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参加費400円(資料代を含む) 会員外500円

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2019年7月例会


と  き  7月15日(月)  午後1時半開場 2時開会

場 所  大阪府教育会館 3階 菊の間

テーマ  「大阪砲兵工廠物語」

講 師  久保在久さん

 大阪砲兵工廠が設立され今年2019年は150年目をむかえる。大阪砲兵工廠は 1870年兵部省のもとに兵器製造を管轄する「造兵司」が大阪城内に設置された ことが始まりとされる。東京の本廠では鉄砲を、大阪の支廠では大砲を製造する ことになった。日露戦争前の1899年には口径27センチもの当時最大の巨砲を 完成した。以後、砲兵工廠は日本のアジア侵略戦争のための兵器を作り続け、1945 年8月15日の大阪空襲で壊滅する。久保さんは1987年、『大阪砲兵工廠資料集』 上下巻を出版。「日本産業技術史学会」から「資料特別賞」を受賞した。その後 戦前の『大阪朝日』や『大阪毎日』のマイクロフィルムを調査。2年以上をかけ 約160万字余りの記事を収集、2018年に『大阪砲兵工廠物語』(耕文社)を出 版した。 昨今の武器輸出解禁、憲法改悪の動きが迫る中、大阪砲兵工廠150年 の歴史をふりかえって現在を考える。

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 このページに掲載している以前の報告は「例会資料室」にあります。「例会資料室」もご覧ください

6月例会報告  成瀬龍夫さん(会員・元滋賀大学学長)「比叡山の僧兵たち」

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マフィアと僧兵
成瀬さんの専門は経済学だ。定年後、歴史小説かエッセイを書きたいという強い想いにとらわれた。1994年頃イタリアでマフィアの研究をして本を出版するはずだっ たが、売れないからやめたほうがよいとの忠告で出版は頓挫した。それから25年後地元比叡山の僧兵がマフィアに代わる研究対象となり、今回の『比叡山の僧兵たち』という歴史エッセイ的な本を出版する運びとなった。 執筆のきっかけは信長の比叡山焼き討ちに関する延暦寺自身の説明に強い疑問を感じ、真相解明の意欲が沸いたことだった。

信長の比叡山焼き討ちの真実
 信長の焼き討ちの規模について3つの説がある。@太田牛一『信長公記』に代表される大規模説、A延暦寺の説明に基づく中規模説、B兼康保明『考古学推理帳』(考古学調査)にもとづく小規模説だ。従来は全山数百の諸堂が紅蓮の炎に包まれ、大殺戮が行われた、とするイメージが「常識」のようになっている。しかし、2013年に行われた発掘調査によると、焦土の発見も非常に少なく、『信長公記』の記事は「たいへん誇張した物語というべきであろう」(兼康)という。「壊滅的な打撃を受けた」とする延暦寺の立場と発掘調査とのギャップをどう考えるのか、今後の検証が求められている。

僧兵とは何か
中世大寺院は延暦寺に限らず数千の規模の僧兵を擁していた。エール大学教授朝河貫一は、京都や奈良の大寺院のみならず全国各地の寺院が僧侶による武装した集団を組織し、相互の内紛を納めたり封建領主や朝廷に対して自己の主張を押し通したことは日本の宗教史における「11世紀のもっとも驚くべき現象」としている(「日本の社会経済史上における宗教の位置」1931年)。不殺生を戒律とする僧が人を殺傷する武力をどういうわけで行使することになったのか?僧兵とは何か?弁慶に代表されるような僧兵のイメージは歴史的に正しいのか?僧兵を「悪党」「悪僧」とするイメージは中世以後の「軍記物」などの文学の世界の中でつくられ、本当の姿はわかっていないという。
 もともと僧兵は「山法師」「堂衆」「衆徒」などといわれ、「僧兵」という言葉が出てきたのは江戸時代で、武士が支配し、「儒学」「国学」にもとづく仏教排斥が行われるようになった社会の意識から出た言葉だ。
僧兵武力の発生について、黒田俊雄の分類を参考に6つの類型に分類できる。  @寺社の自衛武力として、A寺領荘園の防衛のため、B寺院内の内紛のため、C朝廷への強訴のため、D他宗派との争いのため、E幕府・武家への合力のため、など。  辻善之助は得度制度がゆるみ、僧侶になる手続きが容易となり質の悪い僧が大量に生産されて、これが僧兵発生の基盤となったとする。10世紀後半、大量生産された僧の学僧と非学僧への種別化を行い、「二十六か条制式」を定めて堂衆・行人などの非学僧に武力の担い手の役割をあてたのが天台座主の良源だった。良源が僧兵の創始者といわれる由縁である。

鎮護国家仏教と僧兵の武力発生の論理
  日本の仏教は、古代律令国家が中国唐の時代に確立された鎮護国家仏教を導入したことに特色があるという(空海と最澄の密教導入も含めて)。個人の解脱や民衆救済を目的とする仏教本来のありかたより、日本では、仏教を国内政治の補完物とし、国分寺制度など国家が寺院と僧を管理し鎮護国家の機能を担わせた。王法と仏法は車の両輪と考えられた。仏法は朝廷(王法)を支え、朝廷は仏法を保護する関係にあった。
 そのような日本仏教の特色から、鎮護国家の核心である王仏帰依の関係には仏教の戒律と矛盾する論理が胚胎されていた。つまり、仏教では殺生を禁止しているが、王法、すなわち国家は戦争における殺人を肯定している。鎮護国家思想は殺生を肯定しているため、仏教の戒律の空洞化が必然的だ。
 僧兵の武力の発生が、武士の発生と同じように自衛的武力、荘園防御などの社会的・経済的要因などにのみ求めるのではなく、鎮護国家仏教という中国の影響を受けた日本独自の仏教内部の論理にもとづくとするところが報告者の論点のユニークなところである。

質疑交流から
報告者の大胆な問題提起を受けて活発な質疑が行われた。鎮護国家仏教の中に殺生肯定の論理が含まれているとする提起は刺激的である。宗教と戦争の関わりは日本に限らず、また現代にも通じる普遍的な問題である。それは宗教内部の論理なのか、宗教外の社会・経済的な要因によるのか、日本仏教を鎮護国家仏教とひとくくりにできるのか、などまだまだ検討すべき点があるものと思われ、議論はつきないところで当日は時間となった。

5月特別例会報告 「淡路島出身・島田邦二郎の『自由民権』の憲法構想を学び顕彰する集い」  
共催   大阪民衆史研究会・治安維持法国賠同盟淡路支部結成準備会
講師  島田 耕さん(本会副会長)
     高島千代さん(会員・関西学院大学法学部教授)
     田中隆夫さん(会員・治安維持法国賠同盟兵庫県本部)

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予想を超えて51名が参加
 5月11日(日)、淡路島の洲本市総合福祉会館で「淡路島出身・島田邦二郎の『自由民権』の憲法構想を学び顕彰する集い」が開催された。大阪民衆史研究会と「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟淡路支部結成準備会」(以下、「準備会」)の共催だ。
 当日は、18時からという遅い時間にもかかわらず、参加者は、51名にのぼった。会場は定員30名だったため、急遽、広いホールに切り替えることになったが、それほど、想定したよりも多くの方にご参加いただけたということである。「準備会」の皆さんの熱意、そして事前に朝日新聞神戸総局に開催記事を掲載してもらったことが大きかったのだろう。それにしても、淡路出身の島田邦二郎について、これだけ多くの地元の方々に、その一端でも伝えることができたことは、私にとっても大きな喜びだった。
「立憲政体改革之急務」が自由民権百年運動のなかで発見されたのが1985年、江村栄一さんが全文を翻刻したのが1989年(江村栄一編『日本近代思想体系9 憲法構想』岩波書店)だから、それから30年目の年に、奇しくも、邦二郎の郷里、淡路でその学習会が実現したわけである。

地元淡路で語られる邦二郎の憲法構想
 学習講演会の講演者・トップバッターは我会の島田耕さんだったが、島田さんも、邦二郎・彦七おじいはんのこと、ご自分の家・歴史を回想されながら、ようやくここまできたという思いだったのではないだろうか。お話しの最後に少し涙ぐまれていたのが印象的だった。学習会が終わってからも、「一つ階段を上った実感」を吐露されていたが、その点にも、今回の会がもっていた意義が示されている。民権研究者の間では高い評価を与えられていたものの、地元・淡路ではよく知られていなかった島田邦二郎が、ようやく郷里に認められたのだから、ご子孫でなくとも、大きな感慨を持たざるを得まい。 島田さんの後は、私の方から「淡路の人、島田邦二郎の思想―『立憲政体改革之急務』を中心に」と題して1時間ほど話をした。まずは「立憲政体改革之急務」(以下、「急務」)に至るまでの邦二郎の人生を三期にわけて紹介し、邦二郎・彦七の肖像写真、邦二郎の筆写した交詢社「私擬憲法」、邦二郎の蔵書中、書き込みのあるミルの原書についても写真でみてもらった。その上で、邦二郎は、急進派の思想理解から出発しつつも、のちに改進党的なイギリス立憲制への志向を強く持つに至った自由党系政治家であると論じた 「急務」については概要を紹介したが、その主張の特徴は立憲政体を「改革的ノ政体」なりと論じたことにあり、ここに見られる「急務」独自の動態的な立憲政体イメージからすれば、明憲法体制は不動のものでなく改革していいものだということになる。また「急務」にみられる、「自由民権」「三大事件建白」など明治10-20年代政治思想の集大成は、少なくとも淡路において、明治10年代の運動・思想が、明治の国家・憲法が成立する明治20年代でも途切れることなくつながっていたことを示している。「ですから淡路の皆さんは、これについて、もっと誇りに思ってよいのではないでしょう」かと述べて、話をしめくくった。
立憲主義とは多様な人々の意見によって日々新たに形成されていくもの、造り直されていくものだという、「急務」の根幹にある主張は、ひるがえってみれば、現在の日本国憲法にもあてはまるものだろう。私自身、以前から、「急務」は「護憲」という立場がもつ本当の意味を考えさせてくれる主張だと考えていたので、もし時間があれば、そんな話もしたかったのだが、残念ながら時間切れだった。

現代とつながる邦二郎の問題意識
 最後に田中隆夫さんが、島田邦二郎にはじまり、宮崎駿、さらに現在の朝ドラ『なつぞら』のモデルとなった奥山玲子さんに至るまでの、「人間の誇りを守り希望をもった人々」、あるいは「戦争反対で活動した人」のつながりを紹介。信念をもった行動が必ず「つながり」をもたらすこと、そこにこそ運動の希望のあることを述べて、同盟「準備会」、その再出発を力強く励ました。田中さんのお話は、今回の「集い」の趣旨と、島田邦二郎の研究・顕彰との接点をうまくつなげてくれるものだったと思う。
 残念ながら、質疑応答の時間がなくなってしまったので、それぞれの講演について意見交換することはできなかったが、終了後の交流会には洲本・南あわじの市議を含む20名が参加され、邦二郎や淡路の政治状況など、色々なお話しをすることができた。淡路玉ねぎのスープや淡路牛なども御馳走になってしまい、本当に楽しい時間だった。
 その時にも感じたことだが、「準備会」の皆さんは、淡路の地域史について非常に よく勉強されている。実は「集い」が開始する前に、「準備会」のメンバーが5人ほど集まり、島田耕さんの案内で、淡路文化史料館を訪問。「急務」の閲覧や所蔵庫の見学もさせてもらったのだが、その時に、集まった皆さんは淡路の古代史・中近世史などついても、実によくご存知だった。   島田邦二郎史料集成が刊行されたことで、大阪民衆史研究会の邦二郎研究が一段落したことは確かだが、島田家の経済基盤から文化活動・ネットワークの広がりに至るまで、邦二郎研究の課題は未だ多く残っている。今回、淡路でこのような会をもてたことをバネに、これからは地元・淡路の人びとと手を携えて、新たな研究へと踏み込んでいく必要があるのではないか。その意味で、大阪民衆史研究会の島田邦二郎研究も、再出発なのかもしれない。こうしたことも含め、今回の学習講演会実現にあたっては、堀井裕右さんをはじめ「準備会」の皆様には本当に色々なことを教えていただきました。末筆ながら、関係者の皆様に、心より感謝を申し上げます。
                                                             文責・高島千代

4月例会報告 「堺町歩きフィールドワーク(北庄を中心に)」案内 竹田芳則さん(会員・堺市立北図書館)

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 堺市堺区にある旧市街地は、1945年の空襲により壊滅的な被害を受け、その後の高度経済成長期の開発により、近世以来の歴史都市としての景観もほとんど失われてしまいましたが、そのなかで戦災以前の町の面影を比較的残している地域を中心にまち歩きを行いました。

当日の主な日程
 南海本線七道駅(集合)→「放鳥銃定限記」石碑→清学院→鉄砲鍛治屋敷→大道(紀州街道)→水野鍛錬所→山口家住宅→寺町・農人町・土居川公園→覚応寺→西本願寺堺別院(堺県庁跡)→妙國寺→堺奉行所跡→菅原神社→大小路→開口神社→さかい利晶の杜(解散)

「放鳥銃定限記」石碑と柳原吉兵衛
 大正3年(1914)に南海七道駅近くの運河掘削工事現場から「放鳥銃定限記(ほうちょうじゅうていげんき)」と題する377文字の漢文が刻まれていた石碑が発見された。石碑は江戸時代初期の堺における鉄砲関連資料として貴重で、江戸時代の試射場がこの近くにあったことを示す。開削工事の発起人であった堺の実業家 柳原吉兵衛が昭和3年(1928)、自然石をくりぬいた中にはめ込み、吉兵衛が経営していた大和川染工所の前庭に建立し、その後堺市に寄贈された。
 柳原吉兵衛は、具足屋という江戸時代からの有力な商家で、今も続く大和川染工所という工場を創業した人物。クリスチャンとしても知られる。昭和初期、この附近は大和川染工所のほか大日本セルロイド(ダイセル・現在のイオンモール)などの大工場と、そこで働く朝鮮人や沖縄出身者が多く住む地域であり、岸和田紡績堺分工場の争議を指導した労働組合の事務所もあった。

七道浜から北旅籠町へ
 七道駅は堺の北北西のまちはずれにあたり、元禄2年(1689)の堺大絵図(『元禄二己巳歳堺大絵図』前田書店出版部、1977年)で「神輿道」と書かれた付近。近世初期には「七道浜墓所」という堺の四墓の一つが存在したが、のちに移転。駅ガードをくぐり町の入口を左に北半町、右に北旅籠町の間の道を入ると、元禄堺大絵図で、その境内が「非人借宅」としている宗宅寺と道を挟んで「ひじり屋敷」がある。七道浜墓所を管理する賎民とされる「三昧聖」が住んでいたが、墓地の移転に伴い環濠外に移住した。

河口慧海(かわぐち えかい 1866〜1945)
 黄檗宗の僧侶で、仏陀本来の教えの意味が分かる物を求めて、梵語の原典とチベット 語訳の仏典入手を決意して、1900年(明治33)日本人として初めてチベットへの入国を果たした。
 現在の堺区北旅籠町の樽職人の長男に生まれた慧海は6歳から寺子屋の清学院に通い、その後は泉州第二番錦西小学校へ通学した。15歳の時、同い年で近所の商家の跡取り肥下徳十郎(ひげ とくじゅうろう1866〜1915)と出会う。二人は友情を深め、漢学塾「晩晴書院」にも一緒に通い、徳十郎は「無二の親友」として慧海のチベット行きを物心両面で支えることとなる。近年、徳十郎の子孫宅から慧海直筆の日記・手紙・写真など21点の資料が発見された。このうち日記帳は、インドで2回目のチベット行きの準備をしていた慧海の日々の行動が記されている。頁の後半で中央部が四角く刳り抜かれており、遺書などを収めた箱を堺の肥下家に送った際に、鍵を入れた小箱を日記帳の中に隠して別送したものと考えられている。

堺鉄砲鍛治屋敷
 種子島伝来の鉄砲製法が堺に伝わり、堺は日本一の鉄砲生産地になった。江戸時代から続く堺の鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗で、元禄堺大絵図にも記載されており、わが国の町家建築としても最古に属するとともに、堺を支えた鉄砲の生産現場が残されている建物としても貴重である。昨年(2018年)ご当主より堺市が建物寄贈を受け、現在その公開と活用に向けて整備中。
 最近ここから江戸時代〜明治時代にわたる総点数2万点を超す古文書等が発見された。堺市と関西大学が共同研究調査として2015度より4年間、鉄砲鍛冶屋敷の史料調査を実施し成果の一部が報告書として刊行された。鉄砲の注文から代金の引き渡しに至る江戸時代の鉄砲ビジネスの仕組みが初めて明らかになるなど、日本の鉄砲生産の歴史を書き換える貴重な成果となっている。

元和の町割
 大坂夏の陣(1615)前哨戦で、大坂方の大野道犬により堺は全て焼き払われたが、戦後まもなく、徳川幕府の命により、新しい都市計画による地割(区画整理)が行われた。これを「元和の町割」といい、当時の堺政所(堺奉行)の長谷川藤広の下、地割奉行となった風間六右衛門の指揮により実施された。中世以前から、堺の町は真ん中に東西の大小路と南北の大道(紀州街道)が直角に交わっていた。大小路は、堺の町を摂津国の北庄と和泉国の南庄を分ける国境線として認識され、「堺(さかい)」の名称の由来と考えられている。元和の町割では、道すじを大道と大小路を基準として、縦は大道に、横は大小路に平行に造られ、町の外周三方に堀をめぐらした。
 大道(紀州街道)と平行する道の幅を見てみると、大道が4間半(8.1m)であり、東西にその次のすじが2間(3.6m)、その次が3間(5.4m)とたがいちがいとなっている。 1872年(明治5)の町名改正により、大道沿いの町名に東西に2ブロックごとに番号をつけた名称に整理された。現在、堺市の住居表示では「北旅籠町西一丁」というふうに「丁目」ではなく「丁」と表示されているが、近世の一つの町単位を丁(=町)とした名残りである。東側の堀(土居川)に沿って、町の一番東に農人町がつくられ、堺廻りの田畑を耕作する農民に居住させ、他都市に見られない構造となっている。農人町の内側には寺町がつくられ、以前に町なかにあった寺院が、南北に細長い地域に並べて配置された。地割奉行の風間は熱心な日蓮宗信者であったが、寺町の地割において日蓮宗の寺院に広い敷地を割り当てたとして、他宗から不平や反感が高まり、事情聴取のため幕府が風間に江戸に来るよう命じたところ、風間は堺の町はずれで自刃したとのエピソードが残る。

堺事件
 慶応4年2月15日(旧暦。太陽暦では1868年3月8日)に堺町内で起きた土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷(攘夷)事件、及びその事後処理を指す。事件後、新政府の外国事務局判事五代友厚らがフランス側と交渉し、隊長以下土佐藩士20人を死刑とし、執行場所を堺の妙國寺とすることが決められた。刑執行に立ち会っていたフランス軍艦長が11人が切腹したところで中止を要請し、結果として9人が助命された。事件を題材に、森鴎外が1914年(大正3)に歴史小説『堺事件』を発表したが、これについては大岡昇平が、晩年の作品『堺港攘夷始末』において、鴎外による歴史の「切盛と捏造」を厳しく指摘している。その背景に、明治政府内の高知県士族による堺事件「殉難者」を靖国合祀、国家として顕彰する動きがあった。

3月例会報告 武内善信さん(元和歌山市立博物館・元和歌山城整備企画課学芸員)「石山合戦と雑賀一向一揆」

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先祖は石山合戦に参加した
 武内さんは、元和歌山市立博物館学芸員および和歌山城整備企画課学芸員であった。本来は大逆事件など近代史の専門家で、現在は南方熊楠研究会会長でもある。そして和歌山市内の浄土真宗本願寺派寺院善勝寺(天正元年開基)の住職でもある。「石山合戦」の始まる頃にできた寺の先祖は同合戦に参加したという。雑賀衆調査に関わったのは和歌山市立博物館で開催された「石山合戦」の展示がきっかけだった。

通説と実体のちがい
 調査を始めて、世間の歴史常識と言われていることと実体とは違うことがわかってきた。「雑賀衆」の通説は「室町時代後期、紀州鷺森御房を中心に結束した本願寺門徒」(国史大事典)、「雑賀一揆」の通説は「石山合戦期、紀伊国雑賀を中心に蜂起した一向一揆」(日本史大事典)である。しかし、「雑賀衆」と「雑賀一向一揆」とは区別すべきことがわかってきた。さらに、「石山合戦」という歴史名称について、最近、秀吉の大坂城が平地に石を積んで城にしたことから「石山」と呼ばれるようになったという説が出され、戦国時代に本願寺は大坂本願寺と呼ばれており、石山本願寺の呼称は後世の呼び名であるので信長との戦いを「石山合戦」とする名称は時期的に無理ということになった。「大坂本願寺合戦」とすべきところだが、この名称も使いにくく、将来的には使用されなくなるとはいえ、現在は「石山合戦」の通称を使わざるを得ないという。

「雑賀衆」と「雑賀一向一揆」のちがい
 「雑賀衆」とは惣村(中世の村落のかたちで、村の運営に有力農民、地侍、土豪などが参加する自治組織を形成)を単位とする地縁でむすばれた集団を指し、現在の和歌山市域と海南市など周辺地域に惣村(全体で36村)の連合体が5つあり、雑賀庄(和歌山市西部の中心地域に13村)、十ケク(紀の川右岸に6村)、宮ク(日前宮附近に2村)、中郷(岩橋など7村)、南ク(大野など8村)を「雑賀五組」と呼んだ。これに対して、「雑賀一向一揆」とは「雑賀衆」の中の一向宗門徒および「雑賀衆」以外の一向宗門徒が地縁に関わりなく一向宗(浄土真宗)の本末(本寺<本山>と末寺の階層関係)で結ばれた関係である。つまり雑賀衆という地縁的集団は一向宗門徒もその他の宗派も含んでおり、雑賀一向一揆は雑賀衆の中にいる一向宗門徒(3分の1ないし4分の1)と、雑賀衆以外の門徒からなる。
 通説では紀州に浄土真宗の信仰が入ったのは南北朝頃で、本格的な普及は蓮如(本願寺第八世)の紀州来訪以後とされる。しかし蓮如が紀州に入る以前から仏光寺教団(真宗仏光寺派、了源が開祖)が泉州から海上または川を経て紀州に浸透し、本願寺教団も蓮如以前に泉州の海生寺(現・嘉寺)の浄光寺了真が陸路(雄山峠などの峠越え)により紀州に教線をひろげていたという(本願寺は親鸞の血統を嗣ぐ門主の教団、それ以外に門弟が結成した教団が仏光寺派、高田派など近代に至って10教団となった)。蓮如の文明18(1486)年の紀州来訪は、了真の開いた道筋をたどっている。紀伊の真宗は、仏光寺派の真光寺末(泉州にある大寺真光寺の末寺)や性応寺末、本願寺教団の浄光寺末など諸派が入り乱れ、同じ村にいくつもの寺がある。その中で紀州における蓮如の最初の直弟子とされた清水(現・冷水)道場の了賢に二尊像(親鸞と蓮如の連座画像)が下付された。本願寺では親鸞画像は特別の意味があり、各地の門末が地域の拠点的な寺院に置かれている親鸞画像に出仕する義務がある。親鸞画像が置かれた了賢の清水道場は紀伊の拠点的な道場(正式な寺格のない修行場)となった。重要な港である清水は真宗の陸と海からひろがる教線の結節点であり、以後清水を中心に真宗の普及拡大がすすんだ。その後親鸞画像の移動と共に清水道場は黒江、御坊山、鷺森御坊へと発展する。

「石山合戦」と雑賀一向一揆
 雑賀衆は、「石山合戦」開始の頃は本願寺方とはいえなかった。紀伊の守護畠山秋高は信長の娘(養女)を妻としているような背景もあった。特に阿波の「上桜合戦」では、三好長治の傭兵として参戦し、本願寺方の篠原長房を攻め滅ぼしている。しかし、天正2年頃、雑賀門徒衆は積極的に本願寺方に味方することになる。その理由は、@信長と関係の深い守護畠山秋高が家臣に殺され守護の統制がなくなったこと、A足利義昭が信長と対立し、紀州由良の興国寺で反信長戦線の結成をはかり、雑賀は足利将軍を選んだこと、B最近の発掘調査の結果、石山合戦の最中の天正2年に大坂本願寺が鷺森御坊(和歌山市駅の南方向)に当時最大級の幅約17mもの堀(掘った土は土塁として利用される)の増築整備を行ったと考えられることから、本願寺が退去してきた際の防御用堀であると推定されることなどで、天正2年の時点で、雑賀門徒衆とその他の地域の門徒衆からなる雑賀一向一揆が成立し、本願寺方の主要な勢力として「石山合戦」の前面に登場したものと思われる。
 ただ本願寺関係資料に登場する「雑賀衆」は、「雑賀一向一揆」の意味で使用されているので注意を要する。
  天正4年以後、「石山合戦」における雑賀一向一揆の活躍はめざましく、天王寺砦の戦いでは信長も鉄砲で足を狙撃され、鈴木孫一と本願寺の重臣下間頼廉の偽首を京都でさらして両名を倒したという流言を流すほど苦戦している。その後第1次木津川の海戦で毛利・雑賀の水軍が織田方の水軍を破り石山への補給を確保した。これに対して、信長は天正5年、本願寺を支える主要勢力の雑賀一向一揆の攻撃を行う。根来衆と雑賀の宮ク、中郷、南クは信長方につき、雑賀庄と十ケクが雑賀一向一揆の中心として信長軍と対峙した。このとき、南クの大野莊は一向一揆勢と反一向一揆勢に分裂し、鈴木孫一が 大野の一向一揆側を支援して勝利した。中郷も門徒勢が多く、内部分裂していた。宮クも一向一揆勢が優勢になるに及んで、わびを入れてきた。信長は、戦況不利で、毛利の圧力もあり、紀州から撤去せざるを得ず、雑賀一向一揆側に形式的な誓詞を出させて退去した。(教科書・副教材などに、このとき雑賀一向一揆が信長に敗れて従ったという記述があるが、あきらかに雑賀一向一揆が信長に勝利した戦いであった。)

「講和」以後の動き
 天正8(1580)年、本願寺と信長の講和が成立、顕如は大坂を退去し紀州の鷺森御坊に入った。雑賀一向一揆の役目も終わった。このとき、雑賀一揆(この場合の一揆という言葉は、百姓一揆などの闘争的な意味に限定されるのではなく、自治組織としての集団、一味のような意味である)は存在するが、その中の勢力バランスが変化した。鈴木孫一や非門徒の土橋平次の力が相対的に強くなった。「石山合戦」講和後の天正10年、両者の確執は木本の土地争いをめぐり激化し、また信長につくか四国の長宗我部につくかの路線対立もあり、鈴木孫一が土橋平次を殺害した。さらに信長の支援を受けて鈴木は土橋の砦をも陥落させる。これは紀州の水軍をおさえたかった信長が、紀伊湊に勢力を持つ土橋を鈴木と連携して追い出そうとしたためである。しかし、本能寺の変(一説には信長の四国政策が変化して長宗我部と対立し、これに明智光秀が反発したという)で信長が討たれると土橋残党が反転攻勢に出て鈴木孫一は雑賀から退去する。
  そして天正13年秀吉が紀州攻めを行い、大田城水攻めと開城によって雑賀は終焉をむかえる。
 (*報告中、被差別民と真宗教団の関係の有無、沙也可と雑賀衆との関係の有無についても触れられたが、いずれも十分な時間をとれなかったので、ここでは省略する。)
 質疑交流ではたくさんの質問意見がだされ、活発な交流が行われた。
 特に雑賀一向一揆が信長を悩ました鉄砲戦術についても多くの質問意見が寄せられた。火縄銃が日本に導入された最初の頃は、非常に稀少で高額であったので、武内さんは「フェラーリのようなもの」と例えられた。それがのちに大量に生産されて価格が下がり、消耗品となった。現在、戦国時代の火縄銃はほとんど残っておらず大徳寺に天正銘のものが1丁置かれているという。また鉄砲は種子島に初めて伝来したというこれまでの定説も修正され、最近は東南アジアなどから分散波状的に日本国内に入ってきたということが定説になっているという。

2月例会報告 高谷 均さん(会員・元府立高校教諭)「永井孝弘氏 特別幹部候補生の修養録について−アジア太平洋戦争末期の下士官候補生の訓練日誌」

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特別幹部候補生
 報告者の親戚である故・永井孝弘氏は旧制中学4年終了後、1944年4月に陸軍特別幹部候補生として第1航空情報連隊第五中隊に入隊した。永井氏が隊内で記録した訓練日誌「修養録」が、よくわからない遺品として家族から高谷さんに託された。それは調べて見ると思いがけない貴重な史料であった。
 「特幹」と称された陸軍特別幹部候補生の制度は、現役下士官(将校・準士官の下位、一般兵士より上位に位置する階級、旧陸軍では曹長、軍曹、伍長にあたる)を補充する目的で設けられた。それまでは下士官は、一般兵士からのたたきあげで育成されたが、学徒動員直後の1943年に創設され海軍の予科練に相当する。募集は15〜20歳(中学4〜5年)を対象に、算数・作文・身体検査面接という内容の試験に合格すれば兵籍に編入され、採用時は一等兵、訓練後に伍長で任官の予定であった。兵種は航空と船舶が多く、これは「戦況悪化の反映?」とも考えられる。通信兵が多く、船舶要員は多くが特攻隊員にまわされたという。

「修養録」に見る訓練生活と日本軍レーダーの実体
 永井氏は採用後、静岡県磐田市の第1航空情報連隊(通称中部129部隊)という訓練師団の第5中隊に入営し、その後第7中隊を経て第6中隊に最終的に配属された。部隊は東海道の見附宿付近、戦後は静岡大学農学部が置かれ、現在はかぶと塚(古墳)公園の位置にあった。入隊後4ヵ月の新兵訓練の後、第2期教育として地上レーダーの訓練を受けた。「修養録」(隊内で記録する個人の訓練日誌で上官が点検し朱で評が書き込まれる)が書かれるのは第6中隊配属の8月からである。保存の良い「修養録」表紙には右上に「錬成中隊篇」、中央に「修養録」の表題、左下に横書きで貯金通帳番号と帯剣番号が書かれている。氏名の前にある「市川隊平野班」は市川中隊長と平野班長の名前を示す。陸軍の地上レーダーは通称「タチ」と呼ばれた。「タ」は開発した陸軍多摩電波技術研究所のあった多摩の「タ」、「チ」は地上用の意味。野戦用はトラック4台で運び、日本電気が設計、東芝製真空管を使用した。メーカーはほかに岩崎、松下も関わっている。第2次大戦時のレーダーは、イギリスは地上固定式、アメリカはトレーラーの車載移動式、日本が車載のままの型式であった。レーダーは当時「ラジオロケーター(英)」と呼ばれていた(日本では「電波探知機」)。英軍が独軍のロンドン空爆作戦を 撃退した背景にはレーダーを活用した英空軍の活躍があった。原理は電波を発信して探索の対象物にあたってはねかえってきた受信波をオシロスコープで読み取るものでアンテナを対象物のある方向に向けた時のみ受信波が返ってくるという限界があった。現在のような円形の画面に広い範囲からの受信波をひろうタイプは、アメリカで開発されたPPIという装置であった。アメリカはこのレーダー装置でB29が本土攻撃した際には、海中の機雷や爆撃目標物の確認を行っていたという(参加者の辻本氏談)。
  訓練は送信機・受信機・電源の設営と接続、受信波読み取りなどを地上固定式のもので計100時間ほど行われたが、故障も多く指導法も不統一で感電事故もあった。
 兵舎は中隊毎に置かれ、中隊の編成は中隊長と隊付士官、班長・下士官、古兵・上等兵・古参1等兵、候補生・特幹1等兵で「候補生殿」と呼ばれる正体不明の兵隊がいたが学徒動員で士官になれなかった「落ち幹」かもしれないという。体罰は紛失物の未報告や上官批判の感想文などが原因で、行ったのは週番士官や隊付兵長であった。永井氏のいた第6中隊では古兵のいじめなどはあまり見えなかったが、班により事情が異なるのか?訓練部隊は入れ替わりが多いので体罰、いじめが伝統化しにくかったのだろうか?特に第6中隊では人徳者の長田兵長の存在が古兵への牽制になっていたとも考えられる。

転属と機上レーダー訓練
 突然の試験の合格者が9月中旬に東京国立の東部92部隊に転属となった。東京商大(現・一橋大学)の接収地である。大学の立派な建物、設備、士官の多さに戸惑ったという。10月下旬に対外演習で三浦半島に行ったが、3度の米飯など好待遇であった。
 11月に水戸航空通信学校で機上レーダー(飛行機搭載レーダー)の演習が行われた。実戦態勢を思わせる指揮系統となり、私物整理が指示される。この頃には空襲が本格化している。特攻を鼓舞する訓話が行われたり、このことは逆に士気の低下を招いている。修養録には家族の記事が増え、富山からは父親が面会にも来るようになった。
 飛行訓練が始まり、武装をはずした百式重爆撃機呑龍U型丙機に「タキ」1号レーダーを搭載した。「タキ」とは、「タチ」レーダーの機上型である(キは機上を指す)。地上型と同じ原理のレーダーを搭載している。初期の地上レーダー(大型遠距離警戒レーダー)を飛行機に載せているのは日本だけで、欧米ではもっと精密なcm単位のレーダーがすでに使用されていた。飛行兵ではない候補生を飛行機に乗せたため(候補生が順に1名づつ搭乗)、 多くが飛行機酔いでおう吐した。搭乗員は候補生以外は下士官以上なので緊張して連携がとれなかったりした。離陸後に機長がいきなり電源を切断しレーダー画面が消えてあわてるようなこともあった。訓練内容は目視偵察や照明弾投下が多く、本来の索敵行動とは思われない。1月に訓練が終わり永井氏は隊付補助として原隊に留まり、階級は兵長に昇進した。6月、部隊は富山飛行場に疎開したのち終戦で水戸にもどり、そこで除隊した。
 質疑交流では活発な意見交換が行われた。特に辻本 久さんは、「特幹の歌」を憶えていて歌ってみせてくれた。またレーダーに関する知識も豊富で、自身が船員であったこともありくわしい説明をされた。イギリスのレーダーには、日本の八木博士が開発した八木アンテナが応用されていたことなども報告された。

記念講演 新井勝紘(かつひろ)さん(本会会員・元専修大学文学部教授・高麗博物館館長)「『五日市憲法』の先駆性−発見から50年、今学ぶこと」

記念講演の写真

「五日市憲法」との出会い
 冒頭、新井さんは今回の『「立憲政体改革之急務」島田邦二郎史料集成』(以後『史料集成』)の出版について、1980年代の「自由民権百年」運動の頃にこの史料が発見注目され、その後30年を経て今回1冊の本となり史料の全貌をとらえることができた。これにより自由民権期最後の1880〜1890年代の国民の国家・憲法構想にふれることができた。このことは自由民権運動研究の久しぶりの成果であると述べられた。
 新井さんは在学していた東京経済大学の色川大吉教授の近代史ゼミの共同調査で「五日市憲法」に出会った。研究テーマの検討をしている頃、佐藤栄作首相が「明治百年祭」を行うことを公言していた。「明治百年論争」が起こり、「バラ色論」と「めでたい百年のはずがない」と否定する意見にわかれていた。名著『明治精神史』を出版したころの色川教授は学徒出陣などを体験し「めでたいはずがない」と言っていた。明治百年をどうしたら相対化できるのか、まず足元の歴史から見直すことを決め、OBらの調査の伝統を継ぎ多摩地区の調査をすることになった。当主が代わった深沢家に申し込んだが最初「ガラクタしか無い」と断られ、再度申し込み承諾を得、1968年8月27日に調査に入った。   五日市の深沢家土蔵は多摩地区西部にあり、東京から電車で1時間半の終点の駅。バスはなく、山に向かって歩き1時間ほどの道。ここが東京?というような所に朽ちかけた土蔵があった。深沢家は名主で母屋は既に引っ越して現地には墓地と土蔵、立派な門 だけが残っていた(土蔵は現在東京都史跡となり修復されている)。当主も滅多に入ったことの無い土蔵に裸電球を引いて、ゼミ生が手分けして入り調査を行った。新井さんは2階部分を担当、偶然竹製の文箱を開けるとふろしき包みが出てきた。あけたとたん、劣化していたふろしきが紙のようにボロボロにくずれた。その中に、もっとも重要な「五日市憲法」の史料がまとまって入っていた。上から「五日市学術講談会」などの結社の記録が、下に憲法案が24枚の和紙に綴られて入っていた。見出しに「日本帝国憲法」とあったので、最初は「大日本帝国憲法」をうつしたものではないかと思った。それが今では中学・高校の日本史教科書のほとんどに紹介されている「五日市憲法」だった。
  その後半世紀、さまざまのメデイアに取り上げられた。最初に読売新聞の多摩版が2ヵ月後の10月に記事にした。NHKの「明るい農村」、11PM、小沢昭一のラジオ番組でも。卒論にまとめた論文が『民衆憲法の創造』(色川編、評論社)で共著として出版された。現物は大学や憲政記念館で展示されたが、フリーアルバムに貼り付けていたものを、はがれなくなったのでそのまま桐の箱に入った「大日本帝国憲法」の隣に置くことになった。最近は時代の状況か展示からはずされる傾向だ。現在、五日市と執筆の中心となった千葉卓三郎の墓がある仙台市、生誕地の宮城県栗原市の3個所に石碑がある。

明治憲法、日本国憲法、五日市憲法、現・自民党改憲案を比較する
 『五日市憲法』は204条あり、明治憲法の76条、日本国憲法の103条の2〜3倍ある。明治の憲法草案が内容のわかるものだけで20ほどあり、200条を超す憲法案は植木枝盛の『日本国々憲按』と2つだけである。『五日市憲法』のモデルとなったのは『嚶鳴社草案』である。しかし『嚶鳴社草案』に該当しない部分が50%もあり、その中心部分が国民の権利に関する部分であり、そこに力点が置かれていることが『五日市憲法』の特徴である。主な条項で各憲法、憲法案を比較すると特に自民党改憲案の歴史に逆行する内容が浮き彫りとなるのに対して、『五日市憲法』の先駆性がより明らかだ。
 『五日市憲法』では天皇の扱いは「君民共治」であったが、国民の権利は重視され、オリジナルのものが多い。「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ他ヨリ妨害ス可ラス」とあり、日本国憲法の基本的人権の内容に匹敵する。これに対して自民党改憲案は「国民は、・・自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、公益及び公の秩序に反してはならない」とあり、「公の秩序」を誰が判断するのか、まさに戦前に、明治憲法に回帰するものだ。また「凡ソ日本国ニ在居スル人民ハ内外国人ヲ論ゼス其身体生命財産名誉ヲ保固ス」とあり日本国憲法のもとでさえ固く守られていないことが掲げられている。そのほか、「教育の自由」「地方自治権」「立法権の優越」「国事犯の死刑の禁止」 など日本国憲法に匹敵するか、それ以上の先駆的な内容に注目される。『五日市憲法』は204条の内国民の権利をもっとも重要視しており、行政に憲法を守らせるという立憲主義の立場を明確にしている。安倍政権の改憲の立場が憲法を国民に守らせるものと意図していることとは明らかに異なっている。
 その点で植木枝盛の『日本国々憲按』もストレートに国民の権利を条件なしに明記し ている。第四十四條「日本ノ人民ハ生命ヲ全フシ四肢ヲ全フシ形態ヲ全フシ健康ヲ保チ面目ヲ保チ地上ノ物件ヲ使用スルノ権ヲ有ス」は戦後の民間組織「憲法研究会」が、これを参考に『憲法草案要綱』を作成し、GHQに提案してそのまま採用されたに等しい(鈴木安蔵談)とのこと。

『五日市憲法』は誰がどのようにつくったのか
 どういう人たちがこれをつくったのか。ふろしきに包まれていた史料の一番上に置かれていたのが結社の記録だった。「学芸講談会」という結社の盟約には、討論し各自の 知識を交流するだけではなく、「気力ヲ興奮センコトヲ要ス」とあり、会員は「互イニ相敬愛親和スルコト一家親族ノ如クナルベシ」としている。単なる知識の交流だけではなく気力を高め、濃密な人間関係と相互扶助的な組織を構想していたことがわかる。また「五日市討論会」では、女性(女戸主)参政権や二院制の是非など、賛否両論のテーマを選び、月三回、10ぐらいのテーマを選び討論し論理的思考と相手を論破する力を養うことをめざしていた。深沢家土蔵からはそのほかの資料として、各国の憲法資料、法律関係の外国書籍、主な外来思想書など膨大な資料があり、レベルの高い討論とこれらの資料の読み込みを経て憲法案ができあがったと思われる。その中心にいたのが宮城県からさまざまな経路、経験(ギリシャ正教の信徒となるなど)を経て東京の五日市に来た千葉卓三郎だった。

明治憲法発布(1889年)前後の状況と『立憲政体改革之急務』の位置
 1880年の国会期成同盟大会のアピール「明治14年大会までに各地域で憲法を起草し持ち寄って憲法草案を作成する」を受け明治憲法発布前に101種類の私擬憲法が起草された。この時代を憲法の時代第1期としている。『五日市憲法』もその中の一つだ。
 1880年代後半になっても憲法起草の運動は続いていた。86年から一般からの憲法草案募集の動きが星 亨の「燈新聞」などを中心に出てくる。一方、政府の憲法案を公開させ、国民の意見を反映させようという動きも「朝野新聞」などに見られる(1885年)。三大事件建白運動の中でも「憲法の公示」を要求している。憲法諮詢会なども憲法の逐条審議を要求している。   明治憲法発布後も全国各地で憲法を学習・討議するための憲法研究会が起こっている。埼玉県草加では百名ほどが集まり、東京赤坂でも「赤坂区憲法研究会」が、帝国大学でも学生による憲法研究が行われている。発布後も民間での憲法論議は積極的に憲法が論じられていることがわかる。「朝野新聞」に掲載された「憲法に関する感情」という記事が、明治憲法発布後まだ一ヶ月経過していない頃の国民の意識の一端をあらわしていて興味深い。「・・去る二日の新富座政談大演説会に於いて、某弁士が我憲法は完全なりと述ぶるや否や、数百の聴衆は争てノーノーと叫びし由」と。国民がこぞって明治憲法を祝っていたように思われがちだが、このような状況があったのだ。島田邦二郎の『立憲政体改革之急務』執筆も、このようなことを背景に考えるとよく理解できる。

アメリカに渡った自由民権運動
 新井さんは恩師色川教授の研究を受けつぎアメリカ西海岸の邦字紙の調査を始めている。弾圧された自由民権運動家が米西海岸に渡り邦字紙を発行していた。「新日本」にはじまり「第19世紀」は1899年から59号続いた。明治政府を批判し責任内閣制などを論じている。日本では埼玉の1例のみ確認されている。その後「自由」「革命」(1号のみ)「愛国」「小愛国」と名前を変え最後に「第19世紀」にもどった。これらの新聞は日本にむけ紙の爆弾のように送られたが、発行禁止処分を受け多くが港で没収された。

コメント・質疑  
 まず会長の尾川さんから、『史料集成』と江村栄一『憲法構想』(「日本近代思想大系」9、岩波書店1989)との違いについて説明があった。ひとつは読み違いの修正。岩波版「真・善・美」(緒言P384上−4L)は『史料集成』では「真・美・善」(緒言P92,3L)、岩波版「失政スル」(第2章P39下−最後から6L)は『史料集成』では「失政アル」(第2章P104−最後から4L)に原本通り修正した。人名注で第1章「寛雑」を岩波では「カント」としたが、これは「ジェレミー・ベンサム」であると修正(第1章注10)した。
 副会長で島田邦二郎の兄彦七の孫である島田 耕さんからは、自由民権百年をきっかけとした史料発見のいきさつが語られ、出版の構想20年の末に今回『史料集成』の発刊をできたことについての謝辞が述べられた。
 執筆者の一人高島千代さんからは『五日市憲法』と『立憲政体改革之急務』(以下『急務』)の関連について以下のようにコメントされた。
 幕末から明治期にかけて日本の社会に国家・憲法を構想する気運があり、その流れに『五日市憲法』も『急務』もある。(明治憲法発布後に出た『急務』はこれらの議論を)もう一度まとめあげたものだ。(五日市憲法を書いた中心人物の)千葉卓三郎の議論も『急務』の中に生きている。『五日市憲法』をつくった青年たちの学習運動は自分たちの手で国会・憲法をつくろうとするものだった。『急務』も同じ背景を持っている。邦二郎は明治13年に慶應義塾に入学、『交詢社案』を学んでいる。神戸でも新憲法案が出され、明治10年の三大事件建白書に憲法草案の作成者たちが名前を連ねている。同時代的に各地で学習運動があり一つの構想が出来上がるときに地域毎の運動がある。この時期の日本の地域社会には国家構想をねりあげようとする気力、熱気、「人民の元気」があった。それは「わたしたちが政治主体である」という意識だ。邦二郎の『急務』の独自性は、「立憲政体」は変化する政体であるという意識だ。人民の世論にもとづく政体は変化することが当然という考え方だ。それゆえ、明治憲法発布後も、よりよい方向にもっていこうとする学習運動が続けられたのだ。
  参加者の主な質問意見は、@松江市から来られた野津庸二さんが、松江藩内で反乱を起こす計画があった気配を示すような史料が古い旅館から出たという興味深い話をされ、今後、想定外の所から資料が出てくるのではないか?と感想を交え言われた。A山内英正さんは1977年に新婚旅行で五日市の深沢家土蔵を訪ねた経験を話され当時の若者たち の議論に政治・法律問題だけではなく俳句とか文化史的な背景もあったのではないかとの疑問を出された。
 新井さんからの回答(要旨)は、@その時代の矛盾をいちばん体現している人について、色川教授は江戸時代では豪農層だと言われた(明治では戸長にあたる)。A深沢家からは漢詩集がたくさん出てきた。幕末期の豪農層の一般的な教養だった。