操り道化師(ピエロ)
道化師(ピエロ)になりたい。
そう心に決めたのは、一体いつのことだっただろうか。
何をやってもドジで、とぼけてて、ユーモラスで、みんなが思わず笑い出してしまう。
そんな道化師が、僕は大好きだった。
ある日、大学の帰りに乗り継ぐ駅と駅の間にある広場で、人だかりを見た。
「くすくす」「あはは」「きゃっきゃっ」
なんだか楽しげな声が聞こえてくる。ふらりと近寄ってみると、頭と頭の隙間から面白いものが覗いた。
道化師だ。
白粉を塗った顔に、カラフルなワンポイントのペイントを両瞼に施してある。赤と白のストライプが入った帽子の先には、綿毛のようなぼんぼりが揺れている。肘や腰で絞ってあるぶかぶかの衣装を身に纏い、つま先がくるんと巻いている靴を躍らせて。
それとまったく同じ扮装をした、操り人形の道化師がいる。
人間の道化師の手によって、人形の道化師は活き活きとその身を舞わせている。まるで、それ自体が命を持っているかのように。
道化師が玉乗り用の三色ボールに乗り、前屈みの体勢のまま蟹股で危なっかしくバランスを取っている。その足元で、同じように色を塗り分けたピンポン玉の上に人形がしゃきっと立つ。その対比が実に滑稽で、思わず吹き出してしまう。
腹話術も心得ているようで、普通の声で喋る道化師に、甲高い裏声が合いの手を入れる。
「まったく、こいつはいつもドジばっかりでねぇ」
『ヨク言ウヨ。自分ノホウガ失敗ノ回数ハ多イジャナイカ』
「数えてるのか、お前?」
『全部手帳ニツケテルゾ』
さらさらとメモを取る真似をする人形。会場がどっと沸く。
近くの子供から風船を借り、楽しそうにステップを踏む道化師。すると、じっとその顔を見つめる人形。その小さな手に紐をくくりつけてやると、同じようにるんるんと踊り出す。ところが、しばらくすると足が地面から離れていく。操り糸を持ち上げているだけなのだが、まるで風船の浮力で人形が浮いているように見える。
『ワッ、ワッ、助ケテクレ〜!』
空中で足をじたばたさせる人形。風船の持ち主である子供は、お腹を抱えてけらけらと大笑いだ。
やがて、ショーは終わりとなった。雨のような拍手喝采を浴びながら、道化師は片付けを始める。傍らに大きなトランクが置いてあるので、てっきり人形を仕舞うのかと思ったら、地面の上に当の人形を立たせたまま、自分がその中に入っていった。側面に空いた穴から手足だけを出し、操り棒を握る。どこかにあるであろう覗き穴からの視界だけで巧みに人形を操り、トランクに繋がった鎖を持たせて引きずらせた。人形が歩き出すと、それに併せてトランクの中にいる道化師が足をちょこまか動かしてついて行く。まるで人形がトランクを引っ張っているように見える。最後の最後まで、そこには見事な道化師の姿があった。
僕は、呆然と立ち尽くすのも忘れ、ふらふらとその後を追っていた。
――あの人しかいない。
今ある生活の全てを放棄してでも、その道化師に弟子入りすることを決心していた。
奇妙なトランクと人形は、どんどん人気のない路地裏に入っていく。いつまであんな窮屈な格好をしているつもりだろうかと、妙な心配までしてしまう。ごろごろ、ごろごろ。キャスターの転がる音が、地面を擦る足音の合間に滑り込む。ごろごろ、ごろごろ。
やがて視界が開けると、郊外の空き地にぽつんと佇む小屋へ出てきた。人形は、外側へ開いたままの入り口からトランクを連れて中へ入っていく。その姿が消えると、不思議なことにドアは勝手にすうっと動き、閉まった。
小屋というより、あばら家という表現のほうが適切かもしれない。台風どころではない、ちょっとした風が吹いただけでもばらばらになってしまいそうな印象すら抱かせる。送電線すら一本も見当たらないようなこの家(?)で、一体どうやって生活しているんだろうか。
扉の前に立ち、壊さないように控え目にノックをした。
すると、さっきと同じようにドアが自動的に開いた。蝶番の軋む音すら立てずに。
中を覗いてみると、なんとも壮絶な眺めがそこにあった。
窓には板が打ち付けられており、なおかつカーテンが引かれている。床といわず壁といわず、そこらじゅうに染みや汚れがべっとりと擦り付けられて、かなりの間掃除していないことをうかがわせる。鼻が曲がりそうな悪臭を吸い込んでしまい、思わず咳き込んでしまった。
光を唯一取りこんでいる入り口に僕が立っているので、影が部屋の中へと伸びている。その先に、笑顔のメークをこちらに向けた人形がすっくと立っていた。例のトランクは部屋の隅にあるのが辛うじて見て取れたが、道化師の姿はない。
「あのー、どなたかいらっしゃいませんか……?」
僕の背中で、扉が閉まる音がした。慌てて振り返ってみると、明り取りと思われる小さな擦りガラスが目の前に迫っている。
『ヨウコソ、新タナ道化師クン』
ぎょっとした。ゆっくりと声のほうへ顔を向ける。
人形が、両手を腰に当て、笑顔を貼りつけた首をちょこんと傾げていた。
――さっきと、ポーズが違う……。
『サッキノショーハ、気ニ入ッテイタダケタカナ?』
腹話術、じゃない。これは――人形が喋っている。
「お、お前は……」
『ボクハ、道化師ダヨ。君ガ心カラナリタガッテイル、最高ノ道化師サ』
こつ、こつ、こつ。人形が近づいてくる。
『タダシ、操リ手ダケドネ』
後ずさった。背中に、じっとりと湿った木のドアの感触。
『マリオネットハ、君ノホウナンダヨ』
ノブに手をかけるが、びくともしない。
『アノ男ハ、ソロソロ限界ニキテイル。次ノ道化師ガ欲シカッタトコロサ』
ちょっと視線を外した隙に、鼻息で帽子が揺らぐほどの距離に、悲鳴を挙げたくなるような笑顔を貼りつけた人形が迫っていた。
浮いている。
『オ望ミ通リ、ミンナガ腹ノ底カラ笑エル、道化ニナラセテアゲルヨ』
赤や青のペイントを引き裂くようにして、開くはずのない目がこちらを向いた。
ガラス玉なんかでは決してない、混沌が奥底に渦巻く瞳の中に、僕がいた。
体が、動かなくなった。
意識ははっきりしているのに、瞼から指先一つに至るまで、ぴくりとも動かすことができない。呼吸すら、自分の意思で行っているのではないような錯覚に陥ってしまう。
『君ノ初メテノ仕事ハ、モウ決マッテイルンダヨ』
靴をはいたままの足が、自分の脳の命令とは無関係に動いた。これだけ汚い部屋でも、土足で上がることにためらいを覚えてしまう。
『今マデノ道化ガ、順番ニヤッテキタコトサ』
暗がりの奥に、何かがいる。
『ボクニ操ラレル道化師ハ、一人デイイ』
それは、さっき素晴らしいショーを繰り広げていた、あの道化師だった。人間であるはずのこの人物が、まるで人形であるかのように、ぐったりと四肢を広げ座り込んでいる。糸の切れたマリオネットが、それにだぶって見えた。
『サア、引キ継ギダ』
極彩色の衣装に身を包み、表情を覆い隠しているメークのままうな垂れている男の首に、僕の両腕が伸びる。がりがりに痩せ細ったそれに、輪っかを作るような形で指が絡む。徐々に、僕の意思を完全に無視して力が込められていく。
後ろにいるはずの人形をかえり見ることもできず、僕は呆然とその道化師の顔を見つめていた。
ぎり、ぎり、ぎり。
骨の軋む音がする。気道や頚動脈はもう完全に塞がれていることだろう。死を約束された息苦しさが彼に襲いかかっているはずだ。なのに。
笑っていた。
それは、作り物なんかでは決してない、心の底からの笑顔だった。まるで、この世に存在する「幸せ」と名のつく感情を一手に引き受けたような、満ち足りた微笑みを浮かべていた。気道が塞がり、息ができなくなっても、頚動脈が閉じられ、脳に血液が送られなくなっても、舌骨が折れ、もはや生命活動を維持することができなくなっても、操られていた道化はその表情を変えなかった。変えることなく、逝った。
僕の手が、僕でない意思をもって、人を、殺した。
『サア、ソイツヲ早ク始末スルンダ』
既に抜け殻状態の僕は、天空から伸びている見えない糸に支配されるまま、息絶えた道化師を抱き上げた。死体となって格段に重くなっているはずの道化師は、羽根のような手応えしか僕の腕に返してこなかった。もしかしたら、重さすらも感じなくなっているのかもしれないが。
そのままふらふらと、小屋の奥へと足を進められた。一部、床板がめくれ上がっている。その下にあるものを予想しつつも、抗えない力で黒ずんだ板は引き剥がされた。途端に、まだ残っているらしい嗅覚を、凄まじいまでの悪臭が襲った。
床下に剥き出しで現れた地面には、白骨死体や腐乱死体が堆く積まれていた。
最初は、きちんと地面の中に埋めていたのかもしれないが、そのうち労力の無駄だと思ったのだろうか、そのまま捨てるように放り出している。得体の知れない蟲がうぞうぞと辺りを這い回っている。まるでそこから魂が抜けていったようにぽっかりと開けられた死体の口から、ゴキブリらしきものが這い出してきた時には、さすがに腹の底から叫び声を挙げたくなった。が、それはやはり叶わなかった。
するり、と音がした。いつの間にか、僕の両腕は体に対して垂直から斜め下の角度へと移動している。死体に死体を重ねた、あまりにもおぞましい墓標の上に、また供物が捧げられた。
ぐしゃ、ばきり。
道化師の扮装の死体が、脆くなっている骨や腐食した肉を押し潰している。鼓膜を破りたくなるような音があたりに響いた。逃げ損ねた蟲が、まだ触覚が残っている僕のくるぶしを乗り越えていった。
床板は、また僕の手で元に戻された。
*
それからのことは、よく覚えていない。
空白となった心に、あの人形の糸が絡み付いて、僕を動かしている。
道化師の衣装に身を包み、顔を隠すペイントを施して、人形に連れられて僕は街へ出る。
時々浮かぶ記憶の中には、いつも楽しそうに笑う人達がいた。
でも、それは僕の力じゃない。
僕が欲しかったものだけど、僕に向けられたものじゃない。
人形は、僕を操りながら、パントマイムを繰り広げている。
いや、人形は、僕だ。
どれくらい経っただろうか。
ある日、暗闇が太陽の光で切り裂かれた。
小屋のドアが開いたと認識するまでに、相当の時間がかかった。
人形は、あの日と同じように、扉の前で腕を組んで立っている。
そして、逆光を受けて、一つの影が僕の足元へ伸びてきた。
ゆっくりと、足音が近づいてくる。
こつ、こつ、こつ。
白く細い腕が、床を見つめている僕の視界に入った。
首筋に、久々に人の暖かさが触れた。
がくん。折れそうな勢いで、顔が正面に向けられる。
若い女の子だ。
僕と同じ、大学生くらいだろうか。
大きな瞳から、次々と涙が零れている。いやいやをするように首を振りたいのだろうけど、それができないから目だけでそう訴えている。
ああ、そうか。
次が来たんだな。
僕は、多分生まれて初めて、心の底から溢れてくる幸せを感じ、笑った。
――了――
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