五十円玉の行方
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1
「すいませーん、両替お願いしまーす」
目の前のトレイにじゃらじゃらと五十円玉ばかりを積み上げられて、内倉綾乃さんのくりくりとした目が普段にも増して大きくぱちくりと瞬いた。
「あの……山武さん、これは何かのおまじないですか?」
笑顔と苦笑いを一対一の割合で混ぜたような複雑な笑みを浮かべて、僕の顔とトレイを交互に見つめる綾乃さん。首の後ろから、ひょいひょいとポニーテールの先っぽが見え隠れしている。
ここは、我らが私立K大学のブックセンター兼文具店。蔵書数は少ないが、全ての本が一割引で買えるという、僕のような本好きの貧乏学生には非常にありがたいところだ。相変わらず閑散とした店内に、僕こと山武葉月と、店員である綾乃さんの声だけが響いている。人がいないのは別に店が流行ってないからではなく、今ちょうど講義の真っ最中だからだ。だったらなぜ僕がここにいるのかはご想像にお任せする。
「いえ、おまじないではなく、謎かけです」
小さな眼鏡の奥から、挑戦的な光を放ってみる。とはいっても、僕が独自に作り出した謎ではないからあまり偉そうな態度はとれない。結局こちらも、笑ったのか困ったのかわからない中途半端な表情を浮かべるにとどまった。
カウンターを挟んで、二人の見事に間抜けな表情がぶつかる。しばらくして、どちらともなくくすくすと笑い出した。
この春に入学してからというもの、各サークルからの執拗な勧誘合戦を振り切って、部室が立ち並ぶクラブハウスの一番奥でひっそりと暮らして……もとい、活動していた推理小説研究会の扉を叩き、暇を見てはブックセンターに出入りし、本を買ったり注文を繰り返したりしていれば、嫌でも店員さんと顔見知りになるだろう。事実、昼食時に食堂で顔を合わせれば、同席させてくれる程度の仲にはなっている。そしてそれが、当大学の男子学生や一部職員(教授・助教授なども含めて)の羨望の的になっていることも重々承知の上だ。
ブックセンターの店員は何人かいるが、その中でも綾乃さんの人気は群を抜いている。派手というよりは素朴な顔立ちで、化粧もあまりしていない。それでも、その大きな瞳とトレードマークのポニーテール、そして一撃必殺(?)の晴れやかな笑顔と愛想のよさがあれば、世の男のハートを掴むには余りあった。僕もそのご多分に漏れず、機会があればお近づきになりたいと密かに画策していたが、そんな下心は全く不要だった。普段の通りに本屋通いしていれば、自然と仲良くなれてしまったのだ。はっはっは。
で、時折話のネタに、友人知人が持ってくる「推理小説好きが喜びそうな謎」を話して聞かせることがある。大抵は自分が手も足も出なかった問題だ。ところが綾乃さん、これをことごとく解いてしまうから、僕としては感心するやら悔しいやら、いささか複雑な心境なのである。
「それで、一体どういうことなんですか?」
揃えた指で口元を押さえて上品に笑いながら、綾乃さんは再び問い質した。もう一方の手で、素早くトレイの中の五十円玉を数えている。
「全部で二十枚ですか、千円になりますね。本当に両替するんですか?」
「そうして下さるとありがたいです。個人で持つにはちょっと不便すぎますね」
別にわざわざ実演してみせる必要はなかったのだが、ちょっと驚かせてみたかったからわざわざ地元のゲームセンターで両替してきた。悪戯心も度を過ぎると単なるアホだ。綾乃さんは文句一つ言わずに千円札を取り出してくれた。
「あ、どうも……。えっとですね、ちょっと昔の話になるんですが、こういう奇妙な両替事件があったんですよ」
僕はカウンターに肘をつき、掌に顎を乗せた。綾乃さんもまた、パイプ椅子に腰掛けてにこやかな微笑みをこちらに向けた。長話をする時のいつものスタイル。唇を少し湿らせて、僕はとある女性が遭遇した「五十円玉二十枚を両替する男」の話を切り出した。
*
今から恐らく二十年ほど前でしょうか。作家の若竹七海さんという方が――あ、そこにも本がありますね――学生の頃のお話です。その若竹さん、東京の池袋にある大きな本屋さんの一階で、レジ打ちのバイトをしてたんですね。単行本や漫画も少しあったそうですが、主に雑誌を扱うフロアで、週に四〜五回、夕方五時から八時までの間、土曜日はもう少し早い時間からだったかもしれないとのことです。
ある土曜日のことです。いつものようにレジで立っていると、一人の中年男性がすたすたとレジに向かって歩いてきたかと思うと、握り締めていた硬貨をじゃらりと並べて、
「千円札に両替してください」
と言ったんです。その硬貨というのが、さっきやってみせたように五十円玉二十枚だったわけです。その本屋では両替のみのお客さんにもきちんと対応するように、という方針だったので、言われた通り千円札に両替したら、その男性はそれを引ったくるようにして店を出て行ったんだそうです。
それからというもの、その男性はたびたび土曜日になると現れるようになり、その都度五十円玉二十枚を千円札に両替してくれと頼んだそうです。いつも何か焦ったような感じで、わざとゆっくり枚数を数えたりすると明らかにいらいらした様子を見せていたとか。外見は、ぱっとしない顔つき体つきに身なり、取り立てて特徴のない風貌だったようですね。
さて、ここでその若竹さん、すっかり好奇心を刺激されてしまいました。その男性は、どうしてそんな奇妙な行動を取るのかについて、あれこれ考え始めたそうです。
当時、まだ銀行などの金融機関は、土曜日でも営業していました。だから両替なら銀行ですれば済むことです。わざわざ本屋のレジで行う必然性が思いつかない。まあ、夕方には窓口は閉まってしまいますから、まだそこは譲れるかもしれませんけどね。
問題はもう一点のほうです。どうして毎週五十円玉が男性の手元に貯まるのか。
どういう風に買い物をしたところで、一回にお釣りでもらえる五十円玉は必ず一枚です。これが十円玉や百円玉なら四枚は手に入るのですが、五十円玉はそうはいきませんよね。だから、二十枚も集めるならそれなりに労力を必要とします。しかも、集めたものを両替してしまうとなるともうわけがわかりません。一体どういう目的があるというのでしょうか。
疑問点は二つです。
その男性は、どうして毎週土曜日に本屋で五十円玉二十枚を千円札に両替するのか。
五十円玉は、どうして毎週その男性の手元に貯まるのか。
しかし、当の若竹さんは、この「事件」についてこれ以上追及できなくなりました。当時の店長さんに、あまりお客さんのプライバシーを詮索しないように釘を刺された上、体調を崩してアルバイトを辞めてしまったからです。
そして、謎は解かれないまま、今に至るというわけなんですよ。
*
どうです、と聞いてみる。綾乃さんは途中から、少しだけ首をかしげるような仕草を見せていた。綾乃さんが悩んでいる姿を見るのは初めてかもしれない。
「うーん、難しいですね」
「でしょ?」
僕が勝ち誇る理由は欠片もないのだが、自然と笑みがこぼれる。
「ちなみに、若竹さんご自身が次の可能性を否定しています。
まず、レジにいる若竹さんの顔見たさ、或いは興味を引くための奇妙な行動説。これは今の僕を見てもわかる通り、買い物をしなくてもうろうろできるところですよね、本屋というのは。それに、両替してもらった途端に大慌てで立ち去るというのもこの推理を否定する材料になります。ご本人の名誉のために一応断っておきますが、若竹さんが男性の目を惹くほどの容姿ではなかった、ということではありません」
綾乃さんの関心を引くことができるなら両替でもなんでもしてもいいかな、と僕は思っていた。
「次に、レジの千円札が欲しかった説。だったら千円札より大きな額のお札を使うのが普通ですよね。一万円札なら最高十枚は集まるわけですし。
また、五十円玉が集まるほうの理由としては、一つ五十円の商品を売っているのではないかという説が挙がりましたが、それだったらお釣りに五十円玉が大量に必要なはずですので却下。ゲームセンターで両替したのでは説――あ、これは僕がやったことですね――は、わざわざ両替したものをまた千円札に戻す理由がないです。
あと、これは僕自身が考えたんですが、男は万引きの常習犯コンビで、レジの注意を自分のほうに引きつけて、その隙に相方が盗む、という説ですが、でっかい本屋でたかが一人レジ係の注意を逸らしたからといって、万引きの成功率が上がるとは思えませんでしたのでこれも却下。というわけで」
僕はそこまで一気に喋ると、両手を上げて万歳のポーズ。「お手上げです」
「色々先回りされてしまいましたね」
綾乃さん、人差し指を唇の下に当てて「んー」と上目遣い。子供っぽい仕草だけど、それがまたたまらなくいい。
「山武さん」
「はい?」
「この大学の図書館、確かパソコンが置いてありましたよね?」
「え? あ、はい、ありますよ」
「昔の新聞記事をサーチすることもできましたよね?」
「……データベースは組み込まれているはずですが」
にこ、と嬉しそうな笑みを見せる綾乃さん。
「今日の放課後、何かご予定はありますか?」
わずかな間も空けずに「ありません!」と力強く答える僕がそこにいた。
2
ブックセンターが閉店するのは、午後四時。ラストの講義は四時二十分まであるのだが、当然さぼった。ブックセンターと食堂以外で綾乃さんと会うことなど皆無なので、心なしかうきうきしている気がする。さすがに不気味なへらへら笑いを浮かべてたりはしないと思うが、ちと自信がない。
そんなことを考えながらミステリを読んでいるうちに、エレベーターが上がってきた。我がK大学の図書館は、学生課や総務課、就職課などの施設が立ち並ぶ事務棟の三階にある。入り口の前はちょっとしたロビーになっていて、ソファーやコピー機、新聞などが置かれている。そこで時間を潰していた僕の前に、綾乃さんが現れた。
「すいません、遅くなりまして」
いえいえいえ、と大げさに手を振る。まだ制服姿だったのには少なからず落胆した。せっかく、プレミアものの綾乃さんの私服姿が見られると思ったのに。まあでも、構内をうろつくのに、職員である綾乃さんが私服だとやはり差し障りがあったりするんだろうか。
「では、入りましょうか」
朗らかに館内へと僕を促す綾乃さん。わずかに俯き加減だったことに気づいてないだろうか。気づいてないだろうなぁ。とほほ。
貸し出し窓口を横目に中へ入ると、二フロア分ぶち抜きの高い天井が出迎えてくれた。僕は本読みのくせに、あまり図書館に顔を出さない。自分で買って家の本棚に並べておきたいという小市民な性格のせいだ。それでなくとも、この独特の静寂というものにはいまいち馴染めない。
数人の男子学生が、不思議そうな目で僕達を見ている。ただの一学生である僕と、大学内ではある意味アイドル的な存在の綾乃さんが連れ立って歩いていることに、奇妙な違和感を抱いているに違いない。それを尻目にこっちは優越感に浸っている。ふふふ。
綾乃さんはすたすたとパソコンコーナーに向かって歩みを進めている。金がない金がないと、学生から授業料を搾り取っているくせに、こんなところにはやけに投資しているのがちょっと気に入らない。いや単にうちにあるパソコンよりも高性能の機種だったからかもしれないが。
さて、と一息ついて、綾乃さんは椅子に腰掛けた。きぃ、と軋む音が少し響いた。僕は後ろに立って、可愛いリボンで結わえられたポニーテールとディスプレイをぼんやり眺めている。すると、綾乃さんの意外な弱点を見つけた。
「……えっと……ここがこれで……あ、マウスマウス」
いつもぴしっとした姿勢で迎えてくれる綾乃さんだが、どうもコンピューターは苦手らしい。猫背でキーボードとディスプレイの間に視線を何度も往復させている。えっと、えっと、という独り言が実に微笑ましく、思わず吹き出しそうになるのを必至で堪えた。
「……あのぉ、山武さん」
「はい?」不意に声をかけられて、含み笑いを無理矢理引っ込める。
「自分からここに来ましょうと提案しておいて、大変申し訳ないのですが……」
ゆっくりと椅子を回転させる。両掌を頬に当てて恥ずかしそうな上目遣いで、綾乃さんは僕を見つめた。
「操作の仕方が、よくわからないんです」
ブラインドタッチという技術は、綾乃さんにとって尊敬の対象であるらしい。じっと画面を見つめたままでキー入力を続ける姿に、
「ほわー」
という感嘆の溜息を漏らすのが聞こえた。少し誇らしげに胸を張ってみると、椅子がぎぎ、と嫌な音を立てた。綾乃さんが座った時のそれとえらい違いだ。椅子のくせに人を選ぶんじゃない。
「出ましたよ」
ブラウザに出てきたのは、新聞記事の検索トップページだった。年月日を入力すれば、その日の記事を読むことができる。「殺人事件」「銀行強盗」などのキーワードで記事を引っ掛けることも可能らしい。こんな機能誰が使うんだろう。あ、僕か。
「ええとですね、先程のお話ですが、いつ頃のことなんでしょうか?」
確か『鮎川哲也と十三の謎』九十一年版に「若竹七海の問題編」が掲載されたはずだ。その時点で「十年余りの歳月が流れた」と書かれている。ということは、少なくとも事件から二十年は経過しているということになる。
「じゃあ、一九八〇年から数年前まで、ということですね。その間で、次のキーワードで検索をしていただけますか?」
綾乃さんが口にした単語が耳に入ると、今度は僕の目がぱちくりとなる番だった。
3
「……で、説明してもらえますか?」
満足そうにスキップでもしそうな感じでリズムよく歩く綾乃さんの背中に、僕はそう声をかけてみた。図書館を後にした僕達は、キャンパス内をどこへともなく移動していた。といっても、この時間からこの組み合わせで行くところとなると限られている。案の定、綾乃さんは質問をまったく無視するかのように学食併設の喫茶店へと入っていった。
たらこパスタですきっ腹を慰めている僕と、ジンジャエールをちびちび飲む綾乃さん。口の周りに赤いつぶつぶをくっつけている姿にひとしきり笑った後、綾乃さんはこう切り出した。
「ありましたね」
「ええ、ありましたよ、誘拐事件」
検索ワード『誘拐』で調べたところ、思っていたよりも少ない数で事件がヒットした。そのうちの一つに、時期的にも他の条件的にも合致するものがあったのだ。
「で、どうして誘拐なんですか?」
「はい、私が考えたのは、例の男性が持ってくる五十円玉、あれは身代金だったのではないかということでした」
むぐ、と喉にパスタを詰めそうになった。危ういところで水を流し込む。
「……身代金ですって?」
はい、という声と一緒にポニーテールが跳ねた。
「仮に金額を二百万円としましょうか。そうすると五十円玉で四万枚、一枚四グラムですから、トータルで百六十キログラムです。八つの袋に分ければ一つ二十キログラム、それほど非現実的な重さではないと思います。五十円玉には穴が空いていますから、紐か何かで何枚かずつ束ねておけば、他の硬貨のように不規則にじゃらじゃら動かない分、もう少し扱いやすいかもしれませんね」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。確かに重さや嵩的には、車を使えば充分運べるような量でしょう。けど、どうしてわざわざ五十円玉でなんか……」
「誘拐事件の場合、身代金は大抵の場合、警察の要望で銀行が用立てしますよね。そうすると、やはり紙幣のナンバーは控えられる恐れがあると思うんです。それを防ぐために、犯人は敢えて硬貨を使うことを考えたのです」
「だったら、どうして百円玉じゃないんですか? それなら、同じ枚数で倍の額を得られるじゃないですか」
「それは、後々説明しますよ」
軽くウインクしてみせる綾乃さん。焦らす焦らす。身悶えしてしまいそうだ。
「紙幣の通し番号を控えられてしまうと、例え犯人が上手く身代金を手に入れても、そのまま使うことができないですよね。ましてや銀行で両替などしようものなら、その場で逮捕されることにもなりかねません。そこで硬貨を使うことにした……まではよかったのですが、警察が目印に使うものは何もナンバーだけではありませんよね」
「それって、まさか……特殊インクのことですか?」
綾乃さん、口元をにっこりほころばせる。
「ご明察です。特定の偏光フィルターを通すと発光する、普段は無色透明のインクですね。これなら硬貨にも用いることができますし、紙幣同様、銀行には持ち込めません。そこであの奇妙な両替事件が起こったわけです」
「それと百円玉を使わなかった理由と、どう繋がるんですか?」
「先程、山武さんご自身がおっしゃっていたではないですか。五十円玉は集めにくい、と。それは、裏を返すとどういうことになりますか?」
何? 集めにくい……一度に一枚しかもらえない……ということは……。
「流通しにくい?」
「ご名答です」ぱちぱち、と小さく拍手の真似をする。こういう一つ一つの仕草が似合うというのが、人気の一因でもあると思う僕だった。
「出回りにくい、ということは、それだけインクの付着した硬貨が集中する可能性が低い、ということですね。これがもし百円玉だったら、一度に大量に持ち出されることがありますから、巡り巡って警察の目に触れる確率はやはり五十円玉よりも高いと思われます。若竹さんが担当していた区域は、主に雑誌を取り扱っていたのですよね? 消費税制度が導入される以前の話ですから、二百十円や三百二十五円などの端数が出る今と違い、五十円玉の使用機会はずっと少なかったはずです。大きな本屋だということでしたから、それほど地元のお客さんばかりでもなかったでしょう。その五十円玉は各地に散らばり、膨大な数の硬貨の中に埋もれて溶けていってしまったのです」
僕の頭には、風呂桶一杯のお湯に粉の入浴剤を数粒落とした時のようなイメージが浮かんでいた。
「じゃあ、週一回、土曜日の午後にだけ現れたというのは……」
「同じ店に大量に五十円玉を持っていくとなると、やはり発見される危険性は上がりますね。流通しにくい硬貨であることは何度もご説明している通りですが、あまり頻繁に両替していると、今度はその本屋のレジに五十円玉が溢れてきて、最終的には店員さんが銀行に両替に行ってしまうかもしれません。でも週に一回ぐらいの割合なら、余ることなく充分に消費できるペースだと思われます。
また、男性は何度か下見をしているのではないでしょうか。その中で、その本屋では、土曜日の午後には確実に同じ人――若竹さんのことですね――がカウンターにいる、ということを確認した上で、その時間帯を狙って現れたのでは、と私は考えたのです。取り立てて特徴のない風貌だったようですから、具体的に顔を覚えられる恐れは少ないとはいえ、多数の人に見られているよりは一人のほうが気持ち的にも楽ですよね。犯罪者の後ろめたさから、行動はどうしても焦りがちになったかもしれませんけど」
もはやぐうの音も出ない。ここまで説明されれば、いくら僕でもその後のフォローぐらいはわかる。
「犯人は、その本屋だけでなく、他にも同じような条件の店を探して両替していたかもしれませんね。一週間にたった千円では、労力に見合うだけの収入とはとても言えませんから。一日に七件として、週に四万九千円。一月四週間で約二十万円。これなら納得できる範囲でしょうか。
また、この事件に限っては、警察の秘匿事項が裏目に出ましたね。名乗り出た犯人が本物であるかどうかの判定として、犯人しか知り得ないことをわざと隠すというあれですが、このような奇妙な事件では、身代金を五十円玉で払わせた、というような事項は格好のネタだったでしょうから。ところが、このことを報道しなかったがために、犯人は銀行を使えないという不自由さを除き、好き勝手に両替をすることができたわけです」
途中から完全に手が止まってしまっていたので、パスタはすっかり冷めてしまっていた。慌ててそれを掻き込み、水で流し込む。味なんてほとんどわからなかった。
「……ただ、一つだけ納得いかない点があります」
「何ですか?」
「今の説明ですと、同じ条件は五百円玉にも当てはまるのではないでしょうか。まあ、穴は空いてませんし、多少重さはあるでしょうが、それでも同じ枚数なら十倍の金額です。どうして犯人はそうしなかったんでしょうね?」
すると綾乃さん、珍しく苦笑いを浮かべてこう言った。
「山武さんは先程、一度の買い物で『十円玉や百円玉なら四枚は手に入る』とおっしゃいましたよね。一つ間違っていますよ。十円玉は四枚ですが、百円玉は最高で九枚です。なぜなら、五百円玉制度が施行されたのは昭和五十七年、西暦にして一九八二年からです。この事件、最低限の逆算をしても、少なくとも一九八〇年以前のお話であるということではありませんでしたか?」
ありゃりゃ、最後の最後でかかなくていい大恥をかいてしまった……。
綾乃さんにお礼を言って(レジで大層揉めたのだが、もちろん、ジンジャエールは僕のおごりにさせてもらった)僕は大学を後にした。手には、一枚の五十円玉が握られている。バス停で待っている間、その小さな穴を覗いてぼんやりと呟いた。
「一体、あの五十円玉はどこへ行ってしまったんだろうな……」
丸く切り取られた世界の向こうで、明日の晴天を約束するかのような美しい夕焼けが、世界を赤く、赤く染め上げていた。
――僕の顔の火照りも、目立たなくしてくれているだろうか。
――了――
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