会報No.28表紙

会報No.28
−あざれありょうらん−

目次

  1. 第33回例会報告「賢治とヘーゲル−再び」
    伊藤 信也
  2. 書棚の散歩−第9段−
    杉澤 法広
  3. 賢治百姓真似一笑−その8
    友田 清司
  4. 返信(1)
    友田 清司
  5. 返信(2)
    杉澤 法広
  6. タイトル雑録
    杉澤 法広
  7. 編集後記

第33回例会報告−「賢治とヘーゲル−再び」

 さる4月22日、「光でできたパイプオルガン」にて、表題の発表を行いました。参加者は私を含めて5名でした。その際の簡単な報告内容と、発表を終えての感想を書きます。
 この発表は、今年3月に発行された拙稿「ヘーゲルと宮沢賢治」(関西大学大学院文学研究科・発行『千里山文学論集』第65号所収)を元にしながらも、「賢治の晩年」に焦点を合わせなおして、そこから彼の思想的到達点を探る、という意図を持っています。
まず、この発表の「はじめに」において、多田幸正氏の研究について紹介をしました。
 氏の研究は、「自給自足経済から産業組合へ ―賢治の理想と現実―」(『宮沢賢治 愛と信仰と実践』有精堂、1987年)や、「「ポラーノの広場」初期形態と最終形態 ―自給自足経済から産業組合へ―」(『賢治童話の方法』勉誠社、1996年)などにも見られるように、晩年に至って原稿の書き直した内容に微妙な傾向の変化が現れることに着目しています。
 この分析方向に基本的に賛同しつつ、私は自らの研究対象として取り組んできた近代ドイツ哲学、とりわけヘーゲルの思想を学ぶ者として、賢治自身に、近代ドイツ哲学との思想的な近さを提示することを、論文の目的としていました。
 しかし、両者の思想の比較という点にとどまらず、賢治の晩年には、それ自身で独特の特徴があり、そこには未だ解明されていない謎がたくさんあると言っても過言ではありません。
 そこで私は、この発表で「賢治が人生の終わり近くに行き着いた思想的到着点は、未来を見据える事ができていたか?」というサブタイトルを設定しました。「賢治の会」での発表として、問題設定をより賢治の生き方の側に接近させ、彼を軸にしながら、当時の西洋哲学の「輸入」状況や、 論文では触れなかった「銀河鉄道の夜」におけるブルカニロ博士の存在など、いくつか補足しつつ発表内容を構成しました。

(一)賢治晩年の傾向分析のために

@「草稿比較」によって加筆・削除の意図を解釈する
 まず、一番目のテーマとして、私は近年の「賢治晩年論」にみる傾向・その解釈手法を紹介しながら、そこからどういう新たな観点が見出されるのかについて、議論を始めました。
 先にも触れたように、晩年の賢治には発表・未発表にかかわらず、多くの原稿で書き直しをしています。
 「ポランの広場」(生徒筆写原稿)と晩年の「ポラーノの広場」との比較、「〔グスコンブドリの伝記〕」と「グスコーブドリの伝記」との比較、「銀河鉄道の夜」第三次稿と第四次稿との比較(特に「ブルカニロ博士」の削除について)などが挙げられます。そのいずれも、賢治が描こうとした主人公像や、その主人公が成長する過程における決定的要因に、微妙な変化があります。
 問題は、その「変化」を何の表れと理解するか、にあると考えています。多田氏も指摘していたように、賢治自身が実践的に取り組んでいた活動の 方向性についての分析が一方で必要になってくるかと思います。
A 晩年の社会活動の方向性を考える
 そこで、@をヒントにして、賢治の花巻農学校退職後、とりわけ「羅須地人協会」後の行き方を考えてみたいわけです。賢治が東北砕石工場の技師として奮闘し、またもや挫折する時期は、先に述べた「原稿の書き直し」時期とほぼ一致します。
 先に指摘した「ポラーノの広場」の作品中、若き農民たちによって自給自足経済の相談をする場面が、産業組合の相談に書き換えられているのは、まさに象徴的です。
 また、作品中の「自分」の位置も微妙な変化を見せます。例えばレオーノキューストがファゼーロらの取り組みに対する態度表明の仕方にも見られるように、社会の主役たち(ファゼーロら)に比して、よりスポットライトがあたらないような「自己」の位置へ設定し直していきます。

(二)賢治晩年解釈の一つの切り口としての「ヘーゲル」

 決して、私はすべてがヘーゲルの議論と符合する、と言いたい訳ではないのですが、賢治のこの種の傾向を分析する上での「一つのヒント」として、私の専門であるヘーゲルの社会思想の特徴を提示してみたいわけです。
@「ユートピア」論の隆盛、マルクス主義思想の「輸入」、そしてヘーゲルの「紹介」
 まず、賢治の生きた時代の同時代性を軽視しないために、当時の日本のインテリ層における西洋思想の輸入状況を確認しておきたいと思います。
 まず、大正時代を中心に広まった「ユートピア思想」、そしてそれを追うように登場する「マルクス主義」の輸入、そして順序としては、その後になって「ヘーゲル哲学」が日本に紹介されます。
 具体的には、学術書の出版界は、一九三一〜一九三二年に「ヘーゲル関係文献出版ブーム」とも言うべき状況となります。当時の著名な哲学者(西田幾多郎、田辺元、三木清ら)も、ヘーゲル紹介本の執筆をしています。(『ヘーゲルとヘーゲル主義』近藤俊二編、岩波書店、1931年)
 一九三〇年頃より「ヘーゲル著作集」(白揚社)などの刊行も始まりますが、日本語版「全集」(岩波書店)が出揃うのは、賢治の死後です。それゆえ、賢治がヘーゲルの思想を隅々まで理解していたと考えるのに無理があるのは事実ですが、全く知らないと言うのにも同様に無理があります。そこで、賢治の晩年の社会思想的側面を分析する上で、具体的にヘーゲルの議論と突き合わせてみたいと思います。
Aヘーゲル「法哲学」における「市民社会」、「個人」
 まず、ヘーゲルの社会思想の特徴を見る上で、代表作の一つである『法哲学』(1821年出版)より、2つのポイントを指摘しておきたいと思います。
 1つ目は、「近代市民社会における『コルポラツィオーン』(組合、団体)の持つ役割」です。市民社会における貧富の差が必然的に存在することを、すでにヘーゲルは理解していました。そこで、中世以来伝統的に存在していた「同職組合」を発展させ、多くの人間が技術を習得し、その職業の利益を確保するための「組合」を提起しました。これが市民社会の中で、個人がはじき出されないようにする決め手と考えていたようです。
 2つ目は、「十全に機能する国家においてはじめて個人は個人でありうる」という考え方です。これはヘーゲル的用語で言う所の「人倫的国家における個人」ということになるのですが、ヘーゲルは理想的な国家の存在を想定し、その存在においてこそはじめて個人の利益が共同体の利益と同一化し、個人が個人としての生をまっとうできると考えていました。この考え方は、国家主義思想と受け取られかねないのですが、しかし裏を返せば、理想社会観の独特な表現、と言う事もできるかと思います。
 この2点は、決してヘーゲルだけの考え方ではなく、近代ドイツ哲学の一潮流として後の思想家に影響を与えていきます。

(三)西洋近代思想、特にヘーゲルとのつながり〜「賢治とヘーゲル」最終章へ

 最後の章として、(一)と(二)の議論を総合する形で、結論を述べます。
@「外的教示」から「内的確信(決意)」へ
 まず、晩年に書き直された賢治作品の中に、作中人物間で人間関係の微妙な変化があることを指摘できるでしょう。それを一言で言うなら、表題のような言葉となるのですが、例えばレオーノキューストの演説場面が最終形で削られたり、ブルカニロ博士がジョバンニに教える場面が削られたり、といった点です。外側から主人公に「教えられる」のではなくて、主人公自身の経験から、必然的に確信・決意していく。明らかに、作中人物の「心の成長」のさせ方に、賢治が何らかの変更を試みています。それは、賢治自身の人生経験に由来する、「教える−教えられる」という関係を超えた人間の成長に対する認識の発展、とも言えるでしょう。
A「英雄的個人」から「人倫的個人」へ
 次に、その「心の成長」にもつながる問題として、表題のような「個人観」の変化を見て取る事ができます。「人倫的個人」とは、(二)Aで述べたように、共同体と個人の利害がともに一致したような国家における個人を指しますが、「個人の生き方」に対する考え方に変化が表れています。特に、「グスコーブドリの伝記」では、クライマックスにおける主人公の行動が、初期形における、主人公自身や周囲の「英雄的意識」を意図的に削除しています。
 これは別に「人倫的」にまでなってなくとも、「現代における個人の生き方」の問題も含んでいると考えられます。震災で無数の市民・ボランティアが英雄的行動に立ち上がったように、ナポレオンのような特定の個人が世界を動かすのではなく、「普通の」個人が各地で「英雄的」活動をする。従来の「ヒロイズム」理解を超えた、「無名主義的ヒロイズム」とも言うべき立場に賢治は立っています。
B賢治における近代市民社会への態度の変化?
 3点目は前項ともかかわるのですが、賢治が「羅須」後の心境の変化によって、自分たちが生きている市民社会に対する態度が変化しているのではないか、という問題です。
 (一)Aでも述べましたが、産業組合への容認姿勢は重要な変化です。この背景には、花巻を含めた東北地方全体が急速に産業社会化していく過程で、賢治の理想社会像もまた、急速に「現実的理想社会」とも言うべき立場を含めざるを得なくなったからではないでしょうか。東北砕石工場の経験などは、この問題に大きく関わっていると考えられます。
さいごに
   「宮沢賢治の社会思想」を語っていくのは誰?
 賢治の作品論や作家論に触れるたび、率直に申し上げて、全てではありませんが、賢治の思想世界に対する分析の弱い物が多いことを感じます。これは、筆者が哲学を専門としているからかもしれません。
 本発表は、まだまだ満足の行くものでもなければ、部分的には誤りも含んでいるかもしれませんが、とにかくこのような研究が極めて不足している現状に対して一石を投じたかったという、発表者の意図が少しは達成されたと考えております。
 しかし、残念ながら筆者は賢治研究が「本業」ではないために、当面はこのような分野の研究が表れてくる事を「期待」する事しかできません。
この発表報告をお読み頂いた皆さんが、「賢治晩年の謎」の世界にご一緒して下さる事を願って、筆を置きます。
【追記】
 この発表報告は、純粋な「報告」でなくて、発表後に発表者が新たに得た知見(それは発表時に頂いた貴重なご意見、ご感想を含みます)も追加されている事をお断りしておきます。
 また、「ヘーゲルと宮沢賢治」論文発表によって、他大学での研究発表の機会を下さるという有り難いお話を複数頂戴したことも、神戸宮沢賢治の会の皆さんへの感謝を込めて報告しておきます。
             

書棚の散歩−第9段−

 賢治さんとの接し方にも人夫々あるのだなあと最近特に実感します。自分を重ね合わせて悦に入る人。若しくは自分を上位に置いて見下しつつも利用する人。常に心の師としてお手本にしようとしている人……まあ、故人であるが故に余計に恣意的解釈が可能になると言う訳ですが。
 さて今月の一冊は『宮沢賢治と東京宇宙』福島泰樹・著(NHKブックス・96年初版)です。そう言えばこの福島さんと言う方、肩書きは歌人と言う事ですが巻末の著者近影を見てみると……どうも見覚えがあります。確か近年の青少年参加型討論(?)番組で大人側のパネラーとして参加されていた方の様な気がするのですが(風貌と言い、略歴にある『短歌絶叫』と言い…)。
 閑話休題。
 この本は単に賢治さんと東京の関わりを解いて行く、と言う物ではなく、作品を通じて賢治さんの内面を読み解き、そして東京と言う『空間』と賢治さんの繋がりを掘り起こしてゆく、と言う展開で進んでゆきます。無論其れを先導するのは歌人としての著者の感性ですが、此れが余り不愉快に感じられないと言うのが今回の収穫でしょうか。
 研究書、と言うよりもガイドブックと言った感が大きい一冊であると言えましょう。軽装版でもありますので東京旅行の際のお供にも良いか、と思うのですが、さて。

賢治百姓真似一笑 その8

 5月の末に《あーす農場》(兵庫県朝来郡和田山町)に、手植えの田植えの体験学習に行ってから、一週間しないうちにチエちゃん(14歳=チェノブイリ原発事故の年に生まれた女の子)から電話がありました。
「桑の実が熟れているよ〜」
小籠に摘むのはいつの日か……、なんて思っていたら一週間後でした。
 その日曜日は、午後4時から奈良で塾の先生の研究会がありましたので、午前中だけでもまた田植えができればと、思い切きって駆けつけることにしました。 谷間の棚田に五種類の稲を植える計画だそうです。え〜と「コシヒカリ」「アキタコマチ」「フクヒカリ」それから何だったかな、「陸羽一三二号」というのは、なかったと思います。何しろ一枚一枚の田んぼにそれぞれ違った品種の稲を植えるわけですから、ひょっとしたら高等農林学校の実習授業ではこんなことをしていたのではなかったでしょうか。
 その日は、一番上の段の小さな田んぼに、もち米の品種の稲を植えました。前回の経験で、少しはコツがつかめたかなと思っていましたが、実際にやってみるとなかなかうまくできませんでした。縦横のそろえ方が難しくてだんだんずれてくるのです。案の定、後日すっかり手直ししたそうで、ほんと世話の焼ける生徒です。それでも耕作放棄の棚田が増加しているという時代に、うぐいすが歌を歌う谷間の棚田で稲を植えられること自体、幸せな気がします。

   陽が照って鳥が鳴き
   あちこちの楢の林も
   けむるとき
   ぎちぎちと鳴る汚い掌を
   おれはこれからもつことになる
(宮沢賢治『春と修羅』第三集「春」より)

 賢治の決意には、力強さとともに微妙な哀しさもあるような気がします。農学校の先生から「ほんとうの百姓」に向かうときの実感を少しでも共有したいものです。
 田植えを終えて、お昼には桑の実を採りました。高いところは手が届きません。チエちゃんが桑の木によじ登って、トントントン、ドンドンドン、ゆっさゆっさゆっさと揺すってくれました。私たちは、道の下にブルーシートを敷いて、拾い集めました。こうして「桑の実を小籠に摘み」ました。
 半日で帰るのはもったいないと思いながらも、《あーす農場》を後にしました。
 午後からは、奈良です。塾の先生の集まりで、半日農作業をして半日塾の研究会に参加という動きから「半農半漁」ではなくて、「半農半塾」ということばを考えつきました。「塾」の部分を、それぞれの仕事に置き換えてみれば、けっこうおもしろいのではないでしょうか。例えば、「半農半学」とか「半農半工」とか「半農半商」とか。「仕事がない〜」と不満充満の都会暮らしと「仕事はたっぷりありまっせ」という田舎暮らしをバランスよく連動できたらいいと思うのですが、中途半端かなあ。
農作業の体験といっても、田植えと稲刈りだけでは、ほんの一部分です。7月には、雑草取りの作業に行きました。これがまたおもしろかったです。一か月ほど前に植えた田んぼに入るのですが、すくすく成長しています。午前中は、田んぼのどろの中に入って、稲の周辺の雑草を取っていく作業です。一束一束のまわりを手でかき回すようにして小さい雑草を取り除いてやります。この雑草が大きくなるとそれだけやっかいになりますね。小さいうちが楽だそうです。そりゃそうですね。
 けれどもしゃがんでの作業は腰がしんどくなってきます。どろの中を移動するときにいちいち立ち上がっていたのでは、能率が悪いので、どろの中を這いつくばるようにして雑草を集めていきます。これを「草這い」と呼ぶそうです。暑い日差しの下での「草這い」は、大変です。でも、稲の気持ちと一体感をもつような気がします。稲の束が喜んでいるだろうなと感じますね。
 昼からは、田打ち器とか呼ぶ道具を利用しました。稲と稲の間を柄のついいたそりのような道具で雑草を取っていきます。これがまたコツがいるのです。どろの表面を滑らせていくわけですが、前を下げようものならそりがどろの中にもぐり込んでしまいます。それでやや前を上に向けて押していたら、重くて重くて……。先生役のケンタくんがスイスイとやっているので、どうしてかな思っていたら、
「こうして、こうやったらええよ」
と教えてくれました。うん、水平に滑らせるのがコツなんですね。でも、そのコツがつかめかけた頃には、もうバテバテです。脚が棒のようになって、なかなかどろから出てきてくれないんですよ。しかも誰が植えたか、田打ち器を滑らせて行く道筋に稲の束があるのです。邪魔や〜。このときになって、田植えのときに大森さんが
「真っ直ぐに! 等間隔に植えて!」
と、何度も何度も強調していた理由がわかりました。田打ち器の通り道に稲があると、田打ち器が使えないのです。からだで覚えるっていうやつです。
 この日は、ほんとうにしんどかったです。死にそうなくらい。大森さんの家では、バタンキュー、ボテーッと休ませてもらいました。でもね、負け惜しみではなくて、身体はクタクタに疲れたけれども、ものすごく楽しい経験をさせてもらいました。

返信

 27号の中嶋敦子さんの投稿「西郷村より」の文中での問いかけに対する返答です。

( 返信1 )

前号(27号)の会報の中で、中嶋(森永)さんから具体的なご質問がありましたので、お答えしたいと思います。みなさんのご意見も、ぜひお聞かせ下さい。
【1】 農作業のこと
 私は、農業についてはまるで素人ですので、どの農業がよいか、わかりません。自然を大事にするという視点からは、「自然農法」「循環型農法」「縄文式の農法」などよいと思いますが、実際に農業収入で生計を営んでいる人たちには、いろいろな面で問題があるようです。ご指摘のように、作業効率だけを考えればそりゃ「機械化農業」でしょう。土と触れる喜びを求めるならば、文句なしに「手作業」でしょう。(小学生たちの体験学習では「手作業」ですね) 「道具」も使ってみれば、なかなか便利なものです。「機械化農業」の場合だと「機械化貧乏」という言葉があるように、ずいぶんお金がかかります。けれども多くの収穫をあげるためには、やはり機械でしょうね。手作業の場合では、労力・人手が要るわりには少ししか収穫できません。けれどもお金がかかりませんね。農家のおじいさんに聞いてみたことがあるのですが、「そりゃ田んぼが一反か二反くらいやったら、機械がなくてもできるじゃろなあ」という話でした。それぞれに一長一短ではないでしょうか。
 「川口さん流の農法」についても聞いたことがあります。4年前に、見学会のお誘いを受けたことがありましたが、都合で行けませんでしたが、もしそのときに行っていたら、今ごろ「川口さんの農業はすばらしい」と繰り返しているかも知れません。  要するに、立場によって、条件によって、目的によって、違ってくるということでしょうか。それでも農薬は、使ってほしくないですねえ。ただし、これをいうときは要注意。農家のお年寄りに野良仕事を押し付けておいて、「除草剤は使うな。いちばんしんどい草刈り作業で手を抜くな」と言っているのは、身勝手ですからね。棚田の保存についても同様、減反につぐ減反の時代、高齢化で、収入はわずか、現場の事情を理解しないで、「棚田を守れ!」というのはずいぶん一方的な言い分ではないでしょうか。「そんなにいうなら自分の手で守ってよ」と切り返されそうです。きれいなことをいうならば、それだけのことをしなければなりません。
 その点では、宮沢賢治は農学校の生徒たちに「百姓になれ」といい、自ら百姓になろうとしたのですから、無謀だったのかもしれませんが、その姿勢は私たちに訴えるものがあると思います。私の場合は、百姓見習いという立場ですので、いろいろ経験させもらいたいと考えています。ともかくも、農業以外の収入があれば、のんびりやって行くのがよいと思います。 【2】 21世紀の賢治
 「もしもこの21世紀に賢治が生きているとすればどのような生き方をしたか」という問いは、難しいですね。難しいけれど大切な問いだと思います。時代が違うので、あの時代特有の流れというようなものもあったでしょう。生き方という点では、時代を超えた普遍性をつかみ取ることができるかもしれません。作品の中では、自然の美しい光景を描写したり、動物たちのほほえましい暮らしを描いたりしていますが、生き方という点が強く描かれているのは『グスコーブドリの伝記』でしょうね。ブドリの精神を、現代の時代に翻訳したらどうなるでしょう。なかなか一言ではいえませんが、ひとつの答えとして、「多くの貧困にあえぐ人たちに喜びをもたらす仕事を探し求め、その仕事に命を懸ける生き方」とでもいえるでしょうか。
 私は、現代を「精神的飢餓の時代」と考えています。多くの人たちは、精神的貧困を強いられているのではないでしょうか。ただ、そのことすら自覚していない人たちも多数いるのが現実ですが。精神的充実感を満たすもの(仕事)をひたすら追求する人が、現代のブドリといえるのでしょうか。なんかクソ真面目な感じの話になりましたね。まあまあ。
 また、世間的には、長期的大不況の影響で、給料ダウン、就職難、売上減、失業者増など経済面での不満・不安が深刻です。サンムトリかどこかの火山を爆破すれば、景気がよくなるなんてことはないですかね。単純には、景気が回復すればすべて解決しそうですが、冗談にも戦争はいけませんよね。それに私は、もしも景気が回復しても庶民の不幸の根本的な解決にはならないように思っています。
【3】 読み聞かせのこと
 私の経験(学習塾で20年以上、宮澤賢治などの本を子どもたちと音読してきた)では、宮沢賢治の童話の中には、子どもの読書力だけでは、じゅうぶんに味わうことが難しいものが多いですね。(例えば『銀河鉄道の夜』などその代表です。おとなにも難解ですよね。)読書力があまりない段階で「よい本」を与えても、逆効果になる場合もあります。箸の使い方がまだ上手ではない子に、お頭つきのおいしい煮魚を一皿与えるようなものです。ちょっと手伝ってあげられたらいいんですがね。また、宮沢賢治だけにこだわらないほうがよいと思います。新美南吉なんかずいぶん読みやすいし、質もいいですよ。本にあまり興味のない子には、まずおもしろい話を選び本に興味をもたせることが大事です。
 最後に、学年別おすすめの賢治童話を思いつくままに列挙してみます。
小学3年生向け 『セロひきのゴーシュ』『雪渡り』など
小学4年生向け 『注文の多い料理店』『茨海小学校』など
小学5年生向け 『ツェねずみ』『月夜とけだもの』『黒ぶどう』など
小学6年生向け 『やまなし』『ふた子の星』『黄色のトマト』など
中学1年生向け 『なめとこ山のくま』『よだかの星』『風の又三郎』など
中学2年生向け 『水仙月の四日』『土神ときつね』『虔十公園林』など
中学3年生向け 『グスコーブドリの伝記』『銀河鉄道の夜』『革トランク』
 自分で読むのと、いっしょに声に出して読んでいくのと、読み聞かせで味わうのと、それぞれに違います。私の妻は、ストーリズ・テリングというのをやっていますが、宮沢賢治は難しいと言っていました。先日、テレビで新沼謙二(東北出身の素朴な感じの歌手)が『虔十公園林』を朗読していましたが、なかなかよかったですよ。まあ、上手下手というよりも、肉声でお話を聞かせるところによいものがあると思いますね。

拝復、中嶋さん。

 お元気ですか?僕はどうも相変わらずです。最近は多少自分自身への手綱捌きを覚えては居ます。世間に多少不満があった所で、自分自身もまた世間の一部ですし。
 さて、27号掲載でのお手紙で幾つか問いかけを投げかけておられたのですが、自分の応えられる範囲、と言う事で二つの問いかけへの返信を認めて見ます。
 ★もしも賢治さんが21世紀に生きていたとしたら、どう言う生き方をしたか?
 希望的観測を述べれば、清貧な侭生き続けた…と思いたいのですが、現在創作活動の場に『インターネット』と言う選択肢が存在する以上、(持論とは逆行するのですが)、お小言爺さんに退化したという危険性も捨てきれません(あの好奇心旺盛な賢治さんです。インターネットをしていない、と言う選択肢は端から捨てて考えています)。
 恐らく、文筆業を正業にする事も無いと思われます。生活の中から生まれる呟き、として時折世に問う事はあっても。
 ★私達の内面の変化、そしてその表現・伝達方法… と言う事で差し支えないでしょうか?
 僕自身の事で言えば、精神的な『壁』にかなりぶち当たって、自身の傲慢さを省みる事が出来る様になった、と言う事でしょうか。意地悪な視線が捨てきれないのは相変わらずですが、良い意味で『醒めた』視点を持てる様になった、と思います。自分自身の事も割と冷静に突き放して表現出来る様になりましたしね。
 現在、趣味に置いても実際に置いても裏方的な役割を引き受けさせて戴いてます。どうもかなり性に合って居る様です。その割に泣き言も多いですが。文章はこう言う場で発表させて戴くのが主でしょうか。

タイトル雑録−あざれありょうらん−

 初夏というにはやや暑い日々。如何やら一足飛びに夏になってしまった様な感じです。如何お過ごしでしょうか?
 今月のタイトル、『あざれありょうらん』……りょうらん即ち繚乱とは花の咲き乱れ、入り乱れている様、と辞書にはあります。ではあざれあは?
 確かに連想の最初として賢治さんが学生時分に参加した同人誌『アザレア』がありましたが、この場では植物としてのアザレアに少し目を向けてみようか、と。
 まあ、この辺は情報の受け売りが大半です。
 AZALEA、和名『西洋躑躅(つつじ)』。西洋となっておりますが原種は中国産に遡れるとか。資料で改めて確認するに八重咲の変種が多い様です。
 面白いのは、どうもアザレアという呼称は現在園芸界に於いてのみ健在らしい事。そして、日本の躑躅を海外から表現するときは『〜のアザレア』となるらしいのです。物事は常に逆転の可能性を秘めている、と言う事でしょうか。
 そう言えば。
 このアザレアの花言葉とは『禁酒』『節度の愛』だそうです。この意味でこの名を冠したのかどうかは不明ですが、何とも不思議と言えば不思議な符合です。
   

編集後記

  • 自身のごたごたに相変わらず感けております。他会との交流…ネット上の検索…偉そうな事を言いながら遅々として進んでおりません。何とか合間を見て実効に移りたいと足掻いております。ご容赦下さいませ。
  • アンケートの結果をどう言う風に反映させていくか……かなり難しいです。こじつけに堕して行くのは余りに不本意だし、かと言って変に気軽に取り上げて禍根を残すというのも…。愉しい悩みではあるのですが。
  • 編集会議場、どうしてもネット上の話題が出てしまうのですが(度々スイマセン)、『ネット上の議論というのは成立するのか?』と言う事が今回の中心話題でした。きっかけは新編・語彙辞典を巡る論争だったんですが。
     文字の後に『人間』が居る事さえ忘れない限り成立する、と信じたい所なのですが……。
     とりあえず今回はこの辺で。(杉澤)