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2018年4月例会

と  き  4月29日(日)  午後1時半開場、2時開会

会 場  大阪府教育会館   3階橘の間

テーマ  「ジャーナリスト柳沢恭雄の研究」

講 師  赤塚康雄さん(会員)

 会報に赤塚さんが連載した柳沢恭雄についての研究紹介。柳沢はNHKに押し入った陸軍将校による銃口の恫喝に負けず「終戦の詔勅」の放送を守ったその人である。 戦後は、ヴェトナム戦争の報道、日本電波ニュースの創立など、日本のジャーナリストの在るべき姿をめざして活躍した。現在のメデイアを省みて、彼の残したものは何か、受け継ぐべきものは何かを探る。その研究の中間報告。

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3月例会報告 西田 清さん(治安維持法国賠同盟滋賀県本部)「反戦・平和にいのちをかけた久木興治カ 不屈の青春」

3月会の写真

眉目秀麗、頭脳明晰な青年革命家
 久木が青年共産同盟や日本共産党に入って、軍隊への反戦工作などをしている時に特高警察に逮捕されたように、西田さんも戦後米軍への工作などを行っていて逮捕され刑務所に入った経験を持つ。それは自分自身が久木の後を追っているように感じると、西田さんは言う。
久木は滋賀県の八日市中学校に小学校5年から受験して入学した秀才である。写真を見ると「眉目秀麗」そのものという印象だ。当時久木はロシア革命史の本を読みふけり、河上肇が編集した『社会問題研究』を購読、ロシアに渡って「社会主義」建設に参加することが夢 であった。のちに治安維持法で検挙され投獄されたことで、八日市中学校の学籍簿から除籍されることになったが、戦後周囲の尽力で同窓会に働きかけ学籍は復活することができた。
 大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)に入学後、「社研」に加入し「大阪外語読書会」を20名ぐらいで組織した。読書会が弾圧されそうになった際、彼は商家出身の同窓生の家に資料を隠したが、このときは翌日特高が来て危なく難を逃れた。こんなところに彼の剛胆にして細心のものごとに対処する性格があらわれているという。しかし、彼は受験生に読書会勧誘のビラを撒いていて検挙される。

軍隊への工作活動
 久木は1926年、大阪で組織された青年共産同盟(共青)に加盟、翌年春日庄次郎と会って日本共産党に入党する。当時春日の活動拠点は、大阪市内の千日前通りの市電の停留所に近い細工谷にあった。彼の任務は工場と青年労働者のなかに軍国主義反対の勢力を築くことであった。1927年、軍隊工への働きかけを行うことが決定され、関西地方委員会の書記であった久木は、その先頭に立つことになった。
 27年12月下旬には、大阪城近くの歩兵第8連隊と歩兵第37連隊にビラ「歩兵第八連隊及歩兵第三十七連隊の全兵士諸君!」を、28年2月11日には、ビラ「戦争で肉弾とされる兵卒には選挙権もない!」を、28年2月19日には、ビラ「国家の干城たる兵卒諸君に選挙権がない!」を兵営内に配布している。ビラは封書などに入れて隊内の兵士に郵送されたという。28年2月24日には海軍の水兵に対する働きかけが検討され、翌月10日、「兵卒新聞」が発行され久木が執筆した。軍隊内に共産党の組織を建設することも計画された。28年、青年共産同盟員の兵士中村福麿は労農党演説会で反戦演説を行い、軍法会議で懲役6年の刑となった。久木は『青年衛兵』で「兵卒諸君のために闘った中村二等卒の処罰に反対せよ!」と訴えた。

3・15事件
 1928年3月15日、田中義一内閣のもとで日本共産党をはじめとする民主団体に対する大弾圧が行われた。これが3・15事件である。日本共産党、労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟などの活動家1600名余が検挙され(うち約500名を起訴)残酷な拷問が行われた。同年6月には治安維持法をいっそう改悪するために最高刑を死刑とする緊急勅令が出された。事件の背景には、国民の中に運動をひろげようとする日本共産党とその影響力を壊滅させようとする政権側の意図がある(編集部注)。久木は28年3月15日午前4時半に検挙される。29年2月1日公判で非転向(注:「転向」とは支配権力が共産党員や同調者に「正しい方向に転じ向かうのだ」と思わせる意味で作られた用語)を貫いた。
  久木は、予審終結時の陳述で「私は従来と何等変わった感想は現在何も持っていない」、公判の最終陳述では「吾等はブルジョアジーの敵として罰せられる名誉に立っているので、ブルジョア司法に公正は望んでいない」と語り、京大教員であった村山藤四郎の解党主義(共産党の方針から君主制撤廃と大地主の土地没収を削除することを主張)に対しても、「君主制の廃止及び大地主の土地の没収の両項目はあくまで存続さすべきであり、これなくして共産主義政党とは言えない」と反論した。獄中の5年間は、大阪刑務所に入所した時に、「刑務所にいるうちはいっさい話をしない。出たらしゃべる」と言ったきり全く口を開かなかったというので、刑務所の教誨師も彼の意志の強さに感心していたという。

出獄後の状況、大阪での動向
 出獄した後、1935年10月に久木は上阪する。特高警察がつきまとい、就職するも会社に特高が来ると翌日はクビになるという状況で、職を転々とした。1936年5月に思想犯保護観察法が公布され、治安維持法でつかまった人は一生保護観察の対象となったのだ。西田さんは、久木が第2回予審尋問調書で「若し(日本共産党の)組織が無いなら『コンミニスト』(ママ)として組織をつくる必要も意識した」と語っているが、出獄後上阪して、なぜ党の建設に取り組まなかったのか疑問としている。時代は2・26事件や日独伊防共協定調印、大本教やひとのみち教団弾圧事件などが続き、1937年には日中全面戦争が開始される頃である。そのような情勢が久木の行動にも反映していたのだろうか。最後に西田さんは、1920年代の久木の先駆的な活動は評価に値するとして、このような無名の人びとの歴史を発掘することの重要性を強調された。

松浦由美子さんからの補足
 松浦さんは1980年代から「労働雑誌」の調査をすすめる中で、西田さんが書いた久木の伝記「不屈の青春」を見て、彼が上六周辺で活動していたことを知った。久木が兵士に反戦ビラを送って働きかけた第八連隊は難波宮跡、第三十七連隊は旧国立病院跡であった。共産党に入党したところは日赤付近、春日庄次郎のアジトは天王寺区細工谷に、共青関西地方委員会は千日前通の市電停留所跡にあった。松浦さんは自分のいる周辺を久木が活動していた偶然も手伝って、次第に調査をすすめることとなった。久木が出獄後、入社した「教育通信社」は都島区網島にあり、「日刊教育通信」を発行していた。この会社は「大阪府学事職員録」などを発行し、教育界と強いつながりを持っている。
 久木が、この会社に勤めるようになった経緯もよくわからない。特高ににらまれそうな活動歴のある人物が多く居て、久木が入るきっかけとなった経営者の富岡勝という人物も「大阪合同労組」にいたらしいことなど今後調査すればおもしろいことがわかりそ うだ。最大の謎は、久木が1937年7月24日天神祭の宵宮の日に大川(淀川)で溺死したとされていることだ。松浦さんは、水泳の得意だった久木が、流れの緩やかな川でおぼれるとは考えにくいこと、他の事故と違い新聞記事にもなっていないこと、などから 特高警察による謀殺ではないかとの疑いを抱いている。ところで、例会当日参加者(医師)から意外な意見が出された。久木は長い刑務所暮らしで脚気を患っていたので、泳 いでいるときに「脚気心」により不整脈が起こると心臓が止まり、大川付近の川底は5mほどの深さがあるので、沈んでしまって浮かび上がれなかったかもしれないとのこと。はたして真実はどうか、今後の調査と解明が待たれるところだ。

質疑交流
 参加者からの質問意見で上記文中に紹介した事以外で、戦前の軍国主義の時代の中、久木のような反戦と平和をめざす活動を弾圧にもめげず勇敢に行える人物の居たことに驚き、なぜこのようなことができたのかという質問には、西田さんによると、戦前にこういう先駆的な活動をできたのは、久木のような知識人の役割が大きかったという。またほかに、大阪の運動の先駆性、大阪外大の学生運動の伝統などについても意見感想が出された。

2月例会報告 塚田 孝さん(大阪市立大学文学部教授)「近世大坂の都市社会−孝子・忠勤褒賞から見る民衆世界−」

2月例会の写真

「孝子・忠勤褒賞」史料により、名もなき人々の生きざまを描く
 塚田さんは昨年12月、『大坂民衆の近世史−老いと病・生業・下層社会』(ちくま新書)を発表した。そこに詳細に描かれたのは、江戸時代の都市大坂に生きる名もなき庶民の歴史であった。そのきっかけは、大坂市中に通達された孝子褒賞(親孝行な子供への褒賞)や忠勤褒賞(奉公先の主人に誠実に仕えた者への褒賞)の詳細な理由書の史料に出会ったことである。
 松平定信が行った寛政の改革に際して、寛政元(1789)年、親孝行や奇特な行為の事例を全国調査し、褒賞(ほめて褒美を与えること)することが開始された。大坂では10月にお触れがあり、孝子等の調査が行われ、その後10年間ほどの調査をもとに享和元(1801)年、『官刻孝義録』が刊行された。摂津国78人 のうち大坂は7件21人であった。幕末までに480件余りの褒賞が市中に通達された。  当初は江戸に上申し、下知を受けて褒賞していた。当初は孝子褒賞と忠勤褒賞が重点であり、その頃の褒賞理由は長いこと、銀が下されること、教戒的な文言が見られることなどが特徴である。文化6(1809)年頃から大坂独自の褒賞が行われるようになり、その特徴は、理由が簡略、銭による褒賞、教戒文言はないことであった。 時代を経るにつれ、「年寄(町の運営にあたる役)の役儀出精(働きぶりがすぐれている)」(1812年〜)、「盗賊捕縛」(1820年〜)、「難船救助(安治川や木津川での難船の救助)」(1830年〜)などの褒賞が増加している。

孝子褒賞・忠勤褒賞のパターンと条件
 今回は、孝子、忠勤の各褒賞について、それぞれのパターンと条件につき事例をあげて報告された。
孝子褒賞のパターンは、@幼少時に親の病気や死亡のために苛酷な状況となる場合。 A生活困難な状況下、老親を抱え、献身するような場合。忠勤褒賞のパターンは、@主家が困難となるも、再建に努力する。A主家の困難が続くが、どこまでも支え続ける場合など。
 褒賞の条件としては、まず富裕な生活者は褒賞の対象とはならないこと、あくまで貧しい階層の者であることで、その行為の内容として@家業出精、A看病や身の回りの世話、B弔い、年忌の行いなどがポジテイブな中身として、またC家賃滞納や買掛(つけや借金)がないことなども条件とされた。

都市下層民衆の生活の不安定さ
 褒賞される人々の生活から見えてくることは、都市に生きる下層の人々の生活が非常に不安定であることだ。病気では眼病、盲目の事例がもっとも多く48人。聾唖者は2人。中風が14人。癇性・気むら(精神不安定)が14人など。父親の死後母親への孝行が行われる例も多い。火災も多く、転宅も多く、不安定な借家人の生活状況がわかる。特に借家人の場合、享保15(1730)年から女名前で借家することができなくなったので、養子により男名前を借りたりすることになった。

高齢者への「老養扶持」「手当米」
 子や孫の孝行への褒賞として「老養扶持」が一日米五合与えられた。また100歳以上の高齢者には「手当米」として米10俵与えられた。

都市民衆の複合的な生業構造
 褒賞の事例からわかる都市民衆の職業は、籠細工、灯心職、綿実の挽売、古綿打ち、提灯張、夜番、塩魚、青物売、煙草入縫職、釘鍛冶、下駄職、鼻緒足袋職、船頭、本綴り、夜番、大工、米仲買、醤油販売、金融関係、墨屋、歌舞伎役者、陰陽師、三味線指南などで、都市には多様な職種があり下層の民衆がいくつもの職を兼ねて生活を成り立たせていた状況がわかる。

自治組織「町(ちよう)」の姿、相互扶助的側面、複合的な生業で生活を支える人々
 都市大坂のうち商人や職人が居住する町人地(町(まち)方(かた))を構成する小単位の町(ちよう)は、独立性の強い自治体と考えられる。大坂市中は、北、南、天満の三郷から成り、北に250町、南に260町、天満に109町の計619町があった。ひとつの町が自治単位であり、たとえば道(ど)修(しよう)町(まち)は道をはさんで南北の区画が1町であった。町を構成するのは主に、町に家屋敷をもつ「家持ち」としての町人と借家人の二つの階層であった。(家持の町人から選ばれた町名主、町年寄、月行事の三役が町の運営にあたる。)
  町に関わる雑務として「夜番人(やばんにん)」がある。町の夜回りをするほか、昼間にも町内の用事を依頼されて行い、その他にも本綴り(本を綴じる仕事)などの様々な副業をする。文化7年の伊勢屋佐兵衛の事例は、両替屋に下人奉公していた佐兵衛は、主家が傾き、自らの家屋敷も売り払い借家人となり、町の夜番人として雇ってもらい、副業もしながら主家を支えた。町の相互扶助的側面と複合的な生業のありかたがわかる事例である。一方、「町代」(市役所の職員的な仕事)は町の業務をしながら他の副業をすることなく、町代の仕事に専念して、その精勤褒賞の対象となっており、夜番人のように副業をすることはないところが異なる。
  町年寄に対する精勤褒賞事例からは、文久2年の瀬戸屋九蔵の事例でわかるように紛争の解決や、困窮者の援助など相互扶助にはたした役割など町の運営に関わる町年寄に期待される事柄が見えてくる。

褒賞の前と後
 褒賞があると、奉行所からの褒美の銀(銀5枚)だけではなく、多額の祝いが各所から集まった。安政3年の御池通墨屋和平下女いその事例では、墨屋である主家の当主や 家族が中風や眼病で倒れ、下女のいそが嫁入り話まで断って、看病から商売まで引き受けて働き、東町奉行所から褒賞され銀5枚と惣年寄から銭2貫文もらったが、そのほか町内の家持個人、町代、借家人などから多額の貨幣、物品がお祝いとして寄せられた。

明治期の褒賞制度
 明治初期にはなお全国で江戸期とかわらない孝子・忠勤褒賞が継続されていた。一方、1875(明治8)年4月、ヨーロッパの制度が導入されて太政官布告により「勲章条例」が制定される。その後、7月に太政官通達「篤業奇特者及び公益の為め出金者賞与条例」が出され、各府県で独自に褒賞せよとの指示が行われた。褒賞対象の中心は、江戸期の「孝子・忠勤」であった。その後1881(明治14)年前記条例が改正された内容による「褒章条例」が公布された。明治期に制定された「勲章条例」と「褒章条例」は改正を繰り返しながら現在の勲章と褒章の制度的根拠となっており、報告者は「明治以降の勲章・褒章の明治政府による、その吸収と再編の意味や、戦後の二度にわたる見直しにもかかわらず、現在に至っている意味などを考えるには、近世以来の褒賞に込められた政治的意味を踏まえておくことが必要であろう」としている。

質疑交流から
 参加者から多くの質問意見が出された。主なものとして、(問)奈良時代以降の日本や中国でも、孝子褒賞にあたるようなことはあったが、近世後期に行われた背景は何か?(答)18世紀末から19世紀にかけて一揆、打ち壊し、若者の博打のはびこりなど社会秩序の動揺が続いたことに対して儒教的な要素で締め直そうとしたことが考えられる。(問)褒賞を媒介にして、町などから金品が寄せられることは相互扶助につながるので、褒賞は、そのような位置づけ(救済)が考えられるのか?(答)褒賞は救済目的ではない。(問)遊女などの階層も褒賞されるのか?(答)遊女などは、ある意味で自己犠牲の究極の姿として考えられるので褒賞の対象となりえた。
 報告中、大坂の道修町などの詳細な絵図が示された。そこには、「吉兵衛」や「しな」、「ゆき」などその町に生きた個人の名前が浮かび上がっていた。塚田さんは著書の中で「歴史のかげで、ひっそりと、しかも懸命に働き、誠実に生きた人々に無限の価値を見出しうるような歴史学でありたいといつも思っている。・・・そうした人々が歴史をつくってきたのであり、それを明らかにすることはとても楽しい」と語っているが、本研究会の原点とも通じる内容の報告であった。なお、会長の尾川先生の先祖が、『官刻孝義録』に記載されているという意外な事実も知らされた。

1月例会報告 辻本 久さん(会員)、横山篤夫さん(会員)「記録に残されなかった阪南市の空襲」

1月例会の写真

泉南の空襲記録を書きかえる発見
 大阪府下の空襲の研究では、大阪市内、北摂地域などの調査がすすんでいるが大阪府 南部の泉州地域の研究は遅れている(小山仁示『大阪大空襲』参照)。横山篤夫さんは小山さんからも励まされて泉州地域の聞き取り調査を行ってきた。最近の研究では2016年5月例会で報告された英国艦隊による泉州一帯の空襲攻撃事件がある。この報告内容に注目した阪南市在住の辻本さんが、横山さんに地元阪南市の空襲事件のことを連絡し、これが今まで公的な記録にない新しい事実であることが確認された。横山さんから指摘を受け、辻本さんがさらに調査を行った結果が、今回の報告につながった。それは1945年8月8日に現・阪南市の海岸部であったP51戦闘機による攻撃で死者3名の被害があった事件で、このことは警察署の報告にもなく、その後公的な記録に残らず、阪南市史(旧・阪南町史)にも記載されることはなかった。そういう意味で、今回の発見は泉南地域における空襲研究を書きかえる内容となり、各紙にも大きく報道された。

報告者本人が目撃体験した空襲
 辻本さんは昭和10年生まれで現在82歳。空襲当時は小学校4年生であった。当日(1945年8月8日)の午前11時半頃で快晴だった記憶があるという。家の土間にいると、突然「バリバリバリ」という音(機銃の発射音)と超低空で飛んでいると思われる飛行機の爆音が聞こえた。村出身の予科練のパイロットが超低空で飛んでいたのを見たこともあり、飛行機の爆音であることがわかった。山側から海にむかって村の木造船の造船所から船が進水しているところに機銃掃射が行われたのだ。アメリカ軍のP51戦闘機が100mほどの近距離で海に向かって飛んで行くのが見えた。ジュラルミンの銀色の機体が、翼から白い煙を流して飛び去って行くのが見えた。煙は機銃を撃った跡の硝煙らしかった。当時は、本土へ攻撃に来る戦闘機は、一般に「艦載機」とか「グラマン」(海軍の戦闘機で紺色に着色)と言う人が多かった。辻本さんは子どもながら、防空教育からか、新聞や雑誌などからの知識だったのだろうか、その戦闘機の機影を見て、すぐP51とわかったと報告されている。一方、日本の戦闘機は隼(陸軍)しか知らずアメリカの戦闘機は名前やメーカーも知っていたという。  現場は現在の南海本線「鳥取ノ荘駅」の浜側にあたり、当時西鳥取村の北地区付近、タコ釣りをしている漁師が撃たれたという情報が伝わってきた。この地域は現在も大阪湾にそって何カ所も漁港がある。当時は農家が主で漁師人口は少なかったという。船に何本も竿をつけて風に流されながらタコを釣る漁法があった。
 あとでわかった被害の全容は、地元の人が2名(うち一人は土手藤吉さん)、他地域の人で大型の機帆船(「摂津丸」)の船長らしき人が1名亡くなったという。報告者は、そのとき沖の方から棺桶を乗せた舟が浜に向かってやってくるところを目撃している。棺桶を舟の上に十字型に交差するように置いていたことを印象深く憶えているという。
 事件の日が8月8日であることは、今回の調査で地元の人の聞き取りや寺の過去帳からわかったとのこと。

P51戦闘機部隊のこと
  P51戦闘機(愛称ムスタング)は、ノースアメリカン社が英国本土からドイツ爆撃の護衛用にイギリスの要請で開発した長距離の航続距離を持つ戦闘機だ。馬力、速度、航続 ノースアメリカンP51ムスタング戦闘機 距離などにおいてゼロ戦などの日本戦闘機にまさり、ヨーロッパ戦線から太平洋に転戦、第7戦闘機集団が硫黄島上陸戦の最中に本山飛行場に移駐し、1945年4月7日から日本本土攻撃に参加した。部隊の編成は、戦闘機集団(ファイターコマンド)という上級司令部のもとで、戦闘機軍団(ファイターグループ)が複数構成され、ひとつのグループは3つの戦闘機戦隊(スクアドロン)で編成、ひとつのスクアドロンは4つの戦闘機小隊(ファイターフライト)で編成、各フライトは4機の戦闘機が所属する。ひとつのコマンドに148機が所属している。1機につきパイロットが2名待機している。関西地域は、第21戦闘機軍団(ファイターグループ)が攻撃に参加した。最近NHKでも放映された記録フィルムの中に、P51が地上を機銃掃射で攻撃する映像があり、これは機銃を発射するために引き金を引くと同時にカメラも作動する仕掛けになっているそうだ。同機は性能がよいので朝鮮戦争でも使用され現在も自家用機などに利用されている。

なぜ阪南市の空襲被害(死亡者)が記録されなかったのか。
 当時、尾崎警察署が空襲被害の把握をしていた。空襲で死者が出たという当時村の人の多くが知っていたであろう事実が警察署の記録からもれていたと考えられる。それがなぜか、あとの質疑の中でも疑問が出されたが、不明のままである。おそらくは、当時混乱していて、報   辻本 久さん     告が時間内に届かず集計漏れとなったことなどが想定される。警察署の人員不足も指摘されている。戦争末期、成人男子のほとんどが戦地に送られ、警察署といえど人員が不足し業務がままならない事態に追い込まれていた可能性も考えられる。ともかくも、72年ぶりに、空襲被害の正確な事実が確認されたのであった。今全国各地で、このような空襲被害の実態の再調査がすすめられているが、実際の体験者、目撃者が健在でおられる時間も残り少なくなっており、調査を急ぐ必要がある。実際の空襲下の生活を体験した参加者もいて、質疑がもりあがった。高知県でP51の編隊が飛行する目撃談も出され、また墜落B29機のガラス破片をこするといいにおい がしたという、ある年齢層以上の人でないとわからない共通の体験談も交わされた。

12月例会報告 山本恒人さん(会員・日中友好協会大阪府連副会長)「先進国への飛翔を夢見る中国ー中国共産党大会第19回大会をふりかえる」

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「中国崩壊論の崩壊」
 冒頭、書店に山積みされる「中国崩壊」本の画像が紹介された。明らかな右サイドからの攻撃は中国の体制批判から歴史認識の捏造も含めて繰り返し行われている。「南京大虐殺はなかった」などに代表される悪質な攻撃は論外であるが、一方で良心的な人々も持つ中国への率直な不安、懸念もまた無視できない。核兵器廃絶の世論の国際的な高まりに障害となるような現在の中国政府の動きや、南シナ海における覇権主義的、大国主義的な姿勢、国内の人権抑圧の問題など、それらは安倍政権や右翼的な潮流、メデイアがつけいるスキを与えているのも事実である。
 報告者は、1989年の天安門事件、「2008年のリーマンショック以来、多くの論者が中国の崩壊を予想したが、その期待を裏切って中国は成長してきた」という故・加藤弘之の言葉を引用しながら、ともかくも中国は成長をとげているという点で、「中国崩壊論」は崩壊しているとする。一方で後者の不安や懸念への答えはあるのだろうか?日中関係、環境問題、経済格差是正の三課題に焦点をあてて報告された。

中国共産党第19回大会−「格差」是正への目線
 2017年10月行われた第19回大会は、「習近平が『権力集中』を集大成し、混乱した世界で『中国モデル』を提示し、国際社会に影響力を拡大できる段階に到達し、それ故現在の中国は『自信』を持っている」(朝日新聞・天児慧早大教授)という。
 現在の中国経済についての前向きな評価としては、この間の政権がすすめた「反腐敗」政策により国有企業と役人の癒着が摘発され「民間企業の投資が促され」た。「一党独裁下の経済発展にも自信を深めている」(梶谷神戸大教授)。
 報告者が特に強調したのは、大会前後の「人民日報」がもっとも力を入れて報道していたことが、「反腐敗」運動と国民の最も身近な利害に関わる問題であったという。それは「『共産党の指導』『習近平への権力集中』の成果を国民の関心のありどころで、国民生活のレベル向上で示す」ことであった。かつて、習近平は「中国共産党が人民に見放される時、党は『統治の正統性(執政資格)』を失って、歴史の舞台から降りざるを得ない」(2016年7月7日人民日報)と言ったが、習近平の指導下における中国共産党は「国民の目線での『統治の正統性』を非常に気にしている」。したがって、今日の中国社会における「格差」の解消・「発展の不均衡」解決を正面に掲げたことこそ今大会の最大の積極面と評価しうる。

日中関係−政府と民間と
 日本のアメリカ追随の外交姿勢は今や国際的にも有名である。外交の基軸は、従属的な日米軍事同盟に置かれており、「日本の国家から国民に至るまで、主としてアメリカとの関係だけで戦争を終えたのではないか、・・我々が本当の意味で終えねばならなかった戦争とは中国における戦争であった」(子安宣邦)。安倍政権の「国際標準」からの脱落と一体のものといえよう。
 現在、中国がすすめている「一帯一路」政策、「AIIB」などの国際経済協力には、安倍政権は及び腰であるが、中国主導のこれらの提案を呑めば安倍流「中国脅威論」の一角が崩れかねないという懸念がある。一方で、ADB(アジア開発銀行)総裁は「AIIBとの強調は必要」との言明をしている。経済同友会、「日本経済新聞」、黒田日銀総裁なども「AIIB」には前向きの姿勢を示している。日本企業はすでに、石油天然ガスなどの共同調達、プラント建設など、中国との「競争」「連携・すみわけ」「下請け」などの選択肢を念頭に「一帯一路」構想に対し対応協議を開始している。

環境問題
 中国の大気汚染に代表される環境問題の悪化の大きな原因は、経済の量的追求の弊害である。日本や台湾、韓国と比較して中国の投資効率は低い。そのため高度成長を維持しようとすれば国民の消費の犠牲と環境負荷(=公害の拡大)を高めることになる。中国では、元CCTVの女性記者柴静の環境汚染をあつかった動画「蒼頂の下」がネット上で注目されている。動画では、中国石油化学集団などの中央政府直結の国有企業が環境保護政策の制定、執行の障害となっていることが言及されている。中国では2015年から中国史上最もきびしい環境保護法が施行されている。
 一方、中国では多様なEV(電気自動車)開発が先行的に行われており、この分野では日本企業も追い越されそうな勢いだ。中国は世界最大のCO2の排出量取引市場を設立し、日本の消極性が際立っている。

経済格差の是正
 ジニ係数は格差の度会いを示す数値である。1(完全不平等)〜0(完全平等)のうち、先進国平均が0.4である。0.5以上は社会的安定を失うレベルである。中国では2000年前後は0.42であったが、2009〜2011の高度成長の時期に格差が拡大し(この時期は統計が隠された)、2013年に0.489となった。人口14億の内、約6億7000万人が下位の階層で、労働者・農民で占められている。GDPに占める国民の経済的豊かさを示す民間消費支出は、2000年代に入って投資優先型の経済成長になってから低下を示し35〜6%まで落ちた。民間消費支出は先進国では、およそ60%以上を示す。日本は56.9%、アメリカは70%である。したがって、民間消費支出は改善傾向にあるとはいえ、中国では国民の生活水準は先進国となるまでは、なお道半ばというところである。
 国民生活の水準を上げるための努力として、中国では社会保障制度の拡大がすすめら れている。その軸となっているのが社会保障カードの普及で現在人口の79.8%にまで到達している。これは14億の人口中10億人が、健康保険や年金の社会保障を受けることができる段階に達していることを示す。社会保障制度は改革開放以前は公務員と国有企業の勤務者に限定されていたが、1990年代に着手されて反腐敗運動とリンクし、国民皆保険、皆年金の達成が2020年を目標にすすめられている。しかし実態は、職域や地域により保障の程度は異なり、農村部は任意加入で、都市部と較べて薄い保障額である。また豊かな省と貧しい省の格差もある。農村から都市への出稼ぎ者は都市では保障されないという問題点もある。これらの統合公平化が2035年までかかるといわれている。大西 宏は2033年には中国が先進国化すると考えている。

パクス・アメリカーナからパクス・シニカ(中国)へ
 中国の現在のGDP総額は11兆ドルで1位のアメリカに次いで世界2位、日本は4兆ドルで3位である。一人当たりGDPでは、中国は76位、アメリカは7位、日本は26位である。日本など先進国がゼロ成長となったように、中国も2033年ころに先進国並みにゼロ成長に到達すると大西は推測している。いずれにしても、今後中国は巨大な影響力を世界に与える国となるだろう。パクス・シニカということに不安、懸念を持つ人も多いだろうと思うがと、報告者は断りつつ、たとえば現在焦眉の北朝鮮問題でもトランプ政権が対話よりも圧力をかけようとしていることに対しても、中国が対話を重視していることなどを見ても、パクス・アメリカーナよりもましではないか、という。冒頭の中国への不安と懸念は解消されるだろうか。報告者は中国との処し方について、「現実を直視する姿勢と批判的精神を大切にする」ことが基本としつつポイントは「中国の発展のダイナミズムを見失わないこと」とまとめた。

たくさんの意見が出た質疑交流
 参加者からは多くの意見、質問が出された。
質問と意見
 中国の姿勢に対する生理的反発(報告中の話)とは何か?安倍サイドの攻撃との関係は?留学生と話していると、日本よりもアメリカなどへの期待が大きい。「中国崩壊論」崩壊について。社会保障カードが10億人に普及したことの意義は大きい。留学生との対話で中国政府への批判的意見が多い。市民社会の成長が感じられる。大国主義的な姿勢については彼らはどう思っているのか?中国の労組はどうなっているのか?東洋史を学んだ経験から多民族で広大な中国で市民社会的な統治理念は可能か?中央の党と地方の党の関係は?民主同盟の現状は?中国へひとり旅に行き、茨木市の姉妹都市の役所を、市報を届けるために訪問したが、管理統制が厳重で市に苦情を訴える部屋で見たのは上から目線で市民をなだめている役人の姿だった。街中には「公安(=警察)」の人がたくさんいて、常に監視されているようであった。中国人研究者の楊継縄が「(中国の)権力は制約なき上部構造、資本は制御されざる経済的基礎、これがすべての社会問題の 根源、もし民主的な改革を怠るならばカタストロフィー型の変事が起こりかねない」と言っているが、民主主義は政治、社会の問題であるだけでなく、社会主義経済建設に必要な条件と思うが、議会や労組などのチエック機関を育てるような方向はあるのか?

   これらの質問意見についての山本さんからの回答について要約すると
●「中国への生理的反発」は左翼陣営の中にもある。覇権主義や文革への反発など。これらは一般の「嫌中感」とは区別される。大西氏は、パクスアメリカーナよりもパクスシニカのほうが「よりましではないか」と見て良いという主張をする。●労組の問題について、中華全国総公会という公式の最大組織がある。労働者を共産党につなぐ政治主義的要素と、権益を擁護する要素とがあるが、政治闘争が優先される。権益優先は同時に民主化論につながるが、衰退している。NPOやNGO組織は、純市民的組織は当局がいやがり、中国共産党の指導の入った組織にする傾向がある。●留学希望先としては日本は3〜4番目。しかしアニメの影響などで日本を目標と考える「日本大好き」学生もふえている。●人権問題で先頭に立つ知識人にも伝統的な「読書人階級的」な特権意識は根強く、両者の乖離は小さくない。●民主化問題について、フランシス・フクヤマが中国のウイークポイントとして、「権力を制限するシステム(立憲主義)をこれまでに持てなかった」ことをあげている。中国の「法治」は「法の支配」の論理とはちがう。加藤弘之が中国社会の特徴として「あいまいな制度」をあげている。たとえば、中央集権的と言いながら地方政府はまるで企業のように、地方本位に経済成長を競い合っている。中央も中身はともかく成果を上げた地方の人材を中央に吸い上げていく。その結果、多くの問題を孕みつつ崩壊ではなく前進する中国が我々の目の前に現れてくる。まずはこれを直視することが大切と思う。民主同盟は、全人代とちがう機関である政治協商会議の幹部を出している。常識的に中国で生きてゆく上ではまず共産党である。それでも「民主党派」を選ぶ人がいるということは民主党派の存在はただの飾りとは言いがたいところがあるように思う。

11月例会報告 森下徹さん、福田耕さん(会員)「大教組文書の可能性」

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(1)大教組文書に見る戦後大阪の社会運動(森下 徹さん)

科研費による大教組文書の研究はじまる
 大阪教育文化センタ−の教育相談室として使用されていた上六の土屋ビルに置かれている大教組史料がセンター撤去のために散逸の危機をむかえたため、大教組書記をしていた(当時)松浦由美子さんから森下 徹さん(和泉市教育委員会所属)に相談の連絡があったのが2010年である。
 2011年3月下旬に松浦さんによる作業 が始まり、土屋ビルの書架に置かれていた史料を分類し、段ボールに詰めて大教組の地下駐車場に仮置きした(2011年3月31日)。膨大な段ボールに入った史料は次第に重みでくずれそうになり、2012年6月頃に森下、松浦、福田 耕、富山仁貴(関学院)の4名で史料の内容と年代を記録する作業を開始した。駐車場でのほこりまみれの作業であったが、これらの史料は現代史の第一級の史料であることが確認できた。その後、史料は一部処分や移転により80箱に整理され大教組の地下書庫に移された。作業の合間、近くの喫茶ガットネロでのお昼のお茶の時間が一同の楽しみとなった。史料の概要把握にもとづき、史料の目録化と史料的検討、報告書の作成をめざして2012年10月に文科省の科学研究費助成事業に応募した。第一次申請は不採択だったが、2013年の第二次申請で採択され科研費が出た。
 テーマは「戦後教員組合運動の地域社会的研究ー大教組所蔵文書の史料論的検討を通じてー」課題番号26370811 2014〜16の成果報告、大教組文書の概要紹介である。

大教組文書の概要と特徴
 ダンボール箱にして83箱+α、総点数5885点、年代は戦中(昭和15年の青年教師団の史料など)から1990年代まで、そのうち1950〜60年代が主である。来歴と特徴は、『大教組運動史』第1巻1990、第2巻1994編纂のために収集したり、関係者から提供を受けたものや調査成果などである。また勤評闘争時に警察に押収され、1982年に返還された史料(茨木小学校の職員会議議事録など)、執筆のためのノート、原稿、ゲラ、年表など。編纂事業事務局関係者の手許にあった1990年代の史料がある。これらの史料から大教組の形成過程、大教組の諸運動・教育実践(教研、勤評、平和教育、同和教育など)、戦後大阪の社会運動などが明らかになり、またそこから戦後大阪の地域社会構造、子どもや父母の生活実態に迫ることもできる。

今後の課題
 対象とした史料は大教組の保管史料の一部である。これらの史料は主に『大教組運動史』編纂のための生の史料である。これらを分析調査することによって何が見えてくるのか。『運動史』は「事実を以て語らせる」というスタンスで客観公正な記述をめざして編纂されている。しかし、なお聞き取りや史料収集が可能であり、『運動史』ゆえの、あるいは編纂時期故のある種の「せまさ」のあることを報告者は指摘する。
 今後、大教組本部史料とのつきあわせ、他府県との比較、生史料の分析からの歴史像の再構成、教員組合運動、教育実践から子どもや父母の実像に迫ること、大阪の地域史研究、大阪と京都、奈良、和歌山などとの比較研究、教育実践と社会運動との総体的把握などの検討を行い、報告書の刊行、公開、各組合、個人の史料として生かせるようにしたい。

 (2)東谷敏雄『運動史関係』ファイルについて(福田 耕さん)

レッドパージ史料
 史料は、大教組委員長であった東谷氏が『大教組運動史』第1巻編纂のためにつくったファイルである。執筆依頼分や会議レジメなどとともに、レッドパージや勤評関係の史料がある。
 運動史編纂のための第一回会議では、1987年の大教組結成40周年記念日を目途に戦前から1964年度までの運動史を発行することが決められており、編纂の基本方針として「事実を以て語らせる」ことを基本とし、客観的公正な運動史とするように努めることが強調されていた。聞き取り調査では、伏見格之助、東谷勝司、中川・井上・渡部、大津静夫氏らの名前が記録されている。レッドパージについては、東谷氏が当時何もできなかったと、悔いていたことが伝えられており、氏が各関係者にレッドパージに関する証言の依頼をする書面が残されている。

日教組映画のデジタル化
報告の最後に、大教組に保管されていた日教組製作の記録映画をデジタル化したものが上映された。これは16mmフィルムをクリーニングしたうで、デジタル化されたものである。分裂前の大阪で行われた全国教研や教育塔前での教育祭などのもようが上映された。
  会場の関係で報告時間を十分確保できなかったことが残念であるが、なによりも膨大な史料を散逸から守り、第一級の現代史研究の史料として、ここまで整理された関係者 に敬意を表する。現代史、教育史、地域史などの研究対象として、公開のもと、双方の組合の、また大阪、日本、世界の「共有財産」として無限の可能性が秘められている。若い研究者の参加もふやしてがんばっていただきたい。

10月例会について

10月例会は台風接近のため危険を避けるため中止としました。急な決定で連絡の術もなく当日会場に来られた方にはご迷惑を おかけしたことをお詫びいたします。なお、当日の例会に予定していたテーマ「大阪府下での新たな空襲被害の発見−阪南市海岸部での米軍戦闘機による空襲」 は月を替えて行いたいと思いますのでご了承ください。(運営委員会)

9月例会報告 後藤正人さん(会員・和歌山大学名誉教授)「神仏分離令の様相−高鍋藩を中心に」

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基礎的研究と各藩の様相
 1868(慶応4)年3月17日(改元は9月8日)に明治新政府から発せられた「神仏分離令(神仏判然令)」についての研究の基礎となったのは、辻善之助他編『明治維新神佛分離史料』(1926〜29年)と、この史料に基づく、辻善之助『神佛分離の概観』(1924年)であった。これによれば、藩知事が自ら関係する寺院を廃棄して範を示す(松本)、615寺中439寺が廃寺された(土佐)、廃仏が徹底され僧侶が兵員とされ没収財産は軍事費となった(薩摩)などの例があげられ、一方神仏分離に対する激烈な反対の動向や本居・平田派の国学の影響なども紹介されている。
 戦後の研究では、圭室文雄『新編明治維新神仏分離史料』 や安丸良夫「近代転換期における国家と宗教」(『宗教と国家』)は神仏分離が神社から仏教色を取り除くためだけではなく、「神道国教化」(圭室)、「新たな国教体制」(安丸)をめざすものととらえている。宮地正人は「太政官布告三三四号により無檀無住の寺院は廃止され、跡地処置の儀は大蔵省に伺い出るべしとされるのである」(『国家神道形成過程の問題点』)とし、これらの指摘は重要である。

個別藩の様相−高鍋藩
 従来の研究では個別藩に即した神仏分離令の研究が欠けていた。日本では神仏習合がすすんでいたため神祇信仰と仏教が融合し寺院は寺地の神を祀り、神社は神宮寺を建て、仏と神の関係を説明する「本地垂迹説」が普及していた。神仏分離令のもと、「神社から如何にして寺号を抜き、住職を廃止し、仏像・仏具を取り出したか、住職や仏像などはどうなったのか、また寺院から神道を如何に取り出し、神社へ神主が如何に任命されたか」などの具体的な問題の解明と神仏分離令は「信教の自由」とどのように関わるのかという問題の解明などが求められる。
 後藤さんは、神仏分離令との関わりで従来未検討であった明治初年の高鍋藩の日記「藩尾録1〜4」を中心に個別藩の状況を分析している。

(1)1868年(慶応4・明治元)の神仏分離の様相
 3月17日、神社から僧侶の追放を指示する通達、同年3月28日には神仏分離に関する法令、4月10日には、神社の仏像・仏具の撤去とともに社人と僧侶の間の不和、 いさかいが無いように指示する法令、同年9月18日には神仏混淆の禁令が出されている。高鍋藩では3月4日に、比木神社が「真言宗持」であったのが「唯一神道」とされ、神仏習合ゆえに「長照寺号」を廃止されている。仏躰・仏具は藩主と関係深い日光院へ納められた。神仏分離令布告の前後から神仏分離政策は始動していた。

(2)1869年(8〜12月)の様相
 1869年6月に版籍奉還が行われる。藩主は知藩事となり、太政官宛に@経営困難な寺を廃寺とする、A無住の寺院は撤去する、B仏葬から神葬に変え、邪宗(キリシタン)は厳しく取り締まること、の3つの伺いを出した。9月23日には、神道主義を藩政の重要政策とするため、堺県から神道家の名波大年を雇い入れ、藩校での神道の講義、藩内の神仏分離の監視、推進などが行われ神道の普及がはかられた。一方で、寺院の宗旨人別帳作成が止められ、寺院による民衆掌握の廃止につながった。

(3)1870年(1〜6月)の様相
 「円実院が還俗して・・・神主を命じられ」とあるように僧侶が強制的に還俗させられ、おまけに神社の神主を命じられたという事態も生じている。知藩事家の菩提寺である大龍寺と龍雲寺の住職は、その「悪事」なるものを理由に住職の位を剥奪され罰金を科せられた。知藩事家は葬祭について仏法をやめて、神葬祭に変更し、そのために神殿を造営することになった。大龍寺と龍雲寺の本尊諸仏などは檀家の祠堂に「当分始末する」こととなった、など。これらの動きに対し、江戸の崇巌寺(初代・2代藩主墓所)では1871年より廃寺の指示が出されたが、同寺院より嘆願書が出され、寺号廃止、復飾(還俗のこと)の儀は当該住職一代限り差し置かれることになった。ちなみに大龍寺と龍雲寺、安養寺の3つの藩主菩提寺は現在、墓地だけ残っている。

(4)1870年(7〜9月)の様相
 神道・「皇学」政策が各方面に浸透した。国学修業者が宮田社神主となり、小丸地蔵が仏体を取り除き堂をこわして愛宕神社が勧請され、盆踊りの休日が神祭の休日とされた。神社の祭礼から薩摩藩の例にならって能が除外され、招魂所では神事が予定された。藩校では「皇書」が試験科目となり、学生は「皇学所」に入寮して半給が与えられた。この時期に、大量の住職復飾(還俗)がなされた。住職が復飾(還俗)して廃寺となる例が20ケ寺をはるかにこえた。ただし、藩からの寺料は引き揚げられるが、苗字と身分(士族か卒族〔下級武士〕)、扶持米、もとの家屋敷が与えられた。このような「恩典」 により廃仏毀釈に「拍車がかかったことは想像に難くない」。

(5)1870年(10〜12月)の様相
 御目見得以上の住職であった昌福寺と就源寺は還俗後1代士族、1人半扶持となり家屋敷がそのまま与えられた。藩校での「皇道」学習には、貴賤を問わず人々を組織しようとした。藩は11月25日に太政官に対し、領内寺院の廃寺を藩の判断によって行ってよいか、また届けが必要であるかの伺いを行っている。これに対し、太政官は、「法類寺檀」の申し合わせに支障が無い場合は廃寺を認め、檀家は最寄りの同宗寺院に合併を申しつける、ただし廃寺が朱印地(幕府が朱印状をもって領地支配や地主としての租税免除を認定した所領で、特に寺社領)か面積の多少を取り調べ跡地の処分見込みにつき、さらに伺い出ることを指示している。報告者は「ここに現れた朝藩権力(版籍奉還から廃藩置県の間の政府を指す)の廃寺処置には近代的な『信教の自由』の萌芽すら窺うことは困難である」としている。12月、藩政庁は「驚くべき廃寺の有様を届けている」。古義真言宗の地福寺を含む15ケ寺、臨済宗妙心寺派の龍雲寺・大龍寺を含む20ケ寺、曹洞宗永平寺派の大平寺を含む14ケ寺、浄土宗鎮西派の安養寺を含むケ寺、時宗の昌福寺1ケ寺、一向宗西本願寺派の称専寺を含む7ケ寺、新義真言宗の高月寺を含む19ケ寺の計87ケ寺である。廃寺の理由は主に仏式の葬祭が不用であるからという理由であるが、いずれの場合も事実とは異なっていた。

  質疑交流と感想
 明治維新史で、まだ未解明の部分も多い分野の貴重な報告であった。現在は普通に存在する寺院、仏像などの仏教施設が、かつては明治政府の神仏分離令、神道国教化政策 のもとではげしい廃仏毀釈の攻撃にさらされ、多くの寺院、仏像などが破壊、消失の運命をたどったことがわかった。一方で、奈良や各地に残る寺院や仏像は、なぜそこにあるのか?という素朴な疑問も出された。これについて、神仏分離と廃仏毀釈の被害状況は各県により、その程度が異なっていたらしい。その原因は、各地の住民の抵抗によることも大きいと考えられる。ひとりの参加者からは、奈良での伝聞の情報として寺院の地元の住民が寺の貴重な仏像を守るために隠したらしいという話が報告された。あちらこちらで、そのようなことがあったのではないだろうか?神道は宗教的には一神教として十分な条件を備えていない原始的な宗教であり、国教として大きな力を持つことはなかったように思われる。もともと多神教的社会の日本では、宗教の多様性を求める国民の意志も強かった。むしろ神道国教化の動きを背景に国家主義的な教育体制のもと天皇制イデオロギーで国民の思想統制がはかられていったと考えられる。神仏分離令の進行過程は宗教のかたちをとった明治政府の政治的な意図があきらかであり、一方で土着の日本社会が持っている多様性の面をも逆に浮き彫りにさせているようにも思われる。

8月例会報告 横山篤夫さん(会員・元ピース大阪研究員)「シンガポールの忠霊塔」

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「戦没者慰霊」の意味するもの
 近代以後の日本の軍と政府が戦死者をどのように扱ったか、そのことを解明することで戦争と国家、国民との関係が見えてくる。横山さんは、そのような問題意識を持ちつつ戦没者慰霊、特に忠霊塔の歴史に注目した。戦没者慰霊には三つの類型があるという。@靖国神社に代表される「祠堂型」、これは霊魂の存在を前提として戦死者を神として祀る。遺体や遺骨は「穢れている」といいう発想から持ち込まれない。A「記念碑型」、B遺骨を祀っている「墓地型」、これは軍が祀るもの、遺族が祀るもの、家の墓地にあるものなどさまざまな型がみられる。ガダルカナル戦以後は遺骨はほとんど帰らず、木箱に石が入れられていたり、紙に 「○○の霊」と書いたものが送られてきたりした。現在、靖国だけが戦没者の慰霊の対象として特化される状況はおかしく、遺族の了解も取り付けていない。
 忠霊塔は「墓地型」に分類される(これについては質疑の中で意見が出されたが、後述する)。歴史的には日清日露戦争以後中国大陸につくられるようになった。日露戦争中、遺骨の一部は本国に返され、残りを満鉄路線の各都市に忠霊塔をつくり、そこに分骨した。1939年以後、陸軍大将格の軍人を先頭に準政府機関的な組織による忠霊塔をつくる運動がはじめられた。満州事変以後、巨大なモニュメントが顕彰碑としてつくられるようになった。満州地域に10基、上海以外の中国内では北京、張家口、南京の三カ所に設けられた。

 シンガポール占領戦
 シンガポールの忠霊塔については、まとまった研究論文が未だない。横山さんは、わかる範囲で調査し、まとめている時にさまざまな情報提供があった。そのなかに、シンガポールにも忠霊塔があることがわかった。  アジア太平洋戦争は、真珠湾奇襲攻撃で開始されたというのが一般の常識である。しかし、真珠湾よりも1時間半早くマレー半島のコタバルに日本軍が上陸していたことはあまり知られていない。シンガポールは、当時はまだ帝国主義世界支配秩序の中心にいたイギリスのアジア支配の拠点であった。日本軍は海上から攻撃してくるとのイギリスの予想に反して、日本軍の銀輪部隊がコタバルから南下して10日間でシンガポールを攻略した。日本軍(山下奉文麾下の第25軍6万人)は紀元節にあわせて攻略せよとの命令を受けていたという。イギリス軍(最多の4〜5万人のインド人、英人、マレー人 などの混成部隊で13万8000人)の先頭はインド人部隊で、後方のイギリス人部隊は逃げ腰となり、まっさきに崩れた。イギリス人部隊の腰砕けに対して頑強に戦ったのが、華僑の中国人からなる義勇軍「ダルフォース」であった。シンガポールの人口構成は現在、中国人75%、マレー系14%、インド系9%、その他2%で、当時とあまりかわっていない。孫文が現地で中国人の団結を呼びかけ、以後、シンガポール華僑は日本と戦う蒋介石に支援金を送っていた。「ダルフォース」とは、イギリス軍将校の指導下につくられた華僑の中国人部隊であった。華僑の部隊の粘り強い抵抗に驚いた日本軍は、この部隊に関わる不確かな名簿を手に入れ、名簿と中国人を照合し、敵対する華僑の掃討作戦を行った。このとき、華僑数千人以上が殺された。その遺体が、現在のチャンギ国際空港滑走路付近の海上に流れ着いたという。シンガポールでは、このような日本軍の行った行為が教科書にくわしく記述され生徒たちが学んでいる。一方で、日本からの観光客(最近は中国に次いで2番目の数)は、そのような歴史事実は知らずに楽しんでいる。

  忠霊塔の建設
 日本軍のシンガポール占領時の戦死者は、シンガポールで1500人、マレー半島で2000人の計3500人であった。一方、イギリス軍側は23000人でクランジ戦没者共同墓地に、すべての戦死者の名前が刻まれた墓碑が建てられている。
 日本軍は1942年2月15日のシンガポール占領後、同地を「昭南特別市」と改称し、「大東亜戦争英霊」の顕彰と占領者のシンボルとして「昭南忠霊塔」と「昭南神社」の建立を行った。これはアジア太平洋戦争(「大東亜戦争」)後の最初の忠霊塔建設と位置づけられた。しかし、同年6月のミッドウエー海戦、10月のガダルカナル島戦の大敗後は忠霊塔どころではなくなった。新聞記事からは大日本忠霊顕彰会の記事は激減し、軍用機の献納記事などが取り上げられるようになった。次々に建てられるはずだったジャワ、フィリピン、ビルマなどの忠霊塔は幻に終わり、「昭南忠霊塔」の合祀対象が拡大され、マレー・シンガポール占領戦の戦死者3500人に加え、アジア太平洋戦争初期の戦死者約6500人も入れて約10000人が合祀されたとも考えられる。

忠霊塔の爆破と遺骨の放置
 1945年8月15日の敗戦後、日本軍は撤収前の25日に「昭南忠霊塔」と「昭南神社」を爆破破壊した。敗戦直後はイギリス軍はすぐに来られず9月到着であった。それまでは日本の警察が治安維持を行ったが、日本軍が忠霊塔を爆破したのは、その間の出来事であった。その時期に忠霊塔から1万人近い遺骨を日本人墓地に移すことが可能であったのかはわからない。  第一次大戦後のヴェルサイユ条約に、戦没者の遺骨に関する協定が定められている。第225条に「各其ノ版図内ニ埋葬セラレタル陸海軍軍人ノ墳墓ヲ尊重シ且保存スヘシ」とあり、もっとも多数の戦死者を出したドイツ、フランスの兵士の墓は各戦地の埋葬地に保障されている(一方、トルコ兵士の墓地はつくられていない)。
日本の場合、奉天の遺骨数万人分は返送され、これらが東京千鳥ヶ淵の墓地の起源となった。外務省の方針は、日本の現地の墓地は撤去して返送するというものであったが、戦後GHQが米軍管理地の日本人戦没者の遺骨の状況を日本政府に報告しているが、日本政府は対応しないままであった。 日本軍が行った「昭南忠霊塔」の爆破、GHQの報告になにも対応しなかった日本政府の態度などから何が見えてくるだろうか。声高に「英霊」を祀りあげておきながら、忠霊塔を爆破した軍も、戦地の無数の遺骨に見向きもしなかった政府も、人をただ戦争のための捨て駒に利用するために様々な舞台装置をあつらえる魂胆だったのだ。我々は二度とだまされてはいけないだろう。靖国神社とはまさにそういうものの象徴ではないだろうか。

質疑から
 報告後、活発な質疑が行われた。まず戦没者慰霊について3類型ではっきり分類できるものか?たとえば忠霊塔は「墓地型」とされるが、これも「英霊」を顕彰する目的があるのではないか?忠霊塔が爆破される前に遺骨は移したのか?移さず爆破したのか?日本は遺骨回収に消極的なのか?アメリカは遺体を丁重に扱い、遺骨の回収は熱心に行うが、イギリスは現地で墓地をつくるなど、現地埋葬型と遺骨持ち帰り型など国によってちがいがあるのでは?などの疑問が出された。
 これらの疑問に対しては、3類型のように「すっぱりとわけることはできない」、個人の墓は、個人の人間としての個性をあらわしているが、合葬された墓碑は、「英霊」として一括されていると考えられる。日本はあまり遺骨にこだわらない国民性があったが、むしろ近代以後遺骨にこだわるようになった、など報告者からの回答があった。
 報告者も言われるように、忠霊塔の問題は過去にまとまった研究がなく、まだこれから調査研究を積み重ねてゆくことが必要な分野である。しかし、その解明は国家と戦争、国民と戦争の関係をあきらかにする上で重要な意味を持っている。横山さんの今後の研究成果を期待したい。

7月例会報告 福田 耕さん「近代日本における乳業の発展−関東地方における一乳業家を例に−」

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牛乳と日本人
 日本人がはじめて牛乳を飲んだのは飛鳥時代にさかのぼるらしい。大化の改新で大王 なった孝徳帝(7世紀後半)が渡来系 の人から牛乳をすすめられて飲んだと のこと。しかし、その後天武天皇(7 世紀末)の「肉食禁止令の詔」などに はじまり江戸時代をつうじて、日本人 は肉や牛乳の飲食からは(表向き)遠 ざけられてきた。
 事態が大きく変わったのは、幕末開 国と明治以後の日本近代化の時期であ った。開国後、横浜などの居留地に住む外国人が牛肉や牛乳を求めるようになり、それに影響されて日本人も牛乳や肉食に関心を持つようになり、日本における乳業や食肉事業が開始されるようになった。
  今回の報告は、乳業の発展から見た日本近代の幕開けについての歴史である。

日本最初の乳業
 現在の千葉県出身の前田留吉はオランダ人のスネル兄弟に雇われて搾乳業を学び、1866年に和牛6頭の牧場を開いた(図)。まだ攘夷論があって、牛乳には毒が入っていると言いふらす者もおり、先ず子供や病人から普及させ、3年後にはようやく商売が成り立つようになった。戦前の東京の搾乳業の大半は千葉県出身者であった。
 1871年、「殺生肉食禁止令」が解かれ、1873年、日本初の「牛乳取締規則」が東京で公布された。同年、牛肉商の組合が警視庁の内示により設けられ堀越藤吉が頭取になった。1887年には明治天皇に牛肉が献納された。1900年都市部から郊外へ牧場が移転され、地方の酪農業が盛んとなってゆく。それまでは東京都内にも多くの牧場があったらしく、今では想像もできない風景が見られたことだ。

牛乳普及をめぐるさまざまの見解
 松本良順は長崎で医学を学び、日本最初の私立病院「順天堂」を開設し、将軍の侍医、維新後は陸軍初代軍医総監となった人物である。彼は、1867年に出した建白書の中で、「新鮮の牛乳は、無比の滋養品にて、虚労又は絶食の病気に相用、誠に回生肉骨の妙効有之候。小児の母乳無之者を養育致候に於て天下絶て比類無之候。牛肉は人間食物中最第一の滋養品にて、人身を補ひ、身体を健にし、勇気を増候もの」と主張している。国学者の近藤芳樹は、1872年『牛乳考・屠畜考』で、日本で牛乳を用いはじめたのは「孝徳天皇乃御代」とし、天皇も飲んでいたのだから牛乳を忌み嫌う風潮はおかしいと主張している。維新後の政府にとって牛乳業は失業した旧士族救済と近代化の方向に添うものであったので、大久保利通は牧畜、乳業の推進を指示している。

乳業のはじまりと、ある酪農家の歩み
 1900年頃の東京市内には、牛乳業者が約300軒あり、ほとんどは牛10頭前後の経営であった。当時、乳牛は一頭平均250円(現在は一頭約50万円)で、1日7〜8升(12.6〜14.4リットル)の牛乳を生産できた。牛と設備をあわせて3000円ほどの資本が必要であった。平均的な乳業家の一ヶ月の利益は114円15銭ほどであった。  報告後半では、当時関東で乳業経営を行った松次郎という人物についての紹介があった。松次郎は、江戸時代に日光例幣使街道(江戸期に京都の朝廷から例幣使《幣帛を運ぶ勅使》が日光東照宮に向かう際に利用した街道で中山道から分岐、日光に向かう街道)で運送業を営む松の屋の次男で、横浜・東京・栃木・群馬で食肉業、酪農業を営んだ。
 彼は11歳の時に横浜へ行き、のちに東京・京橋区で河合万五郎の牛肉屋・牛鍋屋に勤め、肉の扱い方や西洋料理を学んだ。いったん故郷にもどるが、1871年、「殺生肉食禁止」が解かれ洋食ブームが起こると再び東京へもどった。当時故郷の栃木県でも酪農がさかんとなり、1878年に官立那須牧場が開設され、1897年頃から古峰ケ原高原や横根山高原一帯でも牧場経営が行われていた。
 松次郎は1880年までに東京から帰郷し、横根山に牧場を開き久治良に牛舎を持ち牛乳店を開いた。日光の下河原にも牛舎を持ったが1902年の洪水で流された。日光は明治期に外国人の避暑地として開発され、外国人専用のホテルや別荘ができていた。そこで、西洋料理や牛乳の需要が高まることとなる。1907年発行の『栃木県営業便覧』には、安川町の本町付近、石屋町に松次郎の牛乳搾乳所が記されている。「御登晃中両殿下御用」とあるので、皇族の日光訪問中、牛乳を献納していた指定業者であったことがわかる。
 1902年に養子をむかえ、日光の牧場をまかせて自らは足尾に移り、足尾銅山で活況を呈していた足尾で西洋料理屋と牛乳屋をはじめた。1916年、松次郎の出した広告には、「牛豚肉 牛乳搾乳 卸小売商 足尾町下間藤」とある。
 松次郎は、子どもたちに事業をまかせ、1921年頃には群馬に移り、そこでも新たに牧場経営を行っている。1931年に74歳で亡くなるが、晩年まで開拓した事業は子孫に任せ次々と新たな経営を拡大してゆくエネルギッシュな経営者であった。それは、まるで維新以後の近代化を旺盛にすすめてゆく日本社会のすがたとも重なって見えるようだ。
 質疑は活発に行われ、史料の不足という事情もあって日本の近代史の中で乳業の分野の調査がまだ十分すすんでいないことも明らかにされた。その意味で今回の報告は貴重な内容であり、今後よりくわしい調査研究が期待されるところである。

6月例会報告 (6月25日 明日香村フィールドワーク)山内英正さん(会員・犬養万葉記念館運営協力委員・白鹿記念酒造博物館評議員) 「袖吹き返す明日香風ー歴史と万葉の飛鳥探訪」

雨の明日香村をゆく
 故犬養 孝先生(大阪大学名誉教授)は全国の万葉歌の故地を訪ねて名著『万葉の旅』など貴重な著述・記録を多く残されると同時に、地元民と協力して歌碑をつくり、万葉の風土と景観を守る全国的な運動の先頭に立たれた。とりわけ「飛鳥保存問題には終生情熱を傾けた」(山内英正『万葉 こころの風景』)。山内英正さんは大阪大学文学部の学部生・院生のころから社会人となっても犬養氏のもとで三〇余年間「秘書」役として 行動を共にされた。今回は、その山内さんの案内による明日香をめぐるフィールドワークである。
 当日は、あいにくの雨であったが、雨中の明日香もなかなかいいものである。当日のコースは橿原神宮前駅からバスで豊浦駐車場(古宮(ふるみや)遺跡)→豊浦(とゆら)寺→甘樫丘(あまかしのおか)→明日香村埋蔵文化財展示室→犬養万葉記念館→四神の館・キトラ古墳→飛鳥資料館→山田寺址→大原神社→飛鳥坐神社(あすかにいますじんじや)の行程。4名の参加者の中で堀 潤さんが大阪の阪南市から車で来られたので途中合流し、雨の中でも迅速に行動できた。
 豊浦駐車場で山内、二宮両氏を待つ間、となりの水田のあぜ道に降りて土の表面をざっと見てゆくと「あった!」、須(す)恵(え)器(き)(朝鮮半島から伝来した登り窯の技術で1000度以上の高温で焼成された土器)の破片を6〜7個ひろうことができた。ここは「古宮(ふるみや)遺跡」で、小墾田宮(おわりだのみや)の候補地と考えられてきたが最近は蘇我氏の庭園跡の可能性が有力視されている。水田の中にケヤキの古木が一本こんもりした小山に立っている「古宮土壇」が庭園遺構とされる。ここから数分歩いて豊浦(とゆら)寺。推古天皇が603年に豊浦宮から小墾田宮に遷ったのち豊浦寺(飛鳥寺と一対の尼寺)が創建された。現在は向原寺となっているが、講堂の西南角付近から掘立柱建物(豊浦宮の遺構か?)と石敷が発見され、創建当時の基壇建物と確認された。現在発掘当時のようすを見ることができる。ここから雨に濡れる青いあじさいの花や木立の中を歩いて甘樫丘(あまかしのか)に向かう。

雨の中の暗殺劇
 そういえば「乙(いつ)巳(し)の変」(645年6月12〜13日)当日も雨が降っていた。最近は蘇我入鹿暗殺、蝦夷自害の蘇我本宗家が滅亡した事件を「乙巳の変」、孝徳朝(645〜654)における一連の改革を「大化改新」と呼んでいる(市 大樹「大化改新と改革の実像」)。
 『日本書紀(巻二四)』には、「佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、入鹿臣を斬りつ。是の日に、雨下りて潦水庭に溢めり。席障子を以て、鞍作が屍に覆ふ。」  暗殺者たちが入鹿を斬り殺したその日、はげしく降る雨水が板蓋宮の庭にあふれるように流れていた。入鹿(鞍作)の屍はおそらくその下で、そまつなむしろを張った衝立のようなものでおおわれていただけという。入鹿の遺体が雨の中放置されている情景は、戦慄を感じさせるほど非常にリアルで事件が実際にそのように起こったことを彷彿とさせる。雨の中登った甘樫丘の展望台のふもとには火災に遭った建物の遺構が発見された(甘樫丘東方遺跡)。これは、中大兄らが入鹿暗殺後、蘇我蝦夷宅を包囲した際に焼け落ちた邸宅の跡と考えられている。

景観と自然環境を守ったシンボル、第1号歌碑
 甘樫丘の上からは明日香の四方と歴史の流れも見渡せる。丘の北に天香久山、そのさらに北に耳成山、飛鳥川をはさんで雷丘、西に畝傍山、劍池、東側に旧飛鳥村の集落と、その南が真神の原。傘をさしながらの山内さんのくわしい解説によると、1956年に飛鳥、高市、阪合の3村が合併する際に、「飛鳥」の名に統合されることをきらった他の2村を納得させるために犬養氏が助言して「明日香村」となった。今目の前に見える飛鳥村の集落は合併前の狭義の「飛鳥村」で、背後の音羽山、多武峰、八釣山の稜線にかぶさるように白い雲が立ちこめている。ここが飛鳥の中心部で、付近には飛鳥浄御原宮、飛鳥大仏のある飛鳥寺安居(あんご)院、飛鳥坐神社などがある。
 飛鳥時代もこれに近い田園風景だったのだろうと想像するが、甘樫丘は数十年前まで全く自然の丘で、駅まで尾根道が続いていたという。犬養先生は年6回「大阪大学万葉旅行の会」を主宰、学生を連れて現地での講義を行った。まだ草木が生い茂る甘樫丘を500名もの学生が登ったこともあるという。その後現地は住宅開発などで変化し、ホテル建設の計画が持ち上がったりしたが、景観と自然環境を守るための住民運動に犬養氏も協力、三名の地主も土地を売らなかったという。

 「采女の 袖吹き返す 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」                 (巻1−51)志貴の皇子

 1967年、甘樫丘の中腹に犬養 孝先生の揮毫第1号の歌碑が建てられた(写真)。歌は天智天皇の第七皇子志貴皇子が古都飛鳥への追想を詠んだ和歌である。歌碑は明日香を景観・自然環境破壊の開発から守るために犬養氏と住民たちがたたかった抵抗のシンボルでもあった。この和歌に黛敏郎が曲をつけ、阪大の混声合唱団が歌った。学生たちは、この曲を「采女」の愛称で呼んだ。山内さんは、その混声合唱団の一員であったが、二回生から「万葉旅行会」の委員となって以来犬養先生の「書生」役を勤めてこられた。

犬養万葉記念館
 甘樫丘の明日香川をはさんで向かい側にある飛鳥村埋蔵文化財展示室は旧飛鳥小学校講堂跡で、上記の第1号歌碑の除幕式典があったところである。見学のあとわたしたちは車で明日香村中心部にある「南都明日香ふれあいセンター 犬養万葉記念館」を訪ねた。もと南都銀行であった建物を寄贈され、記念館に改装し2000年4月に開館した。門の横に犬養先生のすがたの手作り人形が坐って出迎えてくれる。
 記念館には開館記念碑「萬葉は青春のいのち 犬養孝」と生誕百年記念碑「あすか風」とともに「十市皇女(とおちのひめみこ)の薨ぜし時に、高市皇子(たけちのみこ)尊の作らす歌三首(の一)の歌碑がある。

 「山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく」(巻2ー158)

 歌にある山吹の垣根が記念館のエントランスにつくられているが、山吹の花の黄色は黄泉(よみ)の国を象徴しており、高市皇子が「山吹のさいている山の清水を汲みに行きたいが、(死者の国に)行く道はわからない」と亡くなった十市皇女(とおちのひめみこ)を悼む気持ちを詠んでいる。
 
山吹の花が咲く頃また記念館を訪ねたいと思う。館内では簡単な食事も可能である。2階は犬養孝先生の資料館となっている。資料中に台北高等学校の教授時代の写真、たばこの「光」「憩」などの箱でつくった萬葉がるたなどの珍しい資料のほかに阿蘇山が 噴火した際の溶岩の破片と阿蘇噴火の噴煙の写真という異色の資料が展示されている。犬養氏は熊本の第五高等学校に在学のころ阿蘇山の研究にも熱中していた。1929年1月の大噴火の時、学校を休んで火口に登り命がけで第4火口を覗いたという。「この体験が終生、『生』の原点となり、挫けそうになった時には阿蘇の噴煙を思い浮かべたという。」(山内前掲書)。

キトラ古墳壁画体験館
 高松塚に続いて、畿内において古墳石室に四神などの壁画が発見(1983年)されたキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初)は明日香村の西南部、檜隈寺址のすぐ南側にある。檜隈は渡来系氏族の雄、東漢氏(古くは朝鮮半島南部の加耶地域から渡来し、のちに百済系の手工業者集団を統括したとされる)が居住した地域である。現在周辺は国営飛鳥歴史公園として整備され、 キトラ古墳壁画体験館・四神の館がオープンしたところである。 古墳は発掘調査を終えて古代の大きさと形、二段につくられた直径約13m、高さ約3.8mの円墳に美しく復元整備されている。期間限定で文化庁キトラ古墳壁画保存管理施設(四神の館1F)でガラス越しに壁画実物を見学することができるが、あいにく今回は公開されていなかった。壁画は北壁の玄武、南壁の朱雀、東壁の青龍、西壁の白虎と天井に描かれた東アジア最古といわれる天文図や動物の頭と人間の身体を持った十二支の図である。天文図に描かれた星座は古代中国の夜空の星々である。

飛鳥資料館、山田寺址から飛鳥坐神社へ
 さて飛鳥中心部へ再びもどり、奈良国立文化財研究所飛鳥資料館に向う。資料館入口前の広場に、巨大な「須弥山石」、「石人像」、「酒船石」などのレプリカが立つ。これらの石造物の正体はいまだ明確にされていないが、噴水の装置(須弥山石、石人像)のあることが確認され、斉明朝のころの迎賓館の施設、ササン朝ペルシャ渡来のゾロアスター教関連の施設など諸説が語られている。館内で最も注目すべき展示物は、山田寺東回廊が倒れたまま地中にうずもれていたものを発掘し保存処理(柱間3間分)して展示したものだ。7世紀当時の寺院のようすを目の当たりにすることができる。12世紀に興福寺にもってゆかれた日本史教科書で必ず見た丈六の仏像仏頭のレプリカも置かれている。資料館のすぐ東側、山裾に草原がひろがるところに山田寺址がある。蘇我倉山田石川麻呂の発願で建立され、讒言により石川麻呂が自害した後、683年天武天皇の頃に完成した。南門、中門、塔、金堂、講堂が南北に並ぶ広大な寺院であったことが実感できる。発掘の結果、中門両脇からのびる回廊は金堂と講堂の間を通っており、回廊で講堂は僧の学びの場、回廊内は仏の空間とわけられていたことがわかった。飛鳥資料館で展示されていた東回廊が倒れていた場所も現地で確認できた。
 山田寺址からすぐ南に大原の里、大原神社がある。神社裏に藤原鎌足が産湯をつかったという伝承地があり、確かに神社裏手の谷に井戸が2つあった。行く途中、奈良大学の上野 誠先生が学生を数人連れて説明しているところに偶然出会った。  ここから最後の見学地、飛鳥坐神社(あすかにいますじんじや)に到着。『書紀』には686年にすでに四座がまつられていたという飛鳥の神奈備(神の降臨する場所)で延喜式内神社。2月に行われる「おんだ祭」では天狗とお多福が夫婦和合の少しエロチックな祭祀儀礼を演じることでも知られる。境内には犬養揮毫歌碑51号がある。

「大君は 神にしませば 赤駒のはら ばふ田居を 都となしつ」(巻19-4260)大伴卿

 壬申の乱は、672年6月22日大海人皇子による美濃国での挙兵、不破の関の封鎖にはじまり7月22日瀬田橋の戦いで近江方が敗れ翌23日大友皇子(十市皇女の夫)の自害により終わった。この内乱に勝利して天皇となった天武天皇を神と讃える歌で、飛鳥浄御原宮に都を置いたころに詠まれた歌。作者は壬申の乱で功績のあった大伴御行。この歌碑は1998年の台風7号で倒壊した檜の巨木で押し倒され、2010年に元の場所に再建された。
  雨はすっかり止み、夕暮れがせまっていたが、これほど明日香を濃密に歩いたことははじめてだった。そして歴史に書かれなかったことを万葉集で知ることができるということも実感した。これも山内先生の万葉歌を朗唱しながらのくわしい解説のおかげだ。最後に村の人の親切なこころにもふれて本日のフィールドワークは終了した。(H)

「十市皇女(とおちのひめみこ)事件」(編集部)
十市皇女は大海人皇子(のちの天武天皇)と額田王の間に生まれた皇女で大友皇子(天智の皇子で大海人皇子の敵方)の妃であった。高市皇子は大海人皇子と胸形君徳善の娘の間に生まれた皇子(母親としては卑母=皇族ではなく身分が低いとされる)で壬申の乱の際、大津京を脱出して大海人皇子側に加わり同皇子から全軍の指揮をまかされた。『日本書紀』によれば、天武七年四月七日、天武が斎宮《天皇自ら神事を行うために籠もる場所》に向かうために群臣を率いて午前4時頃に出発しようとしていたときに十市皇女が急死した。その死因は不明である。このため、天皇の行幸は中止となり祭祀も中止となった。このことについて北山茂夫は以下の考察を述べている(『天武朝』中公新 書)。大友皇子自害の後、天武のもとに帰された十市皇女は、伊勢斎宮に送られるべく倉梯の河上に建てられた斎宮に赴こうとしていた。その日に自害を遂げたとする。その背景について北山は、まず高市皇子と十市皇女の間に恋愛感情があったとする。それは高市皇子が十市皇女の死後に三首の挽歌(一首は上記の歌)を詠み、抑えがたい思慕の情を示しており、井上通泰がこれについて「此三首の御歌によればいと親しき御中ならざるべからず。よりて思ふに、大友皇子崩じ給ひし後十市皇女は高市皇子と逢ひ給ひしならむ」(『万葉集新考』)とする意見を紹介している。そして、この事態を知った天武と皇后(のちの持統天皇)は両者の間に生まれた草壁皇子の立太子(皇太子として天武後の皇位継承者とする)に臨んで、皇親系の額田王の子十市と壬申の乱の最大の功労者である高市の接近、婚姻は有力な皇位継承の可能性を持つ者の登場でありなんとしても避けなくてはならないことであったとする。その解決策が十市の強制的な斎宮入りであった。伊勢の斎宮に仕えるということは神に嫁ぐということであり二度と高市とは逢うことはできない。これが斎宮に送られるその日の明け方に十市が急死し、遺骸は七日後には赤穂(奈良市高畑?)にあわただしく埋葬されるという異常な事態の背景であるとするのが北山の見解である。北山は「皇女の自害だ、と断言して誤りあるまいとおもう」としている。

5月例会報告 櫻澤 誠さん(大阪教育大准教授) 「沖縄戦後史から何を学ぶことができるか」

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沖縄史研究と新崎盛暉
 いま沖縄に関する研究は、政治史、運動史、思想史、文化史などさまざまな分野で非常にさかんであるという。 櫻澤さんは新潟県の出身であるが、大学で近現代史を専攻し、従来の日本史の枠を超える部分に関心を持ち沖縄をテーマに絞って研究をはじめた。1950〜60年代に現職だった教員に聞き取りをするなかで、沖縄戦後史研究の第一人者新崎盛暉の史観に違和感を覚えた。新崎は、『沖縄戦後史』(中野好夫と共著)、『沖縄現代史』、『日本にとって沖縄とは何か』(いずれも岩波新書)などの著書で、日米両政府とそれをささえる日本国民による「構造的沖縄差別」の存在を示し、沖縄の民衆運動が沖縄史をつくる主体であり、1950年代後半の「島ぐるみ闘争」(注:軍用地料一括払い反対、適正補償要求、損害賠償請求、新規接収反対の4原則の闘争)、1970年前後の沖縄闘争、1995年の少女暴行事件後の展開を運動の転機としている。このように民衆運動を中心に置く一方で、1972年の沖縄返還から1995年の間が「20年の空白」となっているのが特徴である。「空白」とは、歴史研究において民衆運動を中心に置いているため、運動の画期が見出しにくいこの時期の歴史がよく検討されていないことを指す。

「1995年インパクト」と沖縄史研究の新しい段階
(1)森宣雄、若林千代、鳥山 淳の研究−新崎の継承、民衆運動の視点から
 1995年9・4の米兵による少女(小6)暴行事件を契機に、反基地感情が爆発し、大田知事は代理署名を拒否し、8万5千人を集めて県民総決起大会が開かれた。その後沖縄研究が活発化した。背景には沖縄への問題意識の高まり、米側公文書の公開、沖縄県公文書館の開館など史資料環境の改善、歴史学をはじめとする人文科学の多様なアプローチがおこなわれるようになったことが考えられる。それには、これまでの固定的な民族論の影響からはなれて、日本史の中での沖縄の位置を見直す視点が出てきたことなども考えられる。民主党政権下で沖縄密約問題の調査、資料の開示が行われたことの影響も大きい。
 以後、沖縄史研究に新しい世代が登場しはじめた。単著に限定すると、まずは、森宣雄、若林千代、鳥山 淳が第一世代である。森は「民衆運動史」という新崎の視点を継承し、「1950年代は前衛党の時代、1960年代は復帰協が前衛を担い、1970年代以降は中心を持たない同心円状にひろがるネットワークの時代」としてとらえるが、1972年〜1995年は「20年の空白」で、1995年以後の展開となる。
  若林は、「沖縄に関する米国(軍)の政策決定過程や軍政の実態について、アジアでの位置づけを重視して」検討し、「沖縄の『受益層』と民衆の区分を前提に戦後沖縄における双方の出発点を論じた」。大政翼賛会出身の者が知事になったり、那覇警察署長出身者が優遇されたり戦前戦中のブラックリストを米軍が利用して戦後の統治に生かしている問題にも触れている。鳥山 淳は、1945〜51年の琉球政府発足までを新たな史料を利用して描き、平地がほとんど基地に奪われる中で農業が不可能になる一方、基地経済への依存など農村社会の危機感を明らかにし、「『抵抗』(革新)と『協力』(保守)の二極対立を相対化し自治と復興をめぐる願望の潮流を描いた」。若林と鳥山はいずれも戦後初期に焦点を置いている。

(2)平良好利、櫻澤 誠の研究−保革の対立をこえた視点・オール沖縄へ
平良好利と櫻澤 誠は、「民衆運動」を歴史の中心に置いた新崎の視点からは前の三人より離れた位置に立つ見方といえる。
 平良は「徹底して軍用地問題にこだわりながら、『受容』と『拒絶』の二項対立ではなく、そのはざまで苦闘する沖縄政治指導者の姿を描き出し」、「島ぐるみ闘争」(1956年ころ)から1958年の占領政策転換(注:アメリカの高等弁務官制への変更にともない、沖縄住民の生活水準を日本の県並みにすることで本土復帰要求の高まりを未然に防ごうとした。)までの過程について、これまでアメリカの圧力により保守が「島ぐるみ闘争」から抜けることで運動の勢いがなくなり、1958年に不本意な合意があったという考え方に対して、新資料にもとづき1956〜58年の間もたたかいは動いており、背後で日本政府の関与もあってアメリカとの交渉が行われ、占領政策の転換があったとする見解を示している。また沖縄返還時の軍用地地主と日本政府との再契約交渉が行われた過程についても初めて詳細な検討が行われた(注:復帰前は米国が地代を支払っていたが、復帰後は日本政府が安保条約と地位協定に基づき土地を提供するので、日本政府が地代を支払うことになり、軍用地主と日本政府との間に新規賃貸契約交渉が行われ、復帰前の約6.5倍の地代を実現した)。
 櫻澤は、新崎が「民衆運動」(=革新陣営)を中心とする沖縄の歴史を描いたことに対して、「島ぐるみ闘争」のように保革の対立する人々が8割以上団結してまとまる時があることに着目した。そこで、沖縄における保革を次のように定義する。沖縄での「保守」的立場とは、「基地を受忍すること」しかし「基地拡張には反対し、補償を要求すること」とし、「革新」的立場は、「基地反対、基地撤去を要求すること」であるが、両者は単純に対立するものではないとし、「革新」的立場は「保守」的立場の発展過程ととらえることも可能だとする。現在のオール沖縄に至る歴史と沖縄の未来は、まさに保守革新をこえた沖縄民衆のしたたかな動きの中から創り出されるものなのであろう。その背景には、1995年少女暴行事件以後の反基地意識の定着と拡がり、本土への怒りと幻滅があり、70年代以後の世界的な民族・国家認識の変化の影響のもとで前近代琉球の王国としての自立した歴史への再評価、その後の「琉球処分=日本への併合」、「日本復帰=第3の琉球処分」という歴史認識のひろがりがある。
 編集者は、翁長知事誕生の選挙戦後半に同僚と応援に駆けつけて、その時まさに保革を超えた躍動するオール沖縄の姿を目撃し大いに元気をもらった。そして、これが沖縄の未来であるとともに日本の未来のあるべき姿なのだと確信させられた。それは実際その後、野党共闘として本土でも実践されるようになったが、そう簡単ではない。しかし、保守革新を超えて人々が手を結び合う、あの複雑で困難な過程を経てきた沖縄の経験を今学ぶことこそが大事だろう。 報告に紹介された沖縄研究者の著書を紹介します。
森宣雄
  『地のなかの革命−沖縄戦後史における存在の解放』(現代企画室2010) 『沖縄民衆史−ガマから辺野古まで−』(岩波現代全書2016)
若林千代
『ジープと砂塵 米軍占領下沖縄の政治社会と東アジア冷戦1945〜1950』(有志舎2015)
鳥山 淳
『沖縄基地社会の起源と相克1945〜1956』(勁草書房2013) 平良好利 『戦後沖縄と米軍基地 「受容」と「拒絶」のはざまで1945〜1972年』(法政大学2012)
櫻澤 誠
『沖縄の復帰運動と保革対立−沖縄地域社会の変容−』(有志舎2012) 『沖縄の保守勢力と「島ぐるみ」の系譜−政治結合・基地認識・経済構想−』(有志舎2016)『沖縄現代史−米国統治、本土復帰から「オール沖縄」まで−』(中公新書2015)

4月例会報告 山下喜久枝さん、松浦由美子さんの共同報告「おかあさんと手をつなごう」−1950年代 母と婦人教師のつどい

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大教組資料から発見、1950年代の地殻変動的な社会運動
 「大教組運動史」編集のために収集された資料の整理が2011年から始まった。その中に1950年代に起こった日教組婦人部による婦人教師と母親たちの子供と教育を守る運動の資料があった。それは「お母さんと手をつなごう」という呼びかけで 行われ、大阪でも活発な運動がすすめられた。そのなかで、牽引者的な役割をはたしたのが八尾教組の婦人部長だった山下喜久枝さん(旧姓青柿、故・山下重雄氏夫人)だということがわかった。1952年から全国婦人教員研究協議会(婦研協)が開かれた。第1回は大阪市中之島公会堂に2000人が集まり、1953年の第2回は千葉県で行われ江頭千代子さんの長崎原爆体験がNHKラジオで放送された。1954年の第3回は静岡に3000人が集まり「お母さんと手をつなごう」の呼びかけが行われた。 今回の報告は松浦由美子さんが資料発掘の経過と当時の状況や山下さんの役割などを紹介し、山下喜久枝さんが当時の体験を語るというやり方で行われた。

教員組合草創期に婦人部長となる
山下さんは1944(昭和19)年に臨時教員研修所を経て臨時教員になった。9月大阪市北中道小の学童疎開に付き添い半年後に卒業した子どもたちと帰阪する。その後、天王寺区味原小へ。当時学校を入ったところに祠があり教育勅語が置かれ、式の際には校長が壇上で捧げて読み上げた。戦後、教育勅語は否定され、同じ校長が「(制度が)変わりました」と言うだけであったが、特攻隊から帰ったある先生は職員室で恥ずかしそうにしていたので、元気づけてあげたという。終戦後、八尾久宝寺小に転勤した。久宝寺小で休暇をもらい、1948(昭和28)年平野女子師範学校で正教員の免許を取得し、八尾の久宝寺小学校に勤めることになった。この頃教員組合は義務的に参加するもので自発的に参加活動するという雰囲気でもなかったという。この頃校長も組合員だったので、山下さんは校長から依頼されて婦人部長となった。第3回全国婦人教員研究協議会には、校長に「行かしてほしい」と頼んで参加した。この頃はいろんな新しいことに興味があった。「お母さんと手をつなごう」の呼びかけは藤田寿(ひさ)さんが声をあげた。藤田さんは堺市の婦人民主クラブのまとめやくで、世界母親大会に、14名の日本代表のひとりとして参加した。

大阪での「お母さんと手をつなごう」運動
 婦研協第3回大会の全体会議で「お母さんと手をつなごう」の呼びかけがあり、校長の許可を得て八尾市で運動をはじめた。久宝寺小学校は古い村の中にあり、お寺などを会場にしてつどいが開かれた。夏休みの夜に寺や集会所で母親と婦人教員の話し合いがもたれた。夜は普段着で行けることや、いろんな学年の親が混じり合い親がいやがる成績の話などはあまり出ずに、いろいろな課題について電灯の下で話し合われる気楽な雰囲気であることがお母さんに受け容れられた。参加した母親の感想は、「楽しかった」「また参加したい」など好評であった。学期に一回はしま しょうと約束し、八尾では6月に第1回、8月に第2回、10月に第3回の会がもたれた。八尾がトップを切ってはじめたが、高槻では、農村部の母親も参加できるように市バスが農村に乗り入れるように要請した。吹田では「マザーグースの会」ができ、遠足のお菓子を共同で購入するとか、本を共同で買って学級でまわすなどの取り組みが行われた。八尾では子供を守る運動として危ない道に警告の看板を立てたり、子供によい文化を伝える取り組みとして、映画館を貸し切り午前中は教育映画を無料で上映した(ある参加者から、香川県丸亀市でも映画館で「ベンハー」などが無料で見ることができたと、同じような体験が報告された)。

大教組時代の思い出
山下さんは1956〜58年の3年間大教組の執行役員(専従)となり、大阪総評の婦人部も担当した。勤評闘争も体験したが、この時期は昼も夜もないほど激しい闘争を体験したという。この頃、産休補助教員制度を要求する闘いを組織して実現することができた。子供と接することが好きだったので現場にもどることにしたが、八尾の校長はみんな山下さんのような”闘士”が来ることを恐れてだれも引き受けようとしなかった。志紀小学校の校長だけ「おまえだれも採ってくれなかったので、わしが採ってやった」と言ってくれた。この時期は、校長が組合から集団的に脱退していた頃(1958年)であった。その背景には、朝鮮戦争前後からの「逆コース」のはじまり、勤務評定による教育現場の統制など戦後の政治、教育の反動化の波が押し寄せてきたことがあった。

質疑交流から
山下さんは37年の教員生活を終え55歳で退職後も、大阪退職教員の会女性部で「女性サロン」の世話役をつとめられた。91歳の現在も非常にお元気だ。趣味は日本画を描かれる。戦前と戦後の民主化、反動化の3つの時期を体験して教職に関わる仕事にに一生を捧げてこられた貴重な経験談を聞かせて頂いて参加者一同おおいにもりあがった。質疑では、戦前から戦後に切り替わった時期の教育と社会の変化についてどのように感じたか?母親と婦人教員のつどいには父親の参加はなかったのか?つどいは、どうしてもりあがったのか?どのような話題が話されたのか?などの質問意見が出された。また山下さん(旧姓青柿)のおじさんは戦前に神戸で労働組合運動で活躍した青柿善一郎さんであることや夫の故・山下重雄さん(元大教組役員・本会会員)が大教組の執行委員会終了直後 に「青柿喜久枝さんと結婚します」と突然のプロポーズをして本人と周囲を驚かせたことも紹介された。母親と婦人教員のつどいが大きな成功をおさめた背景には、校長が夜の会議をさせてくれたり、「母親にあわせて話をする」、「むずかしい話をしない」という婦人教員側のとりくみが功を奏したことや、戦前の家父長的な社会から婦人、母親が自立する契機となり、つどいでの話題も子育てや日常のいろんなことが話され共感を持てる場になっていたことが考えられるのではないかとする意見も出された。戦前は、女性がそのように自由に話し合うことができなかったことが戦後の民主化過程で、その壁が打ち破られ、その中から子供と教育を守るための要求が出され、そのエネルギーが1950年代の「お母さんと手をつなごう」という地殻変動的な運動の土台となったのではないだろうか。

3月例会報告 細田慈人さん(和泉市立ふるさと館学芸員)「中世の物語と陰陽道」

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陰陽道(おんようどう、おんみょうどう)
 陰陽道は、飛鳥時代に百済などを通じ導入された古代中国で生まれた陰陽説、五 行説、暦法などと、中国固有の宗教思想である道教、そして日本固有の神道などが融合、取捨選択されて日本で独自に成立したものである。その中心が、天武天皇により七世紀に設けられた律令制下の国家機関である陰陽寮で、陰陽(占い)、暦(暦作成)、天文(天文気象の観測)、漏刻(時刻の通知)の部門があった。陰陽寮に出仕し、天皇や上級貴族のために働く技術官僚としての「陰陽師」が「官人陰陽師」、のちに陰陽道への需要が下級貴族や一般庶民にまで広く拡大することによって民 中央が細田さん 間に登場してきたのが「法師陰陽師」である。
 平安時代、貴族社会をとりまいていた「物怪(もっけ)」(霊が引き起こす怪異)や「穢れ」というタブー、「呪詛」という目に見えない攻撃の恐怖などから、天皇や貴族たちの身を守るために陰陽道によって張り巡らされた防御のシステムは現代人の想像を絶する世界であった。それらの記憶は特に「今昔物語」などの説話となって残されている。説話と史実にみられる陰陽師の姿は異なる。両者の比較、その関連を探ることが今回の報告者の課題である。

物語に見る陰陽師の姿
 『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などの説話集には勧善懲悪、因果応報、偶像性などの特徴が見られるが、特に『今昔』には陰陽師の登場する話が多い。安倍氏や賀茂氏が10世紀以後陰陽道の支配的地位を占める以前に活躍した弓削是雄などの陰陽師や三善清行など一般の貴族で陰陽の術に通じた人々や市井で活動した下級陰陽師である法師陰陽師などの姿が描かれている。
 説話集、女流文学、軍記物などの物語に共通することは、登場する陰陽師は官人陰陽師、法師陰陽師、陰陽道知識を有する貴族で、職能(卜占、祓い、祭祀、暦道、天文道など)は宮廷陰陽道に依拠しているものが多い。物語では賀茂氏や安倍氏などの官人陰陽師の活躍と名声が描かれる一方、社会的身分の低い法師陰陽師は呪詛を行う悪役として描かれている。各ジャンル毎では、説話では鬼と対決する法師陰陽師など、女流文学では年中行事を司る宮廷陰陽師、軍記物では兵乱を予兆する陰陽師の姿などそれぞれ特徴の違いがみられる。

史実に見る陰陽師の姿−権力とむすびついて発展、貴族化
 10世紀以後、藤原摂関政治とむすびついて陰陽道の二大宗家である安倍氏(のちの土御門家)と賀茂氏(のちの幸徳井家)の両家が陰陽頭(陰陽寮の長官)となって地位を独占、勢力を拡大する。陰陽家の家格の上昇(安倍晴明は従四位下)、権 力とのむすびつきにともない、安倍氏と賀茂氏との勢力争い、安倍氏内部の抗争が生じる。室町時代には足利義満とむすびついた安倍有世(ありよ)が祈祷者として重用され、陰陽師としては破格の従三位の地位を獲得する。有世は大嘗会に行われる吉(き)志(し)舞(まい)奉行を執り行うことで、安倍氏の長者として、最高評価の陰陽師としての地位を獲得したという。安倍晴明が中世前期の陰陽師の立役者であるなら、安倍有世は中世後期の立役者といえる。晴明や有世など安倍氏の長者が吉志舞(新羅の舞ともいわれる)を舞ったという事実は、のちに曲(くせ)舞(まい)、幸(こう)若(わか)舞(まい)と陰陽道が関係することもあり、陰陽道と舞、芸能が深い結びつきを持つことを示唆する。

物怪と穢を祓う陰陽師
 古代から中世の社会には、物怪(もっけ:霊がひきおこすと考えられた怪異や祟り)と死を代表とする穢(けが)れのタブー、そして目には見えない呪(じゆ)詛(そ)という攻撃などが網の目に様に人々を取りまいていた。犬がおしっこをしたことも「怪異」とおびえた平安京の人々は、今日から見ればみんな強迫神経症のようであったといっても過言ではない状況であった。陰陽道は、これらを暦による計算、天体の動きの観測などを通じて分析し、それへの対処を行うシステムであった。陰陽師は上巳祓(三月三日)や六月祓(茅の輪くぐり)などの年中行事、仏事、葬送儀礼など滞りなくすすむように管理し、凶事を避けるために「物(もの)忌(いみ)」(外界との交流を遮断する)を指示し、「撫物(なでもの)」(紙の人形などに身体の悪いところをすりつけて水に流したりした)などを用いて病気の予防や治療をも行った。また朝廷でも私人でも重要なことを行う日時は陰陽師が選定した(日次(ひなみ))。例えば太政官の文書発給開始日も陰陽師が選定した。

民衆の中の陰陽師
 陰陽寮を中心に天皇や上級貴族の相談にあずかった官人陰陽師は貴族に位置し、社会のエリートであった。一方、陰陽道への社会的需要が増し市井に登場した社会的身分の低い陰陽師が法師陰陽師であった。これら市井の陰陽師は、中世後半以後、声聞師と呼ばれたさまざまな芸能を行う傍ら陰陽道的呪術を用いる人々や修験者という民間陰陽師となってゆく。彼らは卑賤視された河原者と居住地を接し、社会的身分は低かったが陰陽道の技能と知識を有することで一定の権威を持ち、内裏にも出入りを許されることがあった。物語で悪役として登場することの多い民間陰陽師は、史実では民衆の中で一定の地位を得ていたと考えられる。それは伏見莊においては検断権(中世の警察権・刑事裁判権、近世の大庄屋に匹敵)を持ち、起請文の管轄を行った例などにも見られる。  例会は久しぶりの中世がテーマで報告者の非常に詳しい報告に興味深く聞き入った。

2月例会報告 中條健志さん(会員・大阪市大都市文化研究センター研究員)「EUの諸問題を整理する−英国離脱、極右台頭、テロ、難民をキーワードに 」

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英国のEU離脱問題その後
 2016年6月23日にイギリスは国民投票で51.9%賛成の僅差でEU離脱を決定した。 今後離脱が正式に行われるまでには、各国との協定の結び直しがあって、2年以上かか る予定だ。メイ首相は3月頃にEUの憲法である「リスボン条約第50条」にもとづき、離脱を宣言し、欧州理事会に通告し、その後26カ国と離脱後のことについての交渉が終了すると離脱が決定する。交渉経過により離脱中止の可能性もあり、今後の政権の動きによってイギリスのEU離脱は、どうなるのか予測しがたい事態である。

移民・難民問題が原因か?
 2015年夏頃から、離脱と難民問題が関係あるように語られるようになったが、事実はそうでなかった。キャメロン首相は2013年、EUとの関係の見直しを提案していた。その理由は、イギリスのEUへの支出に対して、見返りが少ないという議論があって、そのために関係の見直しを行い、EU残留可否の国民投票を行うという提案であった。見直しの議論がされている頃には難民問題など出ていなかったのだ。
 イギリスは人口約6500万人中移民は500万人(8%)でEU加盟国の平均10%よりも低い割合だ。EUの「シエンゲン協定」は加盟国内の移動の自由(パスポート、ビザが不用)を保障するが、イギリスは協定に加入していないので、移民が入りにくい国である。イギリスのブルーカラー労働者のほとんどは移民出身である。イギリス人は、そういう仕事には就きたがらないので、雇用を脅かしていると言うことにはならない。難民については、2012〜2014年の難民申請では、イギリスが2万人に対して、ドイツは44万人、スウェーデンは16万人、フランスは8万人なので、イギリスが特に難民が多いわけではない。難民問題が離脱の原因とされている理由は「スケープゴート」にされているのにほかならないというのが多くの研究者の意見だ

離脱の本質的原因としての内政問題
 離脱の真の原因は何か。ひとつはEUの官僚制の問題などシステム上の問題が指摘されている。
 さらに重要な原因として、各国の内政問題の矛盾が指摘される。2005年にフランスで欧州憲法案が国民投票で否決された。フランスで通過すれば他の国でも採択されると思われていたが、これで憲法、元首、軍隊を持つ「欧州合衆国」構想は終わった。その原因は、憲法の評価そのものよりも失業率の高さなど政府の政策への批判の影響が大きかったことが考えられる。イギリスでも社会福祉や雇用の問題があり、EUへの支出に比較して見返りが少ないことが以前から指摘されている。フランスの極右党首ルペンは「フランスの金で東欧やイタリア人を食わせている」という批判を行い支持率を高めている。
 国内政治への国民の不満がEUへの関わり・負担に対する批判となってはねかえっているということが問題の本質らしい

極右の台頭
 ヨーロッパ各国(フランス、オーストリア、ドイツ、北欧など)での極右の台頭が目立っている。フランスの大統領選挙では2月現在の支持率で極右政党の国民戦線党首ル ペンが第一位となっている。社会党はもはや左派とは思われていない状況だ。第2回投票でルペンに勝つためには、それ以外の政党が結集することが必要となっている。なぜ極右が支持を伸ばしているのか、国民戦線の政策を見ても失業対策や若者雇用の問題など共和党と変わらないおだやかな内容で、父親のルペンが言ったような「外国人は出ていけ」などの過激なことは言わなくなっている。むしろフランスで極右として目立っているのは、日本の安倍首相と「日本会議」であるという。

テロ問題
 2015年のパリのテロで、犯人の一部がベルギーのブリュッセル市モーレンベーク地区出身のモロッコ移民2世であったことからベルギー(特にモーレンベーク)がテロの温床地であり、移民・難民が元凶視されるようになった。しかし、ヨーロッパの貧困地域全体で職を得られず自立できない若者に対して、テロ組織が青年のアイデンテイテイー確立を求める心理に訴えかける巧妙なリクルートが行われている。ベルギーや難民だけが特別にテロと関係するわけではない。

まとめ
 移民・難民問題が本質的な内政問題(貧困、失業、格差などの問題)とすりかえられて原因とされている。特に日本ではEU離脱の原因を難民問題とする傾向が強い。それは、多言語・多様な文化を持つ社会と単一的傾向の強い文化の社会の違いが原因であるかもしれない。「ベルギーは言語が異なるので(テロの)対策がとりにくい」という見解が仏、独などで見られるが、ベルギーでは言語の違いは問題にならない。日本では福島原発事故が起こってから反韓流キャンペーンがはじまった。これは原発事故をおおいかくすためのもの?と、フランスで報道されている。ヨーロッパにおいては歴史的に「社会問題」と移民・難民は常にリンクされてとらえられる傾向がある。 質疑では活発な意見質問が出された(「」内が回答)。EUへの拠出金問題では、「独仏は積極的だが英国はヨーロッパ中心のイベントになるので消極的である。」宗教問題では「旧植民地宗主国の仏はイスラム系が多く、英は少ない。」フランスについて、現在は荒れている雰囲気だが、反イスラムは表だって言いにくいように思える。これについては「社会、政界にイスラム系の人が深くとけこんでいることも原因」という。EUは、もともと経済統合で発足したが、それは資本主義の延命策ではないのか。EU発足の理念としての戦争のないヨーロッパをめざす方向についてはどのように考えられているのか、については「ルクセンブルグなどの小国の中に平和・多文化の統合を求める考えが生きている。」膨大な難民がどうしてヨーロッパに受け容れられたのか?日本と大きな違いを感じる、など。

1月例会報告 山本恒人さん(会員・日中友好協会副会長・大経大名誉教授)「国家資本主義中国の生命力とゆらぎ」

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社会主義研究の現状
 ソ連・東欧の「社会主義体制」崩壊と中国の改革開放以後、日本の社会主義研究は低迷している。従来の「社会主義経済学会」は「比較経済体制学会」と看板を掛け替え、中国=「社会主義」説の立場の研究者は少数派となっている。その中で、社会主義の現状と展望に関して積極的な発言・理論提起を行っているのは日本共産党ぐらいである。 その要点は、@ソ連・東欧=人間抑圧型の体制の崩壊。A社会主義的変革の中心は生産手段の社会化(生活手段は私有、中小企業・農業の私的経営・所有は認める)。B議会主義の尊重。C市場経済の再評価(計画性と市場経済を結合)などであり、現在の中国、ベトナム、キューバなどの国は社会主義に到達した国ではなく、社会主義をめざす国々としてとらえている。

2033年にゼロ成長となる中国
 慶応義塾大学の大西 宏は、中国経済の成長は徐々にスピードを落とし2033年には成長率ゼロの段階に到達するという。これは他の先進資本主義国の到達状況と同じである。中国の現在のGDP総額は11兆ドル(世界第2位、アメリカが第1位、日本が第3位)、一人当たりGDPは約8000ドルで(76位)中所得国。アメリカは第7位、日本は第26位である。大西は、中国は正真正銘の資本主義であるという。毛沢東時代は国家資本主義、ケ小平時代に入って私的資本主義となり、現在は国家独占資本主義(1929年恐慌以後はじまり、公共事業政策や管理通貨制など国家の介入のもとで運営される高度に発達した独占資本主義)段階とする。中国の経済成長はこれまでの「投資依存型」(工場や機械設備などの生産手段への投資優先)が成長の停滞をもたらし、中成長に移行していくためには「消費依存型」への構造転換=「新常態」をめざしている。そのためには政府・官僚と企業、中央と地方などの経済主体間での競争、妥協、利害の対立などの問題が引き起こされ、そのことが「経済の揺らぎ」や「政治の揺らぎ」の問題に波及しているという。

タカ派が台頭する中国の政情
 「政治の揺らぎ」は例えば中国軍部内のタカ派の台頭となって現れている。彼らは「戦場で獲得できないことは、卓上の談判によっても得られない」とする。ケ小平が経済発展を優先させて「今は我慢」としていたが、彼の死後に重しがとれて軍部タカ派が勢力を増しており、次第に中国の政策の基調に「大国主義・覇権主義」が強まりつつある。南沙・西沙諸島への中国の現状変更行為、尖閣諸島への介入など覇権主義的な行動が活発となり、安倍政権の日米同盟強化・海外派兵・憲法改悪などの悪政に絶好の口実を与えている。

「あいまいな制度」としての中国資本主義の生命力
 加藤弘之(故人)は、中国資本主義の持つ「曖昧な制度」にこそ、その生命力が潜んでいるとする。中国には@激しい市場競争、A国有と民有併存の混合体制、B地方政府と官僚の競争、C利益集団形成過程で生じる腐敗と成長の共存などがあり、「中国では 制度移行に伴う一時的な制度の併存や重複を利用するだけでなく、『曖昧さ』を意識的に温存し、積極的にこれを利用することで組織や規則に縛られることなく、個人が自由に意志決定できる範囲を広げ、機動的、効率的な制度運用をはかる」という「曖昧な制度」が活力をもたらしているという。ここでは「腐敗」問題も決定的なマイナスとはならないので、現状追認的、楽観的な分析とも取れる考え方だ。

改革かカタストロフィー(崩壊)か、中国の行方
 大西の「投資依存型成長」から「消費依存型」への構造転換の可能性は、国内の経済格差を見るとそう簡単ではない。中国の「ジニ係数」(経済格差を示す指数、0〜1の間の数値で示され、0.4以上を警戒ラインとする)は、2008年のピーク0.49以後、高止まりとなっている。先進国平均が0.3、世界平均が0.44であり、中国の投資依存型の成長とは国民生活を犠牲にしてきた経済成長と言える。中国の社会階層モデル表によれば、@上級階層(政府トップ、国有銀行・大型事業責任者など)が1.5%で1200万人、A上位・中級階層(高級知識人、中・高級幹部、中企業経営者など)が3.2%で2500万人、B中級階層(技術者、科学研究者、個人経営など)が13.3%で1億500万人、C下位・中級階層(労働者、農民など)が68%で5億6000万人、D下級階層(失業者、農村貧困家庭など)が14%で約1億1000万人であり、中国人口約13億人のうち約82%が下位の階層であり、貧困層が分厚く、中間層が非常に薄いことが特徴である。
 中国人研究者楊継縄は、権力は制約なき上部構造となり、資本は制御されざる経済的基礎となっている。これが『現在の中国におけるすべての社会問題の総根源』とし、「もし、主体的な政治改革による民主の前進を怠るならば、ますます社会矛盾が累積し、遂にはカタストロフィー型の変事に到りかねない」としている。その予兆として、「労使衝突」「農村での農民と幹部の衝突」「土地収用・開発にともなう立ち退きをめぐる紛争」「地方幹部、公安・検察・司法一体化した不正・横暴をめぐる紛争」などの大衆的な騒擾事件(「群体性事件」)の多発を取り上げている。
 貧困と経済格差の是正は中国社会の体制存続を左右する焦眉の問題となっている。重慶の薄煕来事件は権力闘争の一環という問題がありながら、民衆生活の重視という課題をめぐってもせめぎあいを内包していた、という。

政治改革の核心は民主政治の実現
 今起こっている「群体性事件」(大衆的騒擾事件)は、自発的な大衆の意志にもとづいている。報告者は「国家権力の意志と国民の意思との相互交通を保障する制度的機能 が欠如しているが故に、『群体性事件』が絶えない」とし、楊も権力を制御するためには「民主政治を必要とするものであり、政治的独占を排除し、政治的競争が展開されること」が政治改革の核心と述べている。  現在の中国共産党一党独裁の体制が「当面不可欠の要件」でなおかつ「社会」(人民)の側の反作用による共棲関係とするのか(加藤)、党・国家と変革主体としての「社会」の二元的な構造とするのか(菱田雅晴)、あるいは一党独裁を廃して民主政治の体制を築くことが必要なのか、中国情勢は一朝一夕には解決できない複雑な事態にあることはまちがいないが、必要な方向性は見えてきたように思える。習近平自身、中国共産党が人民に見放される時、党は「統治の正統性(執政資格)を失って、歴史の舞台から降りざるをえない」と述べている(『人民日報』2016年7月7日)。
 意見交流は活発に行われた。参加者に中国での起業を試みようとした会員もいて、ウイグル問題のテロ事件が起こってから外国人への規制がきびしくなったこと、省の幹部が大きな権限を持っており起業活動を行う上で直接的な影響力を及ぼすことができる実態も垣間見えたことなど興味深い話題が提供された。中国共産党の幹部と資本家経営者が癒着あるいは同一人物であったりする状況で、資本の無法で制限のない利潤追求活動や腐敗に規制をかけることなど困難ではないのか?という疑問、中国の統計が正確なのかという疑問、ソ連方式の「社会主義」失敗の総括がされているのかという疑問、「議会制度」・民主主義の確立は、再度民主主義革命を行うぐらい独自に追求しなければ無理なのではないかという疑問、資本主義の世界的展開の中での中国資本主義というものを見ないといけないのではないかという疑問、など多くの疑問と意見が出され、10月ころ再度、中国共産党大会を受けて例会報告を行いたいとの申し出が山本氏からあった。