POACH




「こんちわー」
 ノックに対する返事も届かないうちに、ドアが開かれた。そんな開け方ではノックの意味がないような気もするが、そこに意外な人物を見つけて些細なツッコミを引っ込めた。
「あれっ、ミントちゃんじゃないか。どうしたの?」
 廊下の窓から入る日差しを背に受けて、その女の子は、にへ、と笑った。
 我らがK大学推理小説研究会の部室(研究「会」なのに「部室」とはこれいかに)を訪ねて来たのは、それほど面識があるわけでもないが名前だけは学年中に知れ渡っているという奇特な経歴の持ち主だった。
 大体どこの大学でもあるであろう、一般教養なる役に立つのかそうでないのか曖昧な内容の講義が、ご多分に漏れず当大学にも存在する。名前に違わず、一回生必須単位に指定されているので、一応全員出席が基本だ。その一回目の講義の時、古風なことに名簿を読み上げて出席を取ろうとしたおじいさん講師が、
「では、まずは、えー…ミントさん」
 と呼んだ瞬間、それほど広くない講義室が爆笑の渦に巻き込まれてしまったのだ。
 本名は明杜と書いて「あきと」と読む。が、今や誰も本名で呼ぶはずもなく、しっかり「ミント」の愛称がまかり通っている。ご両親も何を考えたのか、それとも卓越したセンスの持ち主なのか、可愛い娘に「香織」なる名前をつけたものだから。
 まあ、学部が違うこともあり、あまり話をする機会はない。うちの部員にしたって、仲良くしているという話を聞いたこともない。ミステリに興味があって、夏間近となった今頃からでも入部希望だというなら大歓迎なのだが。
「まあ、とりあえず入ってよ」
 さして広くもない部室にミントちゃんを招き入れる。お邪魔しまーすと明るく挨拶しながら僕の前を通り過ぎた時、ほのかなハーブエッセンスの香りが鼻をくすぐった。名前を逆手にとってトレードマークにしているのかもしれない。

 他ではテーブルと椅子の組み合わせが多い中、我が部の先輩達が「部室ではくつろいで読書」をモットーにしたのか、少ない部費をこつこつ貯めて購入した絨毯のお陰で、さして広くもないこの部屋でもゆったり過ごせる空間作りに成功している。本棚と本がそれを相殺しているような気もしなくもないが、まあそれはいいとして。
 普段なら、放課後であるこの時間、何の用事がなくてもぞろぞろと少ない部員達が集まってくるはずなのだが、やれバイトだのスポーツだのと、僕を含めて五人というメンバーのうち三人がそそくさとキャンバスを後にしている。で、残る一人は「気分が乗らない」「寝るのに忙しい」というふざけた理由で、ここしばらく自主休講中だ。そんなことをのたまう奴は、僕の短い人生経験の中でもただ一人しか見たことがない。
 で、部長である僕こと山武葉月が、一人悠々と(誰ですか、悶々と、の間違いじゃないかなんて言ってる人は)部室を占拠しているところへの意外な来客、何か面白いことでも始まるのではなどというおかしな期待を胸に、ミントちゃんへ座布団を差し出した。
「ありがとっ」勢いよく正座をした拍子に、ぱふっ、というかわいらしい音がした。ライトグリーンのTシャツにホワイトジーンズという爽やか度満点の服装が、本だらけの殺風景な部室に鮮やかな彩りを添える。
「さてさて、今日は一体どのようなご用件でしょうか?」
 小さな冷蔵庫から缶コーヒーを二本。程よく冷えていい感じだ。手渡したそれを握り締めたまま、おどけてぐいっと上体をこちらに屈ませた。きょとんとした僕の目の前に人差し指をぴっと立てて、彼女はこんな「依頼」を持ち込んだ。
「実はね、一つ謎解きをお願いしたいんだ」


 その奇妙な「飾り」を見つけたのは、一週間前のある夕方のことだった。

 最寄の駅から歩いて五分という素晴らしい立地条件にある我が家。電車通学を敢行しているわたし――通称「ミント」こと明杜香織――にとって、これほどありがたいこともない。が、大学構内の階段昇降で息切れするほどの運動不足を痛感しているわたしは、若干の遠回りでそれを少しでも補おうという姑息かつ涙ぐましい手段を用いている。
 その日も、駅前の商店街を突っ切れば、その出口近くにある自宅まで楽々辿り着けるところを、「ようこそ○○商店街へ」という馬鹿でかい文字が躍るアーチに背を向けて、わざわざぐるっと大回りするいつものルートへと足を運んだ。
 お店が集まるところ特有のざわめきが徐々に遠ざかり、それが走り抜ける車の音と排気ガスの臭いに取って代わる。目の前に現れた道路は、いつも見慣れた、この町を東西に横切る大通りだ。ローソンやセブン・イレブンなどのコンビニエンスストアも立ち並び、それはそれで便利になっていいのだが、その影響か最近は騒音を撒き散らすバカ者どもが蹂躙することもあって、街が栄えるというのも功罪ありだなぁなどとつらつら考えてみたりする。
 ぷらぷらと散歩するような感覚で歩を進める。初夏の日差しが眩しくも心地よく街を照らしている。普段はあまり人がいるのを見たことがない派出所の前を通り過ぎ、何を見るでもなく家路を辿っていたその時、「それ」はちぐはぐな違和感を伴ってひょっこり姿を現した。
「……なんだこりゃ?」
 思わずそう口走ってしまうほど奇妙なオブジェが、何の変哲もない街の一角にぽつんと佇んでいる。わたしはしばらく「それ」から目を離せずに、歩道の真ん中でぽけっと立ち尽くしてしまった。
 大通りを直角に横切る細い脇道。歩道が途切れるその手前に、一本の電柱がある。どこにでもある普通の灰色の柱だが、その途中、およそ高さ三メートルといったところだろうか、そこに針金がぐるぐる巻きつけてある。一端はそこから一メートルほど垂れ下がっていて、その先に小さな布製のポーチが繋がれていた。ミントグリーンのペンケースを思わせるそれは、蝶ネクタイのように中央を針金で締め付けられていた。
 はて、一体いつこんなものが? わたしは小首をかしげた。一応大学には毎日行っているので、当然この道も日々通ることになる。今日は火曜日だが、少なくとも昨日の時点ではこんな飾りはくっついてなかったはずだ。
 次にぐるりと周囲を見渡す。誰もこれを気に留める様子もなく、すたすたと歩みを進めている。ざっと見たところ、どうやら踏み台になるものはなさそうだった。ポーチまでなら、身長一六三センチのわたしが手を伸ばして届く範囲だが、電柱と繋がっている部分となるとそうはいかない。電柱は道路側にあるので、幅一・五メートルほどの歩道を挟んで反対側にある石塀の上から括りつけるのも不可能だ。
 問題のポーチは、そよ風にゆらゆらと身を任せている。この様子だと、中身はそう重いものでもなさそうだ。割と固く縛ってあるようで、ちょっと簡単には外せそうにない。思わず手を伸ばしたが、わずかに指先が触れた程度で思いとどまった。というのも、最近この辺りでは物騒な事件――通り魔や中学生グループによるタクシー強盗、大通りを挟んで向かいにある団地のガス爆発など――が頻発しており、もしかしたらこれもその一環の悪戯かと思ったからだ。そうかといって、針金が電線と繋いであるといった悪質なトラップは仕掛けられていないようでもあった。
 好奇心旺盛なわたしとしては極めて異例のことだが、結局、数々の疑問点をその場に残したまま、再び家路へとついたのだった。理由は単純――おなかが空いてたから。

 辿り着いた我が家では、いつもと変わらない様々な色と香りが真っ先に私を出迎えてくれた。商店街のアーチのすぐ横、出口に一番近い場所にある『mint』という花屋。誰しも考えることは同じのようで、苗字をストレートに捻った(難しい表現だ)のをそのまま店名として掲げている。うちの両親のセンスを讃えるべきか疑うべきか。それでも、ワンルームマンションのように縦長のスペースしか確保できないこの場所で、店の正面を玄関側――陽が当たらない通路側――ではなく、敢えて部屋の横壁にあたる部分に構えたのは賞賛に値することだろうと思う。鉢植などの草花に、たっぷり日の光を浴びさせることができるからだ。
 お帰りー、と声をかけてくれる母親に、にっこりスマイルを返してそそくさと二階へ上がる。ぐるりと歩いた甲斐あってか、うっすらと額に汗をかいている。ここでがつがつとおやつを食べてしまうと何の意味もないので、軽くクッキーを摘まみ、冷たい牛乳を流し込む。きぃんと喉が冷える感覚。体からすうっと熱が引いていくようだった。
「うし!」
 気合一閃、シャツとジーパンに着替えてエプロンをつけ、店の手伝いを始める。といっても、近年の不況の最中、花を愛でようという優雅な趣味をお持ちの方は少ないようで、それほど忙しくはない。入れ替わりに母親が「休憩〜」と店の奥へ消えた。
 その後、鉢植えのガーベラに水をやったり、脚立に上って天井から吊ってあるブーゲンビリアの土に肥料を差し込んだりしていたが、しばらくして、油断すると聞き逃してしまうほど小さな声が辛うじて耳に留まった。
「……あの……すいません……」
 ちょうど店の物置に脚立を片付けに行こうとして、力強い格好でよっこいしょと肩に担いだところだったので、「はい?」と振り返ったわたしは彼女の目に土建現場の女アルバイトに見えたかもしれない。
 店の入り口に俯いたまま立っていたのは、どうやら中学生の女の子のようだった。見覚えのある制服はこの近辺の学区のもので、この辺りからだと徒歩三十分と若干遠い。それでも若者達は元気に自らの足で通学しているようだ。その気持ち、忘れちゃいかんよ、うん。
「いらっしゃいませ〜。何かご入用ですか?」
 さっきの不用意な「はい?」を掻き消すように、つとめて明るい声で営業モードに切り替えた。もじもじしながらもようやく顔を上げたその子の顔に、ちょっと記憶の糸を揺らされた。
(えっと……誰だったっけ?)
 上目遣いのつぶらな瞳が、冗談のように大きい丸眼鏡の向こうから覗いている。まるで好きな男の子に告白する直前のような恥ずかしさと不安とをミックスした仕草が愛らしくて、そばかすがチャーミングなお顔をぎゅっと抱き締めたくなる。そう、それほど背が高くない私の、ちょうど胸の前辺りに目線が届くくらい小柄な彼女。
「どうされましたかぁ?」
 まだ少し下を向いている彼女の顔を覗き込んでみると、何やら言いたいことがあるけど言い出せなくて、でも言わなきゃいけなくて、ああどうしようどうしよう、というせめぎ合いの色が滲み出ている。はて、一体どうしたというのだろう。花屋に来て何を恥らうことがあるのか。……ラブレターとか渡されたらびっくりしてやる。
「えと、あの、その……」
 目があちらこちらに泳いでいる。襟元に結わえられた鮮やかな深紅のリボンが、そこに当てられた握り拳の向こうでゆらゆらと左右に揺れる。ああもうじれったい。何かお探しですか、と聞いてやろうと思ったその瞬間、
「あのっ、やっ、やっぱり何でもないですすすすいませんっ」
 てててっ、とわけのわからないうちに駆けていってしまった。体躯に不釣合いなほどのロングヘアが風になびいて雑踏に消えていくのを、わたしは呆然と見送っていた。

「ああ、それならそこの団地の深沢さんとこのお嬢さんだね」
 その日の夜、親子三人で食卓を囲んでいる時に、どうしても思い出せなかった例の女の子のことを尋ねてみると、母から即座に答えが返ってきた。
「ふははわふぁん? ……おお、ほうほう、おほいはひた」
 好物のメンチカツを口に詰め込みすぎて、何と言ったのか自分でもわからない言葉になってしまった。それでもちゃんと伝わってるあたり、さすが母親よねぇと思う。
「思い出した? 深沢碧ちゃんよ」
 ごっくん。麦茶でどうにか流し込んで「ぷは」と一息。うら若き女性のやることじゃないかなぁと思いつつ、言葉を継ぐ。
「ほふ、すっきりした。かわいいよねあの子」
「ほんとねぇ、お母さんに似てちっちゃくて、中学生とは思えないわ」
 深沢さんと言えば、もの凄いデコボココンビで、でもとても仲良しなご夫婦で近所でも有名なんだとか。
「深沢さんの奥さんと碧ちゃんが一緒に歩いてると、後ろから見ただけだとどっちがどっちだかわからないわよ。ほんと、奥さんもかわいらしい人でねぇ」
「わたしも何回か見たことあったかな。旦那さんはよく知らないけど」
 するとお母様、頬に手を当てて虚空を見つめながら、
「ご主人はねぇ、そりゃもうかっこいいんだから。すらっと背が高くて、奥さんと横並びで歩いたら頭二つ分くらい上に顔があるんだけど、でもどういうわけか凄くお似合いでねぇ。奥さんを大事にしてるってのが雰囲気で感じられるくらいよ。服装もお洒落だし、中学生の娘さんがいるとは思えない顔立ちだし……」
 ちょっとちょっと、夢見る乙女じゃあるまいし、頬ほんのり桜色してる場合じゃないでしょうが。
「だからご主人の転勤が決まった時は、絶対引越しするもんだと町内中の噂だったのよ。でも、碧ちゃんのお友達とか勉強のこともあって、身を切る思いで単身赴任を決めたんだそうよ。でも週末にはちゃんと帰ってきて、家族三人水入らずで歩いてるところなんかよく見かけるのよ。ああ、いいわよねぇ……」
 と、それまで黙っていたうちのお父様、持っていた新聞でこれみよがしにがさがさっと音を立てた。笑っちゃいけないところかもしれないけど、思わず吹き出してしまう。
(もう、かわいいんだから。うんうん、お父さんも充分かっこいいからね)
 口に出して言ってやらないところが、わたしの意地の悪いところだ、と少し反省した。


「それがその日にあった主な出来事かな。……で、今朝よ」
 握り締めてぬるくなってしまっているであろうコーヒーを、缶の半分ほど一気に飲み干すと、ぷは、と一息ついてミントちゃんは再び話し始めた。
「例の電信柱の横を通ってみると、あのポーチが忽然と姿を消していた、ってわけ」
 不思議でしょう? と言わんばかりに覗き込んでくる。僕はといえば、彼女の話を吟味しているかの如く、顎に拳を当てて俯き加減。ポーズだけだとは口が裂けても言えない。
「うん、この場合、何が不思議かというと、ポーチが消えたことじゃなくて、なぜポーチがそんなところに吊るされていたのか、という点だね。確認しておきたいんだけど、最初にそれを見たのはいつのこと?」
「先週の火曜日よ」
 とすると、今日が月曜日だから、丸一週間は放置されていたことになる。
「一つ補足しておくわね。その電信柱に、看板とかポスターがかけられていたことは、少なくともわたしの記憶の範囲内ではなかったと思う。だから、そこにたまたま針金があったから引っ掛けたんじゃなくて、わざわざ針金を巻きつけたという確信犯的な犯行だったってことね」
ふむ、ともっともらしく唸ってみせてから、僕はミントちゃんと向き合った。
「まあ、一つ一つ考えてみようか。まず考えられるのは、そのポーチが誰かの落とし物で、親切な人がそれをその電信柱の傍で拾った。持ち主にわかり易いように、高い位置に目立つように吊るしておいた……」
「だーめ。さっき言ったでしょ? その道沿いには派出所があるのよ。いくら普段人影がないからといっても、落とし物ならそっちに持っていくのが自然だし、当然だわ。それに、いくら目立つようにっていっても、ああいうものの持ち主がそう年齢の高くない女の子だってことは明らかなんだから、それにしちゃ吊るす位置が高すぎると思わない?」
 ……ごもっとも。
「じゃあ次だ。電線と針金が繋いであるようなブービートラップが仕掛けられている様子はなかった、って言ってたよね。だったら、そのポーチそのものに何か悪戯が施されていたとか。例えば、触るとポーチが破裂するなんていう」
「あのね葉月くん、その発想力は評価するけど、現実問題としてそんなことができると思う? それに、ちょっととはいえわたしも触ってるのよ」
「あ、そうだっけか」
「第一そんな悪戯だったとしたら、犯人はその成果を見届けたいと思うはずよ。誰かが触るまでじっとどこかで見張ってるっていうの?」
 ううむ、手強い。
「まあ、この説にはあまりこだわってないからいいよ。そうだなあ、何かの目印だったとかは?」
 どういうこと、と首をかしげるミントちゃん。
「合図でもいいや。符丁を決めておいて、ポーチの色や括りつける場所で合図を送る。秘密の取引なんかがあって、緑色ならどこそこへ、電信柱なら何時に、とかね」
「うわー、それはまた凄い陰謀説が出てきたわね」
 ちょっと呆れられてしまった。自分でも悪ノリしすぎかもと思う。
「そもそも、ポーチの中身自体が取引のブツだったのかもしれない」
「それならなんで一週間もほったらかしだったのよ。雨が降らないとも限らないし。万が一それが真実だったとしても、警察の目の前でそんなことする神経をまず疑うわ」
 本気で否定されると、こっちもすわりが悪いんですが。

 その後も、ああでもないこうでもないというやり取りが続き、どうにもお手上げと判断して白旗を揚げることにした。
「ごめん、僕の貧弱な頭からだと、これ以上何も出てこないや」
「うーん、そっかぁ。でもね葉月くん、わたしが色々考えてたことはもちろん、まったく予想してなかった説も色々出てきて楽しかったよ」
 僕の推理は娯楽ですか、とツッコミたくなったがやめた。
「もし何か、これは! ってのが思いついたら、また教えてね。もう気になって気になってしょうがないのよ。それじゃ、ありがと」
 コーヒーごちそうさま、という一言と、ミントの匂いを残して彼女は部室を後にした。慣れない頭を使ったせいか、どっと疲れが押し寄せてきたので、思わず絨毯に寝そべってしまう。
「ふいー」
 ため息らしきものが口から漏れた。
 さて、もう随分な時間になっている。予期せぬ来訪者のお陰でまったく読書は進まなかったが、それもまた由としよう。ごそごそと帰り支度を始めたが、やはり先程のミントちゃんの謎は気にかかる。さっきまで彼女がいた座布団にぼすっと胡座をかく。
 整理するために、問題点をいくつか挙げてみよう。
 まず、ポーチの中身はなんだったのか。針金でそれなりにきつく結ばれているにも関わらず風に揺られているところを見ると、相当軽いものであることは確かなようだ。
 次に、そんなことをしたのは誰なのか。併せて、電信柱に針金を巻きつけ、ポーチを吊るした人物の目的は何なのか。そして、一週間が経過して急に持ち去ったのはどうしてか。
 また、高さの問題もある。女性としてはそれなりの身長であるミントちゃんが、手を伸ばして届くくらいだから、恐らく二メートルは下らないだろう。そこから更に上の位置に、元の針金が巻いてある。どうしてそんな高いところに吊るさなければならなかったのか。
 他にも、電柱や針金を使う必要性、警察やコンビニエンスストアのすぐ近くで行われたという場所の問題など、挙げればきりがないことに今頃気づいた。あんな短時間でこれらの事項にきちっと説明がつけられるような推理が、僕にできるはずもない。ちょっと落ち込んだところで、考えることを放棄した。
「はー」
 今度こそため息だった。

「こんにちは、葉月さん」
 ふと気がつくと、やっぱりここに立ち寄ってしまっていた。
 大学内にある、本と文房具を学生に割安で売ってくれるブックセンター。所属している部が部だけに、僕は完璧に常連客と化している。まあ、本を買うだけが目的じゃないことも自覚しているんだけど。
「どうも」
 カウンターの向こうでにっこりスマイルを向けてくれた店員さんに、ひょこっと頭を下げた。
内倉綾乃さん。学内でも絶大な支持を誇るブックセンターのアイドルだ。愛嬌のある顔立ちが人気の一端を担っていることは否定しないが、何よりもその気さくな性格と人懐っこい笑顔が魅力だと僕は思う。今日もポニーテールを揺らしながら、ちょっと首をかしげるポーズがとても眩しい。
「今日は何をお探しですか? それともご注文を?」
「いえ、特に探しものがあるわけじゃないんです」
 たはは、と頭を掻く僕に「いいんですよ」と微笑む綾乃さん。この人と他愛のない話をするためだけに来ることも少なくないので、いつものことと言えばそうなんだけど、やはり若干気が引ける。
「ちょっと考え事をしてたら、自然と足がここに向いてしまったようです」
「それは光栄なのでしょうか、困るべきところなのでしょうか」
 綾乃さんはくすくすと上品に笑っている。この仕草に弱いんだよなぁ、という思いは、曖昧な笑顔の奥に隠しておいた。
「ちょうどいいや、話の種に一つ聞いてもらえませんかね」
 店内に他の客がいないことを確認して、僕はカウンターに両肘をついた。


 ついさっき聞いたミントちゃんの話を、あまり省略せず覚えている限りで綾乃さんに話した。ポーチの謎に関しての自説「壮大なる陰謀」を控えめに口にした時は、笑い出したいところを、口を上品に押さえて必死に堪えてる綾乃さんを目にすることができた。普段は見られないような仕草なので、なんとなく嬉しいような哀しいような。
「……ご、ごめんなさい、ちょっと笑いすぎですね。すいません」
 目尻に指をやっている。涙が滲むほど笑ったらしかった。そこまでされると、いっそ清々しい。
「いえ、いいんですけどね。それより不思議でしょう?」
「え、何がですか?」
「何がって……ポーチのことですよ。誰が、なんのためにあんなことをしたんでしょうか」
 すると綾乃さん、少し表情を曇らせて、
「あまり気持ちのいい話じゃありませんよ」と言った。
「……ちょっと待ってくださいよ。じゃあ、今の話だけでわかっちゃったんですか?」
「まあ、恐らくそうではないかという程度ですけど」
 一体どういう頭の構造をしてるんだろう。凄く聞いてみたかったが、綾乃さんの表情が少し引っかかった。が、躊躇よりも好奇心が勝った。
「お願いします、ミントちゃんにも教えてあげたいんです。せっかく僕なんかを頼ってきてくれたんですから、力になりたいんですよ」
 実際のところ、どこまで彼女が僕のことを信用してるかどうかはわからないが。
「女性の方にお話するとなると、もっと気が引けますが……、仕方ありませんね」
 綾乃さんは物憂げに、ふう、と小さくため息をついた。

「さて、まず何からお話しましょうか……。
 ポーチが誰かの落とし物である、などの説は、既に明杜さんが否定されている通りだと思います。近くにコンビニエンスストアや派出所があるところを見ても、何か大きな犯罪絡みの行動だとは思えません。それでいて、人通りの多い歩道に、普通よりも高い位置に目立つように吊るしてあるポーチ。これらが示すのは、ポーチそのものを人目に晒すことが目的だった、ということです」
 そこまで一気に綾乃さんは喋った。一息入れてくれたお陰で、やっと文章の意味を理解するところまで追いつくことができたが、その内容がどこへ向かうのかはさっぱり予想できない。
「ポーチの持ち主は、恐らく十歳前後から十代半ばくらいの女の子である、という箇所は、先程の山武さんのお話とまったく同感です。さて、そのくらいの大きさで、女の子が持つ入れ物といって思いつくものといえばなんでしょうか」
「えっ? ……そうですねぇ、ペンケースとか、ティッシュケースとか、小銭入れみたいな財布とか、最近なら化粧品入れなんてことも考えられますが」
 ええ、と頷く綾乃さん。
「ですが山武さん、もう一つ大事なものをお忘れですよ。よく思い出してください、私はどういう入れ物だと言いましたか?」
「どういう、って……。ミントグリーンで、軽くて、それほど大きなものじゃなくて、大体十歳から十五、六歳くらいの女の子が……」
 待てよ。
 もごもご呟いていたその口が、途中でぴたりと止まった。最後のフレーズに対して、何かを見落としている自分がいた。
 化粧品入れは確かにもっともらしいが、それを通行人に見せたところでなんだというのだろう。そのポーチを「見せること」が目的なら、持ち主がそれを晒されて被害をこうむる、もしくは不快な思いをするものでなければならない。そして、その年代の「女の子」が持つもので、それらに該当するものがただ一つあるではないか。
「……生理用品、ですか」

 嫌悪感からか、少し綾乃さんが眉をひそめた。こういう表情も珍しい。
「落としたところを偶然見かけたのか、それともそれ以外の方法で何者かが入手したのかは定かではありませんが、持ち主が誰かを知った上で犯人が電信柱に括りつけたのは間違いないと思います」
「え、どうしてです?」
「その持ち主の目に触れるところでないと、意味がないからですよ」
 首をかしげる僕。
「自分の持ち物が、人通りの多い道端に吊るされて晒しものになっているという状況で、中身が中身ですから、持ち主の心痛は察するに余りあります。しかもそれが、嫌でも毎日視界に入ってしまうような場所であればどうですか? 嫌がらせとしてはこれほど効果的なものも、ちょっとありそうにないでしょう」
「つまり、持ち主が毎日通る場所……。自宅の近所ということですか」
 こくん、と綾乃さんが頷く。少し力なさげだ。
「確か、近くには団地があるということでしたね。そこに住んでいる、近所の女子中学生のうち誰かのものなのでしょう。お話を聞く限り、素行のよくない男子中学生グループがいるようですので……問題の彼らが犯人だと断言はできませんけど」
 そういえばミントちゃんは、近隣で通り魔だとかタクシー強盗だとか、穏やかでない事件が幾つか発生していると言っていた。そんなことまで絡めて考えようなどと、僕はちらりとも思わなかった。
「……ですが、ちょっと待ってください。じゃあその犯人は、わざわざ踏み台かなんかをどこかから持ってきて、そんな手の込んだ悪質な嫌がらせをやったってことですか? 単なる悪戯にしちゃ、ちょっと手間がかかってる気もしますが」
「踏み台のようなものは必要ありません。犯人が二人以上であれば。ですから、先程犯人像の一つとして、例の中学生『グループ』を挙げたのです」
「二人以上?」
「針金が巻きつけられている箇所まで、およそ三メートルでしたよね」
 三メートル――二で割って一・五メートルずつ――。
「……肩車!」
 思わず大声を挙げてしまって口を塞いだが、僕達二人以外は誰もいないことをすっかり忘れていた。確かに、肩車で上になった一人が手を伸ばせば、ちょうどそのくらいの高さになるはずだ。
「そうか……。もし近所に住む女の子がポーチの持ち主だったら、人目の多い登下校路にそれを括りつけておくことは、回収することに対する牽制にもなるんですね。もし知り合いにポーチを取るところを見られたらと思うと、羞恥心が勝って容易に手が出せなくなる。しかし、かといって放置しておく時間が長いほど人目に触れる機会が多くなり、自分の持ち物であることが誰かに知られてしまうかもしれない。そういう板挟み状態に陥った女の子の気持ちは、推して知るべしですね。なんて悪質な……」
 と、そこまで独り言のように喋っていて、ふと言葉が止まった。
「……ポーチはどうして一週間を経た今日、消えたんだろう?」
 独り言のようなその疑問に、返事はなかった。

 それほど背が高くないミントちゃんより、更に頭一つ分くらい低い女の子。
 彼女が店を訪れた時、ミントちゃんが持っていたのは、高いところにある花の手入れをするための脚立だった。
 自分で取りに行こうとしたのか、誰かに頼むつもりだったのか、それともやっぱり放っておこうか、と迷いを見せる彼女。
 その母親も、後ろから見た限りでは区別がつかないくらいだということは、同じく背は低いはず。
 すらりと背が高い父親は単身赴任中で、でも週末には帰ってきている。
 何より、ポーチの色が示す持ち主の名前は――。

「……えっと、すいません、お邪魔しました」
 動き出した思考は、するすると一つの考え――いや、答えを導き出した。僕がそこに辿り着いたのを悟ったのか、綾乃さんは優しく笑ってくれた。
 その微笑みが、少し胸に痛かった。


 後日談。
 ある日、部室に顔を出した副会長が、テーブルの真ん中に見慣れないものを見つけて驚いた。
「あれ? ちょっと葉月くん、これどうしたの?」
「ん、買ってきたと思う?」
「まさかぁ」
「やっぱりね。貰ったんだよ」
「誰に誰に? 葉月くんの熱烈なファンとか」
 そんな奇特な人がいたら、ぜひともお目にかかりたいものだと思う。
 あの日、綾乃さんが提示し、僕が行き着いた一つの説を、ミントちゃんにどこまで話したかは、皆様のご想像にお任せしようと思う。女性が聞いて気持ちのいい話では決してないし、あのポーチの持ち主に対する遠慮というものもある。色々と考えて迷った挙句、まったく何もしないわけにはいかないだろうと思い、学内の喫茶室に彼女を呼び出したのが昨日のことだ。
 そして今日、謎解きのお礼にと持ってきてくれたのが、この花だった。
「綺麗ねえ……」
 小さな植木鉢から、ピンクと白のグラデーションが鮮やかな花弁を開いている。
「ガーベラね」副部長が即座に名前を言い当てた。
 窓から入る爽やかな風が、小さな花をゆらゆらと揺らしている。花の香りに混じって、ミントの匂いがほんのり漂ってくるような気がした。


――了――


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