桜路来




 ――ここは、どこだろう。

 靴のつま先が見える。自分の足らしいと気づくのに少し間があった。徐々に五感が戻ってくる。煌々と注ぐ月光を背負うように俯いていた顔を上げると、ほんのり涼やかな夜風が頬を撫でた。緩やかに右にカーブする堤防の両脇には、街灯の代わりというわけではないだろうけど、見事な桜の列が続いていた。
 ――こんな綺麗な桜並木、あったんだ。
 揺られ、梢がさざめく。さわさわ、さわさわ。私の耳に、それが囁き声となって届いた。

 ツバサヲオラレタテンシハ
 タダオチテイクダケナンダヨ

 霞がかったようにぼんやりしていた意識が、殴られたように瞬いた。どこかに置き忘れてきた、いや忘れようとしていた記憶が、鉄砲水のようにどっと押し寄せてくる。歯の根が合わない。血の気が引く音すら聞こえてくるようだった。

 アタシノタメニ
 アタシノコトヲオモッテウタッテヨ

 胸の辺りをえぐられ、ぽっかりと穴を空けられたような喪失感が全身を貫く。かさかさに乾いた心がこすれ、軋む。苦しい。ただ苦しい。息が詰まる。心臓を冷たい掌で鷲掴みにされているようだった。

 アタシノコトワスレナイデネ
 キットダヨ ヤクソクダヨ

 耳を両手で塞いだ。いっそ引きちぎってしまいたい衝動にさえ駆られた。わななく体に鞭打つように走り出す。自分の叫び声を遠くで聞いた気がした。
 ――私は、いつから、泣いていたんだろう。

 声から逃げ出したい一心で、光の漏れる扉を突っ込むように開けた。蝶番とドアベルが悲鳴をあげる。それを乱暴に閉めると、笑った膝がかくんと折れ、扉を背にずるずると座り込んでしまった。
「いらっしゃいませ……おや、これはいけない」
 誰だろう、優しげな男の人の声がする。フローリングの上をぱたぱたと小走りに動くスリッパの音、かちゃかちゃとコップらしきものがぶつかる音、そして、ふわりと肩にかけられた、柔らかく暖かいもの。
「顔が真っ青ですよ。さあ、とにかくこちらに座ってください」
 毛布を抱えて目を上げると、眼鏡の向こうから覗く心配そうな瞳と視線がぶつかった。

 導かれるままに、すぐ傍の二人がけの席に腰掛けた。自分を抱き締めるような格好で背中を丸め、大して寒くもないはずなのに体の震えを止められないでいる。じっとテーブルを見つめるその先に、ことりと白いカップが置かれた。桜の花びらをあしらった可愛いデザインで、スプーンとソーサーもお揃いだ。その中から、甘い香りと湯気が立ち昇っている。
「ミルクココアです。当店自慢のお味ですよ」
 そう言いながら、向かいの席に座る男の人は、人懐っこい笑顔を浮かべていた。右手で「さあ、どうぞ」と促す。両手で包み込むようにコップを持つ。そっと口に含むと、どこか懐かしいような、ほっとする甘さが広がった。こわばっていた体と凍りついた心を少しずつほぐしてくれる、優しい味だった。
「……あったかい」
 ぽつりと呟いた一言に、男の人は満足そうに「うん」と頷き、それきり何も喋らず、じっと私が飲み終わるのを眺めていたようだった。ぽろぽろと滴るものが、テーブルに点々と染みを浮かべた。

「落ち着かれましたか? だいぶ、顔色もよくなってきましたね」
 ようやく顔を上げた私に、その人はにこりと笑いかけた。目が腫れているのを感じる。
「……ごめんなさい」
「いいんですよ。ここには、あなたのような人がたくさん来ますから」
 周りを見渡す余裕ができた私は、緩慢な動きで視線を泳がせた。
 総木作りの、小ぢんまりとした店内。テーブルとカウンター席を合わせても十人と少し入れるかどうかという広さだ。スピーカーも雑誌も観葉植物もない。時計さえも見当たらない。でも、少しも寂しさを感じさせない雰囲気があった。
「あの、ここは……」
「ようこそ、喫茶『オーロラ』へ」
「おーろら?」
「桜の路を来る、と書いて『オーロラ』と読みます。桜並木に囲まれた店にはぴったりでしょう?」
 ポケットから取り出した紙マッチには、白地に木目調のポップ文字で『桜路来』とだけ書かれていた。
「素敵なお名前ですね」
「ありがとうございます」
 マスターは、渡(わたり)と名乗った。薄ピンクのシャツに焦げ茶色のエプロンとズボン。桜の木をあしらっているのは明らかだった。痩身長躯が一層そう見えさせる。さしずめ、頭の上の天然パーマは鳥の巣だろうか。くすくすと笑いをこらえる私を見て、渡さんは首をかしげた。

 それきり、私が時々ココアをすする音と、風でかすかにがたつく扉の音が、店の中を漂った。目の前に座ったまま、何をするでもなくぼんやりと私と窓の外とに視線を泳がせている渡さん。けど、不思議と息詰まるような感覚はなかった。少しずつ減り、冷えていく琥珀色の液体とは逆に、かたくなに現実を拒んでいた私の芯の部分が和らいでいくのを感じた。角が丸みを帯び、何か嫌なものが溶け出していく。コップの水に氷を落としたように。
 最後の一滴まで飲み干して、ほう、と溜息。ごちそうさまでした、とお礼をするつもりだったのに、口からついて出たのは、ついさっきまでひたすら逃げていた、絶対に認めようとしなかった現実だった。
「……今日、とても大切な人を、亡くしました」
 ソーサーに伸びた手が、一瞬だけ止まった。渡さんは音も立てずにカップを下げると、カウンターの奥から新たなグラスを二つ持ってきた。氷とガラスのぶつかる、からん、という音が心地よかった。
「お話、長くなりそうですから」
 よく冷えたオレンジジュースで喉を潤すと、爽やかな酸味が舌に残って、そこからするりと言葉が漏れてきた。




 詩人の、千谷崎恵(ちやざき・めぐみ)ってご存知ですか? 実は、昔からの知り合いだったんですよ。


「ちょっとちや姉、聞いてよー」
 小さな机に向かって勉強しているようなポーズのちや姉を認めると、何よりもまず出てくるこの一言。日頃から鬱積しているものをここで吐き出すことが多いんだけど、いつ来ても愚痴ばっかりで悪いなぁと思う。そんなことを知ってか知らずか、いつもの調子でゆっくり振り返ったちや姉は、栗色のウェーブヘアをさらりと広げて、
「はいはい、今日はどうしたの、園子(そのこ)ちゃん」
 と、これまたお決まりの台詞で微笑んだ。私はベッドにぽんと腰を投げ出して、仕事に関するありとあらゆる文句をぶちまけるのだった。
 歌うことが何より好きで、歌手になるんだ、ってずっと夢見てたから、街頭スカウトで声をかけられた時はとにかく嬉しかった。憧れの芸能界に飛び込んで、自分の歌を色んな人に聞いてもらうんだ、って目を輝かせてた。なのに、契約したプロダクションが私に課したのは「アイドル歌手」というありがたくない肩書きだった。雑誌のグラビアやバラエティ番組にちょこちょこと顔を出すだけで、歌う機会はそれより更に少なかった。その歌にしても、どこかの作曲家が鼻歌交じりで十分程度で作ったような、いかにもアイドル然とした歌詞では、真剣に歌う気にもなれなかった。甘えだということはわかっていても、どうにもできない自分にとてもいらいらする。
 いつかチャンスがやってくる、そう言い聞かせながらだらだらと仕事を続けて、もう丸二年。こんなことを繰り返していていいんだろうか、最近特にそう思うようになった。
「さ、じゃあ今日もやりましょうか」
 うん、と力強く頷いた。部屋の隅っこに置いてあるアップライトのピアノの前に座ったちや姉と、その斜め後ろに立つ私。何の合図もなく、突然前奏が始まる。
(ああ、いつ聞いてもちや姉のピアノは気持ちいいな)
 そんなことを考えながら、私は静かに息を吸い込んだ。


 実家を出て、一人暮らしを始める時も、ちや姉が住んでるマンションと同じところに入居したんです。小さい頃から、近所のお姉さんだったちや姉の家に行っては、彼女の弾くピアノで歌を練習してました。その時からずっと、あなたは将来、絶対超一流の歌手になれるわ、あたしが保証する、って言ってくれてた。だったら、演奏家として一緒にデビューしようよ、なんて笑ってましたっけ。だって、そこらのピアニストなんかより、ずっと上手だと思ってましたから。
 そんなちや姉には、もう一つ素晴らしい才能があったんです。


「……そうそう、まだ園子ちゃんには言ってなかったよね」
「何?」
「あのね、詩集が出るの」
「えっ!? ほんと? 凄い凄いっ!」
 まだ私が中学生ぐらいの頃、趣味で書いてるだけなんだけどと断って、詩を書いたノートを見せてもらったことがある。鉛筆書きだけど、消しゴムで修正した跡はどこにも見当たらない。ただ一度の迷いもなく、控えめだけど凄く綺麗な字で流れるように書かれたそれらを読んだ瞬間から、作品世界の虜になった。この人は将来本を出すことになるだろうと確信した。
 一つ一つの言葉が、煌き、琴線を震わせる。薄いガラスに施された彫刻のような、危ういほどの繊細さと脆さが、心を撫でる切なさに昇華する。滑らかに体の中を通り抜けて、胸の辺りにあるコップに音もなく溜まっていく。そして時折、こぷん、と揺れる。
 上手く表現できないのがもどかしいけど、心をいつまでも潤し、癒してくれる、そんな素敵な詩ばかりだった。
 気まぐれかどうかは知らないが、ひょいと投稿した一編が、選者の目を惹いて釘付けにしたらしい。幾つか纏まったものがあったらぜひ見せてほしいと依頼され、書き溜めていたノートを出版社に持参することになったとか。その後は、まさにとんとん拍子。一冊の本になる、という話が持ち上がるまでにそう時間はかからなかった。
「そっかぁ、とうとうって感じだね。なんで今までそういうのに出してみなかったの?」
「えー、だって……」
 ぺろ、と舌を出して、恥ずかしいじゃない、とちや姉が笑った。


 年上だったけど、なんだか、いい意味で子供みたいな人でした。純真で、かわいらしくて、誰からも愛されるような。……寂しいけど、どう頑張ってもああはなれないなって思いました。多分、私よりずっとアイドルに向いてたんじゃないでしょうか。
 でも、何度か詩を作ってるところを見たことがあったんですが、初めて居合わせた時は面食らいましたよ。あんな調子じゃあ、せかせかした芸能界ではやっていけないだろうなぁ、なんて思ったこともありましたっけ。


「やっほー」
 いつものように部屋に入ろうとすると、返事がなかった。入り口の鍵はかかってなかったのに、いくら呼んでも誰も出てくる気配がない。不審に思って寝室のドアを開けると、椅子に座って、窓から入る淡い陽光を浴びながら、ぼーっとしているちや姉を見つけた。
「……どしたの?」
 目の前で手をひらひらさせてみても、反応がない。目は遥か空に浮かぶ一片の雲を見つめているようだった。肩を揺すろうとして手を伸ばした瞬間、するりとちや姉が立ち上がった。と、そのまま机に向かい、広げてあったノートに何かを書き始めた。かりかり、しゃっしゃっ、という音と黒鉛の匂いが、とても懐かしく感じた。
 一度も途切れることなく続いたその音を聞きながら、しばらく呆然とその姿を眺めていたら、ふぅ、と背もたれに体を預け、ちや姉が天井を仰いだ。そして、
「あれ? 園子ちゃん、いらっしゃい」
 と、至極間抜けな挨拶をよこしたのだった。

「ちや姉、ああいう状態になるのがわかってるんだったら、せめてドアチェーンぐらいしといてよね。入ってきたのが私だったからよかったようなものの」
「ごめんねー。すっかり忘れてたの」
 ころころと笑うちや姉の顔を見ると、何も言う気力がなくなってきた。
「それにしても、いつもあんな感じで詩を書いてるの?」
「うん。話したことなかったっけ?」
「ないよ。ねえ、私も将来、シンガーソングライターになりたいと思ってるんだけど、よかったら創作秘話なんて聞かせてほしいなぁ」
 ちや姉は、ちょっとくすぐったそうな、困ったような顔をして、
「あたしはね、何かに感動を受けたり、これを詩の題材にしたいと考えた時、すぐにはペンを取らないの。ソウゾウ――創るのと想うのと、両方ね――の大空にじっくりと漂わせて、何時間も、時には何日も、その空を一緒に飛び回ってる。ふわふわ、ふわふわって。そうすると、ちょうど雨が降るみたいに色んな言葉がほろほろと零れてくるのよ。あたしは、それを受け止め、拾い集めて書き留めるの。だから、本当はあたしが作ったとは言えないのかもね」
 と言った。これじゃあ参考にはならないかな、とこっそり溜息。私には、ちや姉のように天を舞う翼はない。さっきは、ちょうど一生懸命拾い集めてる真っ最中だったから、周りの音が全然聞こえなくなってたの、とすまなそうな表情のちや姉。その集中力には感心するばかりだ。
「初めてそういう体験をしてから、今までずっと、あれは天使の贈り物だと思ってるわ。だからもし詩集を出せるとしたら、タイトルは絶対『天使のかけら』にしようって決めてたの」
そう笑って、一冊の本を胸の前に掲げてみせた。空色の表紙に、白くてふわふわした羽が一枚。控えめな字で『天使のかけら』と書いてある。
「そうそう、今日はそのことで来たんだった」
「なぁに?」
「はい、詩集出版おめでとう!」
 その時になって、後ろ手に隠し持っていた大きな花束をようやく渡すことができたのだった。


 なんだかね、本のタイトルにしても、仕草や表情一つ取っても、そういう創作スタイルにしても、本当に天使みたいな人でした。誰だったかなぁ、「千谷崎恵の詩は、まるでセイレーンの歌声のようだ。人生という名の航海において、彼女の紡ぐ言葉は我々を桃源郷へと誘う天使の歌声だ」とか言ってたの。セイレーンは天使じゃなくて、ギリシア神話に出てくる魔物だよ、って膨れてた顔も、凄く絵になってた。
 趣味が実益に取って代わり、かけがえのないものになっていったらしいです。詩を書くことが生き甲斐、みたいな。実際、詩集を感慨深そうに眺めるちや姉の横顔は、自分の子供を見つめる母親のような充足した表情でいっぱいでした。
 私も、そこまで歌を愛することができるだろうか。そんな風に考えたりもしました。




 三週間ほど前だったでしょうか。そのちや姉が事故に遭ったんです。


「ちや姉!」
 ばんっ、という病院にあるまじき凄まじい音を上げながら、廊下にずらりと並んだドアの一つを勢いよく開くと、痛々しくギプスで固められた左足を天井から吊り下げたちや姉が、真っ白な包帯を巻かれた頭をふわーっとこっちに向けて、
「あら園子ちゃん、来てくれたのね。ありがとう」
 と、けろっとした調子で微笑んだ。
 バイクとの接触事故、としか聞いていなかった私は、一体どれほど最悪の状況を予想していたというのだろうか。拍子抜けするやら気が抜けたやらで、何を言う暇もなく、腰から下の支えを失ってリノリウムの床にへなへなと座り込んでしまった。後から入ってきたおばさん――ちや姉のお母さん――が、きょとんとして私の姿を見ていたらしい。うな垂れてぽろぽろ泣いていたので、その時は誰かが入ってきたことすら気づかなかったんだけど。


 聞いた話によると、ちや姉はマンションの近くの路地みたいな細い裏道を通ってたんです。商店街からの近道で、私も時々使ってるんですけど、その途中にあるT字路をほとんど減速せずに曲がってきたノーヘルの原付に、左足をぶつけられたらしいです。で、そのままバランスを崩して、すぐ横のコンクリ壁に頭をごつん。バイクはちょっとよろけたらしいけど、そのまま逃げようとしたんですって。最低ですよね。そしたら、そのすぐ先でハンドルを切り損ねて、電柱に正面衝突したとか。天罰覿面、同情の余地なし。ふんだ。


 左足は、軽く罅が入っただけのようで、頭も傷や出血があったわけでもなく、念のために入院措置を取ったということらしかった。あの綺麗なさらさらウェーブが包帯の向こうに隠れてるのはとてももったいない気がした。
 入院して次の日から、早速お見舞いを持っていった。ちや姉が大好きなりんごをバスケット山盛り……は、さすがに飽きるだろうから、色とりどりの果物を抱えて病室に入ろうとした。ドアを開けるのにちょっと苦労するほどだった。
「あら、園子ちゃん。来てくれたのね、ありがとう」
 もう左足はベッドに下ろされている。やはりそれほど酷い怪我ではなかったとわかって、改めてほっとした。小首を傾げて微笑むちや姉は、春の陽光を背に浴びて、いつもよりぼんやりとした金色の輪郭を見せていた。後光の差した天使のイメージが、ふとだぶった。
「今日は、おばさんは来てないの?」
 カラフルな山を崩さないようにそっと枕元のテーブルにバスケットを置いたら、「よっこいしょ」と思わず掛け声をかけていたことに少しショックを受けた。運動不足を痛感する一瞬だった。
「うん、まだ」
 と言うが早いか、背後で蝶番の軋む音がした。振り返った私の顔を見て、おばさんは嬉しさと寂しさをない交ぜにしたような、奇妙な表情を浮かべた。
「こんにちは」
「あら……よく来てくれたわね。ちょっとごめんね」
 おばさんは、バスケットの向こう側に手を伸ばすと、ハンカチを手にすぐ出て行った。ふと見ると、大きな果物の山の陰になって見えないところに、黒いハンドバッグが置いてあった。そんなところに鞄があったことなんて全く気づいていなかった。
(ひええ、下敷きにしなくてよかった……)
 肩をすくめる私を見て、ちや姉はまだ微笑を浮かべていた。


 仕事の合間を縫って、しょっちゅうお見舞いに行きました。さすがに毎日というわけにはいきませんでしたけど、それでもかなり頻繁だったので、逆に煩わしく思われないかなぁ、なんて心配もしてました。でも、ちや姉はいつも「今日はありがとう」って言ってくれて、凄く嬉しかったんです。


「おお、だいぶ減ったね」
 りんごを筆頭に堆く積まれていた山の高さが、やっと控えめに落ち着いてきた。それでもまだ赤い塊が幾つか埋もれている。いくつぐらい買ったのか、自分でもよく覚えていなかった。
「あら園子ちゃん、来てくれたのね」
 何度見てもうっとりする魅力的な笑顔。ぼーっとしてる時間が増えたような気はするけど、ちや姉はすこぶる元気だった。足の怪我も順調に治癒しているらしい。傍らには、真新しい松葉杖が立てかけられている。
「もう、歩く練習してるんだ」
「のんびりね。松葉杖なんて使ったことないから難しいわ」
 この調子だと、退院もそう遠くないだろう。暇潰しに、とたくさん持ってきた本の中から、数冊だけ取り出して手渡した。
「ありがとう。りんご食べる?」
 にっこりスマイルを見せて本を受け取ると、返事を待たずにちや姉が果物ナイフを手にした。そのままで少し固まっていたかと思うと、既に八つ切りでお皿に盛られているりんごの一片にぶすりと刺し入れ、そのまま齧った。
「ちょっとちや姉、危ないー。ちゃんとフォーク使ってよね」
「あはは、そうよね」
 もう、と溜息混じりに漏らしながら、お皿と揃いの柄の入ったフォークを摘んだ。りんごは、少し酸化してくすんだ金色の面をのぞかせていた。


 スケジュールの兼ね合いで、退院に立ち会うことはできませんでした。その後しばらくも、なんだかんだとばたばたしてて、マンションに戻るのが翌日という日が続いたせいでなかなか会うことができませんでした。ちや姉もしばらく通院してたようでしたし。ともあれ私は、心配事が一つ解決したせいか、今までより少しやる気が上乗せされた状態で仕事をこなしていきました。
 そして、今日。久しぶりのオフで、夕方頃部屋で寛いでいると、チャイムが鳴ったんです。


「あれっ、ちや姉じゃない」
 足は大丈夫なの、と聞くより早く、入り口のドアを大きく開け放した。痛々しい松葉杖で、それよりもっと沈鬱な表情を隠して、ちや姉は無理に笑おうとしたらしい。頬が引き攣ったような笑顔が、何か冷たいものを背筋に走らせた。
 とにかく、部屋に招き入れて、ダイニングの椅子に座ってもらった。常にストックしてあるりんごジュースを冷蔵庫から取り出す。かさかさという音に振り返ると、ちや姉はポケットから一枚の紙を取り出していた。
「はい」氷とストローを入れてコップを手渡す。受け取るその顔もどこか虚ろだ。どうしたの、と尋ねようと口を開きかけた時、
「園子ちゃん、これ、あたしが作ったの」
 と、持っていたものを広げて見せた。ちや姉が普段から好んで使っている、右隅に天使のイラストをあしらった純白の便箋。そこには、筆圧の低い文字を何度も消したような、薄く黒ずんだ跡が幾つか残されている。その中に埋もれてしまいそうなほど力のない文字で、何か文章が書いてあった。
『忘れないで きっとだよ 約束だよ』
 そんなフレーズが目に飛び込んできた。また、嫌な寒気に襲われた。
 何か言おうとしても言葉にならず、ただ呆然と立ち尽くしている私が全く視野に入っていない素振りのちや姉。テーブルに置かれたコップに手を伸ばしては、ストローで溶けかかった氷をからからと弄び、ふぅ、と溜息をついている。とっくに飲んでしまったのか、ジュースはもう残っていない。
 と、いきなりちや姉が立ち上がった。左足を庇いながらひょこひょこと近づいてきたかと思うと、弱々しい力で肩から抱き締められた。勢いで、いい匂いのする髪がふわりとかぶさる。それをすっと指でずらして、耳元でこう囁いた。

「翼を折られた天使は、ただ落ちていくだけなんだよ」

 涙が零れた。自分でも何がどうなったのかわからない。感情のコントロールができなくなってしまっている。ごめんね、ごめんね、と繰り返されるフレーズ。暖かい腕がゆるりと離れ、ちや姉はそのままベランダに向かった。黄昏は、五階から見下ろす街をオレンジ色から薄暗い青へと緩やかに染めていく。美しいグラデーションをわずかに残す空に背を向け、手摺に腰掛けたちや姉は、危ないよ、と声をかけた私の瞳を真っ直ぐに射抜いた。

「あたしのために、あたしのことを想って歌ってよ」

 泣いてるような、震えた声で。表情は、闇に紛れて見えなかった。

「あたしのこと、忘れないでね」

 ゆらりと、体が後ろに倒れた。両手を広げて、ゆっくり、ゆっくり。

「きっとだよ、約束だよ」

 精一杯に伸ばした私の手は、しかし指先さえも届かなかった。




「――風が、強くなってきましたね」
 かた、かたかた、という音が少し大きくなった。渡さんがぽつりと漏らした一言を最後に、店の中には静寂が降りている。そこへ小さな傷をつけるように、かた、かたかた。ガラス窓が、小さく揺れる。
「この調子だと、いいものが見られるかもしれません」
「……いいもの?」
「はい。一緒にご覧になりませんか」
 その前に、と渡さんがカウンターから取り出したのは、冷たいおしぼりだった。顔に当てると、涙で真っ赤に腫れた目に、ひんやりとした感覚が心地よかった。長い長い一人語りの途中、いつから泣いていたのか、全く覚えていなかった。

 私を入り口の外へ促すと、渡さんは店の内外の照明を全部切ってから後に続いた。ふわっと肩に乗せられたのは、薄手のスプリングコートのようだった。
「少し冷えるかもしれませんので」
 袖を掴むような格好で、ありがとうございます、と呟いた。
「あの、一体何が?」
「それは、お楽しみということにしておきましょう」
 月明かりだけを頼りに上目遣いで表情を見やると、影の中にうっすらと悪戯っぽい笑みを浮かべた唇が映った気がした。
「いつ起こるかは天任せですが、私の感覚では、恐らく今日に間違いないと思うんです。その時が来るまで、少しお話をしましょうか」
 風に揺られて、美しい花弁をはらはらと舞わせる桜並木を真っ直ぐに見つめながら、こんなことを渡さんは言った。

「もし、歌えなくなってしまったら、どうしますか」

 質問の意味を問い質すより先に、言い表せない恐怖感が全身を貫いた。少し間を置いて渡さんが続ける。
「自分がどれだけあるものを愛しているのか、というのは、普段何事もなくそれが存在している時よりも、それを失った時のことを想像したほうがよりはっきり感じられると私は考えています。
 仁木さん――とお呼びすればよいですか――は、先程のお話の中でこうおっしゃっていましたね。『私も、そこまで歌を愛することができるだろうか』と。今の質問に対し、どう思わたでしょうか? それが答えですよ」
 まるで、自分自身が消えてしまうような感覚に陥った。喪失感でも虚無感でもなく、そう、一番近い感情は、絶望――。体が、小刻みに震えた。
「そして千谷崎さんは、失うものがあまりにも大きすぎたために、その重さに耐え切れず、自ら命を絶つ結果となってしまったわけですね……。哀しいことです」
 黙祷を捧げるように、渡さんが少し頭を下げた。眼鏡のレンズが、かすかな月明かりを弾く。
「ちや姉が……失ったもの?」
 ようやく絞り出した声は、体と同調するように揺らいでいた。
「それは――翼です」

 ――ソウゾウの大空にじっくりと漂わせて、何時間も、時には何日も、
 ――その空を一緒に飛び回ってる。

 ちや姉が、飛べなくなった?

「入院中のエピソードも幾つか話してくださいましたね。その中に、どうしても不自然としか思えない行動が見受けられました。例えば、最初にお見舞いに行かれた時のことです。仁木さんが果物の詰まったバスケットを置いてから、どういう会話を交わしましたか」

 ――今日は、おばさんは来てないの?
 ――うん、まだ。

「その後、千谷崎さんの母親が入ってきたんですよね。そして、バスケットの陰に隠れていたバッグの中から、ハンカチを取り出した。おかしいと思いませんか? たとえ娘がいるとしても、手持ち品を病室に置きっぱなしで家に戻るというのは」
 言われてみれば、そうかもしれない。しかし、それが意味するところを、私はまだ読み切れないでいる。
「また別の日、りんごを食べるかと勧められた時、千谷崎さんはなぜかナイフで八つ切りのりんごを刺して、自分で齧ったんですよね。どうしてそんなことをしたんでしょうか。すぐ傍にフォークがあるなら、それを使うのが自然でしょう」
 少し変色してしまったりんごを思い出す。あの時、ちや姉はどうしてナイフを手にしたのか。既に切ってあるのを忘れて、新しく皮を剥くつもりだったのか。そして、置いてあるりんごを見つけて刺したのはいいけど、それを人に向けることはできないから自分で。
 ……忘れた?
 胸の奥に、ぽつんと小さな黒い疑念が生まれた。
「退院後、仁木さんの部屋に千谷崎さんが来た日、つまり今日ですが、ジュースをご馳走したんですよね。それを飲み干しているにも関わらず、置いたコップに何度も手を伸ばしていた」
 そう、まるで飲んだことを忘れてしまったような仕草だった。……一体誰が飲んだんだろう。ああそうか、あたしが飲んだのか……。そして、溜息。
「そして、その時に持ってこられた詩。いつもは何の迷いもなく、すらすらと流れるように書いていたはずなのに、どうしてその日のものだけは、便箋に消しゴムで修正した跡が残っていたんでしょう」
 それは、天使のかけらを拾い集めたものじゃなかったから。ちや姉が文字通り、自分の言葉で紡ぎ上げたものだったから。

 ――園子ちゃん、これ、あたしが作ったの。

 だからこそ、はっきり「作った」と表現したんだ。前は「本当は、あたしが作ったとは言えないのかもね」って苦笑いしてたのに。

 風が、また少し強くなった。

「大脳の一部に、海馬という器官があります。主に記憶を司る部位ですが、ここにある種の衝撃が加わり物理的障害を受けると、記憶障害を引き起こします。記銘、という言葉をご存知ですか?」
 ぼんやりとした頭を横に振った。
「記憶を構成する要素には、記銘、保持、再生というものがあります。外から入ってきた情報を刻印すること、刻印したものを覚え保ち続けること、保持したものを時に応じて呼び戻すこと、です。このうち、再生の機能が著しく低下した状態が、健忘――いわゆる『記憶喪失』です。
 では、記銘、もしくは保持の機能が失われた場合はどうなるでしょうか。
 おわかりですね。新しい記憶を形成することができなくなるのです。千谷崎さんがどれほどの症状だったのかは知る術もないですが、極端に言えば、たった今目の前で行われたことを、数秒後にはもう覚えていない、そんな状態が発生するのですよ」

 ――あたしのこと、忘れないでね。

 忘れられることを恐れたのは、忘れることの辛さを知ったから?

「脳というのは、頭蓋に守られているとはいえ非常に脆い、水中に浮かんだ豆腐のようなものなんです。ちょっとしたショックでも、揺れてぶつかり、崩れてしまう。
千谷崎さんは事故の際、塀に頭を打ち付けた、ということでしたね。打ちどころが悪かったのでしょうか、不運としか言いようがありません。過去の記憶を失わなかった代わりに、これから先、生きていく上で全ての記憶を奪われてしまったのです」

 記憶の空を飛び回る翼を奪われたちや姉。天使がかけらを落とす前に、跡形もなく消え去ってしまう感銘の雲。詩集をまるで自分の子供のように眺めていたあの目は、その子供達を次々と心の中で失っていくことに気づいた時、迷うことなく死を見つめていたのだろうか。

 しゃがみ込み、嗚咽を漏らしていることに気づいたのは、渡さんにそっと頭を撫でられた時だった。
ココアのようにあったかくて、柔らかい掌だった。

 さああ、という潮騒にも似た葉ずれの音が、並木道を駆け抜けていく。桜の花びらを乗せた夜風は、火照った顔をゆっくりと冷ましてくれる。
「人は、生命活動のみを指して『生きる』というわけではありません。誰かがその人のことを覚えていてくれれば、その誰かの中でその人は『生き』続ける。あなたが千谷崎さんのことを忘れない限り、天使はいつまでも傍にいますよ」
 ひとしきり泣いた後、ようやく立ち上がった私に、そんな言葉をかけてくれた。はい、と頷いたつもりだったが、掠れて声にならなかった気がした。
「そして、願わくばぜひ、今日これから起こることも記憶に焼き付けておいてほしいと思います」
 その時、緩やかに風が止まった。遠ざかる潮騒。流されていた髪が、すうっと肩口に落ち着いた。こほ、と咳払いを一つ。
「あの、一体何が……」
「もうすぐわかりますよ」
 ふと前に目をやると、静寂の降りていた桜が不意に揺れ始めた。突然、強い風が並木を吹き抜けていったのだ。そして、あっという間にやんだ。

「う……わぁ」
 それは、幻のような風景だった。
 咲き乱れていた桜が、風に煽られて夜空に舞っていた。まるでこの並びにある桜を根こそぎ空へ浮かべたように。月光はどこまでも花を濡らし、世界をぼうっと淡いピンク色に染め上げている。その隙間から、時折向こう側の闇夜が覗く。桜吹雪、という言葉が陳腐に聞こえてくるほどの光景がそこにあった。
 私は、ふらふらとその下へ足を踏み入れた。見上げると、わぁ、という溜息交じりの声が二度、三度漏れた。まるで桜の天の川だ。
 わずかの間だけ翼を得た花びら達は、やがて雪のように、ふわり、ふわりと舞い降りてきた。両手を広げ、目を閉じると、桜色の天幕が私を覆い尽くし、繭のように優しく包み込んでくれた。さら、さらさら、という音が心地よかった。
 それは、まるでオーロラだった。神様が見せてくれる幻想。あまりにも儚く、だからこそ限りなく美しく。
(ちや姉、私、絶対に忘れないよ)
 シルクを思わせる柔らかな肌触りを残して、天幕は私をすり抜けていった。

 どうでしたか、という声を、どこか遠くで聞いている気分だった。夢心地、というのはこういう状態なのだと知った。言葉を失うほどの、圧倒的な感動を与えてくれた。
「店の名前も、この現象からきています。毎年、この時期に吹く突風が見せるこの光景に魅せられまして」
 渡さんの声と姿が、滲んで見えなくなった。桜と、涙のせいだった。

 後ろ髪引かれながら『桜路来』を辞去する時に初めて、財布を持ってないことに気づいた。ミルクココアとオレンジジュースの代金を払うつもりだったのに。恥ずかしくて真っ赤になってしまった。
「おごりにしておきますから結構ですよ」
「いえ、それじゃ私の気がおさまりません」
 というようなやり取りを数度繰り返し、結局、後日改めてお金を持ってくるということに落ち着いた。絶対、絶対来ますからね、と念を押したけど、渡さんはほんわかと笑っているだけだった。
 マンションに帰る道を尋ねると、この並木道を真っ直ぐ行けば知っている道に出ると言われた。そんな近くにこの店があったなんて、今まで全く気づかなかったことが少しショックだった。
 桜色のカーペットと化した並木道を踏み締めて、何度も振り返りながら私は家路についた。電気の消えた店の前で、小さく手を振る渡さんの姿が、闇に溶け込んでいった。




 ちや姉の部屋から遺書が見つかっていたことで、私に対する嫌疑は晴れた。
 考えてみれば、私の部屋からちや姉が飛び降りた直後から、その部屋の住人が姿を消していたわけで、疑われないほうが不思議な状況にあったことに、帰ってきてからようやく思い当たったというから間抜けな話だ。
 結局、記憶障害が事実であったことがご両親と主治医の証言から明らかになり、遺書の内容にも不審な点がなかったことなどから、パニックを起こして思わず飛び出してしまったという私の行動も一応納得してもらえたようだった。
 マスコミがかぶりつきたくなる事件であることは重々わかっていたけど、今度ばかりはさすがに頭にきた。取材させてくれととにかくしつこい。お陰でしばらく外に出られなくて大変だった。どっちみちしばらく仕事はできない状態だったので、ゆっくり部屋に篭っていられたのは幸いだったけど。

 そして、騒ぎも一段落した頃、私は改めてあの桜並木に足を運んだ。
 春の名残のようにわずかな花弁を残し、美しかった桜は青々とした緑を湛えて風に揺られていた。さわさわという葉ずれの音に、もう声を聞くことはなかった。
「……さて、と」
 正確な場所はわからないけど、一本道だから迷うことはない。久しぶりに気持ちのいい陽気を全身に受けながら、軽い足取りで木のゲートに足を踏み入れた。

 ――おかしい。
 絶対に見落とすはずはなかった。視界は良好、いくら店構えが小さいとはいってもわからないはずはない。なのに、てくてくと歩いた先は道の果て、喫茶店などどこにも見当たらなかった。数回往復しても、規則正しく並んだ木々の間には、他のものが入り込む余地なんてなかった。
 もう一度探してみようと、入り口から振り返ったところへ、人影が見えた。前へ行こうとはやる子犬を、ショートカットの女の子が一生懸命押さえている。どうやら散歩の途中らしかった。
「あの、すいません」
「はい?」犬を座らせ、こちらを向き直る。眼鏡の向こうのくりくりした瞳が、少し不審げに揺らめいた。
「この並木道の途中に、喫茶店はありませんか? 『桜路来』という名前の」
「……いいえ、私は毎日ここを散歩していますけど、そんなものはどこにも」
「そんな……」
 呆然とする私の脇をすり抜けて、「行くよ、プリン」と声をかけた。座り込んでいた小さなゴールデン・レトリバーが、わう、と返事をして後を追いかけていった。
 どうみても地元の子だった。それが『桜路来』を知らないという。だったら、あの夜私が入ったお店は、一体なんだったんだろう。そして、渡さんは?
 ――そうだ、あの紙マッチ。
 あの日、見せてもらったものをそのまま受け取って、家に戻ってから財布に入れておいたんだった。ごそごそと小銭入れを取り出し、中を覗いた。

 あれが、あの『桜路来』というお店が、幻――オーロラだったんだ。
 いや、もしかしたら、あの溢れるような桜が見せてくれた夢だったのかも。
 傷つき、迷い、揺らめく心を持った人が訪れる場所。
 渡さんも、最初に言っていた。「ここには、あなたのような人がたくさん来ますから」って。
 きっと、そうなんだ。
 だから、もう私には見えない。
 私には必要ないから。
 もう迷わないから。

 木漏れ日を浴びてどこまでも続く並木道に、小さく「ありがとう、さようなら」と呟いて、私は振り返った。
 そして、胸を張って、一歩を踏み出した。

 ひとひらの勇気と、桜色の真実を握り締めて。


――了――


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