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−足りない薬って?− 目次
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第34・35回例会報告−グスコーブドリの化学 2回にわたって例会で「グスコー・ブドリの伝記」を読みました。参加者は少なかったのですが、いろいろ疑問も出て、そのたび例の「語彙辞典」で調べ、新発見のつもりになったりしておもしろかったと思います。内容を詳しく報告すべきですが、メモを取っておかなかったので1月もするとあらかた忘れてしまいました。グスコー・ブドリなら自己犠牲というようなステレオタイプはやめておき、ここでは筆者に関心のある化学について2、3、思いついたことを語って場所ふさぎとさせていただきます。
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「グスコーブドリの伝記」の読書会に参加して |
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「グスコーブドリの伝記」の読書会に参加して、あらためて集団できっちり読んでいくことの価値を実感した。1回サッとよんだだけではもちろん、何回か読んでも一人では気がつかへんような点の指摘とか、違う視点からの意見とかを聞けて、初めてこの作品の世界が見えてきたような気がする。
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書棚の散歩 第10段 |
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所謂文学全集の中に賢治さんが名を連ねている場合、統計をとった訳ではないですが大抵「銀河鉄道の夜」始めある程度の作品が常に収められていて、結果、どれを取っても似たり寄ったり、と言う事があります。
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賢治百姓真似一笑 その9 |
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宮沢賢治が百姓になろうと考えたのは、いつごろからでしょう。盛岡高等農林学校で農業の勉強をして、農業に関する化学的な知識は身につけていましたが、卒業後にすぐには農業に従事していませんね。私の知っている範囲では、花巻農学校の教師をしていたころからだと思います。大正十四年(一九二五年)、賢治が二九歳のときに、盛岡高等農林時代に出会った親友の保坂嘉内にあてた手紙の中で次のように書いています。
さて、前回《あーす農場》に行ったときに、「但馬の宮澤賢治」大森さんから『大豆畑トラスト』と題するチラシをもらいました。《あーす農場》の畑の1区画を、自分で耕して自分で植えて自分で世話をして自分で収穫するという一連の農作業をやってみませんか、というわけです。自信はありませんが、「不耕起栽培法」とかいう方法であまり手数がかからないそうで、まあこれも百姓修行のひとつと思って参加することにしました。一連の作業を自分でやるということに意味があるようにも思います。最近、「宮沢賢治を読む会」で朗読した『雪渡り』の中に、次のようなせりふがありました。
何と9つの工程をきつねの紺三郎がしているわけですね。私たち都会暮らしの者は、あとのほうだけ、「お金を出して、買ってきて、パクッと食べました。」というあたりでしょうか。嫌味に受け取られるかも知れませんので、付け加えておきますと、私は「全ての人は、自分の食べ物は自分で作らなければならない」といっているのではないのですよ。食べ物を作る最初の段階から関わるということが、現代生活の中では困難で、それができるということは、ある意味で幸せだなあと思うのです。たぶん大森さんたちもこのへんの喜びを享受しておられるようです。
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タイトル雑録 |
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最近、サプリメントなるものが流行しています。医薬品じゃないけど、何か体に良い物、不足している物、日常では補い難い物……そんな名目で錠剤・カプセル・ドリンク類が割と気軽に販売されてます。少し前の言葉で言えば「健康補助食品」と言う事になるんでしょうね。
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編集後記 |
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略/あゝこゝは五輪の塔があるために/五輪峠といふんだな/ぼくはまた/峠がみんなで五っつあって/地輪峠水輪峠空輪峠といふのだろうと/たったいままで思ってゐた/地図ももたずに来たからな/そのまちがった五つの峯が/どこかの遠い雪ぞらに/さめざめ青くひかってゐる/消えようとしてまたひかる/このわけ方はいゝんだな/物質全部を電子に帰し/電子を真空異相といへば/いまとすこしもかはらない/宇部五右衛門が目をつむる/宇部五右衛門の意識はない/宇部五右衛門の霊もない/けれどももしも真空の/こっちの側かどこかの側で/いままで宇部五右衛門が/これはおれだと思ってゐた/さういふような現象が/ぽかっと万一起るとする/そこにはやっぱり類似のやつが/これがおれだとおもってゐる/それがたくさんあるとする/互ひにおれはおれだといふ/互ひにあれは雲だといふ/互ひにこれは土だといふ/さういふことはなくはない/そこには別の五輪の塔だ/略 (「五輪峠」) 略/五輪は地水火風空/空といふのは総括だとさ/まあ真空でいゝだろう/ 火はエネルギー/地はまあ固体元素/水は液態元素/風は気態元素と考へるかな/世界もわれわれもこれだといふのさ/心といふのもこれだといふ/いまだって変らないさな」/雲もやっぱりさうかと云へば/それは元来一つの真空だけであり/所感となっては/気相は風/液相は水/固相は核の塵とする/そして運動のエネルギーと/熱と電気は火に入れる/それからわたくしもそれだ/この楢の木を引き裂けるといってゐる/村のこどももそれで/わたくしであり彼であり/雲であり岩であるのは/たゞ因縁であるといふ/そこで畢竟世界はたゞ/因縁があるだけといふ/雪の一つぶ一つぶの/質も形も速度も位置も/時間もみな因縁自体であると/そう考えると/なんだか心がぼおとなる/ 略 (「五輪峠」異稿) われやがて死なん/今日又は明日/あたらしくまたわれとは何かを考へる/われとは畢竟法則の外の何でもない/からだは骨や血や肉や/それらは結局さまざまの分子で/幾十種かの原子の結合/原子は結局真空の一体/外界もまたしかり/われわが身と外界とをしかく感じ/これらの物質諸種に働く/その法則をわれと云ふ/われ死して真空に帰するや/ふたゝびわれと感ずるや/ともにそこにあるのは一の法則のみ/その本原の法の名を妙法蓮華経と名づくといへり/そのこと人に菩提の心あるを以て菩薩を信ず/菩薩を信ずる事を以て仏を信ず/諸仏無数億而も仏もまた法なり/諸仏の本原の法これ妙法蓮華経なり/帰命妙法蓮華経/生もこれ妙法の生/死もこれ妙法の死/今身より仏身に至るまでよく持ち奉る(「一九二九年二月「疾中」) |