月に狂う




 あの夜のことは、生涯最も忌まわしい記憶として、あたしの心を蝕んでいる。
 人を喰らい村を滅ぼす「人狼」が、年中雨のそぼ降るこの村に流れてきたらしい、との噂を聞きつけ、ヴァルター村長が緊急集会を開いた日のことだ。いつもは笑顔で挨拶を交わす村のみんなも、一様に緊張した面持ちで、レジーナさんの宿屋に集まっている。
 一通りの注意喚起を済ませ、夜更けに散会となった後、一人で羊たちの待つ小屋に向かっている途中、雨の切れ間にあまりにも綺麗な月が出ていて驚いた。いつもなら薄雲に覆われている夜空に、怖いほどの大きさと明るさを湛えた、真円の月。
 ぷつり。
 あたしの心に、針の穴ほどの小さな穴が開いた。
 奥底に潜む深紅が、あっという間にあたしの中に溢れる。突き上げる衝動。海老反りになった体が、やけに大きな鼓動と共に跳ね上がる。
 ――喰ラエ
 ――皆ヲ喰ラエ
 ――人ヲ、喰ラエ
 耳を塞いでも、それは頭の中から響いてきた。
 まさか……。
 これが……人狼?
 あたしが……選ばれたというの?

 幸いなのか災いなのか、昼間は普通の「人間」として振舞うことが許されているようだ。次の日の朝、ジムゾン神父が「人狼が現れたと、神からのお告げがありました」と辛そうな表情を見せた。
 今すぐにでも、あたしが人狼よ! みんな、あたしを殺して! と叫びたかった。でも、こんな体に成り果てても、やっぱりあたしは死ぬのが怖かった。あのひとに想いを伝えないままに逝ってしまうのが、心残りでもあった。

 かつてふらりとこの村に立ち寄った旅人は雨が好きで、しばらく滞在するらしい、との噂を聞いた。時折宿屋に出向くあたしを相手に、旅先の色んなお話を聞かせてくれた。生まれてから一度も村を出たことのないあたしにとって、世界中を巡っているニコラスさんの冒険譚は、何よりもあたしをわくわくさせてくれた。
(……いつか、あたしも旅に出てみたいな)
 そして隣にニコラスさんがいてくれたら、どんなにか……そんな思いが芽生えたのも、ちょうど人狼騒ぎが起こる少し前だった。

 人狼は、お互いが声を発しなくても言葉を伝えることができるらしい。テレパシーというやつだ。おかげであと二人、村人に紛れ込んだ人狼の会話がどんどん流れ込んでくる。いつも眠そうで、でも明るいお兄さんだったゲルトさんが喰い殺され、村人全員が疑心暗鬼と殺気に満ち溢れた。怪しい奴は地下牢に閉じ込めてしまえ! と、半ばヒステリーのような状況に陥り、混乱と混沌に支配されようとしている村人の中で、あたしと二人の人狼はそれでも冷静だった。
 今思うと、その時にはもう既に、心は血の色に染められていたのだろうと思う。
 そして「今夜ハ『ニコラス』ヲ喰オウ」と決められた時、迷わずあたしはこう答えた。
「お願い、あたし一人にやらせて」と。

 霧のような雨が、夜の村を覆い尽くしている。
 家々を見渡せる丘の上、帽子のつばの先に雫を溜め、彼は一人佇んでいた。
 後ろから近づいたせいか、身を強張らせて振り返るニコラスさん。わずかな月明かりを頼りにあたしの顔を確認すると、ほっとした表情で手にした弓矢を下ろした。
「……ニコラスさん、それは?」
「ああ、昔旅先の狩人に、狩猟を教わったことがあってね。足しになるかはわからないけど、ないよりはましだろう?」
 そういって、ふわりと笑ってくれた。
 あたしは知っている。ニコラスさんは、昨日この弓で人狼の一人を射た。家系に伝わる古い血が授けたという占いの能力を得たペーターくんを、護った。だからこそこうして、どの家に怪しい影が忍び込もうとしても見逃さない、小高い丘に陣取っているのだと。
 きりり、と矢を引き絞る彼の横顔は、本当に素敵。
 あたしは杖を落とし、彼を背中から抱き締めた。
「……怖い、のか?」
 フードの上から、そっと髪を撫でてくれた。涙が、頬を伝った。
 ……お願い、優しくしないで。
 ……あたしは、あたしは…っ…!
 弓を放し、そっとあたしの背中に手を回すニコラスさん。向かい合わせになると、目の前に、彼の綺麗な瞳がある。
 その瞳に映りこむ、あたしの深紅の瞳。
 彼の指先が、昨夜肩口につけられた傷跡を探り当てた。
 驚きと恐怖に見開かれる、彼の目。
 悲鳴を挙げようと開かれた口に、素早くキスをする。
 死に至る接吻。
 あたしと彼の、最初で最後の口づけ。
 彼の唇が、あたしの忌まわしい牙を撫でた。

 翌日、ヴァルターさんが新たな犠牲者を発見するより早く、宿屋のいつもの会議場でペーターくんが泣きながらあたしを指差した。
「……カタリナお姉ちゃんは、人狼……だよ」しゃくり上げながら、それでもきっぱりとそう告げた。
 みんな、驚いた表情を隠そうともしない。一昨日お泊まりに来たパメラさんとリーザちゃんは、口を押さえたまま凍りついたように動かない。
 黙ってうなだれるあたしの姿が、何よりの肯定。
 ……これでいい。これで、楽になれる。
 ぽつり、と涙が床を濡らした。

 以前は不気味なだけだった教会の地下牢の空気が、燃えつくようにあたしの体中を蝕む。四方の壁一面に彫られた聖紋のせいらしい。
 駄目だ。
 贖罪には、まだ足りない。
 無実の村人を喰らい貪る存在のあたしには、この程度の苦しみでは足りなさ過ぎる。
 紋に直接手を当てると、じゅうっという嫌な音と共に煙が吹き上がった。思わず挙がる、あたしの声でないようなおぞましい悲鳴。

 どうして、こんなことになっちゃったんだろう?
 あたしは、ただ普通の女の子として生きていければ、それで満足だったのに。
 好きな人のために美味しいご飯を作ったり、得意のお菓子を食べてもらったり、一晩中楽しくお喋りしたり。
 ただ、それだけで……よかったのに。

 床に倒れ、荒い息で天井を見上げながら、呟く。
 神様。
 魔物に成り下がってしまったあたしの願いを、もし聞き遂げてくださるのなら、
 どうか、生まれ変わる時は、

 ――ただの人間として、

 ――あの人の……そばに……。


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