*このページは、ウィンドウを最大化すると読みやすくなります。
4
「四限目の講義が終わるまでに、説明を終わらせたほうがいいですよね」
書類の挟まったファイルをとんとんと揃えながら、綾乃さんは話し始めた。
「今日中に理沙ちゃんに知らせたいので、できれば……」
「では、早速。
まず、犯人が羽野さんの腹部を切り裂かなければならなかった理由から考えてみましょう。これがわかれば、自ずと犯人も明らかになります」
「それは僕もそう思ったんですが、どうしても犯人を絞り込むような理由が思い付かなかったんですよ。
考えていたのは、羽野さんが殺される直前に、部屋の鍵をかけてそれを飲み込んでしまったんじゃないかって。そうすれば、犯人は羽野さんの胃の中から鍵を取り出さない限り、犯行現場から立ち去ることはできないわけですからね」
自分の推理を改めて口にしてみると、一人でうんうん唸っている時よりも頭がスムーズに回転し始めた。
「そうか……。だったら、使われた形跡がない机にあった鍵は、スペアの可能性が高い。もし予備の鍵があることがわかっていれば、わざわざ死体から鍵を取り出す必要はないんですよね。となると、円君は除外される。血が苦手な平谷にしても、先にスペアを探そうとするのは当然だから……」
残ったのは、中町望しかいない!
この閃きには自信があったのだが、綾乃さんはゆっくりと首を横に振った。
「それは有り得ません。被害者は後頭部から一撃されたんですよね。ということは、かなり油断しているところを襲われたか、逃げ回って背中を向けている時に殴られたかのどちらかということになります。いずれにしても、ドアに鍵をかけている機会はありませんし、後者ならさっさと部屋から出てしまえばいいことです」
「え、でも、身の危険を感じて、あらかじめそうしておいた可能性も……」
「それもありません。そもそも羽野さんは、鍵に触れることすら嫌がっていたはずです」
「どうしてです?」
ほっと息をついて、言葉を継ぐ綾乃さん。
「だって、彼は金属アレルギーだったんですから」
フォークとナイフであるべきところに箸、時計もつけず、ジッポライターを持っていてもおかしくないのにマッチ、そしてドアノブに触れる時に見せた、奇妙な行動……。絶対、とは言い切れないが、確かにそうかもしれないと思わせる一言だった。
「だから、事前に鍵を飲み込むなんて不可能なんですよ。そんなことをしようものなら、咳やくしゃみが止まらなくなったはずです」
「なるほど……。あ、でも、今みたいなミスリードをさせようとした人間がいるかもしれませんよ」
「もし、中町さんが羽野さんの体質を知らなかったとしたら、それも考えられたでしょうね」
「え?」
子供にものを言い含める親のように、目が点になった僕に話し掛ける綾乃さん。
「『羽野さんが鍵を飲み込んだので、それを取り出すために胃を切開した』という誤誘導の理論は、『スペアキーの存在と、羽野さんの体質を知らない人間』の存在があってこそ成り立つのです。
助手である丸岡さんが、予備の鍵の存在を知らないはずはないですね。また、中町さんは羽野さんのアレルギー体質をご存知のはずです」
「何でそんなことが……?」
「食事の後、羽野さんが手帳に書き物をしようとした時がありましたね。その時のことをよく思い出して下さい。
中町さんは、胸ポケットに何本も高級そうなメタル製のペンを差していたのに、安物のプラスチック軸のボールペンを差し出していますよね。普通、目上の人に対しては、安っぽいペンを差し出すようなことは考えにくいのではありませんか?」
「……確かにそうですね。僕でもそういう場面があれば、高いほうのペンを出すと思います」
「更に丸岡さんは、トレーナーにメタル製のボールペンを差していますよね。にも関わらず、書き物の際には中町さんと同じようにどこからかプラスチック製のボールペンを探してきています。このことから、丸岡さん、中町さんは、お互いがそれぞれ羽野さんのアレルギー体質を知っている、ということを確信しているはずですね。従って、丸岡さんが中町さんを陥れようとして、先程の誤誘導の理論を展開しようとした、という推論は否定されます」
すらすらと可能性を潰していく綾乃さんの姿に、僕はもはや溜め息しか出なかった。
「とすると、切腹の真意は?」
「もちろん、犯人であることを示すあるものを隠蔽するためのカムフラージュです」
よくあるパターンではあるが、それが一体何なのかはわからない。
「格闘の最中に、鼻血でも落としたんでしょうか?」
「それなら、わざわざ他の部分から出血させなくても、頭部からのもので充分でしょう。返り血を浴びるかもしれないのに、わざわざナイフを探し出してまで負うリスクではないはずです」
それもそうか。では一体?
「予想外に強く殴り過ぎたせいで、頭蓋陥没するほど衝撃を受けたんですよね。杉原さんのお姉さんが現場を一目見た時に感じたように、犯人もまたその姿を見て吐き気をもよおしたとは考えられませんか?」
「え? あっ! そうか……」
「堪え切れずにその場に嘔吐してしまった犯人は、たとえ警察が来なくても、それ自身が自分を犯人だと示す致命的な証拠になってしまうことに気づいて、慌ててその後の凶行に及んだんですよ。そして、先程葉月さんが考えられたように、鍵を胃の中から取り出したと思わせるためにキーを綺麗に拭っておいた」
「なるほど。しかし、どうして吐物が直接犯人を示すことになるんです?」
「それはですね、他の人ならあってしかるべきものが、その人のものにはなかったからです」
? どういうことだろう。確か夕食は皆同じ物を採ったはずだが。お手伝いである円ですら。
「杉原さんの話をよく思い出して下さい。夕食の時に、血が駄目で、しかも人間の体内で消化されないものを唯一採らなかった人がいますよね?」
消化されないもの……?
「コーンですよ。サラダに入っていたとうもろこしを抜いてくれと言った人が」
僕は、あまりの盲点に「げっ」と思わず叫んでいた。
「絨毯に染み込んだ吐瀉物は、完全に拭い去ることは不可能ですし、仮にそれができたとしても、その拭き取ったタオルなりを処分する方法がありません。ご存知の通り、強烈な悪臭を放つものですから、隠し持っていることは無理ですし、見つかっては元も子もないので洗濯も駄目。もし処分が可能だったとしても、深い絨毯の毛の隙間に入り込んだコーンを一粒一粒拾い上げることはできませんから、吐き戻した形跡が発見され、なおかつあるべきはずのコーンがないとわかれば、ある人物が犯人であることが明白になってしまうんです」
「そうか……。ということは、光学社編集者の」
「そうです、平谷克さん。彼だけが、吐物を隠す必要のあった人物、即ち犯人です」
*
数日後。
サンライズ出版社の週刊誌がすっぱ抜いた『侍の死・その事件の真相』が売れに売れ、加寿美さんは無事に報奨金をゲットした。理沙ちゃんを通じて、そのおこぼ零れに預かった僕は、改めて綾乃さんのところにお礼にいくことにした。
「平谷は、観念して自供を始めました。
あの日、羽野の作品をどうしても一手に引き受けたい思いで部屋を訪れた平谷は、彼の強硬な姿勢についかっとなって、気がついたら殴り殺していたんだそうです。手や顔に付着した返り血は、ウェットティッシュで拭き取ってトイレに流したということでした。その後の行動は、まさに内倉さんの言った通りです」
相変わらず閑散とした店内に、綾乃さんと僕の声だけが響いている。
「それで、つまらないものなんですが、これ……」
小さな包みを差し出すと、驚いて胸の前で両手を振った綾乃さん、
「そんな、困ります。言ったじゃありませんか、ここで本を買って下されば……」
「いえ、ほんの気持ちです。ミステリはもちろん買わせてもらいますが、それだけじゃなんだか申し訳なくて」
数度のやり取りがあった後、ようやく綾乃さんは包みを受け取ってくれた。
「本当にすいません、お気を遣わせてしまったみたいで……」
かえって恐縮させてしまったみたいだ。中身は本当に大した物ではないんだけど。
それは、僕にこそ必要なものだったかもしれない。
知恵の神様・梟(ふくろう)のついた、可愛らしいキーホルダー。
小さな鈴が、綾乃さんの掌の中で、ちりんと音を立てた。
――了――
おまけ・ミステリクイズ公開時正解解答者
近田鳶迩(ちかだ・えんじ)さん
MAQさん
To "A la carte" To Home