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日記をつけ始めて、ほぼ1ヶ月になる。振り返って、何か靴の上から足を掻く ような、あと一歩の物足りなさがあり、それは何かと考えてみれば、答えは簡単。 一番書きたいことを書いていなかったからだった。昨日の日記を休んで考え、今 腰を据えてパソコンに向っている。たかが日記だが、これは卵が好きという話と は少し方向が違う。実在の、現在活躍している人のことを書くのだから、冗談抜き で書きたい。
結論から先に言えば、藤原竜也の真価は「次への期待」である。明日の芝居への、 次の作品への、これからの演劇界への希望と期待を託すことが出来る存在だと いうことだ。久し振りに蜷川氏の手を離れ、「エレファント・マン」を演ずると聞いた 時は心の中で快哉を叫んだが、予想に反して周囲の反応は鈍かった。「エレファ ント・マン」という作品に対する無知もあったが、多くの人が望んでいたのは、「も っと楽しい作品」に出て欲しいというものだった。「もっと楽しい作品」とは何か? 巷には楽しげな作品の方がずっと多いが、私のように、「考えること」が楽しい人間 には、逆に退屈である。近頃人間はあまりものを考えない。簡単に答えを出してくれ るものや、ただ気持ちのよいものに流れてゆく。もちろん、それが悪いと言っている わけではない。しかし、そればかりになっては困る。 誤解しないで欲しいのだが、私が言ってるのは「わかる人だけがわかれば良い。た とえ客が少なくても」という恐ろしい自己満足な世界ではない。もっと一歩すすんで、 地味な作品や、多少難しくてもしっかりしたテーマを持った作品を選択し、そういう 作品に彼の力で客を呼んで欲しいと思うのだ。演劇は文化である。歌舞伎に始まる 古典から個性的な小劇団の作品まで、あらゆるジャンルのものが揃ってこその演劇 であって、だからこそ、じっくり考えさせられる正統派の作品を消していってはいけ ない。彼はそれを発展させていく才能を持ち、使命も帯びている選ばれた人なのだ。 「エレファント・マン」には学校からの鑑賞会で訪れた高校生達も来ていた。大丈夫 かな?という周囲の不安をよそに、彼らは実に真剣に見ていたという。そして、その 中の一人(男子)がどこかに投稿していた、「ちょっと難しかったけど、なんかズンと 来た」。これでいいのだ。これが狙いである。このズンと来たものが何であるかを いつか彼が自分で確かめてくれれば良い。教育関係者は学生にもっと芝居を見せ るべきだ。確かに高いけどね。
デビュー以来藤原竜也が挑んで来たのは、ひたすら内省的な、我が心の内底を覗 き見る、正面からそれと対峙するというような役柄ばかりである。現在の若者が一番 苦手とするところだ。幸か不幸か最初に蜷川幸雄という天才に出会ってしまった彼 は、おそらく自分の気持ちもわからないままに、恩師の後をひたすら追って来たに 違いない。が、ここに来て、それが肉体的には彼を苦しめるものであっても、役者と しての魂は決してそれを苦痛だとは思っていないらしいということに、気付き始めた ようだ。喜んでいるファンも多いと思う。 彼は蜷川氏に育てられたが、蜷川の人形ではない。今日まで逃げずに難役中の難 役を引き受けて来たのは、彼の中にちゃんとそういう才能の芽があったということだ。 蜷川氏はそれを引き出したにすぎない。 演劇ブックと言う雑誌で「生まれ変わっても役者をやるか?」の問いに、「わからない が、やっていると思う」と答えたのがすべてだと思う。
「もっともっと難しい役を与えてやるぅ..」と蜷川氏は言って笑っていたが、蜷川氏で なくとも、そう思っている演出家は少なくないと思う。台詞覚えが抜群に良いとか、 声がいいとか、表現力が豊かだとか、そういう評価はもちろん素晴らしいが、何より 彼の武器は、「他に何も考えない」ということだ。芝居をやっている間はそれしか頭 にない。一極集中型。変に小器用にならず(なれないと思うが)、楽な道に走らず (若い時の苦労は買ってでもせよ)、一作一作悩みまくって、成長していってほしい。 いずれは彼で「ハムレット」を見たいと思う。
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