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会報No.18 −西根の山山のへつぴり伯父−目次
- 第19回、20回例会報告について
川崎 貴 - 第19回例会報告−
二人の賢治作品英訳者が見た「宮澤賢治」像について
伊藤 信也 - 第20回例会報告−
南 義一 - 花巻からの便り−
宮沢賢治学会研究発表会に参加して
森本 智子 - 「研究」などからはほど遠い人間ですが…
守 真弓 - イーハトーヴ便り〜イーハトーヴの光と風(16)〜
森永 敦子 - タイトル雑録P
川崎 貴 - 編集後記
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第19回、20回例会報告について |
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第19回例会が7月26日〈日)第20回例会が9月19日(土)に、どちらもレモングラスにて行なわれました。第19回例会では、伊藤信也氏が「二人の賢治作品英訳者が見た宮沢賢治像について」のタイトルで、また第20回例会では、南義一氏が「真空という光をある速さで伝えるものと「黒い帽子の大人はブルカニロ縛士か」の2本立てで発表して下さいました。
最近例会参加者が少なく、せっかくの内容の濃い発表が皆様に伝わらないのはとても残念なので、私の拙い要約報告よりも、両者が用意して下さったレジュメをお読み下さる方が内容がよく伝わると思い(手抜きという声もありますが)、前者は本文中にその全文を掲載し、後者は別紙添付いたしました。また前者に関連してインターネットの「宮沢賢治の宇宙」というホームページでのロジャー・パルバースさんへのインタビューが掲載されているページを転載させていただきました。後者では、南氏の興味の層の広さと深さに感心させられました。伺っていると賢治にとって科学と宗教は一向矛盾していなかったことが納得できるように思われました。
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第19回例会報告−二人の賢治作品英訳者が見た宮澤賢治像について |
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前回までのあらすじ−3月にジョン・べスター氏による賢治の対訳書につけたForeword(まえがき、はじめに)についての検討を行い、5月はロジャー・パルパース氏の英訳版賢治詩集の賢治に対する見解を紹介しましたので、今回は両者の略歴と、賢治に対する見解をまとめて、発表にしたいと思います。
1.二人のプロフィール
(1)John Bester(ジョン・べスター)
John Bester(ジョン・べスター)。イギリス人。ロンドン大卒。専攻は日本文学、と思われる。(「英人学者」(1) の記述あり)大江健三郎、三島由紀夫、井伏鱒二などを英訳。
−賢治作品の英訳歴 (2)−
@1956年「どんぐりと山猫」(雑誌『Japan Quarterly』朝日新聞社、に掲載)
A1968年『Winds and Wildcat Places』(Ward Lock、講談社インターナショナルとの日英同時出版)子供向け童話集として出版。「賢治の英訳単行本としては最初のもの」だと言う。6篇収録。(以降、掲載作品は「別表」参照)
B1972年『Winds from Afar』(講談社インターナショナル)一般読者を対象にして出版。Aの6篇に10篇加えて16篇を英訳して出版。
C1993年『Once and Forever』(同上)Bの16篇に更に8篇加えて、24篇で出版。
D1996年『ベスト・オブ・宮澤賢治短編集』[The Tales of Miyazawa Kenji](講談社バイリンガルブックス)上記24篇より8篇を選び収録。対訳版。
E1996年『銀河鉄道の夜』〔Night Train to the Stars〕(同上)対訳版。
ジョン・べスター氏自身を語る資料は少ないが、その盛んな英訳活動によって、『まえがき(Foreword)』や出版の際に選定した作品の種類を観察するだけである程度の「賢治論」は見えてくる。
(2)Roger Pulvers(ロジャー・パルバース)
1944年、ユダヤ系アメリカ人としてNYに生まれるUCLAで政治学を学び卒業、ハーバード大学院修士課程でロシア地域研究を専攻し、卒業後ポーランドヘ留学、ワルシャワ大でソビエト近代史を専攻し、1967年(23歳)に初来日。当時新設された京都産業大学でロシア語とポーランド語の講師を5年務める。その間、日本の演劇人と交際(唐十郎、井上ひさし、大島渚など)。宮澤賢治作品で日本語を独習したり、浪花節に入門したりする。後に、オーストラリアに移り、文筆・演劇活動を盛んに行う。この間にアメリカ国籍を放棄、オーストラリア国籍を取得する。
映画『戦場のメリークリスマス』(大島渚監督)の助監督を務めた後、また日本に住む。
92年にオーストラリアに移るが、94年に日本にもどり、現在も在住。小説、戯曲、エッセイ等著作多数。作家、劇作家、演出家。家族は妻と四人の子。(3)
−賢治作品の英訳歴−
@1983年「銀河鉄道の夜」(『英文毎日〔Mainichi Dail News]』に掲載)
A1996年『英語で読む銀河鉄道の夜』(ちくま文庫)〔Night On The Milky Way Train〕
B1997年『英語で読む宮沢賢治詩集』(ちくま文庫)〔KENJI MIYAZAWA POEMS]
ロジャーパルパース氏が英訳した賢治作品は多くないが、氏は賢治についていくつかの自著で語っているので、今回はこれを検討する。
2.二人が語る「賢治」像
(1)べスター氏独特の賢治観
べスター氏は日本文学の研究者としての立場からか、賢治を文学者としては見ない。
「実際、賢治はまず第一に詩人であった。」(4)
「何といっても賢治は詩人であり、完璧主義者であった」(5)
これらの言葉が童話(べスター氏はこの言葉も好んでは用いない)にたいする前書きで述べている事に注意すべきである。これ以外でも詩人・賢治の視点で「短編」を時には大変肯定的に評価しているのはかなり特異と言える。
この立場が長編『銀河鉄道の夜』英訳の出版にしぶしぶ同意し、『風の又三郎』に至っては自ら「訳した」と言いながら出版されていない(6)事にもつながっている。
この点はパルパース氏が4度にわたって『銀河鉄道の夜』の英訳を試みていることと対照的である。(7)
(2)パルパース氏の賢治観
パルパース氏は多様に賢治を表現している。それは、べスター氏のように文学者か詩人か、といった視点だけではなく、賢治の人物評、とでも言うべきものを述べている。
まず、賢治をどう呼ぶのか。
「宮澤賢治は二十世紀最大の日本の作家だとも思っています」(8)
次に、賢治の人気の原因について。
「僕はこう思うんですね、若い人が賢治にひかれるとすれば、それは賢治の世界観、自然観であると同時に、彼は外の世界を見たとき『私はこう思う』『こういうことだ』と、すごい説得力を持って書いていることだと。」(9)
「賢治は、彼が生きた時代は言うに及ばず、ぼくらの時代の日本も代表しない。まさにこのことが、とりわけ今日の賢治人気の鍵を握っているような気がしてならない。」「賢治がもし何かを代表するとすれば、それは『個人の宇宙観を発見するにあたっての個人の選択』というものではないだろうか。個人の宇宙観とは日本人に特有のものではない。人類ぜんたいの見識だ。」(10)
また、氏は賢治を「コスモポリタン」だと言う。
「・・・宮沢賢治は世界市民の一人であるとぼくは認識する。賢治はその創作の中で国の名前などめったに出さない人だったが、生来の田舎者を登場させることで、彼らに普遍性というものを持たせる事に成功した一人の寓話作家であったとぼくは思う。」(11)
「賢治の場合は、地方コスモポリタン(Provincial Cosmopolitan)といった方がいい。よく勉強するし、日本のこともわかるし外国のこともいかなくても何となくわかる。コモポリタンというのは内面的なものなんです。それを賢治はもっていたと思います。」(12)
また、賢治を「世界中の人々に理解ができ、かつ楽しむことのできる詩人だ」として、その理由を、賢治の用いる言葉、賢治の論理、賢治の宗教観、の3つを挙げている。(13)
参照
(1) ジェイムズ・R・モリタ「宮澤賢治作品の載訳と研究の歴史」。(『賢治奏鳴』同氏編、有精堂、1988)
(2) @からBまでは上述書による。C以降は発表者の調査による。
(3) このプロフィールは主に、氏の著書『アメリカ人をやめた私』(堤淑子訳、サイマル出版会、1988)、『日本ひとめぼれ』(上杉隼人訳、岩波同時代ライブラリー、1997)による。
(4) 『Once and Forever』Foreword、Page F。
(5) 『Night Train to the Stars』Forword、P12。
(6) 『宮沢賢治短篇集』p6で、『銀河・・』と『風の・・』を含めて「翻訳した」、と言ってはいるが「両者は未完成」と言う理由で出版による紹介に消極的である.この趣旨の事は、『Once and Forver』Forwordの最後のバラグラフでもより詳細に述べられている。
(7) パルバース氏自身が『銀河鉄道の夜』の翻訳について語っているのは、以下の通り。
・「21世紀の宮沢賢治」井上ひさし氏との対談、(雑誌「へるめす」岩波書店、1996年7月)
・「訳者あとがき」(『英語で読む銀河鉄道の夜』ちくま文庫、1996)
(8) 「世界の中の宮澤賢治」(『宮澤賢治に聞く』井上ひさし編著、ネスコ、1995)p171
(9) 「21世紀の宮沢賢治」p80−81
(10) 「21世紀宮沢賢治の旅−あとがきに代えて」(『英語で読む宮沢賢治詩集』)p281
(11) 『日本ひとめぼれ』p13
(12) 「世界の中の宮澤賢治」p170
(13) 「21世紀宮沢賢治の旅−あとがきに代えて」p281−284
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第20回例会報告− |
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花巻からの便り− 宮沢賢治学会研究発表会に参加して |
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第8回宮沢文治学会イーハトープセンター研究発表会が、9月23日イーハトープ館で開催され、会員の森本智子さんが『「心象スケッチ」における〈修辞〉−(mental sketch modified)をめぐって−』という題で発表されました。その内容は次回の例会でお話下さることになっていますが、帰神後、発表会前後の様子の報告を手紙でいただきました。賢治学会らしい楽しそうな報告でしたので、その一部をご紹介させていただきます。
☆ ☆ ☆
すっかり秋らしくなったこの頃ですが、いかがお過ごしでしょうか.私は、何とか研究発表を終えて一息ついているところです。(略)
実は、私は今迄一回も、この年一回開催される、「研究発表会」なるものに参加したことがなかったので、どんな感じかが、全然つかめていなかったのですが、前日の定期大会も含めて、やっぱり、イーハトープ学会って、他の会とは全然逢うなあ、というのが一番の感想だったりします。まず、参加層が(これは賢治の会は全国どこでもそうだと思いますが)、研究者よりも一般の人の方が多い!ということ。そんな境界なしに、みんなが「賢治が好き」という一点で共通して、色々な形で、その思いを語り、ふれあえるってステキだと心から思いました。
そして、定期大会での、リレー講演、イーハトープ・サロン、そして翌日の研究発表会を通して、特に強く感じたのは、賢治の作品の研究・考察は、決して文学分野の独占物ではない、ということです。今更、当たり前のことかも知れませんが、それを目の当りにした思いがしました。科学、演劇、昆虫学、エスペラント(も含めた語学)、教育、地学・鉱物学、建築学、音楽、天文学、美学(ちなみに今回私は、主に美術との関係で論じました)・・・これほど幅広く研究対象が及んでいる作家は希有だと思いますが(勿論森鴎外や夏目漱石だって多くの領域に及んでいるのですが、何故か賢治ってそれともちょっと違うような気がしています)。きっとだからこそ、色々な人が自分に一番合った所から、近づいてゆけるのだろうと思います。
それと、何だか、学会というより、やっはりファンクラブのノリだなあと思ったのは、懇親会です。「宮沢賢治のお菓子な国」の著者、中野由貴さんが考案された、賢治作品にちなんだメニューで、とっても楽しめる企画でした。このおしながきがとってもおしゃれなものだったので、同封いたしました。これだけでも結構雰囲気が伝わってきて、わくわくできるものだと思いませんか?(実は、色々な方とお話していたため、私はほとんどこれらを食することはできず、目で楽しんだ形になってしまったのでなおさらそう思うのかもしれないのですが)。また、この会のはじまりにみんなで「精神歌」を合唱する−なんていう、他の学会ではないこともあったりしまして、やはり賢治ファンの集い、という感じで不思議でした。(でもそういうところがいいですよね♪ )後略
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「研究」などからはほど遠い人間ですが… |
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1996年秋のセミナー以来、5〜6回参加させてもらっている者です。大ていはお話を聞かせていただいています。たまに、小学校に勤めていた時の体験(賢治作品をめぐる)を元に発言しますが、内心はオッカナビッリなのです。そんな時、どなたかがつないで下さるととてもホッとして、また来ようかな・・・・・・という気持ちになります。
さて、私の賢治との最初の出会いは、遥か47年も昔、10才の時教科書で読んだ「どんぐりと山猫」です。さし絵も妙に心に残っています。6年生で「銀河鉄道の夜」を読み、ふしぎなお話だと思い、それ以来気になる人と作品として忘れることはありませんでした。大学時代に、すんなりと教員養成のための勉強にはまり切らず、うろうろしている中で、賢治の童話に戻ってきてもいました。
26才で東北旅行をし、花巻を訪ねました。下根子の羅須地人協会跡をたずねる時、停留所で下りた私に、バスに乗っておられた方、7〜8人が、そろって、そこをずうっと行けばいいからね!と、笑顔で見送って下さいました。心あたたまるひとときでした。その時、下根子には、詩碑だけがあって、建物はなかったよう思います。
2、3年後にまた東北へ行く機会があり、盛岡の光原社を訪ねました。及川四郎さんという賢治の後輩であるご主人が、賢治の鉛筆書きの借用書をなつかしそうに見せてくださいました。”賢治の庭”の白壁に書かれた筆の文字が印象的でした。「ゑげれす館」でお菓子とお茶をごちそうになりました。
その頃の私は、ひとりでこっそりと賢治のことを”想って”いました。今ほどメジャーではありませんし、賢治のことを日常話す相手とて居ず、また、私だけの大切なものにしておきたい気分もありました。その気分は、今もあまり変わっていないかもしれません。ただ”献身という名の病理”というふうに賢治の心理が規定されたり、「宮澤賢治殺人事件」という形で、聖人として賢治を祭り上げようとする一部の風潮に対して鋭く切り込もうとする姿勢こふれたりして、一種のモヤモヤが晴れ、等身大に近い賢治を感じることができてきているかもしれません。
何はさておき、私は「賢治のお話」を声に出して読むと、一層その面白さが立ち上がっ上がてくることに、20代からひかれ続けてきたのでした。「ことば」が生きていることに、多分、初めて気付かされたのでした。まるで賢治に仕えることばがあって、それらが踊るように辺りを舞っているようなのです。そしてその後ろに、いたずらっぽくニヤッと笑っている賢治がいるのです。
この魅力を私ひとり独占するのは勿体ないと、担任した子ども達に、必ず毎年、一篇以上、別刷りをしてとり上げました。どの子もそれぞれの楽しみ方をしてくれました。
教科書等に採用されている「やまなし」や「よだかの星」の外に、私が副読本としてよくとり上げたのは、「どんぐりと山猫」「なめとこ山の熊」「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」などです。
教育界(!)では、「雨ニモ負ケズ」や「やまなし」が代表作品としてとり上げられることが多いようですが、「やまなし」で子ども達に絵を描かせる先生が多く、いつも私は反発をもって見てきました。又、賢治にふれさせるのに、いきなり「やまなし」は、もったないとも思います。
さて、この3月末で、体の不調の為、退職いたしました。まだまだ自分で対面していない作品がたくさんありますので、少しでも読み深めようと思います。何の先入観も持たず賢治の発したことばに、まっすぐ、ていねいに出会っていけたら、と願っています。
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イーハトーヴ便り〜イーハトーヴの光と風(15)〜 |
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秋ですね。梅雨があけないまま、大雨だ、地震だ、テボドンだと忙しい岩手です。大雨と地震については、自然の気を読み取れば何とか被害を被らずにすむと思うのですが、テボドンは人間のやることなので、一番恐いです。今危験なのは、青森の六ヶ所村だと思います。プルトニウムが持ち込まれた施設に、もしミサイルが落ちたらどうなると思いますか?我々は、このことをどのように考え、何をすれば良いと思いますか?賢治は世界中の人々が幸福にならないうちは本当の幸福は訪れないといいました。争いはいつも自分と他人と言う意識の区別がもたらします。全てが一つ、我々は皆大いなる宇宙の一部ということ、我々は決して単独では生きられない、
この世に存在するもの(目に見えるものも見えないものも全て)は、何一つ無駄なものは無いというそのことに気づけばよいのです。そう感じることができれば、全てのものが愛しく思えてくるはずです。キリストのいった愛であり、仏陀のいった慈悲とはこのことです。賢治はきっと法華教の中に、見つけたのでしょう。いえ、人が自分の都合に合わせて宗教を利用していることも彼の苦悩の一つだったと思います。だからこそ、彼は「銀河鉄道の夜」の中で本当の神様についてこだわったのだと思います。
私も岩手に来るまでは、神というのは宗教こよって作られた物のように受けとめていました。権力者が何か特別のカがあると民衆に思い込ませることで力を行使した、そのための創造物だと思っていました。でも今は人が神と呼んだ目に見えない存在を確信しています。賢治は私たちにかなり近い時代に生きた人です。キリストや仏陀と同じことに気づいた人です。以上のことを頭の中に置いた上で、もう一度「春と修羅」の序文を読んでください。彼が感じたもの伝えたかったことが見えてくると思います。
近頃、神戸賢治の会もすこし活動が鈍くなってきていると聞いています。この会報を読んでいる方々にお伺いします。あなたたちは、なぜ賢治に、賢治の書いたものに魅かれたのですか。彼の文章の技巧性だけではないはずです。彼と同じ意識を感じることができたたった一人の人、それがトシさんでした。
彼はとにかく伝えたかったのです。本当のことを。私たちは、まず彼が伝えようとした本当のことを受けとめるべきではないでしょうか。
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タイトル雑録O |
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今の季節そのままの題のついた「十月の末」の文中から採りました。
この作品、小品ながら、賢治らしい表現が随所にちりばめられた傑作です。例えば“松の木や楢の木が、つんつんと光のそらに立っています。“空はまるで新しく拭いた鏡のようになめらかで、青い七日ごろのお月さまがそのまん中にかゝり地面はぎらぎら光って嘉ッコは一寸氷砂糖をふりまいたのだとさえ思いました””西根の山山のへつぴり伯父は月光に青く光って長々とからだを横たえました”等々。山を擬人化するのは日本人にとっては珍しくはないのですが、賢治は西根山のなだらかな稜線を“へつぴり伯父”と名付け、麓の村の子供たちのこの山に込めた畏れと親しみの感情を表現しようとしたのでしょう。
この作品の草稿の表紙には”村童スケッチ”と記されていたそうですが、”嘉ッコ”という就学前の年令と思われる村童の、とりたてて大きな事件もない東北の一村での10月の末の半日あるいは一日、もしくは日付の違う昼と夜を描いています。嘉ッコと友人の善コたち少年の目から見た様々な興味や、嘉ッコとおばあさんやおじいさんとのやりとりなど、少年の周りのさり気ない日常が生き生きと表現されています。いつもと違う出来事といえば冒頭での霜が降ったことや、最後に雹が石ころのように一散に降って来たことくらいで、それも極く短い時間だったようです。けれどもこの部分が、この作品のタイトルでもある“十月の末”の季節感を見事に表し、通り過ぎた雹の余韻の中に「西根の山山のへつぴり伯父は月光に青く光って長々とからだを横たえました」と締め括る技巧は一篇の叙情詩です。
10月の末ともなれは、東北地方ではもうすっかり初冬と言うに相応しい季節なのでしょう。霜が降り畑の土がぐちやぐちやになったり、突然雷とともに雹が降ったりする気象現象によって、人々は冬の訪れを実感するのでしょう。けれどもこれから訪れる厳しい冬の予兆でさえも、少年には新鮮な驚きと感動です。それら自然やまた周囲の大人を、少年の目線と感受性で表現されたこの作品はまさに賢治の真骨頂ともいえる作品だと思います。
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編集後記 |
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- またまた、まとめて報告することになってしまいました。ずいぶん久しぶりという感じを持たれるかと思います。申し訳ありません。
- 例会で、最近参加者が減少していることについて話し合われました。生誕百年のお祭り騒ぎが静まったのは喜ばしいことですが、賢治自身の魅力までが色褪せるはずはありません。賢治を信奉するつもりはないですが、賢治から学べることはだまだたくさんあると思います。次回の例会は目先を少し変えて、会場に神戸女学院大学の浜下先生の研究室をお借りすることになりました。新聞各紙にも案内広告を出し、広く参加者を募ります。参加者多数の場合は講義室を使わせていただけるそうです。内容も、森本智子氏による賢治学会での研究発表の再演+αですので、是非お聴き逃しのないようにご参加下さい。
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