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  • 八幡宮の由来
    =綾部市於与岐町=


    於与岐八幡宮本殿
    於与岐八幡宮本殿

    滝花様より頂いた資料を転記
    八幡宮のゆらい

    神社名 八幡宮 所在地 綾部市於與岐町田和28番地
    祭神 八幡大菩薩 応神天皇(誉田別命)配祀 武内宿禰
    (一)沿革 創立年代 古文書記録無きも元明天皇の御宇、和銅三年(710)九州宇佐
    八幡宮より分霊を拝受し、当村一ノ瀬の里に鎮座す、と伝えられている。
    当時何鹿郡味方村以北の七ヶ村に、産土神として創立し、その氏子の跡と
    して、第一鳥居が味方村にあり、第二の鳥居が淵垣村に跡があり、第三の
    鳥居の跡が上杉鳥居野に残り、例祭には於與岐八幡宮より御輿の渡行祭礼
    があった。
     天文十九年(1550)大風雨洪水が起こり、神輿は破壊流失した。
    これから七ヶ村は分離して於與岐一村の産土神として尊崇し、一ノ瀬より
    現在の田和に鎮座し正徳五年(1715)に再建した神殿である。
     氏子地域戸数 於與岐村一村  150戸  (現在110戸余り)
     社殿 一間半に縦五間八尺、六社作りで別に薬師堂があり、社地凡そに
     二町四方といわれている。
     宝物 境内の薬師堂に仏像本尊薬師如来、多聞天、持国天の三体を祭っ
     ている。
     祭日 夏祭り七月十五日 大祭十月十五日 (現在十月十日)
    (二)八幡宮祭典と由緒
    和銅三年当村に武内宿禰の子孫に当たる吉田七郎兵衛という者が発起して、
    上野甚左衛門と言うもの者を従え豊前国宇佐神社に参りその分霊を拝受し
    て、当村の一ノ瀬に祀ったのが創始である。 其の時藺莚(ムシロ)を敷き、
    御霊を安置したて奉った者を、庭雀と称して、現在の吉崎株に伝わっている。
    御饌(オセンマイ)を炊き奉った者を、御饌炊と称して坂田の株に伝わり、初
    めて神輿を担いだ者を駕與丁と称して十二株に伝わっている。又龍頭を冠り
    (現在獅子頭を用いる)大神の御前で舞踏した者を龍役と称して頭持役は吉崎
    株に伝わり、尾持役は吉田、坂田の二株に伝わっている。又鼻高の面を冠っ
    て御前で舞踏した者を鼻長役と称して吉田の二株に伝わり、また奉行役は古
    小袴と称して相根、吉崎両吉田の四株に伝わっている。その当時氏子は何鹿
    郡味方村、以北下八田村、淵垣村、中村、安国寺梅迫村、上杉村、於與岐村
    の七ヶ村であったが何時しか分離して於與岐村一村となった。
    年代は審らかでないが中村と淵垣村及び上杉の門村に鎮座している八幡宮は
    当村の御分霊であると口碑に伝わっている。鼻高の面は何時しか盗難に会い、
    現在は複製された物である。一の鳥居は大字味方小字道の越にあった。
    二の鳥居は大字淵垣に、三の鳥居は大字上杉小字鳥居野に各古跡があって、
    於與岐八幡宮の鳥居場と称し、社殿鳥居等が残っていた。
    例年陰暦七月晦日午後11時頃於與岐八幡宮より、社掌鼻高の面を冠り注連を
    持って行き、其殿に引き渡した。また鳥居野は往古淵垣村二ノ宮より、例祭八
    月十五日本社は神輿渡御の時ご休憩の地であったから、今も小字を鳥居野と言
    い伝えている。
    人皇百二代後花園天皇の嘉吉年間(1441)に、神殿火災に遭ったが幸いに神霊は
    無事であった。このとき清和の源氏末裔、吉田義継という者を、山家村より迎え
    て吉田七郎兵衛の養子とした。義継に、当村の中央田和という所の好地で元馬場
    の奥という所に仮殿を設けて遷座し奉った。しかし未だ仮殿であるため、改めて
    社殿の建立を審議し、直ちに工を起こし二年を経て竣工しここに鎮座奉って今日
    になる。よって嘉吉年間より維新に至るまで、禰宜と称する者二名が神を司って
    いたが、明治に至り村社の号を賜り、上田藤助社掌となり明治二十五年より相根九
    兵ヱ後任となった。後相根九左衛門、吉田宗太郎次に相根金次が継ぎ、現在は稲葉
    達夫が宮司を勤めている。尚、谷領主は常に当八幡宮に信仰厚く、毎年八幡料とし
    て神饌を供え、田辺を寄付した。
    古文書によれば、もとの社一ノ瀬は天文十九年(1550)吉田弥助に渡した証書が残
    っている。現存する一の瀬旧祀所としてある祠は、御旅所の小社の装置を鳥居野か
    ら移築したものである。上杉トリノ祭主、吉田利兵衛と書いた物が残っている。
    盗難に会った鼻高面の代替えとして新しく製作して、祭礼に使用している。
    (三)八幡宮の渡行祭礼
    八幡宮が於與岐の一ノ瀬に鎮座してから、毎年八月十五日の例祭のときの渡行列を
    描いたものを八幡宮の古文書の宝物として保管されているもので、その当時の華や
    かさを見ることが出来る。明治二十五年古書取調べにより提出したものを明治三十
    一年神職相根九兵衛が謹録したものである。
    (四)文化財登録
    1、八幡宮本殿の建造物。昭和六十年五月15日京都府より有形文化財として登録
      された。六間社流造、銅板葺 棟札二枚 元禄十五年、正徳五年の記のある。
    2、於與岐八幡宮祭礼保存会。 昭和五十九年四月十四日京都府より無形民族文化
      財として八幡宮の祭礼芸能は登録された。
    (五)造営記念碑。
    昭和八年十二月二十五日八幡宮拝殿を造営し境内に記念碑を設けた。
    造営は本殿の修築と同時に弊殿、神饌殿、社務所であった。
    翌年十年十月十五日落成した、これらの記念碑の碑文を本村出身東京市在住白井八
    百蔵に依頼したものである。
    境内に祀る支社は八社ある。
    大神宮社 (祭神 大日霊命) 三柱神社(祭神 宇津彦命)
    一宮神社 (祭神 伊邪那美命) 二宮神社 (祭神 大己貴命)
    稲荷神社 (祭神 供食命) 春日神社(祭神 天児屋根命)
    聖神社(祭神 聖命)日吉神社 (祭神 大山命)
    (六)薬師如来堂と仏像。
    八幡宮境内に薬師如来堂があって、堂内に本尊薬師如来を祀り脇仏として右側に
    多聞天、左側に持国天を祀り、八幡宮では宝物としている。堂及び仏像についての
    由緒は詳らかでないが、八幡宮が此処へ鎮座される前に、下村で祀っていたものの
    ようで、下村にあった栖龍寺が管理していた。本尊薬師如来は古く寛正四年(1463)
    のものと伝えられている。本尊薬師如来像は、像高55、5センチであり彫眼であり、
    螺髪も彫り出している。相好の豊満な感じと胸の肉どりの豊かさ衣文の彫りの翻波式
    を用いる点など平安初期的な様式を残している。しかしそれらが、極めて形式化して
    いて、鎌倉末から室町期に平安初期の古仏を模刻した地方的作品とおもわれる。
    (郷土誌東八田による。)

    04/10/11 よっちゃん 撮影
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