会報No.17表紙

会報No.17
−二十六夜が明けた後−

目次

  1. 第18回例会報告
    川崎 貴
  2. 蔵本案内(16)
    杉澤 法広
  3. 文語詩考(一)
    信時 哲郎
  4. イーハトーヴ便り〜イーハトーヴの光と風(15)〜
    森永 敦子
  5. タイトル雑録O
    杉澤 法広
  6. 編集後記

第18回例会報告

 5月16日(土)第18回例会が行なわれました。伊藤信也氏が、幾冊かの資料をお持ち下さり、その中から次の2つを選んで検討してみました。
 1、「現代詩文庫1015宮澤賢治」 (入沢康夫編、思潮社1979)」
 2、「英語で読む宮沢賢治詩集」 (ロジャー・パルパース訳、ちくま文庫1977)
 どちらも収録詩篇の選出の根拠が断ってあるという理由で選ばれました。
 前者で入沢康夫氏は選んだ詩篇について 「底本とした『校本宮澤賢治全集』では、本文はおおむね最終形が採用されているが、本書では、8篇のものについては、それと異なる段階の形(上記全集の校異に示されている)を、ことさら本文に採った。これは、賢治作品においては、最終形あるいは発表形のみが最重要とは必ずしも言えないという観点からとった処置である。また同じ作品について、段階を異にする2つの形を併掲したものが、これも8篇ある。これらは、作品の変化のほんの一端なりと読者に味わってほしいという編者の気持の表れである」と述べています。氏は賢治の作品の幾重もの推敲を例をあげて指摘し、それが単なる作品の完成へ向けての推敲ではなく、「いったん発表してしまっても、作品が生成転化の動きをやめ」ず、「その都度その都度の完成と、そこからの転生、再完成のはてしない繰り返しを特質としているかのごとくであ」り、これこそが賢治の創作観の特異性である、と述べています。つまり飽くなき推敲は、賢治の 「きわめて自覚的な作品観と方法論にもとづいていたのではあるまいか」と推論しています。なぜならば、『春と修羅』の序文にある「…第四次延長のなかで主張されます」とか、『農民芸術槻論綱要』の中の「…時間の軸を移動して不滅に四次の芸術をなす」「永遠の未完成これ完成である」等々の言葉からそれは確信でき、賢治のそのような創作観は「彼が幼少時から親しんだ仏教の輪廻転生・生々流転の思想と、当時の最も新しい科学思想であるミンコフスキーやアインシュタインの四次元時空連続体の考え方との、合体と融合の上に確立した、世界観の一側面を成すものであった」としています。であるからに、氏は本書によって「賢治作品の『四次元的な全体像』への興味・関心を深くして」ほしい、との期待を込めて結んでいます。
 後者のロジャー・パルパース氏は選択基準として、「まず第一に、英語にした時、詩として成り立つと思えるもの」「第二に、賢治の詩のなかでぼくが愛してやまない五〇篇を選出した」 と言い、さらに「それぞれの詩の性質を考え、そこにある種のバランスをもたせるように配慮した」として、「賢治の強い信仰心があらわれた詩」「勇壮なlandscapeあるいはlightscapeを詩う詩」「甘美でロマンティックな空気が感じられる詩」も味わえることを心掛けて選んだとも言っています。
 ところでパルパース氏は選択の基準以外に「宮沢賢治は、世界中の人々に理解ができ、かつ楽しむことできる詩人だ」 と言い、3つの理由を掲げていますが、私たち日本人とはまた違った角度の視点で、興味深いものがありました。今後外国人を通した新しい賢治作品の味わい方が発見できるのではないか、というようなことも今回の例会では話し合われました。次回例会は今回の続きをいたしますが、外国人翻訳家、研究者にも注目していきたいので、資料提供お願いいたします。
(今回は記録不備のため、両テキストを概略したにすぎない報告となってしまい、例会報告とは言い難く心苦しく思いますが、とにかく例会ではいつもながら、感想、意見、突っ込み、余談等々が出て、あっという間の3〜4時間でした。)

蔵本案内(16)

『宮沢賢治・漫画館』 潮出版社
 今回は別の本を紹介しようかという心積もりでした。しかし、イーハトーブセンターの「事務局便り」第41号にてこのシリーズが完結しているらしいとの情報を得た瞬間、僕は本屋にゆく決心をしていたのです。幸いにして即座に入手できましたのでここに紹介したいと思います。
 それでは、この巻の作画者陣の顔触れを申し上げます。林静一・永島慎二・村野守美・坂口尚・樹村みのり・松本零二・板谷英城・佐藤国男。又もや個性的な人達ばかり。因みに今回松本零二さんがやったのは『水仙月の四日』。こんな解釈もあるのかと感心するも怒髪天をつくもお任せします。僕は因みに前者でした。
 良くも悪くも意欲的な取り組みであったと思います。これは蔵書にはまだしていないのですが、永島慎二が『銀河鉄道の夜』を漫画化しているという事。立ち読み程度に眼を通したことはあるのですが、このシリーズほどの充実感は余り感じられなかった様に思います。少なくともこのシリーズを題材にして読書感想文を書いたとしたら及第点は貰えますまい。それ程迄に原作からのイメージの切り取り方が個性的であり、又再現に苦心しているのだと思います。
 最後に。一応この巻で完結という事ですので、各巻に収録されている作品と作画者を列記し、検索の一助としたく思います。尚、それによって貴方の中の作品のイメージが壊れたとしても、僕に責任は問わないでください。僕も戸惑っている一人なのですから。
 
 第一巻
 『セロ弾きのゴーシユ』 あすなろ・ひろし
 『カイロ団長』 水木 しげる
 『注文の多い料理店』 永島 慎二
 『月夜のでんしんばしら』 スズキ・コージ
 『氷河鼠の毛皮』 たむら・しげる
 賢治版画館  畑中 純
 賢治博物館  板谷 英紀(城)
 扉絵版画 佐藤 国男
 *博物館、扉絵版画は以下各巻に存在  
 「決定的瞬間・二十四歳」 谷川 雁
 第二巻
 『狼森と爪森、盗森』 村野 守美
 『ひかりの素足』 樹村 みのり
 『フランドン農学校の豚』 やまだ 紫
 『北守将軍と三人兄弟の医者』 スズキ・コージ
 『黄いろのトマト』 坂口 尚
 『風の人・宮沢賢治を求めて』 畑中 純
 第三巻
  『どんぐりと山猫』 永島 慎二
 『虔十公園林』 山松 ゆうきち
 『貝の火』 水野 英子
 『山男の四月』 飯野 和好
 「何といっても賢治は詩人であり、完璧主義者であった」(5)
 『よだかの星』 あすな・ひろし
 「宮沢賢治はタイム・スリップ未来人」 畑中 純
 第四巻
 『グスコープドリの伝記』 松本 零士
 『やまなし』 高橋 葉介
 『かしわばやしの夜』 手塚 治虫
 『祭りの晩』 鈴木 翁二
 『猫の事務所』 水野 英子
 『オツベルと象』 林 静一
 第五巻
 『かえるのゴム靴』 林 静一
 『雪わたり』 永島 慎二
 『鹿踊りのはじまり』 村野 守美
 『十カの金剛石』 坂口 尚
 『ざしき童子のはなし』 樹村 みのり
 『水仙月の四日』 松本 零士

文語詩考(一)

〔いたつきてゆめみなやみし〕 
いたつきてゆめみなやみし
(冬なりき) 誰ともしらず、
そのかみの高麗の軍楽、
うち鼓して過ぎれるありき。
 
その線の工事了りて、
あるものはみちにさらばひ、
あるものは火をはなつてふ、
かくてまた冬はきたりぬ。


 ※語注
 いたつきて=賢治その人と思われる話者が、晩年の病床にあった時の経験として書かれている。
  高麗=918年〜1392年まで朝鮮半島にあった国名。ただここでこの言葉が用いられるのは字数の関係で、朝鮮のことを指していると考えられる。
 軍楽=朝鮮半島では豊作を祈るために楽隊が編成され、農楽あるいは農楽軍と称された。
 うち鼓して=いわゆる「朝鮮飴売り」の行商人が客寄せのために太鼓を打ち鳴らしして歩く様。
 その線の工事=賢治が病臥していた昭和初年、岩手県下では大船渡線、山田線、花輪線などの鉄道(区間)工事相次ぎ、「その線」が具体的にどこを指しているかの特定はしにくい。
 あるものは……=区間工事が終了したために解雇された朝鮮人労働者の陥った境遇については、『岩手日報』などで報道されることがままあった。
 
 「装景手記ノート」に記された口語詩「朝鮮鼓して過ぐ」を文語詩化したもので、下書稿一、その裏面にある下書稿二、定稿の三種が現存しており、生前発表はされていない。
 文語詩五十篇の冒頭におかれているせいか論者の言及は、文語詩としては例外的に多く、『小沢俊郎宮沢賢治論集3 文語詩研究』に収録された「太鼓のリズム」(『賢治研究』昭和・6)をはじめ、奥田弘の「宮沢賢治周辺資料(十)」(『銅線』昭和60・10)、青山和憲の「文語詩〔いたつきてゆめみなやみし〕の改稿過程 宮澤賢治の表現及び主題意識の変化について」(『言文』昭和61・12)、尹明老の「宮沢賢治における朝鮮人像」 (『実践国文学』平成7・3)などがある。
 宮沢清六は「賢治の世界」(『兄のトランク』ちくま文庫・平成2)でこう書いてもいる。

 亡くなる半年ぐらい前ですが、私は側におりました。粉雪がちらちら降ったり、陽がきれいにさしたり、ひじょうに寒い日でした。その時、遠くの方から不思議な太鼓音が聞こえてきたのでした。
ドンガドンガ   ドンガドンガ
ドンガラドンガラ ドンガラドンガラ
というように−。それはずうっと続いて聞えてきて、表の道路を通りすぎて行きました。

 『宮沢賢治研究(十字屋書店・昭和14)』所収の「思ひ出」では、太鼓の音を「どんが とんが どんが とんが / どんがら どんがら どんがら どんがら」と書いており、「ど」と「と」の書き分けによって音の高低を書き分けていたようである。また太鼓の音と言えば、「dah-dah-dah−dah−dah−sko-dah−dah]の[原体剣舞連」も思い出されるが、宮沢清六氏による同詩の独特な朗読(『現代詩集3 宮沢賢治集(有信堂マスプレス・昭和35)』」を聞いても、この兄弟が単調に思える太鼓のリズムにさまざまなものを聞き取っていたことが窺える。さて、病床の賢治はこの太鼓の音に何を感じたのであろう。
 この作品群の第一形態である「鮮人鼓して過ぐ」は次の通りである。

肺炎になってから十日の間
わたくしは昼もほとんど恍惚とねむってゐた
さめては息もつきあえず
わづかにからだをうごかすこともできなかったが
つかれきったねむりのなかでは
まっしろに雪をかぶった
巨きな山の岨みちを
黄いろな三角の旗や
鳥の毛をつけた槍をもって
一列の軍隊がやってくる

 内容だけを見ると「鮮人の太鼓の音」はどこでも現われておらず、病床の幻想を描いた作品だということになる。しかし清六氏の文章を併せて考えれば、今までに聞いたこともない不思議なものでありながら、正確な太鼓のリズムが賢治に「朝鮮飴売り」の姿を彷彿とさせたことがわかる。文語詩に改稿されると「そのリズムいとたゞしくて/なやみをもやゝにわすれき(下書稿一)と、太鼓のリズムに癒しの効果まであったことがわかってくる。
 しかし下手稿一には新しいテーマが挿入されている。すなわち

わが病いまし怠り
許されて新紙をとれば
かの線の工事了りて
あるものはみちにさらばひ
あるものは火をはなつてふ
いづちにかなれの去りけん 

 である。鉄道の区間工事が終了すると、朝鮮人労働者達は一斉に解雇され、彼等が苦境に立たされたことが書き加えられ、「われ」はかっての「鼓者」の身の上を案じる、という構造になっている。つまり病床の「わたくし」の想いだけを描いていた作品に、「なれ」という人物とその社会的背景が書き加えられ重層的な作品に変化しているのである。
 さらに下書稿二になると、「鮮人鼓して過ぐ」や下手稿一にあった正確な太鼓のリズムが病床を忘れさせた、という私的モチーフが表面上消え、「われ」「なれ」という人称代名詞も消えている。この改稿過程について青山和憲氏は「人称の消失、季節感を担う語の抽象化と役割の変化、モチーフとして取り上げられた体験・伝聞相互の関連の希薄化」とし、「世界は限りなく大きく、その意志は測り知れず、その有無さえ窺い難い。人はその自然に生かされ、滅ばされるが、その過程における喜びや苦渋の意味もまた定かではない」とまとめている。
 なるほど青山氏の言うことにはかなりの説得力がある。しかし柳原昌悦に宛てた最後の書簡(昭和8年9月11日)には「咳のないときはとにかく人並みに机に座って切れ切れながら七八時間は何かしてゐられるやうになりました。あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来そうもありませんがそれに代わることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります」と書いている。文語詩稿五十篇・一百篇の清書を終えたのが、それぞれ昭和8年の8月15日・22日であるから、ここで「やっきとなって」書いているとされているものが、「なっても駄目でも、これがあるもや(宮沢クニの証言)」と語ったと言われる文語詩稿であるにはほぼ間違いない。大自然の中で翻弄される人間の営みを一種の諦観から描くだけのものが、羅須地人協会などの活動に代わりうるものだった、というのではあまりに消極的すぎないだろうか。この作品が文語詩定稿群の冒頭に位置することから考えてももっと積極的なものがあったと考えるべきではないだろうか。
 定稿では「いづちにか ひとは去りけん(下書稿二)」が「かくてまた冬はきたりぬ」に改稿されることによって、「鼓者」その人に焦点が定まらないようになっている。焦点は太鼓の音を聞いた「冬」の方にいっているのである。では賢治にとってこの 「冬」とはどのようなものであったのか。言うまでもなく「いたつきてゆめみなや」んでいた「冬」であり、また失意のどん底に病臥する「冬」でもあった。しかし病床の彼をはっとさせる太鼓のリズムに出会った「冬」でもあったのである。
 朝鮮人労働者の置かれていた状況が過酷であったことは、小沢俊郎の紹介する 慶植『朝鮮人強制連行の記録(未来社・昭和40)』などに明らかであり、賢治も「新紙」を読むまでもなく、うすうす知っていたのではないだろうか。そうした状況にありながら「鮮人」の叩く正確な太鼓のリズムは、「そのリズムいとたゞしくて/なやみをもやゝにわすれき」という状態にさせた。失意の底にあった賢治は、果たしてこのリズムによって我が身を反省させられ、また勇気づけられたのではなかったろうか。逆境にありながら正しくリズムを刻むこと、それは病床にありながら正しいリズム、すなわち文語型詩の五七調のリズムに言葉を精練させていく宮沢賢治その人がだぶってイメージされてこないだろうか。
 賢治が初めて文語詩を載せたのは『女性岩手 創刊号(昭和7・8)』であったが、第2号(昭和7・9)には「花巻町 T子」なる人の

宮沢賢治先生が多分病床からの御寄稿と思いますが、「民間薬」「選挙」の二篇、まことに先生の長詩の大成を思はせるものがあります。はじめて発表された「春と修羅」時代には、私共いかにその一々を繰りかへしても、先生の作意と情緒とをつかむことが出来ないで、たゞその中の「無声働突」や「獅子踊」に琴線の響を感じ得たにすぎませんでしたが、その後十年、すっかり洗練され切ったこの二篇を口誦して見るとき、この田園詩の物語る世界が、空間に再現されるばかりでなく、其の発声さえもがはつきりきゝ取れる感じがいたします。一二誤植と思われるふしも見えますが、若しあのまゝでいゝのなれば、また百回の吟誦をくりかへして見ませう。

という好意的な批評が載り、賢治を喜ばせたという。心象スケッチにはなかったもの、すなわち文肯定型詩のたしかなリズムを「口誦して見る」ことによって「何か」が現前したのである。
 或る冬の日、宮沢家の前を行き過ぎた太鼓のリズムに、賢治はその面影を「空間に再現」し、「たいした人」であると清六氏に語ったという。その時賢治は自らも、我が身の苦境に屈することなく正確なリズムを刻んでは人に勇気を与えることのできるような「たいした人」になりたいと思わなかっただろうか。
 『文語詩五十篇』の冒頭に、「リズムの正しさ」を称える詩篇の載っているのは、決して偶然ではないだろう。逆境の中から、力強いリズムを発信しつづけることこそ、晩年の賢治が「それ(農村改革運動)に代ること」として、「毎日やっきとなって」取り組んだ文語詩稿の制作だったと考えられるからである。

イーハトーヴ便り〜イーハトーヴの光と風(15)〜

 おばんでございます。もうすぐ夏を迎える岩手からのイーハトーヴ便りです。
 かなり全国ネットで伝わっていると思われる岩手山の噴火疑惑ですが、こちらでは、な−にそったらこと大したことんねぇべ派と、これから始まる地球活動災害の一つだべから自分の生き方を磨こう派にわかれています。ちなみに私は後者です。雫石に住む私の友人などは、7月が危険だといっています。ただし、どんなふうに被害がでるかは、予測できません。岩手のニュースではほとんど毎日のように岩手山情報が流れています。地震の震度や回数とか、どこで何の観測が始まったとかという内容です。早朝に一度私の住む紫波町まで揺れたことがあってちょっとピビリましたり、いずれにしろ、この世紀未は今までの流れがガラリと変わる時期だと思います。今生きている私たちは、結構すごい瞬間に立ち会えるかも知れません。そう考えるとちょっとわくわくしちゃいます。
 ところで、先日究極のリサイクル生活者に会うことができました。この方とはTVの取材で訪れたお寿司屋さんに紹介されました。宮古の山中に25五年も住む豊沢弘さんという方で、廃物利用で建てた小屋が住居です。しかもソンチョ(ソンチョウではなくソンチョ、彼は、芸術の村村長なのだ)の小屋の他に3軒、内1軒は、オンドル式床暖房完備、他の1軒は露天風呂付き、別の1軒はロフト付ログハウスです。さらに露天風呂1つ、屋内風呂1つ、将来はメタンガスも供給できる予定の星の見えるトイレ、書庫、かなり広いステージ、バスを改造した部屋などがあります。なお、今年から一般客の受け入れも始めました。キャンプ場気分で行けば、泊500円で泊まれます。ただし、すごい山の奥で途中から舗装されておりません。そんなわけで、私のミニカで行くのは不安です。電話やテレビはありません。よって宿泊の予約はお手紙でどうぞ。返信希望の方は、80円切手同封にされたほうがよいと思います。
 8月の始め頃には、ここで『光と水の祭りっこ』が行なわれる予定です。まだ詳しいことはわかりませんが、このイベントは岩手版ウッドストックの様なものです。このイベントに参加したミユージシャンたちは、将来すごい大物になるかも・・・(上々颱風も出ていたという噂あり)興味のある方は問い合せてみてください。キャンプ気分で行くのも楽しいと思います。イーハトーヴ岩手というと特に皆さんのように賢治ファンの方は賢治縁の地ばかりをご覧になりたがりますが、この地でイーハトーヴの精霊達と語った人たちはいろんな場所でいろんなことを始めています。経済中心の世の中に慣れてしまった人たちには、とても不思議に思える人たちかもしれません。でも、会社や学校やお金によって自分をがんじがらめにしている人よりずっと活き活きした楽しい人生を送っています。
 朝、太陽が昇り鳥がさえずる声で目を覚まし、あぁ今日も1日いい日でありますようにと祈った後、畑を耕し水を汲み、汗をかき、お腹が空いたら自分で育てた野菜と雑穀入りのごはんと味噌汁で食事して、友人が訪ねてきたら迎えてお茶でも飲んで、夕方になったら風呂を沸かして入り、夜はろうそくの明かりで静かに本でも読んで、眠くなったら今日1日どうも有難うといって眠る。これってまるで『雨ニモマケズ』そのままだと思いませんか。
 実は私もこれから自給自足を目指した生活に変えていこうと考えています。姫神山の麓に畑付の家を借りる予定です。(まず、水を引きなおさなくてはならず、時間がかかりそうです)
 落ち着いたらここを開放して、いろんな人の癒しの場にしたいと思っています。何かしたい人、考えたい人、自分と向き合いたい人、何もしたくない人も元気になりたい人は誰でもどうぞおいでんなさい。というわけで、ディレクターの仕事は切りの良いところでやめるつもりです。(特殊な仕事なので簡単に上司が辞表を受け取ってくれなくて困っています。)
 これから、どんどん世の中が変わります。なにしろ岩戸が開いたんですから。皆さんも一度ちょっとゆっくり身体を休めて、自分自身と向き合ってみてはいかがでしょう。自分の中から何かが沸き起こつてくるかもしれません。
 ダイセイカンノン マカンダイコウジョウコウ マカ!
 地球と一緒にみんなで次元上昇しましょう。

タイトル雑録O 《二十六夜が明けた後》

 門前の小僧的な生活が割と長いせいで、ふとした拍子に自制心にのしかかられて身動きが取れなくなる時があります。10代の頃はその度に自分の心の暗闇の淵へと深く深く沈んでゆくのが常でした。現在は違いますけどね。30路も近い今、しかも日々の仕事に追われている身となっては底まで深く沈んではかりはいられません。
 そんな時に思考停止の方法として、又、次の手段を見つける方法として屡々本を紐解く事にしています。ジャンルは問いません。そして賢治さんの作品も又その範中に含まれます。「二十六夜」。単なる宗教的かつ獣戯画的な作品ではなく、業に操られる命の浅ましさを描いた作品。この作品が救いになるというのか。それは読んだ人にもよります。少なくとも何かが見つかる筈です。
 しかし、冷静になって考えてみればただ安楽に宗教的な思索を巡らせていれば、救いは訪れるのでしょうか。出家と称して街頭で人の紬を引いて教えを押しつけようとする若者。教えの中の価値観に縛られて幸福について真剣に考える事を放棄した彼等自身が救われていないのにどうしてその教えを聞く人が救われるとでも思うのか。
 翻って賢治さんは心から救いの術を考える人だったのかも知れない。しかし、賢治さんは生活を考える必要がなかったから思索できたのかも知れない。衣食が足りていれば礼節も確かに知るでしょうが、その衣食の足りなさに苦しむ人に救いの道をどんな方法で指し示そうとしたのでしょうか。
 作品の中では成仏という形での救いが提示されます。しかし、日々の生活においてそれが何になるでしょうか?死ぬ時に救われてそれで万事良しと言える程私達凡夫は悟ってはいないのです。二十六夜が明けた後、梟達の日々は幸せだったのでしょうか?死後にしか見いだせぬ幸せの形が心に影を落とさなかったのならば、それで良いのですが。

編集後記

  • 「蔵本案内」「タイトル雑録」 でお馴染みの杉澤法広さんから、その原稿を送ってくださった直後に、弟さんが瀬戸内の来島大橋の落橋事故で亡くなられたとの連絡をいただきました。言葉がありません。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
  • 例会の参加人数がだんだん減少しています。神戸賢治の会も4年目に入りました。心機一転がんばりたいと思い、何かまとまりのある試み、もう少し積極的な運営、例会の充実をはかりたいと考えていますが、私事の忙しさにかまけて意気込みが萎えがちになっております。反省しつつ、皆様にもご協力をお願いする次第です。
  • 梅雨だから当然ですが、雨が降ったり止んだりの今日この頃、体調を崩してしまいました。O157を疑ったりまでしたのですが、ただの腸炎で、ようやく完治しました。皆様もどうか気を付けて下さい。