〔いたつきてゆめみなやみし〕
いたつきてゆめみなやみし
(冬なりき) 誰ともしらず、
そのかみの高麗の軍楽、
うち鼓して過ぎれるありき。
その線の工事了りて、
あるものはみちにさらばひ、
あるものは火をはなつてふ、
かくてまた冬はきたりぬ。
※語注
いたつきて=賢治その人と思われる話者が、晩年の病床にあった時の経験として書かれている。
高麗=918年〜1392年まで朝鮮半島にあった国名。ただここでこの言葉が用いられるのは字数の関係で、朝鮮のことを指していると考えられる。
軍楽=朝鮮半島では豊作を祈るために楽隊が編成され、農楽あるいは農楽軍と称された。
うち鼓して=いわゆる「朝鮮飴売り」の行商人が客寄せのために太鼓を打ち鳴らしして歩く様。
その線の工事=賢治が病臥していた昭和初年、岩手県下では大船渡線、山田線、花輪線などの鉄道(区間)工事相次ぎ、「その線」が具体的にどこを指しているかの特定はしにくい。
あるものは……=区間工事が終了したために解雇された朝鮮人労働者の陥った境遇については、『岩手日報』などで報道されることがままあった。
「装景手記ノート」に記された口語詩「朝鮮鼓して過ぐ」を文語詩化したもので、下書稿一、その裏面にある下書稿二、定稿の三種が現存しており、生前発表はされていない。
文語詩五十篇の冒頭におかれているせいか論者の言及は、文語詩としては例外的に多く、『小沢俊郎宮沢賢治論集3 文語詩研究』に収録された「太鼓のリズム」(『賢治研究』昭和・6)をはじめ、奥田弘の「宮沢賢治周辺資料(十)」(『銅線』昭和60・10)、青山和憲の「文語詩〔いたつきてゆめみなやみし〕の改稿過程 宮澤賢治の表現及び主題意識の変化について」(『言文』昭和61・12)、尹明老の「宮沢賢治における朝鮮人像」 (『実践国文学』平成7・3)などがある。
宮沢清六は「賢治の世界」(『兄のトランク』ちくま文庫・平成2)でこう書いてもいる。
亡くなる半年ぐらい前ですが、私は側におりました。粉雪がちらちら降ったり、陽がきれいにさしたり、ひじょうに寒い日でした。その時、遠くの方から不思議な太鼓音が聞こえてきたのでした。
ドンガドンガ ドンガドンガ
ドンガラドンガラ ドンガラドンガラ
というように−。それはずうっと続いて聞えてきて、表の道路を通りすぎて行きました。
『宮沢賢治研究(十字屋書店・昭和14)』所収の「思ひ出」では、太鼓の音を「どんが とんが どんが とんが / どんがら どんがら どんがら どんがら」と書いており、「ど」と「と」の書き分けによって音の高低を書き分けていたようである。また太鼓の音と言えば、「dah-dah-dah−dah−dah−sko-dah−dah]の[原体剣舞連」も思い出されるが、宮沢清六氏による同詩の独特な朗読(『現代詩集3 宮沢賢治集(有信堂マスプレス・昭和35)』」を聞いても、この兄弟が単調に思える太鼓のリズムにさまざまなものを聞き取っていたことが窺える。さて、病床の賢治はこの太鼓の音に何を感じたのであろう。
この作品群の第一形態である「鮮人鼓して過ぐ」は次の通りである。
肺炎になってから十日の間
わたくしは昼もほとんど恍惚とねむってゐた
さめては息もつきあえず
わづかにからだをうごかすこともできなかったが
つかれきったねむりのなかでは
まっしろに雪をかぶった
巨きな山の岨みちを
黄いろな三角の旗や
鳥の毛をつけた槍をもって
一列の軍隊がやってくる
内容だけを見ると「鮮人の太鼓の音」はどこでも現われておらず、病床の幻想を描いた作品だということになる。しかし清六氏の文章を併せて考えれば、今までに聞いたこともない不思議なものでありながら、正確な太鼓のリズムが賢治に「朝鮮飴売り」の姿を彷彿とさせたことがわかる。文語詩に改稿されると「そのリズムいとたゞしくて/なやみをもやゝにわすれき(下書稿一)と、太鼓のリズムに癒しの効果まであったことがわかってくる。
しかし下手稿一には新しいテーマが挿入されている。すなわち
わが病いまし怠り
許されて新紙をとれば
かの線の工事了りて
あるものはみちにさらばひ
あるものは火をはなつてふ
いづちにかなれの去りけん
である。鉄道の区間工事が終了すると、朝鮮人労働者達は一斉に解雇され、彼等が苦境に立たされたことが書き加えられ、「われ」はかっての「鼓者」の身の上を案じる、という構造になっている。つまり病床の「わたくし」の想いだけを描いていた作品に、「なれ」という人物とその社会的背景が書き加えられ重層的な作品に変化しているのである。
さらに下書稿二になると、「鮮人鼓して過ぐ」や下手稿一にあった正確な太鼓のリズムが病床を忘れさせた、という私的モチーフが表面上消え、「われ」「なれ」という人称代名詞も消えている。この改稿過程について青山和憲氏は「人称の消失、季節感を担う語の抽象化と役割の変化、モチーフとして取り上げられた体験・伝聞相互の関連の希薄化」とし、「世界は限りなく大きく、その意志は測り知れず、その有無さえ窺い難い。人はその自然に生かされ、滅ばされるが、その過程における喜びや苦渋の意味もまた定かではない」とまとめている。
なるほど青山氏の言うことにはかなりの説得力がある。しかし柳原昌悦に宛てた最後の書簡(昭和8年9月11日)には「咳のないときはとにかく人並みに机に座って切れ切れながら七八時間は何かしてゐられるやうになりました。あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来そうもありませんがそれに代わることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります」と書いている。文語詩稿五十篇・一百篇の清書を終えたのが、それぞれ昭和8年の8月15日・22日であるから、ここで「やっきとなって」書いているとされているものが、「なっても駄目でも、これがあるもや(宮沢クニの証言)」と語ったと言われる文語詩稿であるにはほぼ間違いない。大自然の中で翻弄される人間の営みを一種の諦観から描くだけのものが、羅須地人協会などの活動に代わりうるものだった、というのではあまりに消極的すぎないだろうか。この作品が文語詩定稿群の冒頭に位置することから考えてももっと積極的なものがあったと考えるべきではないだろうか。
定稿では「いづちにか ひとは去りけん(下書稿二)」が「かくてまた冬はきたりぬ」に改稿されることによって、「鼓者」その人に焦点が定まらないようになっている。焦点は太鼓の音を聞いた「冬」の方にいっているのである。では賢治にとってこの 「冬」とはどのようなものであったのか。言うまでもなく「いたつきてゆめみなや」んでいた「冬」であり、また失意のどん底に病臥する「冬」でもあった。しかし病床の彼をはっとさせる太鼓のリズムに出会った「冬」でもあったのである。
朝鮮人労働者の置かれていた状況が過酷であったことは、小沢俊郎の紹介する 慶植『朝鮮人強制連行の記録(未来社・昭和40)』などに明らかであり、賢治も「新紙」を読むまでもなく、うすうす知っていたのではないだろうか。そうした状況にありながら「鮮人」の叩く正確な太鼓のリズムは、「そのリズムいとたゞしくて/なやみをもやゝにわすれき」という状態にさせた。失意の底にあった賢治は、果たしてこのリズムによって我が身を反省させられ、また勇気づけられたのではなかったろうか。逆境にありながら正しくリズムを刻むこと、それは病床にありながら正しいリズム、すなわち文語型詩の五七調のリズムに言葉を精練させていく宮沢賢治その人がだぶってイメージされてこないだろうか。
賢治が初めて文語詩を載せたのは『女性岩手 創刊号(昭和7・8)』であったが、第2号(昭和7・9)には「花巻町 T子」なる人の
宮沢賢治先生が多分病床からの御寄稿と思いますが、「民間薬」「選挙」の二篇、まことに先生の長詩の大成を思はせるものがあります。はじめて発表された「春と修羅」時代には、私共いかにその一々を繰りかへしても、先生の作意と情緒とをつかむことが出来ないで、たゞその中の「無声働突」や「獅子踊」に琴線の響を感じ得たにすぎませんでしたが、その後十年、すっかり洗練され切ったこの二篇を口誦して見るとき、この田園詩の物語る世界が、空間に再現されるばかりでなく、其の発声さえもがはつきりきゝ取れる感じがいたします。一二誤植と思われるふしも見えますが、若しあのまゝでいゝのなれば、また百回の吟誦をくりかへして見ませう。
という好意的な批評が載り、賢治を喜ばせたという。心象スケッチにはなかったもの、すなわち文肯定型詩のたしかなリズムを「口誦して見る」ことによって「何か」が現前したのである。
或る冬の日、宮沢家の前を行き過ぎた太鼓のリズムに、賢治はその面影を「空間に再現」し、「たいした人」であると清六氏に語ったという。その時賢治は自らも、我が身の苦境に屈することなく正確なリズムを刻んでは人に勇気を与えることのできるような「たいした人」になりたいと思わなかっただろうか。
『文語詩五十篇』の冒頭に、「リズムの正しさ」を称える詩篇の載っているのは、決して偶然ではないだろう。逆境の中から、力強いリズムを発信しつづけることこそ、晩年の賢治が「それ(農村改革運動)に代ること」として、「毎日やっきとなって」取り組んだ文語詩稿の制作だったと考えられるからである。