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参加費400円(資料代を含む) 会員外500円

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2018年10月例会

と  き 10月19日(金)  午後6時開場 6時半開会

会 場 大阪府教育会館 3階楓の間

講 師 原幸雄さん

テーマ 「中国遼寧省の万人抗を訪ねて」

 「万人坑」とは日本軍が侵略した中国大陸で炭鉱などに強制連行されて働かされ、過酷な労働と栄養失調などで衰弱、衰弱死した人々を埋めた「人捨て場」を意味する。本多勝一が現地調査に基づき国内で報告して知られるようになり、1カ所で発見される遺体が万人単位になることから「万人坑」と呼ばれた。遺体が埋められた地域は中国全土にひろがっている。かつて高校教科書にも取り上げられたことがある。この問題については南京大虐殺と同様に『正論』誌や産経メデイア等から「万人坑などなかった」という反論が出されている。しかし、その根拠にしているのは現地調査ではなくて、当時炭鉱会社などに勤務した元日本人従業員の証言である。  原さんは今年現地の調査見学旅行に参加し、実際の「万人坑」を目にしてきた。その現地報告をしていただく。

前の例会

 このページに掲載している以前の報告は「例会資料室」にあります。「例会資料室」もご覧ください

8月例会報告 島田 耕さん(副会長・映画監督)「東宝争議(1948年)の70年−亀井文夫監督「女の一生」映像資料紹介と共に」

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日本映画の一番輝いていた時代
 島田さんは淡路島で中学生の頃、黒澤 明監督の「我が青春に悔いなし」を観て驚いた。終戦1年後の1946年のことだった。戦時下に抑圧されていた映画人の創造のエネルギーがふきあがってきたような感じだったという。背景にはこの頃、日本の民主化路線をすすめるGHQのCIE(民間情報教育局)のコンデが東宝、松竹、大映各社に反軍国主義、自由主義的平和主義的な映画作りを提言していることもあった。戦後は映画が最大の娯楽であり、島田さんは空腹よりもスクリーンの世界への憧れがまさり、生きる活力につながったという。

東宝争議のはじまり
 東宝では終戦翌年に労組(日本映画演劇労組)が結成された。1948年4月8日、第3次東宝争議が起こる。労働協約の更新を会社が拒否し全東宝従業員1200人、撮影所は270人の解雇を発表してきたのだ。会社は「二つの赤」(経営の赤字と共産党員)の追放を意図していた。砧(きぬた)撮影所に立てこもった労組の闘いに他の労組(産別組合)、朝鮮人連盟、全学連などの団体が支援に駆けつけ、撮影所に泊まり込みで争議が闘われた。当時島田さんのおじさんが撮影所で働いていた。叔母さんは自宅のあった世田谷でバザーをして争議の資金カンパをしていた。島田さんは当時17歳で争議支援の活動を行い、電柱に古い新聞紙に赤インクで書いたポスターを貼る活動などをしていたという。撮影中の映画はすべてストップした。亀井文夫監督の「女の一生」は6ヵ月中断して1949年に公開された。

アメリカ軍の介入と争議の結果
 争議には全国から支援の輪がひろがっていた。当時の日本は占領下にあり、GHQ内部では反共主義の潮流が勢力を占めていて「赤い映画人」は許せないという考え方があった。争議に対する米軍の介入も予想していたが、どう出るかまでは想定していなかった。1948年8月19日早朝米軍は戦車(7台)を配置して撮影所を包囲し、上空には偵察指揮のための飛行機(3機)まで旋回していた。日本の武装警官2000人が出動し「軍艦以外はすべて来た」と言われる東宝争議最大の山場であった。日本メデイアは米軍の介入を報道できないので、事前に「ロイター」や「タス」など外国通信社20社ほどを呼んであった。「ロイター」が世界に発信した内容をもとに日本のメデイアが記事を書いた。強制執行の最後通告があり組合は退去せざるを得なくなった。会社からにらまれていた共産党員などの20名の組合員が自主退職のかたちで辞め、270名の解雇は事実上撤回 されるという特殊な解決の仕方で結着した。争議のなかで分裂派だったメンバーはその後新東宝をつくった。

戦後世界史の中の東宝争議と日本国憲法制定
 東宝争議の時期は、戦後の世界史のいわば潮の変わり目に位置した。2年前の1946年には日本国憲法が公布された。この間に何があったのか。  
1946〜1947年は、東欧社会主義圏の成立。アジアでは中国の国共内戦で人民解放軍が優位に立ち1949年には中華人民共和国が成立する時期。米ソ間に東西冷戦が開始される頃である。GHQは当初、日本占領政策の目的をポツダム宣言にもとづき日本の軍国主義を取り除き、民主化することに置いていた。しかし世界情勢の変化を受けてアメリカは日本民主化の政策を変更し、日本をアジアにおける「反共の防壁」とする政策に転換することになった。東宝争議はアメリカの方針転換直後に起こった出来事であり、日本国憲法は転換直前、日本「民主化」の過程が実行中の時期にGHQ民政局の若手ニューデイーラーたちが関わって出来た当時世界最良の民主主義の憲法であった。

亀井文夫監督「女の一生」のメッセージ
 報告途中に亀井文夫監督作品「女の一生」(1949年)が上映された。亀井文夫も自主退職した一人であったが上映は大きな反響を呼び映画の興行費から争議解決金として1500万円を日映演労組が獲得した。この頃から独立プロによる映画制作がはじまり前進座は第一作映画として今井正監督「どっこい生きている」をつくった。
 亀井はソ連で映画を学び、「女の一生」では主人公の女性が恋人と工場の屋上でキスシーンを演じる場面がある。島田さんは、当時これを革命的ロマンテイシズムと言ったと紹介した。映画は古いかたちの家族関係(半ば封建的な日本社会の縮図)の中で葛藤する若い夫婦と姑の関係、会社側と組合に団結して闘う工場の労働者ら(日本に芽生える新しい社会をめざす動き)を重ね合わせながら描いている。志村 喬が演じる労働組合のリーダーが学習会で人類の歴史の進歩の必然性について語った後、全員が窓から流れてくる音楽の方向をいっせいに見て、ほほえんでいるというシーンで終わる。当時から、「これでよいのか?」、「みんなが見ているものは何か?」などのさまざまな意見が出された。最後は観ている人に考えさせるという今ではよくあるかたちだが当時は斬新な終わり方であった。封建的社会の象徴でもある姑と対立する若夫婦が姑と共に労働者と一緒になってほほえんでいる姿は新しい日本社会の変革がどうあるべきかについて暗示する表現と思う。実際に映画公開の1月の総選挙で日本共産党が35議席を獲得するという情勢でもあったことを考えると、映画のメッセージ性はわかる気がする。しかしあのいっせいのほほえみに当時の時代精神を感じると同時に、現代の我々が見ると違和 感を感じるのも事実で、これも現代という時代の雰囲気を反映している。亀井監督なら現代の日本社会をどう表現するのだろう。質疑交流では熱心な意見交換が行われ、特に戦後史の転換期の問題に意見が集中した。その意味では東宝争議は、終戦直後の日本と現代がつながる結節点にある問題でもあり、その前後に何があったのか再度見直す必要も感じられ、貴重な例会となったように思われる。

総会記念講演  藪田 貫さん(兵庫県立歴史博物館館長・大塩事件研究会会長)「大塩平八郎の乱と現代」

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「大塩の乱」180年をむかえて
 1837年の大塩平八郎の乱から180年が経過して、各紙が特集を組んでいる。『朝日』は大阪版夕刊で「追跡 大塩平八郎」を連載している。困窮する庶民を尻目にぜいたくざんまいの将軍家、私腹をこやす商人と幕府高官。元大阪町奉行所与力が大砲をぶっぱなして幕政のゆがみを正し、困窮者を救済しようとした事件は、現代の日本の状況ともオーバーラップしている。「大塩様」は今もなお大阪の庶民のこころの底に生きているのではないか。
 藪田さんは、現在兵庫県立歴史博物館館長で、大塩事件研究会の会長でもある。会は酒井 一前会長から大塩関係の史料遺品をすべて寄贈されて受け継いだ。冒頭それらがビデオで紹介された。大塩の肖像画や文書があり、中に大砲の絵があった。大塩が市中で幕府側に放った大砲の砲身部分には参加した門弟の名前が連判書として書かれていたことが印象的であった。

檄文発見と大塩研究のはじまり
 大塩の先行研究として、幸田成友(1910『大塩平八郎』)と石崎東國(1918『大塩平八郎』)が知られているが、石崎が発見した(成正寺に保存)檄文の現物が本格的な研究のきっかけとなった。檄文の行には三つのすきまが見られ(下図、出典は岡光夫・山崎隆三編著『日本経済史』ミネルヴァ書房)、これは計画の露顕を防ぐために版木を四枚に分割して(32枚、4ブロック)文章全体がわからないようにして彫り師に彫らせたためといわれる。藪田さんは、そのレプリカを開きながら説明された。写本でのみ檄文を見るとわからなかったことが、現物が発見されて当時の様子がわかった。(*檄文には現在の飢饉の原因は豪商と結託した悪徳役人の行為であり、彼らを誅伐して特権的豪商の金と蔵屋敷の米を貧民に分け与えよと書き、幕政の腐 敗を嘆き、一方で農民一揆とは異なることを強調し、困窮者救済の意図を明らかにしている。)事件が鎮圧されて後、関係者900名ほどが尋問され調書を取られた。それらは江戸に集約され審理された。そこから事件の全貌が見えてくるが、それがわかってきたのが1987年の頃だった(『大塩平八郎一件書留』)。これで事件の研究のりんかくが定まってきた。

大塩「出世願望」説は正しいか
 一部に、大塩には個人的な「出世願望」があり栄達が無理で乱を起こしたという説(仲田)がある。大塩が作成した「建議書」という膨大な資料はそのために作成されたというのだ。藪田さん自身は、この説はまちがいとするが、大塩が他の大坂武士とは異なる側面、江戸の情報に強い関心を持っていたという面を強調する。大塩は多彩な人間関係のネットワークを持ち、特に江戸関係には重要人物がいる。このようなことが「猟官運動」といううがった指摘を受ける元になっているようだ。関係者には水野忠邦(老中)、林述斎(林家第八代、大学頭)、佐藤一斎(昌平黌教授)などがいる。実際、大塩は金策に困っていた林に3000両を貸しており、それは林が無尽(頼母子講、発生は講組織による相互金融、近世には営利を目的とする富くじに近いような無尽が流行)に手を出そうとしていたのを止めるためであったという。与力には精錬と汚濁の二つのグループがあり、大塩は家康の前で軍功をたてた先祖を誇り、「功名気節を以て祖先の志を継がん」とする、例外的な存在であったという。大塩が書いた「建議書」は所司代。城代、町奉行などを指弾する内容であり、庶民の困窮をよそに無尽で蓄財する武士たちを批判し、老中になる以前の水野忠邦なども大坂時代(城代)に無尽で利益を得ていることなどが、やり玉に挙げられている。

「隠者」から武力蜂起へ
 大塩は与力をやめ、陽明学にもとづく塾、洗心洞で豪農出身者を含む門人らを指導、藤田東湖、水戸斉昭や林述斎、佐藤一斎らとも交流する。大塩が陽明学と出会うのは、大坂町奉行所に与力見習いとして14歳で出仕してから24〜25歳頃とされる。この頃陽明学を独学で研鑽したという。文政13(1830)年38歳で与力をやめ、天保4(1833)年41歳で中斎を号し、天保5(1834)年「隠者にて候得ども多忙」と言い、「草莽中にて定言を吐き」、天保7(1836)年7月頃には武器を準備し、12月に檄文を彫る。天保8(1837)年蔵書を売り(668両=約1億3000万円)、「建議書」を発送。2月19日、鎧兜を着用し、大砲を曳き、棒火矢などを発射して軍陣を連ねて行動を起こした。鴻池などの大商人の店を焼き払ったが反乱は1日で鎮圧されて終わった。

大塩の乱の性格をめぐって
 反乱は鎧兜の装備、戦陣の陣立て、大砲、鉄砲の使用など表面的には軍事行動として行われた。これは百姓一揆とは異質であり、大塩も檄文の中で「一揆とはちがう」と書いている。また、大塩個人と門人らの意識にも溝があり、反乱の性格をめぐっては未だ に解明すべき問題がある。これらと関係して、「大塩嫌い」を公言する人たちの理由に挙げられるのが、「大坂を焼いたこと」(脇田 修)、「蘭学者を苦しめたこと」(司馬遼太郎)など。しかし藪田さんは「大坂を焼いたことは本当にすみません」と言いつつ、反乱の目的は(腐敗した幕政と大商人の金儲けの犠牲となった)最悪の困窮者の救済にあったことはまちがいないだろうと指摘する。
 大塩の乱には未だ解明されない部分も多くあることがわかったが、当時の事実を解明する資料が20世紀に出てくることもあり、現在起こっている森友・加計問題の資料だって、この先10年後ぐらいに新たな資料が出てくる場合もあるかもしれないと藪田さんは言う。現在の時代にこそ“新たな大塩よ出でよ”と言いたいところだ。「大砲」をぶっぱなしたい相手はゴロゴロいる。時間いっぱいお話しして頂き、参加者は「おもしろかった」と口々に感想を語っていました。

6月例会報告 中條健志さん(会員・東海大学特任講師)テーマ「ヨーロッパの言語」の諸問題

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『ヨーロッパの言語』の現代的意義とは
 中條健志さんは現在東海大学の国際教育センター特任講師として、フランス語を教えている。2017年9月に岩波書店から出版したアントワーヌ・メイエ『ヨーロッパの言語』は、4名(西山教行、堀晋也、大山方容、中條)による共訳である。初版は1918年、第2版は1928年に出版された。邦訳版は1943年に大野俊一訳で出版され、今回(2017年版)が2回目の翻訳出版である。出版を引き受けてくれた岩波書店から「なぜ今これを出版するのか?」と問われた。この本を出版する現代的意義は何か?中條さんは「それが今日の報告の結論です」と話をはじめた。

社会言語学のはじまり
 アントワーヌ・メイエはフランスの(社会)言語学者でインドヨーロッパ語族の諸言語を研究した。当時(20世紀初頭)は「言語学」そのものの研究が主流で、メイエは言語の持つ社会的側面に注目、歴史や社会との関連を重視して研究した。これは今日では普通に認められている研究方法だが当時はまだ珍しい考え方であった。この本の原題は『新生ヨーロッパの言語』だが、第1次大戦後に生まれた新生国家の創出と言語の関係を論じており、第1次大戦後の民族自決、民主主義の発展などの新しい情勢の展開が、この本の成立の背景にある。

第1次大戦後の新しい情勢と言語
 大戦は英仏露と米などの連合国(日本も含む)と独、墺(オーストリア・ハンガリー帝国)、オスマン・トルコなどの同盟国(ブルガリアも含む)との戦争であった。同盟国側の敗戦により、オーストリア・ハンガリー帝国と オスマン・トルコ帝国などの多民族国家が解体し、新たな国家、新たな国境線策定の問題が起こる。政府関係者とも、つきあいが深かかったメイエは、戦時中からこれらのことを予想していたフランス政府当局への政策提言として、この本を書いたという。

メイエの言語観
 第1次大戦後、群小国家が成立して、各国ではそれぞれの国語制定が行われ少数話者の言語が増えた。この状況に対してメイエは、「文明に値する言語」と「文明に値しない言語」があると主張し、「文明語」でない小言語の増加には意味がないとした。ハンガリー語については、「複雑な言語であり、借用語が多く、独自の文明に至らない言語である」とし、アイルランド語については「文明の大言語たる英語を捨て去り、言語の監獄に人を閉じ込めかねない農民の話語に切り換えるよう国民に提唱するなど奇妙なこ とだ」とした。メイエのこのような考え方の背景には、「言語の統一性は文化の統一性に由来し」、「ユマニスムや啓蒙主義を体現する西ヨーロッパ」が「文明」を代表し、東ヨーロッパなどは「野蛮」で独裁的・全体主義的であるという独断があり、彼には西ヨーロッパ特にフランスを中心と考えるナショナリズムがあった。
  メイエは少数集団の言語は、「それを使用する民族にとっては非力の原因であり、外国人にとっては不便の種」とし、「文明の統一は言語の統一を求める傾向に向かう」と考えた。このようなメイエの考え方は、言語の平等を原理原則とする現代の言語学や言語とアイデンテイテイのむすびつきを重視する思想とは相容れない。しかし、このような考え方は過去のものと言えるのか。今日でも日本が単一民族国家という誤解が未だにあって、アイヌ語の正しい位置づけもなされていない。メイエの言語観は今日では批判の対象だが、支配的国家の言語が世界の支配的言語となるという言語帝国主義の考えや単一言語主義、偏狭なナショナリズムと言語の問題は現代にも通じるところだ。メイエは比較言語学者としては今日でも評価されるが、一面でその言語帝国主義的な発想は我々にとっては反面教師的な考え方と言えるだろう。

1943年邦訳版の意図は?
 最初の邦訳版として1943年に大野俊一の訳で出版されたものには、訳出されていない部分が多くあるという(100〜150カ所ほど)。その意図は何であったのか不明である。出版時、大野は検閲や内外のプロパガンダを行う情報局に勤めていた。なぜ敵国のメイエの著作を訳したのか?  中條さんは、以下の様な推測を述べている。まず表にあらわれた意図として、第1次大戦後のヨーロッパ情勢に、「大東亜共栄圏」に通じるものを見出していたのではないか。戦時中、日本はアジア各国で植民地や占領支配したところで日本語教育を強制していた。そのような政策の参考と考えたのか?もうひとつは、表には出せない裏の問題として、1943年版には訳出されない部分を現在訳すと、労働者の国際連帯や国家同士の連帯などに触れた部分が多く見られ、メイエはこのような労働運動や社会主義・共産主義運動の記述内容にシンパシーを感じていたふしがあるという。こういうものをあからさまには公表できない当時の情勢から大野は、これらの部分の訳出を控えたのか?

メイエの残したもの
 この本を実際に読んでみてインドヨーロッパ語に属するラテン語系、ゲルマン語系、スラブ語系の各言語がもとはひとつの祖語から出発して、どのように分化してきたのかその経過がくわしく記述されていてよくわかった。特に高校の世界史を教える先生には非常に参考になる書物で、ぜひ読まれることをすすめたい。 このように比較言語学の一般解説書としては未だに生命力を持っている書物だが、一方で言語帝国主義、単一言語主義という考え方が未だに生きている現在(フランスでは90年代にようやく地域言語を守る政策が取り入れられた)、かつてあったそのような思想の祖型として反面教師として参考となる書物だ。そして、1943年版には訳出されていなかった労働者の連帯や社会主義への関心、国際協調主義的な要素、エスペラント語の評価などの面が今回の訳により再評価されたということも指摘される。質疑交流も活発に行われた。メイエの持つ複雑さ、さまざまな面の評価についていろいろ質問や意見が交わされた。

5月例会報告 生野コリアタウンとその周辺をフィールドワーク 案内と解説 足代健二郎さんと宋 悟(ソンオ)さん

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 郷土史家で猪飼野探訪会の足代健二郎(あじろけんじろう)さんが案内役。鄭甲寿(チヨンカプス)(ワンコリアフェスティバル代表)・宋悟(ソンオ)(クロスベイス代表理事)両氏が南北会談・朝鮮事情についての最新状況を解説という、豪華な講師陣によるフィールドワークが実現しました。ただし、諸事情のため参加できなくなった方が多く、そのことがもったいなくも残念でした。 午後1時、JR鶴橋駅に集合。近鉄とJRが交差する高架下を抜けて、焼肉店が密集した路地裏を歩きます。まずは、ワンコリア 5月の日曜日生野コリアタウンの賑わい フェスティバル事務所を訪れ、代表の鄭甲寿さんから、南北対話を積極的に評価するお話を聞きました。在日団体の果たす役割についても強調。質疑を含めて20分余で切り上げ、足早に鶴橋商店街へ。著名な作家・司馬遼太郎さんの実家である福田薬局跡(今はトータルファッション店)前でも、足代さんの説明が続きます。今回は10年前のフィールドの時より詳細になってます!
 続いて、創立百周年を迎える北鶴橋小学校を経て、近くにあった高英姫(コヨンヒ)(金正恩の母とされる)が住んでいた住宅跡へ。道路をはさんで今はマンションが建っていますが、昔はモルタルの家だったそうです。 その前で、資料片手に精緻な解説を加えるのは、猪飼野探訪会の中野善典さん。あらゆる伝手をたどって、関西の人気テレビ番組「探偵ナイトスクープ」顔負けの手法で解明していく内容は、十分な説得力を持っています。ご本人は、あくまで自己満足のためと謙遜されますが・・・その熱意には頭が下がります。
 最後に、コリアタウン内のクロスベイス事務所に向かいます。天候に恵まれて、みなさん疲れも見せず元気いっぱい。5月の行楽日和、若い女の子が満ち溢れて、大変なにぎわいでした。1階は韓国レストラン「班家食工房」。午後2時半過ぎですが、テーブルにお客さんがひしめいています。
 宋悟さんによれば、生野区は13万人中、外国籍が2万8千人。韓国・朝鮮が1位、2位が中国であるが、最近はベトナム留学生が急増し、コリアタウンにも豚肉などの食材を求め、ベトナム人のお客さんも増えているとのこと。また、少子高齢化が市内でもとくに高く、子どもの貧困が深刻だと言います。なお、コリアタウ は元々3つの商店街から成っているが、今では合同の役員会が定期化されているとのことです。
 韓国の文在寅大統領を誕生させたのは、連続して百万人を動員した民衆の力であり、光州を中心とした民衆蜂起(1980)を担った親たちの子供世代が、大きな役割を果たしているのでは、と語ります。中国のケ小平(フランス)、ベトナムのホーチミン(フランス)は、外国の資本主義を知っており、金正恩もスイスに留学している。アジアの社会主義国が経済的な開放政策をとるかどうかは、そういった指導者の海外経験が影響しているのではないかと。この点は、私も同感です。毛沢東の頑迷ぶりは、彼が一歩も中国から出なかったことと関係あると、指摘されていますから。
 そのほかに、ヘイトスピーチの問題が取り上げられ、その原因と日本政府の姿勢が議論されました。また、北朝鮮に対する日本の評論家について、誰がまともなのか共感できるのかとの質問も出ました。質疑応答を含めて、2時間を越える充実した報告・議論がくりひろげられました。

4月例会報告 赤塚康雄さん(会員・元天理大学教授)「ジャーナリスト柳沢恭雄の研究」

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銃口を前に「終戦」を守った男
 柳沢恭雄の名前を知らなくても、東宝の映画「日本の一番長い日」で終戦の玉音放送を阻止しようとNHKに乱入した反乱軍の銃口を前に体を張って放送を守ったNHK職員と言えば、記憶にある方も多いだろう。当時柳沢はNHK報道部副部長。8月15日午前4時半頃、反乱軍の畑中健二少佐は森近衛第1師団長を殺害して宮城とNHKを一時武力制圧しNHK報道部に侵入した。柳沢の胸にピストルをつきつけ「決起の趣旨を国民(向け)に放送させろ。さもなければ撃つぞ」   柳沢恭雄氏 と要求した。このとき柳沢は下手に反抗して畑中をより興奮させないように、無言で向き合った。この気迫に押されて畑中は去り、玉音放送は無事に正午に流された。畑中少佐は放送の前に皇居前で自決した。この事件は、映画の原作となった半藤一利の小説では、NHKの職員は館野守男になっていたが、実際は柳沢が当該のNHK職員であった。柳沢自身は「彼(畑中)のあの目つきは異様そのもので、私は生涯忘れないし、二度と他に見たことがない。(略)畑中少佐と私の眼と眼に何か通じるものがあったようだと思う。彼のピストルの引き金の指がゆるみ、手がやわらかくなった。」と証言している。
 彼は戦後、京丹後にある畑中の実家を訪ね、兄が昭和44年にようやく建てた墓に毎年のように参っていた。兄の話によると、畑中本人は陸士(陸軍士官学校)に行くことは渋っていた。優しい性格で、本当は三高で文学をやりたかったようだ。素直な性格のまま、「市ヶ谷精神」を受け容れたのだろうと。畑中らクーデターを図った青年将校は東京帝大の平泉澄教授の門下生で、平泉からは吉田松陰の「諫死論」(君主が誤った行動をすれば臣下がそれを諫めることが正しいという考え方)の講義を受けていた。そのような思想が決起の根拠となっていたようだ。又、事件の背景には、間違った命令でも直属の上司から受けた命令には従うという日本軍隊独特の性格もあるという。

中学生でマルクスに傾倒
 柳沢は京都府の上狛町(現・木津川市山城町)の出身。山城国一揆が起こった土地で、実家は大地主で父は村長を務めた。周囲では米騒動や小作争議が起こり、そのような環境のもと本人は中学時代にはすでにマルクスなど社会主義文献を読みあさる早熟な少年だった。病弱のため中学を一年遅れで卒業し、浦和高校から東大文学部社会学科に入学、ジャーナリストをめざして新聞学教室に学んだ。大学では「新人会」はすでに解散しており、彼は青年共産主義同盟に加入した。夏休みにオルグ活動で奈良に入っているとき、1932年8月 30日奈良をゆるがす治安維持法による大弾圧事件8・30事件が起こった。彼は検挙され、懲役1年2ヵ月、執行猶予3年の判決を受ける。報告では、彼の名前が特高月報にはみつからないとのことであったが、当日参加された田辺 実氏から特高月報には2回出ているとの指摘があった。また奈良新聞に記事が掲載された「妙齢の女」についても、報告では長谷川テル(エスペランチスト、劇作家)ではないかとの推測であったが、これも田辺氏から別の銀行員らしい女性であるとの指摘があった。

NHK入局
 東大卒業後、NHKに入局する。治安維持法で逮捕された経験がありながらNHKに入れた背景には、親戚にあたる松阪広政刑事局長(のち小磯、鈴木内閣の司法大臣)の保証があったからと思われる。松阪は降伏決定時の閣議に出席していたので、事前に敗戦を知っている。柳沢は、3日前に大臣室に行って、彼と「敗戦ですね。しかし三井三菱などは生き残るんですね」との会話を交わしている。
 NHKに入局後、彼は論文「報道放送の特質と限界」を書いた。当時は新聞の記事を書きかえて逓信省で検閲を受け放送していた。彼は独自取材による自主編成の放送の必要を考えていた。しかし論文が局内誌に掲載直前に100名ほどの記者と共に軍属として招集された。時期は真珠湾攻撃の直前。NHKからは参謀本部に一人派遣されてるので、彼も開戦予定は知っていた。呉港から諏訪丸でサイゴンに到着、彼は6名のNHK記者と南方作戦に従事させられる。任務はジャワ島攻略戦における対オランダ軍謀略放送だった。1942年3月3日から7日間100回以上の放送を行った。内容はオランダ・インドネシア軍の劣勢を誇大に宣伝すること。結果として、数においては優勢だったオランダ軍が1週間後に降伏することとなる。

戦時中の報道についての後悔
 柳沢は戦時中の自分の「罪」について三つのことをあげている。ひとつは、この謀略放送に加わったこと。そして報道解説委員として、フィリピンレイテ作戦に、「天王山の戦いとして今すぐ兵員と飛行機を集中的に送ることが国民の勤め」と解説したこと。これは補給を不可能と知りながら解説し、作戦の結果、京都府の第16師団はレイテで玉砕した。 
 もうひとつは、放送の自己検閲のことだった。戦時中NHKでは、まず大本営からのニュースが伝えられ、次に同盟通信からのニュースが来る。ニュースの放送は、「依命中止」が国家の命令で中止されること。「任意取止」がNHK独自の判断で中止することだった。大本営からのニュースは、真実かどうかわからないと思っていた。山本五十六が死亡した事実はしばらく伏せられた。報道は真実を伝えることと思っていたので、毎日真実を国民に伝えていない無念さを感じていた。新聞報道も戦争が拡大するにつれて変化した。1931年6月まで「大阪朝日」は軍部に対して批判的な記事も掲載し、「日日」と「読売」は軍部に迎合的であった。しかし1931年9月18日の柳条湖事件にはじ まる満州事変が起きて10月以後の朝日は軍部の批判をすることはなくなった。1944年3月、「毎日」ではベテラン記者の新名丈夫が「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ」という記事を書いて陸軍を怒らせ、彼は36歳で視力が悪いので兵役免除を受けていたにもかかわらず記事の翌日招集された。同時に同じ年代の250名ほどが招集されて、硫黄島などの激戦地に送られ玉砕することになる。1944年には雑誌「中央公論」と「改造」が廃刊となった。

戦後の活動
 戦後、彼は取材に基づく放送をめざして放送記者制度を創設し、ニュース解説をはじめる。幣原内閣の批判などを行った。GHQから民主化をすすめたニューデイール派が撤退すると、検閲が厳しくなった。読売新聞で正力松太郎が戦争犯罪人指名を受けて追放され、組合が編集権を行使した。そのことがGHQのプレスコード(新聞準則)にひっかかり編集幹部が解雇された。組合は解雇撤回を要求してストを行い、1946年10月各紙とNHKが支援して放送ストが行われた。結局NHKだけがストに入り、管理職の柳沢は外側からストを指導、9部課長もストに参加した。20日間のストが行われ、柳沢はスト解除後休職処分となった。
 1950年7月28日レッドパージが行われ、マスコミ関係704名、NHK119名がパージされて職場を追われた。1951年柳沢は中国へ密航し、北京の自由日本放送(日本向けの政治宣伝放送)に従事した。このとき家族は知らないうちに柳沢がいなくなったと語っている。1958年に帰国したときには、出入国管理令違反で逮捕され5日後に釈放されている。
 1960年に日本電波ニュース社を設立し社長に就任した。当時社会主義圏のニュースはほとんどが、この会社から発信された。ベトナム戦争時のニュースも電波ニュース社から送られたニュースが世界中に配信されている。1962年、ホー・チ・ミンの単独インタビューに成功した。アメリカのテレビ局でさえも同社のニュースを利用していたという。

現在の問題と柳沢研究の意義
 取材に基づく真実を伝える報道、放送記者制度、検閲への抵抗、新聞・放送関連組合など柳沢が現在の放送界、マスコミに遺産として残したものは大きい。公正で真実をありのまま伝える報道は民主主義の土台であり、権力の介入を許してはならないことはかつての歴史の大きな教訓だ。柳沢は、その渦中で闘い、銃口をつきつけられても退かな かった。今放送番組の政治的公平などを定めた放送法4条の撤廃案など、政府によるマスコミへの介入が強められている。一方で朝日新聞などが森友加計問題など安倍官邸による国民だましの不正を暴く追求を、まさに社を挙げて命がけで行っている。現在、柳沢の時代と彼の行動を再度見返すことも必要であると思われる。赤塚さんの研究がさらに深められていくことを期待する。報告のあとTBS制作の柳沢恭雄さんのドキュメンタリー番組の上映があり、質疑交流も活発に行われた。参加者から今後の研究に参考となる指摘もあり(本文中記載)、有意義な例会となった。

3月例会報告 西田 清さん(治安維持法国賠同盟滋賀県本部)「反戦・平和にいのちをかけた久木興治カ 不屈の青春」

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眉目秀麗、頭脳明晰な青年革命家
 久木が青年共産同盟や日本共産党に入って、軍隊への反戦工作などをしている時に特高警察に逮捕されたように、西田さんも戦後米軍への工作などを行っていて逮捕され刑務所に入った経験を持つ。それは自分自身が久木の後を追っているように感じると、西田さんは言う。
久木は滋賀県の八日市中学校に小学校5年から受験して入学した秀才である。写真を見ると「眉目秀麗」そのものという印象だ。当時久木はロシア革命史の本を読みふけり、河上肇が編集した『社会問題研究』を購読、ロシアに渡って「社会主義」建設に参加することが夢 であった。のちに治安維持法で検挙され投獄されたことで、八日市中学校の学籍簿から除籍されることになったが、戦後周囲の尽力で同窓会に働きかけ学籍は復活することができた。
 大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)に入学後、「社研」に加入し「大阪外語読書会」を20名ぐらいで組織した。読書会が弾圧されそうになった際、彼は商家出身の同窓生の家に資料を隠したが、このときは翌日特高が来て危なく難を逃れた。こんなところに彼の剛胆にして細心のものごとに対処する性格があらわれているという。しかし、彼は受験生に読書会勧誘のビラを撒いていて検挙される。

軍隊への工作活動
 久木は1926年、大阪で組織された青年共産同盟(共青)に加盟、翌年春日庄次郎と会って日本共産党に入党する。当時春日の活動拠点は、大阪市内の千日前通りの市電の停留所に近い細工谷にあった。彼の任務は工場と青年労働者のなかに軍国主義反対の勢力を築くことであった。1927年、軍隊工への働きかけを行うことが決定され、関西地方委員会の書記であった久木は、その先頭に立つことになった。
 27年12月下旬には、大阪城近くの歩兵第8連隊と歩兵第37連隊にビラ「歩兵第八連隊及歩兵第三十七連隊の全兵士諸君!」を、28年2月11日には、ビラ「戦争で肉弾とされる兵卒には選挙権もない!」を、28年2月19日には、ビラ「国家の干城たる兵卒諸君に選挙権がない!」を兵営内に配布している。ビラは封書などに入れて隊内の兵士に郵送されたという。28年2月24日には海軍の水兵に対する働きかけが検討され、翌月10日、「兵卒新聞」が発行され久木が執筆した。軍隊内に共産党の組織を建設することも計画された。28年、青年共産同盟員の兵士中村福麿は労農党演説会で反戦演説を行い、軍法会議で懲役6年の刑となった。久木は『青年衛兵』で「兵卒諸君のために闘った中村二等卒の処罰に反対せよ!」と訴えた。

3・15事件
 1928年3月15日、田中義一内閣のもとで日本共産党をはじめとする民主団体に対する大弾圧が行われた。これが3・15事件である。日本共産党、労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟などの活動家1600名余が検挙され(うち約500名を起訴)残酷な拷問が行われた。同年6月には治安維持法をいっそう改悪するために最高刑を死刑とする緊急勅令が出された。事件の背景には、国民の中に運動をひろげようとする日本共産党とその影響力を壊滅させようとする政権側の意図がある(編集部注)。久木は28年3月15日午前4時半に検挙される。29年2月1日公判で非転向(注:「転向」とは支配権力が共産党員や同調者に「正しい方向に転じ向かうのだ」と思わせる意味で作られた用語)を貫いた。
  久木は、予審終結時の陳述で「私は従来と何等変わった感想は現在何も持っていない」、公判の最終陳述では「吾等はブルジョアジーの敵として罰せられる名誉に立っているので、ブルジョア司法に公正は望んでいない」と語り、京大教員であった村山藤四郎の解党主義(共産党の方針から君主制撤廃と大地主の土地没収を削除することを主張)に対しても、「君主制の廃止及び大地主の土地の没収の両項目はあくまで存続さすべきであり、これなくして共産主義政党とは言えない」と反論した。獄中の5年間は、大阪刑務所に入所した時に、「刑務所にいるうちはいっさい話をしない。出たらしゃべる」と言ったきり全く口を開かなかったというので、刑務所の教誨師も彼の意志の強さに感心していたという。

出獄後の状況、大阪での動向
 出獄した後、1935年10月に久木は上阪する。特高警察がつきまとい、就職するも会社に特高が来ると翌日はクビになるという状況で、職を転々とした。1936年5月に思想犯保護観察法が公布され、治安維持法でつかまった人は一生保護観察の対象となったのだ。西田さんは、久木が第2回予審尋問調書で「若し(日本共産党の)組織が無いなら『コンミニスト』(ママ)として組織をつくる必要も意識した」と語っているが、出獄後上阪して、なぜ党の建設に取り組まなかったのか疑問としている。時代は2・26事件や日独伊防共協定調印、大本教やひとのみち教団弾圧事件などが続き、1937年には日中全面戦争が開始される頃である。そのような情勢が久木の行動にも反映していたのだろうか。最後に西田さんは、1920年代の久木の先駆的な活動は評価に値するとして、このような無名の人びとの歴史を発掘することの重要性を強調された。

松浦由美子さんからの補足
 松浦さんは1980年代から「労働雑誌」の調査をすすめる中で、西田さんが書いた久木の伝記「不屈の青春」を見て、彼が上六周辺で活動していたことを知った。久木が兵士に反戦ビラを送って働きかけた第八連隊は難波宮跡、第三十七連隊は旧国立病院跡であった。共産党に入党したところは日赤付近、春日庄次郎のアジトは天王寺区細工谷に、共青関西地方委員会は千日前通の市電停留所跡にあった。松浦さんは自分のいる周辺を久木が活動していた偶然も手伝って、次第に調査をすすめることとなった。久木が出獄後、入社した「教育通信社」は都島区網島にあり、「日刊教育通信」を発行していた。この会社は「大阪府学事職員録」などを発行し、教育界と強いつながりを持っている。
 久木が、この会社に勤めるようになった経緯もよくわからない。特高ににらまれそうな活動歴のある人物が多く居て、久木が入るきっかけとなった経営者の富岡勝という人物も「大阪合同労組」にいたらしいことなど今後調査すればおもしろいことがわかりそ うだ。最大の謎は、久木が1937年7月24日天神祭の宵宮の日に大川(淀川)で溺死したとされていることだ。松浦さんは、水泳の得意だった久木が、流れの緩やかな川でおぼれるとは考えにくいこと、他の事故と違い新聞記事にもなっていないこと、などから 特高警察による謀殺ではないかとの疑いを抱いている。ところで、例会当日参加者(医師)から意外な意見が出された。久木は長い刑務所暮らしで脚気を患っていたので、泳 いでいるときに「脚気心」により不整脈が起こると心臓が止まり、大川付近の川底は5mほどの深さがあるので、沈んでしまって浮かび上がれなかったかもしれないとのこと。はたして真実はどうか、今後の調査と解明が待たれるところだ。

質疑交流
 参加者からの質問意見で上記文中に紹介した事以外で、戦前の軍国主義の時代の中、久木のような反戦と平和をめざす活動を弾圧にもめげず勇敢に行える人物の居たことに驚き、なぜこのようなことができたのかという質問には、西田さんによると、戦前にこういう先駆的な活動をできたのは、久木のような知識人の役割が大きかったという。またほかに、大阪の運動の先駆性、大阪外大の学生運動の伝統などについても意見感想が出された。

2月例会報告 塚田 孝さん(大阪市立大学文学部教授)「近世大坂の都市社会−孝子・忠勤褒賞から見る民衆世界−」

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「孝子・忠勤褒賞」史料により、名もなき人々の生きざまを描く
 塚田さんは昨年12月、『大坂民衆の近世史−老いと病・生業・下層社会』(ちくま新書)を発表した。そこに詳細に描かれたのは、江戸時代の都市大坂に生きる名もなき庶民の歴史であった。そのきっかけは、大坂市中に通達された孝子褒賞(親孝行な子供への褒賞)や忠勤褒賞(奉公先の主人に誠実に仕えた者への褒賞)の詳細な理由書の史料に出会ったことである。
 松平定信が行った寛政の改革に際して、寛政元(1789)年、親孝行や奇特な行為の事例を全国調査し、褒賞(ほめて褒美を与えること)することが開始された。大坂では10月にお触れがあり、孝子等の調査が行われ、その後10年間ほどの調査をもとに享和元(1801)年、『官刻孝義録』が刊行された。摂津国78人 のうち大坂は7件21人であった。幕末までに480件余りの褒賞が市中に通達された。  当初は江戸に上申し、下知を受けて褒賞していた。当初は孝子褒賞と忠勤褒賞が重点であり、その頃の褒賞理由は長いこと、銀が下されること、教戒的な文言が見られることなどが特徴である。文化6(1809)年頃から大坂独自の褒賞が行われるようになり、その特徴は、理由が簡略、銭による褒賞、教戒文言はないことであった。 時代を経るにつれ、「年寄(町の運営にあたる役)の役儀出精(働きぶりがすぐれている)」(1812年〜)、「盗賊捕縛」(1820年〜)、「難船救助(安治川や木津川での難船の救助)」(1830年〜)などの褒賞が増加している。

孝子褒賞・忠勤褒賞のパターンと条件
 今回は、孝子、忠勤の各褒賞について、それぞれのパターンと条件につき事例をあげて報告された。
孝子褒賞のパターンは、@幼少時に親の病気や死亡のために苛酷な状況となる場合。 A生活困難な状況下、老親を抱え、献身するような場合。忠勤褒賞のパターンは、@主家が困難となるも、再建に努力する。A主家の困難が続くが、どこまでも支え続ける場合など。
 褒賞の条件としては、まず富裕な生活者は褒賞の対象とはならないこと、あくまで貧しい階層の者であることで、その行為の内容として@家業出精、A看病や身の回りの世話、B弔い、年忌の行いなどがポジテイブな中身として、またC家賃滞納や買掛(つけや借金)がないことなども条件とされた。

都市下層民衆の生活の不安定さ
 褒賞される人々の生活から見えてくることは、都市に生きる下層の人々の生活が非常に不安定であることだ。病気では眼病、盲目の事例がもっとも多く48人。聾唖者は2人。中風が14人。癇性・気むら(精神不安定)が14人など。父親の死後母親への孝行が行われる例も多い。火災も多く、転宅も多く、不安定な借家人の生活状況がわかる。特に借家人の場合、享保15(1730)年から女名前で借家することができなくなったので、養子により男名前を借りたりすることになった。

高齢者への「老養扶持」「手当米」
 子や孫の孝行への褒賞として「老養扶持」が一日米五合与えられた。また100歳以上の高齢者には「手当米」として米10俵与えられた。

都市民衆の複合的な生業構造
 褒賞の事例からわかる都市民衆の職業は、籠細工、灯心職、綿実の挽売、古綿打ち、提灯張、夜番、塩魚、青物売、煙草入縫職、釘鍛冶、下駄職、鼻緒足袋職、船頭、本綴り、夜番、大工、米仲買、醤油販売、金融関係、墨屋、歌舞伎役者、陰陽師、三味線指南などで、都市には多様な職種があり下層の民衆がいくつもの職を兼ねて生活を成り立たせていた状況がわかる。

自治組織「町(ちよう)」の姿、相互扶助的側面、複合的な生業で生活を支える人々
 都市大坂のうち商人や職人が居住する町人地(町(まち)方(かた))を構成する小単位の町(ちよう)は、独立性の強い自治体と考えられる。大坂市中は、北、南、天満の三郷から成り、北に250町、南に260町、天満に109町の計619町があった。ひとつの町が自治単位であり、たとえば道(ど)修(しよう)町(まち)は道をはさんで南北の区画が1町であった。町を構成するのは主に、町に家屋敷をもつ「家持ち」としての町人と借家人の二つの階層であった。(家持の町人から選ばれた町名主、町年寄、月行事の三役が町の運営にあたる。)
  町に関わる雑務として「夜番人(やばんにん)」がある。町の夜回りをするほか、昼間にも町内の用事を依頼されて行い、その他にも本綴り(本を綴じる仕事)などの様々な副業をする。文化7年の伊勢屋佐兵衛の事例は、両替屋に下人奉公していた佐兵衛は、主家が傾き、自らの家屋敷も売り払い借家人となり、町の夜番人として雇ってもらい、副業もしながら主家を支えた。町の相互扶助的側面と複合的な生業のありかたがわかる事例である。一方、「町代」(市役所の職員的な仕事)は町の業務をしながら他の副業をすることなく、町代の仕事に専念して、その精勤褒賞の対象となっており、夜番人のように副業をすることはないところが異なる。
  町年寄に対する精勤褒賞事例からは、文久2年の瀬戸屋九蔵の事例でわかるように紛争の解決や、困窮者の援助など相互扶助にはたした役割など町の運営に関わる町年寄に期待される事柄が見えてくる。

褒賞の前と後
 褒賞があると、奉行所からの褒美の銀(銀5枚)だけではなく、多額の祝いが各所から集まった。安政3年の御池通墨屋和平下女いその事例では、墨屋である主家の当主や 家族が中風や眼病で倒れ、下女のいそが嫁入り話まで断って、看病から商売まで引き受けて働き、東町奉行所から褒賞され銀5枚と惣年寄から銭2貫文もらったが、そのほか町内の家持個人、町代、借家人などから多額の貨幣、物品がお祝いとして寄せられた。

明治期の褒賞制度
 明治初期にはなお全国で江戸期とかわらない孝子・忠勤褒賞が継続されていた。一方、1875(明治8)年4月、ヨーロッパの制度が導入されて太政官布告により「勲章条例」が制定される。その後、7月に太政官通達「篤業奇特者及び公益の為め出金者賞与条例」が出され、各府県で独自に褒賞せよとの指示が行われた。褒賞対象の中心は、江戸期の「孝子・忠勤」であった。その後1881(明治14)年前記条例が改正された内容による「褒章条例」が公布された。明治期に制定された「勲章条例」と「褒章条例」は改正を繰り返しながら現在の勲章と褒章の制度的根拠となっており、報告者は「明治以降の勲章・褒章の明治政府による、その吸収と再編の意味や、戦後の二度にわたる見直しにもかかわらず、現在に至っている意味などを考えるには、近世以来の褒賞に込められた政治的意味を踏まえておくことが必要であろう」としている。

質疑交流から
 参加者から多くの質問意見が出された。主なものとして、(問)奈良時代以降の日本や中国でも、孝子褒賞にあたるようなことはあったが、近世後期に行われた背景は何か?(答)18世紀末から19世紀にかけて一揆、打ち壊し、若者の博打のはびこりなど社会秩序の動揺が続いたことに対して儒教的な要素で締め直そうとしたことが考えられる。(問)褒賞を媒介にして、町などから金品が寄せられることは相互扶助につながるので、褒賞は、そのような位置づけ(救済)が考えられるのか?(答)褒賞は救済目的ではない。(問)遊女などの階層も褒賞されるのか?(答)遊女などは、ある意味で自己犠牲の究極の姿として考えられるので褒賞の対象となりえた。
 報告中、大坂の道修町などの詳細な絵図が示された。そこには、「吉兵衛」や「しな」、「ゆき」などその町に生きた個人の名前が浮かび上がっていた。塚田さんは著書の中で「歴史のかげで、ひっそりと、しかも懸命に働き、誠実に生きた人々に無限の価値を見出しうるような歴史学でありたいといつも思っている。・・・そうした人々が歴史をつくってきたのであり、それを明らかにすることはとても楽しい」と語っているが、本研究会の原点とも通じる内容の報告であった。なお、会長の尾川先生の先祖が、『官刻孝義録』に記載されているという意外な事実も知らされた。

1月例会報告 辻本 久さん(会員)、横山篤夫さん(会員)「記録に残されなかった阪南市の空襲」

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泉南の空襲記録を書きかえる発見
 大阪府下の空襲の研究では、大阪市内、北摂地域などの調査がすすんでいるが大阪府 南部の泉州地域の研究は遅れている(小山仁示『大阪大空襲』参照)。横山篤夫さんは小山さんからも励まされて泉州地域の聞き取り調査を行ってきた。最近の研究では2016年5月例会で報告された英国艦隊による泉州一帯の空襲攻撃事件がある。この報告内容に注目した阪南市在住の辻本さんが、横山さんに地元阪南市の空襲事件のことを連絡し、これが今まで公的な記録にない新しい事実であることが確認された。横山さんから指摘を受け、辻本さんがさらに調査を行った結果が、今回の報告につながった。それは1945年8月8日に現・阪南市の海岸部であったP51戦闘機による攻撃で死者3名の被害があった事件で、このことは警察署の報告にもなく、その後公的な記録に残らず、阪南市史(旧・阪南町史)にも記載されることはなかった。そういう意味で、今回の発見は泉南地域における空襲研究を書きかえる内容となり、各紙にも大きく報道された。

報告者本人が目撃体験した空襲
 辻本さんは昭和10年生まれで現在82歳。空襲当時は小学校4年生であった。当日(1945年8月8日)の午前11時半頃で快晴だった記憶があるという。家の土間にいると、突然「バリバリバリ」という音(機銃の発射音)と超低空で飛んでいると思われる飛行機の爆音が聞こえた。村出身の予科練のパイロットが超低空で飛んでいたのを見たこともあり、飛行機の爆音であることがわかった。山側から海にむかって村の木造船の造船所から船が進水しているところに機銃掃射が行われたのだ。アメリカ軍のP51戦闘機が100mほどの近距離で海に向かって飛んで行くのが見えた。ジュラルミンの銀色の機体が、翼から白い煙を流して飛び去って行くのが見えた。煙は機銃を撃った跡の硝煙らしかった。当時は、本土へ攻撃に来る戦闘機は、一般に「艦載機」とか「グラマン」(海軍の戦闘機で紺色に着色)と言う人が多かった。辻本さんは子どもながら、防空教育からか、新聞や雑誌などからの知識だったのだろうか、その戦闘機の機影を見て、すぐP51とわかったと報告されている。一方、日本の戦闘機は隼(陸軍)しか知らずアメリカの戦闘機は名前やメーカーも知っていたという。  現場は現在の南海本線「鳥取ノ荘駅」の浜側にあたり、当時西鳥取村の北地区付近、タコ釣りをしている漁師が撃たれたという情報が伝わってきた。この地域は現在も大阪湾にそって何カ所も漁港がある。当時は農家が主で漁師人口は少なかったという。船に何本も竿をつけて風に流されながらタコを釣る漁法があった。
 あとでわかった被害の全容は、地元の人が2名(うち一人は土手藤吉さん)、他地域の人で大型の機帆船(「摂津丸」)の船長らしき人が1名亡くなったという。報告者は、そのとき沖の方から棺桶を乗せた舟が浜に向かってやってくるところを目撃している。棺桶を舟の上に十字型に交差するように置いていたことを印象深く憶えているという。
 事件の日が8月8日であることは、今回の調査で地元の人の聞き取りや寺の過去帳からわかったとのこと。

P51戦闘機部隊のこと
  P51戦闘機(愛称ムスタング)は、ノースアメリカン社が英国本土からドイツ爆撃の護衛用にイギリスの要請で開発した長距離の航続距離を持つ戦闘機だ。馬力、速度、航続 ノースアメリカンP51ムスタング戦闘機 距離などにおいてゼロ戦などの日本戦闘機にまさり、ヨーロッパ戦線から太平洋に転戦、第7戦闘機集団が硫黄島上陸戦の最中に本山飛行場に移駐し、1945年4月7日から日本本土攻撃に参加した。部隊の編成は、戦闘機集団(ファイターコマンド)という上級司令部のもとで、戦闘機軍団(ファイターグループ)が複数構成され、ひとつのグループは3つの戦闘機戦隊(スクアドロン)で編成、ひとつのスクアドロンは4つの戦闘機小隊(ファイターフライト)で編成、各フライトは4機の戦闘機が所属する。ひとつのコマンドに148機が所属している。1機につきパイロットが2名待機している。関西地域は、第21戦闘機軍団(ファイターグループ)が攻撃に参加した。最近NHKでも放映された記録フィルムの中に、P51が地上を機銃掃射で攻撃する映像があり、これは機銃を発射するために引き金を引くと同時にカメラも作動する仕掛けになっているそうだ。同機は性能がよいので朝鮮戦争でも使用され現在も自家用機などに利用されている。

なぜ阪南市の空襲被害(死亡者)が記録されなかったのか。
 当時、尾崎警察署が空襲被害の把握をしていた。空襲で死者が出たという当時村の人の多くが知っていたであろう事実が警察署の記録からもれていたと考えられる。それがなぜか、あとの質疑の中でも疑問が出されたが、不明のままである。おそらくは、当時混乱していて、報   辻本 久さん     告が時間内に届かず集計漏れとなったことなどが想定される。警察署の人員不足も指摘されている。戦争末期、成人男子のほとんどが戦地に送られ、警察署といえど人員が不足し業務がままならない事態に追い込まれていた可能性も考えられる。ともかくも、72年ぶりに、空襲被害の正確な事実が確認されたのであった。今全国各地で、このような空襲被害の実態の再調査がすすめられているが、実際の体験者、目撃者が健在でおられる時間も残り少なくなっており、調査を急ぐ必要がある。実際の空襲下の生活を体験した参加者もいて、質疑がもりあがった。高知県でP51の編隊が飛行する目撃談も出され、また墜落B29機のガラス破片をこするといいにおい がしたという、ある年齢層以上の人でないとわからない共通の体験談も交わされた。