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参加費400円(資料代を含む) 会員外500円

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2019年4月例会

「堺町歩きフィールドワーク(北荘を中心に)」

と  き  4月30日(火)  午後1時集合

集合場所:南海本線・七道駅改札前(難波から15分・各駅停車のみ
解散場所:さかい利晶の杜(最寄り駅・阪堺線宿院駅)17:30予定

案 内  竹田芳則さん(会員・堺市立北図書館

 *入館料等:堺市立町家歴史館 清学院・山口家住宅 共通入館料・250円  妙國寺 拝観料400円、さかい利晶の杜(「千利休茶の湯館」「与謝野晶子記念館」)240 円(10名以上)計890円
  歴史都市堺は現在の堺市堺区の旧土居川で囲まれた地域。近世堺の都市空間形成は元和元年(1615)に始まる「元和の町割」である。それ以前の「自治都市」とされる中世堺の町割について「堺環濠都市遺跡」と名付けられた発掘調査が進みつつあるが、全体像は明らかでない。堺大空襲により壊滅的被害を受け、その後の高度経済成長期の都市開発により近世堺の都市景観もほとんど失われている。しかし戦災を免れて比較的「元和の町割」の面影を残す北部地域を中心にまち歩きを行い、歴史都市堺について考えていく。

前の例会

 このページに掲載している以前の報告は「例会資料室」にあります。「例会資料室」もご覧ください

3月例会報告 武内善信さん(元和歌山市立博物館・元和歌山城整備企画課学芸員)「石山合戦と雑賀一向一揆」

3月例会の写真

先祖は石山合戦に参加した
 武内さんは、元和歌山市立博物館学芸員および和歌山城整備企画課学芸員であった。本来は大逆事件など近代史の専門家で、現在は南方熊楠研究会会長でもある。そして和歌山市内の浄土真宗本願寺派寺院善勝寺(天正元年開基)の住職でもある。「石山合戦」の始まる頃にできた寺の先祖は同合戦に参加したという。雑賀衆調査に関わったのは和歌山市立博物館で開催された「石山合戦」の展示がきっかけだった。

通説と実体のちがい
 調査を始めて、世間の歴史常識と言われていることと実体とは違うことがわかってきた。「雑賀衆」の通説は「室町時代後期、紀州鷺森御房を中心に結束した本願寺門徒」(国史大事典)、「雑賀一揆」の通説は「石山合戦期、紀伊国雑賀を中心に蜂起した一向一揆」(日本史大事典)である。しかし、「雑賀衆」と「雑賀一向一揆」とは区別すべきことがわかってきた。さらに、「石山合戦」という歴史名称について、最近、秀吉の大坂城が平地に石を積んで城にしたことから「石山」と呼ばれるようになったという説が出され、戦国時代に本願寺は大坂本願寺と呼ばれており、石山本願寺の呼称は後世の呼び名であるので信長との戦いを「石山合戦」とする名称は時期的に無理ということになった。「大坂本願寺合戦」とすべきところだが、この名称も使いにくく、将来的には使用されなくなるとはいえ、現在は「石山合戦」の通称を使わざるを得ないという。

「雑賀衆」と「雑賀一向一揆」のちがい
 「雑賀衆」とは惣村(中世の村落のかたちで、村の運営に有力農民、地侍、土豪などが参加する自治組織を形成)を単位とする地縁でむすばれた集団を指し、現在の和歌山市域と海南市など周辺地域に惣村(全体で36村)の連合体が5つあり、雑賀庄(和歌山市西部の中心地域に13村)、十ケク(紀の川右岸に6村)、宮ク(日前宮附近に2村)、中郷(岩橋など7村)、南ク(大野など8村)を「雑賀五組」と呼んだ。これに対して、「雑賀一向一揆」とは「雑賀衆」の中の一向宗門徒および「雑賀衆」以外の一向宗門徒が地縁に関わりなく一向宗(浄土真宗)の本末(本寺<本山>と末寺の階層関係)で結ばれた関係である。つまり雑賀衆という地縁的集団は一向宗門徒もその他の宗派も含んでおり、雑賀一向一揆は雑賀衆の中にいる一向宗門徒(3分の1ないし4分の1)と、雑賀衆以外の門徒からなる。
 通説では紀州に浄土真宗の信仰が入ったのは南北朝頃で、本格的な普及は蓮如(本願寺第八世)の紀州来訪以後とされる。しかし蓮如が紀州に入る以前から仏光寺教団(真宗仏光寺派、了源が開祖)が泉州から海上または川を経て紀州に浸透し、本願寺教団も蓮如以前に泉州の海生寺(現・嘉寺)の浄光寺了真が陸路(雄山峠などの峠越え)により紀州に教線をひろげていたという(本願寺は親鸞の血統を嗣ぐ門主の教団、それ以外に門弟が結成した教団が仏光寺派、高田派など近代に至って10教団となった)。蓮如の文明18(1486)年の紀州来訪は、了真の開いた道筋をたどっている。紀伊の真宗は、仏光寺派の真光寺末(泉州にある大寺真光寺の末寺)や性応寺末、本願寺教団の浄光寺末など諸派が入り乱れ、同じ村にいくつもの寺がある。その中で紀州における蓮如の最初の直弟子とされた清水(現・冷水)道場の了賢に二尊像(親鸞と蓮如の連座画像)が下付された。本願寺では親鸞画像は特別の意味があり、各地の門末が地域の拠点的な寺院に置かれている親鸞画像に出仕する義務がある。親鸞画像が置かれた了賢の清水道場は紀伊の拠点的な道場(正式な寺格のない修行場)となった。重要な港である清水は真宗の陸と海からひろがる教線の結節点であり、以後清水を中心に真宗の普及拡大がすすんだ。その後親鸞画像の移動と共に清水道場は黒江、御坊山、鷺森御坊へと発展する。

「石山合戦」と雑賀一向一揆
 雑賀衆は、「石山合戦」開始の頃は本願寺方とはいえなかった。紀伊の守護畠山秋高は信長の娘(養女)を妻としているような背景もあった。特に阿波の「上桜合戦」では、三好長治の傭兵として参戦し、本願寺方の篠原長房を攻め滅ぼしている。しかし、天正2年頃、雑賀門徒衆は積極的に本願寺方に味方することになる。その理由は、@信長と関係の深い守護畠山秋高が家臣に殺され守護の統制がなくなったこと、A足利義昭が信長と対立し、紀州由良の興国寺で反信長戦線の結成をはかり、雑賀は足利将軍を選んだこと、B最近の発掘調査の結果、石山合戦の最中の天正2年に大坂本願寺が鷺森御坊(和歌山市駅の南方向)に当時最大級の幅約17mもの堀(掘った土は土塁として利用される)の増築整備を行ったと考えられることから、本願寺が退去してきた際の防御用堀であると推定されることなどで、天正2年の時点で、雑賀門徒衆とその他の地域の門徒衆からなる雑賀一向一揆が成立し、本願寺方の主要な勢力として「石山合戦」の前面に登場したものと思われる。
 ただ本願寺関係資料に登場する「雑賀衆」は、「雑賀一向一揆」の意味で使用されているので注意を要する。
  天正4年以後、「石山合戦」における雑賀一向一揆の活躍はめざましく、天王寺砦の戦いでは信長も鉄砲で足を狙撃され、鈴木孫一と本願寺の重臣下間頼廉の偽首を京都でさらして両名を倒したという流言を流すほど苦戦している。その後第1次木津川の海戦で毛利・雑賀の水軍が織田方の水軍を破り石山への補給を確保した。これに対して、信長は天正5年、本願寺を支える主要勢力の雑賀一向一揆の攻撃を行う。根来衆と雑賀の宮ク、中郷、南クは信長方につき、雑賀庄と十ケクが雑賀一向一揆の中心として信長軍と対峙した。このとき、南クの大野莊は一向一揆勢と反一向一揆勢に分裂し、鈴木孫一が 大野の一向一揆側を支援して勝利した。中郷も門徒勢が多く、内部分裂していた。宮クも一向一揆勢が優勢になるに及んで、わびを入れてきた。信長は、戦況不利で、毛利の圧力もあり、紀州から撤去せざるを得ず、雑賀一向一揆側に形式的な誓詞を出させて退去した。(教科書・副教材などに、このとき雑賀一向一揆が信長に敗れて従ったという記述があるが、あきらかに雑賀一向一揆が信長に勝利した戦いであった。)

「講和」以後の動き
 天正8(1580)年、本願寺と信長の講和が成立、顕如は大坂を退去し紀州の鷺森御坊に入った。雑賀一向一揆の役目も終わった。このとき、雑賀一揆(この場合の一揆という言葉は、百姓一揆などの闘争的な意味に限定されるのではなく、自治組織としての集団、一味のような意味である)は存在するが、その中の勢力バランスが変化した。鈴木孫一や非門徒の土橋平次の力が相対的に強くなった。「石山合戦」講和後の天正10年、両者の確執は木本の土地争いをめぐり激化し、また信長につくか四国の長宗我部につくかの路線対立もあり、鈴木孫一が土橋平次を殺害した。さらに信長の支援を受けて鈴木は土橋の砦をも陥落させる。これは紀州の水軍をおさえたかった信長が、紀伊湊に勢力を持つ土橋を鈴木と連携して追い出そうとしたためである。しかし、本能寺の変(一説には信長の四国政策が変化して長宗我部と対立し、これに明智光秀が反発したという)で信長が討たれると土橋残党が反転攻勢に出て鈴木孫一は雑賀から退去する。
  そして天正13年秀吉が紀州攻めを行い、大田城水攻めと開城によって雑賀は終焉をむかえる。
 (*報告中、被差別民と真宗教団の関係の有無、沙也可と雑賀衆との関係の有無についても触れられたが、いずれも十分な時間をとれなかったので、ここでは省略する。)
 質疑交流ではたくさんの質問意見がだされ、活発な交流が行われた。
 特に雑賀一向一揆が信長を悩ました鉄砲戦術についても多くの質問意見が寄せられた。火縄銃が日本に導入された最初の頃は、非常に稀少で高額であったので、武内さんは「フェラーリのようなもの」と例えられた。それがのちに大量に生産されて価格が下がり、消耗品となった。現在、戦国時代の火縄銃はほとんど残っておらず大徳寺に天正銘のものが1丁置かれているという。また鉄砲は種子島に初めて伝来したというこれまでの定説も修正され、最近は東南アジアなどから分散波状的に日本国内に入ってきたということが定説になっているという。

2月例会報告 高谷 均さん(会員・元府立高校教諭)「永井孝弘氏 特別幹部候補生の修養録について−アジア太平洋戦争末期の下士官候補生の訓練日誌」

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特別幹部候補生
 報告者の親戚である故・永井孝弘氏は旧制中学4年終了後、1944年4月に陸軍特別幹部候補生として第1航空情報連隊第五中隊に入隊した。永井氏が隊内で記録した訓練日誌「修養録」が、よくわからない遺品として家族から高谷さんに託された。それは調べて見ると思いがけない貴重な史料であった。
 「特幹」と称された陸軍特別幹部候補生の制度は、現役下士官(将校・準士官の下位、一般兵士より上位に位置する階級、旧陸軍では曹長、軍曹、伍長にあたる)を補充する目的で設けられた。それまでは下士官は、一般兵士からのたたきあげで育成されたが、学徒動員直後の1943年に創設され海軍の予科練に相当する。募集は15〜20歳(中学4〜5年)を対象に、算数・作文・身体検査面接という内容の試験に合格すれば兵籍に編入され、採用時は一等兵、訓練後に伍長で任官の予定であった。兵種は航空と船舶が多く、これは「戦況悪化の反映?」とも考えられる。通信兵が多く、船舶要員は多くが特攻隊員にまわされたという。

「修養録」に見る訓練生活と日本軍レーダーの実体
 永井氏は採用後、静岡県磐田市の第1航空情報連隊(通称中部129部隊)という訓練師団の第5中隊に入営し、その後第7中隊を経て第6中隊に最終的に配属された。部隊は東海道の見附宿付近、戦後は静岡大学農学部が置かれ、現在はかぶと塚(古墳)公園の位置にあった。入隊後4ヵ月の新兵訓練の後、第2期教育として地上レーダーの訓練を受けた。「修養録」(隊内で記録する個人の訓練日誌で上官が点検し朱で評が書き込まれる)が書かれるのは第6中隊配属の8月からである。保存の良い「修養録」表紙には右上に「錬成中隊篇」、中央に「修養録」の表題、左下に横書きで貯金通帳番号と帯剣番号が書かれている。氏名の前にある「市川隊平野班」は市川中隊長と平野班長の名前を示す。陸軍の地上レーダーは通称「タチ」と呼ばれた。「タ」は開発した陸軍多摩電波技術研究所のあった多摩の「タ」、「チ」は地上用の意味。野戦用はトラック4台で運び、日本電気が設計、東芝製真空管を使用した。メーカーはほかに岩崎、松下も関わっている。第2次大戦時のレーダーは、イギリスは地上固定式、アメリカはトレーラーの車載移動式、日本が車載のままの型式であった。レーダーは当時「ラジオロケーター(英)」と呼ばれていた(日本では「電波探知機」)。英軍が独軍のロンドン空爆作戦を 撃退した背景にはレーダーを活用した英空軍の活躍があった。原理は電波を発信して探索の対象物にあたってはねかえってきた受信波をオシロスコープで読み取るものでアンテナを対象物のある方向に向けた時のみ受信波が返ってくるという限界があった。現在のような円形の画面に広い範囲からの受信波をひろうタイプは、アメリカで開発されたPPIという装置であった。アメリカはこのレーダー装置でB29が本土攻撃した際には、海中の機雷や爆撃目標物の確認を行っていたという(参加者の辻本氏談)。
  訓練は送信機・受信機・電源の設営と接続、受信波読み取りなどを地上固定式のもので計100時間ほど行われたが、故障も多く指導法も不統一で感電事故もあった。
 兵舎は中隊毎に置かれ、中隊の編成は中隊長と隊付士官、班長・下士官、古兵・上等兵・古参1等兵、候補生・特幹1等兵で「候補生殿」と呼ばれる正体不明の兵隊がいたが学徒動員で士官になれなかった「落ち幹」かもしれないという。体罰は紛失物の未報告や上官批判の感想文などが原因で、行ったのは週番士官や隊付兵長であった。永井氏のいた第6中隊では古兵のいじめなどはあまり見えなかったが、班により事情が異なるのか?訓練部隊は入れ替わりが多いので体罰、いじめが伝統化しにくかったのだろうか?特に第6中隊では人徳者の長田兵長の存在が古兵への牽制になっていたとも考えられる。

転属と機上レーダー訓練
 突然の試験の合格者が9月中旬に東京国立の東部92部隊に転属となった。東京商大(現・一橋大学)の接収地である。大学の立派な建物、設備、士官の多さに戸惑ったという。10月下旬に対外演習で三浦半島に行ったが、3度の米飯など好待遇であった。
 11月に水戸航空通信学校で機上レーダー(飛行機搭載レーダー)の演習が行われた。実戦態勢を思わせる指揮系統となり、私物整理が指示される。この頃には空襲が本格化している。特攻を鼓舞する訓話が行われたり、このことは逆に士気の低下を招いている。修養録には家族の記事が増え、富山からは父親が面会にも来るようになった。
 飛行訓練が始まり、武装をはずした百式重爆撃機呑龍U型丙機に「タキ」1号レーダーを搭載した。「タキ」とは、「タチ」レーダーの機上型である(キは機上を指す)。地上型と同じ原理のレーダーを搭載している。初期の地上レーダー(大型遠距離警戒レーダー)を飛行機に載せているのは日本だけで、欧米ではもっと精密なcm単位のレーダーがすでに使用されていた。飛行兵ではない候補生を飛行機に乗せたため(候補生が順に1名づつ搭乗)、 多くが飛行機酔いでおう吐した。搭乗員は候補生以外は下士官以上なので緊張して連携がとれなかったりした。離陸後に機長がいきなり電源を切断しレーダー画面が消えてあわてるようなこともあった。訓練内容は目視偵察や照明弾投下が多く、本来の索敵行動とは思われない。1月に訓練が終わり永井氏は隊付補助として原隊に留まり、階級は兵長に昇進した。6月、部隊は富山飛行場に疎開したのち終戦で水戸にもどり、そこで除隊した。
 質疑交流では活発な意見交換が行われた。特に辻本 久さんは、「特幹の歌」を憶えていて歌ってみせてくれた。またレーダーに関する知識も豊富で、自身が船員であったこともありくわしい説明をされた。イギリスのレーダーには、日本の八木博士が開発した八木アンテナが応用されていたことなども報告された。

記念講演 新井勝紘(かつひろ)さん(本会会員・元専修大学文学部教授・高麗博物館館長)「『五日市憲法』の先駆性−発見から50年、今学ぶこと」

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「五日市憲法」との出会い
 冒頭、新井さんは今回の『「立憲政体改革之急務」島田邦二郎史料集成』(以後『史料集成』)の出版について、1980年代の「自由民権百年」運動の頃にこの史料が発見注目され、その後30年を経て今回1冊の本となり史料の全貌をとらえることができた。これにより自由民権期最後の1880〜1890年代の国民の国家・憲法構想にふれることができた。このことは自由民権運動研究の久しぶりの成果であると述べられた。
 新井さんは在学していた東京経済大学の色川大吉教授の近代史ゼミの共同調査で「五日市憲法」に出会った。研究テーマの検討をしている頃、佐藤栄作首相が「明治百年祭」を行うことを公言していた。「明治百年論争」が起こり、「バラ色論」と「めでたい百年のはずがない」と否定する意見にわかれていた。名著『明治精神史』を出版したころの色川教授は学徒出陣などを体験し「めでたいはずがない」と言っていた。明治百年をどうしたら相対化できるのか、まず足元の歴史から見直すことを決め、OBらの調査の伝統を継ぎ多摩地区の調査をすることになった。当主が代わった深沢家に申し込んだが最初「ガラクタしか無い」と断られ、再度申し込み承諾を得、1968年8月27日に調査に入った。   五日市の深沢家土蔵は多摩地区西部にあり、東京から電車で1時間半の終点の駅。バスはなく、山に向かって歩き1時間ほどの道。ここが東京?というような所に朽ちかけた土蔵があった。深沢家は名主で母屋は既に引っ越して現地には墓地と土蔵、立派な門 だけが残っていた(土蔵は現在東京都史跡となり修復されている)。当主も滅多に入ったことの無い土蔵に裸電球を引いて、ゼミ生が手分けして入り調査を行った。新井さんは2階部分を担当、偶然竹製の文箱を開けるとふろしき包みが出てきた。あけたとたん、劣化していたふろしきが紙のようにボロボロにくずれた。その中に、もっとも重要な「五日市憲法」の史料がまとまって入っていた。上から「五日市学術講談会」などの結社の記録が、下に憲法案が24枚の和紙に綴られて入っていた。見出しに「日本帝国憲法」とあったので、最初は「大日本帝国憲法」をうつしたものではないかと思った。それが今では中学・高校の日本史教科書のほとんどに紹介されている「五日市憲法」だった。
  その後半世紀、さまざまのメデイアに取り上げられた。最初に読売新聞の多摩版が2ヵ月後の10月に記事にした。NHKの「明るい農村」、11PM、小沢昭一のラジオ番組でも。卒論にまとめた論文が『民衆憲法の創造』(色川編、評論社)で共著として出版された。現物は大学や憲政記念館で展示されたが、フリーアルバムに貼り付けていたものを、はがれなくなったのでそのまま桐の箱に入った「大日本帝国憲法」の隣に置くことになった。最近は時代の状況か展示からはずされる傾向だ。現在、五日市と執筆の中心となった千葉卓三郎の墓がある仙台市、生誕地の宮城県栗原市の3個所に石碑がある。

明治憲法、日本国憲法、五日市憲法、現・自民党改憲案を比較する
 『五日市憲法』は204条あり、明治憲法の76条、日本国憲法の103条の2〜3倍ある。明治の憲法草案が内容のわかるものだけで20ほどあり、200条を超す憲法案は植木枝盛の『日本国々憲按』と2つだけである。『五日市憲法』のモデルとなったのは『嚶鳴社草案』である。しかし『嚶鳴社草案』に該当しない部分が50%もあり、その中心部分が国民の権利に関する部分であり、そこに力点が置かれていることが『五日市憲法』の特徴である。主な条項で各憲法、憲法案を比較すると特に自民党改憲案の歴史に逆行する内容が浮き彫りとなるのに対して、『五日市憲法』の先駆性がより明らかだ。
 『五日市憲法』では天皇の扱いは「君民共治」であったが、国民の権利は重視され、オリジナルのものが多い。「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ他ヨリ妨害ス可ラス」とあり、日本国憲法の基本的人権の内容に匹敵する。これに対して自民党改憲案は「国民は、・・自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、公益及び公の秩序に反してはならない」とあり、「公の秩序」を誰が判断するのか、まさに戦前に、明治憲法に回帰するものだ。また「凡ソ日本国ニ在居スル人民ハ内外国人ヲ論ゼス其身体生命財産名誉ヲ保固ス」とあり日本国憲法のもとでさえ固く守られていないことが掲げられている。そのほか、「教育の自由」「地方自治権」「立法権の優越」「国事犯の死刑の禁止」 など日本国憲法に匹敵するか、それ以上の先駆的な内容に注目される。『五日市憲法』は204条の内国民の権利をもっとも重要視しており、行政に憲法を守らせるという立憲主義の立場を明確にしている。安倍政権の改憲の立場が憲法を国民に守らせるものと意図していることとは明らかに異なっている。
 その点で植木枝盛の『日本国々憲按』もストレートに国民の権利を条件なしに明記し ている。第四十四條「日本ノ人民ハ生命ヲ全フシ四肢ヲ全フシ形態ヲ全フシ健康ヲ保チ面目ヲ保チ地上ノ物件ヲ使用スルノ権ヲ有ス」は戦後の民間組織「憲法研究会」が、これを参考に『憲法草案要綱』を作成し、GHQに提案してそのまま採用されたに等しい(鈴木安蔵談)とのこと。

『五日市憲法』は誰がどのようにつくったのか
 どういう人たちがこれをつくったのか。ふろしきに包まれていた史料の一番上に置かれていたのが結社の記録だった。「学芸講談会」という結社の盟約には、討論し各自の 知識を交流するだけではなく、「気力ヲ興奮センコトヲ要ス」とあり、会員は「互イニ相敬愛親和スルコト一家親族ノ如クナルベシ」としている。単なる知識の交流だけではなく気力を高め、濃密な人間関係と相互扶助的な組織を構想していたことがわかる。また「五日市討論会」では、女性(女戸主)参政権や二院制の是非など、賛否両論のテーマを選び、月三回、10ぐらいのテーマを選び討論し論理的思考と相手を論破する力を養うことをめざしていた。深沢家土蔵からはそのほかの資料として、各国の憲法資料、法律関係の外国書籍、主な外来思想書など膨大な資料があり、レベルの高い討論とこれらの資料の読み込みを経て憲法案ができあがったと思われる。その中心にいたのが宮城県からさまざまな経路、経験(ギリシャ正教の信徒となるなど)を経て東京の五日市に来た千葉卓三郎だった。

明治憲法発布(1889年)前後の状況と『立憲政体改革之急務』の位置
 1880年の国会期成同盟大会のアピール「明治14年大会までに各地域で憲法を起草し持ち寄って憲法草案を作成する」を受け明治憲法発布前に101種類の私擬憲法が起草された。この時代を憲法の時代第1期としている。『五日市憲法』もその中の一つだ。
 1880年代後半になっても憲法起草の運動は続いていた。86年から一般からの憲法草案募集の動きが星 亨の「燈新聞」などを中心に出てくる。一方、政府の憲法案を公開させ、国民の意見を反映させようという動きも「朝野新聞」などに見られる(1885年)。三大事件建白運動の中でも「憲法の公示」を要求している。憲法諮詢会なども憲法の逐条審議を要求している。   明治憲法発布後も全国各地で憲法を学習・討議するための憲法研究会が起こっている。埼玉県草加では百名ほどが集まり、東京赤坂でも「赤坂区憲法研究会」が、帝国大学でも学生による憲法研究が行われている。発布後も民間での憲法論議は積極的に憲法が論じられていることがわかる。「朝野新聞」に掲載された「憲法に関する感情」という記事が、明治憲法発布後まだ一ヶ月経過していない頃の国民の意識の一端をあらわしていて興味深い。「・・去る二日の新富座政談大演説会に於いて、某弁士が我憲法は完全なりと述ぶるや否や、数百の聴衆は争てノーノーと叫びし由」と。国民がこぞって明治憲法を祝っていたように思われがちだが、このような状況があったのだ。島田邦二郎の『立憲政体改革之急務』執筆も、このようなことを背景に考えるとよく理解できる。

アメリカに渡った自由民権運動
 新井さんは恩師色川教授の研究を受けつぎアメリカ西海岸の邦字紙の調査を始めている。弾圧された自由民権運動家が米西海岸に渡り邦字紙を発行していた。「新日本」にはじまり「第19世紀」は1899年から59号続いた。明治政府を批判し責任内閣制などを論じている。日本では埼玉の1例のみ確認されている。その後「自由」「革命」(1号のみ)「愛国」「小愛国」と名前を変え最後に「第19世紀」にもどった。これらの新聞は日本にむけ紙の爆弾のように送られたが、発行禁止処分を受け多くが港で没収された。

コメント・質疑  
 まず会長の尾川さんから、『史料集成』と江村栄一『憲法構想』(「日本近代思想大系」9、岩波書店1989)との違いについて説明があった。ひとつは読み違いの修正。岩波版「真・善・美」(緒言P384上−4L)は『史料集成』では「真・美・善」(緒言P92,3L)、岩波版「失政スル」(第2章P39下−最後から6L)は『史料集成』では「失政アル」(第2章P104−最後から4L)に原本通り修正した。人名注で第1章「寛雑」を岩波では「カント」としたが、これは「ジェレミー・ベンサム」であると修正(第1章注10)した。
 副会長で島田邦二郎の兄彦七の孫である島田 耕さんからは、自由民権百年をきっかけとした史料発見のいきさつが語られ、出版の構想20年の末に今回『史料集成』の発刊をできたことについての謝辞が述べられた。
 執筆者の一人高島千代さんからは『五日市憲法』と『立憲政体改革之急務』(以下『急務』)の関連について以下のようにコメントされた。
 幕末から明治期にかけて日本の社会に国家・憲法を構想する気運があり、その流れに『五日市憲法』も『急務』もある。(明治憲法発布後に出た『急務』はこれらの議論を)もう一度まとめあげたものだ。(五日市憲法を書いた中心人物の)千葉卓三郎の議論も『急務』の中に生きている。『五日市憲法』をつくった青年たちの学習運動は自分たちの手で国会・憲法をつくろうとするものだった。『急務』も同じ背景を持っている。邦二郎は明治13年に慶應義塾に入学、『交詢社案』を学んでいる。神戸でも新憲法案が出され、明治10年の三大事件建白書に憲法草案の作成者たちが名前を連ねている。同時代的に各地で学習運動があり一つの構想が出来上がるときに地域毎の運動がある。この時期の日本の地域社会には国家構想をねりあげようとする気力、熱気、「人民の元気」があった。それは「わたしたちが政治主体である」という意識だ。邦二郎の『急務』の独自性は、「立憲政体」は変化する政体であるという意識だ。人民の世論にもとづく政体は変化することが当然という考え方だ。それゆえ、明治憲法発布後も、よりよい方向にもっていこうとする学習運動が続けられたのだ。
  参加者の主な質問意見は、@松江市から来られた野津庸二さんが、松江藩内で反乱を起こす計画があった気配を示すような史料が古い旅館から出たという興味深い話をされ、今後、想定外の所から資料が出てくるのではないか?と感想を交え言われた。A山内英正さんは1977年に新婚旅行で五日市の深沢家土蔵を訪ねた経験を話され当時の若者たち の議論に政治・法律問題だけではなく俳句とか文化史的な背景もあったのではないかとの疑問を出された。
 新井さんからの回答(要旨)は、@その時代の矛盾をいちばん体現している人について、色川教授は江戸時代では豪農層だと言われた(明治では戸長にあたる)。A深沢家からは漢詩集がたくさん出てきた。幕末期の豪農層の一般的な教養だった。

12月例会報告 マーレン・アニカ・エーラスさん(米国ノースカロライナ大学シャーロット校准教授)「越前大野の町社会と江戸時代の貧民救済について」

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ドイツ出身の日本近世史研究者
 マーレン・エーラスさんは、ハンブルク大学在学時に大阪市立大学に留学、大学院はプリンストン大学、のちにハーバード大学で研究し、現在はノースカロライナ大学シャーロット校准教授である。日本近世史を研究、3月に博士課程論文にもとづき『Give and Take:Poverty and the status Order in Early Modern Japan』を出版した(ハーバード・アジアセンター)。今回の報告は、その著書の内容に基づく。彼女は研究対象の大野藩のあった大野市の観光大使も務めている。

大野藩
 大野藩は現在の福井県大野市に位置し、大野盆地の一部と山間部に広がる奥越前の入りくんだ地域を領地としていた。17世紀末以後明治まで四万石の中小大名である土井氏が藩主であった。
 報告者の研究テーマは、大野藩城下の非人集団、物乞い、座頭、瞽女などの貧民の管理と救済、飢饉の際などの一般町民、農民などの救済の構造、それにかかわる「仁政イデオロギー」*(明治前期に至る)の役割などを明らかにすることである。 (*編集部注:近世史像について1970〜80年代以後、大きな転換があった。その中心に「仁政イデオロギー論」がある。それまでの近世史研究の観点は領主権力の専制的性格が強調され、一方で搾取される民衆の鬱屈した不満が爆発して一揆となり、一揆の革命的・階級闘争的な側面が強調された。これに対し「仁政イデオロギー論」は1973年頃提起され、金沢藩の前田利常が「仁政」(「御救」「御恵」)を施すことにより小農民の保護育成を意図したものとする。その後80年代後半になって、領主と民との関係について両者の間に利害の衝突と同時に「合意」「契約」などの関係を見出すこと、幕藩制国家の「公儀」・公共の役割に注目する研究がすすめられるようになった《深谷克己、朝尾直弘ら》。)福井県では大野市がもっとも古文書史料が残っている(他地域は災害などであまり残っていない)。世界的に見ても前近代の庶民の歴史資料が残っている割合は日本が多いという。日本の古文書を世界遺産にすべきとエール大学の先生もいっているとのこと。

史料に見る貧民と貧民救済の状況
 (1)座頭小野市の例(史料1斎藤寿々子家文書) 座頭は江戸時代に盲人の一般的呼称となり、鍼灸治療、按摩、門付芸能などを稼業とした。座頭小野市は五番町の家持(家屋敷を所有する町人)、座頭仲間の座元(統括責任者)であり妻と子供4人の家庭を持っていた。安永6(1777)年に「乱心」(精神疾患 となり、家族、親戚、仲間が介護にあたるが大変だったので藩(町奉行)に救済を求める「願書」を出した。町奉行の解決策は、妻と娘は弟の家に、市は上黒谷村へと家族を分散させる案であった。この経過から、町人は家を持っているけれど生活は安定していないこと、働き手が病気になると家は解体すること、家持というステータスは失いたくないこと、貧困になると共同体−町人の場合は「五人組」や町全体に救済を求めること、最後には「願書」を(藩に)出すことも珍しくないこと、などがわかる。
 (2)金塚村の奥兵衛の例(史料2寛政元(1789)年願書)  金塚村の奥兵衛は病気で足が立てなくなった。妻も病気で、村が「合力」(相互扶助)で助けていたが一般的に村の「合力」は長続きしない、最終的には親類に引き取られることが多い。しかし皆貧乏だったら長続きしない。奥兵衛は足が不自由なので、物乞いもできない。そこで藩に「お救い」(江戸時代に領主が生活難渋者を救済する制度)を願い出ることが行われる。奥兵衛は結局「お救い」を認められた。
 (3)座頭・瞽女、乞食頭(史料3「座頭瞽女乞食頭江祝儀布施之覚」麦屋文書) 座頭は「当道座」(当道は、もとは琵琶法師の座組織、江戸時代に幕府公認の組織となる)という全国組織に属し、町人でも百姓でもない。瞽女は地域の座頭に従属する。座頭は施物、音曲、鍼灸、按摩、門付芸、金融などの職業の特権を有する。京都や大坂では金持ちもいるが、小都市では貧しい人が圧倒的である。上記の職業では生計が成り立たないこともあるので、座頭や瞽女は物乞いをすることもある。しかし座頭・瞽女は乞食(「古四郎」)とは一線を画そうとしている。座頭は町人の女性と結婚できるが、乞食はできない。
 (4)その他の貧民の物乞いと役人による見逃し  物乞いは百姓、町人でもやることがあったが、町奉行所は見て見ぬ振りをすることがあった。冬に山間部は雪が深く積もる。山村から貧しい百姓が大野へ来て物乞いをすることがあった。これに対して、大野藩が負担して12月1日に「御施行」(粥の炊き出し)を行った。炊き出しは京都では三井などの豪商がやっている。

身分社会と貧民救済 Give and Take
 研究の基本史料として「町年寄御用留」(業務日記)が用いられている。元文5(1740)〜明治3(1870)年まで49年分の記録が残されている。町年寄とは最高位の町役人で、二人月番交替、町奉行への願書伝達、町人の代表、藩の政策の実行責任者である。史料にはさまざまな貧民の姿が見られ、江戸時代の社会構造にどのように位置づけられていたか、彼らがどのように自己主張できたか、束縛されていたか、また「御救」や村内の「合力」などさまざまな救済方法が併存する状況などが記録されている。
 江戸時代の社会は、民衆が村、町、仲間、家臣団、寺中など公認された自律的な共同体である身分集団に組織されていた。集団は強い地域性を持ち、共同所有の土地や縄張り、職分の独占権を持ち、身分集団独自の「法」(仲間、式目など)があった。誰を仲間に入れるか、追放するかを自分たちで決められた。領主は彼らを支配下に置きながら、身分集団の独自の関係を利用しようとした。そして彼らは公認される特権のかわりに「御 用」と呼ばれる役目を果たしていた(「古四郎」の町廻りや行き倒れの「片付」など)。この「特権」と「御用」の互酬性、救済を貰うことと与える行為(報告者の言う「Give andTake」)が江戸時代の身分制社会を読み解くひとつのキーワードである。

「渇命願」という願書(史料4「天明3・4年(天明飢饉中)の渇命願」)
 「渇命願」とは、飢饉で飢餓状態など困窮している人が領主に出す救済願いである。その手続きは、まず飢えている本人が町の庄屋に出し、町年寄から町奉行に出されると、藩は極力救済を行うことをためらい、いったん町で解決するように圧力をかける。天明3年12月26日には、三番町の33名が飢えてお救いを願い出たが却下された。天明4年にも四番町で76名が願い出たが同様に却下された。「町内で相応に暮らす者同士で解決せよ」とのことであった。同年1月26日には町全体で350名が願い出たが「前例の通り御用達(領主に御用金を納める特権商人)、町の金持ちで救いなさい」という回答だった。このとき米を出した町人は、「相応に暮らす者」(町の金持)や町役人(町年寄、庄屋)、御用達などであった。各町には、渇命者が多いところ、いないところ、渇命者と金持ちのバランスが取れているところ、などの格差があった。  藩の立場は、できるだけ町内で解決させようとし、よほど大きな飢饉や百姓一揆が起こるようなことを契機に「御救」を発動させた。寛政の改革以後、幕末以後、特に天保の飢饉の頃「御救」が出されることが多かった。この時期は同時に藩政改革による藩財政立て直し事業が併行して行われた。大野藩では「うるし」、タバコなどの新しい産業が起こった。

質疑交流
 江戸時代の社会の詳細な報告、それもドイツ人研究者による報告に参加者一同新鮮な感動を覚え聞き入った。参加者の中に偶然、これから大野市へ実際に行くのでくわしく話を聞いておきたいという人もいた。ヨーロッパなどとの貧民救済制度の比較、村落の共同体の自治能力の比較などの質問も出た。日本の古文書が国際的に高い評価を受けていることなど重要な指摘であり、近世史の研究が従来のように領主層の一方的な強権的支配でなく、領主と家臣、民衆との相互関係の中で理解してゆくことが非常に重要となっていることが理解された。

11月例会報告 熊井三郎さん(会員・詩人会議)「階(しな)戸(と)義雄 ― 知られざる戦時下の抵抗詩人大阪外語社研、労農救援会 大阪支部書記、二度の投獄を経て」

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大阪外国語学校社研部
  詩人階(しな)戸(と)義雄は報告者の熊井三郎さんとともに奈良詩人会議を結成、以後お二人は共に詩人会議を支える同志として歩んで来られた。
 階戸は1908年金沢市の遊郭街に生まれた。父が米相場に手を出して家屋敷を売り払って金沢に出てきたのだ。中学4年の頃四高の学生が開いている読書会で、ブハーリンの『史的唯物論』を読んで社会への目を開いた。1928年大阪外国語学校のロシア語部に入学。兄夫婦と父の住む生野の借家に、中学同窓の大阪歯科医専の岩田了吉と転がり込み読書会を開いていた。外語ではロシア人教師ニコライ・ネフスキー(日本民俗学、アイヌ語、宮古島方言、西夏語などの研究で知られる。ソ連帰国後シベリアに流刑、流刑地で死去)にロシア語を学ぶ。外語の社研に入り、活動する。「ナップ」(全日本無産者芸術連盟)の機関紙「戦旗」分局の責任者となり、数十部を扱い、そのマージン(2割)を学費の足しにした。当時「戦旗」は最盛期で26000部発行された。1929年ころ、大阪で外語、商大(現・市大)、歯専、大高(現・阪大)、関大などの社研が結集する「学連」の委員会に外語代表として参加した。

治安維持法違反で検挙
 1930年無産者新聞の支局をしている京大生から総選挙の共産党宣伝行動への参加を求められ、(この時、「神様」から言われたように思ったと後に語っている)ビラを軍需産業でもあった藤永田造船所前で労働者に手渡し、天満紡績にも塀越しにビラを投げ込んだ。その後、特高に逮捕され戎橋署に拘置されて拷問を繰り返し行われた。後の裁判の中で、当時撒いたビラには「天皇制打倒、帝国主義戦争反対」の文言が書かれていたことを知る。留置所ではドロボウやスリが介抱してくれたという。そして、彼に指示した京大生は同様に検挙されたが、公判で陸軍中将主計総監の息子だとわかった。奥田平は懲役2年執行猶予4年の判決を受けた。東京朝日には「関西共産党の大検挙五百名余 七十一名起訴」の記事が出た。
この事件で外語は放校処分となり(卒業試 験は終わっていたにも拘わらず放校となった)。1931年に超党派的に労働者・農民の救援を行う「日本労農救援会(国際労働者救援会日本支部)準備会」が結成され、1932年階戸は、大阪支部の書記(のち書記長)になる。自然災害や労働争議の救援にあたるが、書記の収入は食うや食わずで、再三検挙され留置所に入って、ようやく飯にありついたという。
 1935年日本共産党に入党し、翌年治安維持法違反で検挙され1年半堺刑務所に入獄する。その後腸結核を発病して堺刑務所を仮出獄、母親に引き取られ郷里金沢の病臥の床で、日中戦争・太平洋戦争下、憲兵、特高、保護司の監視のもとにあって稀有の「国禁の詩」を書き続けた。

国禁の詩
 階戸は1937年から敗戦までの8年間の間に、日本戦中詩に希有の抵抗詩など67編を書いた。例会には熊井三郎さんの仲間、詩人会議の会員が多数参加したが、報告の途中で階戸の詩を交替で朗読するという、これまでの例会にない異例の展開となった。その中で冒頭に紹介された代表的な作品が「火喰鳥」だ。

火喰鳥
 私の胸の火は  
 同じ火を呼ぶ  
 一度たべた火は  
 舌を焼いたが  
 そのからい味が  
 忘れられない  
 たとえ身をこがす  
 焔であろうとも  
 私の胸の火は  
 火を呼んで止まぬ

戦後の活動
 1947年階戸は日本共産党石川県委員長となり、1953年の内灘闘争(内灘村米軍砲弾試射場反対闘争)を指導した。1956年病気療養のため奈良市に移住、1957年「奈良文学」に参加、詩を発表、1962年第1詩集『風雪の暦』を発行。戦前の詩がはじめて公にされる。1969年岩波書店「世界」8月号の「父と子」特集に「暗い谷間の青春」が掲載される。1968年はじめて北アルプスに登り、以後山好きとなって大台ヶ原、西穂高、蝶ケ岳などを登る。1974年奈良詩人会議を屋根正彦、東海小磯、報告者の熊井三郎さんらと共に結成、代表を務めた。以後全国組織の詩人会議にも参加し、熊井さんらと共に奈良で詩作活動を続ける。1981年6月18日肝臓癌のために死去。享年73歳。

質疑交流から
  本日の例会は31名が参加し、補充の椅子も足らなくなるほどの盛況となった。特に詩人会議、大阪外大OBの方々などが多く参加され、東京と埼玉からも参加した会員の清水さん、中野さんのご夫妻4名など、いつもは見られない顔ぶれだった。質疑交流も活発に行われ、「文化の香りのする報告だった」との感想が語られた。途中、詩人会議の参加者により詩の朗読が交替で行われたことも異例な展開だった。
  冒頭で、階戸の読み方について意外な新発見があった。従来「しなど」と読まれてきたが、これは「しなと」が正しいと確認された。奈良県では階戸について知る人が少なく、これほどの詩人とその戦中の希有な抵抗詩について、もっと広く知らせる必要があるとの共通認識も生まれた。この例会も、そのよい機会となった。そして戦前、戦中に治安維持法の犠牲となり大学を放校処分となったような学生たちの足跡についても今後調査する必要があるとの認識が参加者に拡がったように思われる。それは、安倍政治のもとで再び「ファシズム」の足音が聞こえてくるような昨今、ぜひ必要な作業と思われる。階戸は私たちに語りかけている。「私の胸の火は 火を呼んで止まぬ」と。

10月例会報告 原 幸夫さん(会員・大阪経法大講師)「中国遼寧省の万人坑を訪ねて」

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遼寧省の「万人坑」を訪ねる
 原さんは府立高校、大阪経済法科大学などに勤めながら「東アジア青少年歴史体験キャンプ実行委員会」の運営に参加して日中韓の中高校生たちの交流をはかる取り組 みを毎年すすめている。今年は、その一環としてキャンプが行われた中国吉林省での「万人坑」の見学を中高生とともに行った。
 「万人坑」について万人坑研究者の青木 茂は「中国での定義は万人坑とは『人捨て場』のことであり、原因・理由にかかわらず、日本の中国侵略下で『不自然な死』『理不尽な死』を強いられた人が埋められているところが万人坑である。虐殺被害者や強制労働の犠牲者などが埋められているところは全て万人坑である。」としている。(青木 茂『万人坑を訪ねる−満州国の万人坑と中国人強制連行』緑風出版2013年)
 今回の報告は主に、昨年中国帰還者連絡会の解散にともなって結成された「奇跡を受け継ぐ会」主催の「万人坑を知る旅」で訪れた遼寧省の「万人坑」見学の報告である。 遼寧省は中国東北部、旧満州国の支配した中心地で省都は瀋陽(旧奉天市)である。 瀋陽を中心に十個所の「万人坑」を8泊9日の日程で訪ねた。原さんは、かつての街並みが残る瀋陽で旧大和ホテルの張学良の泊まった部屋に宿泊したそうだ。

屍骨累々の万人坑−「人捨て場」
 原さんが撮った写真をプロジェクターで映しながらの説明を受けた。画面には、地中に埋められていた白骨が屍骨累々と横たわり、あるいは乱雑に積み重ねられ、日本の中国支配下で行われた犯罪のすさまじい様が映し出された。
 「阜新炭鉱の万人坑」は炭鉱のある丘陵地全体が万人坑となっている。発掘地をドームで覆い展示されている。2005年にリニューアルされて、かなり費用をかけた展示で展示室内は冷暖房が効いており、構内は電気自動車で回れるようになっている。遺骨が無数に並んでいる発掘地はガラスで覆われている(「死難鉱工記念館」)。遺骨には足首が無いという特徴が見られたが、これは野犬が食べた結果らしい。時代が下るにつれ、より乱雑に遺骨が埋められるようになっている。遺骨の骨は太く歯の状態も良く、青壮年の人びとであることがわかる。まだ息のある時に埋められた人もいることが骨の様子で確認された。   「抗暴青工遺骨館」には抵抗した労働者の遺骨が埋められている。彼らは捕虜収容所から送られてきた「特殊工人」と呼ばれた人びとである。満州以外の華北などから来た人も含まれている。敗戦までに9300人が阜新に送られ、捕虜兵士による抵抗、暴動が繰り返された。遺骨は乱雑に埋められていた。この人たちの死亡率は50%にもなるという。
 1960年代に発掘された「北票炭鉱(北票市)万人坑」の「台吉南万人坑」では丘陵地が人捨て場となっている。ここでは3万人が亡くなっている。「排列型屍骨房」では頭を山の方にむけて、ていねいに埋葬されていた。一方で、深く掘られた穴には、体がよじれて、手が上に上がっている状態の遺骨が見られ、これは生きたまま埋められてもがいて手で土を?いている状態を示している。よくこんな残酷なことが出来たものだと思う。上から人骨を乱雑に積み重ねただけの場所が見られたが、これは近くの谷間に投げ棄てられた遺体の骨を拾ってきたものらしい。「大石橋の虎石溝万人坑」は本多勝一の「中国の旅」で紹介された場所で、マグネサイト(マグネシウム鉱石)の露天掘りで世界有数の鉱山である。巨大なトラックが行き交う中を見学した。ここでは2体が針金でまかれている状態の人骨があった。
 「弓長嶺鉄鋼万人坑(遼陽市)」では12000人が亡くなっており、一帯には骨が散乱して積まれている。見学中、住民が寄ってきて、「子供の頃は骨が散乱していた」という話をしてくれた。焼却炉(「煉人炉」)が残っている。 途中、頭蓋骨に鈍器を打ち込んで陥没させた遺骸とか、あまりにもむごたらしい惨状を映し出したせいか“プロジェクターが機能マヒに陥り”、口頭報告のみにならざるをえなくなった。「本渓湖炭鉱仕人溝万人坑」には1942年にガス爆発が起こり1800人が亡くなる大惨事が起こったことの慰霊碑がある。碑には1377人と少なく記載していた。新賓では抗日運動が日本軍の虐殺で弾圧された結果、「北山万人坑」が形成されている。現在も採掘されている巨大な露天掘りの撫順炭鉱のある撫順市には36カ所もの万人坑が形成され25万人が亡くなっている。撫順の近くには有名な「平頂山」がある。ここでは日本軍の守備隊、憲兵隊が3000人を虐殺、遺体をガソリンで焼いた上、山をダイナマイトでくずして埋めた。その中で唯一の生存者が母の胎内にいた子どもだったと聞かされて愕然とした。
 大連の「龍王廟万人坑」は最近リニューアルしたが、陸軍の病院建設で動員された労働者の万人坑がある。ここには「関東軍693部隊」が配置され、細菌戦研究で有名な「731部隊」と同様の細菌兵器開発を行っていた疑いがある。「旅順万忠墓記念館」には日清戦争中、日本軍が旅順で2万人の市民、兵士を虐殺し焼却、白玉山山麓などに埋めた記録などが展示されている。

質疑交流−万人坑研究の問題点
 質疑交流では活発な質疑意見交換が行われた。万人坑問題では、まず研究が非常に少ないということが参加者も報告者自身も強く感じている問題であった。このことの背景に、さまざま指摘された問題が横たわっているように思える。報告者が万人坑をめぐる旅で感じたこと、問題意識について、○1960年代の文革期に発掘がさかんに行われていること。○発掘は一部に留められていること。遺骨収集は行われていないこと。○「愛国主義教育」として巨費をかけた万人坑遺跡記念館がある一方で放置されている万人坑が各地にあること。○万人坑の管理は行政が行い、市民運動や自発的な活動による 研究、保存活動は行われていないこと。そして責任の所在として、関東軍、日本政府、 満州国政府、満鉄などとともに中国社会の「把頭(はとう)制度」(中国特有の労働ボスなど中間搾取者の制度)という慣行も含めて、その構造をどうとらえるのか明らかにする必要があることと、万人坑形成の要因である中国人「労工」問題がどのように研究されてきたのか、現在なお、万人坑研究が少ない中で日中戦争史研究、日本帝国主義史研究とも関連して今後追求されなければならない問題であると指摘されている。  
 意見交換の中で、中国国内では万人坑問題は中国政府が管理しており、市民運動などはむしろ抑制されるか自発的に起こる状況では無いこと。中国政府はむしろ、日本との経済的政治的関係に配慮して万人坑問題をあまり表沙汰にはしない姿勢が見られるのではないかと推測されること、その一方で拠点的な遺跡は整備して保存しているという二面的な対応が見られること、などの点についても言及された。しかし、報告で明らかにされた惨状は日本が大陸で犯した侵略行為の中でも相当深刻な問題であると考えられる。今後冷静な分析解明が両国の研究者の協力によりすすめられることが期待される。

9月例会報告 書評会『沖縄 憲法なき戦後』豊下楢彦・古関彰一著

 今回の書評会は、大阪歴史科学協議会、大阪歴史学会、2・11集会実行委員会の共催による学習会を、大阪民衆史研究会の例会とした企画だ。当日、著者代表として参加していただいた豊下楢彦さんは、日米安保体制を軸とした戦後日本外交史の研究で知られた研究者で、実は今回の企画も、これまでの豊下さんに対するラブコールが、ようやく書評会という形で結実したものだった。
 現在、日本の人権や民主主義を考える際、その制約を正当化する「やむを得ない事情」として、常に引き合いに出されるのが、「テロ」や「北朝鮮・中国の脅威」である。しかし「テロ」も「北朝鮮・中国の脅威」も、実は、日米安保体制や冷戦という枠組の中での発想に他ならない。この点に思い至るならば、日米安保を超えて日本の安全保障政策がどのような形をとるべと問題に向き合うことが、実は日本の民主主義に直結する課題だということがわかる。
 豊下楢彦さんの一連のご研究、例えば『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交』(岩波新書・1996年)、『集団的自衛権とは何か』(岩波新書・2007年)、『昭和天皇の戦後日本―(憲法・安保体制)ににいたる道』(岩波書店・2015年)などは、この課題にリアルに向き合ってきた成果だ。日米安保条約を批判しても、その成立までにどのような選択肢があり、その条文の語句に日米政府間のどのような妥協の論理が込められているのか、知る人は少ない。豊下氏は、この点を丹念に追いつつ、その中に、「パワー・ポリティクス」の思考に基づく現実主義的な外交によって日米安保を乗り越えていく契機を探ってこられた。戦後直後の日本政府には、「国連」による集団安全保障の中に日本を位置づける視点や「非武装・中立地帯」の構想がリアルなものとして存在していたが、それが「日米安保」と化し、アメリカの核の下に組み込まれていったのはなぜか―この点を、昭和天皇が果たした役割を含め、明らかにされてきたのが、豊下楢彦さんなのである。
 このように豊下氏の研究の特徴、また魅力は、まず現在の日本社会に対する強烈な問題意識にたった歴史叙述であること、また「実際にあったこと」だけでなく「あり得たこと」、つまり日本外交が実際に持ち得た選択肢の提示を通じて、現在の問題への答えを追求しようとする点にある。そしてこの点は、今回の書評会がとりあげた『沖縄 憲法なき戦後―講和条約三条と日本の安全保障』も例外ではない。こうした姿勢・手法が、現実肯定に陥りがちな「外交史」からの脱却につながっていることは、当日の報告者、小林啓治さん・吉次公介さんも指摘されていたが、筆者は、むしろ自由民権運動研究者の色川大吉が「未発の契機」という概念によって、民権派による「変革の可能性」を論じようとした手法との類似性を感じた。 いずれにしても、『沖縄 憲法なき戦後』は、そのタイトルにも示されているように、なぜ沖縄では、日本国憲法下で当然に認められるべき基本的な人権(土地所有権を含む)を戦後から今に至るまで行使できないのか―こうした問題意識に立ち、米軍による沖縄支配の法的根拠であったサンフランシスコ講和条約の第3条を再検討し、支配根拠をめぐる日米両政府、国内外の議論や、当時の選択肢を明らかにすることを第一の柱としている。
 サンフランシスコ講和条約第3条は、「日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)…(中略)を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」としているが、沖縄が戦後、この第3条に定める「信託統治制度」によって米に統治されたと理解している人は多い。しかし、信託統治制度はそもそも植民地下の地域が解放される過程で住民の自治・独立を図る目的で設置されたものであり、この制度の下で米軍は十分な「行動の自由」を確保できない。かといって「併合」はさらに困難であることから米が生み出したのが、この第3条だった。ここにおいて沖縄は、信託統治制度への移行を前提としつつ、むしろ赤文字部の規定により、事実上、米軍がフリーハンドをもつ「植民地」として支配されることになったのである。
 このように沖縄支配は、信託統治制度への移行措置という、きわめて薄弱な根拠に依拠しており、1956年12月日本が国連に加盟すると、独立国への信託統治制度適用を禁ずる国連憲章78条によって講和条約3条は前提を失う。当時この点は沖縄、また日本の国会でも再三指摘されており、むしろ国連に積極的に訴えて沖縄返還を実現すべきという主張もみられたが、結局、岸政権は「国連カード」を使うことなく、むしろ米の「ブルースカイ・ポリシー」(空に雲一つなく、アジアの平和と安全にいかなる脅威もなくなるまで、沖縄は返還しない)を1957年6月の日米共同声明で容認する。さらに1960年12月、国連で「植民地独立付与宣言」が採択されると信託統治制度は事実上終了し、講和条約3条は死文化。実はこの段階で沖縄支配は法的根拠を喪失していたが、池田政権は岸以降の沖縄返還要求「凍結」政策を続け、さらには本土でなく沖縄への核持ち込みにも理解を示す。これに対して佐藤内閣は沖縄返還を要求するが、それは、むしろ「極東に脅威と緊張が存在する限り」沖縄における一定自由な米軍の行動を容認すること(つまり「ブルースカイ・ポリシー」の前提を日本が引き受けること)によって、返還協定の道筋をつけようとするものだった。
 以上のように、戦後の日本政府は、沖縄問題を日本の不可避の国益問題として取り組むことなく、また返還要求の根拠として、「国連カード」や、3条失効論に依拠した復帰運動の高まりを利用することもなかった。つまり日本政府による沖縄返還要求は、利用し得る交渉カードのすべてを駆使する(「パワー・ポリティクス」)のではなく、「ブルースカイ・ポリシー」の一端を日本政府が担うことによって根拠づけられていた。返還後は日本政府が責任もって引き続き米軍の「行動の自由」を実現することと引き換えに、 沖縄返還を米国政府に「お願い」するというのが、日本政府の立場だった。「憲法なき沖縄」のはじまりである。しかも、これは対等な主権国家としての「要求」ではなく、 「お願い」である。そして、その根底にあるのが、憲法9条下で防衛力をもてない日本の安全、東洋の平和を守るためには米軍が沖縄で自由な行動を行うこと(核持ち込みを含む)を受け入れざるを得ない、という論理だった。
  以上のような戦後日本外交の主権なき実態を明らかにしたことが、本書の第二の柱であるが、ここには、二つの問題がはらまれている。一つは、日本政府が沖縄問題を日本の主権や切実な国益に関わる問題としてこなかったことの意味である。その根底には、近世以降、沖縄(琉球王国)を「日本」の「異域」とし、本土の外・従属的な位置におく視点があるように思われるが、これが、朝鮮・台湾に対する「植民地」としての視線にきわめて近いことは、その国籍問題にも示されている(本書第1章)。沖縄を「植民地」として扱ってきたのは米だけではなかったのである。沖縄の基地問題が今に至るまで解決されない背景には、こうした本土における沖縄への視線と、無関心がある。無関心とは、沖縄の基地問題「憲法なき沖縄」が「本土」のそれにつながっていることを意識しないことでもある。もう一つの問題は、「パワー・ポリティクス」なき対米外交が、結局、今に至っても続いているということである。米に対する沖縄返還の「お願い」は、「米国の好意」、米との「相互信頼」「友好関係」という言葉の下になされたが、この種の言葉は現政権下でも多用されており、また、憲法9条下で防衛力をもてない日本だから米軍が必要という論理は、湾岸戦争以降の「国際貢献」の強調によってさらに補強されている。本書は、こうした論理を打ち破る方法として、沖縄を拠点に、米にも中国にも支配されない「東アジア軍縮共同体」(核兵器の使用もそれによる威嚇も行わない)を形成することを提案しているが(終章)、私たちはこの問題提起にどう答えるのだろうか。
 このように本書は、戦後直後から現在に至るまで沖縄また日本で、米軍が「行動の自由」を得ている理由・根拠を明らかにすることで、米軍基地、さらに日米安保をのりこえていくリアルな道筋を示してくれる。本書の問題提起をぜひ、多くの方と共有したい。
報告・高島千代(運営委員・関西学院教員)

8月例会報告 島田 耕さん(副会長・映画監督)「東宝争議(1948年)の70年−亀井文夫監督「女の一生」映像資料紹介と共に」

8月例会の写真

日本映画の一番輝いていた時代
 島田さんは淡路島で中学生の頃、黒澤 明監督の「我が青春に悔いなし」を観て驚いた。終戦1年後の1946年のことだった。戦時下に抑圧されていた映画人の創造のエネルギーがふきあがってきたような感じだったという。背景にはこの頃、日本の民主化路線をすすめるGHQのCIE(民間情報教育局)のコンデが東宝、松竹、大映各社に反軍国主義、自由主義的平和主義的な映画作りを提言していることもあった。戦後は映画が最大の娯楽であり、島田さんは空腹よりもスクリーンの世界への憧れがまさり、生きる活力につながったという。

東宝争議のはじまり
 東宝では終戦翌年に労組(日本映画演劇労組)が結成された。1948年4月8日、第3次東宝争議が起こる。労働協約の更新を会社が拒否し全東宝従業員1200人、撮影所は270人の解雇を発表してきたのだ。会社は「二つの赤」(経営の赤字と共産党員)の追放を意図していた。砧(きぬた)撮影所に立てこもった労組の闘いに他の労組(産別組合)、朝鮮人連盟、全学連などの団体が支援に駆けつけ、撮影所に泊まり込みで争議が闘われた。当時島田さんのおじさんが撮影所で働いていた。叔母さんは自宅のあった世田谷でバザーをして争議の資金カンパをしていた。島田さんは当時17歳で争議支援の活動を行い、電柱に古い新聞紙に赤インクで書いたポスターを貼る活動などをしていたという。撮影中の映画はすべてストップした。亀井文夫監督の「女の一生」は6ヵ月中断して1949年に公開された。

アメリカ軍の介入と争議の結果
 争議には全国から支援の輪がひろがっていた。当時の日本は占領下にあり、GHQ内部では反共主義の潮流が勢力を占めていて「赤い映画人」は許せないという考え方があった。争議に対する米軍の介入も予想していたが、どう出るかまでは想定していなかった。1948年8月19日早朝米軍は戦車(7台)を配置して撮影所を包囲し、上空には偵察指揮のための飛行機(3機)まで旋回していた。日本の武装警官2000人が出動し「軍艦以外はすべて来た」と言われる東宝争議最大の山場であった。日本メデイアは米軍の介入を報道できないので、事前に「ロイター」や「タス」など外国通信社20社ほどを呼んであった。「ロイター」が世界に発信した内容をもとに日本のメデイアが記事を書いた。強制執行の最後通告があり組合は退去せざるを得なくなった。会社からにらまれていた共産党員などの20名の組合員が自主退職のかたちで辞め、270名の解雇は事実上撤回 されるという特殊な解決の仕方で結着した。争議のなかで分裂派だったメンバーはその後新東宝をつくった。

戦後世界史の中の東宝争議と日本国憲法制定
 東宝争議の時期は、戦後の世界史のいわば潮の変わり目に位置した。2年前の1946年には日本国憲法が公布された。この間に何があったのか。  
1946〜1947年は、東欧社会主義圏の成立。アジアでは中国の国共内戦で人民解放軍が優位に立ち1949年には中華人民共和国が成立する時期。米ソ間に東西冷戦が開始される頃である。GHQは当初、日本占領政策の目的をポツダム宣言にもとづき日本の軍国主義を取り除き、民主化することに置いていた。しかし世界情勢の変化を受けてアメリカは日本民主化の政策を変更し、日本をアジアにおける「反共の防壁」とする政策に転換することになった。東宝争議はアメリカの方針転換直後に起こった出来事であり、日本国憲法は転換直前、日本「民主化」の過程が実行中の時期にGHQ民政局の若手ニューデイーラーたちが関わって出来た当時世界最良の民主主義の憲法であった。

亀井文夫監督「女の一生」のメッセージ
 報告途中に亀井文夫監督作品「女の一生」(1949年)が上映された。亀井文夫も自主退職した一人であったが上映は大きな反響を呼び映画の興行費から争議解決金として1500万円を日映演労組が獲得した。この頃から独立プロによる映画制作がはじまり前進座は第一作映画として今井正監督「どっこい生きている」をつくった。
 亀井はソ連で映画を学び、「女の一生」では主人公の女性が恋人と工場の屋上でキスシーンを演じる場面がある。島田さんは、当時これを革命的ロマンテイシズムと言ったと紹介した。映画は古いかたちの家族関係(半ば封建的な日本社会の縮図)の中で葛藤する若い夫婦と姑の関係、会社側と組合に団結して闘う工場の労働者ら(日本に芽生える新しい社会をめざす動き)を重ね合わせながら描いている。志村 喬が演じる労働組合のリーダーが学習会で人類の歴史の進歩の必然性について語った後、全員が窓から流れてくる音楽の方向をいっせいに見て、ほほえんでいるというシーンで終わる。当時から、「これでよいのか?」、「みんなが見ているものは何か?」などのさまざまな意見が出された。最後は観ている人に考えさせるという今ではよくあるかたちだが当時は斬新な終わり方であった。封建的社会の象徴でもある姑と対立する若夫婦が姑と共に労働者と一緒になってほほえんでいる姿は新しい日本社会の変革がどうあるべきかについて暗示する表現と思う。実際に映画公開の1月の総選挙で日本共産党が35議席を獲得するという情勢でもあったことを考えると、映画のメッセージ性はわかる気がする。しかしあのいっせいのほほえみに当時の時代精神を感じると同時に、現代の我々が見ると違和 感を感じるのも事実で、これも現代という時代の雰囲気を反映している。亀井監督なら現代の日本社会をどう表現するのだろう。質疑交流では熱心な意見交換が行われ、特に戦後史の転換期の問題に意見が集中した。その意味では東宝争議は、終戦直後の日本と現代がつながる結節点にある問題でもあり、その前後に何があったのか再度見直す必要も感じられ、貴重な例会となったように思われる。

総会記念講演  藪田 貫さん(兵庫県立歴史博物館館長・大塩事件研究会会長)「大塩平八郎の乱と現代」

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「大塩の乱」180年をむかえて
 1837年の大塩平八郎の乱から180年が経過して、各紙が特集を組んでいる。『朝日』は大阪版夕刊で「追跡 大塩平八郎」を連載している。困窮する庶民を尻目にぜいたくざんまいの将軍家、私腹をこやす商人と幕府高官。元大阪町奉行所与力が大砲をぶっぱなして幕政のゆがみを正し、困窮者を救済しようとした事件は、現代の日本の状況ともオーバーラップしている。「大塩様」は今もなお大阪の庶民のこころの底に生きているのではないか。
 藪田さんは、現在兵庫県立歴史博物館館長で、大塩事件研究会の会長でもある。会は酒井 一前会長から大塩関係の史料遺品をすべて寄贈されて受け継いだ。冒頭それらがビデオで紹介された。大塩の肖像画や文書があり、中に大砲の絵があった。大塩が市中で幕府側に放った大砲の砲身部分には参加した門弟の名前が連判書として書かれていたことが印象的であった。

檄文発見と大塩研究のはじまり
 大塩の先行研究として、幸田成友(1910『大塩平八郎』)と石崎東國(1918『大塩平八郎』)が知られているが、石崎が発見した(成正寺に保存)檄文の現物が本格的な研究のきっかけとなった。檄文の行には三つのすきまが見られ(下図、出典は岡光夫・山崎隆三編著『日本経済史』ミネルヴァ書房)、これは計画の露顕を防ぐために版木を四枚に分割して(32枚、4ブロック)文章全体がわからないようにして彫り師に彫らせたためといわれる。藪田さんは、そのレプリカを開きながら説明された。写本でのみ檄文を見るとわからなかったことが、現物が発見されて当時の様子がわかった。(*檄文には現在の飢饉の原因は豪商と結託した悪徳役人の行為であり、彼らを誅伐して特権的豪商の金と蔵屋敷の米を貧民に分け与えよと書き、幕政の腐 敗を嘆き、一方で農民一揆とは異なることを強調し、困窮者救済の意図を明らかにしている。)事件が鎮圧されて後、関係者900名ほどが尋問され調書を取られた。それらは江戸に集約され審理された。そこから事件の全貌が見えてくるが、それがわかってきたのが1987年の頃だった(『大塩平八郎一件書留』)。これで事件の研究のりんかくが定まってきた。

大塩「出世願望」説は正しいか
 一部に、大塩には個人的な「出世願望」があり栄達が無理で乱を起こしたという説(仲田)がある。大塩が作成した「建議書」という膨大な資料はそのために作成されたというのだ。藪田さん自身は、この説はまちがいとするが、大塩が他の大坂武士とは異なる側面、江戸の情報に強い関心を持っていたという面を強調する。大塩は多彩な人間関係のネットワークを持ち、特に江戸関係には重要人物がいる。このようなことが「猟官運動」といううがった指摘を受ける元になっているようだ。関係者には水野忠邦(老中)、林述斎(林家第八代、大学頭)、佐藤一斎(昌平黌教授)などがいる。実際、大塩は金策に困っていた林に3000両を貸しており、それは林が無尽(頼母子講、発生は講組織による相互金融、近世には営利を目的とする富くじに近いような無尽が流行)に手を出そうとしていたのを止めるためであったという。与力には精錬と汚濁の二つのグループがあり、大塩は家康の前で軍功をたてた先祖を誇り、「功名気節を以て祖先の志を継がん」とする、例外的な存在であったという。大塩が書いた「建議書」は所司代。城代、町奉行などを指弾する内容であり、庶民の困窮をよそに無尽で蓄財する武士たちを批判し、老中になる以前の水野忠邦なども大坂時代(城代)に無尽で利益を得ていることなどが、やり玉に挙げられている。

「隠者」から武力蜂起へ
 大塩は与力をやめ、陽明学にもとづく塾、洗心洞で豪農出身者を含む門人らを指導、藤田東湖、水戸斉昭や林述斎、佐藤一斎らとも交流する。大塩が陽明学と出会うのは、大坂町奉行所に与力見習いとして14歳で出仕してから24〜25歳頃とされる。この頃陽明学を独学で研鑽したという。文政13(1830)年38歳で与力をやめ、天保4(1833)年41歳で中斎を号し、天保5(1834)年「隠者にて候得ども多忙」と言い、「草莽中にて定言を吐き」、天保7(1836)年7月頃には武器を準備し、12月に檄文を彫る。天保8(1837)年蔵書を売り(668両=約1億3000万円)、「建議書」を発送。2月19日、鎧兜を着用し、大砲を曳き、棒火矢などを発射して軍陣を連ねて行動を起こした。鴻池などの大商人の店を焼き払ったが反乱は1日で鎮圧されて終わった。

大塩の乱の性格をめぐって
 反乱は鎧兜の装備、戦陣の陣立て、大砲、鉄砲の使用など表面的には軍事行動として行われた。これは百姓一揆とは異質であり、大塩も檄文の中で「一揆とはちがう」と書いている。また、大塩個人と門人らの意識にも溝があり、反乱の性格をめぐっては未だ に解明すべき問題がある。これらと関係して、「大塩嫌い」を公言する人たちの理由に挙げられるのが、「大坂を焼いたこと」(脇田 修)、「蘭学者を苦しめたこと」(司馬遼太郎)など。しかし藪田さんは「大坂を焼いたことは本当にすみません」と言いつつ、反乱の目的は(腐敗した幕政と大商人の金儲けの犠牲となった)最悪の困窮者の救済にあったことはまちがいないだろうと指摘する。
 大塩の乱には未だ解明されない部分も多くあることがわかったが、当時の事実を解明する資料が20世紀に出てくることもあり、現在起こっている森友・加計問題の資料だって、この先10年後ぐらいに新たな資料が出てくる場合もあるかもしれないと藪田さんは言う。現在の時代にこそ“新たな大塩よ出でよ”と言いたいところだ。「大砲」をぶっぱなしたい相手はゴロゴロいる。時間いっぱいお話しして頂き、参加者は「おもしろかった」と口々に感想を語っていました。

6月例会報告 中條健志さん(会員・東海大学特任講師)テーマ「ヨーロッパの言語」の諸問題

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『ヨーロッパの言語』の現代的意義とは
 中條健志さんは現在東海大学の国際教育センター特任講師として、フランス語を教えている。2017年9月に岩波書店から出版したアントワーヌ・メイエ『ヨーロッパの言語』は、4名(西山教行、堀晋也、大山方容、中條)による共訳である。初版は1918年、第2版は1928年に出版された。邦訳版は1943年に大野俊一訳で出版され、今回(2017年版)が2回目の翻訳出版である。出版を引き受けてくれた岩波書店から「なぜ今これを出版するのか?」と問われた。この本を出版する現代的意義は何か?中條さんは「それが今日の報告の結論です」と話をはじめた。

社会言語学のはじまり
 アントワーヌ・メイエはフランスの(社会)言語学者でインドヨーロッパ語族の諸言語を研究した。当時(20世紀初頭)は「言語学」そのものの研究が主流で、メイエは言語の持つ社会的側面に注目、歴史や社会との関連を重視して研究した。これは今日では普通に認められている研究方法だが当時はまだ珍しい考え方であった。この本の原題は『新生ヨーロッパの言語』だが、第1次大戦後に生まれた新生国家の創出と言語の関係を論じており、第1次大戦後の民族自決、民主主義の発展などの新しい情勢の展開が、この本の成立の背景にある。

第1次大戦後の新しい情勢と言語
 大戦は英仏露と米などの連合国(日本も含む)と独、墺(オーストリア・ハンガリー帝国)、オスマン・トルコなどの同盟国(ブルガリアも含む)との戦争であった。同盟国側の敗戦により、オーストリア・ハンガリー帝国と オスマン・トルコ帝国などの多民族国家が解体し、新たな国家、新たな国境線策定の問題が起こる。政府関係者とも、つきあいが深かかったメイエは、戦時中からこれらのことを予想していたフランス政府当局への政策提言として、この本を書いたという。

メイエの言語観
 第1次大戦後、群小国家が成立して、各国ではそれぞれの国語制定が行われ少数話者の言語が増えた。この状況に対してメイエは、「文明に値する言語」と「文明に値しない言語」があると主張し、「文明語」でない小言語の増加には意味がないとした。ハンガリー語については、「複雑な言語であり、借用語が多く、独自の文明に至らない言語である」とし、アイルランド語については「文明の大言語たる英語を捨て去り、言語の監獄に人を閉じ込めかねない農民の話語に切り換えるよう国民に提唱するなど奇妙なこ とだ」とした。メイエのこのような考え方の背景には、「言語の統一性は文化の統一性に由来し」、「ユマニスムや啓蒙主義を体現する西ヨーロッパ」が「文明」を代表し、東ヨーロッパなどは「野蛮」で独裁的・全体主義的であるという独断があり、彼には西ヨーロッパ特にフランスを中心と考えるナショナリズムがあった。
  メイエは少数集団の言語は、「それを使用する民族にとっては非力の原因であり、外国人にとっては不便の種」とし、「文明の統一は言語の統一を求める傾向に向かう」と考えた。このようなメイエの考え方は、言語の平等を原理原則とする現代の言語学や言語とアイデンテイテイのむすびつきを重視する思想とは相容れない。しかし、このような考え方は過去のものと言えるのか。今日でも日本が単一民族国家という誤解が未だにあって、アイヌ語の正しい位置づけもなされていない。メイエの言語観は今日では批判の対象だが、支配的国家の言語が世界の支配的言語となるという言語帝国主義の考えや単一言語主義、偏狭なナショナリズムと言語の問題は現代にも通じるところだ。メイエは比較言語学者としては今日でも評価されるが、一面でその言語帝国主義的な発想は我々にとっては反面教師的な考え方と言えるだろう。

1943年邦訳版の意図は?
 最初の邦訳版として1943年に大野俊一の訳で出版されたものには、訳出されていない部分が多くあるという(100〜150カ所ほど)。その意図は何であったのか不明である。出版時、大野は検閲や内外のプロパガンダを行う情報局に勤めていた。なぜ敵国のメイエの著作を訳したのか?  中條さんは、以下の様な推測を述べている。まず表にあらわれた意図として、第1次大戦後のヨーロッパ情勢に、「大東亜共栄圏」に通じるものを見出していたのではないか。戦時中、日本はアジア各国で植民地や占領支配したところで日本語教育を強制していた。そのような政策の参考と考えたのか?もうひとつは、表には出せない裏の問題として、1943年版には訳出されない部分を現在訳すと、労働者の国際連帯や国家同士の連帯などに触れた部分が多く見られ、メイエはこのような労働運動や社会主義・共産主義運動の記述内容にシンパシーを感じていたふしがあるという。こういうものをあからさまには公表できない当時の情勢から大野は、これらの部分の訳出を控えたのか?

メイエの残したもの
 この本を実際に読んでみてインドヨーロッパ語に属するラテン語系、ゲルマン語系、スラブ語系の各言語がもとはひとつの祖語から出発して、どのように分化してきたのかその経過がくわしく記述されていてよくわかった。特に高校の世界史を教える先生には非常に参考になる書物で、ぜひ読まれることをすすめたい。 このように比較言語学の一般解説書としては未だに生命力を持っている書物だが、一方で言語帝国主義、単一言語主義という考え方が未だに生きている現在(フランスでは90年代にようやく地域言語を守る政策が取り入れられた)、かつてあったそのような思想の祖型として反面教師として参考となる書物だ。そして、1943年版には訳出されていなかった労働者の連帯や社会主義への関心、国際協調主義的な要素、エスペラント語の評価などの面が今回の訳により再評価されたということも指摘される。質疑交流も活発に行われた。メイエの持つ複雑さ、さまざまな面の評価についていろいろ質問や意見が交わされた。

5月例会報告 生野コリアタウンとその周辺をフィールドワーク 案内と解説 足代健二郎さんと宋 悟(ソンオ)さん

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 郷土史家で猪飼野探訪会の足代健二郎(あじろけんじろう)さんが案内役。鄭甲寿(チヨンカプス)(ワンコリアフェスティバル代表)・宋悟(ソンオ)(クロスベイス代表理事)両氏が南北会談・朝鮮事情についての最新状況を解説という、豪華な講師陣によるフィールドワークが実現しました。ただし、諸事情のため参加できなくなった方が多く、そのことがもったいなくも残念でした。 午後1時、JR鶴橋駅に集合。近鉄とJRが交差する高架下を抜けて、焼肉店が密集した路地裏を歩きます。まずは、ワンコリア 5月の日曜日生野コリアタウンの賑わい フェスティバル事務所を訪れ、代表の鄭甲寿さんから、南北対話を積極的に評価するお話を聞きました。在日団体の果たす役割についても強調。質疑を含めて20分余で切り上げ、足早に鶴橋商店街へ。著名な作家・司馬遼太郎さんの実家である福田薬局跡(今はトータルファッション店)前でも、足代さんの説明が続きます。今回は10年前のフィールドの時より詳細になってます!
 続いて、創立百周年を迎える北鶴橋小学校を経て、近くにあった高英姫(コヨンヒ)(金正恩の母とされる)が住んでいた住宅跡へ。道路をはさんで今はマンションが建っていますが、昔はモルタルの家だったそうです。 その前で、資料片手に精緻な解説を加えるのは、猪飼野探訪会の中野善典さん。あらゆる伝手をたどって、関西の人気テレビ番組「探偵ナイトスクープ」顔負けの手法で解明していく内容は、十分な説得力を持っています。ご本人は、あくまで自己満足のためと謙遜されますが・・・その熱意には頭が下がります。
 最後に、コリアタウン内のクロスベイス事務所に向かいます。天候に恵まれて、みなさん疲れも見せず元気いっぱい。5月の行楽日和、若い女の子が満ち溢れて、大変なにぎわいでした。1階は韓国レストラン「班家食工房」。午後2時半過ぎですが、テーブルにお客さんがひしめいています。
 宋悟さんによれば、生野区は13万人中、外国籍が2万8千人。韓国・朝鮮が1位、2位が中国であるが、最近はベトナム留学生が急増し、コリアタウンにも豚肉などの食材を求め、ベトナム人のお客さんも増えているとのこと。また、少子高齢化が市内でもとくに高く、子どもの貧困が深刻だと言います。なお、コリアタウ は元々3つの商店街から成っているが、今では合同の役員会が定期化されているとのことです。
 韓国の文在寅大統領を誕生させたのは、連続して百万人を動員した民衆の力であり、光州を中心とした民衆蜂起(1980)を担った親たちの子供世代が、大きな役割を果たしているのでは、と語ります。中国のケ小平(フランス)、ベトナムのホーチミン(フランス)は、外国の資本主義を知っており、金正恩もスイスに留学している。アジアの社会主義国が経済的な開放政策をとるかどうかは、そういった指導者の海外経験が影響しているのではないかと。この点は、私も同感です。毛沢東の頑迷ぶりは、彼が一歩も中国から出なかったことと関係あると、指摘されていますから。
 そのほかに、ヘイトスピーチの問題が取り上げられ、その原因と日本政府の姿勢が議論されました。また、北朝鮮に対する日本の評論家について、誰がまともなのか共感できるのかとの質問も出ました。質疑応答を含めて、2時間を越える充実した報告・議論がくりひろげられました。

4月例会報告 赤塚康雄さん(会員・元天理大学教授)「ジャーナリスト柳沢恭雄の研究」

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銃口を前に「終戦」を守った男
 柳沢恭雄の名前を知らなくても、東宝の映画「日本の一番長い日」で終戦の玉音放送を阻止しようとNHKに乱入した反乱軍の銃口を前に体を張って放送を守ったNHK職員と言えば、記憶にある方も多いだろう。当時柳沢はNHK報道部副部長。8月15日午前4時半頃、反乱軍の畑中健二少佐は森近衛第1師団長を殺害して宮城とNHKを一時武力制圧しNHK報道部に侵入した。柳沢の胸にピストルをつきつけ「決起の趣旨を国民(向け)に放送させろ。さもなければ撃つぞ」   柳沢恭雄氏 と要求した。このとき柳沢は下手に反抗して畑中をより興奮させないように、無言で向き合った。この気迫に押されて畑中は去り、玉音放送は無事に正午に流された。畑中少佐は放送の前に皇居前で自決した。この事件は、映画の原作となった半藤一利の小説では、NHKの職員は館野守男になっていたが、実際は柳沢が当該のNHK職員であった。柳沢自身は「彼(畑中)のあの目つきは異様そのもので、私は生涯忘れないし、二度と他に見たことがない。(略)畑中少佐と私の眼と眼に何か通じるものがあったようだと思う。彼のピストルの引き金の指がゆるみ、手がやわらかくなった。」と証言している。
 彼は戦後、京丹後にある畑中の実家を訪ね、兄が昭和44年にようやく建てた墓に毎年のように参っていた。兄の話によると、畑中本人は陸士(陸軍士官学校)に行くことは渋っていた。優しい性格で、本当は三高で文学をやりたかったようだ。素直な性格のまま、「市ヶ谷精神」を受け容れたのだろうと。畑中らクーデターを図った青年将校は東京帝大の平泉澄教授の門下生で、平泉からは吉田松陰の「諫死論」(君主が誤った行動をすれば臣下がそれを諫めることが正しいという考え方)の講義を受けていた。そのような思想が決起の根拠となっていたようだ。又、事件の背景には、間違った命令でも直属の上司から受けた命令には従うという日本軍隊独特の性格もあるという。

中学生でマルクスに傾倒
 柳沢は京都府の上狛町(現・木津川市山城町)の出身。山城国一揆が起こった土地で、実家は大地主で父は村長を務めた。周囲では米騒動や小作争議が起こり、そのような環境のもと本人は中学時代にはすでにマルクスなど社会主義文献を読みあさる早熟な少年だった。病弱のため中学を一年遅れで卒業し、浦和高校から東大文学部社会学科に入学、ジャーナリストをめざして新聞学教室に学んだ。大学では「新人会」はすでに解散しており、彼は青年共産主義同盟に加入した。夏休みにオルグ活動で奈良に入っているとき、1932年8月 30日奈良をゆるがす治安維持法による大弾圧事件8・30事件が起こった。彼は検挙され、懲役1年2ヵ月、執行猶予3年の判決を受ける。報告では、彼の名前が特高月報にはみつからないとのことであったが、当日参加された田辺 実氏から特高月報には2回出ているとの指摘があった。また奈良新聞に記事が掲載された「妙齢の女」についても、報告では長谷川テル(エスペランチスト、劇作家)ではないかとの推測であったが、これも田辺氏から別の銀行員らしい女性であるとの指摘があった。

NHK入局
 東大卒業後、NHKに入局する。治安維持法で逮捕された経験がありながらNHKに入れた背景には、親戚にあたる松阪広政刑事局長(のち小磯、鈴木内閣の司法大臣)の保証があったからと思われる。松阪は降伏決定時の閣議に出席していたので、事前に敗戦を知っている。柳沢は、3日前に大臣室に行って、彼と「敗戦ですね。しかし三井三菱などは生き残るんですね」との会話を交わしている。
 NHKに入局後、彼は論文「報道放送の特質と限界」を書いた。当時は新聞の記事を書きかえて逓信省で検閲を受け放送していた。彼は独自取材による自主編成の放送の必要を考えていた。しかし論文が局内誌に掲載直前に100名ほどの記者と共に軍属として招集された。時期は真珠湾攻撃の直前。NHKからは参謀本部に一人派遣されてるので、彼も開戦予定は知っていた。呉港から諏訪丸でサイゴンに到着、彼は6名のNHK記者と南方作戦に従事させられる。任務はジャワ島攻略戦における対オランダ軍謀略放送だった。1942年3月3日から7日間100回以上の放送を行った。内容はオランダ・インドネシア軍の劣勢を誇大に宣伝すること。結果として、数においては優勢だったオランダ軍が1週間後に降伏することとなる。

戦時中の報道についての後悔
 柳沢は戦時中の自分の「罪」について三つのことをあげている。ひとつは、この謀略放送に加わったこと。そして報道解説委員として、フィリピンレイテ作戦に、「天王山の戦いとして今すぐ兵員と飛行機を集中的に送ることが国民の勤め」と解説したこと。これは補給を不可能と知りながら解説し、作戦の結果、京都府の第16師団はレイテで玉砕した。 
 もうひとつは、放送の自己検閲のことだった。戦時中NHKでは、まず大本営からのニュースが伝えられ、次に同盟通信からのニュースが来る。ニュースの放送は、「依命中止」が国家の命令で中止されること。「任意取止」がNHK独自の判断で中止することだった。大本営からのニュースは、真実かどうかわからないと思っていた。山本五十六が死亡した事実はしばらく伏せられた。報道は真実を伝えることと思っていたので、毎日真実を国民に伝えていない無念さを感じていた。新聞報道も戦争が拡大するにつれて変化した。1931年6月まで「大阪朝日」は軍部に対して批判的な記事も掲載し、「日日」と「読売」は軍部に迎合的であった。しかし1931年9月18日の柳条湖事件にはじ まる満州事変が起きて10月以後の朝日は軍部の批判をすることはなくなった。1944年3月、「毎日」ではベテラン記者の新名丈夫が「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ」という記事を書いて陸軍を怒らせ、彼は36歳で視力が悪いので兵役免除を受けていたにもかかわらず記事の翌日招集された。同時に同じ年代の250名ほどが招集されて、硫黄島などの激戦地に送られ玉砕することになる。1944年には雑誌「中央公論」と「改造」が廃刊となった。

戦後の活動
 戦後、彼は取材に基づく放送をめざして放送記者制度を創設し、ニュース解説をはじめる。幣原内閣の批判などを行った。GHQから民主化をすすめたニューデイール派が撤退すると、検閲が厳しくなった。読売新聞で正力松太郎が戦争犯罪人指名を受けて追放され、組合が編集権を行使した。そのことがGHQのプレスコード(新聞準則)にひっかかり編集幹部が解雇された。組合は解雇撤回を要求してストを行い、1946年10月各紙とNHKが支援して放送ストが行われた。結局NHKだけがストに入り、管理職の柳沢は外側からストを指導、9部課長もストに参加した。20日間のストが行われ、柳沢はスト解除後休職処分となった。
 1950年7月28日レッドパージが行われ、マスコミ関係704名、NHK119名がパージされて職場を追われた。1951年柳沢は中国へ密航し、北京の自由日本放送(日本向けの政治宣伝放送)に従事した。このとき家族は知らないうちに柳沢がいなくなったと語っている。1958年に帰国したときには、出入国管理令違反で逮捕され5日後に釈放されている。
 1960年に日本電波ニュース社を設立し社長に就任した。当時社会主義圏のニュースはほとんどが、この会社から発信された。ベトナム戦争時のニュースも電波ニュース社から送られたニュースが世界中に配信されている。1962年、ホー・チ・ミンの単独インタビューに成功した。アメリカのテレビ局でさえも同社のニュースを利用していたという。

現在の問題と柳沢研究の意義
 取材に基づく真実を伝える報道、放送記者制度、検閲への抵抗、新聞・放送関連組合など柳沢が現在の放送界、マスコミに遺産として残したものは大きい。公正で真実をありのまま伝える報道は民主主義の土台であり、権力の介入を許してはならないことはかつての歴史の大きな教訓だ。柳沢は、その渦中で闘い、銃口をつきつけられても退かな かった。今放送番組の政治的公平などを定めた放送法4条の撤廃案など、政府によるマスコミへの介入が強められている。一方で朝日新聞などが森友加計問題など安倍官邸による国民だましの不正を暴く追求を、まさに社を挙げて命がけで行っている。現在、柳沢の時代と彼の行動を再度見返すことも必要であると思われる。赤塚さんの研究がさらに深められていくことを期待する。報告のあとTBS制作の柳沢恭雄さんのドキュメンタリー番組の上映があり、質疑交流も活発に行われた。参加者から今後の研究に参考となる指摘もあり(本文中記載)、有意義な例会となった。

3月例会報告 西田 清さん(治安維持法国賠同盟滋賀県本部)「反戦・平和にいのちをかけた久木興治カ 不屈の青春」

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眉目秀麗、頭脳明晰な青年革命家
 久木が青年共産同盟や日本共産党に入って、軍隊への反戦工作などをしている時に特高警察に逮捕されたように、西田さんも戦後米軍への工作などを行っていて逮捕され刑務所に入った経験を持つ。それは自分自身が久木の後を追っているように感じると、西田さんは言う。
久木は滋賀県の八日市中学校に小学校5年から受験して入学した秀才である。写真を見ると「眉目秀麗」そのものという印象だ。当時久木はロシア革命史の本を読みふけり、河上肇が編集した『社会問題研究』を購読、ロシアに渡って「社会主義」建設に参加することが夢 であった。のちに治安維持法で検挙され投獄されたことで、八日市中学校の学籍簿から除籍されることになったが、戦後周囲の尽力で同窓会に働きかけ学籍は復活することができた。
 大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)に入学後、「社研」に加入し「大阪外語読書会」を20名ぐらいで組織した。読書会が弾圧されそうになった際、彼は商家出身の同窓生の家に資料を隠したが、このときは翌日特高が来て危なく難を逃れた。こんなところに彼の剛胆にして細心のものごとに対処する性格があらわれているという。しかし、彼は受験生に読書会勧誘のビラを撒いていて検挙される。

軍隊への工作活動
 久木は1926年、大阪で組織された青年共産同盟(共青)に加盟、翌年春日庄次郎と会って日本共産党に入党する。当時春日の活動拠点は、大阪市内の千日前通りの市電の停留所に近い細工谷にあった。彼の任務は工場と青年労働者のなかに軍国主義反対の勢力を築くことであった。1927年、軍隊工への働きかけを行うことが決定され、関西地方委員会の書記であった久木は、その先頭に立つことになった。
 27年12月下旬には、大阪城近くの歩兵第8連隊と歩兵第37連隊にビラ「歩兵第八連隊及歩兵第三十七連隊の全兵士諸君!」を、28年2月11日には、ビラ「戦争で肉弾とされる兵卒には選挙権もない!」を、28年2月19日には、ビラ「国家の干城たる兵卒諸君に選挙権がない!」を兵営内に配布している。ビラは封書などに入れて隊内の兵士に郵送されたという。28年2月24日には海軍の水兵に対する働きかけが検討され、翌月10日、「兵卒新聞」が発行され久木が執筆した。軍隊内に共産党の組織を建設することも計画された。28年、青年共産同盟員の兵士中村福麿は労農党演説会で反戦演説を行い、軍法会議で懲役6年の刑となった。久木は『青年衛兵』で「兵卒諸君のために闘った中村二等卒の処罰に反対せよ!」と訴えた。

3・15事件
 1928年3月15日、田中義一内閣のもとで日本共産党をはじめとする民主団体に対する大弾圧が行われた。これが3・15事件である。日本共産党、労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟などの活動家1600名余が検挙され(うち約500名を起訴)残酷な拷問が行われた。同年6月には治安維持法をいっそう改悪するために最高刑を死刑とする緊急勅令が出された。事件の背景には、国民の中に運動をひろげようとする日本共産党とその影響力を壊滅させようとする政権側の意図がある(編集部注)。久木は28年3月15日午前4時半に検挙される。29年2月1日公判で非転向(注:「転向」とは支配権力が共産党員や同調者に「正しい方向に転じ向かうのだ」と思わせる意味で作られた用語)を貫いた。
  久木は、予審終結時の陳述で「私は従来と何等変わった感想は現在何も持っていない」、公判の最終陳述では「吾等はブルジョアジーの敵として罰せられる名誉に立っているので、ブルジョア司法に公正は望んでいない」と語り、京大教員であった村山藤四郎の解党主義(共産党の方針から君主制撤廃と大地主の土地没収を削除することを主張)に対しても、「君主制の廃止及び大地主の土地の没収の両項目はあくまで存続さすべきであり、これなくして共産主義政党とは言えない」と反論した。獄中の5年間は、大阪刑務所に入所した時に、「刑務所にいるうちはいっさい話をしない。出たらしゃべる」と言ったきり全く口を開かなかったというので、刑務所の教誨師も彼の意志の強さに感心していたという。

出獄後の状況、大阪での動向
 出獄した後、1935年10月に久木は上阪する。特高警察がつきまとい、就職するも会社に特高が来ると翌日はクビになるという状況で、職を転々とした。1936年5月に思想犯保護観察法が公布され、治安維持法でつかまった人は一生保護観察の対象となったのだ。西田さんは、久木が第2回予審尋問調書で「若し(日本共産党の)組織が無いなら『コンミニスト』(ママ)として組織をつくる必要も意識した」と語っているが、出獄後上阪して、なぜ党の建設に取り組まなかったのか疑問としている。時代は2・26事件や日独伊防共協定調印、大本教やひとのみち教団弾圧事件などが続き、1937年には日中全面戦争が開始される頃である。そのような情勢が久木の行動にも反映していたのだろうか。最後に西田さんは、1920年代の久木の先駆的な活動は評価に値するとして、このような無名の人びとの歴史を発掘することの重要性を強調された。

松浦由美子さんからの補足
 松浦さんは1980年代から「労働雑誌」の調査をすすめる中で、西田さんが書いた久木の伝記「不屈の青春」を見て、彼が上六周辺で活動していたことを知った。久木が兵士に反戦ビラを送って働きかけた第八連隊は難波宮跡、第三十七連隊は旧国立病院跡であった。共産党に入党したところは日赤付近、春日庄次郎のアジトは天王寺区細工谷に、共青関西地方委員会は千日前通の市電停留所跡にあった。松浦さんは自分のいる周辺を久木が活動していた偶然も手伝って、次第に調査をすすめることとなった。久木が出獄後、入社した「教育通信社」は都島区網島にあり、「日刊教育通信」を発行していた。この会社は「大阪府学事職員録」などを発行し、教育界と強いつながりを持っている。
 久木が、この会社に勤めるようになった経緯もよくわからない。特高ににらまれそうな活動歴のある人物が多く居て、久木が入るきっかけとなった経営者の富岡勝という人物も「大阪合同労組」にいたらしいことなど今後調査すればおもしろいことがわかりそ うだ。最大の謎は、久木が1937年7月24日天神祭の宵宮の日に大川(淀川)で溺死したとされていることだ。松浦さんは、水泳の得意だった久木が、流れの緩やかな川でおぼれるとは考えにくいこと、他の事故と違い新聞記事にもなっていないこと、などから 特高警察による謀殺ではないかとの疑いを抱いている。ところで、例会当日参加者(医師)から意外な意見が出された。久木は長い刑務所暮らしで脚気を患っていたので、泳 いでいるときに「脚気心」により不整脈が起こると心臓が止まり、大川付近の川底は5mほどの深さがあるので、沈んでしまって浮かび上がれなかったかもしれないとのこと。はたして真実はどうか、今後の調査と解明が待たれるところだ。

質疑交流
 参加者からの質問意見で上記文中に紹介した事以外で、戦前の軍国主義の時代の中、久木のような反戦と平和をめざす活動を弾圧にもめげず勇敢に行える人物の居たことに驚き、なぜこのようなことができたのかという質問には、西田さんによると、戦前にこういう先駆的な活動をできたのは、久木のような知識人の役割が大きかったという。またほかに、大阪の運動の先駆性、大阪外大の学生運動の伝統などについても意見感想が出された。

2月例会報告 塚田 孝さん(大阪市立大学文学部教授)「近世大坂の都市社会−孝子・忠勤褒賞から見る民衆世界−」

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「孝子・忠勤褒賞」史料により、名もなき人々の生きざまを描く
 塚田さんは昨年12月、『大坂民衆の近世史−老いと病・生業・下層社会』(ちくま新書)を発表した。そこに詳細に描かれたのは、江戸時代の都市大坂に生きる名もなき庶民の歴史であった。そのきっかけは、大坂市中に通達された孝子褒賞(親孝行な子供への褒賞)や忠勤褒賞(奉公先の主人に誠実に仕えた者への褒賞)の詳細な理由書の史料に出会ったことである。
 松平定信が行った寛政の改革に際して、寛政元(1789)年、親孝行や奇特な行為の事例を全国調査し、褒賞(ほめて褒美を与えること)することが開始された。大坂では10月にお触れがあり、孝子等の調査が行われ、その後10年間ほどの調査をもとに享和元(1801)年、『官刻孝義録』が刊行された。摂津国78人 のうち大坂は7件21人であった。幕末までに480件余りの褒賞が市中に通達された。  当初は江戸に上申し、下知を受けて褒賞していた。当初は孝子褒賞と忠勤褒賞が重点であり、その頃の褒賞理由は長いこと、銀が下されること、教戒的な文言が見られることなどが特徴である。文化6(1809)年頃から大坂独自の褒賞が行われるようになり、その特徴は、理由が簡略、銭による褒賞、教戒文言はないことであった。 時代を経るにつれ、「年寄(町の運営にあたる役)の役儀出精(働きぶりがすぐれている)」(1812年〜)、「盗賊捕縛」(1820年〜)、「難船救助(安治川や木津川での難船の救助)」(1830年〜)などの褒賞が増加している。

孝子褒賞・忠勤褒賞のパターンと条件
 今回は、孝子、忠勤の各褒賞について、それぞれのパターンと条件につき事例をあげて報告された。
孝子褒賞のパターンは、@幼少時に親の病気や死亡のために苛酷な状況となる場合。 A生活困難な状況下、老親を抱え、献身するような場合。忠勤褒賞のパターンは、@主家が困難となるも、再建に努力する。A主家の困難が続くが、どこまでも支え続ける場合など。
 褒賞の条件としては、まず富裕な生活者は褒賞の対象とはならないこと、あくまで貧しい階層の者であることで、その行為の内容として@家業出精、A看病や身の回りの世話、B弔い、年忌の行いなどがポジテイブな中身として、またC家賃滞納や買掛(つけや借金)がないことなども条件とされた。

都市下層民衆の生活の不安定さ
 褒賞される人々の生活から見えてくることは、都市に生きる下層の人々の生活が非常に不安定であることだ。病気では眼病、盲目の事例がもっとも多く48人。聾唖者は2人。中風が14人。癇性・気むら(精神不安定)が14人など。父親の死後母親への孝行が行われる例も多い。火災も多く、転宅も多く、不安定な借家人の生活状況がわかる。特に借家人の場合、享保15(1730)年から女名前で借家することができなくなったので、養子により男名前を借りたりすることになった。

高齢者への「老養扶持」「手当米」
 子や孫の孝行への褒賞として「老養扶持」が一日米五合与えられた。また100歳以上の高齢者には「手当米」として米10俵与えられた。

都市民衆の複合的な生業構造
 褒賞の事例からわかる都市民衆の職業は、籠細工、灯心職、綿実の挽売、古綿打ち、提灯張、夜番、塩魚、青物売、煙草入縫職、釘鍛冶、下駄職、鼻緒足袋職、船頭、本綴り、夜番、大工、米仲買、醤油販売、金融関係、墨屋、歌舞伎役者、陰陽師、三味線指南などで、都市には多様な職種があり下層の民衆がいくつもの職を兼ねて生活を成り立たせていた状況がわかる。

自治組織「町(ちよう)」の姿、相互扶助的側面、複合的な生業で生活を支える人々
 都市大坂のうち商人や職人が居住する町人地(町(まち)方(かた))を構成する小単位の町(ちよう)は、独立性の強い自治体と考えられる。大坂市中は、北、南、天満の三郷から成り、北に250町、南に260町、天満に109町の計619町があった。ひとつの町が自治単位であり、たとえば道(ど)修(しよう)町(まち)は道をはさんで南北の区画が1町であった。町を構成するのは主に、町に家屋敷をもつ「家持ち」としての町人と借家人の二つの階層であった。(家持の町人から選ばれた町名主、町年寄、月行事の三役が町の運営にあたる。)
  町に関わる雑務として「夜番人(やばんにん)」がある。町の夜回りをするほか、昼間にも町内の用事を依頼されて行い、その他にも本綴り(本を綴じる仕事)などの様々な副業をする。文化7年の伊勢屋佐兵衛の事例は、両替屋に下人奉公していた佐兵衛は、主家が傾き、自らの家屋敷も売り払い借家人となり、町の夜番人として雇ってもらい、副業もしながら主家を支えた。町の相互扶助的側面と複合的な生業のありかたがわかる事例である。一方、「町代」(市役所の職員的な仕事)は町の業務をしながら他の副業をすることなく、町代の仕事に専念して、その精勤褒賞の対象となっており、夜番人のように副業をすることはないところが異なる。
  町年寄に対する精勤褒賞事例からは、文久2年の瀬戸屋九蔵の事例でわかるように紛争の解決や、困窮者の援助など相互扶助にはたした役割など町の運営に関わる町年寄に期待される事柄が見えてくる。

褒賞の前と後
 褒賞があると、奉行所からの褒美の銀(銀5枚)だけではなく、多額の祝いが各所から集まった。安政3年の御池通墨屋和平下女いその事例では、墨屋である主家の当主や 家族が中風や眼病で倒れ、下女のいそが嫁入り話まで断って、看病から商売まで引き受けて働き、東町奉行所から褒賞され銀5枚と惣年寄から銭2貫文もらったが、そのほか町内の家持個人、町代、借家人などから多額の貨幣、物品がお祝いとして寄せられた。

明治期の褒賞制度
 明治初期にはなお全国で江戸期とかわらない孝子・忠勤褒賞が継続されていた。一方、1875(明治8)年4月、ヨーロッパの制度が導入されて太政官布告により「勲章条例」が制定される。その後、7月に太政官通達「篤業奇特者及び公益の為め出金者賞与条例」が出され、各府県で独自に褒賞せよとの指示が行われた。褒賞対象の中心は、江戸期の「孝子・忠勤」であった。その後1881(明治14)年前記条例が改正された内容による「褒章条例」が公布された。明治期に制定された「勲章条例」と「褒章条例」は改正を繰り返しながら現在の勲章と褒章の制度的根拠となっており、報告者は「明治以降の勲章・褒章の明治政府による、その吸収と再編の意味や、戦後の二度にわたる見直しにもかかわらず、現在に至っている意味などを考えるには、近世以来の褒賞に込められた政治的意味を踏まえておくことが必要であろう」としている。

質疑交流から
 参加者から多くの質問意見が出された。主なものとして、(問)奈良時代以降の日本や中国でも、孝子褒賞にあたるようなことはあったが、近世後期に行われた背景は何か?(答)18世紀末から19世紀にかけて一揆、打ち壊し、若者の博打のはびこりなど社会秩序の動揺が続いたことに対して儒教的な要素で締め直そうとしたことが考えられる。(問)褒賞を媒介にして、町などから金品が寄せられることは相互扶助につながるので、褒賞は、そのような位置づけ(救済)が考えられるのか?(答)褒賞は救済目的ではない。(問)遊女などの階層も褒賞されるのか?(答)遊女などは、ある意味で自己犠牲の究極の姿として考えられるので褒賞の対象となりえた。
 報告中、大坂の道修町などの詳細な絵図が示された。そこには、「吉兵衛」や「しな」、「ゆき」などその町に生きた個人の名前が浮かび上がっていた。塚田さんは著書の中で「歴史のかげで、ひっそりと、しかも懸命に働き、誠実に生きた人々に無限の価値を見出しうるような歴史学でありたいといつも思っている。・・・そうした人々が歴史をつくってきたのであり、それを明らかにすることはとても楽しい」と語っているが、本研究会の原点とも通じる内容の報告であった。なお、会長の尾川先生の先祖が、『官刻孝義録』に記載されているという意外な事実も知らされた。

1月例会報告 辻本 久さん(会員)、横山篤夫さん(会員)「記録に残されなかった阪南市の空襲」

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泉南の空襲記録を書きかえる発見
 大阪府下の空襲の研究では、大阪市内、北摂地域などの調査がすすんでいるが大阪府 南部の泉州地域の研究は遅れている(小山仁示『大阪大空襲』参照)。横山篤夫さんは小山さんからも励まされて泉州地域の聞き取り調査を行ってきた。最近の研究では2016年5月例会で報告された英国艦隊による泉州一帯の空襲攻撃事件がある。この報告内容に注目した阪南市在住の辻本さんが、横山さんに地元阪南市の空襲事件のことを連絡し、これが今まで公的な記録にない新しい事実であることが確認された。横山さんから指摘を受け、辻本さんがさらに調査を行った結果が、今回の報告につながった。それは1945年8月8日に現・阪南市の海岸部であったP51戦闘機による攻撃で死者3名の被害があった事件で、このことは警察署の報告にもなく、その後公的な記録に残らず、阪南市史(旧・阪南町史)にも記載されることはなかった。そういう意味で、今回の発見は泉南地域における空襲研究を書きかえる内容となり、各紙にも大きく報道された。

報告者本人が目撃体験した空襲
 辻本さんは昭和10年生まれで現在82歳。空襲当時は小学校4年生であった。当日(1945年8月8日)の午前11時半頃で快晴だった記憶があるという。家の土間にいると、突然「バリバリバリ」という音(機銃の発射音)と超低空で飛んでいると思われる飛行機の爆音が聞こえた。村出身の予科練のパイロットが超低空で飛んでいたのを見たこともあり、飛行機の爆音であることがわかった。山側から海にむかって村の木造船の造船所から船が進水しているところに機銃掃射が行われたのだ。アメリカ軍のP51戦闘機が100mほどの近距離で海に向かって飛んで行くのが見えた。ジュラルミンの銀色の機体が、翼から白い煙を流して飛び去って行くのが見えた。煙は機銃を撃った跡の硝煙らしかった。当時は、本土へ攻撃に来る戦闘機は、一般に「艦載機」とか「グラマン」(海軍の戦闘機で紺色に着色)と言う人が多かった。辻本さんは子どもながら、防空教育からか、新聞や雑誌などからの知識だったのだろうか、その戦闘機の機影を見て、すぐP51とわかったと報告されている。一方、日本の戦闘機は隼(陸軍)しか知らずアメリカの戦闘機は名前やメーカーも知っていたという。  現場は現在の南海本線「鳥取ノ荘駅」の浜側にあたり、当時西鳥取村の北地区付近、タコ釣りをしている漁師が撃たれたという情報が伝わってきた。この地域は現在も大阪湾にそって何カ所も漁港がある。当時は農家が主で漁師人口は少なかったという。船に何本も竿をつけて風に流されながらタコを釣る漁法があった。
 あとでわかった被害の全容は、地元の人が2名(うち一人は土手藤吉さん)、他地域の人で大型の機帆船(「摂津丸」)の船長らしき人が1名亡くなったという。報告者は、そのとき沖の方から棺桶を乗せた舟が浜に向かってやってくるところを目撃している。棺桶を舟の上に十字型に交差するように置いていたことを印象深く憶えているという。
 事件の日が8月8日であることは、今回の調査で地元の人の聞き取りや寺の過去帳からわかったとのこと。

P51戦闘機部隊のこと
  P51戦闘機(愛称ムスタング)は、ノースアメリカン社が英国本土からドイツ爆撃の護衛用にイギリスの要請で開発した長距離の航続距離を持つ戦闘機だ。馬力、速度、航続 ノースアメリカンP51ムスタング戦闘機 距離などにおいてゼロ戦などの日本戦闘機にまさり、ヨーロッパ戦線から太平洋に転戦、第7戦闘機集団が硫黄島上陸戦の最中に本山飛行場に移駐し、1945年4月7日から日本本土攻撃に参加した。部隊の編成は、戦闘機集団(ファイターコマンド)という上級司令部のもとで、戦闘機軍団(ファイターグループ)が複数構成され、ひとつのグループは3つの戦闘機戦隊(スクアドロン)で編成、ひとつのスクアドロンは4つの戦闘機小隊(ファイターフライト)で編成、各フライトは4機の戦闘機が所属する。ひとつのコマンドに148機が所属している。1機につきパイロットが2名待機している。関西地域は、第21戦闘機軍団(ファイターグループ)が攻撃に参加した。最近NHKでも放映された記録フィルムの中に、P51が地上を機銃掃射で攻撃する映像があり、これは機銃を発射するために引き金を引くと同時にカメラも作動する仕掛けになっているそうだ。同機は性能がよいので朝鮮戦争でも使用され現在も自家用機などに利用されている。

なぜ阪南市の空襲被害(死亡者)が記録されなかったのか。
 当時、尾崎警察署が空襲被害の把握をしていた。空襲で死者が出たという当時村の人の多くが知っていたであろう事実が警察署の記録からもれていたと考えられる。それがなぜか、あとの質疑の中でも疑問が出されたが、不明のままである。おそらくは、当時混乱していて、報   辻本 久さん     告が時間内に届かず集計漏れとなったことなどが想定される。警察署の人員不足も指摘されている。戦争末期、成人男子のほとんどが戦地に送られ、警察署といえど人員が不足し業務がままならない事態に追い込まれていた可能性も考えられる。ともかくも、72年ぶりに、空襲被害の正確な事実が確認されたのであった。今全国各地で、このような空襲被害の実態の再調査がすすめられているが、実際の体験者、目撃者が健在でおられる時間も残り少なくなっており、調査を急ぐ必要がある。実際の空襲下の生活を体験した参加者もいて、質疑がもりあがった。高知県でP51の編隊が飛行する目撃談も出され、また墜落B29機のガラス破片をこするといいにおい がしたという、ある年齢層以上の人でないとわからない共通の体験談も交わされた。