MESSAGE
Prologue
誰もいない家の中へ向かって「ただいまー」と、私の隣で和音(かずね)が呼びかける。その小さな頭にぽん、と右手を乗せた。わざと髪が乱れるように軽く撫で、「おかえりなさい」と笑いかけると、娘は屈託のない笑みで私を見上げる。その両手に大事に抱えられている筒の中には、彼女が無事に義務教育の九年間を修了した証が収められている。私はまだ泣き腫らして真っ赤な目を再び涙で濡らさぬよう、努めて明るく話しかけた。
「さ、今日はお祝いだからね、晩ご飯は何か美味しいもの食べに行こっか」
「やっりぃー」
腰に手を当ててVサインを突き出すその姿は、古い写真に収められている幼い頃の無邪気な仕草と、なんら変わっていない。
玄関扉を閉める寸前に、春の薫りを連れて爽やかな風が吹き込んできた。廊下を撫でて奥のリビングまで届くその風は、和音の長く綺麗な黒髪をふわりと舞い流した。細い中指で耳の後ろへ髪をかき上げる横顔に、子どもっぽいポーズとは対照的な女性の艶やかさを垣間見て、思わずどきっとさせられる。
どこか遠くを見つめるような表情に、夫の面影が一瞬重なったのは、私の心が胸の高鳴りと恋のときめきを混同したせいだけではないはずだ。
――やっぱり、どこか似ているのね。
わずかの間の邂逅。刹那、胸にある決心の芽が吹いた。
「和音、一つお願いがあるんだけど」
「なぁに?」
「今日、式で弾いた曲、もう一度お母さんに聴かせてくれない?」
母と子の二人暮しには分不相応なほど立派な、黒光りするグランドピアノ。楽譜の収められた本棚とだけで、それほど広くない部屋の大半は占められている。片隅に、ダイニングテーブルとセットの椅子を一脚拝借した、私専用の観客席がぽつんと佇んでいる。その背もたれにゆったり体を預けた。
――一張羅に皺が寄ることを気にも留めないなんて、女として失格かしら。
唐突にそんなことが思い浮かぶ。今日はなぜだか思考がジャンプすることが多いようだ。疲れているのだろうか。心配屋の娘に聞こえないよう、小さく溜息をついた。
制服のスカートを膝裏へ綺麗に揃え、静かに和音がピアノの前に座った。たおやかな腕が鍵盤に伸びる。
薬指が、そっと触れる。
始めの一音が響いた瞬間、弾かれたように顔を上げた。娘は、壇上から卒業式場を包み込んだポップスのアレンジ曲ではなく、優しい微笑を浮かべながら、私がこの世で最も愛している曲を奏で始めたのだ。
部屋に満つる『大きな古時計』のメロディ。
私は驚くことも忘れ、和音が紡ぎ出す繊細で儚いハーモニーに身を、心を、すべてを委ねた。
最後のフェルマータが余韻を残してふつりと溶けた後も、しばらく身じろぎ一つできないでいた私に向かって、和音はおどけた表情で舌をぺろっと出した。
「ごめんねお母さん、リクエストとは違う曲、弾いちゃった」
そして、呆然と見つめる私を尻目に、ピアノと本棚の隙間に体をねじ込み、その陰で死角になっていた部屋の隅から、ささやかだけどあたたかい色合いの花束を、和音は取り出してみせた。
「あんまり使った覚えはないんだけど、思ったほどお小遣いが貯められなくって、こんなのしか用意できなかったんだ。今の曲とセットってことで、勘弁してね」
はい、お誕…日…め……う。
胸が詰まり、耳がつんと鳴って、最後のフレーズははっきりと聞き取れなかった。
せっかくの贈り物を潰してしまわないよう気を遣う余裕があったことに、自分自身感謝すべきだろう。力の限り和音の体を抱き締めると、その綺麗な髪に涙がぽた、ぽたと跳ねた。
「野々宮(ののみや)志穂(しほ)様と和音様ですね、どうぞこちらのお席へ」
若草色のワンピースに身を包んだ和音が、案内されたテーブルを挟んで向かい側に腰を下ろした。楽しそうにきょろきょろと辺りを見回すその大きな瞳は、つややかで澄んだ黒色に煌めく照明を映している。いくらお祝いとはいえ、生演奏のジャズが心地よく響くようなホテルのレストランは贅沢すぎるかとも思ったが、自分の誕生日祝いも兼ねてということで勘弁してね、と天井に向かって手を合わせた。ウッドベースのリズムに合わせて体を揺らしていた和音が、不思議そうに首を傾げる。
注文を取りにきたウェイターにコース料理を二人分と飲み物を頼んだ。アルコールを進んで口にするのは久しぶりだ。娘は少し羨ましそうな顔を見せたが、大人しくフレッシュジュースの入ったコップを掲げた。
「お母さんの誕生日に」
「和音の中学校卒業に」
ちぃん。ささやかに響く音。口当たりのよいシャンパンが、するりと喉を抜けた。
「……今日は、少し思い出話に付き合ってね、和音」
私は、普段持ち歩くものよりも大きめのセカンドバッグから、小さな紙箱を取り出した。向かいのテーブルに置き、開けるように促すと、恐る恐るといった感じで和音が蓋に指をかけた。
「……これ?」
ピアノ奏者特有の、体に比べれば随分大きな掌にちょこんと乗っているのは、無理すれば懐中時計に見えなくもない木彫りのオブジェとその台座、そしてぜんまいを巻くための円盤型のねじがセットになったオルゴールだった。
十五年前、まだ結婚して二年にも満たない夫・笠松(かさまつ)真史(まさふみ)が遺したもの。
「お母さんね、一度だけ、お父さんが浮気してるんじゃないかって疑ったことがあるの」
そんな一言から、長い昔語りが始まった。
1
「…………遅い」
壁掛け時計を睨みつけながら呟いた。静かなリビングに、怒気を含んだ自分の声が驚くほど響く。傍らで小さな握り拳が、もぞりと動いた。さっき飲ませたばかりと思っていたのに、気がつけばもう十時を回っていた。
(もう、三時間経ったのね)
程なくして、和音の口からか細い泣き声が漏れてくる。壊れ物を扱うようにそっと抱き上げると、目をつぶったままでその唇が乳首をうろうろと探し出した。何度見ても口元がほころぶ仕草。
――それにしても、遅いわね。
今度は口に出さずに、ただ玄関のほうへと視線を向けるにとどめた。幸せそうに母乳を飲む娘の顔を見て、気持ちを落ち着ける。
年が明け、国語教師である真史が受け持つ三年生は追い込みモードに突入しているはずだ。生徒も教師も多忙なシーズンを迎えていることは承知の上だが、ここ最近の帰りの遅さには、何かしらの不信感を抱かずにはいられない。
(この子を授かってから、喧嘩ばかりしてるなぁ)
ぼんやりとそんなことを考えたのは、昼間耳にした一言がどこかに引っかかっているせいだろう。
――お宅のご主人、お勤めの高校の若い音楽教師と、随分仲がいいらしいわよ。
どこの町内でも必ずと言っていいほど一人はいる噂好きの奥さんに、和音の散歩の途中で顔を合わせるなり呼び止められて、その言葉を皮切りに最近のご近所一帯の浮気実態についてひとしきり演説をぶたれてしまった。口を挟む間などどこにもないせいもあって、ほぼ全部を聞き流していたけど、その冒頭の一文が針となって胸に突き刺さっていたようだ。
諍いの原因はいつも決まっていた。
私が追えなかった夢を、娘に託したい。
ただ一つのその願いを、真史にどうしても受け入れてもらえなかった。
自分の右掌を見つめる。何の変哲もない、だからこそ大嫌いな手。
そっと和音の背中に戻すと、柔らかなあたたかさが伝わってきた。
小学校の頃、近所にとても仲のいい友達がいた。その子の母親はとても厳しい人らしく、自宅に遊びに行くことは一度もなかったけど、同じピアノ教室に通っていたので、そこでは笑いあって連弾したりしたものだった。いつか二人で超有名なピアニストになろうね、と約束したこともあった。
初めての発表会を一ヵ月後に控えたある日、数日前から課題曲のワンフレーズに詰まって悩み落ち込んでいる彼女を心配して、学校の音楽室に様子を見に行ったことがある。入り口の隙間からすすり泣く声が聞こえてきたので、そっと部屋を覗いた時、驚きのあまり声も出せなくなったのをよく覚えている。
彼女は、震える手でカッターナイフを握り、指と指の間を自分で切り裂いていた。
左手は既に血まみれになっていて、用意していたと思われるタオルもどす黒く染まっていた。
絶叫してもおかしくないほどの痛みを、彼女は何もかも押し殺して耐えていた。腹痛を堪えるようにぐぅっとうずくまり、タオルを巻きつけた左手を丸めた体に包み込んで背中を震わせる姿を、しばらくも直視できずにその場を逃げ出した。
指の開きが小さいせいで、一オクターブが同時に弾けない。そのせいで技術が伸び悩み、母親に相当なじられたらしいということを、私は後で知った。それ以来、ピアノの前に座ろうとすると、彼女の背中を思い出して全身が震えた。鍵盤を叩くたびに、自分の小さな左手からも血が噴き出すイメージに襲われて泣いた。少し楽譜が読める程度の知識をつけることしかできないまま、身を切る思いで私はピアノを辞め、近寄りがたくなった彼女とも疎遠になった。
その後、あの子が本当にピアニストになったのかどうか、私は知らない。
いつの間にか、和音の口は私の胸を離れていた。普段なら満足した笑みを浮かべてまた眠りにつくはずの娘が、大きな瞳で私の顔を見つめていた。何かただならぬ気配を察知したように、透き通るような黒の奥から私に何かを訴えかけている。
鳴ってもいない電話機に、なぜかすぅっと視線が向いた。
真史を撥ねたトラックの運転手は、酒気帯びでうつらうつらとしたまま赤信号を無視して横断歩道に突っ込んだらしい。しかし葬儀の席で、目の前で号泣しながらひたすら土下座と謝罪を繰り返していたはずの運転手のことを、私はまったく覚えていない。ただ、父を永遠に失ったことすらわからない和音を抱き、読経もお悔やみも励ましもすべてを遮断して、夫が夫でなくなる様を呆然と見送っていた。和音が泣けば部屋にこもって授乳をし、終われば遺族席に座り込んで俯く、その繰り返しで時間は過ぎていった。
誰が写真を選んでくれたのだろう。遺影の中の真史は、滅多に見せない素敵な笑顔を私に向けてくれていた。
顔を上げるまでに、十回近く私のことを呼んでいたらしい。いつからか目の前に、ハンカチを携えてしゃくり上げる若い女性が立っていた。細かいウェーブのかかったロングヘアが、鼻をすするたびに小さく揺れている。涙でぐしゃぐしゃになることを予想していたのか、化粧っ気のない顔はそれでも整っており、素直に「綺麗な人だな」と思えた。こんな時でなければ、愛らしい瞳につられて微笑みを返していたかもしれないのに。
「ご主人と同じ高校に勤める音楽教師の、千谷崎(ちやざき)と申します」
そう名乗った女性は、通り一遍ながらも心底からのお悔やみと、生前笠松先生に大変お世話になりました、とのお礼を何度も繰り返し頭を下げた。そして、ぼんやりした頭に、千谷崎さんの澄んだ声が響いた。
「こんなばたばたしている時に大変申し訳ないのですが、奥様、少しだけお時間を取っていただいてよろしいでしょうか?」
2
「実は、笠松先生は一年ほど前、わたしにあるお願いをしてきたんです」
本当は誰にも黙っておいてほしい、と言われていたんですけれど、状況が状況なので、と前置きして、千谷崎さんが口を開いた。式場裏手の控え室兼休憩室で、寝ている和音をベッドに寝かせておいて、私は熱いお茶の入った湯飲みを両手に包み込み、冷えた手に血を通わせた。
「お願い……?」
「はい。私の父はとある会社でオルゴールの製作に携わっているんですが、そのことを笠松先生がどこからか聞きつけたらしく、わざわざ音楽準備室に足を運んでこられて、こう言われました。
『あの、自分でオルゴールを作るのって、難しいんですか?』って」
オルゴールを、作る? 疑問符を顔に貼り付けた私に向かい、彼女は続ける。
「オルゴールには二種類の作り方があります。一つが機械を使って同じものを大量に作る方法、もう一つが編曲やピンの埋め込みを手作業で行なう方法です。
大量生産の場合、プレス型を使って金属板に突起を作り、それをくるっと巻いて『ドラム』と呼ばれる部品を作ります。この突起が、音を出すための櫛歯を弾く役割をしているのですが、手作業の場合、ドラムの芯の部分にあたる金属製のシリンダーに一つ一つ穴をあけ、そこに突起となる細いピンを埋め込むのです。
作業それ自体は難しいものではありませんが、最も困難なのが『編曲』です。オルゴールでは櫛歯の数、つまり出せる音の数が限られているので、どんな曲でもそれ用にアレンジを施さないといけません。笠松先生は『僕は音楽を聴くのは好きですが、編曲ともなるとそれなりに高度な専門知識が必要ですね。もしよろしければ、少し手助けをいただけると大変ありがたいのですが』とおっしゃって、私に協力を要請されたのです」
千谷崎さんは、遠くを懐かしむような目を見せた。私にはまだ、話の先が見えていない。
「希望する曲目は決められていたようなので、編曲はある程度私がやらせていただきました。音数が増えると、それだけ作業も大変になりますので、ごくシンプルなメロディと伴奏だけの楽譜を書いて、先生にお渡ししました。それを元に穴あけ作業に取り掛かられましたが、本当に忙しい合間を縫って、少しずつこつこつと、丁寧に進められていました。
そしてあの日、ようやくなんとか形になりました、と帰り際にご挨拶に来てくださった時、先生に聞いてみたんです。『そのオルゴール、どなたへの贈り物ですか?』って」
彼女の目が、真っ直ぐに私を射た。口元には、柔らかな微笑み。
「奥様、笠松先生は、その時に出産を終え母親となっていたあなたへのバースデープレゼントを、一年も前から一生懸命に作られていたんですよ」
警察の人が遺留品の説明をしてくれていたはずらしいけど、自失状態の私の頭には何一つ残っていなかったようだ。後日改めて遺品を調べていると、使い古した手帳や眼鏡ケースに混じって、見覚えのない白く小さな箱がぽつんと残されていた。
――ご主人は、この箱を両手で抱き締めるようにして亡くなられていました。
真新しい仏壇に線香を供えに来てくれた担当刑事さんが、そんなことを言っていた。
震える手でその蓋を開けると、ショックを吸収するためのエアキャップに包まれた、掌サイズの木彫りの置物が現れた。台座の上の煎餅みたいな形のオブジェは、どうやら懐中時計を模して作ってあるらしいが、文字盤はあるのに針がない。底には、ぜんまいを巻くための円盤型のねじ。それをかりかりと巻き、そっとテーブルに置いた。
ゆっくりと回転するオルゴール。ポロン、ポロン。かわいらしい音色が奏でるのは、私が初めてピアノで弾けるようになった想い出の曲だった。ところどころ調子外れな音が混じっているのは、手作りゆえの設計ミスなのか、それとも事故のショックは体を張ってでも防ぎ切れなかったのか。
――……おーおーきなのっぽのふるどけい、おじいーさんのーとけいー……。
素朴なメロディに真史の低く優しい歌声がふいと重なり、がらんとした部屋に自分の嗚咽が響いた。
背中のほうで、和音が楽しそうな笑い声を挙げていた。
*
「……それが……お父さんが最期に遺したのが、この……オルゴール」
はらはらと零れる涙を拭おうともせず、和音は手にしたオルゴールを見つめた。色褪せはしているものの、あの日から一度も鳴らすことなく、仏壇にある真史の遺影の裏にしまっておいたからか、年月を経ている割には綺麗な状態を保っている。
「……改築で一室を防音にして、立派なグランドピアノを買うことができたのも、お父さんの生命保険や賠償金なんかで余裕ができたからなの。お父さんがいなくなったから、っていうわけじゃないのよ。お父さんからの贈り物だと思って、ね」
私は手を伸ばし、和音の前に置かれた小さな箱を手に取った。底から折り畳まれたメモ書きを取り出す。黄ばんでしまっているそれを開くと、懐かしい真史の右肩上がりの癖字。
『和音が中学校を卒業する頃
この不完全なオルゴールを
家族みんなで聞けることを祈って』
遠い未来に向けたささやかなその願いも、残念ながら半分は叶わなかった。今は二人となってしまった家族で、真史を想いながらこの音色に耳を傾けることが、彼への供養となるだろうか。
「聞いても……いい?」
時々しゃっくりを混ぜながら、和音が潤んだ目で私を見つめた。その顔にそっと微笑を返す。震える手つきでねじを巻き、テーブルの空いたスペースにオルゴールを置いた。
ポロン……ポロン……。ゆっくりと懐中時計が回り出す。曲は途中から始まって一回りする。その間にところどころ紛れ込んだ不協和音に、和音がクスッと泣き笑いを見せた。びっくりするほど几帳面な真史に似合わない、イレギュラーな音。私の知らない面を知っている、調子外れの音符たち。
曲が最初から始まった。和音がハミングでメロディを追いかけている。
「……?」
曲半ばで、緩んでいた和音の口元がきゅっと引き締まった。鼻歌をやめ、手の甲で目をこすり、何かに集中するような仕草を見せる。だんだん前のめりになっていくその鼻先で、真史のオルゴールはまだゆるやかに回り続けていた。
「どうしたの……?」
声をかけると、娘はようやく顔を上げ、さっきとはまったく違う真剣な眼差しで、私の瞳を真っすぐに射た。
「お母さん、このオルゴール、壊れてなんかないよ」
そして私の鞄からボールペンをひったくると、左手の人差し指でリズムを取りながら、手近の紙ナプキンに何かを記し始めた。
3
「……それで、どういうことなの?」
一夜明け、のんびりとリビングに降りてきた和音に、朝の挨拶もそこそこに聞いてみた。昨日、レストランで何やら必死に考えていた和音だったが、「ただの私の勘違いだったら恥ずかしいから、明日まで保留させて」と、その胸の内を口にすることはなかった。オルゴールを箱ごと娘に渡したまま、悶々とした思いで一晩を過ごし、迎えた今日。和音はすっきりしたようなもやもやしたような、複雑な表情を浮かべて私を見つめた。
「……お母さん、あのね」
「何?」
「あのオルゴール、やっぱり壊れてなかった。でも、よくわからないから一緒に考えてほしいの」
まさか一晩中悩んでいたわけでもないだろうが、目の下が若干薄黒くなっている。とりあえず頭を起こしなさい、とホットココアを用意した。ずずー、という行儀の悪い飲み方を軽く咎める。
「一体どうしたっていうの? 壊れてないのがわかったとかわからないとか……。お母さんには、和音の言ってることがよくわからないわ」
「うん。ちょっと待ってね、説明するから」
そうは言ったものの、休日の彼女の朝はいつものんびりで、パステルピンクのパジャマを桜色のスプリングセーターと薄手のキュロットスカートに着替え、テーブルの向かいの席につき、幸せそうな笑顔でココアを飲み終えるまでしばらくかかった。
「何から説明したらいいかな……。えっとね、あのオルゴールにところどころ入ってる『外れた音』なんだけど、あれ、偶然とか設計ミスでああなったんじゃなくて、わざとそういうふうに作ってあるの」
「え?」
「間違いないと思う。自信あるよ、これにはちゃんと根拠があるもの」
彼女が取り出したのは、手書きの音符が並ぶ一枚の五線譜だった。紙面に数箇所、赤マジックで丸がつけてある。一小節目を指差して、和音が口を開いた。
「このオルゴール用に作られた『大きな古時計』は、『大きなのっぽの古時計……』から始まって『おじいさんが生まれた朝に買ってきた時計さ 今はもう動かないその時計』までで一回りする。それはお母さんも知ってるよね?」
「もちろんよ」
「それで、出だしの『おー』の音を含めて、全体で十六小節と一拍――計六十五拍あるけど、全部で十個ある問題の不協和音は、この六十五拍を正確に十等分した箇所に置かれてるの。きっちり六・五拍に一音。こんな偶然、有り得ないでしょ?」
言われて慌てて五線譜を追う。私は我が目を疑った。赤丸のつけられた十個の四分音符は、確かに最初の音からずっと六拍半を保って最後まで続いていた。
「和音、あなたまさか……昨日の夜、一度聴いただけでこれを見抜いたっていうの?」
驚嘆の眼差しで娘を見つめると、和音は腰に両拳をあてて胸を張り、得意げに笑ってみせた。我が娘ながら、その耳の良さには敬服するばかりだ。
「そう……。でも、なんでわざわざお父さんがそんなことを?」
「ちょっと待って。この仕掛け、本当にお父さんがやったことだって断言できる?」
「どういう意味?」
少し真顔になった和音は、私のほうをちらりと覗き、わずかの間だけ言葉をためらってから先を続けた。
「オルゴール用に作られた『大きな古時計』の楽譜は、お父さんと同じ高校に勤めていた千谷崎という音楽の先生が作った、って言ってたよね。もしかしたら、わざと余計な音を混ぜて編曲したのは、その千谷崎先生のほうかもしれないじゃない」
「何のために?」
「それは……その……うちのお父さんへの、愛の告白を織り交ぜた、とか」
虚を突かれて一瞬目が点になった。ばつの悪そうな表情で、和音が私をじっと見つめている。視線を受け止めながらしばらく思いを巡らせているうちに、その心配が杞憂であることが証明できるとわかってほっとした。
「大丈夫よ、和音。それはないと思うわ」
「……どうして?」
「理由は幾つかあってね。まず、その千谷崎先生が、このオルゴールを最初から誰かへのプレゼント用として作られていると認識していたこと。もしも、お父さんへ何らかのメッセージめいた暗号を送りたいとするなら、そのオルゴールは自宅用、つまりお父さん自身の持ち物として作られていなくてはいけない。他の人の手に渡ってしまったら、その時点で仕掛けは意味を成さなくなってしまうから。ここまではいい?」
言われたことを反芻しながらなのか、和音は上目遣いのままでゆっくりうなずいた。
「もう一つ。これは手作りだからこそ言えること。完成したオルゴールを、お父さんが視聴しないわけはないと思わない? 上手く曲が流れるのかチェックしたい、というのは、自分で作ったものならとても自然な感情だと思うの。で、聞けば誰でもわかるような明らかな不協和音が混ざっていれば、ピンを抜いたり切ったり折ったりして、いくらでも修正できたはずよね。オルゴールの製造方法を考えれば、音の追加はともかく、削除なら簡単にできるみたいだもの」
どう? と口には出さずに、今度は私が自慢げにちょこんと首を傾げてみせた。和音の顔がみるみる明るくなる。両掌を合わせて「そっかぁ……。よかったぁ」と呟くのが聞こえた。
「何よ、和音。あなたもしかして、それを心配して一晩悩んでたの?」
それには答えず、えへ、と舌を出して肩をすくめた。仕草もそうだが、その思考の流れがとてもかわいらしくて、思わず笑みがこぼれた。
「それじゃ話を戻しましょう。和音は、どうしてお父さんがそんなことをしたんだと思うの?」
「うん、さっきお母さんもちらっと言ってたけど、私はその十個の音符がお父さんからのメッセージなんじゃないかって思ってるの」
五線譜が和音から手渡される。綺麗に並んだおたまじゃくしの下、ページ最下段の余白部分に連ねられた十の音階を、一文字ずつゆっくりと読み上げた。
「――ソ・ド・レ・ラ・ソ・シ・ラ・シ・ミ・ファ」
4
「……あと、この箱なんだけどさ」
私が五線譜から顔を上げるのを待って、和音はオルゴールが入っていた紙の箱を差し出し、一つの面を指差す。全体に黄ばんだその箱の一面にくっきりと引かれている黒い線は、血のついた指で書かれたものだと後から知った。
「ああ、それ。警察の人が、お父さんが亡くなる直前に書き残したものだって教えてくれたわ。ずっと、私の名前を書こうとしたのかなって考えてたけど」
「っていうことは、お母さんも片仮名の『シ』だって思ってるんだね」
一面全面に大きく引かれた三本の線。短いものが二本と、右上がりの長いものが一本。そう、理由はわからないけど、真史が死の間際に私の名前――志穂の頭文字『シ』と書いたんだろうな、という漠然とした思いがあった。
「まあ、無理すれば『ツ』と読めなくもないけど、最後の一本が左下から右上に向かって段々かすれてるところをみると『シ』の可能性が高いんじゃない?」
「うん、それは私もそう思う。けど、お母さんの名前を書こうとしたんじゃない、ような気がする」
紙箱と楽譜を渡して両手が空いたからか、和音はいつの間にか冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して一人で飲んでいた。コップから一口もらって返し、先を促す。
「あのね、これ一面全体に書いてあるでしょ。お母さんの名前は二文字なんだから、それを書くつもりだったなら、これじゃ一文字が大きすぎるの。半分か、せめて三分の一くらいのスペースを残しておかないと、二文字はとても入らない。まさか他の面に書くつもりだったわけでもないと思うし」
なるほど、確かに説得力はある。しかしそうなると、別の疑問が出てきた。
「じゃあ、お父さんが一文字だけ書き残すつもりだったとしましょう。だったらどうして片仮名なの? 『シ』と書くくらいなら、平仮名で『し』と書いたほうが早いし、わかりやすいと思わない?」
「うん……。きっと、片仮名の『シ』じゃないといけない理由があったのよ。で、これも多分、お父さんが伝えたいメッセージに何か関係があるんじゃないかって、私は考えてるの」
どう、と同意を求めるように和音が前のめりになって私の顔を覗き込む。さらりと流れる黒髪の先が鼻に触れた。むず痒さに顔をしかめる。そのままの表情で首を捻った。
「……わからない、わね」
ふぅん、とため息のような長い鼻息を残して席に戻る和音。二人して頬杖ついて、その間に鎮座したオルゴールを見つめる。
「昨日ね、色々考えてみたの。階名(ドレミファソラシド)で書かれたものを、音名(はにほへといろは)に変えてみたり、コード(CDEFGABC)に変えてみたり。でもそのたびに『とはにいとろ――』とか『GCDAGB――』とか、全然言葉にならない文章になってばっかりでさ……」
和音は、私に話しかけているつもりなのかどうか、小さな声で独り言のようにぼそぼそと呟いている。
――あなた。
――私達に、一体何を伝えたかったの?
「……これ」
オルゴールの箱の中に残されていた、真史の最後の手紙をぼんやり眺めていた和音が、突然声を挙げた。
「何が『不完全』なんだろうね」
「え?」
「この『不完全なオルゴール』っていう文章さ、何を指してるんだろうな、って思って。
だってさ、お父さんは、お母さんへの誕生日プレゼントとしてこのオルゴールを作ってたわけでしょ? で、その三月よりも二ヶ月も早い、あの事故のあった日には、もうオルゴールはできあがってたわけじゃない」
言われてみれば、確かにそうだ。真史はあの日、帰り際に千谷崎先生のところに挨拶に赴き、そこで「ようやく形になりました」という一言を残している。完成しているのでなければ出てこない言葉だ。
「だったら、このオルゴールが『不完全』っていうのは矛盾してる。もしオルゴールがちゃんとできあがってないんだったら、誕生日ぎりぎりまで作り続けるのが普通だよね」
「……そうね」
「ということは、オルゴールそのものはちゃんと完成してる」
徐々に、和音の言わんとしていることがわかってきた。
「じゃあ、『不完全』なのは、そのオルゴールに隠されたメッセージのほうを指している……?」
その返事を待つまでもなく、和音は五線譜を裏返し、もはや暗記してしまったらしい十個の音階をそこに書き写す。そして指折り数えながら、そのすぐ下に別の言葉を書き始めた。
「そうか、だから片仮名じゃないと駄目だったんだ!」
歓喜を含んだ叫び声。何度も何度も指折り確認し、その都度「うん、うん、絶対そうだ!」というような独り言を繰り返しては納得の表情を見せる。
「ちょっと、どうしたのよ? 一体何がわかったっていうの?」
「解けたのよ! お父さんが残した暗号が!」
Epilogue
「この不思議な十個の不協和音は、やっぱりお父さんからのメッセージだったのよ!」
興奮して顔が紅潮している。椅子から転げ落ちそうになる娘をとりあえずなだめて席に着かせると、先を促すより早く説明が始まった。
「まずね、この階名で書かれた十個の音階を、全部音名にするの。さっき、昨日試した時には『言葉にならない文章になってばっかり』って言ったじゃない。でもこれで合ってたのよ。で『ソドレラソシラシミファ』は『とはにいとろいろほへ』になる。
そこでさっきの『不完全』よ。これ、全部をいろはに変換しちゃったら、見てわかる通り意味の通らない文章になる。『不完全』なんだから、どれかを元のまま残しておかなきゃいけなかったの。
もうわかるよね? お父さんは、瀕死の状態で必死に暗号解読のためのヒントを残した。それが片仮名の『シ』だったのよ! いろはを使ってメッセージを残すなんて――」
古典の先生だったお父さんらしいじゃない、と続けるつもりだったのか、末尾が震えてよく聞き取れなかった。私の胸に溢れる、真史の深い想い。知らず、熱いものが胸の底から湧き上がってくる。
「……ほら、これがお父さんがお母さんに伝えたかったこと、だよ」
手の甲で涙を拭いながら、オルゴールと共に和音が差し出した楽譜には、解読したそのままの文章が彼女の字で記されていた。
『とはにいとシいシほへ』
――永遠(とわ)に愛しい志穂へ。
私は思わず顔を両手で覆った。涙が掌を伝い、頬や顎を濡らす。漏れる嗚咽を抑えることができない。席を立って私の後ろに回り、そっと肩を抱いてくれる和音。多分娘は、このメッセージの真の意味にまだ気づいていない。
「凄いよね、お父さん。お母さんのこと、本当に愛してたんだね……」
思うように声も出せず、こくこくと頷くことしかできなかった。そう、真史は本当に私を愛してくれていた。私のことを、しっかりと見据えてくれていた。
「……あの人は、わかってたのね。その上で、すべてを許すつもりだったんだわ」
「……何が? どういうこと、お母さん」
少しずつ落ち着きを取り戻し、ぐしゃぐしゃになった顔を和音の顔に向ける。
「和音、よく考えて。どうしてお父さんは、わざわざオルゴールを手作りしてまであんな手の込んだメッセージを残したんだと思う? どうして十五年も先に来る、あなたの中学卒業の時期を指定して『家族みんなで聞けますように』なんて書いたんだと思う?」
娘は潤んだ目のままで小首を傾げた。しゃっくりを一つ挟んで、私は続ける。
「お母さんには、オルゴールを一度聴いただけで、ずれた音のテンポや音階を読み取る力はないわ。現に何度聴いても、ずっと事故のショックで壊れたんだと思っていたものね。そしてそれは、お父さんももちろん知っていたはずなの。ずっと小さい頃にピアノをやめてしまって、そういう訓練はしていないから。
だからね、オルゴールに隠されたこの一文は、お母さん一人じゃ読み取れないように作ってあるの。暗号を解くより先に十個の音のずれとその音階を判別する必要があり、誰か音感に優れた人が一緒に聴かない限りそれはわからない」
和音の目が大きく見開かれる。ひゅうっと息を呑む音が聞こえた。
「じゃ、じゃあ、お父さんは……」
「そう、あなたが今くらいの年齢になる頃には、このメッセージを聴き取ることのできる力をつけているだろうことを予想――ううん、確信していたのよ」
そしてそれは、今から十五年――いや、オルゴールを作り始めた十六年前には既に、いずれは和音にピアノをやらせることを認めようとしてくれていたことにもなる。そしてそれは、憶測でしかないが、オルゴールと共に私の誕生日プレゼントとして贈られるはずだったのではないか。そうでなければ、このオルゴールを家族三人で聴くつもりだった十六年先までずっと、私と喧嘩を繰り返していただろう。そして心のどこかで、娘が実力をつけ、自分の手助けを待つまでもなく、あっさりと暗号を解いてしまうことを期待していた。
あれだけ娘に夢を託すことに反対し、喧嘩ばかり繰り返した挙句、仲直りもできずに死別してしまった真史は、遥かな未来へ向けて、『すべてを許していた』というメッセージを小さなオルゴールに込めたのだ。
仕掛けに気づき、音を拾い上げる和音。
現れた十の音階に、首を捻る私と娘。
その横で、優しく笑いながら二人を見つめる真史。
『ヒントをあげようか。シ、だよ、シ』
そんな風景を、夢見て。
あなた。
どうしてあなたは、そんなにも残酷なの。
どうして二度と会うことができない今になってもなお、あなたを愛させようとするの。
会いたい。
会いたい。
会いたい。
泣き崩れ、息もできないくらいの胸苦しさに喘ぐ私の背中を、あたたかな掌がさすってくれた。
顔を上げると、大粒の涙をぼろぼろと零した和音がこちらを見つめている。
その顔に、真史の安らぎに満ちた微笑みが重なった。
――了――
Go Back To Home