅』を読む

 

 読書会では童話を次々読んできましたが、これで3回ばかり例会で『春と修羅』(第一集)を読んでいます。何の気なしに読み飛ばしていたものも、みんなであちこちつついていると、見えなかったものが見えてきたりします。まだ、「恋と病熱」まで読んだにすごませんが、それにしても何をいいたいのかがよくわからない。読んでわからないようでは表現としては失敗ではないかという意見も出ます。しかし辞書を調べたりしてことばの意味がわかれば、イメージはわいてくるのが多い。別にことさらなメッセージを求めなくても、イメージが伝わってくればそれでいいのではないか。賢治がそんな気がした、そう思えたということで、読むほうもなるほどそういうこともあると思えただけでいいのではないか。それが心象スケッチというものではないかとも思います。後年の作品ではメッセージ性の強いものがあるので、何かを読み取らねばと思ってしまいがちですが、賢治の書いたものだっていろいろあるということでしょう。
 中学の友だちである阿部孝の証言にあるように、賢治が影響を受けたとされる萩原朔太郎の『月に吠える』の序を読んでみました。詩は説明するものではないといい、「詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。」というようなことばもあります。心理学の支度のために書いたという賢治のことばを思い出します。賢治がなんらかのヒントを得たということは考えられますが、しかし違うぞと思うところがあったから、意気込んで『春と修羅』の序を書き、詩ではなく心象スケッチだといいはったのでしょう。『月に吠える』を拾い読みしてみると、朔太郎よりも賢治の気持ちのほうが素直で、むしろわかりやすいような気がします。賢治のほうを読みなれているだけかもわかりませんが。
 次回はことに難解な「春と修羅」から入ることになります。みんなで読めばどのように読めるでしょうか。楽しみです。

宮沢賢治朗読物語 その2

 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』といえば、ずいぶん有名じゃなあ。が、内容というと、けっこうむつかしいぞよ。大のおとなでも、はたしてどこまで読めていることやら、わからんもんや。何せ夢現(ゆめうつつ)の話でな、ある場面の話をしてるかと思うたら、いつの間にか別の場面になっていたりするんじゃから。スラスラスラーと読んでいったら、「何が書いてあるんか、何が言いたいんか、さっぱりわからんわ〜」というようなぼやきも出てきそうやなあ。よっぽど慎重に読まんと、何が何やら訳がわからんようになってしまう。こればっかりは、やっぱりひとりで読むよりも、吟味しながら何人かで読んでいくのがええと思うなあ。何人かで読んでいったとしても難しい作品じゃが、内容はなかなか魅力がある思うぞよ。その魅力をな、あんたがたにもな、できるだけたっぷりと味わってくれたらええなあと思うとるんじゃよ。
 《光でできたパイプオルガン》では、中学3年生のクラスで読むようにしとるんじゃ。卒業論文じゃないけど、「本読み」の授業の<最後の授業>いう位置付けなんじゃ。この作品を読み味わうことができるように、ふだんから国語の勉強をしっかりしておけよ、というとるんじゃ。「《光でできたパイプオルガン》の国語教育の究極の目標は『銀河鉄道の夜』を読む力をもつことなり」な〜んちゃって。この『銀河鉄道の夜』は、開塾当初から毎年、読み続けてきたので、もう20年以上になるなあ。生徒たちといっしょに20回以上も読んできたし、それからおとなたちといっしょに読書会でも読んできた。けど、難しい。ようやく最近になってきてから、だいたいの内容を掴むことができるようになったかなと思うんじゃ。自分でいうのもなんじゃが、「面壁九年」とか「読書百篇義自ずから見(あらわ)る」という感じに近いかも知れんのう。
 ところでなあ、『銀河鉄道の夜』の中で、タイタニック号遭難事故をベースにしていると思われる場面があるんじゃ。読んだことのある人は知っていると思うけど。実は、10年ほど前まで神戸市の中学校の英語の教科書(ニューホライズン)に、タイタニック号の話が掲載されていたんじゃよ。今は、別の出版社の教科書になっているから、読むことができんようになってるけどなあ。でも、その代わりやないけど、映画で有名になったわな。
 1912年に、豪華客船タイタニック号が氷山にぶつかって、沈没していった話やなあ。沈没直前のどさくさの中で、ある母子が離れ離れになってしまう。子どもたちは超満員状態の救命ボートに乗れたけれども、そのお母さんがタイタニック号に残されるという状況、そのとき救命ボートに乗っていた若い女性が、自分のいたスペースにそのお母さんを乗せて、自分は沈みかけているタイタニック号に戻ったという話やな。その若い女性がどこのだれだかはわからない。けれども名前だけがわかっていて、ミス・エヴァンズというとか。美談といってしまえばそれまでやけど、その事故があったのは、宮沢賢治が十六歳のときで、宮沢賢治の耳にも入ったんやろなあ。ミス・エヴァンズのエピソードは、『銀河鉄道の夜』の主要テーマでもあるし、宮沢賢治自身のテーマでもあるわけじゃ。また、ある人たちにとっての普遍的テーマでもあるわけじゃ。
 でな、わしの塾ではな、中学3年生のクラスの英語の授業でな、あらかじめそのタイタニック号の話を教科書のコピーを利用して、いっしょに読んでおいて、それから1・2か月後の「本読み」の授業で『銀河鉄道の夜』を読んでいく段取りにしておるんじゃ。もちろんタイタニック号の話が出てくることは、生徒たちには言わんでおく。生徒のほうが、「本読み」の最中に驚きよる。
 「あれぇ〜、これって、あのタイタニック号の話やんか〜」って。
 その驚きようが並たいていやない。そう、わしは生徒を驚かせて、喜んでるわけじゃ。ただな、宮沢賢治の描き方はやな、それこそ宮沢賢治流や。生きている人たちの側からの描写というよりも、死んでいく人たちの側からの描写にしてるんやな。まあ、生徒たちにとっては、二重の驚きっちゅうとこや。
 しかも、それがまたどえらいテーマやで。テーマという角度から考えてみると、『カサブランカ』という有名な映画のラストシーンを連想するね。古今東西、名作というもんは、やっぱり大きなテーマを突き出しているところが共通するんやろなあ。
 あーちゃん、いーちゃん、うーちゃんよ、まだまだあんたらには難しいかもしれん。しっかりと読書力をつけておいてな、たっぷりと味わえるようになりなよ。まあ、この『銀河鉄道の夜』の朗読は、我が<立体化教育>の象徴的な場面のひとつ、わしの朗読物語の名場面のひとつ、というようなことを頭の隅にでも置いといてくれたらええんやがのう、というこっちゃ。

児童文学の観点から賢治をどう見るか

 鳥越信さん(聖和大学大学院教授、日本児童文学者協会理事、大阪国際児童文学館理事)は、昨年、「NPO法人国際子どもの本研究センター」を設立し、その事業の一つとして2003年4月から鳥越私塾(毎月1回)を開講。早速参加を申し込みました。1クラス12名3クラスで全36名。名簿を見ると研究職だったり、司書だったり、文庫主催だったり…りっぱな肩書きのあるかたばかり。とんでもないとこに来たかも、と思いつつ、「ごはんより子どもの本が好き」な人ばかりで、塾の3時間はあっというまに過ぎてしまいます。
 基本テキストは鳥越信編「はじめて学ぶ日本児童文学史」(ミネルヴァ書房)。この本の第9章「宮沢賢治―童話の源泉」163ページに「子どもの文学としての今日的評価に未だ分裂が見られる」と書かれています。
 この点をメインに、塾では6月23日に「賢治」について話し合いました。児童文学関係者の集まりなので、全員賢治に好意的であると思っていたのですが、アンチ賢治という方もいたことが面白かったです。たとえば、自己犠牲的なところについていけない、文学者というより崇拝される人に見える、すばらしい作家とは思うが、持ち上げられすぎではなどの、意見がありました。 
 鳥越さんの説明。―――――1967年「子どもと文学」(石井桃子、いぬいとみこ、渡辺茂男他共著)の中で、瀬田貞二が「宮沢賢治のかなりたくさんの作品が、正しい意味で子どものための文学である」と書き、賢治の評価は高まった。が、1968年大日本図書版「どんぐりと山ねこ」の巻末解説で、神宮輝夫は「賢治童話には、子どもの文学としての資格のあるものとないものがある」と述べ、鳥越信は「国文学解釈と鑑賞」(1972年12月号)に、「賢治童話のほとんどは、児童文学とは無縁な文学世界である」と断言。これは、小川未明の描いた子どもが純真無垢な観念としての子どもだったことに対比して「生きている子どもの論理」の延長としての考えた。これをきっかけに、「児童文学としての宮沢賢治」が、正面から検討されてきた。――――――これが「子どもの文学としての今日的評価に未だ分裂が見られる」ということだそうです。
 鳥越さんは賢治童話作品の編集もしているのですが、一連の発言のため、著作権を持つ宮沢清六氏との間に行き違いが生じたこともあったといいます。さらに、賢治には作品が未完であるものが多く、未完のものを子ども読者に届けることへの危惧も感じていると話していました。
 もともと枠に収まりきらない賢治作品群でもあり、「児童文学」と「文学」の境界があいまいになっていきたことや、社会の「子ども観」の変化もあり、これから、どのように読まれていくのか、見ていきたいものです。
 最後に、多くの熱心が読者を持ち、読みたいと思えば、賢治作品が手に届く状態であることは、「作家としてこれほどの幸福はない」と、鳥越さんは、話していました。

編集後記

  • 暑い日々が続いていますが、今年は冷夏とも言われています。先日、まっ青な空に鱗雲を見ました。秋のように澄んだ空でした。
  •  タイトルは例会で読んだ「ぬすびと」の中から採りました。これを書いている今、台風が接近しています。電線があれば狂騒曲が聴けるところです。
  •  戸田勝久氏は妹尾さんが是非とも見て頂きたいと薦める画家です。私も拝見したことはないのですが、9月の個展には編集会議のメンバーで出掛ける予定です。見たいとお思いの方、一緒にいかがですか?