会報No.23表紙

会報No.23
−タイタニックの日本人−

目次

  1. 第26回例会の感想−読書会「銀河鉄道の夜」PART1
    藤田 すみよ
  2. 書棚の散歩−第4段−
    杉澤 法広
  3. ミュージカル「UBU・BOMI ! 」鑑賞記
    川崎 貴
  4. 賢治百姓真似一笑−その3
    友田 清司
  5. タイトル雑録
    杉澤 法広
  6. 編集後記

第26回例会の感想−読書会「銀河鉄道の夜」PART1

 去る2月27日は、2000年最初の"賢治の集い"がいかにも賢治さんにふさわしい名前の学習館『光でできたパイプオルガン』で開かれ、私も一員として参加させていただき、まことにありがとうございました。
 感想をーということですが、輪読会というのも初めてのことだし、ふだん声を出して本を読むということもまず無い私、声も小さいし、息も続かないし、うまく読めるのだろうか?と心配していましたが、残念(?)なことに順番がまわってこなかったので、正直ほっとしたーというところでした。
 皆さん方とてもお上手だし、それぞれ個性もあっておもしろかったです。それぞれのクダリで関連のお話も自然に出てきました。初回としては上出来だったのではないでしょうか。取り上げられたテキストが、最も親近感のある『銀河鉄道の夜』が選ばれたこともよかったのだと思います。
 ネーミングのことがお話にも出ましたが、賢治さんのハイカラ趣味や"新しがりや"の面も随所に出ていて、賢治流のおもしろさにも事欠きません。
 私は"研究"だの"論文"だのには縁の遠い人間なので、うまく云えませんし書けませんが、50年余の間つかず離れず賢治さんとつきあって、相も変わらずクスッと笑ったり、グッと胸にきたりさせられているーというわけです。
 
 初めての花巻まいりが1965年でした。あつかましくも、宮沢家の門をたたくと清六氏が逢ってくださり、賢治さんの原稿や絵を見せてもらい、あと、ゆかりの地点の巡り方まで教えていただきました。そのときの私の感激と感動はたいへんなもので、小学生の"遠足"のような作文を書いた記憶があるくらいです。
 

書棚の散歩−第4段−

 貴方にとって、「家族」とはどんな存在ですか?
 問答を仕掛けようという腹は毛頭在りません。自分自身が明確な答えをもっていない問答など仕掛けても何も導かれる事はないでしょうし、単なる時間の浪費に過ぎないでしょうから。
 今回の散歩は、少しだけ思い出話に付き合って戴きたいと思います。それも少し苦い思い出話です。
 映画「銀河鉄道の夜」が公開された当時―もう15年前になるのですね―、僕はリアルタイムでこの作品を見ることはありませんでした。関心はあった様ですけどね。その当時はまだ賢治さんとの縁が薄かったのですよ。それから1年近く過ぎて僕がようやく賢治さんの方を本格的に向き出した時に、今回紹介する「作品」と出会いました。「帰ってきたジョバンニ」別役実・作、林隆三他・出演、NHK・FMシアター録音、60分、1986年頃放送。
 今から思えば随分重いテーマだったのではないかと思います。原典で回想の一部としてしか登場しなかった父親の存在理由について光を当てた数少ない作品だったのではないかと、今ならば分かります。でもその当時は多分そんな事を考えずにミーハー的にスクラップを取る様な感覚で残していたのでしょう。
 更にその1年後、大学に入学した直後にもこの作品と出会う機会がありました。手元には破れをテープで補修したチラシが1枚あるだけ。「ジョバンニの父への旅」別役実・作、文学座創立50周年記念公演、1987年。これも今にして思えばどんな糸を手繰り寄せてでも見ておくべき舞台だったのかも知れません。そうすれば多分家族のあり方についてもう少し違う考え方を養えたかも知れない。そんな苦い思いが今も少し残っています。
 作品の世界としては、「銀河鉄道の夜」の後日譚です。それもどちらかと言えばかなり後味の悪い後日譚です。でもまたそれも有り得たかもしれない結末の未来像なのです。
 この作品の閲覧は多分僕以外にはNHKもしくは文学座程度しか窓口が無い様な気もします。イーハトーブセンターならひょっとして脚本の活字記録が残っているかもしれませんね。近々調べてみたいと思います。家族という観念を考えるのにはどうしても必要な作品ではないか、と今痛切に思います。ましてやこんな時代だからこそ、改めて世に問うべき作品なのではないのかなと、今更ながらに考えてしまいます。  

ミュージカル「UBU・BOMI ! 」鑑賞記

 久しぶりに元気の出るミュージカルを鑑賞して、寒さが吹っ飛んだ。何しろアフリカ出身の音楽家の作曲による音楽劇なのだから、熱くならないはずはない。作曲テンバ・タナ、演出関谷幸雄、遊玄社公演、題して「UBU-BОMI!」(ウブボミ!)、原作は賢治の「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」。「UBU-BОMI!」とは"アフリカ大陸の南域に現在も点々と暮らす先住民の、とても大切な意味を表す言葉・擬声語(オノマトペ)"だそうで、"日本語なら「DОKI-DОKI」(どきどき)"にあたり、"心臓の鼓動やいのちをあらわす"言葉だそうである。  舞台上に常設されたマリンバやアペンテマ(太鼓)などのアフリカの民族楽器が奏でる鼓動のようなリズムが始終響き合い、その旋律に乗って出演者達が高らかに謳い上げる舞台は、まさにアフリカ的熱気に溢れていた。  脚本は、「ばけものの世界」という原作の設定を上手く料理し、その奇想天外さで、狭い壇上から想像の翼がはみ出していきそうな勢いであった。また、エスニック調の布をふんだんに使い、アフリカっぽさとおばけの世界のふわふわ感を演出していた。飢饉による一家離散という深刻なテーマを扱っていながら、ばけもの世界の浮薄さとグロテスクさで味付けされたユーモア度の高い原作なので、舞台も始終明るいエネルギーに充ちていた。"お「キレ」さま"の「お」と「キレ」をわざと離して発音するところなど、思わず吹き出してしまった。会場には幼児から中学生まで子供の姿も多々見られたが、飢饉などという現代日本では実感されない悲惨な状況を、殊更強調しないところが返って物語を受容し易くさせていたかもしれない。
 原作の物語展開のテンポの速さも、舞台に躍動感をもたらすべく好影響していた。  とんとん拍子に出世して行くネネムは有頂天になり、そしてその頂点で、はずみで出現罪を犯してしまい、転落する。「慢心」による「転落」という構図は「貝の火」などにも見られるテーマであり、賢治自身の訓戒でもあった。原作はこの後の原稿が紛失されていて欠落しているが、「…ネネムの伝記」が「グスコーブドリの伝記」の先駆形とするなら、ここから自らの過ちに気付いたネネムの再生の道程が綴られていたかもしれない。脚本では、世界裁判長の地位から転落したネネムが、身分的出世とは別に「何にでも化けられるおばけ」に昇格している自分に気付き、あらゆる食物に化身し、"供身"で食を与え、飢えに苦しむ人々を救済する。その"捨身"となったネネムの生命が幾つもの新しい生命となって蘇える、という結末を補足することによって感動的な仕上がりとなっていた。
 賢治が何故この物語の背景をばけもの世界に設定したかは定かではないが、安易な破天荒に流されないナンセンスさは読めば読むほど随所に味わい深さが感じられる。その点ではこのミュージカルは躍動的な振りにばかり目が行ってしまい、その辺のナンセンスさの魅力が今ひとつ伝わってこなかったのが残念だった。

 

賢治百姓真似一笑 その3

 暖かくなったら、耕しに行きたいと思っています。楽しみです。晴耕雨読の精神で、「春耕冬書き」といきましょう。
 今回は、宮澤賢治自身の百姓への挑戦をひとりの先輩の挫折の物語として見つめ直してみたいと思います。
 賢治は、中学校のころから家業(古着商)を継ぐことを嫌悪していましたね。文学への傾斜、高等農林学校への進学、法華経への入信、童話の創作、詩作、教師としての活躍、農民たちへの関わり、石材販売などいろんな方面に手を出しました。宮澤賢治を読んだ外国人の中には、愛着を込めて「宮澤賢治という人は、大正時代の偉大なる三日坊主です」という人もいました。賢治にとっては、百姓への挑戦もまた、最初っから身の丈に合っていなかったのでしょうか。
 賢治は、花巻農学校で教師をしていたとき、生徒たちに農業の実践に役立つ知識を教えるだけでなく、
 「百姓は、すばらしい仕事です。ぜひ百姓になりなさい」
 と語っていました。けれども多くの生徒たちの親は、自分の子どもたちには百姓よりも町の給料取りのような仕事に就かせたがっていたようです。(農家の高校生の多くが、農業を継ぐよりも、できれば都会に出て会社勤めなどを希望している状況は、基本的には今も昔も変わらないようです。)
 賢治は、自分が学校で給料取りの生活をしていながら、生徒たちには「百姓になりなさい」と語っていることに、自己矛盾とか説得力のなさとかを痛感したのでしょうか。あるいは、具体的なことばとして聞いたかどうかは、わかりませんが、百姓をしている人から、
 「あんたらは、学校で給料をもらっているから、ええけんど、わたスらは食べれるか食べれないか、ぎりぎりの暮らしをしてきただも。息子には、百姓をさせたくねえでだも。要らんこと、吹きこむのはやめてくれねえか。」
 なんて意味のことを言われたか、賢治自身がそのへんの気持ちを察したのではないでしょうか。かなり突っ込んだ想像ですが、これは一連の童話を読んでいたら、聞こえてきそうだとは思いませんか。
 教師になってから三年半後の春には、森佐一あての手紙の中で
 「わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしているわけに行きません」
 と書いています。また、保坂嘉内あての手紙には、
 「来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になります」
 と書いています。保坂嘉内は、校内誌に発表した文章の中に皇室批判に当たる部分があったという理由で除籍処分になりました。賢治は教師になってから四年と四ヶ月で、(二十九歳のときに)教壇を去って、百姓になりましたが、嘉内はその数年前にすでに、農耕生活の実践を始めていました。賢治は、嘉内とは宗教問題では分かれたけれども、農民の中へ入るという方向では嘉内が先行者であるという意識をもっていたのではないでしょうか。
 賢治が教師をやめる決意をした理由は、こういった点だけでもないようですが、これが理由のひとつであることには疑いの余地はないでしょう。
 さて、賢治は予告通り自らの身体的適応性を考慮する余裕もなく、翌年には「本統の百姓」に挑戦していったわけです。生身の賢治を知る人たち、例えば、家族たちにも、同僚の教師たちにも、ベテランの百姓たちにも、農学校の生徒たちにさえも、無理をしようとしていることが見えていたのではないでしょうか。ここに、挫折への伏線がすでにあったと、私は考えます。
 実際、教職を辞してから、羅須地人協会の活動に燃えるように打ちこむわけですが、残念ながら長続きしませんでした。羅須地人協会のバラエティーに富む活動は、地元の新聞に好意的に紹介されますが、皮肉にもそれがきっかけで警察から目を付けられることになります。警察での事情聴取以後、羅須地人協会のバラエティーに富む活動は、急速になりをひそめてしまいますね。それ以後は、肥料設計書を作成するなどの農業生産を向上するための地道な活動だけに、自主規制したようです。そして、やはり体力面での困難さが立ちはだかりますね。
 この約2年間の精神の昂揚と沈滞は、妙な比較になるかも知れませんが、平家の盛衰よりも激しいです。多くの人たちが、例えば「農民芸術概論綱要」の中のことばに胸を打たれるわけですが、実はその高い精神は、二年と持続しなかったのです。しかも、いよいよ死ぬという十日前には、昂ぶった自分を反省し、後輩に同じような過ちをしないようにと言い残しているのです。
 私も含めて私たちは、「いいとこ取り」をしているのかも知れません。ことに私など、《光でできたパイプオルガン》という塾の名前を、賢治がほんとうの百姓になろうと決意したころに書いた「告別」という詩から引用したりしているのですから、その最たるものと言えるかも知れません。
   一体、賢治の挫折とは何だったのか。何が何に挫折したのか。挫折させたのは何だったのか。私たちにとって、挫折とは何なのか。など、もっともっと考え深めていかなければならないことがあると思います。
 そして、誤解のないように言っておきますが、「挫折」はむしろ必然であって、無意識のうちにも「挫折」を覚悟に進んでいった人たちに拍手を送りたいと、私は思っています。(こんなことを言うのは、私自身が学生のころにすぐ目の前で全共闘の学生たちが挫折していく光景を見たからかも知しれません。賢治を理解するために、大学時代の苦渋の経験が役に立っているのかも知れません)
 賢治の「挫折」はまた、私たちに勇気というものを見せてくれたと思っています。賢治は、農作業の楽しさも見せてくれました。自然の中で、自然の一員として、自然の恵みを頂くことの素朴な喜びです。
 私の賢治に対する感覚は、十人十色のひとつに過ぎません。あくまでも賢治の残した作品だけを問題にして、賢治の実生活や書簡などには興味をもたない、という意見の人もいるようですが、私はそういう見方はしません。
 賢治自身も言ってますが、賢治のような人が少数ながら、あちこちにいます。山梨で失敗した保坂嘉内もそうでしょうし、鳥取で殉死した河本義行もそうでしょう。私は、宮澤賢治を「その時代の代表選手のひとり」として、見たいと思います。 そして、《あーす農場》の大森昌也さんもそういった人たちのひとり、カッコつけていうならば「但馬(兵庫県和田山)の宮澤賢治」です。
 「♪どーこーかで、水が流れーてるー」
 もうすぐ春です。賢治百姓は、失敗の巻ーーーであったとしても、その真似のようなことをして笑われようが、私たちに残された時間はあとわずかしかないと思うので、他人の目は気にせずに、もう少し暖かくなったら鍬をもってみようと考えています。  

タイトル雑録−タイタニックの日本人−

 虚構より奇抜な現実はない、と言うのが世間一般の常識の見解と言えます。いや、言えた、と過去形で言うべきでしょう。現代社会に起こる様々な禍々しく、余りにも造り物じみた犯罪。当事者たちの生きている空間は現実であって現実ではない虚構。彼等の言う偶然とは所詮自分から造り出した必然の言い換えに過ぎない。彼等は意に沿わない現実を自らの手でおよそ現実とは掛け離れた独善的な虚構に落としてしまっているのです。虚構に「(自分勝手な)癒し」だけを求めるが故に。
 賢治さんの描き出す虚構とは彼等の求めるものとはおよそや対極的なものです。「銀河鉄道の夜」を当面の間テキストとして例会で取り扱うのですが、たかが虚構と言う目で見ると確実に痛い目を見ます。何回読んでも飽きる事は多分ないし、全てを理解したとはまず言えないでしょう。作者である賢治さん自身でさえひょっとしたら理解し難い作品だったのではないか、と、ふと思ったりもします。
 前置きがいつにも増して長くなりました。今回のタイトルは出発点こそ虚構ですが、そこから発掘されたある事実から由来しています。
 前号の会報「書棚の散歩」で映画「銀河鉄道の夜」のサウンドトラック盤を持っている、と僕が書いたのを記憶されているかと思います。例会にも持参して再生致しました。その折にどなたからだったかは失念したのですが、ある偶然を指摘されました。このサウンドトラック盤、全曲の作曲・演奏に携わっているのは細野晴臣氏(懐かしいなあ、YMО。はっぴーえんど!、との声も挙がって来そうですが)なのですが、氏の御祖父様が偶然にもあのタイタニック号に唯一の日本人乗客として乗り合わせて居たという事実です。映画「タイタニック」公開後に数回テレビで指摘されていた事実でもあり当時は関心をもっていたものですが、改めて賢治さん絡みで指摘されてみるとその奇遇さにはただ舌を巻くばかりです。そしてその締め括り。「銀河鉄道の夜」の作中でもタイタニック号の事に触れられている事(それも作品の柱の1本として)。
 繰り返します。賢治さんの作品はただ単なる虚構ではない。それはまさしく賢治さんの心象スケッチであり、全ての現実との接点であり、そして、賢治さんの無意識の挑戦ではないか、と思うのです。賢治さんが虚構で表現しようとしたのは全ての現実のボーダーレス化ではなかったのか、杯と考えたりもします。
 ……少し根を詰め過ぎて疲れている様ですね。自分勝手な虚構を現実に持ち込まぬうちに少し休むとしましょう。現実に凛として立ち向かう為に。    

編集後記

  • まずは今回の編集会議で上映したビデオの感想。確かによいものだとは思います。が、本質を伝えるものではなく、寧ろ概要を伝える為のもの。本当に感動したければ現地へ飛ぶべきだと…。ま、あくまでも個人的な感想ではありますが。   
  • これからの会の在り方についても暫し話が。賢治さんの同好会の傾向として思い入れの強い人達が集まりやすいとの事。《駆込寺》的なものなんでしょうカネ?只思い入れが強いというならば問題はないでしょうが、これが〈自己中心的な思い込み〉になると厄介になる。責任部分に関しては運営者に総て被せて自分達は好き勝手ばかり。丸で昨今流行の「パラサイトシングル」の様ですが、幸いにも当神戸賢治の会には紳士淑女が集って下さっております。逆に運営側の末席に座る筆者が皆様に迷惑を掛けていないかが心配になります。見捨てずお付き合い下さいませ。  
  • インターネット関連で今回も2題。先ずは各地の会及び他にも運営されている賢治さん関連のHP(ホームページ)との連携について。現在迄の処川崎さんが運営して下さっている当会のHPの閲覧及び書き込みはかなり少ない様です。検索手段の手続きが厄介だというのもありますが、賢治さん愛好家が思い込み故の殻に閉じ籠もっているのも原因の一つかと愚考します。最初は好奇心だけ携えれば充分なのです。幸いにもHP「賢治の事務所」とのリンク(相互交流)に成功したとの事。インターネット初心者の方でも大手検索システム"Yahoo!Japan"から人文科学→文学→作家(詩人だったかも知れない…)→宮沢賢治の順で糸を手繰り寄せれば辿り着けると思います。そこから当会HPへの糸を手繰り寄せるも良し、個人が運営されているHPを覗いてみるも良し。兎に角無用な裃は取り払って下さい。  
  • 神戸山手短大下の喫茶レモングラスを根城とし て(途中臨時変動もありましたが)20回近く、そこから神戸女学院大学の濱下先生の研究室を根城として一年を過ごし、今年に入ってから"光でできたパイプオルガン"を会場として展開しております当会、今後とも穏やかな繋がりをお互い持ちたいもの。当面は輪読会を中心とした活動になりそうです。「銀河鉄道の夜」読了後に取り上げてみたい作品の要望、又例会及び編集会議での余興の要望などありましたら原稿とともに事務局及び筆者のメールアドレス迄お送り下さい。前向きに前向きに捉える所存です。( 杉澤 )