なべちゃん様よりご投稿頂いた資料を転記
当社は、社伝によると和銅三年に九州宇佐八幡宮より分霊を勧請し、於与岐の 入口、一ノ瀬に鎮座、もとは味方村以北七ケ村の総社であったが、天文十九年 (1550)の大洪水で社殿等悉く流出、また嘉吉年中にも火災で焼失、正徳 五年(1715)に現在地に再建され、以後、於与岐村の氏神になったと。 本殿は、京都府下では例のない六間社流造の建物で、平面で見ると中央に柱が たつので、三間社を二つ並べた形とも見られる。 身舎・向拝の蟇股は足元が大きくふくらみ、松、菊、牡丹などの彫刻を入れ、 向拝部にも唐獅子牡丹の欄間彫刻をはめ込んでいる。 大工棟梁は、若狭大飯郡日置村一ノ瀬作太夫で、彫物師は桑田郡余野村一ノ 瀬弧一之助である。 当社に伝わる祭礼芸能は、氏子の株組織と密着して宮座の形式をとって伝承 されてきたもので、獅子舞、鼻高および田楽から構成される。獅子舞は二人 立ちで伎楽系のもの、鼻高は天狗の面を着け、鈴の着いた木鉾を持って舞う 王舞、田楽はビンササラ1、太鼓3の編成で、御輿の御旅を囃しながら先導する。 いずれも風化が著しいが、王舞・獅子舞・田楽をセットとするこの祭礼芸能は、 鎌倉時代に京都を中心に盛行したその形を伝えていて貴重であり、無形民俗 文化財に指定されている。 |