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  • 弥仙山のたけくらべ(伝承の旅)


    於与岐町大又の弥仙山へ登るとき、なぜ石ころを持って登るのだろうか?
    弥仙山の美しい姿は、村の自慢の一つである。5月8日(現在は5月3日)
    の祭りには、村の人々がその年の豊作と家族の健康を祈願する。
     その弥仙山の北方に、どっしりとした周りの山々をおさえつけるような
    力の強そうな山がある。舞鶴市と福井県高浜町にまたがる「青葉山」で、姿が
    富士山に似ているといって、若狭富士と呼ばれ、この山も信仰の山として知られている。

     弥仙山は、青葉山よりも低く、朝日は青葉山のほうが早くあたるし、夕日も弥仙山よ
    りも長く青葉山の山頂に残っていて、いくら背伸びをしても弥仙山のほうが低い。
     弥仙山の神さまにとっては、これがしゃくだった。そこで毎年お参りする村の人たちに
    頼むことにした。
     数日後、山の神さまは村人の一人「太郎兵衛」のまくら元に立ち、
    「これからは村の人たちが山へ登るたびに小石を持ってきてくれぬだろうか。」と頼んだ。
      太郎兵衛は、さっそく村の人たちと相談し、「これからは村の人たちが山へ登るた
    びに小石を持って行こう 自分の年の数だけ風呂敷に包んで背負っていけば、いつか
    は青葉山より高くなるわい」と、春夏秋冬の4回、石を持ってお参りすることを
    申し合わせた。
    「郷土誌東八田」弟26章「言い伝え」より
    大きな石もある弥仙山の山頂です。  よっちゃん撮影

     いま弥仙山の山頂には大きな石、小さな石がうず高く積み上げられています

    調べてみると弥仙山は664メートル。青葉山は699メートルで、弥仙山が35メートルも低いのです。
    弥仙山は頑張っています。
    青葉山より高くなるのでしょうか?
    金峰神社の由来  所在地 於與岐オナル八十九番地ノ一
    1、祭神  木花咲哉姫尊  金峰山蔵王大権現と称す
    1、祭日  5月3日
    1、氏子地域戸数  於與岐村150余戸

    (1)由緒沿革
    当社は人皇24代仁賢天皇の御世に、村民合議して、地神4代彦火火出見尊の母木花咲哉姫尊を鎮奉し、 その後400年を経て両部山と称していた。
    その後人皇62代村上天皇の御世天暦元年(947)に至り役の行者祭祀弥仙山蔵王大権現を尊崇し、 その守護の為上杉小字施福寺の施福寺を当てた。東照寺、西照寺、於久保寺、於成寺、喉取寺、高屋寺等典山脈に 建列し、これを称して七堂伽藍と言い、依って本殿維持の十八社の堂宇があり、一町上り右側に不動ノ滝が あり、半ば上がる所の峰を釈迦如来峰と言い、山入本道は古跡となっている。

    (2)伝説と由来
    弥仙山は標高664米で郡内第一の高峰で、高山植物が密集し、丹波富士として丹波国の霊山として有名である。 丹波の三山と呼ばれ、往昔霊山の主はその高さを互いに競い給う、という伝説から青葉山、由良岳、弥仙山の 高さを若狭、丹後、丹波の国の石で頂上を高くするから、この悲願を是非叶えしめ給えと立願した老若男女の 積み上げた石が現在もそのまま残っている。
    弥仙山の開山は文武天皇大宝年間(700~703)ともいわれ、僧の行基菩薩が入山し金峰神社を奥の院として、 蜂覆坊堂寺などの七属坊の古跡があり、殊に東西両寺の七堂伽藍は行基菩薩が開基で、空也上人が再建したのである。 頂上の奥の院金峰山には、釈迦、文殊、普賢の三尊を奉安し、金峰山大権現と尊称して女人禁制であった。
    丹波方面から入山するには山家村の字山入とあるは、弥仙山の山入りのことである。 また東照寺・西照寺の仁王門は綾部の味方にあったので、今でも仁王田といっている。 その他道筋に古跡のあるのをみるが当時如何に隆盛であったかを知ることができる。 その後戦国時代にはいって、明智光秀が丹波の国を攻略した時、僧徒達はその命に服さなかった。
    その為光秀は怒って、ついに社殿各宿坊をことごとく焼き払ったのであった。一時は廃山の姿となった。
    慶長17年(1612)相談して、石の唐戸で仮祭祀し宝永5年(1708)現在の所に神殿を奉祀し、その後屋根を銅葺とした。
    明治5年の神仏混肴を制止せられたので、当初の守護神木花咲邪命に復祭して、大正九年認可を得て講社を造り、 祭日を五月八日とした。
    その後、大本教の出口直子刀自がこの霊域に参籠して霊感を受けた。 出口直子は霊感により教義を体得したとのことで、信徒の尊信篤きものがある。また本社の復興には大本教主の力が 大であった。役の小角が入修業した伝承がある。
    明治末年までは斧鋸を知らぬ原始林で、村人は神罰を恐れて椎茸・蕨などの天然産物を目前に見ても、 敢て採る者はなく、霊山一帯を神域として尊厳し、その境界線をさへ明確にする者は無い位であったが、 社殿の修復も頻々と繰り返され、森林資源の開発から林相も更新していった。

    (3)沿革
    1、天正年間(947)から弘化(1847)年間までは村内のものが役行者を鎮奉し、其の信徒者は一年交代に社務を 司どっていたが、明治になつて字安国寺の上田藤助が社務を司り、25年頃より大字於與岐相根九兵衛が後任 となっていた。(その後任相根金次)
    2、建物建築年代 弘化4年(1847)再建、本殿銅屋根葺、梁二間桁行一間半。
    3、境内地    官有地 第一種61坪
    4、山岳     地形は境内の中央より次第に低い。
    5、基本財産   建物を永続維持の為、村内協議の上各等差により、出し合いしてこれを維持し、当時 内金七円であった。この成立は字見内 瀧花丑太郎、相根久左衛門の二代の寄付で蓄積した。
    以上は明治25年古書による、神職相根九兵衛の記録を中心に三十一年頃口伝によったものである。

    「郷土誌東八田」 第17章 東八田地区小宮から 
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