HOMEおさそい機関誌紹介例会案内 諸活動活動資料室リンク集

大阪民衆史研究会例会資料室

 クリックすると該当する年にジャンプします (Homeキーを押すとここに戻ります)

2018年例会報告

1月例会報告 辻本 久さん(会員)、横山篤夫さん(会員)「記録に残されなかった阪南市の空襲」

1月例会の写真

泉南の空襲記録を書きかえる発見
 大阪府下の空襲の研究では、大阪市内、北摂地域などの調査がすすんでいるが大阪府 南部の泉州地域の研究は遅れている(小山仁示『大阪大空襲』参照)。横山篤夫さんは小山さんからも励まされて泉州地域の聞き取り調査を行ってきた。最近の研究では2016年5月例会で報告された英国艦隊による泉州一帯の空襲攻撃事件がある。この報告内容に注目した阪南市在住の辻本さんが、横山さんに地元阪南市の空襲事件のことを連絡し、これが今まで公的な記録にない新しい事実であることが確認された。横山さんから指摘を受け、辻本さんがさらに調査を行った結果が、今回の報告につながった。それは1945年8月8日に現・阪南市の海岸部であったP51戦闘機による攻撃で死者3名の被害があった事件で、このことは警察署の報告にもなく、その後公的な記録に残らず、阪南市史(旧・阪南町史)にも記載されることはなかった。そういう意味で、今回の発見は泉南地域における空襲研究を書きかえる内容となり、各紙にも大きく報道された。

報告者本人が目撃体験した空襲
 辻本さんは昭和10年生まれで現在82歳。空襲当時は小学校4年生であった。当日(1945年8月8日)の午前11時半頃で快晴だった記憶があるという。家の土間にいると、突然「バリバリバリ」という音(機銃の発射音)と超低空で飛んでいると思われる飛行機の爆音が聞こえた。村出身の予科練のパイロットが超低空で飛んでいたのを見たこともあり、飛行機の爆音であることがわかった。山側から海にむかって村の木造船の造船所から船が進水しているところに機銃掃射が行われたのだ。アメリカ軍のP51戦闘機が100mほどの近距離で海に向かって飛んで行くのが見えた。ジュラルミンの銀色の機体が、翼から白い煙を流して飛び去って行くのが見えた。煙は機銃を撃った跡の硝煙らしかった。当時は、本土へ攻撃に来る戦闘機は、一般に「艦載機」とか「グラマン」(海軍の戦闘機で紺色に着色)と言う人が多かった。辻本さんは子どもながら、防空教育からか、新聞や雑誌などからの知識だったのだろうか、その戦闘機の機影を見て、すぐP51とわかったと報告されている。一方、日本の戦闘機は隼(陸軍)しか知らずアメリカの戦闘機は名前やメーカーも知っていたという。  現場は現在の南海本線「鳥取ノ荘駅」の浜側にあたり、当時西鳥取村の北地区付近、タコ釣りをしている漁師が撃たれたという情報が伝わってきた。この地域は現在も大阪湾にそって何カ所も漁港がある。当時は農家が主で漁師人口は少なかったという。船に何本も竿をつけて風に流されながらタコを釣る漁法があった。
 あとでわかった被害の全容は、地元の人が2名(うち一人は土手藤吉さん)、他地域の人で大型の機帆船(「摂津丸」)の船長らしき人が1名亡くなったという。報告者は、そのとき沖の方から棺桶を乗せた舟が浜に向かってやってくるところを目撃している。棺桶を舟の上に十字型に交差するように置いていたことを印象深く憶えているという。
 事件の日が8月8日であることは、今回の調査で地元の人の聞き取りや寺の過去帳からわかったとのこと。

P51戦闘機部隊のこと
  P51戦闘機(愛称ムスタング)は、ノースアメリカン社が英国本土からドイツ爆撃の護衛用にイギリスの要請で開発した長距離の航続距離を持つ戦闘機だ。馬力、速度、航続 ノースアメリカンP51ムスタング戦闘機 距離などにおいてゼロ戦などの日本戦闘機にまさり、ヨーロッパ戦線から太平洋に転戦、第7戦闘機集団が硫黄島上陸戦の最中に本山飛行場に移駐し、1945年4月7日から日本本土攻撃に参加した。部隊の編成は、戦闘機集団(ファイターコマンド)という上級司令部のもとで、戦闘機軍団(ファイターグループ)が複数構成され、ひとつのグループは3つの戦闘機戦隊(スクアドロン)で編成、ひとつのスクアドロンは4つの戦闘機小隊(ファイターフライト)で編成、各フライトは4機の戦闘機が所属する。ひとつのコマンドに148機が所属している。1機につきパイロットが2名待機している。関西地域は、第21戦闘機軍団(ファイターグループ)が攻撃に参加した。最近NHKでも放映された記録フィルムの中に、P51が地上を機銃掃射で攻撃する映像があり、これは機銃を発射するために引き金を引くと同時にカメラも作動する仕掛けになっているそうだ。同機は性能がよいので朝鮮戦争でも使用され現在も自家用機などに利用されている。

なぜ阪南市の空襲被害(死亡者)が記録されなかったのか。
 当時、尾崎警察署が空襲被害の把握をしていた。空襲で死者が出たという当時村の人の多くが知っていたであろう事実が警察署の記録からもれていたと考えられる。それがなぜか、あとの質疑の中でも疑問が出されたが、不明のままである。おそらくは、当時混乱していて、報   辻本 久さん     告が時間内に届かず集計漏れとなったことなどが想定される。警察署の人員不足も指摘されている。戦争末期、成人男子のほとんどが戦地に送られ、警察署といえど人員が不足し業務がままならない事態に追い込まれていた可能性も考えられる。ともかくも、72年ぶりに、空襲被害の正確な事実が確認されたのであった。今全国各地で、このような空襲被害の実態の再調査がすすめられているが、実際の体験者、目撃者が健在でおられる時間も残り少なくなっており、調査を急ぐ必要がある。実際の空襲下の生活を体験した参加者もいて、質疑がもりあがった。高知県でP51の編隊が飛行する目撃談も出され、また墜落B29機のガラス破片をこするといいにおい がしたという、ある年齢層以上の人でないとわからない共通の体験談も交わされた。

2月例会報告 塚田 孝さん(大阪市立大学文学部教授)「近世大坂の都市社会−孝子・忠勤褒賞から見る民衆世界−」

2月例会の写真

「孝子・忠勤褒賞」史料により、名もなき人々の生きざまを描く
 塚田さんは昨年12月、『大坂民衆の近世史−老いと病・生業・下層社会』(ちくま新書)を発表した。そこに詳細に描かれたのは、江戸時代の都市大坂に生きる名もなき庶民の歴史であった。そのきっかけは、大坂市中に通達された孝子褒賞(親孝行な子供への褒賞)や忠勤褒賞(奉公先の主人に誠実に仕えた者への褒賞)の詳細な理由書の史料に出会ったことである。
 松平定信が行った寛政の改革に際して、寛政元(1789)年、親孝行や奇特な行為の事例を全国調査し、褒賞(ほめて褒美を与えること)することが開始された。大坂では10月にお触れがあり、孝子等の調査が行われ、その後10年間ほどの調査をもとに享和元(1801)年、『官刻孝義録』が刊行された。摂津国78人 のうち大坂は7件21人であった。幕末までに480件余りの褒賞が市中に通達された。  当初は江戸に上申し、下知を受けて褒賞していた。当初は孝子褒賞と忠勤褒賞が重点であり、その頃の褒賞理由は長いこと、銀が下されること、教戒的な文言が見られることなどが特徴である。文化6(1809)年頃から大坂独自の褒賞が行われるようになり、その特徴は、理由が簡略、銭による褒賞、教戒文言はないことであった。 時代を経るにつれ、「年寄(町の運営にあたる役)の役儀出精(働きぶりがすぐれている)」(1812年〜)、「盗賊捕縛」(1820年〜)、「難船救助(安治川や木津川での難船の救助)」(1830年〜)などの褒賞が増加している。

孝子褒賞・忠勤褒賞のパターンと条件
 今回は、孝子、忠勤の各褒賞について、それぞれのパターンと条件につき事例をあげて報告された。
孝子褒賞のパターンは、@幼少時に親の病気や死亡のために苛酷な状況となる場合。 A生活困難な状況下、老親を抱え、献身するような場合。忠勤褒賞のパターンは、@主家が困難となるも、再建に努力する。A主家の困難が続くが、どこまでも支え続ける場合など。
 褒賞の条件としては、まず富裕な生活者は褒賞の対象とはならないこと、あくまで貧しい階層の者であることで、その行為の内容として@家業出精、A看病や身の回りの世話、B弔い、年忌の行いなどがポジテイブな中身として、またC家賃滞納や買掛(つけや借金)がないことなども条件とされた。

都市下層民衆の生活の不安定さ
 褒賞される人々の生活から見えてくることは、都市に生きる下層の人々の生活が非常に不安定であることだ。病気では眼病、盲目の事例がもっとも多く48人。聾唖者は2人。中風が14人。癇性・気むら(精神不安定)が14人など。父親の死後母親への孝行が行われる例も多い。火災も多く、転宅も多く、不安定な借家人の生活状況がわかる。特に借家人の場合、享保15(1730)年から女名前で借家することができなくなったので、養子により男名前を借りたりすることになった。

高齢者への「老養扶持」「手当米」
 子や孫の孝行への褒賞として「老養扶持」が一日米五合与えられた。また100歳以上の高齢者には「手当米」として米10俵与えられた。

都市民衆の複合的な生業構造
 褒賞の事例からわかる都市民衆の職業は、籠細工、灯心職、綿実の挽売、古綿打ち、提灯張、夜番、塩魚、青物売、煙草入縫職、釘鍛冶、下駄職、鼻緒足袋職、船頭、本綴り、夜番、大工、米仲買、醤油販売、金融関係、墨屋、歌舞伎役者、陰陽師、三味線指南などで、都市には多様な職種があり下層の民衆がいくつもの職を兼ねて生活を成り立たせていた状況がわかる。

自治組織「町(ちよう)」の姿、相互扶助的側面、複合的な生業で生活を支える人々
 都市大坂のうち商人や職人が居住する町人地(町(まち)方(かた))を構成する小単位の町(ちよう)は、独立性の強い自治体と考えられる。大坂市中は、北、南、天満の三郷から成り、北に250町、南に260町、天満に109町の計619町があった。ひとつの町が自治単位であり、たとえば道(ど)修(しよう)町(まち)は道をはさんで南北の区画が1町であった。町を構成するのは主に、町に家屋敷をもつ「家持ち」としての町人と借家人の二つの階層であった。(家持の町人から選ばれた町名主、町年寄、月行事の三役が町の運営にあたる。)
  町に関わる雑務として「夜番人(やばんにん)」がある。町の夜回りをするほか、昼間にも町内の用事を依頼されて行い、その他にも本綴り(本を綴じる仕事)などの様々な副業をする。文化7年の伊勢屋佐兵衛の事例は、両替屋に下人奉公していた佐兵衛は、主家が傾き、自らの家屋敷も売り払い借家人となり、町の夜番人として雇ってもらい、副業もしながら主家を支えた。町の相互扶助的側面と複合的な生業のありかたがわかる事例である。一方、「町代」(市役所の職員的な仕事)は町の業務をしながら他の副業をすることなく、町代の仕事に専念して、その精勤褒賞の対象となっており、夜番人のように副業をすることはないところが異なる。
  町年寄に対する精勤褒賞事例からは、文久2年の瀬戸屋九蔵の事例でわかるように紛争の解決や、困窮者の援助など相互扶助にはたした役割など町の運営に関わる町年寄に期待される事柄が見えてくる。

褒賞の前と後
 褒賞があると、奉行所からの褒美の銀(銀5枚)だけではなく、多額の祝いが各所から集まった。安政3年の御池通墨屋和平下女いその事例では、墨屋である主家の当主や 家族が中風や眼病で倒れ、下女のいそが嫁入り話まで断って、看病から商売まで引き受けて働き、東町奉行所から褒賞され銀5枚と惣年寄から銭2貫文もらったが、そのほか町内の家持個人、町代、借家人などから多額の貨幣、物品がお祝いとして寄せられた。

明治期の褒賞制度
 明治初期にはなお全国で江戸期とかわらない孝子・忠勤褒賞が継続されていた。一方、1875(明治8)年4月、ヨーロッパの制度が導入されて太政官布告により「勲章条例」が制定される。その後、7月に太政官通達「篤業奇特者及び公益の為め出金者賞与条例」が出され、各府県で独自に褒賞せよとの指示が行われた。褒賞対象の中心は、江戸期の「孝子・忠勤」であった。その後1881(明治14)年前記条例が改正された内容による「褒章条例」が公布された。明治期に制定された「勲章条例」と「褒章条例」は改正を繰り返しながら現在の勲章と褒章の制度的根拠となっており、報告者は「明治以降の勲章・褒章の明治政府による、その吸収と再編の意味や、戦後の二度にわたる見直しにもかかわらず、現在に至っている意味などを考えるには、近世以来の褒賞に込められた政治的意味を踏まえておくことが必要であろう」としている。

質疑交流から
 参加者から多くの質問意見が出された。主なものとして、(問)奈良時代以降の日本や中国でも、孝子褒賞にあたるようなことはあったが、近世後期に行われた背景は何か?(答)18世紀末から19世紀にかけて一揆、打ち壊し、若者の博打のはびこりなど社会秩序の動揺が続いたことに対して儒教的な要素で締め直そうとしたことが考えられる。(問)褒賞を媒介にして、町などから金品が寄せられることは相互扶助につながるので、褒賞は、そのような位置づけ(救済)が考えられるのか?(答)褒賞は救済目的ではない。(問)遊女などの階層も褒賞されるのか?(答)遊女などは、ある意味で自己犠牲の究極の姿として考えられるので褒賞の対象となりえた。
 報告中、大坂の道修町などの詳細な絵図が示された。そこには、「吉兵衛」や「しな」、「ゆき」などその町に生きた個人の名前が浮かび上がっていた。塚田さんは著書の中で「歴史のかげで、ひっそりと、しかも懸命に働き、誠実に生きた人々に無限の価値を見出しうるような歴史学でありたいといつも思っている。・・・そうした人々が歴史をつくってきたのであり、それを明らかにすることはとても楽しい」と語っているが、本研究会の原点とも通じる内容の報告であった。なお、会長の尾川先生の先祖が、『官刻孝義録』に記載されているという意外な事実も知らされた。

3月例会報告 西田 清さん(治安維持法国賠同盟滋賀県本部)「反戦・平和にいのちをかけた久木興治カ 不屈の青春」

3月例会の写真

眉目秀麗、頭脳明晰な青年革命家
 久木が青年共産同盟や日本共産党に入って、軍隊への反戦工作などをしている時に特高警察に逮捕されたように、西田さんも戦後米軍への工作などを行っていて逮捕され刑務所に入った経験を持つ。それは自分自身が久木の後を追っているように感じると、西田さんは言う。
久木は滋賀県の八日市中学校に小学校5年から受験して入学した秀才である。写真を見ると「眉目秀麗」そのものという印象だ。当時久木はロシア革命史の本を読みふけり、河上肇が編集した『社会問題研究』を購読、ロシアに渡って「社会主義」建設に参加することが夢 であった。のちに治安維持法で検挙され投獄されたことで、八日市中学校の学籍簿から除籍されることになったが、戦後周囲の尽力で同窓会に働きかけ学籍は復活することができた。
 大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)に入学後、「社研」に加入し「大阪外語読書会」を20名ぐらいで組織した。読書会が弾圧されそうになった際、彼は商家出身の同窓生の家に資料を隠したが、このときは翌日特高が来て危なく難を逃れた。こんなところに彼の剛胆にして細心のものごとに対処する性格があらわれているという。しかし、彼は受験生に読書会勧誘のビラを撒いていて検挙される。

軍隊への工作活動
 久木は1926年、大阪で組織された青年共産同盟(共青)に加盟、翌年春日庄次郎と会って日本共産党に入党する。当時春日の活動拠点は、大阪市内の千日前通りの市電の停留所に近い細工谷にあった。彼の任務は工場と青年労働者のなかに軍国主義反対の勢力を築くことであった。1927年、軍隊工への働きかけを行うことが決定され、関西地方委員会の書記であった久木は、その先頭に立つことになった。
 27年12月下旬には、大阪城近くの歩兵第8連隊と歩兵第37連隊にビラ「歩兵第八連隊及歩兵第三十七連隊の全兵士諸君!」を、28年2月11日には、ビラ「戦争で肉弾とされる兵卒には選挙権もない!」を、28年2月19日には、ビラ「国家の干城たる兵卒諸君に選挙権がない!」を兵営内に配布している。ビラは封書などに入れて隊内の兵士に郵送されたという。28年2月24日には海軍の水兵に対する働きかけが検討され、翌月10日、「兵卒新聞」が発行され久木が執筆した。軍隊内に共産党の組織を建設することも計画された。28年、青年共産同盟員の兵士中村福麿は労農党演説会で反戦演説を行い、軍法会議で懲役6年の刑となった。久木は『青年衛兵』で「兵卒諸君のために闘った中村二等卒の処罰に反対せよ!」と訴えた。

3・15事件
 1928年3月15日、田中義一内閣のもとで日本共産党をはじめとする民主団体に対する大弾圧が行われた。これが3・15事件である。日本共産党、労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟などの活動家1600名余が検挙され(うち約500名を起訴)残酷な拷問が行われた。同年6月には治安維持法をいっそう改悪するために最高刑を死刑とする緊急勅令が出された。事件の背景には、国民の中に運動をひろげようとする日本共産党とその影響力を壊滅させようとする政権側の意図がある(編集部注)。久木は28年3月15日午前4時半に検挙される。29年2月1日公判で非転向(注:「転向」とは支配権力が共産党員や同調者に「正しい方向に転じ向かうのだ」と思わせる意味で作られた用語)を貫いた。
  久木は、予審終結時の陳述で「私は従来と何等変わった感想は現在何も持っていない」、公判の最終陳述では「吾等はブルジョアジーの敵として罰せられる名誉に立っているので、ブルジョア司法に公正は望んでいない」と語り、京大教員であった村山藤四郎の解党主義(共産党の方針から君主制撤廃と大地主の土地没収を削除することを主張)に対しても、「君主制の廃止及び大地主の土地の没収の両項目はあくまで存続さすべきであり、これなくして共産主義政党とは言えない」と反論した。獄中の5年間は、大阪刑務所に入所した時に、「刑務所にいるうちはいっさい話をしない。出たらしゃべる」と言ったきり全く口を開かなかったというので、刑務所の教誨師も彼の意志の強さに感心していたという。

出獄後の状況、大阪での動向
 出獄した後、1935年10月に久木は上阪する。特高警察がつきまとい、就職するも会社に特高が来ると翌日はクビになるという状況で、職を転々とした。1936年5月に思想犯保護観察法が公布され、治安維持法でつかまった人は一生保護観察の対象となったのだ。西田さんは、久木が第2回予審尋問調書で「若し(日本共産党の)組織が無いなら『コンミニスト』(ママ)として組織をつくる必要も意識した」と語っているが、出獄後上阪して、なぜ党の建設に取り組まなかったのか疑問としている。時代は2・26事件や日独伊防共協定調印、大本教やひとのみち教団弾圧事件などが続き、1937年には日中全面戦争が開始される頃である。そのような情勢が久木の行動にも反映していたのだろうか。最後に西田さんは、1920年代の久木の先駆的な活動は評価に値するとして、このような無名の人びとの歴史を発掘することの重要性を強調された。

松浦由美子さんからの補足
 松浦さんは1980年代から「労働雑誌」の調査をすすめる中で、西田さんが書いた久木の伝記「不屈の青春」を見て、彼が上六周辺で活動していたことを知った。久木が兵士に反戦ビラを送って働きかけた第八連隊は難波宮跡、第三十七連隊は旧国立病院跡であった。共産党に入党したところは日赤付近、春日庄次郎のアジトは天王寺区細工谷に、共青関西地方委員会は千日前通の市電停留所跡にあった。松浦さんは自分のいる周辺を久木が活動していた偶然も手伝って、次第に調査をすすめることとなった。久木が出獄後、入社した「教育通信社」は都島区網島にあり、「日刊教育通信」を発行していた。この会社は「大阪府学事職員録」などを発行し、教育界と強いつながりを持っている。
 久木が、この会社に勤めるようになった経緯もよくわからない。特高ににらまれそうな活動歴のある人物が多く居て、久木が入るきっかけとなった経営者の富岡勝という人物も「大阪合同労組」にいたらしいことなど今後調査すればおもしろいことがわかりそ うだ。最大の謎は、久木が1937年7月24日天神祭の宵宮の日に大川(淀川)で溺死したとされていることだ。松浦さんは、水泳の得意だった久木が、流れの緩やかな川でおぼれるとは考えにくいこと、他の事故と違い新聞記事にもなっていないこと、などから 特高警察による謀殺ではないかとの疑いを抱いている。ところで、例会当日参加者(医師)から意外な意見が出された。久木は長い刑務所暮らしで脚気を患っていたので、泳 いでいるときに「脚気心」により不整脈が起こると心臓が止まり、大川付近の川底は5mほどの深さがあるので、沈んでしまって浮かび上がれなかったかもしれないとのこと。はたして真実はどうか、今後の調査と解明が待たれるところだ。

質疑交流
 参加者からの質問意見で上記文中に紹介した事以外で、戦前の軍国主義の時代の中、久木のような反戦と平和をめざす活動を弾圧にもめげず勇敢に行える人物の居たことに驚き、なぜこのようなことができたのかという質問には、西田さんによると、戦前にこういう先駆的な活動をできたのは、久木のような知識人の役割が大きかったという。またほかに、大阪の運動の先駆性、大阪外大の学生運動の伝統などについても意見感想が出された。

4月例会報告 赤塚康雄さん(会員・元天理大学教授)「ジャーナリスト柳沢恭雄の研究」

4月例会の写真

銃口を前に「終戦」を守った男
 柳沢恭雄の名前を知らなくても、東宝の映画「日本の一番長い日」で終戦の玉音放送を阻止しようとNHKに乱入した反乱軍の銃口を前に体を張って放送を守ったNHK職員と言えば、記憶にある方も多いだろう。当時柳沢はNHK報道部副部長。8月15日午前4時半頃、反乱軍の畑中健二少佐は森近衛第1師団長を殺害して宮城とNHKを一時武力制圧しNHK報道部に侵入した。柳沢の胸にピストルをつきつけ「決起の趣旨を国民(向け)に放送させろ。さもなければ撃つぞ」   柳沢恭雄氏 と要求した。このとき柳沢は下手に反抗して畑中をより興奮させないように、無言で向き合った。この気迫に押されて畑中は去り、玉音放送は無事に正午に流された。畑中少佐は放送の前に皇居前で自決した。この事件は、映画の原作となった半藤一利の小説では、NHKの職員は館野守男になっていたが、実際は柳沢が当該のNHK職員であった。柳沢自身は「彼(畑中)のあの目つきは異様そのもので、私は生涯忘れないし、二度と他に見たことがない。(略)畑中少佐と私の眼と眼に何か通じるものがあったようだと思う。彼のピストルの引き金の指がゆるみ、手がやわらかくなった。」と証言している。
 彼は戦後、京丹後にある畑中の実家を訪ね、兄が昭和44年にようやく建てた墓に毎年のように参っていた。兄の話によると、畑中本人は陸士(陸軍士官学校)に行くことは渋っていた。優しい性格で、本当は三高で文学をやりたかったようだ。素直な性格のまま、「市ヶ谷精神」を受け容れたのだろうと。畑中らクーデターを図った青年将校は東京帝大の平泉澄教授の門下生で、平泉からは吉田松陰の「諫死論」(君主が誤った行動をすれば臣下がそれを諫めることが正しいという考え方)の講義を受けていた。そのような思想が決起の根拠となっていたようだ。又、事件の背景には、間違った命令でも直属の上司から受けた命令には従うという日本軍隊独特の性格もあるという。

中学生でマルクスに傾倒
 柳沢は京都府の上狛町(現・木津川市山城町)の出身。山城国一揆が起こった土地で、実家は大地主で父は村長を務めた。周囲では米騒動や小作争議が起こり、そのような環境のもと本人は中学時代にはすでにマルクスなど社会主義文献を読みあさる早熟な少年だった。病弱のため中学を一年遅れで卒業し、浦和高校から東大文学部社会学科に入学、ジャーナリストをめざして新聞学教室に学んだ。大学では「新人会」はすでに解散しており、彼は青年共産主義同盟に加入した。夏休みにオルグ活動で奈良に入っているとき、1932年8月 30日奈良をゆるがす治安維持法による大弾圧事件8・30事件が起こった。彼は検挙され、懲役1年2ヵ月、執行猶予3年の判決を受ける。報告では、彼の名前が特高月報にはみつからないとのことであったが、当日参加された田辺 実氏から特高月報には2回出ているとの指摘があった。また奈良新聞に記事が掲載された「妙齢の女」についても、報告では長谷川テル(エスペランチスト、劇作家)ではないかとの推測であったが、これも田辺氏から別の銀行員らしい女性であるとの指摘があった。

NHK入局
 東大卒業後、NHKに入局する。治安維持法で逮捕された経験がありながらNHKに入れた背景には、親戚にあたる松阪広政刑事局長(のち小磯、鈴木内閣の司法大臣)の保証があったからと思われる。松阪は降伏決定時の閣議に出席していたので、事前に敗戦を知っている。柳沢は、3日前に大臣室に行って、彼と「敗戦ですね。しかし三井三菱などは生き残るんですね」との会話を交わしている。
 NHKに入局後、彼は論文「報道放送の特質と限界」を書いた。当時は新聞の記事を書きかえて逓信省で検閲を受け放送していた。彼は独自取材による自主編成の放送の必要を考えていた。しかし論文が局内誌に掲載直前に100名ほどの記者と共に軍属として招集された。時期は真珠湾攻撃の直前。NHKからは参謀本部に一人派遣されてるので、彼も開戦予定は知っていた。呉港から諏訪丸でサイゴンに到着、彼は6名のNHK記者と南方作戦に従事させられる。任務はジャワ島攻略戦における対オランダ軍謀略放送だった。1942年3月3日から7日間100回以上の放送を行った。内容はオランダ・インドネシア軍の劣勢を誇大に宣伝すること。結果として、数においては優勢だったオランダ軍が1週間後に降伏することとなる。

戦時中の報道についての後悔
 柳沢は戦時中の自分の「罪」について三つのことをあげている。ひとつは、この謀略放送に加わったこと。そして報道解説委員として、フィリピンレイテ作戦に、「天王山の戦いとして今すぐ兵員と飛行機を集中的に送ることが国民の勤め」と解説したこと。これは補給を不可能と知りながら解説し、作戦の結果、京都府の第16師団はレイテで玉砕した。 
 もうひとつは、放送の自己検閲のことだった。戦時中NHKでは、まず大本営からのニュースが伝えられ、次に同盟通信からのニュースが来る。ニュースの放送は、「依命中止」が国家の命令で中止されること。「任意取止」がNHK独自の判断で中止することだった。大本営からのニュースは、真実かどうかわからないと思っていた。山本五十六が死亡した事実はしばらく伏せられた。報道は真実を伝えることと思っていたので、毎日真実を国民に伝えていない無念さを感じていた。新聞報道も戦争が拡大するにつれて変化した。1931年6月まで「大阪朝日」は軍部に対して批判的な記事も掲載し、「日日」と「読売」は軍部に迎合的であった。しかし1931年9月18日の柳条湖事件にはじ まる満州事変が起きて10月以後の朝日は軍部の批判をすることはなくなった。1944年3月、「毎日」ではベテラン記者の新名丈夫が「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ」という記事を書いて陸軍を怒らせ、彼は36歳で視力が悪いので兵役免除を受けていたにもかかわらず記事の翌日招集された。同時に同じ年代の250名ほどが招集されて、硫黄島などの激戦地に送られ玉砕することになる。1944年には雑誌「中央公論」と「改造」が廃刊となった。

戦後の活動
 戦後、彼は取材に基づく放送をめざして放送記者制度を創設し、ニュース解説をはじめる。幣原内閣の批判などを行った。GHQから民主化をすすめたニューデイール派が撤退すると、検閲が厳しくなった。読売新聞で正力松太郎が戦争犯罪人指名を受けて追放され、組合が編集権を行使した。そのことがGHQのプレスコード(新聞準則)にひっかかり編集幹部が解雇された。組合は解雇撤回を要求してストを行い、1946年10月各紙とNHKが支援して放送ストが行われた。結局NHKだけがストに入り、管理職の柳沢は外側からストを指導、9部課長もストに参加した。20日間のストが行われ、柳沢はスト解除後休職処分となった。
 1950年7月28日レッドパージが行われ、マスコミ関係704名、NHK119名がパージされて職場を追われた。1951年柳沢は中国へ密航し、北京の自由日本放送(日本向けの政治宣伝放送)に従事した。このとき家族は知らないうちに柳沢がいなくなったと語っている。1958年に帰国したときには、出入国管理令違反で逮捕され5日後に釈放されている。
 1960年に日本電波ニュース社を設立し社長に就任した。当時社会主義圏のニュースはほとんどが、この会社から発信された。ベトナム戦争時のニュースも電波ニュース社から送られたニュースが世界中に配信されている。1962年、ホー・チ・ミンの単独インタビューに成功した。アメリカのテレビ局でさえも同社のニュースを利用していたという。

現在の問題と柳沢研究の意義
 取材に基づく真実を伝える報道、放送記者制度、検閲への抵抗、新聞・放送関連組合など柳沢が現在の放送界、マスコミに遺産として残したものは大きい。公正で真実をありのまま伝える報道は民主主義の土台であり、権力の介入を許してはならないことはかつての歴史の大きな教訓だ。柳沢は、その渦中で闘い、銃口をつきつけられても退かな かった。今放送番組の政治的公平などを定めた放送法4条の撤廃案など、政府によるマスコミへの介入が強められている。一方で朝日新聞などが森友加計問題など安倍官邸による国民だましの不正を暴く追求を、まさに社を挙げて命がけで行っている。現在、柳沢の時代と彼の行動を再度見返すことも必要であると思われる。赤塚さんの研究がさらに深められていくことを期待する。報告のあとTBS制作の柳沢恭雄さんのドキュメンタリー番組の上映があり、質疑交流も活発に行われた。参加者から今後の研究に参考となる指摘もあり(本文中記載)、有意義な例会となった。

5月例会報告 生野コリアタウンとその周辺をフィールドワーク 案内と解説 足代健二郎さんと宋 悟(ソンオ)さん

5月例会の写真

 郷土史家で猪飼野探訪会の足代健二郎(あじろけんじろう)さんが案内役。鄭甲寿(チヨンカプス)(ワンコリアフェスティバル代表)・宋悟(ソンオ)(クロスベイス代表理事)両氏が南北会談・朝鮮事情についての最新状況を解説という、豪華な講師陣によるフィールドワークが実現しました。ただし、諸事情のため参加できなくなった方が多く、そのことがもったいなくも残念でした。 午後1時、JR鶴橋駅に集合。近鉄とJRが交差する高架下を抜けて、焼肉店が密集した路地裏を歩きます。まずは、ワンコリア 5月の日曜日生野コリアタウンの賑わい フェスティバル事務所を訪れ、代表の鄭甲寿さんから、南北対話を積極的に評価するお話を聞きました。在日団体の果たす役割についても強調。質疑を含めて20分余で切り上げ、足早に鶴橋商店街へ。著名な作家・司馬遼太郎さんの実家である福田薬局跡(今はトータルファッション店)前でも、足代さんの説明が続きます。今回は10年前のフィールドの時より詳細になってます!
 続いて、創立百周年を迎える北鶴橋小学校を経て、近くにあった高英姫(コヨンヒ)(金正恩の母とされる)が住んでいた住宅跡へ。道路をはさんで今はマンションが建っていますが、昔はモルタルの家だったそうです。 その前で、資料片手に精緻な解説を加えるのは、猪飼野探訪会の中野善典さん。あらゆる伝手をたどって、関西の人気テレビ番組「探偵ナイトスクープ」顔負けの手法で解明していく内容は、十分な説得力を持っています。ご本人は、あくまで自己満足のためと謙遜されますが・・・その熱意には頭が下がります。
 最後に、コリアタウン内のクロスベイス事務所に向かいます。天候に恵まれて、みなさん疲れも見せず元気いっぱい。5月の行楽日和、若い女の子が満ち溢れて、大変なにぎわいでした。1階は韓国レストラン「班家食工房」。午後2時半過ぎですが、テーブルにお客さんがひしめいています。
 宋悟さんによれば、生野区は13万人中、外国籍が2万8千人。韓国・朝鮮が1位、2位が中国であるが、最近はベトナム留学生が急増し、コリアタウンにも豚肉などの食材を求め、ベトナム人のお客さんも増えているとのこと。また、少子高齢化が市内でもとくに高く、子どもの貧困が深刻だと言います。なお、コリアタウ は元々3つの商店街から成っているが、今では合同の役員会が定期化されているとのことです。
 韓国の文在寅大統領を誕生させたのは、連続して百万人を動員した民衆の力であり、光州を中心とした民衆蜂起(1980)を担った親たちの子供世代が、大きな役割を果たしているのでは、と語ります。中国のケ小平(フランス)、ベトナムのホーチミン(フランス)は、外国の資本主義を知っており、金正恩もスイスに留学している。アジアの社会主義国が経済的な開放政策をとるかどうかは、そういった指導者の海外経験が影響しているのではないかと。この点は、私も同感です。毛沢東の頑迷ぶりは、彼が一歩も中国から出なかったことと関係あると、指摘されていますから。
 そのほかに、ヘイトスピーチの問題が取り上げられ、その原因と日本政府の姿勢が議論されました。また、北朝鮮に対する日本の評論家について、誰がまともなのか共感できるのかとの質問も出ました。質疑応答を含めて、2時間を越える充実した報告・議論がくりひろげられました。

6月例会報告 中條健志さん(会員・東海大学特任講師)テーマ「ヨーロッパの言語」の諸問題

6月例会の写真

『ヨーロッパの言語』の現代的意義とは
 中條健志さんは現在東海大学の国際教育センター特任講師として、フランス語を教えている。2017年9月に岩波書店から出版したアントワーヌ・メイエ『ヨーロッパの言語』は、4名(西山教行、堀晋也、大山方容、中條)による共訳である。初版は1918年、第2版は1928年に出版された。邦訳版は1943年に大野俊一訳で出版され、今回(2017年版)が2回目の翻訳出版である。出版を引き受けてくれた岩波書店から「なぜ今これを出版するのか?」と問われた。この本を出版する現代的意義は何か?中條さんは「それが今日の報告の結論です」と話をはじめた。

社会言語学のはじまり
 アントワーヌ・メイエはフランスの(社会)言語学者でインドヨーロッパ語族の諸言語を研究した。当時(20世紀初頭)は「言語学」そのものの研究が主流で、メイエは言語の持つ社会的側面に注目、歴史や社会との関連を重視して研究した。これは今日では普通に認められている研究方法だが当時はまだ珍しい考え方であった。この本の原題は『新生ヨーロッパの言語』だが、第1次大戦後に生まれた新生国家の創出と言語の関係を論じており、第1次大戦後の民族自決、民主主義の発展などの新しい情勢の展開が、この本の成立の背景にある。

第1次大戦後の新しい情勢と言語
 大戦は英仏露と米などの連合国(日本も含む)と独、墺(オーストリア・ハンガリー帝国)、オスマン・トルコなどの同盟国(ブルガリアも含む)との戦争であった。同盟国側の敗戦により、オーストリア・ハンガリー帝国と オスマン・トルコ帝国などの多民族国家が解体し、新たな国家、新たな国境線策定の問題が起こる。政府関係者とも、つきあいが深かかったメイエは、戦時中からこれらのことを予想していたフランス政府当局への政策提言として、この本を書いたという。

メイエの言語観
 第1次大戦後、群小国家が成立して、各国ではそれぞれの国語制定が行われ少数話者の言語が増えた。この状況に対してメイエは、「文明に値する言語」と「文明に値しない言語」があると主張し、「文明語」でない小言語の増加には意味がないとした。ハンガリー語については、「複雑な言語であり、借用語が多く、独自の文明に至らない言語である」とし、アイルランド語については「文明の大言語たる英語を捨て去り、言語の監獄に人を閉じ込めかねない農民の話語に切り換えるよう国民に提唱するなど奇妙なこ とだ」とした。メイエのこのような考え方の背景には、「言語の統一性は文化の統一性に由来し」、「ユマニスムや啓蒙主義を体現する西ヨーロッパ」が「文明」を代表し、東ヨーロッパなどは「野蛮」で独裁的・全体主義的であるという独断があり、彼には西ヨーロッパ特にフランスを中心と考えるナショナリズムがあった。
  メイエは少数集団の言語は、「それを使用する民族にとっては非力の原因であり、外国人にとっては不便の種」とし、「文明の統一は言語の統一を求める傾向に向かう」と考えた。このようなメイエの考え方は、言語の平等を原理原則とする現代の言語学や言語とアイデンテイテイのむすびつきを重視する思想とは相容れない。しかし、このような考え方は過去のものと言えるのか。今日でも日本が単一民族国家という誤解が未だにあって、アイヌ語の正しい位置づけもなされていない。メイエの言語観は今日では批判の対象だが、支配的国家の言語が世界の支配的言語となるという言語帝国主義の考えや単一言語主義、偏狭なナショナリズムと言語の問題は現代にも通じるところだ。メイエは比較言語学者としては今日でも評価されるが、一面でその言語帝国主義的な発想は我々にとっては反面教師的な考え方と言えるだろう。

1943年邦訳版の意図は?
 最初の邦訳版として1943年に大野俊一の訳で出版されたものには、訳出されていない部分が多くあるという(100〜150カ所ほど)。その意図は何であったのか不明である。出版時、大野は検閲や内外のプロパガンダを行う情報局に勤めていた。なぜ敵国のメイエの著作を訳したのか?  中條さんは、以下の様な推測を述べている。まず表にあらわれた意図として、第1次大戦後のヨーロッパ情勢に、「大東亜共栄圏」に通じるものを見出していたのではないか。戦時中、日本はアジア各国で植民地や占領支配したところで日本語教育を強制していた。そのような政策の参考と考えたのか?もうひとつは、表には出せない裏の問題として、1943年版には訳出されない部分を現在訳すと、労働者の国際連帯や国家同士の連帯などに触れた部分が多く見られ、メイエはこのような労働運動や社会主義・共産主義運動の記述内容にシンパシーを感じていたふしがあるという。こういうものをあからさまには公表できない当時の情勢から大野は、これらの部分の訳出を控えたのか?

メイエの残したもの
 この本を実際に読んでみてインドヨーロッパ語に属するラテン語系、ゲルマン語系、スラブ語系の各言語がもとはひとつの祖語から出発して、どのように分化してきたのかその経過がくわしく記述されていてよくわかった。特に高校の世界史を教える先生には非常に参考になる書物で、ぜひ読まれることをすすめたい。 このように比較言語学の一般解説書としては未だに生命力を持っている書物だが、一方で言語帝国主義、単一言語主義という考え方が未だに生きている現在(フランスでは90年代にようやく地域言語を守る政策が取り入れられた)、かつてあったそのような思想の祖型として反面教師として参考となる書物だ。そして、1943年版には訳出されていなかった労働者の連帯や社会主義への関心、国際協調主義的な要素、エスペラント語の評価などの面が今回の訳により再評価されたということも指摘される。質疑交流も活発に行われた。メイエの持つ複雑さ、さまざまな面の評価についていろいろ質問や意見が交わされた。

総会記念講演  藪田 貫さん(兵庫県立歴史博物館館長・大塩事件研究会会長)「大塩平八郎の乱と現代」

総会の写真

「大塩の乱」180年をむかえて
 1837年の大塩平八郎の乱から180年が経過して、各紙が特集を組んでいる。『朝日』は大阪版夕刊で「追跡 大塩平八郎」を連載している。困窮する庶民を尻目にぜいたくざんまいの将軍家、私腹をこやす商人と幕府高官。元大阪町奉行所与力が大砲をぶっぱなして幕政のゆがみを正し、困窮者を救済しようとした事件は、現代の日本の状況ともオーバーラップしている。「大塩様」は今もなお大阪の庶民のこころの底に生きているのではないか。
 藪田さんは、現在兵庫県立歴史博物館館長で、大塩事件研究会の会長でもある。会は酒井 一前会長から大塩関係の史料遺品をすべて寄贈されて受け継いだ。冒頭それらがビデオで紹介された。大塩の肖像画や文書があり、中に大砲の絵があった。大塩が市中で幕府側に放った大砲の砲身部分には参加した門弟の名前が連判書として書かれていたことが印象的であった。

檄文発見と大塩研究のはじまり
 大塩の先行研究として、幸田成友(1910『大塩平八郎』)と石崎東國(1918『大塩平八郎』)が知られているが、石崎が発見した(成正寺に保存)檄文の現物が本格的な研究のきっかけとなった。檄文の行には三つのすきまが見られ(下図、出典は岡光夫・山崎隆三編著『日本経済史』ミネルヴァ書房)、これは計画の露顕を防ぐために版木を四枚に分割して(32枚、4ブロック)文章全体がわからないようにして彫り師に彫らせたためといわれる。藪田さんは、そのレプリカを開きながら説明された。写本でのみ檄文を見るとわからなかったことが、現物が発見されて当時の様子がわかった。(*檄文には現在の飢饉の原因は豪商と結託した悪徳役人の行為であり、彼らを誅伐して特権的豪商の金と蔵屋敷の米を貧民に分け与えよと書き、幕政の腐 敗を嘆き、一方で農民一揆とは異なることを強調し、困窮者救済の意図を明らかにしている。)事件が鎮圧されて後、関係者900名ほどが尋問され調書を取られた。それらは江戸に集約され審理された。そこから事件の全貌が見えてくるが、それがわかってきたのが1987年の頃だった(『大塩平八郎一件書留』)。これで事件の研究のりんかくが定まってきた。

大塩「出世願望」説は正しいか
 一部に、大塩には個人的な「出世願望」があり栄達が無理で乱を起こしたという説(仲田)がある。大塩が作成した「建議書」という膨大な資料はそのために作成されたというのだ。藪田さん自身は、この説はまちがいとするが、大塩が他の大坂武士とは異なる側面、江戸の情報に強い関心を持っていたという面を強調する。大塩は多彩な人間関係のネットワークを持ち、特に江戸関係には重要人物がいる。このようなことが「猟官運動」といううがった指摘を受ける元になっているようだ。関係者には水野忠邦(老中)、林述斎(林家第八代、大学頭)、佐藤一斎(昌平黌教授)などがいる。実際、大塩は金策に困っていた林に3000両を貸しており、それは林が無尽(頼母子講、発生は講組織による相互金融、近世には営利を目的とする富くじに近いような無尽が流行)に手を出そうとしていたのを止めるためであったという。与力には精錬と汚濁の二つのグループがあり、大塩は家康の前で軍功をたてた先祖を誇り、「功名気節を以て祖先の志を継がん」とする、例外的な存在であったという。大塩が書いた「建議書」は所司代。城代、町奉行などを指弾する内容であり、庶民の困窮をよそに無尽で蓄財する武士たちを批判し、老中になる以前の水野忠邦なども大坂時代(城代)に無尽で利益を得ていることなどが、やり玉に挙げられている。

「隠者」から武力蜂起へ
 大塩は与力をやめ、陽明学にもとづく塾、洗心洞で豪農出身者を含む門人らを指導、藤田東湖、水戸斉昭や林述斎、佐藤一斎らとも交流する。大塩が陽明学と出会うのは、大坂町奉行所に与力見習いとして14歳で出仕してから24〜25歳頃とされる。この頃陽明学を独学で研鑽したという。文政13(1830)年38歳で与力をやめ、天保4(1833)年41歳で中斎を号し、天保5(1834)年「隠者にて候得ども多忙」と言い、「草莽中にて定言を吐き」、天保7(1836)年7月頃には武器を準備し、12月に檄文を彫る。天保8(1837)年蔵書を売り(668両=約1億3000万円)、「建議書」を発送。2月19日、鎧兜を着用し、大砲を曳き、棒火矢などを発射して軍陣を連ねて行動を起こした。鴻池などの大商人の店を焼き払ったが反乱は1日で鎮圧されて終わった。

大塩の乱の性格をめぐって
 反乱は鎧兜の装備、戦陣の陣立て、大砲、鉄砲の使用など表面的には軍事行動として行われた。これは百姓一揆とは異質であり、大塩も檄文の中で「一揆とはちがう」と書いている。また、大塩個人と門人らの意識にも溝があり、反乱の性格をめぐっては未だ に解明すべき問題がある。これらと関係して、「大塩嫌い」を公言する人たちの理由に挙げられるのが、「大坂を焼いたこと」(脇田 修)、「蘭学者を苦しめたこと」(司馬遼太郎)など。しかし藪田さんは「大坂を焼いたことは本当にすみません」と言いつつ、反乱の目的は(腐敗した幕政と大商人の金儲けの犠牲となった)最悪の困窮者の救済にあったことはまちがいないだろうと指摘する。
 大塩の乱には未だ解明されない部分も多くあることがわかったが、当時の事実を解明する資料が20世紀に出てくることもあり、現在起こっている森友・加計問題の資料だって、この先10年後ぐらいに新たな資料が出てくる場合もあるかもしれないと藪田さんは言う。現在の時代にこそ“新たな大塩よ出でよ”と言いたいところだ。「大砲」をぶっぱなしたい相手はゴロゴロいる。時間いっぱいお話しして頂き、参加者は「おもしろかった」と口々に感想を語っていました。

8月例会報告 島田 耕さん(副会長・映画監督)「東宝争議(1948年)の70年−亀井文夫監督「女の一生」映像資料紹介と共に」

8月例会の写真

日本映画の一番輝いていた時代
 島田さんは淡路島で中学生の頃、黒澤 明監督の「我が青春に悔いなし」を観て驚いた。終戦1年後の1946年のことだった。戦時下に抑圧されていた映画人の創造のエネルギーがふきあがってきたような感じだったという。背景にはこの頃、日本の民主化路線をすすめるGHQのCIE(民間情報教育局)のコンデが東宝、松竹、大映各社に反軍国主義、自由主義的平和主義的な映画作りを提言していることもあった。戦後は映画が最大の娯楽であり、島田さんは空腹よりもスクリーンの世界への憧れがまさり、生きる活力につながったという。

東宝争議のはじまり
 東宝では終戦翌年に労組(日本映画演劇労組)が結成された。1948年4月8日、第3次東宝争議が起こる。労働協約の更新を会社が拒否し全東宝従業員1200人、撮影所は270人の解雇を発表してきたのだ。会社は「二つの赤」(経営の赤字と共産党員)の追放を意図していた。砧(きぬた)撮影所に立てこもった労組の闘いに他の労組(産別組合)、朝鮮人連盟、全学連などの団体が支援に駆けつけ、撮影所に泊まり込みで争議が闘われた。当時島田さんのおじさんが撮影所で働いていた。叔母さんは自宅のあった世田谷でバザーをして争議の資金カンパをしていた。島田さんは当時17歳で争議支援の活動を行い、電柱に古い新聞紙に赤インクで書いたポスターを貼る活動などをしていたという。撮影中の映画はすべてストップした。亀井文夫監督の「女の一生」は6ヵ月中断して1949年に公開された。

アメリカ軍の介入と争議の結果
 争議には全国から支援の輪がひろがっていた。当時の日本は占領下にあり、GHQ内部では反共主義の潮流が勢力を占めていて「赤い映画人」は許せないという考え方があった。争議に対する米軍の介入も予想していたが、どう出るかまでは想定していなかった。1948年8月19日早朝米軍は戦車(7台)を配置して撮影所を包囲し、上空には偵察指揮のための飛行機(3機)まで旋回していた。日本の武装警官2000人が出動し「軍艦以外はすべて来た」と言われる東宝争議最大の山場であった。日本メデイアは米軍の介入を報道できないので、事前に「ロイター」や「タス」など外国通信社20社ほどを呼んであった。「ロイター」が世界に発信した内容をもとに日本のメデイアが記事を書いた。強制執行の最後通告があり組合は退去せざるを得なくなった。会社からにらまれていた共産党員などの20名の組合員が自主退職のかたちで辞め、270名の解雇は事実上撤回 されるという特殊な解決の仕方で結着した。争議のなかで分裂派だったメンバーはその後新東宝をつくった。

戦後世界史の中の東宝争議と日本国憲法制定
 東宝争議の時期は、戦後の世界史のいわば潮の変わり目に位置した。2年前の1946年には日本国憲法が公布された。この間に何があったのか。  
1946〜1947年は、東欧社会主義圏の成立。アジアでは中国の国共内戦で人民解放軍が優位に立ち1949年には中華人民共和国が成立する時期。米ソ間に東西冷戦が開始される頃である。GHQは当初、日本占領政策の目的をポツダム宣言にもとづき日本の軍国主義を取り除き、民主化することに置いていた。しかし世界情勢の変化を受けてアメリカは日本民主化の政策を変更し、日本をアジアにおける「反共の防壁」とする政策に転換することになった。東宝争議はアメリカの方針転換直後に起こった出来事であり、日本国憲法は転換直前、日本「民主化」の過程が実行中の時期にGHQ民政局の若手ニューデイーラーたちが関わって出来た当時世界最良の民主主義の憲法であった。

亀井文夫監督「女の一生」のメッセージ
 報告途中に亀井文夫監督作品「女の一生」(1949年)が上映された。亀井文夫も自主退職した一人であったが上映は大きな反響を呼び映画の興行費から争議解決金として1500万円を日映演労組が獲得した。この頃から独立プロによる映画制作がはじまり前進座は第一作映画として今井正監督「どっこい生きている」をつくった。
 亀井はソ連で映画を学び、「女の一生」では主人公の女性が恋人と工場の屋上でキスシーンを演じる場面がある。島田さんは、当時これを革命的ロマンテイシズムと言ったと紹介した。映画は古いかたちの家族関係(半ば封建的な日本社会の縮図)の中で葛藤する若い夫婦と姑の関係、会社側と組合に団結して闘う工場の労働者ら(日本に芽生える新しい社会をめざす動き)を重ね合わせながら描いている。志村 喬が演じる労働組合のリーダーが学習会で人類の歴史の進歩の必然性について語った後、全員が窓から流れてくる音楽の方向をいっせいに見て、ほほえんでいるというシーンで終わる。当時から、「これでよいのか?」、「みんなが見ているものは何か?」などのさまざまな意見が出された。最後は観ている人に考えさせるという今ではよくあるかたちだが当時は斬新な終わり方であった。封建的社会の象徴でもある姑と対立する若夫婦が姑と共に労働者と一緒になってほほえんでいる姿は新しい日本社会の変革がどうあるべきかについて暗示する表現と思う。実際に映画公開の1月の総選挙で日本共産党が35議席を獲得するという情勢でもあったことを考えると、映画のメッセージ性はわかる気がする。しかしあのいっせいのほほえみに当時の時代精神を感じると同時に、現代の我々が見ると違和 感を感じるのも事実で、これも現代という時代の雰囲気を反映している。亀井監督なら現代の日本社会をどう表現するのだろう。質疑交流では熱心な意見交換が行われ、特に戦後史の転換期の問題に意見が集中した。その意味では東宝争議は、終戦直後の日本と現代がつながる結節点にある問題でもあり、その前後に何があったのか再度見直す必要も感じられ、貴重な例会となったように思われる。

9月例会報告 書評会『沖縄 憲法なき戦後』豊下楢彦・古関彰一著

 今回の書評会は、大阪歴史科学協議会、大阪歴史学会、2・11集会実行委員会の共催による学習会を、大阪民衆史研究会の例会とした企画だ。当日、著者代表として参加していただいた豊下楢彦さんは、日米安保体制を軸とした戦後日本外交史の研究で知られた研究者で、実は今回の企画も、これまでの豊下さんに対するラブコールが、ようやく書評会という形で結実したものだった。
 現在、日本の人権や民主主義を考える際、その制約を正当化する「やむを得ない事情」として、常に引き合いに出されるのが、「テロ」や「北朝鮮・中国の脅威」である。しかし「テロ」も「北朝鮮・中国の脅威」も、実は、日米安保体制や冷戦という枠組の中での発想に他ならない。この点に思い至るならば、日米安保を超えて日本の安全保障政策がどのような形をとるべと問題に向き合うことが、実は日本の民主主義に直結する課題だということがわかる。
 豊下楢彦さんの一連のご研究、例えば『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交』(岩波新書・1996年)、『集団的自衛権とは何か』(岩波新書・2007年)、『昭和天皇の戦後日本―(憲法・安保体制)ににいたる道』(岩波書店・2015年)などは、この課題にリアルに向き合ってきた成果だ。日米安保条約を批判しても、その成立までにどのような選択肢があり、その条文の語句に日米政府間のどのような妥協の論理が込められているのか、知る人は少ない。豊下氏は、この点を丹念に追いつつ、その中に、「パワー・ポリティクス」の思考に基づく現実主義的な外交によって日米安保を乗り越えていく契機を探ってこられた。戦後直後の日本政府には、「国連」による集団安全保障の中に日本を位置づける視点や「非武装・中立地帯」の構想がリアルなものとして存在していたが、それが「日米安保」と化し、アメリカの核の下に組み込まれていったのはなぜか―この点を、昭和天皇が果たした役割を含め、明らかにされてきたのが、豊下楢彦さんなのである。
 このように豊下氏の研究の特徴、また魅力は、まず現在の日本社会に対する強烈な問題意識にたった歴史叙述であること、また「実際にあったこと」だけでなく「あり得たこと」、つまり日本外交が実際に持ち得た選択肢の提示を通じて、現在の問題への答えを追求しようとする点にある。そしてこの点は、今回の書評会がとりあげた『沖縄 憲法なき戦後―講和条約三条と日本の安全保障』も例外ではない。こうした姿勢・手法が、現実肯定に陥りがちな「外交史」からの脱却につながっていることは、当日の報告者、小林啓治さん・吉次公介さんも指摘されていたが、筆者は、むしろ自由民権運動研究者の色川大吉が「未発の契機」という概念によって、民権派による「変革の可能性」を論じようとした手法との類似性を感じた。 いずれにしても、『沖縄 憲法なき戦後』は、そのタイトルにも示されているように、なぜ沖縄では、日本国憲法下で当然に認められるべき基本的な人権(土地所有権を含む)を戦後から今に至るまで行使できないのか―こうした問題意識に立ち、米軍による沖縄支配の法的根拠であったサンフランシスコ講和条約の第3条を再検討し、支配根拠をめぐる日米両政府、国内外の議論や、当時の選択肢を明らかにすることを第一の柱としている。
 サンフランシスコ講和条約第3条は、「日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)…(中略)を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」としているが、沖縄が戦後、この第3条に定める「信託統治制度」によって米に統治されたと理解している人は多い。しかし、信託統治制度はそもそも植民地下の地域が解放される過程で住民の自治・独立を図る目的で設置されたものであり、この制度の下で米軍は十分な「行動の自由」を確保できない。かといって「併合」はさらに困難であることから米が生み出したのが、この第3条だった。ここにおいて沖縄は、信託統治制度への移行を前提としつつ、むしろ赤文字部の規定により、事実上、米軍がフリーハンドをもつ「植民地」として支配されることになったのである。
 このように沖縄支配は、信託統治制度への移行措置という、きわめて薄弱な根拠に依拠しており、1956年12月日本が国連に加盟すると、独立国への信託統治制度適用を禁ずる国連憲章78条によって講和条約3条は前提を失う。当時この点は沖縄、また日本の国会でも再三指摘されており、むしろ国連に積極的に訴えて沖縄返還を実現すべきという主張もみられたが、結局、岸政権は「国連カード」を使うことなく、むしろ米の「ブルースカイ・ポリシー」(空に雲一つなく、アジアの平和と安全にいかなる脅威もなくなるまで、沖縄は返還しない)を1957年6月の日米共同声明で容認する。さらに1960年12月、国連で「植民地独立付与宣言」が採択されると信託統治制度は事実上終了し、講和条約3条は死文化。実はこの段階で沖縄支配は法的根拠を喪失していたが、池田政権は岸以降の沖縄返還要求「凍結」政策を続け、さらには本土でなく沖縄への核持ち込みにも理解を示す。これに対して佐藤内閣は沖縄返還を要求するが、それは、むしろ「極東に脅威と緊張が存在する限り」沖縄における一定自由な米軍の行動を容認すること(つまり「ブルースカイ・ポリシー」の前提を日本が引き受けること)によって、返還協定の道筋をつけようとするものだった。
 以上のように、戦後の日本政府は、沖縄問題を日本の不可避の国益問題として取り組むことなく、また返還要求の根拠として、「国連カード」や、3条失効論に依拠した復帰運動の高まりを利用することもなかった。つまり日本政府による沖縄返還要求は、利用し得る交渉カードのすべてを駆使する(「パワー・ポリティクス」)のではなく、「ブルースカイ・ポリシー」の一端を日本政府が担うことによって根拠づけられていた。返還後は日本政府が責任もって引き続き米軍の「行動の自由」を実現することと引き換えに、 沖縄返還を米国政府に「お願い」するというのが、日本政府の立場だった。「憲法なき沖縄」のはじまりである。しかも、これは対等な主権国家としての「要求」ではなく、 「お願い」である。そして、その根底にあるのが、憲法9条下で防衛力をもてない日本の安全、東洋の平和を守るためには米軍が沖縄で自由な行動を行うこと(核持ち込みを含む)を受け入れざるを得ない、という論理だった。
  以上のような戦後日本外交の主権なき実態を明らかにしたことが、本書の第二の柱であるが、ここには、二つの問題がはらまれている。一つは、日本政府が沖縄問題を日本の主権や切実な国益に関わる問題としてこなかったことの意味である。その根底には、近世以降、沖縄(琉球王国)を「日本」の「異域」とし、本土の外・従属的な位置におく視点があるように思われるが、これが、朝鮮・台湾に対する「植民地」としての視線にきわめて近いことは、その国籍問題にも示されている(本書第1章)。沖縄を「植民地」として扱ってきたのは米だけではなかったのである。沖縄の基地問題が今に至るまで解決されない背景には、こうした本土における沖縄への視線と、無関心がある。無関心とは、沖縄の基地問題「憲法なき沖縄」が「本土」のそれにつながっていることを意識しないことでもある。もう一つの問題は、「パワー・ポリティクス」なき対米外交が、結局、今に至っても続いているということである。米に対する沖縄返還の「お願い」は、「米国の好意」、米との「相互信頼」「友好関係」という言葉の下になされたが、この種の言葉は現政権下でも多用されており、また、憲法9条下で防衛力をもてない日本だから米軍が必要という論理は、湾岸戦争以降の「国際貢献」の強調によってさらに補強されている。本書は、こうした論理を打ち破る方法として、沖縄を拠点に、米にも中国にも支配されない「東アジア軍縮共同体」(核兵器の使用もそれによる威嚇も行わない)を形成することを提案しているが(終章)、私たちはこの問題提起にどう答えるのだろうか。
 このように本書は、戦後直後から現在に至るまで沖縄また日本で、米軍が「行動の自由」を得ている理由・根拠を明らかにすることで、米軍基地、さらに日米安保をのりこえていくリアルな道筋を示してくれる。本書の問題提起をぜひ、多くの方と共有したい。
報告・高島千代(運営委員・関西学院教員)

10月例会報告 原 幸夫さん(会員・大阪経法大講師)「中国遼寧省の万人坑を訪ねて」

10月例会の写真

遼寧省の「万人坑」を訪ねる
 原さんは府立高校、大阪経済法科大学などに勤めながら「東アジア青少年歴史体験キャンプ実行委員会」の運営に参加して日中韓の中高校生たちの交流をはかる取り組 みを毎年すすめている。今年は、その一環としてキャンプが行われた中国吉林省での「万人坑」の見学を中高生とともに行った。
 「万人坑」について万人坑研究者の青木 茂は「中国での定義は万人坑とは『人捨て場』のことであり、原因・理由にかかわらず、日本の中国侵略下で『不自然な死』『理不尽な死』を強いられた人が埋められているところが万人坑である。虐殺被害者や強制労働の犠牲者などが埋められているところは全て万人坑である。」としている。(青木 茂『万人坑を訪ねる−満州国の万人坑と中国人強制連行』緑風出版2013年)
 今回の報告は主に、昨年中国帰還者連絡会の解散にともなって結成された「奇跡を受け継ぐ会」主催の「万人坑を知る旅」で訪れた遼寧省の「万人坑」見学の報告である。 遼寧省は中国東北部、旧満州国の支配した中心地で省都は瀋陽(旧奉天市)である。 瀋陽を中心に十個所の「万人坑」を8泊9日の日程で訪ねた。原さんは、かつての街並みが残る瀋陽で旧大和ホテルの張学良の泊まった部屋に宿泊したそうだ。

屍骨累々の万人坑−「人捨て場」
 原さんが撮った写真をプロジェクターで映しながらの説明を受けた。画面には、地中に埋められていた白骨が屍骨累々と横たわり、あるいは乱雑に積み重ねられ、日本の中国支配下で行われた犯罪のすさまじい様が映し出された。
 「阜新炭鉱の万人坑」は炭鉱のある丘陵地全体が万人坑となっている。発掘地をドームで覆い展示されている。2005年にリニューアルされて、かなり費用をかけた展示で展示室内は冷暖房が効いており、構内は電気自動車で回れるようになっている。遺骨が無数に並んでいる発掘地はガラスで覆われている(「死難鉱工記念館」)。遺骨には足首が無いという特徴が見られたが、これは野犬が食べた結果らしい。時代が下るにつれ、より乱雑に遺骨が埋められるようになっている。遺骨の骨は太く歯の状態も良く、青壮年の人びとであることがわかる。まだ息のある時に埋められた人もいることが骨の様子で確認された。   「抗暴青工遺骨館」には抵抗した労働者の遺骨が埋められている。彼らは捕虜収容所から送られてきた「特殊工人」と呼ばれた人びとである。満州以外の華北などから来た人も含まれている。敗戦までに9300人が阜新に送られ、捕虜兵士による抵抗、暴動が繰り返された。遺骨は乱雑に埋められていた。この人たちの死亡率は50%にもなるという。
 1960年代に発掘された「北票炭鉱(北票市)万人坑」の「台吉南万人坑」では丘陵地が人捨て場となっている。ここでは3万人が亡くなっている。「排列型屍骨房」では頭を山の方にむけて、ていねいに埋葬されていた。一方で、深く掘られた穴には、体がよじれて、手が上に上がっている状態の遺骨が見られ、これは生きたまま埋められてもがいて手で土を?いている状態を示している。よくこんな残酷なことが出来たものだと思う。上から人骨を乱雑に積み重ねただけの場所が見られたが、これは近くの谷間に投げ棄てられた遺体の骨を拾ってきたものらしい。「大石橋の虎石溝万人坑」は本多勝一の「中国の旅」で紹介された場所で、マグネサイト(マグネシウム鉱石)の露天掘りで世界有数の鉱山である。巨大なトラックが行き交う中を見学した。ここでは2体が針金でまかれている状態の人骨があった。
 「弓長嶺鉄鋼万人坑(遼陽市)」では12000人が亡くなっており、一帯には骨が散乱して積まれている。見学中、住民が寄ってきて、「子供の頃は骨が散乱していた」という話をしてくれた。焼却炉(「煉人炉」)が残っている。 途中、頭蓋骨に鈍器を打ち込んで陥没させた遺骸とか、あまりにもむごたらしい惨状を映し出したせいか“プロジェクターが機能マヒに陥り”、口頭報告のみにならざるをえなくなった。「本渓湖炭鉱仕人溝万人坑」には1942年にガス爆発が起こり1800人が亡くなる大惨事が起こったことの慰霊碑がある。碑には1377人と少なく記載していた。新賓では抗日運動が日本軍の虐殺で弾圧された結果、「北山万人坑」が形成されている。現在も採掘されている巨大な露天掘りの撫順炭鉱のある撫順市には36カ所もの万人坑が形成され25万人が亡くなっている。撫順の近くには有名な「平頂山」がある。ここでは日本軍の守備隊、憲兵隊が3000人を虐殺、遺体をガソリンで焼いた上、山をダイナマイトでくずして埋めた。その中で唯一の生存者が母の胎内にいた子どもだったと聞かされて愕然とした。
 大連の「龍王廟万人坑」は最近リニューアルしたが、陸軍の病院建設で動員された労働者の万人坑がある。ここには「関東軍693部隊」が配置され、細菌戦研究で有名な「731部隊」と同様の細菌兵器開発を行っていた疑いがある。「旅順万忠墓記念館」には日清戦争中、日本軍が旅順で2万人の市民、兵士を虐殺し焼却、白玉山山麓などに埋めた記録などが展示されている。

質疑交流−万人坑研究の問題点
 質疑交流では活発な質疑意見交換が行われた。万人坑問題では、まず研究が非常に少ないということが参加者も報告者自身も強く感じている問題であった。このことの背景に、さまざま指摘された問題が横たわっているように思える。報告者が万人坑をめぐる旅で感じたこと、問題意識について、○1960年代の文革期に発掘がさかんに行われていること。○発掘は一部に留められていること。遺骨収集は行われていないこと。○「愛国主義教育」として巨費をかけた万人坑遺跡記念館がある一方で放置されている万人坑が各地にあること。○万人坑の管理は行政が行い、市民運動や自発的な活動による 研究、保存活動は行われていないこと。そして責任の所在として、関東軍、日本政府、 満州国政府、満鉄などとともに中国社会の「把頭(はとう)制度」(中国特有の労働ボスなど中間搾取者の制度)という慣行も含めて、その構造をどうとらえるのか明らかにする必要があることと、万人坑形成の要因である中国人「労工」問題がどのように研究されてきたのか、現在なお、万人坑研究が少ない中で日中戦争史研究、日本帝国主義史研究とも関連して今後追求されなければならない問題であると指摘されている。  
 意見交換の中で、中国国内では万人坑問題は中国政府が管理しており、市民運動などはむしろ抑制されるか自発的に起こる状況では無いこと。中国政府はむしろ、日本との経済的政治的関係に配慮して万人坑問題をあまり表沙汰にはしない姿勢が見られるのではないかと推測されること、その一方で拠点的な遺跡は整備して保存しているという二面的な対応が見られること、などの点についても言及された。しかし、報告で明らかにされた惨状は日本が大陸で犯した侵略行為の中でも相当深刻な問題であると考えられる。今後冷静な分析解明が両国の研究者の協力によりすすめられることが期待される。

11月例会報告 熊井三郎さん(会員・詩人会議)「階(しな)戸(と)義雄 ― 知られざる戦時下の抵抗詩人大阪外語社研、労農救援会 大阪支部書記、二度の投獄を経て」

11月例会の写真

大阪外国語学校社研部
  詩人階(しな)戸(と)義雄は報告者の熊井三郎さんとともに奈良詩人会議を結成、以後お二人は共に詩人会議を支える同志として歩んで来られた。
 階戸は1908年金沢市の遊郭街に生まれた。父が米相場に手を出して家屋敷を売り払って金沢に出てきたのだ。中学4年の頃四高の学生が開いている読書会で、ブハーリンの『史的唯物論』を読んで社会への目を開いた。1928年大阪外国語学校のロシア語部に入学。兄夫婦と父の住む生野の借家に、中学同窓の大阪歯科医専の岩田了吉と転がり込み読書会を開いていた。外語ではロシア人教師ニコライ・ネフスキー(日本民俗学、アイヌ語、宮古島方言、西夏語などの研究で知られる。ソ連帰国後シベリアに流刑、流刑地で死去)にロシア語を学ぶ。外語の社研に入り、活動する。「ナップ」(全日本無産者芸術連盟)の機関紙「戦旗」分局の責任者となり、数十部を扱い、そのマージン(2割)を学費の足しにした。当時「戦旗」は最盛期で26000部発行された。1929年ころ、大阪で外語、商大(現・市大)、歯専、大高(現・阪大)、関大などの社研が結集する「学連」の委員会に外語代表として参加した。

治安維持法違反で検挙
 1930年無産者新聞の支局をしている京大生から総選挙の共産党宣伝行動への参加を求められ、(この時、「神様」から言われたように思ったと後に語っている)ビラを軍需産業でもあった藤永田造船所前で労働者に手渡し、天満紡績にも塀越しにビラを投げ込んだ。その後、特高に逮捕され戎橋署に拘置されて拷問を繰り返し行われた。後の裁判の中で、当時撒いたビラには「天皇制打倒、帝国主義戦争反対」の文言が書かれていたことを知る。留置所ではドロボウやスリが介抱してくれたという。そして、彼に指示した京大生は同様に検挙されたが、公判で陸軍中将主計総監の息子だとわかった。奥田平は懲役2年執行猶予4年の判決を受けた。東京朝日には「関西共産党の大検挙五百名余 七十一名起訴」の記事が出た。
この事件で外語は放校処分となり(卒業試 験は終わっていたにも拘わらず放校となった)。1931年に超党派的に労働者・農民の救援を行う「日本労農救援会(国際労働者救援会日本支部)準備会」が結成され、1932年階戸は、大阪支部の書記(のち書記長)になる。自然災害や労働争議の救援にあたるが、書記の収入は食うや食わずで、再三検挙され留置所に入って、ようやく飯にありついたという。
 1935年日本共産党に入党し、翌年治安維持法違反で検挙され1年半堺刑務所に入獄する。その後腸結核を発病して堺刑務所を仮出獄、母親に引き取られ郷里金沢の病臥の床で、日中戦争・太平洋戦争下、憲兵、特高、保護司の監視のもとにあって稀有の「国禁の詩」を書き続けた。

国禁の詩
 階戸は1937年から敗戦までの8年間の間に、日本戦中詩に希有の抵抗詩など67編を書いた。例会には熊井三郎さんの仲間、詩人会議の会員が多数参加したが、報告の途中で階戸の詩を交替で朗読するという、これまでの例会にない異例の展開となった。その中で冒頭に紹介された代表的な作品が「火喰鳥」だ。

火喰鳥
 私の胸の火は  
 同じ火を呼ぶ  
 一度たべた火は  
 舌を焼いたが  
 そのからい味が  
 忘れられない  
 たとえ身をこがす  
 焔であろうとも  
 私の胸の火は  
 火を呼んで止まぬ

戦後の活動
 1947年階戸は日本共産党石川県委員長となり、1953年の内灘闘争(内灘村米軍砲弾試射場反対闘争)を指導した。1956年病気療養のため奈良市に移住、1957年「奈良文学」に参加、詩を発表、1962年第1詩集『風雪の暦』を発行。戦前の詩がはじめて公にされる。1969年岩波書店「世界」8月号の「父と子」特集に「暗い谷間の青春」が掲載される。1968年はじめて北アルプスに登り、以後山好きとなって大台ヶ原、西穂高、蝶ケ岳などを登る。1974年奈良詩人会議を屋根正彦、東海小磯、報告者の熊井三郎さんらと共に結成、代表を務めた。以後全国組織の詩人会議にも参加し、熊井さんらと共に奈良で詩作活動を続ける。1981年6月18日肝臓癌のために死去。享年73歳。

質疑交流から
  本日の例会は31名が参加し、補充の椅子も足らなくなるほどの盛況となった。特に詩人会議、大阪外大OBの方々などが多く参加され、東京と埼玉からも参加した会員の清水さん、中野さんのご夫妻4名など、いつもは見られない顔ぶれだった。質疑交流も活発に行われ、「文化の香りのする報告だった」との感想が語られた。途中、詩人会議の参加者により詩の朗読が交替で行われたことも異例な展開だった。
  冒頭で、階戸の読み方について意外な新発見があった。従来「しなど」と読まれてきたが、これは「しなと」が正しいと確認された。奈良県では階戸について知る人が少なく、これほどの詩人とその戦中の希有な抵抗詩について、もっと広く知らせる必要があるとの共通認識も生まれた。この例会も、そのよい機会となった。そして戦前、戦中に治安維持法の犠牲となり大学を放校処分となったような学生たちの足跡についても今後調査する必要があるとの認識が参加者に拡がったように思われる。それは、安倍政治のもとで再び「ファシズム」の足音が聞こえてくるような昨今、ぜひ必要な作業と思われる。階戸は私たちに語りかけている。「私の胸の火は 火を呼んで止まぬ」と。

12月例会報告 マーレン・アニカ・エーラスさん(米国ノースカロライナ大学シャーロット校准教授)「越前大野の町社会と江戸時代の貧民救済について」

写真はありません

ドイツ出身の日本近世史研究者
 マーレン・エーラスさんは、ハンブルク大学在学時に大阪市立大学に留学、大学院はプリンストン大学、のちにハーバード大学で研究し、現在はノースカロライナ大学シャーロット校准教授である。日本近世史を研究、3月に博士課程論文にもとづき『Give and Take:Poverty and the status Order in Early Modern Japan』を出版した(ハーバード・アジアセンター)。今回の報告は、その著書の内容に基づく。彼女は研究対象の大野藩のあった大野市の観光大使も務めている。

大野藩
 大野藩は現在の福井県大野市に位置し、大野盆地の一部と山間部に広がる奥越前の入りくんだ地域を領地としていた。17世紀末以後明治まで四万石の中小大名である土井氏が藩主であった。
 報告者の研究テーマは、大野藩城下の非人集団、物乞い、座頭、瞽女などの貧民の管理と救済、飢饉の際などの一般町民、農民などの救済の構造、それにかかわる「仁政イデオロギー」*(明治前期に至る)の役割などを明らかにすることである。 (*編集部注:近世史像について1970〜80年代以後、大きな転換があった。その中心に「仁政イデオロギー論」がある。それまでの近世史研究の観点は領主権力の専制的性格が強調され、一方で搾取される民衆の鬱屈した不満が爆発して一揆となり、一揆の革命的・階級闘争的な側面が強調された。これに対し「仁政イデオロギー論」は1973年頃提起され、金沢藩の前田利常が「仁政」(「御救」「御恵」)を施すことにより小農民の保護育成を意図したものとする。その後80年代後半になって、領主と民との関係について両者の間に利害の衝突と同時に「合意」「契約」などの関係を見出すこと、幕藩制国家の「公儀」・公共の役割に注目する研究がすすめられるようになった《深谷克己、朝尾直弘ら》。)福井県では大野市がもっとも古文書史料が残っている(他地域は災害などであまり残っていない)。世界的に見ても前近代の庶民の歴史資料が残っている割合は日本が多いという。日本の古文書を世界遺産にすべきとエール大学の先生もいっているとのこと。

史料に見る貧民と貧民救済の状況
 (1)座頭小野市の例(史料1斎藤寿々子家文書) 座頭は江戸時代に盲人の一般的呼称となり、鍼灸治療、按摩、門付芸能などを稼業とした。座頭小野市は五番町の家持(家屋敷を所有する町人)、座頭仲間の座元(統括責任者)であり妻と子供4人の家庭を持っていた。安永6(1777)年に「乱心」(精神疾患 となり、家族、親戚、仲間が介護にあたるが大変だったので藩(町奉行)に救済を求める「願書」を出した。町奉行の解決策は、妻と娘は弟の家に、市は上黒谷村へと家族を分散させる案であった。この経過から、町人は家を持っているけれど生活は安定していないこと、働き手が病気になると家は解体すること、家持というステータスは失いたくないこと、貧困になると共同体−町人の場合は「五人組」や町全体に救済を求めること、最後には「願書」を(藩に)出すことも珍しくないこと、などがわかる。
 (2)金塚村の奥兵衛の例(史料2寛政元(1789)年願書)  金塚村の奥兵衛は病気で足が立てなくなった。妻も病気で、村が「合力」(相互扶助)で助けていたが一般的に村の「合力」は長続きしない、最終的には親類に引き取られることが多い。しかし皆貧乏だったら長続きしない。奥兵衛は足が不自由なので、物乞いもできない。そこで藩に「お救い」(江戸時代に領主が生活難渋者を救済する制度)を願い出ることが行われる。奥兵衛は結局「お救い」を認められた。
 (3)座頭・瞽女、乞食頭(史料3「座頭瞽女乞食頭江祝儀布施之覚」麦屋文書) 座頭は「当道座」(当道は、もとは琵琶法師の座組織、江戸時代に幕府公認の組織となる)という全国組織に属し、町人でも百姓でもない。瞽女は地域の座頭に従属する。座頭は施物、音曲、鍼灸、按摩、門付芸、金融などの職業の特権を有する。京都や大坂では金持ちもいるが、小都市では貧しい人が圧倒的である。上記の職業では生計が成り立たないこともあるので、座頭や瞽女は物乞いをすることもある。しかし座頭・瞽女は乞食(「古四郎」)とは一線を画そうとしている。座頭は町人の女性と結婚できるが、乞食はできない。
 (4)その他の貧民の物乞いと役人による見逃し  物乞いは百姓、町人でもやることがあったが、町奉行所は見て見ぬ振りをすることがあった。冬に山間部は雪が深く積もる。山村から貧しい百姓が大野へ来て物乞いをすることがあった。これに対して、大野藩が負担して12月1日に「御施行」(粥の炊き出し)を行った。炊き出しは京都では三井などの豪商がやっている。

身分社会と貧民救済 Give and Take
 研究の基本史料として「町年寄御用留」(業務日記)が用いられている。元文5(1740)〜明治3(1870)年まで49年分の記録が残されている。町年寄とは最高位の町役人で、二人月番交替、町奉行への願書伝達、町人の代表、藩の政策の実行責任者である。史料にはさまざまな貧民の姿が見られ、江戸時代の社会構造にどのように位置づけられていたか、彼らがどのように自己主張できたか、束縛されていたか、また「御救」や村内の「合力」などさまざまな救済方法が併存する状況などが記録されている。
 江戸時代の社会は、民衆が村、町、仲間、家臣団、寺中など公認された自律的な共同体である身分集団に組織されていた。集団は強い地域性を持ち、共同所有の土地や縄張り、職分の独占権を持ち、身分集団独自の「法」(仲間、式目など)があった。誰を仲間に入れるか、追放するかを自分たちで決められた。領主は彼らを支配下に置きながら、身分集団の独自の関係を利用しようとした。そして彼らは公認される特権のかわりに「御 用」と呼ばれる役目を果たしていた(「古四郎」の町廻りや行き倒れの「片付」など)。この「特権」と「御用」の互酬性、救済を貰うことと与える行為(報告者の言う「Give andTake」)が江戸時代の身分制社会を読み解くひとつのキーワードである。

「渇命願」という願書(史料4「天明3・4年(天明飢饉中)の渇命願」)
 「渇命願」とは、飢饉で飢餓状態など困窮している人が領主に出す救済願いである。その手続きは、まず飢えている本人が町の庄屋に出し、町年寄から町奉行に出されると、藩は極力救済を行うことをためらい、いったん町で解決するように圧力をかける。天明3年12月26日には、三番町の33名が飢えてお救いを願い出たが却下された。天明4年にも四番町で76名が願い出たが同様に却下された。「町内で相応に暮らす者同士で解決せよ」とのことであった。同年1月26日には町全体で350名が願い出たが「前例の通り御用達(領主に御用金を納める特権商人)、町の金持ちで救いなさい」という回答だった。このとき米を出した町人は、「相応に暮らす者」(町の金持)や町役人(町年寄、庄屋)、御用達などであった。各町には、渇命者が多いところ、いないところ、渇命者と金持ちのバランスが取れているところ、などの格差があった。  藩の立場は、できるだけ町内で解決させようとし、よほど大きな飢饉や百姓一揆が起こるようなことを契機に「御救」を発動させた。寛政の改革以後、幕末以後、特に天保の飢饉の頃「御救」が出されることが多かった。この時期は同時に藩政改革による藩財政立て直し事業が併行して行われた。大野藩では「うるし」、タバコなどの新しい産業が起こった。

質疑交流
 江戸時代の社会の詳細な報告、それもドイツ人研究者による報告に参加者一同新鮮な感動を覚え聞き入った。参加者の中に偶然、これから大野市へ実際に行くのでくわしく話を聞いておきたいという人もいた。ヨーロッパなどとの貧民救済制度の比較、村落の共同体の自治能力の比較などの質問も出た。日本の古文書が国際的に高い評価を受けていることなど重要な指摘であり、近世史の研究が従来のように領主層の一方的な強権的支配でなく、領主と家臣、民衆との相互関係の中で理解してゆくことが非常に重要となっていることが理解された。

2017年例会報告

1月例会報告 山本恒人さん(会員・日中友好協会副会長・大経大名誉教授)「国家資本主義中国の生命力とゆらぎ」

1月例会の写真

社会主義研究の現状
 ソ連・東欧の「社会主義体制」崩壊と中国の改革開放以後、日本の社会主義研究は低迷している。従来の「社会主義経済学会」は「比較経済体制学会」と看板を掛け替え、中国=「社会主義」説の立場の研究者は少数派となっている。その中で、社会主義の現状と展望に関して積極的な発言・理論提起を行っているのは日本共産党ぐらいである。 その要点は、@ソ連・東欧=人間抑圧型の体制の崩壊。A社会主義的変革の中心は生産手段の社会化(生活手段は私有、中小企業・農業の私的経営・所有は認める)。B議会主義の尊重。C市場経済の再評価(計画性と市場経済を結合)などであり、現在の中国、ベトナム、キューバなどの国は社会主義に到達した国ではなく、社会主義をめざす国々としてとらえている。

2033年にゼロ成長となる中国
 慶応義塾大学の大西 宏は、中国経済の成長は徐々にスピードを落とし2033年には成長率ゼロの段階に到達するという。これは他の先進資本主義国の到達状況と同じである。中国の現在のGDP総額は11兆ドル(世界第2位、アメリカが第1位、日本が第3位)、一人当たりGDPは約8000ドルで(76位)中所得国。アメリカは第7位、日本は第26位である。大西は、中国は正真正銘の資本主義であるという。毛沢東時代は国家資本主義、ケ小平時代に入って私的資本主義となり、現在は国家独占資本主義(1929年恐慌以後はじまり、公共事業政策や管理通貨制など国家の介入のもとで運営される高度に発達した独占資本主義)段階とする。中国の経済成長はこれまでの「投資依存型」(工場や機械設備などの生産手段への投資優先)が成長の停滞をもたらし、中成長に移行していくためには「消費依存型」への構造転換=「新常態」をめざしている。そのためには政府・官僚と企業、中央と地方などの経済主体間での競争、妥協、利害の対立などの問題が引き起こされ、そのことが「経済の揺らぎ」や「政治の揺らぎ」の問題に波及しているという。

タカ派が台頭する中国の政情
 「政治の揺らぎ」は例えば中国軍部内のタカ派の台頭となって現れている。彼らは「戦場で獲得できないことは、卓上の談判によっても得られない」とする。ケ小平が経済発展を優先させて「今は我慢」としていたが、彼の死後に重しがとれて軍部タカ派が勢力を増しており、次第に中国の政策の基調に「大国主義・覇権主義」が強まりつつある。南沙・西沙諸島への中国の現状変更行為、尖閣諸島への介入など覇権主義的な行動が活発となり、安倍政権の日米同盟強化・海外派兵・憲法改悪などの悪政に絶好の口実を与えている。

「あいまいな制度」としての中国資本主義の生命力
 加藤弘之(故人)は、中国資本主義の持つ「曖昧な制度」にこそ、その生命力が潜んでいるとする。中国には@激しい市場競争、A国有と民有併存の混合体制、B地方政府と官僚の競争、C利益集団形成過程で生じる腐敗と成長の共存などがあり、「中国では 制度移行に伴う一時的な制度の併存や重複を利用するだけでなく、『曖昧さ』を意識的に温存し、積極的にこれを利用することで組織や規則に縛られることなく、個人が自由に意志決定できる範囲を広げ、機動的、効率的な制度運用をはかる」という「曖昧な制度」が活力をもたらしているという。ここでは「腐敗」問題も決定的なマイナスとはならないので、現状追認的、楽観的な分析とも取れる考え方だ。

改革かカタストロフィー(崩壊)か、中国の行方
 大西の「投資依存型成長」から「消費依存型」への構造転換の可能性は、国内の経済格差を見るとそう簡単ではない。中国の「ジニ係数」(経済格差を示す指数、0〜1の間の数値で示され、0.4以上を警戒ラインとする)は、2008年のピーク0.49以後、高止まりとなっている。先進国平均が0.3、世界平均が0.44であり、中国の投資依存型の成長とは国民生活を犠牲にしてきた経済成長と言える。中国の社会階層モデル表によれば、@上級階層(政府トップ、国有銀行・大型事業責任者など)が1.5%で1200万人、A上位・中級階層(高級知識人、中・高級幹部、中企業経営者など)が3.2%で2500万人、B中級階層(技術者、科学研究者、個人経営など)が13.3%で1億500万人、C下位・中級階層(労働者、農民など)が68%で5億6000万人、D下級階層(失業者、農村貧困家庭など)が14%で約1億1000万人であり、中国人口約13億人のうち約82%が下位の階層であり、貧困層が分厚く、中間層が非常に薄いことが特徴である。
 中国人研究者楊継縄は、権力は制約なき上部構造となり、資本は制御されざる経済的基礎となっている。これが『現在の中国におけるすべての社会問題の総根源』とし、「もし、主体的な政治改革による民主の前進を怠るならば、ますます社会矛盾が累積し、遂にはカタストロフィー型の変事に到りかねない」としている。その予兆として、「労使衝突」「農村での農民と幹部の衝突」「土地収用・開発にともなう立ち退きをめぐる紛争」「地方幹部、公安・検察・司法一体化した不正・横暴をめぐる紛争」などの大衆的な騒擾事件(「群体性事件」)の多発を取り上げている。
 貧困と経済格差の是正は中国社会の体制存続を左右する焦眉の問題となっている。重慶の薄煕来事件は権力闘争の一環という問題がありながら、民衆生活の重視という課題をめぐってもせめぎあいを内包していた、という。

政治改革の核心は民主政治の実現
 今起こっている「群体性事件」(大衆的騒擾事件)は、自発的な大衆の意志にもとづいている。報告者は「国家権力の意志と国民の意思との相互交通を保障する制度的機能 が欠如しているが故に、『群体性事件』が絶えない」とし、楊も権力を制御するためには「民主政治を必要とするものであり、政治的独占を排除し、政治的競争が展開されること」が政治改革の核心と述べている。  現在の中国共産党一党独裁の体制が「当面不可欠の要件」でなおかつ「社会」(人民)の側の反作用による共棲関係とするのか(加藤)、党・国家と変革主体としての「社会」の二元的な構造とするのか(菱田雅晴)、あるいは一党独裁を廃して民主政治の体制を築くことが必要なのか、中国情勢は一朝一夕には解決できない複雑な事態にあることはまちがいないが、必要な方向性は見えてきたように思える。習近平自身、中国共産党が人民に見放される時、党は「統治の正統性(執政資格)を失って、歴史の舞台から降りざるをえない」と述べている(『人民日報』2016年7月7日)。
 意見交流は活発に行われた。参加者に中国での起業を試みようとした会員もいて、ウイグル問題のテロ事件が起こってから外国人への規制がきびしくなったこと、 省の幹部が大きな権限を持っており起業活動を行う上で直接的な影響力を及ぼすことができる実態も垣間見えたことなど興味深い話題が提供された。中国共産党の幹部と資本家経営者が癒着あるいは同一人物であったりする状況で、資本の無法で制限のない利潤追求活動や腐敗に規制をかけることなど困難ではないのか?という疑問、中国の統計が正確なのかという疑問、ソ連方式の「社会主義」失敗の総括がされているのかという疑問、「議会制度」・民主主義の確立は、再度民主主義革命を行うぐらい独自に追求しなければ無理なのではないかという疑問、資本主義の世界的展開の中での中国資本主義というものを見ないといけないのではないかという疑問、など多くの疑問と意見が出され、10月ころ再度、 中国共産党大会を受けて例会報告を行いたいとの申し出が山本氏からあった。

2月例会報告 中條健志さん(会員・大阪市大都市文化研究センター研究員)「EUの諸問題を整理する−英国離脱、極右台頭、テロ、難民をキーワードに 」

2月例会の写真

英国のEU離脱問題その後
 2016年6月23日にイギリスは国民投票で51.9%賛成の僅差でEU離脱を決定した。 今後離脱が正式に行われるまでには、各国との協定の結び直しがあって、2年以上かか る予定だ。メイ首相は3月頃にEUの憲法である「リスボン条約第50条」にもとづき、離脱を宣言し、欧州理事会に通告し、その後26カ国と離脱後のことについての交渉が終了すると離脱が決定する。交渉経過により離脱中止の可能性もあり、今後の政権の動きによってイギリスのEU離脱は、どうなるのか予測しがたい事態である。

移民・難民問題が原因か?
 2015年夏頃から、離脱と難民問題が関係あるように語られるようになったが、事実はそうでなかった。キャメロン首相は2013年、EUとの関係の見直しを提案していた。その理由は、イギリスのEUへの支出に対して、見返りが少ないという議論があって、そのために関係の見直しを行い、EU残留可否の国民投票を行うという提案であった。見直しの議論がされている頃には難民問題など出ていなかったのだ。
 イギリスは人口約6500万人中移民は500万人(8%)でEU加盟国の平均10%よりも低い割合だ。EUの「シエンゲン協定」は加盟国内の移動の自由(パスポート、ビザが不用)を保障するが、イギリスは協定に加入していないので、移民が入りにくい国である。イギリスのブルーカラー労働者のほとんどは移民出身である。イギリス人は、そういう仕事には就きたがらないので、雇用を脅かしていると言うことにはならない。難民については、2012〜2014年の難民申請では、イギリスが2万人に対して、ドイツは44万人、スウェーデンは16万人、フランスは8万人なので、イギリスが特に難民が多いわけではない。難民問題が離脱の原因とされている理由は「スケープゴート」にされているのにほかならないというのが多くの研究者の意見だ

離脱の本質的原因としての内政問題
 離脱の真の原因は何か。ひとつはEUの官僚制の問題などシステム上の問題が指摘されている。
 さらに重要な原因として、各国の内政問題の矛盾が指摘される。2005年にフランスで欧州憲法案が国民投票で否決された。フランスで通過すれば他の国でも採択されると思われていたが、これで憲法、元首、軍隊を持つ「欧州合衆国」構想は終わった。その原因は、憲法の評価そのものよりも失業率の高さなど政府の政策への批判の影響が大きかったことが考えられる。イギリスでも社会福祉や雇用の問題があり、EUへの支出に比較して見返りが少ないことが以前から指摘されている。フランスの極右党首ルペンは「フランスの金で東欧やイタリア人を食わせている」という批判を行い支持率を高めている。
 国内政治への国民の不満がEUへの関わり・負担に対する批判となってはねかえっているということが問題の本質らしい

極右の台頭
 ヨーロッパ各国(フランス、オーストリア、ドイツ、北欧など)での極右の台頭が目立っている。フランスの大統領選挙では2月現在の支持率で極右政党の国民戦線党首ル ペンが第一位となっている。社会党はもはや左派とは思われていない状況だ。第2回投票でルペンに勝つためには、それ以外の政党が結集することが必要となっている。なぜ極右が支持を伸ばしているのか、国民戦線の政策を見ても失業対策や若者雇用の問題など共和党と変わらないおだやかな内容で、父親のルペンが言ったような「外国人は出ていけ」などの過激なことは言わなくなっている。むしろフランスで極右として目立っているのは、日本の安倍首相と「日本会議」であるという。

テロ問題
 2015年のパリのテロで、犯人の一部がベルギーのブリュッセル市モーレンベーク地区出身のモロッコ移民2世であったことからベルギー(特にモーレンベーク)がテロの温床地であり、移民・難民が元凶視されるようになった。しかし、ヨーロッパの貧困地域全体で職を得られず自立できない若者に対して、テロ組織が青年のアイデンテイテイー確立を求める心理に訴えかける巧妙なリクルートが行われている。ベルギーや難民だけが特別にテロと関係するわけではない。

まとめ
 移民・難民問題が本質的な内政問題(貧困、失業、格差などの問題)とすりかえられて原因とされている。特に日本ではEU離脱の原因を難民問題とする傾向が強い。それは、多言語・多様な文化を持つ社会と単一的傾向の強い文化の社会の違いが原因であるかもしれない。「ベルギーは言語が異なるので(テロの)対策がとりにくい」という見解が仏、独などで見られるが、ベルギーでは言語の違いは問題にならない。日本では福島原発事故が起こってから反韓流キャンペーンがはじまった。これは原発事故をおおいかくすためのもの?と、フランスで報道されている。ヨーロッパにおいては歴史的に「社会問題」と移民・難民は常にリンクされてとらえられる傾向がある。 質疑では活発な意見質問が出された(「」内が回答)。EUへの拠出金問題では、「独仏は積極的だが英国はヨーロッパ中心のイベントになるので消極的である。」宗教問題では「旧植民地宗主国の仏はイスラム系が多く、英は少ない。」フランスについて、現在は荒れている雰囲気だが、反イスラムは表だって言いにくいように思える。これについては「社会、政界にイスラム系の人が深くとけこんでいることも原因」という。EUは、もともと経済統合で発足したが、それは資本主義の延命策ではないのか。EU発足の理念としての戦争のないヨーロッパをめざす方向についてはどのように考えられているのか、については「ルクセンブルグなどの小国の中に平和・多文化の統合を求める考えが生きている。」膨大な難民がどうしてヨーロッパに受け容れられたのか?日本と大きな違いを感じる、など。

3月例会報告 細田慈人さん(和泉市立ふるさと館学芸員)「中世の物語と陰陽道」

3月例会の写真

陰陽道(おんようどう、おんみょうどう)
 陰陽道は、飛鳥時代に百済などを通じ導入された古代中国で生まれた陰陽説、五 行説、暦法などと、中国固有の宗教思想である道教、そして日本固有の神道などが融合、取捨選択されて日本で独自に成立したものである。その中心が、天武天皇により七世紀に設けられた律令制下の国家機関である陰陽寮で、陰陽(占い)、暦(暦作成)、天文(天文気象の観測)、漏刻(時刻の通知)の部門があった。陰陽寮に出仕し、天皇や上級貴族のために働く技術官僚としての「陰陽師」が「官人陰陽師」、のちに陰陽道への需要が下級貴族や一般庶民にまで広く拡大することによって民 中央が細田さん 間に登場してきたのが「法師陰陽師」である。
 平安時代、貴族社会をとりまいていた「物怪(もっけ)」(霊が引き起こす怪異)や「穢れ」というタブー、「呪詛」という目に見えない攻撃の恐怖などから、天皇や貴族たちの身を守るために陰陽道によって張り巡らされた防御のシステムは現代人の想像を絶する世界であった。それらの記憶は特に「今昔物語」などの説話となって残されている。説話と史実にみられる陰陽師の姿は異なる。両者の比較、その関連を探ることが今回の報告者の課題である。

物語に見る陰陽師の姿
 『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などの説話集には勧善懲悪、因果応報、偶像性などの特徴が見られるが、特に『今昔』には陰陽師の登場する話が多い。安倍氏や賀茂氏が10世紀以後陰陽道の支配的地位を占める以前に活躍した弓削是雄などの陰陽師や三善清行など一般の貴族で陰陽の術に通じた人々や市井で活動した下級陰陽師である法師陰陽師などの姿が描かれている。
 説話集、女流文学、軍記物などの物語に共通することは、登場する陰陽師は官人陰陽師、法師陰陽師、陰陽道知識を有する貴族で、職能(卜占、祓い、祭祀、暦道、天文道など)は宮廷陰陽道に依拠しているものが多い。物語では賀茂氏や安倍氏などの官人陰陽師の活躍と名声が描かれる一方、社会的身分の低い法師陰陽師は呪詛を行う悪役として描かれている。各ジャンル毎では、説話では鬼と対決する法師陰陽師など、女流文学では年中行事を司る宮廷陰陽師、軍記物では兵乱を予兆する陰陽師の姿などそれぞれ特徴の違いがみられる。

史実に見る陰陽師の姿−権力とむすびついて発展、貴族化
 10世紀以後、藤原摂関政治とむすびついて陰陽道の二大宗家である安倍氏(のちの土御門家)と賀茂氏(のちの幸徳井家)の両家が陰陽頭(陰陽寮の長官)となって地位を独占、勢力を拡大する。陰陽家の家格の上昇(安倍晴明は従四位下)、権 力とのむすびつきにともない、安倍氏と賀茂氏との勢力争い、安倍氏内部の抗争が生じる。室町時代には足利義満とむすびついた安倍有世(ありよ)が祈祷者として重用され、陰陽師としては破格の従三位の地位を獲得する。有世は大嘗会に行われる吉(き)志(し)舞(まい)奉行を執り行うことで、安倍氏の長者として、最高評価の陰陽師としての地位を獲得したという。安倍晴明が中世前期の陰陽師の立役者であるなら、安倍有世は中世後期の立役者といえる。晴明や有世など安倍氏の長者が吉志舞(新羅の舞ともいわれる)を舞ったという事実は、のちに曲(くせ)舞(まい)、幸(こう)若(わか)舞(まい)と陰陽道が関係することもあり、陰陽道と舞、芸能が深い結びつきを持つことを示唆する。

物怪と穢を祓う陰陽師
 古代から中世の社会には、物怪(もっけ:霊がひきおこすと考えられた怪異や祟り)と死を代表とする穢(けが)れのタブー、そして目には見えない呪(じゆ)詛(そ)という攻撃などが網の目に様に人々を取りまいていた。犬がおしっこをしたことも「怪異」とおびえた平安京の人々は、今日から見ればみんな強迫神経症のようであったといっても過言ではない状況であった。陰陽道は、これらを暦による計算、天体の動きの観測などを通じて分析し、それへの対処を行うシステムであった。陰陽師は上巳祓(三月三日)や六月祓(茅の輪くぐり)などの年中行事、仏事、葬送儀礼など滞りなくすすむように管理し、凶事を避けるために「物(もの)忌(いみ)」(外界との交流を遮断する)を指示し、「撫物(なでもの)」(紙の人形などに身体の悪いところをすりつけて水に流したりした)などを用いて病気の予防や治療をも行った。また朝廷でも私人でも重要なことを行う日時は陰陽師が選定した(日次(ひなみ))。例えば太政官の文書発給開始日も陰陽師が選定した。

民衆の中の陰陽師
 陰陽寮を中心に天皇や上級貴族の相談にあずかった官人陰陽師は貴族に位置し、社会のエリートであった。一方、陰陽道への社会的需要が増し市井に登場した社会的身分の低い陰陽師が法師陰陽師であった。これら市井の陰陽師は、中世後半以後、声聞師と呼ばれたさまざまな芸能を行う傍ら陰陽道的呪術を用いる人々や修験者という民間陰陽師となってゆく。彼らは卑賤視された河原者と居住地を接し、社会的身分は低かったが陰陽道の技能と知識を有することで一定の権威を持ち、内裏にも出入りを許されることがあった。物語で悪役として登場することの多い民間陰陽師は、史実では民衆の中で一定の地位を得ていたと考えられる。それは伏見莊においては検断権(中世の警察権・刑事裁判権、近世の大庄屋に匹敵)を持ち、起請文の管轄を行った例などにも見られる。  例会は久しぶりの中世がテーマで報告者の非常に詳しい報告に興味深く聞き入った。

4月例会報告 山下喜久枝さん、松浦由美子さんの共同報告「おかあさんと手をつなごう」−1950年代 母と婦人教師のつどい

4月例会の写真

大教組資料から発見、1950年代の地殻変動的な社会運動
 「大教組運動史」編集のために収集された資料の整理が2011年から始まった。その中に1950年代に起こった日教組婦人部による婦人教師と母親たちの子供と教育を守る運動の資料があった。それは「お母さんと手をつなごう」という呼びかけで 行われ、大阪でも活発な運動がすすめられた。そのなかで、牽引者的な役割をはたしたのが八尾教組の婦人部長だった山下喜久枝さん(旧姓青柿、故・山下重雄氏夫人)だということがわかった。1952年から全国婦人教員研究協議会(婦研協)が開かれた。第1回は大阪市中之島公会堂に2000人が集まり、1953年の第2回は千葉県で行われ江頭千代子さんの長崎原爆体験がNHKラジオで放送された。1954年の第3回は静岡に3000人が集まり「お母さんと手をつなごう」の呼びかけが行われた。 今回の報告は松浦由美子さんが資料発掘の経過と当時の状況や山下さんの役割などを紹介し、山下喜久枝さんが当時の体験を語るというやり方で行われた。

教員組合草創期に婦人部長となる
山下さんは1944(昭和19)年に臨時教員研修所を経て臨時教員になった。9月大阪市北中道小の学童疎開に付き添い半年後に卒業した子どもたちと帰阪する。その後、天王寺区味原小へ。当時学校を入ったところに祠があり教育勅語が置かれ、式の際には校長が壇上で捧げて読み上げた。戦後、教育勅語は否定され、同じ校長が「(制度が)変わりました」と言うだけであったが、特攻隊から帰ったある先生は職員室で恥ずかしそうにしていたので、元気づけてあげたという。終戦後、八尾久宝寺小に転勤した。久宝寺小で休暇をもらい、1948(昭和28)年平野女子師範学校で正教員の免許を取得し、八尾の久宝寺小学校に勤めることになった。この頃教員組合は義務的に参加するもので自発的に参加活動するという雰囲気でもなかったという。この頃校長も組合員だったので、山下さんは校長から依頼されて婦人部長となった。第3回全国婦人教員研究協議会には、校長に「行かしてほしい」と頼んで参加した。この頃はいろんな新しいことに興味があった。「お母さんと手をつなごう」の呼びかけは藤田寿(ひさ)さんが声をあげた。藤田さんは堺市の婦人民主クラブのまとめやくで、世界母親大会に、14名の日本代表のひとりとして参加した。

大阪での「お母さんと手をつなごう」運動
 婦研協第3回大会の全体会議で「お母さんと手をつなごう」の呼びかけがあり、校長の許可を得て八尾市で運動をはじめた。久宝寺小学校は古い村の中にあり、お寺などを会場にしてつどいが開かれた。夏休みの夜に寺や集会所で母親と婦人教員の話し合いがもたれた。夜は普段着で行けることや、いろんな学年の親が混じり合い親がいやがる成績の話などはあまり出ずに、いろいろな課題について電灯の下で話し合われる気楽な雰囲気であることがお母さんに受け容れられた。参加した母親の感想は、「楽しかった」「また参加したい」など好評であった。学期に一回はしま しょうと約束し、八尾では6月に第1回、8月に第2回、10月に第3回の会がもたれた。八尾がトップを切ってはじめたが、高槻では、農村部の母親も参加できるように市バスが農村に乗り入れるように要請した。吹田では「マザーグースの会」ができ、遠足のお菓子を共同で購入するとか、本を共同で買って学級でまわすなどの取り組みが行われた。八尾では子供を守る運動として危ない道に警告の看板を立てたり、子供によい文化を伝える取り組みとして、映画館を貸し切り午前中は教育映画を無料で上映した(ある参加者から、香川県丸亀市でも映画館で「ベンハー」などが無料で見ることができたと、同じような体験が報告された)。

大教組時代の思い出
山下さんは1956〜58年の3年間大教組の執行役員(専従)となり、大阪総評の婦人部も担当した。勤評闘争も体験したが、この時期は昼も夜もないほど激しい闘争を体験したという。この頃、産休補助教員制度を要求する闘いを組織して実現することができた。子供と接することが好きだったので現場にもどることにしたが、八尾の校長はみんな山下さんのような”闘士”が来ることを恐れてだれも引き受けようとしなかった。志紀小学校の校長だけ「おまえだれも採ってくれなかったので、わしが採ってやった」と言ってくれた。この時期は、校長が組合から集団的に脱退していた頃(1958年)であった。その背景には、朝鮮戦争前後からの「逆コース」のはじまり、勤務評定による教育現場の統制など戦後の政治、教育の反動化の波が押し寄せてきたことがあった。

質疑交流から
山下さんは37年の教員生活を終え55歳で退職後も、大阪退職教員の会女性部で「女性サロン」の世話役をつとめられた。91歳の現在も非常にお元気だ。趣味は日本画を描かれる。戦前と戦後の民主化、反動化の3つの時期を体験して教職に関わる仕事にに一生を捧げてこられた貴重な経験談を聞かせて頂いて参加者一同おおいにもりあがった。質疑では、戦前から戦後に切り替わった時期の教育と社会の変化についてどのように感じたか?母親と婦人教員のつどいには父親の参加はなかったのか?つどいは、どうしてもりあがったのか?どのような話題が話されたのか?などの質問意見が出された。また山下さん(旧姓青柿)のおじさんは戦前に神戸で労働組合運動で活躍した青柿善一郎さんであることや夫の故・山下重雄さん(元大教組役員・本会会員)が大教組の執行委員会終了直後 に「青柿喜久枝さんと結婚します」と突然のプロポーズをして本人と周囲を驚かせたことも紹介された。母親と婦人教員のつどいが大きな成功をおさめた背景には、校長が夜の会議をさせてくれたり、「母親にあわせて話をする」、「むずかしい話をしない」という婦人教員側のとりくみが功を奏したことや、戦前の家父長的な社会から婦人、母親が自立する契機となり、つどいでの話題も子育てや日常のいろんなことが話され共感を持てる場になっていたことが考えられるのではないかとする意見も出された。戦前は、女性がそのように自由に話し合うことができなかったことが戦後の民主化過程で、その壁が打ち破られ、その中から子供と教育を守るための要求が出され、そのエネルギーが1950年代の「お母さんと手をつなごう」という地殻変動的な運動の土台となったのではないだろうか。

5月例会報告 櫻澤 誠さん(大阪教育大准教授) 「沖縄戦後史から何を学ぶことができるか」

5月例会の写真

沖縄史研究と新崎盛暉
 いま沖縄に関する研究は、政治史、運動史、思想史、文化史などさまざまな分野で非常にさかんであるという。 櫻澤さんは新潟県の出身であるが、大学で近現代史を専攻し、従来の日本史の枠を超える部分に関心を持ち沖縄をテーマに絞って研究をはじめた。1950〜60年代に現職だった教員に聞き取りをするなかで、沖縄戦後史研究の第一人者新崎盛暉の史観に違和感を覚えた。新崎は、『沖縄戦後史』(中野好夫と共著)、『沖縄現代史』、『日本にとって沖縄とは何か』(いずれも岩波新書)などの著書で、日米両政府とそれをささえる日本国民による「構造的沖縄差別」の存在を示し、沖縄の民衆運動が沖縄史をつくる主体であり、1950年代後半の「島ぐるみ闘争」(注:軍用地料一括払い反対、適正補償要求、損害賠償請求、新規接収反対の4原則の闘争)、1970年前後の沖縄闘争、1995年の少女暴行事件後の展開を運動の転機としている。このように民衆運動を中心に置く一方で、1972年の沖縄返還から1995年の間が「20年の空白」となっているのが特徴である。「空白」とは、歴史研究において民衆運動を中心に置いているため、運動の画期が見出しにくいこの時期の歴史がよく検討されていないことを指す。

「1995年インパクト」と沖縄史研究の新しい段階
(1)森宣雄、若林千代、鳥山 淳の研究−新崎の継承、民衆運動の視点から
 1995年9・4の米兵による少女(小6)暴行事件を契機に、反基地感情が爆発し、大田知事は代理署名を拒否し、8万5千人を集めて県民総決起大会が開かれた。その後沖縄研究が活発化した。背景には沖縄への問題意識の高まり、米側公文書の公開、沖縄県公文書館の開館など史資料環境の改善、歴史学をはじめとする人文科学の多様なアプローチがおこなわれるようになったことが考えられる。それには、これまでの固定的な民族論の影響からはなれて、日本史の中での沖縄の位置を見直す視点が出てきたことなども考えられる。民主党政権下で沖縄密約問題の調査、資料の開示が行われたことの影響も大きい。
 以後、沖縄史研究に新しい世代が登場しはじめた。単著に限定すると、まずは、森宣雄、若林千代、鳥山 淳が第一世代である。森は「民衆運動史」という新崎の視点を継承し、「1950年代は前衛党の時代、1960年代は復帰協が前衛を担い、1970年代以降は中心を持たない同心円状にひろがるネットワークの時代」としてとらえるが、1972年〜1995年は「20年の空白」で、1995年以後の展開となる。
  若林は、「沖縄に関する米国(軍)の政策決定過程や軍政の実態について、アジアでの位置づけを重視して」検討し、「沖縄の『受益層』と民衆の区分を前提に戦後沖縄における双方の出発点を論じた」。大政翼賛会出身の者が知事になったり、那覇警察署長出身者が優遇されたり戦前戦中のブラックリストを米軍が利用して戦後の統治に生かしている問題にも触れている。鳥山 淳は、1945〜51年の琉球政府発足までを新たな史料を利用して描き、平地がほとんど基地に奪われる中で農業が不可能になる一方、基地経済への依存など農村社会の危機感を明らかにし、「『抵抗』(革新)と『協力』(保守)の二極対立を相対化し自治と復興をめぐる願望の潮流を描いた」。若林と鳥山はいずれも戦後初期に焦点を置いている。

(2)平良好利、櫻澤 誠の研究−保革の対立をこえた視点・オール沖縄へ
平良好利と櫻澤 誠は、「民衆運動」を歴史の中心に置いた新崎の視点からは前の三人より離れた位置に立つ見方といえる。
 平良は「徹底して軍用地問題にこだわりながら、『受容』と『拒絶』の二項対立ではなく、そのはざまで苦闘する沖縄政治指導者の姿を描き出し」、「島ぐるみ闘争」(1956年ころ)から1958年の占領政策転換(注:アメリカの高等弁務官制への変更にともない、沖縄住民の生活水準を日本の県並みにすることで本土復帰要求の高まりを未然に防ごうとした。)までの過程について、これまでアメリカの圧力により保守が「島ぐるみ闘争」から抜けることで運動の勢いがなくなり、1958年に不本意な合意があったという考え方に対して、新資料にもとづき1956〜58年の間もたたかいは動いており、背後で日本政府の関与もあってアメリカとの交渉が行われ、占領政策の転換があったとする見解を示している。また沖縄返還時の軍用地地主と日本政府との再契約交渉が行われた過程についても初めて詳細な検討が行われた(注:復帰前は米国が地代を支払っていたが、復帰後は日本政府が安保条約と地位協定に基づき土地を提供するので、日本政府が地代を支払うことになり、軍用地主と日本政府との間に新規賃貸契約交渉が行われ、復帰前の約6.5倍の地代を実現した)。
 櫻澤は、新崎が「民衆運動」(=革新陣営)を中心とする沖縄の歴史を描いたことに対して、「島ぐるみ闘争」のように保革の対立する人々が8割以上団結してまとまる時があることに着目した。そこで、沖縄における保革を次のように定義する。沖縄での「保守」的立場とは、「基地を受忍すること」しかし「基地拡張には反対し、補償を要求すること」とし、「革新」的立場は、「基地反対、基地撤去を要求すること」であるが、両者は単純に対立するものではないとし、「革新」的立場は「保守」的立場の発展過程ととらえることも可能だとする。現在のオール沖縄に至る歴史と沖縄の未来は、まさに保守革新をこえた沖縄民衆のしたたかな動きの中から創り出されるものなのであろう。その背景には、1995年少女暴行事件以後の反基地意識の定着と拡がり、本土への怒りと幻滅があり、70年代以後の世界的な民族・国家認識の変化の影響のもとで前近代琉球の王国としての自立した歴史への再評価、その後の「琉球処分=日本への併合」、「日本復帰=第3の琉球処分」という歴史認識のひろがりがある。
 編集者は、翁長知事誕生の選挙戦後半に同僚と応援に駆けつけて、その時まさに保革を超えた躍動するオール沖縄の姿を目撃し大いに元気をもらった。そして、これが沖縄の未来であるとともに日本の未来のあるべき姿なのだと確信させられた。それは実際その後、野党共闘として本土でも実践されるようになったが、そう簡単ではない。しかし、保守革新を超えて人々が手を結び合う、あの複雑で困難な過程を経てきた沖縄の経験を今学ぶことこそが大事だろう。 報告に紹介された沖縄研究者の著書を紹介します。
森宣雄
  『地のなかの革命−沖縄戦後史における存在の解放』(現代企画室2010) 『沖縄民衆史−ガマから辺野古まで−』(岩波現代全書2016)
若林千代
『ジープと砂塵 米軍占領下沖縄の政治社会と東アジア冷戦1945〜1950』(有志舎2015)
鳥山 淳
『沖縄基地社会の起源と相克1945〜1956』(勁草書房2013) 平良好利 『戦後沖縄と米軍基地 「受容」と「拒絶」のはざまで1945〜1972年』(法政大学2012)
櫻澤 誠
『沖縄の復帰運動と保革対立−沖縄地域社会の変容−』(有志舎2012) 『沖縄の保守勢力と「島ぐるみ」の系譜−政治結合・基地認識・経済構想−』(有志舎2016)『沖縄現代史−米国統治、本土復帰から「オール沖縄」まで−』(中公新書2015)

6月例会報告 (6月25日 明日香村フィールドワーク)山内英正さん(会員・犬養万葉記念館運営協力委員・白鹿記念酒造博物館評議員) 「袖吹き返す明日香風ー歴史と万葉の飛鳥探訪」

雨の明日香村をゆく
 故犬養 孝先生(大阪大学名誉教授)は全国の万葉歌の故地を訪ねて名著『万葉の旅』など貴重な著述・記録を多く残されると同時に、地元民と協力して歌碑をつくり、万葉の風土と景観を守る全国的な運動の先頭に立たれた。とりわけ「飛鳥保存問題には終生情熱を傾けた」(山内英正『万葉 こころの風景』)。山内英正さんは大阪大学文学部の学部生・院生のころから社会人となっても犬養氏のもとで三〇余年間「秘書」役として 行動を共にされた。今回は、その山内さんの案内による明日香をめぐるフィールドワークである。
 当日は、あいにくの雨であったが、雨中の明日香もなかなかいいものである。当日のコースは橿原神宮前駅からバスで豊浦駐車場(古宮(ふるみや)遺跡)→豊浦(とゆら)寺→甘樫丘(あまかしのおか)→明日香村埋蔵文化財展示室→犬養万葉記念館→四神の館・キトラ古墳→飛鳥資料館→山田寺址→大原神社→飛鳥坐神社(あすかにいますじんじや)の行程。4名の参加者の中で堀 潤さんが大阪の阪南市から車で来られたので途中合流し、雨の中でも迅速に行動できた。
 豊浦駐車場で山内、二宮両氏を待つ間、となりの水田のあぜ道に降りて土の表面をざっと見てゆくと「あった!」、須(す)恵(え)器(き)(朝鮮半島から伝来した登り窯の技術で1000度以上の高温で焼成された土器)の破片を6〜7個ひろうことができた。ここは「古宮(ふるみや)遺跡」で、小墾田宮(おわりだのみや)の候補地と考えられてきたが最近は蘇我氏の庭園跡の可能性が有力視されている。水田の中にケヤキの古木が一本こんもりした小山に立っている「古宮土壇」が庭園遺構とされる。ここから数分歩いて豊浦(とゆら)寺。推古天皇が603年に豊浦宮から小墾田宮に遷ったのち豊浦寺(飛鳥寺と一対の尼寺)が創建された。現在は向原寺となっているが、講堂の西南角付近から掘立柱建物(豊浦宮の遺構か?)と石敷が発見され、創建当時の基壇建物と確認された。現在発掘当時のようすを見ることができる。ここから雨に濡れる青いあじさいの花や木立の中を歩いて甘樫丘(あまかしのか)に向かう。

雨の中の暗殺劇
 そういえば「乙(いつ)巳(し)の変」(645年6月12〜13日)当日も雨が降っていた。最近は蘇我入鹿暗殺、蝦夷自害の蘇我本宗家が滅亡した事件を「乙巳の変」、孝徳朝(645〜654)における一連の改革を「大化改新」と呼んでいる(市 大樹「大化改新と改革の実像」)。
 『日本書紀(巻二四)』には、「佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、入鹿臣を斬りつ。是の日に、雨下りて潦水庭に溢めり。席障子を以て、鞍作が屍に覆ふ。」  暗殺者たちが入鹿を斬り殺したその日、はげしく降る雨水が板蓋宮の庭にあふれるように流れていた。入鹿(鞍作)の屍はおそらくその下で、そまつなむしろを張った衝立のようなものでおおわれていただけという。入鹿の遺体が雨の中放置されている情景は、戦慄を感じさせるほど非常にリアルで事件が実際にそのように起こったことを彷彿とさせる。雨の中登った甘樫丘の展望台のふもとには火災に遭った建物の遺構が発見された(甘樫丘東方遺跡)。これは、中大兄らが入鹿暗殺後、蘇我蝦夷宅を包囲した際に焼け落ちた邸宅の跡と考えられている。

景観と自然環境を守ったシンボル、第1号歌碑
 甘樫丘の上からは明日香の四方と歴史の流れも見渡せる。丘の北に天香久山、そのさらに北に耳成山、飛鳥川をはさんで雷丘、西に畝傍山、劍池、東側に旧飛鳥村の集落と、その南が真神の原。傘をさしながらの山内さんのくわしい解説によると、1956年に飛鳥、高市、阪合の3村が合併する際に、「飛鳥」の名に統合されることをきらった他の2村を納得させるために犬養氏が助言して「明日香村」となった。今目の前に見える飛鳥村の集落は合併前の狭義の「飛鳥村」で、背後の音羽山、多武峰、八釣山の稜線にかぶさるように白い雲が立ちこめている。ここが飛鳥の中心部で、付近には飛鳥浄御原宮、飛鳥大仏のある飛鳥寺安居(あんご)院、飛鳥坐神社などがある。
 飛鳥時代もこれに近い田園風景だったのだろうと想像するが、甘樫丘は数十年前まで全く自然の丘で、駅まで尾根道が続いていたという。犬養先生は年6回「大阪大学万葉旅行の会」を主宰、学生を連れて現地での講義を行った。まだ草木が生い茂る甘樫丘を500名もの学生が登ったこともあるという。その後現地は住宅開発などで変化し、ホテル建設の計画が持ち上がったりしたが、景観と自然環境を守るための住民運動に犬養氏も協力、三名の地主も土地を売らなかったという。

 「采女の 袖吹き返す 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」                 (巻1−51)志貴の皇子

 1967年、甘樫丘の中腹に犬養 孝先生の揮毫第1号の歌碑が建てられた(写真)。歌は天智天皇の第七皇子志貴皇子が古都飛鳥への追想を詠んだ和歌である。歌碑は明日香を景観・自然環境破壊の開発から守るために犬養氏と住民たちがたたかった抵抗のシンボルでもあった。この和歌に黛敏郎が曲をつけ、阪大の混声合唱団が歌った。学生たちは、この曲を「采女」の愛称で呼んだ。山内さんは、その混声合唱団の一員であったが、二回生から「万葉旅行会」の委員となって以来犬養先生の「書生」役を勤めてこられた。

犬養万葉記念館
 甘樫丘の明日香川をはさんで向かい側にある飛鳥村埋蔵文化財展示室は旧飛鳥小学校講堂跡で、上記の第1号歌碑の除幕式典があったところである。見学のあとわたしたちは車で明日香村中心部にある「南都明日香ふれあいセンター 犬養万葉記念館」を訪ねた。もと南都銀行であった建物を寄贈され、記念館に改装し2000年4月に開館した。門の横に犬養先生のすがたの手作り人形が坐って出迎えてくれる。
 記念館には開館記念碑「萬葉は青春のいのち 犬養孝」と生誕百年記念碑「あすか風」とともに「十市皇女(とおちのひめみこ)の薨ぜし時に、高市皇子(たけちのみこ)尊の作らす歌三首(の一)の歌碑がある。

 「山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく」(巻2ー158)

 歌にある山吹の垣根が記念館のエントランスにつくられているが、山吹の花の黄色は黄泉(よみ)の国を象徴しており、高市皇子が「山吹のさいている山の清水を汲みに行きたいが、(死者の国に)行く道はわからない」と亡くなった十市皇女(とおちのひめみこ)を悼む気持ちを詠んでいる。
 
山吹の花が咲く頃また記念館を訪ねたいと思う。館内では簡単な食事も可能である。2階は犬養孝先生の資料館となっている。資料中に台北高等学校の教授時代の写真、たばこの「光」「憩」などの箱でつくった萬葉がるたなどの珍しい資料のほかに阿蘇山が 噴火した際の溶岩の破片と阿蘇噴火の噴煙の写真という異色の資料が展示されている。犬養氏は熊本の第五高等学校に在学のころ阿蘇山の研究にも熱中していた。1929年1月の大噴火の時、学校を休んで火口に登り命がけで第4火口を覗いたという。「この体験が終生、『生』の原点となり、挫けそうになった時には阿蘇の噴煙を思い浮かべたという。」(山内前掲書)。

キトラ古墳壁画体験館
 高松塚に続いて、畿内において古墳石室に四神などの壁画が発見(1983年)されたキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初)は明日香村の西南部、檜隈寺址のすぐ南側にある。檜隈は渡来系氏族の雄、東漢氏(古くは朝鮮半島南部の加耶地域から渡来し、のちに百済系の手工業者集団を統括したとされる)が居住した地域である。現在周辺は国営飛鳥歴史公園として整備され、 キトラ古墳壁画体験館・四神の館がオープンしたところである。 古墳は発掘調査を終えて古代の大きさと形、二段につくられた直径約13m、高さ約3.8mの円墳に美しく復元整備されている。期間限定で文化庁キトラ古墳壁画保存管理施設(四神の館1F)でガラス越しに壁画実物を見学することができるが、あいにく今回は公開されていなかった。壁画は北壁の玄武、南壁の朱雀、東壁の青龍、西壁の白虎と天井に描かれた東アジア最古といわれる天文図や動物の頭と人間の身体を持った十二支の図である。天文図に描かれた星座は古代中国の夜空の星々である。

飛鳥資料館、山田寺址から飛鳥坐神社へ
 さて飛鳥中心部へ再びもどり、奈良国立文化財研究所飛鳥資料館に向う。資料館入口前の広場に、巨大な「須弥山石」、「石人像」、「酒船石」などのレプリカが立つ。これらの石造物の正体はいまだ明確にされていないが、噴水の装置(須弥山石、石人像)のあることが確認され、斉明朝のころの迎賓館の施設、ササン朝ペルシャ渡来のゾロアスター教関連の施設など諸説が語られている。館内で最も注目すべき展示物は、山田寺東回廊が倒れたまま地中にうずもれていたものを発掘し保存処理(柱間3間分)して展示したものだ。7世紀当時の寺院のようすを目の当たりにすることができる。12世紀に興福寺にもってゆかれた日本史教科書で必ず見た丈六の仏像仏頭のレプリカも置かれている。資料館のすぐ東側、山裾に草原がひろがるところに山田寺址がある。蘇我倉山田石川麻呂の発願で建立され、讒言により石川麻呂が自害した後、683年天武天皇の頃に完成した。南門、中門、塔、金堂、講堂が南北に並ぶ広大な寺院であったことが実感できる。発掘の結果、中門両脇からのびる回廊は金堂と講堂の間を通っており、回廊で講堂は僧の学びの場、回廊内は仏の空間とわけられていたことがわかった。飛鳥資料館で展示されていた東回廊が倒れていた場所も現地で確認できた。
 山田寺址からすぐ南に大原の里、大原神社がある。神社裏に藤原鎌足が産湯をつかったという伝承地があり、確かに神社裏手の谷に井戸が2つあった。行く途中、奈良大学の上野 誠先生が学生を数人連れて説明しているところに偶然出会った。  ここから最後の見学地、飛鳥坐神社(あすかにいますじんじや)に到着。『書紀』には686年にすでに四座がまつられていたという飛鳥の神奈備(神の降臨する場所)で延喜式内神社。2月に行われる「おんだ祭」では天狗とお多福が夫婦和合の少しエロチックな祭祀儀礼を演じることでも知られる。境内には犬養揮毫歌碑51号がある。

「大君は 神にしませば 赤駒のはら ばふ田居を 都となしつ」(巻19-4260)大伴卿

 壬申の乱は、672年6月22日大海人皇子による美濃国での挙兵、不破の関の封鎖にはじまり7月22日瀬田橋の戦いで近江方が敗れ翌23日大友皇子(十市皇女の夫)の自害により終わった。この内乱に勝利して天皇となった天武天皇を神と讃える歌で、飛鳥浄御原宮に都を置いたころに詠まれた歌。作者は壬申の乱で功績のあった大伴御行。この歌碑は1998年の台風7号で倒壊した檜の巨木で押し倒され、2010年に元の場所に再建された。
  雨はすっかり止み、夕暮れがせまっていたが、これほど明日香を濃密に歩いたことははじめてだった。そして歴史に書かれなかったことを万葉集で知ることができるということも実感した。これも山内先生の万葉歌を朗唱しながらのくわしい解説のおかげだ。最後に村の人の親切なこころにもふれて本日のフィールドワークは終了した。(H)

「十市皇女(とおちのひめみこ)事件」(編集部)
十市皇女は大海人皇子(のちの天武天皇)と額田王の間に生まれた皇女で大友皇子(天智の皇子で大海人皇子の敵方)の妃であった。高市皇子は大海人皇子と胸形君徳善の娘の間に生まれた皇子(母親としては卑母=皇族ではなく身分が低いとされる)で壬申の乱の際、大津京を脱出して大海人皇子側に加わり同皇子から全軍の指揮をまかされた。『日本書紀』によれば、天武七年四月七日、天武が斎宮《天皇自ら神事を行うために籠もる場所》に向かうために群臣を率いて午前4時頃に出発しようとしていたときに十市皇女が急死した。その死因は不明である。このため、天皇の行幸は中止となり祭祀も中止となった。このことについて北山茂夫は以下の考察を述べている(『天武朝』中公新 書)。大友皇子自害の後、天武のもとに帰された十市皇女は、伊勢斎宮に送られるべく倉梯の河上に建てられた斎宮に赴こうとしていた。その日に自害を遂げたとする。その背景について北山は、まず高市皇子と十市皇女の間に恋愛感情があったとする。それは高市皇子が十市皇女の死後に三首の挽歌(一首は上記の歌)を詠み、抑えがたい思慕の情を示しており、井上通泰がこれについて「此三首の御歌によればいと親しき御中ならざるべからず。よりて思ふに、大友皇子崩じ給ひし後十市皇女は高市皇子と逢ひ給ひしならむ」(『万葉集新考』)とする意見を紹介している。そして、この事態を知った天武と皇后(のちの持統天皇)は両者の間に生まれた草壁皇子の立太子(皇太子として天武後の皇位継承者とする)に臨んで、皇親系の額田王の子十市と壬申の乱の最大の功労者である高市の接近、婚姻は有力な皇位継承の可能性を持つ者の登場でありなんとしても避けなくてはならないことであったとする。その解決策が十市の強制的な斎宮入りであった。伊勢の斎宮に仕えるということは神に嫁ぐということであり二度と高市とは逢うことはできない。これが斎宮に送られるその日の明け方に十市が急死し、遺骸は七日後には赤穂(奈良市高畑?)にあわただしく埋葬されるという異常な事態の背景であるとするのが北山の見解である。北山は「皇女の自害だ、と断言して誤りあるまいとおもう」としている。

7月例会報告 福田 耕さん「近代日本における乳業の発展−関東地方における一乳業家を例に−」

写真はありません

牛乳と日本人
 日本人がはじめて牛乳を飲んだのは飛鳥時代にさかのぼるらしい。大化の改新で大王 なった孝徳帝(7世紀後半)が渡来系 の人から牛乳をすすめられて飲んだと のこと。しかし、その後天武天皇(7 世紀末)の「肉食禁止令の詔」などに はじまり江戸時代をつうじて、日本人 は肉や牛乳の飲食からは(表向き)遠 ざけられてきた。
 事態が大きく変わったのは、幕末開 国と明治以後の日本近代化の時期であ った。開国後、横浜などの居留地に住む外国人が牛肉や牛乳を求めるようになり、それに影響されて日本人も牛乳や肉食に関心を持つようになり、日本における乳業や食肉事業が開始されるようになった。
  今回の報告は、乳業の発展から見た日本近代の幕開けについての歴史である。

日本最初の乳業
 現在の千葉県出身の前田留吉はオランダ人のスネル兄弟に雇われて搾乳業を学び、1866年に和牛6頭の牧場を開いた(図)。まだ攘夷論があって、牛乳には毒が入っていると言いふらす者もおり、先ず子供や病人から普及させ、3年後にはようやく商売が成り立つようになった。戦前の東京の搾乳業の大半は千葉県出身者であった。
 1871年、「殺生肉食禁止令」が解かれ、1873年、日本初の「牛乳取締規則」が東京で公布された。同年、牛肉商の組合が警視庁の内示により設けられ堀越藤吉が頭取になった。1887年には明治天皇に牛肉が献納された。1900年都市部から郊外へ牧場が移転され、地方の酪農業が盛んとなってゆく。それまでは東京都内にも多くの牧場があったらしく、今では想像もできない風景が見られたことだ。

牛乳普及をめぐるさまざまの見解
 松本良順は長崎で医学を学び、日本最初の私立病院「順天堂」を開設し、将軍の侍医、維新後は陸軍初代軍医総監となった人物である。彼は、1867年に出した建白書の中で、「新鮮の牛乳は、無比の滋養品にて、虚労又は絶食の病気に相用、誠に回生肉骨の妙効有之候。小児の母乳無之者を養育致候に於て天下絶て比類無之候。牛肉は人間食物中最第一の滋養品にて、人身を補ひ、身体を健にし、勇気を増候もの」と主張している。国学者の近藤芳樹は、1872年『牛乳考・屠畜考』で、日本で牛乳を用いはじめたのは「孝徳天皇乃御代」とし、天皇も飲んでいたのだから牛乳を忌み嫌う風潮はおかしいと主張している。維新後の政府にとって牛乳業は失業した旧士族救済と近代化の方向に添うものであったので、大久保利通は牧畜、乳業の推進を指示している。

乳業のはじまりと、ある酪農家の歩み
 1900年頃の東京市内には、牛乳業者が約300軒あり、ほとんどは牛10頭前後の経営であった。当時、乳牛は一頭平均250円(現在は一頭約50万円)で、1日7〜8升(12.6〜14.4リットル)の牛乳を生産できた。牛と設備をあわせて3000円ほどの資本が必要であった。平均的な乳業家の一ヶ月の利益は114円15銭ほどであった。  報告後半では、当時関東で乳業経営を行った松次郎という人物についての紹介があった。松次郎は、江戸時代に日光例幣使街道(江戸期に京都の朝廷から例幣使《幣帛を運ぶ勅使》が日光東照宮に向かう際に利用した街道で中山道から分岐、日光に向かう街道)で運送業を営む松の屋の次男で、横浜・東京・栃木・群馬で食肉業、酪農業を営んだ。
 彼は11歳の時に横浜へ行き、のちに東京・京橋区で河合万五郎の牛肉屋・牛鍋屋に勤め、肉の扱い方や西洋料理を学んだ。いったん故郷にもどるが、1871年、「殺生肉食禁止」が解かれ洋食ブームが起こると再び東京へもどった。当時故郷の栃木県でも酪農がさかんとなり、1878年に官立那須牧場が開設され、1897年頃から古峰ケ原高原や横根山高原一帯でも牧場経営が行われていた。
 松次郎は1880年までに東京から帰郷し、横根山に牧場を開き久治良に牛舎を持ち牛乳店を開いた。日光の下河原にも牛舎を持ったが1902年の洪水で流された。日光は明治期に外国人の避暑地として開発され、外国人専用のホテルや別荘ができていた。そこで、西洋料理や牛乳の需要が高まることとなる。1907年発行の『栃木県営業便覧』には、安川町の本町付近、石屋町に松次郎の牛乳搾乳所が記されている。「御登晃中両殿下御用」とあるので、皇族の日光訪問中、牛乳を献納していた指定業者であったことがわかる。
 1902年に養子をむかえ、日光の牧場をまかせて自らは足尾に移り、足尾銅山で活況を呈していた足尾で西洋料理屋と牛乳屋をはじめた。1916年、松次郎の出した広告には、「牛豚肉 牛乳搾乳 卸小売商 足尾町下間藤」とある。
 松次郎は、子どもたちに事業をまかせ、1921年頃には群馬に移り、そこでも新たに牧場経営を行っている。1931年に74歳で亡くなるが、晩年まで開拓した事業は子孫に任せ次々と新たな経営を拡大してゆくエネルギッシュな経営者であった。それは、まるで維新以後の近代化を旺盛にすすめてゆく日本社会のすがたとも重なって見えるようだ。
 質疑は活発に行われ、史料の不足という事情もあって日本の近代史の中で乳業の分野の調査がまだ十分すすんでいないことも明らかにされた。その意味で今回の報告は貴重な内容であり、今後よりくわしい調査研究が期待されるところである。

8月例会報告 横山篤夫さん(会員・元ピース大阪研究員)「シンガポールの忠霊塔」

8月例会の写真

「戦没者慰霊」の意味するもの
 近代以後の日本の軍と政府が戦死者をどのように扱ったか、そのことを解明することで戦争と国家、国民との関係が見えてくる。横山さんは、そのような問題意識を持ちつつ戦没者慰霊、特に忠霊塔の歴史に注目した。戦没者慰霊には三つの類型があるという。@靖国神社に代表される「祠堂型」、これは霊魂の存在を前提として戦死者を神として祀る。遺体や遺骨は「穢れている」といいう発想から持ち込まれない。A「記念碑型」、B遺骨を祀っている「墓地型」、これは軍が祀るもの、遺族が祀るもの、家の墓地にあるものなどさまざまな型がみられる。ガダルカナル戦以後は遺骨はほとんど帰らず、木箱に石が入れられていたり、紙に 「○○の霊」と書いたものが送られてきたりした。現在、靖国だけが戦没者の慰霊の対象として特化される状況はおかしく、遺族の了解も取り付けていない。
 忠霊塔は「墓地型」に分類される(これについては質疑の中で意見が出されたが、後述する)。歴史的には日清日露戦争以後中国大陸につくられるようになった。日露戦争中、遺骨の一部は本国に返され、残りを満鉄路線の各都市に忠霊塔をつくり、そこに分骨した。1939年以後、陸軍大将格の軍人を先頭に準政府機関的な組織による忠霊塔をつくる運動がはじめられた。満州事変以後、巨大なモニュメントが顕彰碑としてつくられるようになった。満州地域に10基、上海以外の中国内では北京、張家口、南京の三カ所に設けられた。

 シンガポール占領戦
 シンガポールの忠霊塔については、まとまった研究論文が未だない。横山さんは、わかる範囲で調査し、まとめている時にさまざまな情報提供があった。そのなかに、シンガポールにも忠霊塔があることがわかった。  アジア太平洋戦争は、真珠湾奇襲攻撃で開始されたというのが一般の常識である。しかし、真珠湾よりも1時間半早くマレー半島のコタバルに日本軍が上陸していたことはあまり知られていない。シンガポールは、当時はまだ帝国主義世界支配秩序の中心にいたイギリスのアジア支配の拠点であった。日本軍は海上から攻撃してくるとのイギリスの予想に反して、日本軍の銀輪部隊がコタバルから南下して10日間でシンガポールを攻略した。日本軍(山下奉文麾下の第25軍6万人)は紀元節にあわせて攻略せよとの命令を受けていたという。イギリス軍(最多の4〜5万人のインド人、英人、マレー人 などの混成部隊で13万8000人)の先頭はインド人部隊で、後方のイギリス人部隊は逃げ腰となり、まっさきに崩れた。イギリス人部隊の腰砕けに対して頑強に戦ったのが、華僑の中国人からなる義勇軍「ダルフォース」であった。シンガポールの人口構成は現在、中国人75%、マレー系14%、インド系9%、その他2%で、当時とあまりかわっていない。孫文が現地で中国人の団結を呼びかけ、以後、シンガポール華僑は日本と戦う蒋介石に支援金を送っていた。「ダルフォース」とは、イギリス軍将校の指導下につくられた華僑の中国人部隊であった。華僑の部隊の粘り強い抵抗に驚いた日本軍は、この部隊に関わる不確かな名簿を手に入れ、名簿と中国人を照合し、敵対する華僑の掃討作戦を行った。このとき、華僑数千人以上が殺された。その遺体が、現在のチャンギ国際空港滑走路付近の海上に流れ着いたという。シンガポールでは、このような日本軍の行った行為が教科書にくわしく記述され生徒たちが学んでいる。一方で、日本からの観光客(最近は中国に次いで2番目の数)は、そのような歴史事実は知らずに楽しんでいる。

  忠霊塔の建設
 日本軍のシンガポール占領時の戦死者は、シンガポールで1500人、マレー半島で2000人の計3500人であった。一方、イギリス軍側は23000人でクランジ戦没者共同墓地に、すべての戦死者の名前が刻まれた墓碑が建てられている。
 日本軍は1942年2月15日のシンガポール占領後、同地を「昭南特別市」と改称し、「大東亜戦争英霊」の顕彰と占領者のシンボルとして「昭南忠霊塔」と「昭南神社」の建立を行った。これはアジア太平洋戦争(「大東亜戦争」)後の最初の忠霊塔建設と位置づけられた。しかし、同年6月のミッドウエー海戦、10月のガダルカナル島戦の大敗後は忠霊塔どころではなくなった。新聞記事からは大日本忠霊顕彰会の記事は激減し、軍用機の献納記事などが取り上げられるようになった。次々に建てられるはずだったジャワ、フィリピン、ビルマなどの忠霊塔は幻に終わり、「昭南忠霊塔」の合祀対象が拡大され、マレー・シンガポール占領戦の戦死者3500人に加え、アジア太平洋戦争初期の戦死者約6500人も入れて約10000人が合祀されたとも考えられる。

忠霊塔の爆破と遺骨の放置
 1945年8月15日の敗戦後、日本軍は撤収前の25日に「昭南忠霊塔」と「昭南神社」を爆破破壊した。敗戦直後はイギリス軍はすぐに来られず9月到着であった。それまでは日本の警察が治安維持を行ったが、日本軍が忠霊塔を爆破したのは、その間の出来事であった。その時期に忠霊塔から1万人近い遺骨を日本人墓地に移すことが可能であったのかはわからない。  第一次大戦後のヴェルサイユ条約に、戦没者の遺骨に関する協定が定められている。第225条に「各其ノ版図内ニ埋葬セラレタル陸海軍軍人ノ墳墓ヲ尊重シ且保存スヘシ」とあり、もっとも多数の戦死者を出したドイツ、フランスの兵士の墓は各戦地の埋葬地に保障されている(一方、トルコ兵士の墓地はつくられていない)。
日本の場合、奉天の遺骨数万人分は返送され、これらが東京千鳥ヶ淵の墓地の起源となった。外務省の方針は、日本の現地の墓地は撤去して返送するというものであったが、戦後GHQが米軍管理地の日本人戦没者の遺骨の状況を日本政府に報告しているが、日本政府は対応しないままであった。 日本軍が行った「昭南忠霊塔」の爆破、GHQの報告になにも対応しなかった日本政府の態度などから何が見えてくるだろうか。声高に「英霊」を祀りあげておきながら、忠霊塔を爆破した軍も、戦地の無数の遺骨に見向きもしなかった政府も、人をただ戦争のための捨て駒に利用するために様々な舞台装置をあつらえる魂胆だったのだ。我々は二度とだまされてはいけないだろう。靖国神社とはまさにそういうものの象徴ではないだろうか。

質疑から
 報告後、活発な質疑が行われた。まず戦没者慰霊について3類型ではっきり分類できるものか?たとえば忠霊塔は「墓地型」とされるが、これも「英霊」を顕彰する目的があるのではないか?忠霊塔が爆破される前に遺骨は移したのか?移さず爆破したのか?日本は遺骨回収に消極的なのか?アメリカは遺体を丁重に扱い、遺骨の回収は熱心に行うが、イギリスは現地で墓地をつくるなど、現地埋葬型と遺骨持ち帰り型など国によってちがいがあるのでは?などの疑問が出された。
 これらの疑問に対しては、3類型のように「すっぱりとわけることはできない」、個人の墓は、個人の人間としての個性をあらわしているが、合葬された墓碑は、「英霊」として一括されていると考えられる。日本はあまり遺骨にこだわらない国民性があったが、むしろ近代以後遺骨にこだわるようになった、など報告者からの回答があった。
 報告者も言われるように、忠霊塔の問題は過去にまとまった研究がなく、まだこれから調査研究を積み重ねてゆくことが必要な分野である。しかし、その解明は国家と戦争、国民と戦争の関係をあきらかにする上で重要な意味を持っている。横山さんの今後の研究成果を期待したい。

9月例会報告 後藤正人さん(会員・和歌山大学名誉教授)「神仏分離令の様相−高鍋藩を中心に」

9月例会の写真

基礎的研究と各藩の様相
 1868(慶応4)年3月17日(改元は9月8日)に明治新政府から発せられた「神仏分離令(神仏判然令)」についての研究の基礎となったのは、辻善之助他編『明治維新神佛分離史料』(1926〜29年)と、この史料に基づく、辻善之助『神佛分離の概観』(1924年)であった。これによれば、藩知事が自ら関係する寺院を廃棄して範を示す(松本)、615寺中439寺が廃寺された(土佐)、廃仏が徹底され僧侶が兵員とされ没収財産は軍事費となった(薩摩)などの例があげられ、一方神仏分離に対する激烈な反対の動向や本居・平田派の国学の影響なども紹介されている。
 戦後の研究では、圭室文雄『新編明治維新神仏分離史料』 や安丸良夫「近代転換期における国家と宗教」(『宗教と国家』)は神仏分離が神社から仏教色を取り除くためだけではなく、「神道国教化」(圭室)、「新たな国教体制」(安丸)をめざすものととらえている。宮地正人は「太政官布告三三四号により無檀無住の寺院は廃止され、跡地処置の儀は大蔵省に伺い出るべしとされるのである」(『国家神道形成過程の問題点』)とし、これらの指摘は重要である。

個別藩の様相−高鍋藩
 従来の研究では個別藩に即した神仏分離令の研究が欠けていた。日本では神仏習合がすすんでいたため神祇信仰と仏教が融合し寺院は寺地の神を祀り、神社は神宮寺を建て、仏と神の関係を説明する「本地垂迹説」が普及していた。神仏分離令のもと、「神社から如何にして寺号を抜き、住職を廃止し、仏像・仏具を取り出したか、住職や仏像などはどうなったのか、また寺院から神道を如何に取り出し、神社へ神主が如何に任命されたか」などの具体的な問題の解明と神仏分離令は「信教の自由」とどのように関わるのかという問題の解明などが求められる。
 後藤さんは、神仏分離令との関わりで従来未検討であった明治初年の高鍋藩の日記「藩尾録1〜4」を中心に個別藩の状況を分析している。

(1)1868年(慶応4・明治元)の神仏分離の様相
 3月17日、神社から僧侶の追放を指示する通達、同年3月28日には神仏分離に関する法令、4月10日には、神社の仏像・仏具の撤去とともに社人と僧侶の間の不和、 いさかいが無いように指示する法令、同年9月18日には神仏混淆の禁令が出されている。高鍋藩では3月4日に、比木神社が「真言宗持」であったのが「唯一神道」とされ、神仏習合ゆえに「長照寺号」を廃止されている。仏躰・仏具は藩主と関係深い日光院へ納められた。神仏分離令布告の前後から神仏分離政策は始動していた。

(2)1869年(8〜12月)の様相
 1869年6月に版籍奉還が行われる。藩主は知藩事となり、太政官宛に@経営困難な寺を廃寺とする、A無住の寺院は撤去する、B仏葬から神葬に変え、邪宗(キリシタン)は厳しく取り締まること、の3つの伺いを出した。9月23日には、神道主義を藩政の重要政策とするため、堺県から神道家の名波大年を雇い入れ、藩校での神道の講義、藩内の神仏分離の監視、推進などが行われ神道の普及がはかられた。一方で、寺院の宗旨人別帳作成が止められ、寺院による民衆掌握の廃止につながった。

(3)1870年(1〜6月)の様相
 「円実院が還俗して・・・神主を命じられ」とあるように僧侶が強制的に還俗させられ、おまけに神社の神主を命じられたという事態も生じている。知藩事家の菩提寺である大龍寺と龍雲寺の住職は、その「悪事」なるものを理由に住職の位を剥奪され罰金を科せられた。知藩事家は葬祭について仏法をやめて、神葬祭に変更し、そのために神殿を造営することになった。大龍寺と龍雲寺の本尊諸仏などは檀家の祠堂に「当分始末する」こととなった、など。これらの動きに対し、江戸の崇巌寺(初代・2代藩主墓所)では1871年より廃寺の指示が出されたが、同寺院より嘆願書が出され、寺号廃止、復飾(還俗のこと)の儀は当該住職一代限り差し置かれることになった。ちなみに大龍寺と龍雲寺、安養寺の3つの藩主菩提寺は現在、墓地だけ残っている。

(4)1870年(7〜9月)の様相
 神道・「皇学」政策が各方面に浸透した。国学修業者が宮田社神主となり、小丸地蔵が仏体を取り除き堂をこわして愛宕神社が勧請され、盆踊りの休日が神祭の休日とされた。神社の祭礼から薩摩藩の例にならって能が除外され、招魂所では神事が予定された。藩校では「皇書」が試験科目となり、学生は「皇学所」に入寮して半給が与えられた。この時期に、大量の住職復飾(還俗)がなされた。住職が復飾(還俗)して廃寺となる例が20ケ寺をはるかにこえた。ただし、藩からの寺料は引き揚げられるが、苗字と身分(士族か卒族〔下級武士〕)、扶持米、もとの家屋敷が与えられた。このような「恩典」 により廃仏毀釈に「拍車がかかったことは想像に難くない」。

(5)1870年(10〜12月)の様相
 御目見得以上の住職であった昌福寺と就源寺は還俗後1代士族、1人半扶持となり家屋敷がそのまま与えられた。藩校での「皇道」学習には、貴賤を問わず人々を組織しようとした。藩は11月25日に太政官に対し、領内寺院の廃寺を藩の判断によって行ってよいか、また届けが必要であるかの伺いを行っている。これに対し、太政官は、「法類寺檀」の申し合わせに支障が無い場合は廃寺を認め、檀家は最寄りの同宗寺院に合併を申しつける、ただし廃寺が朱印地(幕府が朱印状をもって領地支配や地主としての租税免除を認定した所領で、特に寺社領)か面積の多少を取り調べ跡地の処分見込みにつき、さらに伺い出ることを指示している。報告者は「ここに現れた朝藩権力(版籍奉還から廃藩置県の間の政府を指す)の廃寺処置には近代的な『信教の自由』の萌芽すら窺うことは困難である」としている。12月、藩政庁は「驚くべき廃寺の有様を届けている」。古義真言宗の地福寺を含む15ケ寺、臨済宗妙心寺派の龍雲寺・大龍寺を含む20ケ寺、曹洞宗永平寺派の大平寺を含む14ケ寺、浄土宗鎮西派の安養寺を含むケ寺、時宗の昌福寺1ケ寺、一向宗西本願寺派の称専寺を含む7ケ寺、新義真言宗の高月寺を含む19ケ寺の計87ケ寺である。廃寺の理由は主に仏式の葬祭が不用であるからという理由であるが、いずれの場合も事実とは異なっていた。

  質疑交流と感想
 明治維新史で、まだ未解明の部分も多い分野の貴重な報告であった。現在は普通に存在する寺院、仏像などの仏教施設が、かつては明治政府の神仏分離令、神道国教化政策 のもとではげしい廃仏毀釈の攻撃にさらされ、多くの寺院、仏像などが破壊、消失の運命をたどったことがわかった。一方で、 奈良や各地に残る寺院や仏像は、なぜそこにあるのか?という素朴な疑問も出された。これについて、神仏分離と廃仏毀釈の被害状況は各県により、 その程度が異なっていたらしい。その原因は、各地の住民の抵抗によることも大きいと考えられる。ひとりの参加者からは、奈良での伝聞の情報として寺院の地 元の住民が寺の貴重な仏像を守るために隠したらしいという話が報告された。あちらこちらで、そのようなことがあったのではないだろうか?神道は宗教的には 一神教として十分な条件を備えていない原始的な宗教であり、国教として大きな力を持つことはなかったように思われる。もともと多神教的社会の日本では、 宗教の多様性を求める国民の意志も強かった。むしろ神道国教化の動きを背景に国家主義的な教育体制のもと天皇制イデオロギーで国民の思想統制がはか られていったと考えられる。神仏分離令の進行過程は宗教のかたちをとった明治政府の政治的な意図があきらかであり、一方で土着の日本社会が持っている 多様性の面をも逆に浮き彫りにさせているようにも思われる。

10月例会について

10月例会は台風接近のため危険を避けるため中止としました。急な決定で連絡の術もなく当日会場に来られた方にはご迷惑を おかけしたことをお詫びいたします。なお、当日の例会に予定していたテーマ「大阪府下での新たな空襲被害の発見−阪南市海岸部での米軍戦闘機による空襲」 は月を替えて行いたいと思いますのでご了承ください。(運営委員会)

11月例会報告 森下徹さん、福田耕さん(会員)「大教組文書の可能性」

11月例会の写真

(1)大教組文書に見る戦後大阪の社会運動(森下 徹さん)

科研費による大教組文書の研究はじまる
 大阪教育文化センタ−の教育相談室として使用されていた上六の土屋ビルに置かれている大教組史料がセンター撤去のために散逸の危機をむかえたため、大教組書記をしていた(当時)松浦由美子さんから森下 徹さん(和泉市教育委員会所属)に相談の連絡があったのが2010年である。
 2011年3月下旬に松浦さんによる作業 が始まり、土屋ビルの書架に置かれていた史料を分類し、段ボールに詰めて大教組の地下駐車場に仮置きした(2011年3月31日)。膨大な段ボールに入った史料は次第に重みでくずれそうになり、2012年6月頃に森下、松浦、福田 耕、富山仁貴(関学院)の4名で史料の内容と年代を記録する作業を開始した。駐車場でのほこりまみれの作業であったが、これらの史料は現代史の第一級の史料であることが確認できた。その後、史料は一部処分や移転により80箱に整理され大教組の地下書庫に移された。作業の合間、近くの喫茶ガットネロでのお昼のお茶の時間が一同の楽しみとなった。史料の概要把握にもとづき、史料の目録化と史料的検討、報告書の作成をめざして2012年10月に文科省の科学研究費助成事業に応募した。第一次申請は不採択だったが、2013年の第二次申請で採択され科研費が出た。
 テーマは「戦後教員組合運動の地域社会的研究ー大教組所蔵文書の史料論的検討を通じてー」課題番号26370811 2014〜16の成果報告、大教組文書の概要紹介である。

大教組文書の概要と特徴
 ダンボール箱にして83箱+α、総点数5885点、年代は戦中(昭和15年の青年教師団の史料など)から1990年代まで、そのうち1950〜60年代が主である。来歴と特徴は、『大教組運動史』第1巻1990、第2巻1994編纂のために収集したり、関係者から提供を受けたものや調査成果などである。また勤評闘争時に警察に押収され、1982年に返還された史料(茨木小学校の職員会議議事録など)、執筆のためのノート、原稿、ゲラ、年表など。編纂事業事務局関係者の手許にあった1990年代の史料がある。これらの史料から大教組の形成過程、大教組の諸運動・教育実践(教研、勤評、平和教育、同和教育など)、戦後大阪の社会運動などが明らかになり、またそこから戦後大阪の地域社会構造、子どもや父母の生活実態に迫ることもできる。

今後の課題
 対象とした史料は大教組の保管史料の一部である。これらの史料は主に『大教組運動史』編纂のための生の史料である。これらを分析調査することによって何が見えてくるのか。『運動史』は「事実を以て語らせる」というスタンスで客観公正な記述をめざして編纂されている。しかし、なお聞き取りや史料収集が可能であり、『運動史』ゆえの、あるいは編纂時期故のある種の「せまさ」のあることを報告者は指摘する。
 今後、大教組本部史料とのつきあわせ、他府県との比較、生史料の分析からの歴史像の再構成、教員組合運動、教育実践から子どもや父母の実像に迫ること、大阪の地域史研究、大阪と京都、奈良、和歌山などとの比較研究、教育実践と社会運動との総体的把握などの検討を行い、報告書の刊行、公開、各組合、個人の史料として生かせるようにしたい。

 (2)東谷敏雄『運動史関係』ファイルについて(福田 耕さん)

レッドパージ史料
 史料は、大教組委員長であった東谷氏が『大教組運動史』第1巻編纂のためにつくったファイルである。執筆依頼分や会議レジメなどとともに、レッドパージや勤評関係の史料がある。
 運動史編纂のための第一回会議では、1987年の大教組結成40周年記念日を目途に戦前から1964年度までの運動史を発行することが決められており、編纂の基本方針として「事実を以て語らせる」ことを基本とし、客観的公正な運動史とするように努めることが強調されていた。聞き取り調査では、伏見格之助、東谷勝司、中川・井上・渡部、大津静夫氏らの名前が記録されている。レッドパージについては、東谷氏が当時何もできなかったと、悔いていたことが伝えられており、氏が各関係者にレッドパージに関する証言の依頼をする書面が残されている。

日教組映画のデジタル化
報告の最後に、大教組に保管されていた日教組製作の記録映画をデジタル化したものが上映された。これは16mmフィルムをクリーニングしたうで、デジタル化されたものである。分裂前の大阪で行われた全国教研や教育塔前での教育祭などのもようが上映された。
  会場の関係で報告時間を十分確保できなかったことが残念であるが、なによりも膨大な史料を散逸から守り、第一級の現代史研究の史料として、ここまで整理された関係者 に敬意を表する。現代史、教育史、地域史などの研究対象として、公開のもと、双方の組合の、また大阪、日本、世界の「共有財産」として無限の可能性が秘められている。若い研究者の参加もふやしてがんばっていただきたい。

12月例会報告 山本恒人さん(会員・日中友好協会大阪府連副会長)「先進国への飛翔を夢見る中国ー中国共産党大会第19回大会をふりかえる」

12月例会の写真

「中国崩壊論の崩壊」
 冒頭、書店に山積みされる「中国崩壊」本の画像が紹介された。明らかな右サイドからの攻撃は中国の体制批判から歴史認識の捏造も含めて繰り返し行われている。「南京大虐殺はなかった」などに代表される悪質な攻撃は論外であるが、一方で良心的な人々も持つ中国への率直な不安、懸念もまた無視できない。核兵器廃絶の世論の国際的な高まりに障害となるような現在の中国政府の動きや、南シナ海における覇権主義的、大国主義的な姿勢、国内の人権抑圧の問題など、それらは安倍政権や右翼的な潮流、メデイアがつけいるスキを与えているのも事実である。
 報告者は、1989年の天安門事件、「2008年のリーマンショック以来、多くの論者が中国の崩壊を予想したが、その期待を裏切って中国は成長してきた」という故・加藤弘之の言葉を引用しながら、ともかくも中国は成長をとげているという点で、「中国崩壊論」は崩壊しているとする。一方で後者の不安や懸念への答えはあるのだろうか?日中関係、環境問題、経済格差是正の三課題に焦点をあてて報告された。

中国共産党第19回大会−「格差」是正への目線
 2017年10月行われた第19回大会は、「習近平が『権力集中』を集大成し、混乱した世界で『中国モデル』を提示し、国際社会に影響力を拡大できる段階に到達し、それ故現在の中国は『自信』を持っている」(朝日新聞・天児慧早大教授)という。
 現在の中国経済についての前向きな評価としては、この間の政権がすすめた「反腐敗」政策により国有企業と役人の癒着が摘発され「民間企業の投資が促され」た。「一党独裁下の経済発展にも自信を深めている」(梶谷神戸大教授)。
 報告者が特に強調したのは、大会前後の「人民日報」がもっとも力を入れて報道していたことが、「反腐敗」運動と国民の最も身近な利害に関わる問題であったという。それは「『共産党の指導』『習近平への権力集中』の成果を国民の関心のありどころで、国民生活のレベル向上で示す」ことであった。かつて、習近平は「中国共産党が人民に見放される時、党は『統治の正統性(執政資格)』を失って、歴史の舞台から降りざるを得ない」(2016年7月7日人民日報)と言ったが、習近平の指導下における中国共産党は「国民の目線での『統治の正統性』を非常に気にしている」。したがって、今日の中国社会における「格差」の解消・「発展の不均衡」解決を正面に掲げたことこそ今大会の最大の積極面と評価しうる。

日中関係−政府と民間と
 日本のアメリカ追随の外交姿勢は今や国際的にも有名である。外交の基軸は、従属的な日米軍事同盟に置かれており、「日本の国家から国民に至るまで、主としてアメリカとの関係だけで戦争を終えたのではないか、・・我々が本当の意味で終えねばならなかった戦争とは中国における戦争であった」(子安宣邦)。安倍政権の「国際標準」からの脱落と一体のものといえよう。
 現在、中国がすすめている「一帯一路」政策、「AIIB」などの国際経済協力には、安倍政権は及び腰であるが、中国主導のこれらの提案を呑めば安倍流「中国脅威論」の一角が崩れかねないという懸念がある。一方で、ADB(アジア開発銀行)総裁は「AIIBとの強調は必要」との言明をしている。経済同友会、「日本経済新聞」、黒田日銀総裁なども「AIIB」には前向きの姿勢を示している。日本企業はすでに、石油天然ガスなどの共同調達、プラント建設など、中国との「競争」「連携・すみわけ」「下請け」などの選択肢を念頭に「一帯一路」構想に対し対応協議を開始している。

環境問題
 中国の大気汚染に代表される環境問題の悪化の大きな原因は、経済の量的追求の弊害である。日本や台湾、韓国と比較して中国の投資効率は低い。そのため高度成長を維持しようとすれば国民の消費の犠牲と環境負荷(=公害の拡大)を高めることになる。中国では、元CCTVの女性記者柴静の環境汚染をあつかった動画「蒼頂の下」がネット上で注目されている。動画では、中国石油化学集団などの中央政府直結の国有企業が環境保護政策の制定、執行の障害となっていることが言及されている。中国では2015年から中国史上最もきびしい環境保護法が施行されている。
 一方、中国では多様なEV(電気自動車)開発が先行的に行われており、この分野では日本企業も追い越されそうな勢いだ。中国は世界最大のCO2の排出量取引市場を設立し、日本の消極性が際立っている。

経済格差の是正
 ジニ係数は格差の度会いを示す数値である。1(完全不平等)〜0(完全平等)のうち、先進国平均が0.4である。0.5以上は社会的安定を失うレベルである。中国では2000年前後は0.42であったが、2009〜2011の高度成長の時期に格差が拡大し(この時期は統計が隠された)、2013年に0.489となった。人口14億の内、約6億7000万人が下位の階層で、労働者・農民で占められている。GDPに占める国民の経済的豊かさを示す民間消費支出は、2000年代に入って投資優先型の経済成長になってから低下を示し35〜6%まで落ちた。民間消費支出は先進国では、およそ60%以上を示す。日本は56.9%、アメリカは70%である。したがって、民間消費支出は改善傾向にあるとはいえ、中国では国民の生活水準は先進国となるまでは、なお道半ばというところである。
 国民生活の水準を上げるための努力として、中国では社会保障制度の拡大がすすめら れている。その軸となっているのが社会保障カードの普及で現在人口の79.8%にまで到達している。これは14億の人口中10億人が、健康保険や年金の社会保障を受けることができる段階に達していることを示す。社会保障制度は改革開放以前は公務員と国有企業の勤務者に限定されていたが、1990年代に着手されて反腐敗運動とリンクし、国民皆保険、皆年金の達成が2020年を目標にすすめられている。しかし実態は、職域や地域により保障の程度は異なり、農村部は任意加入で、都市部と較べて薄い保障額である。また豊かな省と貧しい省の格差もある。農村から都市への出稼ぎ者は都市では保障されないという問題点もある。これらの統合公平化が2035年までかかるといわれている。大西 宏は2033年には中国が先進国化すると考えている。

パクス・アメリカーナからパクス・シニカ(中国)へ
 中国の現在のGDP総額は11兆ドルで1位のアメリカに次いで世界2位、日本は4兆ドルで3位である。一人当たりGDPでは、中国は76位、アメリカは7位、日本は26位である。日本など先進国がゼロ成長となったように、中国も2033年ころに先進国並みにゼロ成長に到達すると大西は推測している。いずれにしても、今後中国は巨大な影響力を世界に与える国となるだろう。パクス・シニカということに不安、懸念を持つ人も多いだろうと思うがと、報告者は断りつつ、たとえば現在焦眉の北朝鮮問題でもトランプ政権が対話よりも圧力をかけようとしていることに対しても、中国が対話を重視していることなどを見ても、パクス・アメリカーナよりもましではないか、という。冒頭の中国への不安と懸念は解消されるだろうか。報告者は中国との処し方について、「現実を直視する姿勢と批判的精神を大切にする」ことが基本としつつポイントは「中国の発展のダイナミズムを見失わないこと」とまとめた。

たくさんの意見が出た質疑交流
 参加者からは多くの意見、質問が出された。
質問と意見
 中国の姿勢に対する生理的反発(報告中の話)とは何か?安倍サイドの攻撃との関係は?留学生と話していると、日本よりもアメリカなどへの期待が大きい。「中国崩壊論」崩壊について。社会保障カードが10億人に普及したことの意義は大きい。留学生との対話で中国政府への批判的意見が多い。市民社会の成長が感じられる。大国主義的な姿勢については彼らはどう思っているのか?中国の労組はどうなっているのか?東洋史を学んだ経験から多民族で広大な中国で市民社会的な統治理念は可能か?中央の党と地方の党の関係は?民主同盟の現状は?中国へひとり旅に行き、茨木市の姉妹都市の役所を、市報を届けるために訪問したが、管理統制が厳重で市に苦情を訴える部屋で見たのは上から目線で市民をなだめている役人の姿だった。街中には「公安(=警察)」の人がたくさんいて、常に監視されているようであった。中国人研究者の楊継縄が「(中国の)権力は制約なき上部構造、資本は制御されざる経済的基礎、これがすべての社会問題の 根源、もし民主的な改革を怠るならばカタストロフィー型の変事が起こりかねない」と言っているが、民主主義は政治、社会の問題であるだけでなく、社会主義経済建設に必要な条件と思うが、議会や労組などのチエック機関を育てるような方向はあるのか?

   これらの質問意見についての山本さんからの回答について要約すると
●「中国への生理的反発」は左翼陣営の中にもある。覇権主義や文革への反発など。これらは一般の「嫌中感」とは区別される。大西氏は、パクスアメリカーナよりもパクスシニカのほうが「よりましではないか」と見て良いという主張をする。●労組の問題について、中華全国総公会という公式の最大組織がある。労働者を共産党につなぐ政治主義的要素と、権益を擁護する要素とがあるが、政治闘争が優先される。権益優先は同時に民主化論につながるが、衰退している。NPOやNGO組織は、純市民的組織は当局がいやがり、中国共産党の指導の入った組織にする傾向がある。●留学希望先としては日本は3〜4番目。しかしアニメの影響などで日本を目標と考える「日本大好き」学生もふえている。●人権問題で先頭に立つ知識人にも伝統的な「読書人階級的」な特権意識は根強く、両者の乖離は小さくない。●民主化問題について、フランシス・フクヤマが中国のウイークポイントとして、「権力を制限するシステム(立憲主義)をこれまでに持てなかった」ことをあげている。中国の「法治」は「法の支配」の論理とはちがう。加藤弘之が中国社会の特徴として「あいまいな制度」をあげている。たとえば、中央集権的と言いながら地方政府はまるで企業のように、地方本位に経済成長を競い合っている。中央も中身はともかく成果を上げた地方の人材を中央に吸い上げていく。その結果、多くの問題を孕みつつ崩壊ではなく前進する中国が我々の目の前に現れてくる。まずはこれを直視することが大切と思う。民主同盟は、全人代とちがう機関である政治協商会議の幹部を出している。常識的に中国で生きてゆく上ではまず共産党である。それでも「民主党派」を選ぶ人がいるということは民主党派の存在はただの飾りとは言いがたいところがあるように思う。

2016年例会報告

1月例会報告 福林 徹さん(会員・戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会)「米軍が撮影した近畿関係写真資料の調査」

1月例会の写真

 1月31日、大阪府教育会館で、大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター客員研究員で本会会員でもある福林 徹さんに、「米軍が撮影した近畿関係写真資料の調査」と題して報告していただきました。NHKテレビや新聞数紙の記事に福林さんの調査活動が紹介されており、是非とも取り上げてほしいとの要望を受けての1月例会でした。
 福林さんは、10年ほど前からアメリカ公文書館に通って、(1回で二週間ばかり)膨大な写真資料を収集されています。そのうち、和歌山・大阪・奈良・兵庫・京都・滋賀の写真資料に区分して、パワーポイント・スライドで映しながら解説し、随時質問を受けるという進め方をしました。
 アメリカ公文書館の写真資料は米軍が撮影したものが多く、映像フイルムも収蔵されているとのこと。しかし、問題は、整理が不十分で箱にごちゃまぜに保存されています。さらに、無料で自由に閲覧できますが、閲覧する研究者が絶対的に不足しているのが現状です。
 さて、当日重点的に紹介されたのは、3万6千人の連合軍捕虜が、主に東南アジアから日本に送られ、全国各地130カ所に及ぶ捕虜収容所に収容されたという事実。そのため、進駐軍の先遣隊が真っ先に捕虜収容所に向かい、帰国させている写真映像です。たとえば、写真1)1945年9月14日の和歌山市駅の画面では、車窓に捕虜の姿が見えます。 大阪における捕虜の写真2)では、1945年10月、整列して中華民国国旗に敬礼する中国人捕虜の写真があります。港区に4カ所の捕虜収容所があったので、区内の小学校が背景に写っているのではないか? 隊列の後ろに写っている屋根に鳳凰が載っている建物は奉安殿(天皇皇后の写真と教育勅語を納めた)ではないか?等の意見が出されました。 次に、日本軍による捕虜の殺害事件について、幾例か写真で説明がありました。埋められた遺体を掘り起こして撮影。頭蓋骨に銃創の痕など、生々しくむごいものです。大阪城の南側に設置されていた城南射撃場では、8月5日、米軍飛行士たち14名を射殺。天皇の「玉音放送」直後の、8月15日午後、5人の飛行士を真田山陸軍墓地で、証拠隠滅のため処刑しています。国際法上の違反行為に対して、連合軍の戦犯追及は当然のこととしても、あまりにも非人道的な行為に、日本人として目を覆うばかりです。その他に、高槻地下倉庫(旧日本軍暗号名タチソ)の写真。洞窟内の工作機械などが写っています。また、強制連行の朝鮮人労働者集落も紹介されました。 随時質問は出されましたが、いくつか抜粋してあげてみます。
Q1,近畿以外のアメリカ公文書館資料は?
A1.北は北海道から南は沖縄まで、全国各地の写真がたくさん所蔵されている。中国地  方は広島・呉はあるが他は少ない。四国は発見できず。ネガは公開せず、プリントした写真がある。それをスキャンして撮る。 文書資料も保存されていて、写真がはさんである。GHQ文書は国会図書館にある。もちろん英文で、20年ほど前に初めて見た。 意見1:神戸の写真で、白人がリヤカーで食料をもらいに行っている写真に関して。神戸在住の外国人は、グループ毎にフードセンターを作っていた。脇の浜に収容所があった。イギリス人のフードセンターでは、彼らが聖ミハエル教会の再建に尽力したと聞いている。
Q2.町の人々の写真を見て・・・日本人は、米軍に抵抗していないのか?
A2.いったん、アメリカ軍に接すると、一斉にアメリカになびいていく。戦時中の「鬼畜米英」なんて、すぐになくなって、母親などは「あほらしくて〜」と言っていた。 意見2:45年11月に爆撃調査団の報告がある。大月書店から刊行され文庫になっている。マッカーサーへの手紙を見ると、「いつまでも占領してください」とか、若い女性からは「結婚してください」という内容まである。
A3.戦後の戦犯調査で、米軍機墜落事件については、場所によっては村人も竹槍を持って行ったので、「かん口令」が布かれたが、タレこみが多くすぐばれている。
意見3:終戦時、中学3年で淡路島にいた。母は英語が話せるというので案内役をさせられた。日本軍がした悪いことを、知らない村人が密告しに来る。中隊長は農民出身、次の位の兵士は教員と言っていた。米軍から上等な自転車をもらったり、ジープに乗せてもらった。一躍有名人になった!  報告と議論あわせて2時間半でした。いろいろな質問が出され、大変有意義な例会となりました。

2月例会報告 島田 耕さん(会員・映画監督)「記録映画『Report びわ湖・赤野井湾2015』制作現場から」

2月例会の写真

 2月27日、大阪府教育会館で、映画監督で本会会員でもある島田 耕さんに、「記録映画『Report びわ湖・赤野井湾2015』制作現場から」と題して報告していただきました。
最初に、製作に至った経過と映画の趣旨を簡単に説明していただき、映画を上映。その後に質疑応答となりました。一部を抜粋して紹介します。
Q1 この映画には2年かかっているそうですが、その間苦労されたこと等、教えてください。
A1 ここに中江さんが彦根から来ていただいています。毎月「びわ湖通信」を出しています。ずっとびわ湖について、環境が厳しい中で何が起きているか、近くに住んでいて伝えてくれています。撮影の際、スタッフが個人でドローンを購入して、200mまで上昇できるそうですが、上から撮ってもらいました。4月17日に、大津で2回上映します。これを皮切りに、県民の方々に知ってもらいたい。
Q2 洗剤の汚染については?
A2 燐がびわ湖に入り、栄養化して汚染の原因となった。今は合成洗剤が燐抜きで作られています。
Q3 びわ湖の水を飲料用に使っている下流側の要求との調整は?
A3 微妙な問題です。びわ湖保全のための費用を、分担して集めている。下流での工業用水確保の問題もある。人工堤防を造り、上に道路を築いた。そのため、湖岸の葦帯が減り、鮒が減少する。ホンモロコは水位を下げたため、産卵場所が失われた。  近江八幡のびわ湖最大の内湖を埋めてしまった。農地を広げるためという理由で。しかし、今は元に戻そうという動きがある。ただし、県の優先順位にならない。
Q4 以前、滋賀大学の岡本巌教授のドキュメンタリー映画がありましたが・・・(注:『びわ湖の深呼吸』2011年制作 冬に琵琶湖の水が上下によく混合し、湖底の酸素濃度が回復することを深呼吸と呼びます)。
A4 岡本先生が漁業の方に、水質汚染のことを言われています。漁協には補償金が出たが、こんなに酷くなるとは理解していなかった。元に戻さないといけないという声があがっている。
意見1 沖島の人口が減っている。当時は環境のことを考えていなかった。開発がこれ だけ進むと国立公園になれない。
Q5 びわ湖の汚染度は?
A5 赤野井湾は6、他は3〜4。湾の切通しを元に戻せば、だいぶ回復する。北湖は2、南湖の西の方はまだきれい。東は汚い。護岸堤を造ってしまったからだろう。
Q6 びわ湖の周りの汚染は?
A6 草津市の埋め立て地に大きな工場がある。何キロも浄水パイプを通して瀬田に流している。
意見2 アユが減ったのは淀川の水門のせいだと思う。私の故郷四万十川では、塩と真水の境目が産卵場である。外来魚(ブルーギルやブラックバス)のせいだとは決めつけられないのでは。葦がなくなり、産卵場が無くなったのが大きい。葦に膜ができ、バクテリアがついて水を浄化する。
意見3 黒田さんが知事の時、メダカやホタルが帰ってきた。大村さんがノーベル賞をもらった時、細菌にあげて下さいと言った。自然の中の力を大事にしなければ。
意見4 TVで葦簾を作っている工場を見た。自然と共生して地場産業としている。パート2を是非制作してほしい。湧き水など、いい場所を紹介してほしい。
Q7 淀川区に住んでいるが、ペットボトルとプラスチックの破片が葦の間に挟まっている。2月、3月に掃除が大変である。
A7 漁協の人がゴミを回収している。ビニールが湖底に沈んでいると砂地が覆われて一番困る。大きな所で一致点をつかむことが必要。
Q8 沖縄のことが争点になりつつあって、一番面白い。撮りかけのフイルムがあったのでは?
A8 2月に完成しました。ドキュメンタリー『沖縄ぬ心』(1時間38分)。「オール沖縄」になるまでを歴史的にたどり、後半には菅原文太の集会での発言シーンや沖縄の人々の声を取り上げました。
 午後2時から映画上映(65分)・休憩の後、質疑応答と議論〜約2時間余の有意義な例会となりました。出席者が20名と、今までになく多数の参加でした。報告者が個人的に出席依頼をされたと聞きました。 弟さん夫婦が、遠路はるばる淡路島から参加されています。今までの例会参加への取り組みについて、反省すべき点だと思いました。

3月例会報告 隅井孝雄さん(元京都ノートルダム女子大学客員教授、ジャーナリスト)「今日本のマスコミは一体どうなっているか」

3月例会の写真

 高市発言と放送法
 隅井さんは、かつて日本テレビに在職、退職後は大学に勤務し現在はフリーの立場で日本ジャーナリスト会議の代表委員などを務めている。最近の安倍政権によるメデイアへの介入について、テレビの報道番組映像を参考にしながら、問題点とくわしい背景について説明された。
 高市総務大臣の「放送法第4条」に関わっての「電波停止」という恫喝発言は、マスコミ界と多くの国民の怒りを招いた。テレビキャスターによる怒りの合同記者会見も開かれた。放送法は、放送の民主化のためにつくられたもので、放送法の編集準則は法的な規制ではない。高市大臣がそもそも放送法を曲解しているのだ。過去に放送法に関わる免許の問題が起こった例は2件ある。1989年京都KBSテレビに対してイトマン問題の許英仲らが150億円の抵当権を設定した際、組合員らが団結してボーナスや給料を担保に会社更生法を申請、放送を継続した。また1965年テレビ東京の前身科学技術財団テレビが倒産、日経資本が買収する際に放送免許が問題となった。いずれも、番組の内容で免許が問題になったことはなく、経営が行き詰まって放送免許が問題となった。番組内容が理由となって免許停止になることはない。

岸井、古館、国谷の3名の降板
 国谷さんの場合は、2014年12月に菅官房長官をゲストに迎えて、「集団的自衛権」問題についてインタビューが行われた(「クローズアップ現代」)。「第3国からの攻撃の恐れはないのか?」「国民の不安はどう払拭するのか?」という質問に対して、菅氏が「答えはない」「(国民には)ていねいに答える」などの回答を行って、「それでも不安がぬぐえなかったらどうするのか?」という質問のあと放送が終了した。放送の後、菅が「説明しに来たのに」と激怒したという。その後、「フライデー」記事によると、官邸サイドからNHKに「土下座して謝れ」という恫喝があったという。現場では国谷さんの続投が支持されていたが、上層部の意志で国谷降板が決まったという。岸井氏の場合、読売、サンケイに一枚ものの右翼的な批判広告、「安保法制に反対を続けると発言したのは偏向」がきっかけとなった。古館氏の場合、番組途中でコメンテイターをしていた古賀氏が政府や官房長官からの圧力があった内情を暴露し、「I am not ABE」という文字を書いたカードを示すという「事件」があり、テレビ朝日への攻撃が集中した。いずれのキャスターも信頼感があり、それぞれの報道番組も視聴率は高く、良心的で公平な報道を行っている。どうしてこの3名が降板しなければならないのか?

憲法「改正」と放送局支配のたくらみ
放送局に政府自民党や財界から圧力がかけられていることは、さまざまな情報から明瞭 である。なぜ安倍政権は放送局に圧力をかけるのか?その背景にあるのは安倍首相が政 権の目標として公言している憲法「改正」だ。  安倍首相と自民党が意図しているのは、第1に憲法9条2項(戦力の不保持、交戦権の否定)の「改正」、そしてさらに「自民党憲法草案」による憲法の全面改悪である。  しかし、日本国民の平和志向は強く、読売、サンケイを含む各新聞の世論調査はいずれも9条改正反対が賛成を上まわっている。安倍政権は憲法「改正」目的のためには、どうしても世論を変えたいのである。そのためにはマスコミを支配下に置くしかない。そこで第2次安倍内閣では、まずNHKに手をつけた。籾井会長の送り込みである。

籾井会長とNHK
 前会長の松本氏は「民主党政権下で選ばれた」ことで安倍首相が嫌い、変更したという。籾井氏の実家は九州の炭鉱会社だ。自民党の麻生氏とは友人関係で、三井物産を退職後、麻生氏の推薦で財界有力者から構成される「四季の会」が支持し、これに総務省や自民党も了解したという。NHKの予算6800億円のうち9割が受信料で成り立っている。その会長人事を政府、財界の一部の者で決定してよいのだろうか。籾井氏は、その後さまざま問題発言、行動を繰り返しているが、いまだ辞任という事態にはたち至っていない。
 籾井会長のもとで、「NHKの国際放送では日本の利益を守っている」と強調されている。現在、世界で信頼される国際放送はCNN(アメリカ)とBBCワールド(イギリス)である。日本のNHKの国際放送は中国のCCTVと同様、信頼されていない。中東訪問中の安倍首相が「イスラム国と戦っている国へ2億ドル拠出する」というスピーチを行い、NHK国際放送がこれを生中継した。その直後、「イスラム国」はこれを受けて後藤さんの身代金要求と殺害を実行した。NHK国際放送は今や国策の道具になっているから、このような悲劇が起きる。
 安保法の国会審議当時の国会包囲行動の報道などで、NHKと民放局のちがいは際立っている。8月30日夜の国会包囲のデモ集会の報道時間は、NHKニュースでは2回あわせて2分30秒、31日の報道ステーションでは20分であった。

マスコミの力は全国的には、おとろえていない
 政権側はNHKや読売だけでは不十分と考えている。そのあせりの発言が、「沖縄の二紙はつぶすしかない」や「マスコミをこらしめるには広告収入を減らせばいい」など、百田発言などにも見られる。その本音は、「朝日」「毎日」「東京」の比較的リベラルな三紙を何とかしたいらしい。なにかあるたびに、テレビ局が自民党に呼び出されている。選挙に関しても民放4局に、自民党から「選挙番組の出演者の選定、発言」や「街頭インタビュー」、「資料映像」などに「偏り」をなくすことなどの要望が出されている。 新聞では自民党、財界寄りといわれる読売、サンケイで部数1000万弱、これに対して朝日、毎日で900万強、比較的健全公正な地方紙1700万部を加えると、まだ国民の立場に立つメデイアの方が3:2ぐらいで優勢である。しかし、最近のニュースキャスターや記者の交替など、次第に現場が息苦しくなっていることも事実だ。

メデイアに政権が介入する国家は民主主義国家ではない
 世界の民主主義国家を見渡して、政府がメデイア、放送にこのように露骨に介入して る国はない。政府がマスコミを支配している典型的な国家は、北朝鮮、中国、ロシアだ。
 先進国で、政府がこんな露骨な介入をしている日本は異常としか言いようがない。先進民主主義国では、放送の「免許取り上げ」という考え方はなく、客観的な立場の第三者委員会(フランスのメデイア評議会やドイツの放送委員会など)が放送の基準や免許のコントロールを行っている。日本は「BPO」が放送内容の倫理性など一定の基準の役割をはたしているが、政府・与党がNHKのトップを任命し予算を左右しており、高市発言にみられるような「免許取り上げ」という脅迫を大臣が堂々と行っている。最近似たような動きがポーランドで起こった。新たに発足した右派政権がポーランド公共放送の首脳人事入れ替えなど、介入の動きを強めたことに対して、国民が抗議する動きが拡がっている。これを支持する国際環境としては、EUが放送への政府の介入を許さず報道の自由とメデイアの独立性を守る「報道憲章」を持っており、ジャーナリストを抑圧する対象にしてはならないということを明確にしている。イギリスのBBCでは、かつて北アイルランド問題で政府が圧力をかけてきた際にストライキで抵抗した。イラク戦争の際にも政府の立場に反して報道の公正さを維持した。その結果、BBCはイギリスでもっとも信頼できる放送局とされている。

公正なメデイアを守るために
 欧米ではメデイアを監視する市民運動がさかんである。メデイアの批判とともに公正な活動を行っているジャーナリストを擁護する運動も必要である。現在のNHKをめぐる異常な事態に対して、NHKと籾井会長への批判の運動が全国(17都市)で起きている。民主主義の社会を維持するために公正・客観的なメデイアを守ることは重要な課題である。隅井さんは、現在行われている安保法廃棄を軸にした野党連合のスローガンにメデイアの民主化を掲げる必要があると言われた。我々も、現在のメデイアの状況に非常に不安感を持っているが、案ずるよりも、欧米のように公正なメデイアを守る運動をすすめるべきであろう。政府のメデイアへの介入を批判し、すぐれた番組やキャスター、記者の活動を応援し擁護する声を上げてゆくことが求められている。これは今すぐ出来ることである。
 当日は関心の高い内容であったので質疑も活発に行われた。ある参加者は某有力紙が主催した読者などの参加する意見交流会に参加し、従軍慰安婦問題に関して某紙に対して与党サイドから「10億円賠償せよ」など、やくざまがいの圧力がかけられていることなどを報告された。

4月例会報告 こうじや美規子さん「大阪で生まれた『国防婦人会』」

4月例会の写真

 4月例会は4月23日大阪府教育会館の牡丹の間でおこなわれ13人の参加がありました。1980年代大阪府婦人会館の記念事業として「国防婦人会」の聞き取りをまとめられた?谷美規子さんに報告を依頼していました。ところが1925年生まれで90歳をこえるこうじやさんです。体調がすぐれずビデオレター報告に切り替える事になり、京都のご自宅へ撮影にいきました。
 レジメにそって4つに分けてお話しいただきました。@40年勤めた高校教師を退職した後、大阪府婦人会館で社会教育の講座を担当。婦人会館20周年記念事業として元「国防婦人会館」だった「会館のルーツを探ろう」と日本史学習グループと情報ボランティアグループで取り組んだ。A1931年の満州事変以降、大阪港は一大出征基地となり大阪港を抱えた港区で1932年「大阪国防婦人会」が発足する。会長三谷英子、副会長安田せい・山中とみ。陸軍との結びつきと消された副会長の山中とみ。B「国防婦人会館」の掘り起しに1000枚のアンケートを300枚回収。アンケートから分かったこと。63人の聞き取りと証言の重み。1942年大日本婦人会に統合。1945年5月か6月頃解散。C新聞報道への疑問の目。クエスチョンマーク?自分の頭で考える。再び軍国の母となるなかれ。
ビデオ終了後、90歳という年齢を感じさせない気迫のこもった語りに思わず拍手がおこりました。当日の進行は松浦が担当。参加者の感想と質問については後日、こうじやさんに届けるという事で交流を深めました。女性史では「国防婦人会」は大日本婦人会に統合されたと理解しているが、聞き取りのなかで「解散した」と答えた方がいるのは?年表には「大阪国防婦人会」が発足してすぐ「空中からビラをまいた」とあるが、軍部との関係は?などの質問がだされました。大阪でうまれた「国防婦人会」について、今後も系統的に大阪民衆史研究会の例会でとりあげてはどうかと提起して終えました。(松浦由美子)

5月例会報告 横山篤夫さん(本会会員・元関西大学非常勤講師)「新出資料・英第37機動部隊による泉州一帯の空襲」

5月例会の写真

ピースおおさか問題
 横山さんは泉州の府立高校に勤めた時、生徒が興味をもつだんじりなどの地域の資料を調査して教材にした。各家庭の聞き取りをする中で空襲など戦時下の話にたくさんふれることがあって、それを「戦時下の社会」という著書にまとめた。
 ピースおおさかの平和研究所にいた頃、2010年大阪維新の会が「ピース対策委員会」なるものをたちあげ、「”西の遊就館(靖国神社附属資料館)”に作り直す」と暴言を吐いてピースおおさかに乗り込んできた。 その後、同館のリニューアルに際して、「府民・市民の声を聞きいれよ」との運動が「15年戦争研究会」を中心にすすめられるようになったとき、その事務局長になった。2014年8月、「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議神戸大会」でピースおおさかの問題を報告することになった。そのとき仙台空襲研究会と出会うこととなり、今回の報告のきっかけとなった。

津波がもたらした新発見
 東日本大震災の時の津波により思わぬものがもたらされた。それは第2次大戦中の不発弾であった。宮城県を襲った津波が埋もれていた不発弾を掘りおこし、これらを調査すると、従来の米軍のシリアルナンバーと符合しない爆弾が見つかった。なんとそれはイギリスの爆弾だった。イギリスの機動部隊が終戦間際に日本本土攻撃に参加していたのだ。従来あまり知られていなかったこの事実を発見したのは、「仙台空襲研究会」で、その後会から横山さんに「資料の中に深日の空襲が出ている」との連絡が入った。

イギリス艦隊の対日本攻撃参戦
 1944年夏ドイツが敗北し、イギリスはアジア太平洋に進出してきた。それは、アジアで発言権を確保し、戦後世界での地歩を占めるためであった。
 しかしアメリカはすでにイギリスをはるかに凌駕する勢力を太平洋に於いて確保していたし、イギリスの補給システムが遅れていてアメリカにとって負担であったので、 1944年9月段階ではイギリスの参戦申し出を断っている。結局1945年の沖縄戦からイギリスは参戦した。
 資料によれば、オーストラリア・シドニーを根拠地とするイギリス第37機動部隊は、1945年7月16日にアメリカ第38機動部隊と合流して7月17日から8月10日(13日、15日も一部参戦)までの日本本土攻撃に参戦した。艦隊は東北沖から紀州沖、台風をさけるためにさらに東北沖へと進路を変えて移動している。艦載機が発進するために沿岸に近づき、特攻機の攻撃を避けるために攻撃が終わると沿岸から離れて退避行動をとっている。

多奈川(現大阪府岬町内)への攻撃
 イギリス機動部隊の航空母艦旗艦は空母ビクトリアで、攻撃に参加した艦載機は英国製スピットファイアー・シーファイアー機、ファイヤーフライ機、米国から借用したアベンジャー機、コルセア機であった。これまでの日本側の聞き取り調査では、ほとんどが「グラマンに襲われた」という答えで、冷静に機種を区別できたとは思えない。各機は艦に帰還した際に報告書を提出し、これらはまとめられているが膨大な量になる。パイロットの主観が含まれるのでチェックする将校がいるとはいえ、必ずしも正確とは言えない。たとえば、被弾した敵機にはかならず味方の機複数がさらに襲いかかる。「一機撃墜」が「複数機撃墜」報告にふくれあがる可能性がある。また市民を攻撃してはならないたてまえなので、攻撃しても報告されていないことがある。
 7月25日午前9時2分から11時38分まで多奈川地域で空襲があったことが日本側に記録されている。これに対応すると思われるイギリス側の記録では、同日、8時半に深日に向かって艦載機31機が発進している。日本側では「深日」は「多奈川」に、「31機」は「小型機50機」となっている。当日、尾崎警察管内では多奈川で28名の死者が報告されているが、川崎重工の朝鮮人宿舎の防空壕に250キロ爆弾が命中し、20名以上が亡くなったという。このとき、遺体は粉々になり、服の模様が唯一判別できる手がかりであったという。強制連行された朝鮮人の引き取り手は誰も現れなかったという。7月28日は朝から夕方まで攻撃が行われた。今回の資料により、攻撃時刻が17:30〜18:50から14:40〜17:20に訂正された。このとき岸和 田の漁船に乗っていた漁師が直撃弾を受けて亡くなっている。

岸和田大空襲の可能性があった
 徳山高専名誉教授の工藤洋三さんから横山さんが提供された米軍資料の中におどろくべきものが含まれていた。それはアメリカ第20空軍爆撃計画書で、8月15日以後戦争が継続していたら、岸和田を大規模に空襲するというおそるべき計画であった。もしその空襲が実行されていたら、多くの岸和田市民が被害を受け、だんじりも岸和田城も灰燼に帰して、その後の岸和田の歴史は大きく変わっていただろう。

大阪民衆史研究第70号に論文掲載予定
 報告には、資料の翻訳を担当した元ピースおおさか学芸員で現在は大阪教育大非常勤講師などを勤めている常本 一さんも加わり、英文資料をプロジェクターで投影しながら解説をされた。その際、これまで報告されている資料の翻訳上の問題点なども指摘をされた。なお、今回の報告にもとづき、大阪民衆史研究第70号に横山さんの論文が掲載される予定である。その際、常本さんの翻訳による資料も掲載されるのでご期待頂きたい。
 質疑交流では活発な意見が出された。イギリス軍が参戦した動機として考えられること、太平洋戦争緒戦の敗戦の屈辱をはらす意図はなかったのかなど。イギリスとアメリカの連合軍内部での確執はどうであったのか?これまでの泉州での空襲事件について再度見直す必要があるのではないか?など

6月例会報告 古の都・飛鳥のフィールドをわくわく〜ワークする案内・小宮みち江さん(奈良歴史遺産市民ネットワーク)

6月例会の写真

 久方ぶりのフィールドワークは6月26日梅雨の晴れ間をぬっての飛鳥路めぐりとなりました。案内役は奈良歴史遺産市民ネットワークの小宮みち江さん。
橿原神宮前駅集合で石舞台まではバスを利用しました。近鉄が飛鳥日帰り切符を発行していて、バスの乗車券がサービスでお得です。
出発前に持統天皇の万葉歌碑をバックに記念撮影。梅雨時期のせいかバスの客足もまばらでした。 石舞台から蘇我稲目の墓の可能性を指摘される「都塚古墳」をめざしました。畑の中にこんもりとした古墳があり、横穴から盗掘された状態の石棺が見えます。墳丘を再発掘すると階段ピラミッド状の方墳だということがわかり、マスコミでも大いに話題になりました。案内の小宮さんによると稲目の娘・小姉君の可能性が高いと言います。古墳の上にみなで上がってみました。そう言われてみると女性的な感じがします。稲目ならもっと大きな墓でもよさそうな気がしました。
 ここから一気に祝戸地域を駆け抜け、有名な高松塚古墳をめざします。整備され過ぎて有難味が薄れそうな高松塚古墳を尻目に、すぐ近くにある中尾山古墳へ。別に宮内庁管轄の「文武天皇陵」がありますが、研究者によれば「中尾山古墳」こそ文武天皇陵とされています。周りを八角の柵で囲って、荒れ果てたまま石槨もむき出しになっています。文武天皇をめぐる「男女の愛憎劇」を小宮さんが、見てきたように大阪弁で再現してくださいました。みなさん大いにウケてました。
 本物と偽物の遺跡が同時に見られる史跡として、最後に案内されたのが於美阿志神社・檜隈寺跡でした。百済人が建てた檜隈寺の伽藍跡の礎石。黒いものは当時の本物、白いものは奈良文化財研究所が作ったレプリカとのことでした。この日のコースは健脚コースとのことで、足の弱い人に配慮して途中から短縮するコースも用意していました。しかし、全コースを無事終えることが出来ました。今回のフィールドワークは遺跡保存のあり方を色々考えさせるものでした。
◆感想 普通だと通り過ぎてしまうような中尾山古墳に行くことが出来て良かった。大学の研究成果だけでなく幅広い研究者の見解が聞けた。A都塚古墳を見学できたことは貴重である。B古代も現代も男女の感情に変わりはないと小宮さんの説明で身近に感じた。C街並みの保存のありように関心があり参加した。街並みがとてもきれいで、地域が千年以上存続していることに驚く。D楽しい飛鳥古墳めぐりだった。 E千数百年前の出来事が書物から、現代に蘇ったような小宮さんの説明。文語体から口語体に、古文から現代語に翻刻されているようであった。

7月例会報告 二宮一郎さん(会員・桃谷高校)「福島区海老江八坂神社の伝統行事〜冬座と春座の実態と変容」

7月例会の写真

大阪市内に現存する宮座
 7月31日、大阪府教育会館において、二宮会員により大阪市内に現存する宮座について報告がありました。福島区海老江地域は、近世前期から田地開発が進み、水田耕作を中心とする純農村地域でした。しかし、明治中期の淀川改修工事を機に、新淀川河川敷にあたる当地区は、大規模工場地帯に変貌しました。大正年間には工業生産が99%を占めるのに対して、農業生産はわずか0.5%に止まります。その後、昭和20年の大阪大空襲より大半は焼失しましたが、戦後再び工業地として、また住宅地として復興し今日に至っています。
八坂神社の開基は不詳ですが、永徳三年(1383)に社殿が再建されたと伝わっているので、14世紀末には牛頭天王社として同地に存在していたと判断されます。明治四年に社名が「八坂神社」(祭神は素(す)戔(さの)嗚(おの)尊(みこと))に改められますが、京都の八坂神社との直接の関係はないとされます。

無形文化財に指定される
 海老江八坂神社の宮座は、昭和47年大阪府の無形文化財に指定されています。江戸時代から続く宮座は3座あり、1月17日(春座)、10月17日(秋座)、12月15日(冬座)に神事が行われていました。戦後になって、秋座は廃絶。春座は橋本家だけで運営。冬座は最も伝統様式を残し、かつては三十数軒を数えて女人禁制の無言神事として有名でした。
報告では、かつて頭屋(とうや)の家で行っていた宮座神事を、平成23年から神社で行うように変更した経緯を説明。頭屋(当番)の負担軽減と神事作法の簡便化(合理化)を主目標としたこと。直会(会食)に女性も参列出来るようになったことなどを挙げています。手伝いの女性や座衆の家族の反応は、概ね肯定的なことを、聞き取りから紹介。座衆など宮座関係者の念入りな議論が功を奏していることは明らかです。

民衆史としての宮座
 宮座儀式や神社との関係などに質問が集中しましたが、宮座が村の自治組織であって神社とは別個のものであることが、例会に参加した地元の方から強調されました。今まであまり取り上げられなかったテーマで、いわゆる民衆の生活に直接かかわる問題を取り扱っていると思われます。
 報告と議論あわせて2時間半。いろいろな質問が出され、大変有意義な例会となりました。

2016年度大阪民衆史研究会総会報告

総会の写真

 総会は松浦由美子さん(副会長)の司会で午後2時からT部総会がはじまり、尾川昌法会長のあいさつ(以下要旨@)、林 耕二事務局長の経過報告と方針案の報告、滝川恵三会計担当より決算・予算案の報告と山崎義郷会計監査より監査報告が行われ、最後に新運営委員の提案と全体の承認が行われました。新運営委員は(カッコ内はその後互選により決められた役職)、尾川昌法(会長)、島田 耕(副会長)、松浦由美子(副会長)、林 耕二(事務局長)、二宮一郎(事務局次長)、滝川恵三(会計)、柳河瀬精、竹田芳則、福林 徹、田中隆夫、福田 耕、高島千代(新)の12名。(退任は小松 忠、齋藤信ェ、森紀太雄(死去)の3名。)会計監査は竹村三仁、山崎義郷の2名。以上の方々が信任されました。
 休憩後、講演と映画によるU部がはじまり、講演として島田 耕さん(副会長)による、「沖縄の心−オール沖縄闘いの原点」の報告(以下要旨A)があり、映画「沖縄(うちなあ)ぬ思(うむ)い」が上映されました(1時間38分)。

A島田 耕さん「沖縄の心−オール沖縄の闘いの原点」

 沖縄の変化を記録する
 島田さんは映画「カメジロー」を制作後6〜7年沖縄で暮らした。ここ2年ほどの沖縄の怒濤のような変化について、上地完道さんと話した。「なぜこんなに急激に沖縄が動いているのか?」と。「やろうよ」と上地さん。「オール沖縄」に結実した沖縄県民の歴史的なたたかいを(記録映画の)作品にしようとの話がまとまった。
 上地さんはカメラマンで、東京オリンピックのあった1964年頃に一緒に仕事をしていた。彼は軍政下の沖縄には占領軍にマークされていて帰島できなかったが、70年代に沖縄に帰り、「シネマ沖縄」プロダクションをつくった。島田さんも参加し、毎日コツコツ沖縄の映像を撮りだめしてきた。沖縄の自然、ジュゴンの姿、基地前での抗議行動、米軍機墜落事件の現場や米軍犯罪の報道、抗議集会、ヘリパッド周辺農村の生活、辺野古の座り込み、海上抗議行動、沖縄国際大学での米軍ヘリコプターの墜落、翁長知事誕生前の県民大集会での菅原文太さんの演説など、今回のフィルムには、それらの映像と、地上戦のようすは米軍撮影の映像を利用した。ほかに砂川闘争の記録映像を入れた。米軍駐留を憲法違反とした伊達判決は結局最高裁で合憲とくつがえされた。これで米軍が何をしても合憲という枠組みが作られ、その裏には最高裁長官の田中耕太郎らが米軍と密談していたことなどがあったことが最近明らかにされている。

「沖縄人をばかにするな!
 2015年6月23日の慰霊の日、安倍首相が知事にも会わないという異常な事態の中、会場で話す安倍首相に対する県民の抗議のヤジをマイクはかすかにひろっていた。
オール沖縄がかたちづくられてゆく経過が映画後半にまとめられていった。もともと保守の稲嶺市長が出馬する時、「基地をつくらせない」という一点で革新勢力との間で協定がまとまり、選挙となって稲嶺市長が誕生した。  教科書から「沖縄戦」の記述が削除されることになり、さらに少女暴行事件が起こり沖縄県民は保革を問わず10万人が結集する大集会を開いた。しずかな怒りが沸騰する集会だった。知事選挙直前の集会で翁長氏がマイクに向かって言い放った言葉「沖縄人をばかにするな!」が沖縄県民のこころを代表している。

9月例会報告 小林義孝さん(会員)「『戦争遺跡』の再分類」

9月例会の写真

「軍都おおさか」
 この夏『大阪春秋』(2016年夏号)は、「軍都おおさか−71年目の戦争遺跡」と題する特集を組んだ。小林さんは、その編集責任者である。大阪砲兵工廠をはじめ大阪には数々の戦争遺跡があることは知られている。今回の同誌特集は「多くの将兵が集まる軍隊は巨大な消費を生みだし、軍の物資の生産には下請けや孫請けで多くの民間工場がかかわった。大阪という都市の発展に、軍隊は大きな役割を担ったのである。」(小林)という点に重要な眼目があり、「戦争遺跡」についての新たな視点を提供している。

「戦争遺跡」とは何か
 報告者は、まず従来の戦争および「戦争遺跡」認識についてステレオタイプの発想があるのではないかと疑問を呈し、戦争というものを身近などこにでも存在する軍や戦争の痕跡から考える必要があるのではないかと主張する。
 戦跡考古学の草分け的存在の池田一郎は「戦争遺跡」を「近代日本が繰り返した戦争と、その戦争の遂行のために民主主義や平和を否定し弾圧した事件を物語る『跡』や『物』を『戦争遺跡・戦争遺物』とよび、それにかかわる調査や研究を『戦跡考古学』と呼んでいる」(1994)と定義している。菊池 実は「戦争遺跡という用語は、考古学研究者の中から生まれてきたというよりは、歴史教育者協議会所属の教職員による地域の掘り起こし運動中から登場してきた」(2005)そして「戦争遺跡とは、近代日本の国内・対外(侵略)戦争とその遂行過程で形成された遺跡である」(2005)とした。

「戦争遺跡」の再分類−3つの区分
 戦争というものについてのステレオタイプの発想の見直し、戦争を身近などこにでも存在する軍や戦争の痕跡から考える必要、これらの点が報告者の言いたいところである。 報告者自身言われるように、軍隊や戦争を肯定する立場ではなくて、むしろ軍隊や戦争には反対の立場を明瞭にされている。
 そこで、「戦争遺跡」を(1)陸軍省や造兵廠、飛行場、軍人墓地、鉄道インフラ、靖国神社など国家の装置としての軍と関連施設の遺跡、これらは平時の組織であり兵力のストックととらえる。(2)「台場」、要塞、防空監視所など「国土防衛」のための施設の遺跡、(3)硫黄島、沖縄、広島など戦闘、戦闘被害の遺跡、の3つに区分することにした。小林氏は、この区分について、戦時か平時かの状況の加味、日本の近代史の中で軍の意味を考える、軍需と民需の関わりなどを条件として考え、「戦争遺跡」を「軍事・戦争遺跡」ととらえなおすことを提起している。ところで最近、「軍事遺跡」あるいは「軍事遺産」という言い方がされることがある。これについて「戦争遺跡ではなく て軍事遺跡(軍事遺産)と呼称される背景には、かつての戦争を肯定的にとらえようとする一部の研究者の思惑が感じられる」(菊池 実「近代の戦争遺跡」)との評価もされている。小林氏の主張、「軍事戦争遺跡」は、戦争肯定の立場ではないが、平時のものを軍事遺跡、戦時のものを戦争遺跡と区別し、再分類した3つの遺跡を、(1)は軍事遺跡、(2)は軍事遺跡と戦争遺跡、(3)を戦争遺跡としている。

報告と質疑を受けて
 「戦争遺跡」定義の議論は、なかなかむずかしい。質疑の中で、当然戦争の本質についても意見が交わされた。報告者は、「悲惨な戦争」論だけでは現在の状況に対応できるのか?という問題を投げかけた。これに対して、「戦争の本質は悲惨なもの」とする意見や、戦争の苦しい体験から、戦闘機に興味を持ったり、戦争と利益をむすびつけて考えることなどは感情的に理解できないとする強い意見も出された。それは、戦争を体験した真実の声であると思われる。一方で、戦争の原因論として、それは(資本の)利益をめざすものということが特に近代以後の大方の戦争の背景となっていることはまちがいないところであり、大阪が軍隊を核としてそれに付随する大小のさまざまな工業の発展によって経済成長を遂げてきたことを押さえておくことは重要である。なぜなら、安倍政権が今やろうとしていることは武器輸出の拡大、経済の軍事化そのものであり、その先には戦争をする国の未来がひかえているからだ。「戦争はだめだけど、武器を輸出するのは今の不況のもとでしょうがない。」という人に、その危険性を説く必要があるだろう。軍事経済で発展するとどうなるのか、過去の見本が足元にある。経済の軍事化は軍産複合体による戦争誘発をすすめるのみならず、「戦争したらもうかる」という一部のゆがんだ戦争支持の市民感情をもつくりだすことを警戒すべきだ。
 報告者の提起は、軍と戦争の把握の射程を拡げることであり、それは従来の戦争の悲惨な結果だけを説明して反戦を訴えるのではなく、平時の軍隊、経済と軍隊、戦争の関係の理解などを通して、国民が時には主体的にも関わることもありながら、戦争にまきこまれてゆくメカニズムを解明しようということではないだろうか。この問題提起は、その意味で新たな視点を提起している。ただ、「戦争遺跡」の定義の話が先行したので議論がすれちがい、もう少し大阪の軍事とむすびついた経済発展の具体的な様相についての説明があればよかった。そして、報告者の説明で、もっと検討を要すると思われる点もあった。例えば近代の日本軍は外征用であって平時の軍隊は兵力のストックという評価は図式的で疑問である。秩父事件(1884年)や士族の反乱、特に西南戦争(1877年)などを鎮圧したのは徴兵制(1873年)間もない日本の軍隊であった。近代の日本軍は台湾出兵(1874年)と西南戦争という外征(帝国主義戦争)と国内治安出動を経て軍事機構、軍編成を整備確立していったからである。軍隊の本質、平時と戦時の区別はそう簡単ではないと思うがどうだろうか。

10月例会報告 上山 慧さん「神戸における大逆事件関係者」

10月例会の写真

「大逆事件」
 明治政府は、社会主義運動を弾圧するために1910年5月、宮下太吉による明治天皇暗殺目的の爆裂弾実験を利用して幸徳秋水以下全国の社会主義者数百人を検挙した。そして刑法第73条の大逆罪容疑で26人を起訴し、一審非公開の大審院で1911年1月18日、死刑24人・有期懲役2人の判決を下した。翌日天皇の特赦で12人が無期懲役に減刑された。欧米各国の抗議のなか同24日・25日処刑が実行された。「管野(*管野スガ)・宮下ら4人(*他に新村忠雄、古河力作)の暗殺計画はあったものの、それ以外は冤罪であり、社会主義運動は<冬の時代>を強いられた。」(岩波『日本史辞典』)。1947年日本国憲法公布の特赦により刑の効力が失われたが、冤罪が認められたわけではなかった。1961年坂本清馬(無期懲役)らが無実を訴えて再審請求を行ったが67年最高裁での特別抗告も棄却された。その後現在まで、各地で犠牲者の顕彰運動が行われている。

 神戸における事件犠牲者の調査
 上山さんは大谷大学の大学院博士後期課程に在籍、学部卒論に高木賢明(獄中で自殺した僧侶)をとりあげ、大学院ではその他の犠牲者の研究調査を行っている。大逆事件を研究する貴重な若手研究者である(24歳)。今回は神戸の関係者についての調査報告である。事件の捜査を指揮した検事総長代理平沼騏一郎は「被告は死刑にしたが、中に三人陰謀に参与したかどうか判らぬのがゐる。ひどいと云ふ感じを有ってゐた。」と回顧録に記している。「大逆事件」が権力がでっちあげた「事件」であることを象徴するような言葉で、ひどい話だが、この3名とは坂本清馬、岡林寅松、小松丑治と考えられる(神崎清)。上山さんは今回、事件に連座した岡林と小松、容疑者として取調を受けた井上秀天、中村浅吉、田中泰の地元神戸でもほとんど知られていない5名をとりあげ、各人の思想、人となり、事件後の生き方について調査した。
 ■岡林寅松(戦後復権)は高知市生まれ、大阪の医術開業前期試験に合格し神戸海民病院(船員や船客を対象とする)に就職した。『万朝報』の幸徳と堺の非戦論に共鳴、社会主義に関心を持った。「神戸平民倶楽部」で社会主義の研究会に参加し、これには判事、検事、小学校校長、船員、質屋番頭、銀行員など多彩な人物が参加していた。1906年岡林は結成間もない日本社会党に入党している。1907年同倶楽部は元町6丁目の「元六倶楽部」で「第1回社会主義講演会」を開き、森近運平、武田九平、荒畑寒村、大石誠之助が参加している。報告者は、 岡林の思想について予審調書にある「無政府共産主義」ではなく中間的折衷派(直接行動、議会政策併用論)に近いものとしている。
 ■小松丑治(仮釈放)は高知市生まれ、郵便局に勤めたが官印盗用・官文書偽造などの容疑で禁固刑を受けている。のち神戸海民病院に岡林と共に勤めている。1907年「大阪平民社」で開かれた幸徳秋水歓迎会に参加した。報告者は、小松は「無政府共産主義」でも幸徳秋水を「崇拝」していたものでもないとしている。
 ■井上秀天(幼名秀夫)は鳥取県中北条村(現・北栄町)に生まれた。中学卒業後上京して曹洞宗大学林に入学、インド哲学を学び「秀天」と改名して景福治で住職陸鉞厳を補佐し、彼について台湾に移った。帰国後、『平民新聞』読者となり、非戦論にも共鳴する。日露戦争の従軍布教師兼通訳となり出征、肺結核で後送され神戸に移った。神戸女学院の講師を勤め、「神戸平民倶楽部」会員となる。未刊の雑誌『赤旗』に社会批判の文章を書いた。「大阪平民社」の幸徳歓迎会にも小松と共に参加した。井上は社会主義者らと交流しているが、自らを「無抵抗主義の人物」「平和主義の人物」と称しており、暴力とは一線を画している。
 ■中村浅吉は長崎県島原で生まれた。高等小学校準教員資格を得て看護卒として兵役に服し、1902年頃キリスト教の洗礼を受けた。『万朝報』の非戦論に共鳴、社会主義に関心を持った。長崎で『平民新聞』を購読、社会批判の投稿も行っている。岡林や小松とも際を結んだ。本人はキリスト教社会主義者の木下尚江に親近感を持っていたが、1907年頃よりキリスト教と社会主義が思想的根底を異にしていると気づき、社会主義から離れつつあった。
 ■田中 泰は神戸市の生まれで、大阪や九州で暮らしながらさまざまな職を経て神戸新聞の記者もしていた。「大阪平民社」の人びととの交流があり、1909年頃千駄ヶ谷の幸徳秋水宅に居候をし、向島で「マルテロ社」を立ち上げるが、仲間と仲違いをして神戸に帰った。取調では「直接行動」(ゼネストなど)には賛成だが、「暴力革命」や暗殺を行う無政府共産主義とは違うと供述している。しかし内山愚童の『入獄記念無政府共産』を知人に送ったことがわかり不敬罪で逮捕・拘留された。懲役5年の判決を受けた。

犠牲者たちのその後の人生
 子安宣邦は「『大逆罪』は一二名の連座者の死を直ちにもたらしただけではない。仮出獄者に、出獄者だけではないその縁類者にも苦しい無残な死を強いて、最初の死刑判決をその周縁に拡大しつつ究極的に実行してしまったのである。」(『「大正」を読み直す−幸徳・大杉・河上・津田そして和辻・大川』)と述べた。上記五名は当初証拠不十分として起訴保留となったが、小山芳郎検事は強引に起訴を主張、岡林と小松が起訴され両名は「恩赦」で無期懲役となった。岡林は長男と父の死、妹の離縁、妻との離縁という不幸に見舞われた。仮出獄後はエスペラント語研究にうちこんだ。小松は仮出獄後も特高警察の監視を受けながら養鶏業を妻はると営んだ。1913年荒畑寒村が、はるを訪ねた事実は、従来大杉栄の訪問と誤解されてきた(神崎)が今回上山氏の調査で寒村の訪問と訂正された。彼の死後、森長英三郎は妻はるについて「その姿は大逆事件で、ながい年月いためつけられた老女という以外に形容のしようもないものであった。」と語っている。井上は「要視察人」として官憲の監視下にありながら 「新仏教同志会」の機関紙上で非戦論や社会批判の文章を投稿した。その後英米の総領事書記などを勤め仏教・東洋思想の研究を行い、『禅の文化的価値』などの著書がある。中村、田中については不明である。質疑では活発な意見交流が行われた。高知や山梨など現地にも旺盛に調査に行かれた成果も聞けてよかったが、国家権力の犯罪としてその実態、動機や意図などをもっとあきらかにする必要があるのではという意見、「元六倶楽部」など舞台となった場所の確認の必要など多くの意見が出され盛り上がった。

11月例会報告 上村修三さん(会員・大阪市立大学都市研究プラザ特別研究員)「泉州地方における明智光秀伝承について」

11月例会の写真

「明智光秀の子孫」との出会い
 上村さんは、ある新年交流会で「明智光秀の子孫」という柳別府武志さんと出会った。氏は東大阪の金型を作る会社の経営者で、「明智光秀の子孫」という一族の由来と伝承を後世に伝えるために文書化したい旨を上村さんに依頼した。
 その後、この話に興味を持った上村さんは、柳別府氏や姉の谷本英子さんの聞き取りを行い、資料の収集を始めた。

「鹿児島に逃れた」という光秀の長子光慶
 2009年、柳別府武志氏に鹿児島在住の叔母(父の異父妹84歳)から電話があり、柳別府氏は明智光秀・長子光慶の直系の子孫であるという一子相伝の話が伝えられた。その内容は、@柳別府家は明智光秀直系の子孫。A柳別府家がある敷地が道智城である。B柳別府庚申供養塔下の宝物とその処分。C太宰府と柳別府家との由縁、の4項目であった。
 戦国時代に日本を訪れたイエズス会士ルイス・フロイスの書状によれば坂本落城の際に明智の二子は死んだとされる(フロイス『日本史』第5巻第58章「明智の不運と十一日後の死去について」174頁)。また高柳光寿『明智光秀』には、「彼らは・・噂通り死んだのであろうと思われるが逃げたというものもある」と逃亡の可能性にも触れている。
 柳別府武志氏に伝えられたのは、本能寺の変後、光秀が山崎の合戦で敗れ落ち武者狩りで殺されたのち、光秀の長子光慶が鹿児島まで逃げのびて現在の大崎町に到ったという話であった。

幻の山城道智城と柳別府家
 光秀の長子光慶が落ちのびて子孫が構えたという城が道智城であるという。道智城は大崎町の下永吉柳別府村の小高い山頂にあったらしい。昭和50年代に山は削平されてなくなったが、そこには柳別府庚申供養塔(18世紀半ば)、菅原道真、明智光秀、柳別府の石碑があった。道智城の名前は、道真の道と明智の智の二文字に由来するという。村人はここにあった屋敷をどん(殿)、ふもとの平地はどんの下と呼んでいたという。1日と15日には坂の入り口にあった氏神どんに村人がお詣りしていたが、6月15日は坂本城落城の日でもあった。

長子光慶の逃亡経路と妙心寺
 柳別府氏が、その後資料を集めて考えた光慶の逃亡経路は、本能寺の変の際に亀山城にいた光慶は明智家に縁のある京都妙心寺に行き、次に妙心寺派の現・岸和田市にある本徳寺に入った。そこから日向国(現・熊本県あさぎり町上北柳別府)に海路渡り、秀吉の九州検地を逃れてさらに現・鹿児島県大崎町柳別府に到着し、そこに道智城を構えた。付近に大慈寺があり、信長が焼き討ちした甲州恵林寺にいた大慈寺の僧が光秀の計らいで逃れることができたので、光慶を匿ったという。

明智光秀ブームと民俗伝承
 1960年代頃から明智光秀が注目されるようになった。諸説ある中で、光秀が生きていたという話も多い。有名な話は光秀が徳川家のブレーンとなる天海であったという説である。光秀と関係する亀岡市、福知山市、長岡京市、岐阜市などの各自治体ではそれぞれの地域と光秀との関わりにもとづいて町おこしにもとりくんでいる。NHKの大河ドラマでは光秀の娘玉を主人公とする「細川ガラシャ」が取り上げられる予定だ。
 なぜ光秀ブームなのだろうか?関西を中心に各地で昔から語り継がれている明智光秀伝承があるという。「光秀が年貢を免じてくれたから、盆にガキボトケを明智光秀の霊ともいい、縁側にまつる」(京都府当尾村)「光秀が裏毛の年貢を免じてくれたかで、盆に軒先に燈籠を吊るのは明智光秀の霊のため」(奈良県榛原町初生・赤瀬)など、多くが光秀が年貢を免じてくれたから、という話が多い。庶民の心の中に生き続けている明智光秀像というものが感じられる伝承だ。光秀や長子の光慶が生きのびたという伝承がある一方で、殺された信長が(死体も見つかっていない)実は生きていたという話はあまり聞かない。どの戦国大名よりも民衆を冷酷非道に虐殺した信長は、少なくとも庶民の間では、誰も生きていてほしいと思わなかったからではあるまいか。

12月例会報告 フィールドワーク・見学地 西宮市満池谷町「『火垂るの墓』横穴壕を確定する〜野坂昭如氏を偲んで」報告・案内 土屋純男さん(満池谷町自治会副会長)・二宮一郎さん(会員)

 12月3日は、暖かな晴天に恵まれました。西宮市満池谷町の土屋純男さん宅に集合、今年二回目のフィールドワークです。初めてこの地を訪れる人もいて、途中道に迷って池を回っていたという話もありましたが、苦労しただけ充実した例会になったと思います。最初に、二宮会員が二つの横穴壕を確定するまでの経過報告をしました。随時、地元自治会副会長の土屋さんから、地元住民への聞き取り詳細が語られ、参加者から驚嘆の声があがりました。関係者への聞き取りに一部同行した者として、土屋さん(73歳)の踏ん張りには、頭が下がります。 また、地元住民清水孝一さん(87歳)の「野坂少年とよちよち歩きの妹さんを防空壕の前で見かけた」という貴重な目撃談を、報告レジメに記載できたことは大変幸運でした。さらに、前日の2日付朝日新聞朝刊(全国版)に、永井靖二記者の「火垂るの墓 ここが原点」という記事が掲載されたことは、グッドタイミングでした。用事で東京に居たという会員から、「たまたま、この記事を見て驚いた」との声もありました。マスメディアの影響力の強さを感じた所です。
 報告と質疑議論あわせて2時間余。ようやく、フィールドワークとなりました。土屋さんがガイド役で、おばさんの家、東側の崖に掘られた土壁の横穴壕跡、ニテコ池・下池の南側を巡り、最後に西側崖の上にあった金属加工会社社長宅コンクリート造り横穴壕跡まで歩き、ここで解散となりました。
  ニテコ池を望みながら、元甲陽学院高校教諭の山内英正さんが、万葉集の一首「我妹子に 猪名野は見せつ 名次山 角の松原 いつか示さむ」(巻 三・二七九)を紹介。この辺り一帯がかつては、名次山(なすきやま)と呼ばれており、神域に当たることを強調されました。また西宮・芦屋研究所の蓮沼純一さんが、ニテコ池のかつての状況などを話してくれるなど、フィールドでも盛り上がり、大変実りある例会となりました。 今回は、共同通信社神戸支局から女性記者も取材のため参加しており、海外に「火垂るの墓」が発信されることになります。

2015年例会報告

1月例会報告 報告者  後藤 正人さん(会員・和歌山大学名誉教授)「社会部記者・松崎天民の新聞論と非戦論−『松崎天民選集 全10巻』を通じて−」

1月例会の写真

「誰もかけなかった」大逆事件記事
 松崎天民は明治〜大正期に朝日新聞社などに在籍して活躍したジャーナリストであるが、一般にはまだよく知られていない。朝日在籍中、大逆事件について「誰もかけなかった社会記事」(レジメより)を発表した。早朝3時〜4時ころに裁判所前に深刻な面持ちで駆けつけた家族の取材や、えん罪で処刑された人たちの葬儀のようすのルポなど、社会部記者として「同情と友愛」(天民)の立場から記事を発表した。東京朝日新聞では校正係をしていた石川啄木と同僚であり、交流があった。当時当局の厳しい監視がある中で天民の大逆事件報道には「友愛」の言葉で表現された、国家の起こしたえん罪事件犠牲者への人間としての共感のまなざしが見られた。
 天民は本名一郎、1878(明治11)年岡山県真庭市落合町に生まれ、1934(昭和9)年没、現在千葉県市川市に墓がある。新聞記者として大阪新報社、大阪朝日新聞社、国民新聞社、東京朝日新聞社など多くの新聞社に勤め、1923~24年に山梨民声新聞社の編集者を務めた後、作家となった。

 「カチューシャの唄」と大正デモクラシ−
 天民の活動期は大正デモクラシー期と重なる。社会探訪記の取材記事により、流行歌「カチューシャの唄」(中山晋平作曲、島村抱月作詞)、活動写真、カフェー、バー、女優の出現、伊藤野枝や田村俊子といった新しい女性の登場などの風景を描き、新時代の傾向をとらえた。このころは社会探訪記事を書くことが新聞記者とくに社会部記者の大きな特徴であった。このあたりでの後藤先生の玄人はだしの「カチューシャの唄」(注)や「ダイナマイトどんどん」などの歌の披露は、当時の雰囲気さえも伝わってくるようであった。
 天民は当時の社会主義思想に共感していたが、立憲同志会、立憲政友会、立憲国民党などの政党は、その消滅を願い、大正デモクラシーを象徴する「憲政擁護」運動の目標としては 「新意ある生活政治を見るようになること」すなわち生活の変革につながることをのぞんでいた。

 現在の問題を予見する新聞記事への提言
 天民の新聞記事に対する提言は、現代のジャーナリズムに対する鋭い警句ともな りうるものである。浅草界隈の探訪記事「其の夜の気持ち」に対する新聞社主(東京毎夕新聞)の圧迫に対して「日本における新聞界という資本主と被雇人との関係が如何なる程度であるか」、その問題は叙述する意味と使命があると述べている、ま た「或夜の悲哀」では「事件の真実性に対する責任」は探訪記者にあり、「事件の表現上に関する責任」は編集記者にあり、「事件の対社会的責任」は新聞紙全体の負うべきものと述べている。「新聞人の苦悩」では、新聞記事に「なぜウソの記事が出るか?」について、「新聞紙が虚偽を伝える場合は、その原因に種々ある。事件の当事者が、故意に真実を掩い隠して、これを提供する時もあった。また、新聞記者の探査上に於ける技能が不熟練であるため、折角、展開して居る実相の核心を捉へ得ずに、とんでもない嘘を伝える事もあった・・要するに世間も、私達も、真実と云ふ事に対して、余りに敬虔でないためである」と、まるで現在の問題を予見するような指摘を行っている。そして「同時にまた、新聞の当業者は、その実相や真実性を捉へるためには、強い執着力を以て、猛進せねばならない。時間と、費用と、努力と、それを毫末も惜しんではならない」ときびしくも適確な提言を行っている。
 そして権力とジャーナリズムの関係についての根本的な問題の指摘を行っている。
 「最も恐ろしい事は、私達がある他の圧迫に依って、『有』を『無』にする職能の棄権であった。検事局の差止め、陸軍省の掲載禁止、外務省の注意−それ等は、官権の行使に、利便を計るためとか、外交上の機密とか、軍機とか、或いは『国家のため』など云ふ、如何にも道理らしい、当然らしい、御尤もらしい色彩を帯びて、新聞制作者の職能に、棄権を余儀なくせしめる圧迫であった。その命令を犯してまでも、記者的職能を発揮する者には、法律上の制裁が、厳として存して居た。私達はこれをも、余儀ない事にあきらめて、そこに何の煩ひも悩みも悶えもなくて、従順に服従するのが例であった。・・これで宣いのであろうか」
 現在の日本の社会より何十倍も抑圧された時代において、天民が勇気をもって指摘するジャーナリズムのあるべき姿についての提言は、現在の私達にも強く訴えるものがある。さらにジャーナリズムの商業主義化についても「新聞社の営業化、新聞記者の事務員化は、当然の成行であり、当然の進化であるに相違ないであろう。然し其の生存上の進展に反比例して、『職能』行使の良心が、退歩して居るかの様に見える事は、悲しい現象と云へよう。」と警鐘を鳴らしている。権力によるジャーナリズムへの規制・抑圧、商業主義化によるジャーナリズムの堕落ということは現在の日本でも目前に進行している問題である。このような事態に対して、天民は「新聞紙は、従業者のみが製作すべきものではなくて、少なくとも社会が、その新聞の読者が、製作すべきものである」と主張し(「読者記者」)「世間からの新聞の牽引を主張」(レジメ)しているものと考えられ、国民の立場に立ったジャーナリズムのあり方を提言している点では、実に現代にも通じる考え方である。

 大量殺戮の戦いを予見した天民の非戦論
 天民は、「戦で死んだ父子兄弟のために嘆き悲しむこと」を女々しいとか、不忠で あるとする風潮を「人情の虚偽」として、新聞紙上から根絶したいと、日露戦争後、第1次大戦前の新聞の戦争熱を明確に批判している。報告者は「このような貴重な警告が大正デモクラシ−期の一探訪記者によって行われたことをもっと注目しなくてはならないと思う」と強調している。そして「今度の欧州戦争や青島の戦ひ(ド イツ軍要塞のあった山東半島の青島への日本軍の攻撃を指す)は、全世界を墳墓の地に化すべき一大運命戦であるかも知れない。多くの人を墓場に迎へる戦ひ−それは砲煙弾雨のなかばかりでなく、我らが日常の生活戦であり、功名戦であり、貧福戦であり、恋愛戦であると思ふ」(天民「生活その折々」)と、国家をあげた総力戦であり世界史上初の大量殺戮戦争としての第1次世界大戦を予見していた。天民は個人の生活を犠牲にして国家の生存を争うことの「実に寒心の極み」と明言している。
 天民の非戦論の特徴として、報告者は植木枝盛や中江兆民らの自由民権家が「軍備全廃」や「戦争根絶」の思想を明確にしていたことに対し、天民はそのような文言は掲げず、「国家の存亡に係るという戦争というものが個人の生活を犠牲とし、生活を破壊するものだという真実を、一般庶民の意識の中で感覚的に判りやすく」(レジメ)訴えようとしていたのではないかとしている。

 天民研究の現代的意義
 天民の新聞のあり方への提言と大量殺戮をもたらし、国家の総力戦として国民全体をまきこんでゆく現代戦の将来を予見したことなどは、現在起こりうる問題に対してもするどい警鐘となっており、第1次大戦後の世界の状況を正確に見通したものである。
 また、探訪記者として歓楽街から精神病院まで多彩なルポルタージュ記事を書いた天民の原点は、人間そのものの探求でもあったように思われる。そのことは、社会と人間の多様な価値観を認めようとすることで、ヒューマニズムに裏打ちされた民主主義本来のあり方がここに見られるように思う。大正デモクラシ−の中に松崎天民を位置づける研究が今後いっそう深められることを期待するものである。当日は朝日記者も参加されて、意見交流も活発に行われ、盛り上がった例会となった。

2月例会報告 報告者 二宮一郎さん(会員・府立桃谷高校)「大阪生野区舎利尊勝寺と在日韓国朝鮮人納骨簿」

2月例会の写真

舎利尊勝寺
 報告者は大阪の在日韓国朝鮮人の生活と歴史・文化の調査を続けているが、今回のテーマも済州島出身者の聞き取り研究の延長線上にある。舎利尊勝寺は報告者が勤務する桃谷高校より徒歩10分余りに位置する古刹である。現在の住職(小川善明氏)は第40代目になる。黄檗宗万福寺(宇治)を総本山とする禅宗の寺院で、その由来は1400年前、生野長者が、聖徳太子に感謝の意をこめて創建したという。江戸時代に黄檗宗となり、『摂津名所図会』にも紹介され、西国三十三所観音霊場の寺院として知られるようになった。

 在日韓国朝鮮人の大阪集住
 1919(大正8)年に始まる「鶴橋耕地整理」などにより、大阪市内の朝鮮人住民の人口が増えてくる。契機となったことは、大阪市内の工業発展による労働力として、また1920(大正11)年より開通する済州島〜大阪直行便「君が代丸」での朝鮮人の本土流入が考えられる。
 その際、猪飼野地区には済州島の出身者が多く住むようになった。済州島出身者には零細企業労働者が多く、また島の独自の風土習慣と相互扶助の精神により独自の集団を形成して住む“群居性”があったという。これらの点については、のちに質疑で論議となったところであるが、専門に研究している参加者から、特に言語の独自性が他の半島出身者から孤立して集まる傾向を助長しているとの意見があった。

 在日韓国朝鮮人の遺骨のゆくえ
 猪飼野に定着し始めた大正末期の済州島の人は、亡くなると遺体を「箱詰めにして、さらに梱包して船に積み込み」故郷に戻すことを試みたという。朝鮮半島の墓地は基本的に土葬で、土饅頭の墓である。特に済州島の墓は、墓の周りを石で囲っていると、例会参加者から紹介された。さらに、別の参加者からは、それは馬が踏み入らないようにするためと、説明があった。遺体搬送は多額の費用や運ぶ間の遺体の維持などの問題から次第に火葬が採用されることとなった。遺骨は猪飼野の大阪善光寺などの日本の寺院や韓寺に仮に安置され、故郷に帰る日を待った。家の中に遺骨、遺体を持ち込まない民族的風習があり、民族寺が少ない中で日本の寺院に 預けることが多かったのである。

 舎利尊勝寺の納骨簿と現在の在日コリアンの遺骨埋葬状況
 舎利尊勝寺は、先代の住職から在日の方の遺骨を受け入れていた。かつて300体ほどの遺骨があったが、今は50体ぐらいという。盆と旧正月に200組ほどの遺族がお参りに来た。寺の山門の横に納骨室がある。正面に釈迦牟尼像があり、その右手ガラス戸の棚に安置されている。白い布に包まれ、戒名、俗名、享年、亡くなった年月日が記されている。在日の方の納骨簿には昭和21年1月20日〜平成25年3月3日まで357名分が記載されている。出身は、記載された分44名中「韓国1,済州島4,北済州郡18、南済州郡12、全羅南道7,慶尚北道1,慶尚南道1」である。帰国した遺骨は22霊、日本の墓地に埋葬されたものは51霊である。現在、生駒山に在日コリアンの集団墓地が造営されており、京都府南部にも韓寺の墓地がある。また、高野山「奥の院」にも在日コリアンの家族像が彫刻された墓地があるという。
 最後に報告者から郷土史研究のあり方をめぐって課題の提起がなされた。年長者への聞き取り体制、郷土史家の育成、教育・研究者との連携、公的機関への働きかけ、報告発表の場の設定などについてである。質疑でも参考となる意見が多く出され実り多い例会となった。

3月例会報告 報告者 小野 賢一さん(会員・歴史教育者協議会・猪飼野探訪会)「第16師団兵士 下村實はゆく」

3月例会の写真

 枚方市の小学校教員であった西野ミヨシさんは、フィリピンで戦死した兄下村 實さんの日記などをもとに授業や戦争展で兄のことや戦争について語り続けてきた。今回それらの日記などの遺品資料を報告者の小野さんと西野さんが共同で編集、解 説を加えて出版することになった。その概要については大阪民衆史研究会報(245号、246号)で紹介した。

 ごく普通の若者が軍隊の世界と戦争に巻き込まれていった
 下村 實さんは、1939(昭和14)年京都府船井郡日吉町から第16師団福知山連隊に入隊し、千葉の陸軍戦車学校で訓練を受けたのち、伏見聯隊に配属され1941(昭和16)年12月フィリピン・ルソン島に送られ同月27日ルソン島ルクバンで戦死した。享年24才であった。今回、軍隊にいた3年間の間書き留めた日記(「軍隊日誌」などの日誌、ノート)、家族宛の葉書、戦死公報、父親の手紙などが冊子にまとめられた。
下村は京都府丹波地方の中クラスの農家に6人兄弟の長男として生まれた。家業の農林業に熱心に励み家族から跡継ぎとして期待されていた。向学心も強く、短歌も得意な情緒豊かで人間性豊かな若者であった。「兵隊は嫌い、戻ってきたら教師になる」と言っていた下村も福知山連隊に入営して初年兵の訓練を受ける。あわただしく、人を殺す訓練にあけくれ、軍人精神をたたき込まれる日々に、「振り返る暇もない」「単純から生まれる強健な精神、それがいとも大なる身体を作り出すということを知った」と日記に記している。
 6ヶ月後千葉県の陸軍戦車学校に配属され、滋賀の饗庭野の訓練所にゆく。ここでは入浴は20分ですまさなければならない。「(入浴へ行け)は、『苦しい目にあえ』と云う言葉と同意味にしか聞こえない」と書いている。「軍隊生活は未開的な教育であると考えられぬことでもない。どう考えてみても湯気のように頭をつつむ霧がある。」とも書いている。「未開的な」を「野蛮」、「湯気のように頭をつつむ霧がある」を「理不尽」と置き換えればその気持ちがよりわかりやすいのではないだろうか。日誌を注意深く読めば、短歌を詠む感受性豊かな青年の心の葛藤が伝わってくるようである。
 その後伏見連隊に配属され、翌1941年にドイツはソ連に侵攻し、日本陸軍は南部仏印に侵攻した。迫り来る戦争を前にして、「光栄ある使命のために」「自己滅死の真の意義について」という文字が日誌に目立つようになる。戦場に赴き、死を覚悟しなければならない自分を納得させるように書いていることが感じられる。そのような文面の合間に、「トンボつり、今日はどこまで行ったやら」というような短歌が書かれていて、彼の人間性がファッショ的な軍隊教育の中でも失われずに維持されている様子が切なく感じられる。

 比島(フィリピン)攻略作戦初戦での無惨な戦死
 1941年12月24日、本間中将司令官の第14軍(約65000人)下の第16師団(約7000 人)はフィリピン・ルソン島ラモン湾アチナモンに上陸比島攻略作戦を開始した。
 下村は第16連隊若林中隊に所属し、マニラに向けて進軍中、12月26日ルクバンで、アメリカ軍と交戦中に被弾し翌日亡くなった。入隊わずか2年後の無惨な若者の死であった。この作戦の日本軍の戦死者は4130人、戦傷者6808人、不明287人である。
 その戦死の際の状況が偶然にも中隊長が送ってきた戦死公報と『比島戦記』の木下次郎「マニラロード」に記録されていた。下村は戦闘中に敵弾が右胸部を貫通し、また左大腿部にも貫通し骨折した傷がもとで翌日亡くなったという。

 郷里の戦死者
 下村の遺骨は白木の箱に入れられて郷里の京都府船井郡五ヶ荘村(現・南丹市日吉町)に送られてきた。妹のミヨシさんは当時2才であった。「長男である兄を失った父母の落胆は言い表しようもなく、家は暗い空気に包まれていた。・・・私の故郷は30軒くらいの小さな村であるが、その中で9軒までが長男を失い、それぞれの運命をも変えてしまった」と書いている(『防人はゆく』)。同村は出征した戦没者101名中、62名が東南アジアで戦没しているという。

 なぜ下村 實は死ななければならなかったのか
小野さんら冊子編集者の意図として、「(第T部では)、アジア・太平洋戦争でなくなった軍人・軍属310万人の血の通った一個の生命、下村 實を照らし、その生きざまを明らかにしたい。日記を読みすすめる中で下村の心境、思想がどのように変わっていくのか、その苦悩に迫りたい。そして、『兵隊は嫌い。帰ったら教師になりたい。』と言って故郷を出た人間が、なぜ『男子たる者、勇ましく戦いながら死にたいと希望します。』(昭和16年11月5日の日記より)と言い遺して戦地へ征ったのか、を探りたい。」としている。
 本例会での報告にあたって、報告者は、冒頭に次の問題意識について述べられた。
 ○アジア太平洋戦争時の下級兵士の教練とその一般的な心情とは
 ○下級兵士を「勇ましく戦いながら死にたいと希望します。」へと仕立てていくシステムとは
 ○なぜ、下村 實は長男であり、また招集されて二年が過ぎているのに、フィリピン派遣されたのか
 ○なぜ、15年戦争でフィリピンでの日本側軍人・軍属の死者(49.9万人)が最大だったのか
 ○フィリピン派遣時の将官がレイテ戦時にはなぜ全く変わっているのか
 例会参加者は少なかったが、質疑意見交流は活発に盛り上がった。今回は、小野さんが出版予定の冊子のダイジェストを報告しながら、編集途中に感じた疑問や問題意識についても発表し参加者や研究会会員の意見を聞きたいとのことであった。したがって、当日参加されなかった会員の方が報告についての質問やご意見をのちほど連絡して頂けることを歓迎します(宛先は林まで)。

4月例会報告  報告者 布川清司さん(会員・神戸大学名誉教授)「秩父事件に見る民衆思想」

4月例会の写真

 1,秩父事件
 自由民権運動における典型的な激化事件である秩父事件は、1884(明治17)年、10月〜11月初旬、埼玉県秩父地方に起こった。
 松方デフレ政策による困窮化とともに明治17年に起こった養蚕不作、生糸価格の暴落などにより貧窮農民が急増した。高利貸しなどから借金する農民が増加、当時自由党の大井憲太郎が秩父に入り、秩父自由党、秩父困民党が結成された。負債の据え置き、年賦返還要求、高利貸しに対する借金10か年据え置きなどが要求され、大宮郷の田代栄助らが貧民惣代として警察署に交渉した。交渉が受け入れられないと、10月30日には風布村で、翌日には下吉田村で約1000人が蜂起した。5か条の軍律のもと、高利貸し宅を打ち壊し、郡役所を占拠した。東京から憲兵隊がやってきて、信州まで転戦したが高崎鎮台兵の武力により鎮圧された。武蔵、上野、信濃までひろがった10日間のたたかいは終わり、死刑7名以下多くの逮捕者が出た。井上伝蔵は北海道に逃れ、30年間潜伏生活を送った。

 2,秩父事件に対する諸研究と評価
 事件を百姓一揆の延長と見るか、自由民権運動の最高の高まり、近代的闘争として見るか、これまで研究者により評価がわかれた。  井上幸治は「自由民権運動の最後にして最高の形態」とし、これほどの政治的な高度性をもった事件を農民一揆とはとらえがたいとした。
 森山軍司郎は、「自由民権運動の影響はあるが、農民と自由党員との間に大きなズレがある」とし、「百姓一揆の延長、一揆の最後にして最高のレベル」とした。
 稲田雅洋や安丸良夫は、一揆と近代的闘争の中間型ととらえた。
 千島 寿は、百姓一揆と較べるのではなくて、秩父の土着の者の立場からの解明が必要とし、自由民権的要素も百姓一揆の要素も認められるとした。報告者は、この見解に近いとされた。

 3,近世的思惟から見る百姓一揆と秩父事件の共通点と相違点
 報告者は共通点として、@「万民のいのちを救うため」という行動の公的な性格、A軍律5か条に見られる禁欲の倫理、B世直しの正当性、人民の助かることなら悪いことではないという「天の思想」に見る主張の論理性、C人の行うべき正しい道を説く民衆の道理、D合法性への自負、E「自ら良しとしないことには、従うべきではない」とする「不服従の倫理」などを認めることができる、としている。
 相違点として、@為政者は仁政を行うべきであるとする「為政者倫理の要求」は事件には見られない、A士農工商のもとで農民は生産によって国を支えているという「自らの価値の自覚」が事件には見られないこと、などが考えられるとしている。

 4,近代的思惟から見る秩父事件
 一方、近代的思惟の側面から事件を見ると、1)革命意識について、秩父事件に共に参加した自由党員と農民を中心とする困民党員には違いがあるとする。前者は政府を転覆しようとする政治的な革命意識が、後者には村人の生活を楽にすることに主眼を置いた経済的な革命意識があり、それは百姓一揆の伝統を継いでいるものと考えられる。
 2)百姓一揆と較べて、秩父事件は抵抗意識において、@天皇制政府への敵対姿勢、A銃などの武器により警官などを殺害する行為は江戸期の一揆にはない行動であるとする。
 3)政治的主体性の発生、維新期から日本の運命を自分たちの運命とむすびつける発想が生まれ、草創期の明治維新政府は、取り替え可能の政府と考える人々がいたという。
  4)百姓一揆とちがって自由党や困民党の組織があり、運動を支える連帯組織があった。
  5)江戸期には富裕層は困窮者を助けるという伝統的温情的規範があったが、明治以後資本主義の発展に伴って近代的、契約的、非人間的な価値基準が生まれた、というような面が見られるとした。

 5,結論として
  秩父事件は、近世的思惟と近代的思惟がむすびついたものであり、自由党員と困民党員の意識の違いをわけて考えることが必要とした。政府を倒せという革命意識はなかった。生活困窮の打開という革命意識は見られた。為政者への武力抵抗は民衆の自衛意識と考えられる。秩父事件に見られる政府への激しい抵抗は、近世以来の「不服従の倫理」(あるべきでないことには従わないという倫理規定)による、とされた。
 最後の意見交流も活発な議論が行われた。特に山内英正氏(会員)は、御自身が秩父事件の研究者であり、落合寅一の伝記を書かれる予定であり、その子息の聞き取りのようすや、井上伝蔵の三女の消息など貴重な話題を提供された。いつか、改めて例会での報告をお願いしたいと思う。

5月特別例会報告 「国会期成同盟発祥の地」建碑30周年のつどい

5月例会の写真

(1)碑前祭

 梅田の繁華街ど真ん中に、聖徳太子の時代に創建された太融寺の空間は、古代から現代まで歴史を積み重ね、大坂の陣や大阪空襲での全焼など幾多の戦災をも乗り越えて存在してきた。その地で135年前、日本の民主主義の歴史の一つの原点とも言うべき国会期成同盟が発足した。
 自由民権100年記念運動の一環として1985年に記念碑が建碑されて30年を迎える今年の5月3日憲法記念日、在阪の歴史学会、研究会が実行委員会を結成(事務局責任者を大阪民衆史研究会運営委員の竹田芳則が担当)、「『国会期成同盟発祥の地』建碑30周年のつどい」が行われた。「國會期成同盟発祥之地」と刻まれた石碑の前で、大阪民衆史研究会の松浦由美子さんの司会で碑前祭がはじめられた。大阪歴史学会代表委員の藤本清二郎さんがあいさつ。続いて大阪歴史科学協議会代表による黒田了一大阪府知事の碑文朗読ののち、住職麻生弘道さんによる読経と参加者60名余全員による献水が行われた。

(2)記念講演 塩田純さん(NHKエグゼクテイブ・プロデユーサー) 「『日本国憲法誕生』と自由民権の地下水脈」

 講演に先立って、太融寺住職の麻生弘道さんのあいさつ、建碑当時をふりかえって自由民権家島田邦二郎の子孫にあたる本会会員の島田 耕さんのお話、DVDによる30年前の建碑当時の集会のようすの上映があった(このDVDは一枚1000円で販売中。申し込みは大阪民衆史研究会事務局林まで)

3・11からの問題意識
 塩田さんはNHKのプロデユーサーとして、「日本国憲法誕生」「日中戦争」など、文化庁芸術祭大賞など多くの賞を受けたすぐれたドキュメンタリー番組を制作してきた。「日本人は何を考えてきたのか(第2回)」を制作するにあたっての問題意識として、3・11の東日本大震災と福島原発事故があった。それは、3・11以後日本の社会が何とかたち帰らないといけないところがあるのではないかという思いであった。そこで、東北の問題と歴史の問題をあわせて考えることになった。

自由民権と福島
「日本人は何を考えてきたのか 第2回 自由民権 東北ではじまる」(2012年1月)は、そのような問題意識でつくられた。番組制作にあたって、「旅人」役として菅原文太さんにお願いした。菅原さんは、かつてNHKの自由民権運動を扱った番組「獅子の時代」に出演して、東北と自由民権運動に強い関心があった。塩田さんと菅原さんの二 人の問題意識があわさって番組作りがはじまった。
  原発事故のあった福島には、かつて自由民権運動をすすめた人々がおり、原発事故の被害を受けた浪江町にはもと士族で自由民権家の苅宿仲衛がいた。彼は天明、天保の飢饉で3分の2の人々が餓死した状況を体験し、のち自由民権運動に参加した。1880(明治13)年の太融寺での国会期成同盟の発足にも参加している。
 浪江には、現在も苅宿の自邸が残っている。子孫の大和田さんの一時帰宅に同行して取材を行った。彼は浪江に次の原発が造られようとしたときに反対運動をした。菅原さんとは原発問題の話で大いに盛り上がったという。苅宿は板垣退助に呼ばれて高知にも行き、高知と福島の交流が行われた。苅宿が運動中、警官が家に逮捕しに来た時、待たせておいて書いた書「自由や 自由よ 我 汝と死せん」が残っている。
  塩田さんの曾祖父も栃木県の自由民権家で、加波山事件のときに途中から行って逮捕され、のちに釈放されてから田中正造と行動を共にしたという。
 菅原さんは「今は役者をしている場合じゃない」との危機感をもらしていた。出演者の方が、どんどん先の方に行っている感じだったという。

日本をどんな国にしたいか、自由民権運動と日本国憲法
  「五日市憲法」などを考えた自由民権運動期の人々は、「日本をどんな国にしたいか」を今とは比べものにならない熱意で議論し、そのために行動した。その熱意は今どこに行ったのだろうと塩田さんは思う。そして、自由民権運動は、その後の日本国憲法に、どうつながっているのだろうか?「GHQの押しつけ憲法」という意見があり、塩田さんはその問題を歴史の中で見返したいと考えた。そこで、明治の自由民権運動がどうなったのか、日本の敗戦後、日本国憲法の草案がつくられたとき、その時が日本人が「日本をどんな国にしたいか」を考えた2回目であった。自由民権運動と日本国憲法と敗戦後の新しい日本をつくることが、地下水脈でどうつながっているのか考えた。

 吉野作造と鈴木安蔵
 「焼け跡から生まれた憲法草案」(2007年2月)で吉野作造と鈴木安蔵を取り上げた。両者とも東北の出身(吉野は大崎市、鈴木は南相馬市)である。吉野は明治期の資料をもとに憲法制定史を研究した。二人は昭和8年頃出会っている。鈴木は吉野の研究をうけて、「国家は人民の自由を守るために必要である」と憲法案に明記した植木枝盛の業績を再発見した。彼は高知に未発掘の文献を調査に入った。そして、県立図書館や古書店にうずもれた大量の自由民権期の資料を発見することになる。さらに鈴木は、運動に 参加した老人たちの聞き取りを行ったが、彼らの愛読書は「スペンサー」や「ルソー」、「フランス革命史」などであったこともわかった。その調査後4ヶ月して、植木枝盛の「憲法草案」発見の知らせが届いた(現在は国会図書館蔵)。これらの鈴木の戦前の研究が戦後の憲法研究会に受け継がれた。鈴木は戦前、特高の監視下に置かれていた。敗 戦後、アメリカ軍のジープが世田谷の鈴木の自宅に来て、戦前にカナダ大使館にいて交流のあったハーバート・ノーマン(安藤昌益などの研究で知られる)がGHQ(連合国軍総司令部)の一員としてやってきた。鈴木は明治憲法は変えなくてはいけないと思っていた。

憲法研究会の日本国憲法案
 1945(昭和20)年、憲法研究会の最初の会合が、高野岩三郎、岩淵辰雄、森戸辰男、杉森孝次郎、室伏高信、馬場恒吾、鈴木安蔵らによって開かれた。メンバーの多くが戦前に天皇制政府によって弾圧されている。森戸はクロポトキン論文で弾圧され、東大を追放されてドイツに留学した際、ワイマール憲法を研究し社会福祉的憲法、政策を学んでいる。研究会の憲法案には国民主権、基本的人権、平和主義などの原則が書かれていた。GHQの憲法案には「憲法25条」(生存権にあたる)がなかった。憲法研究会の「憲法草案要綱」には「平和主義」や「生存権」の考え方が入っていた。これらの研究会の案を全訳してGHQは分析していた。例えば、森戸が「天皇はモラルシンボルでよい」と言ったことなどは注目している。GHQのマイロ・ラウエル中佐は憲法研究会の「憲法草案要綱」について「ここに報告されている条文案は民主的で受け入れられる」と評している。  

日本国憲法成立に至る内外の情勢
  GHQは、日本の中にはこういう(民主主義的な)考え方をしている人々がいることは十分知っていたのである。一方、松本烝治案として出された日本政府案は明治憲法の一部修正案に過ぎなかった。GHQはこれを頼りにできないと考えた。マッカーサーは天皇を象徴として残そうとしていたが、中国やソ連、オーストラリアなど天皇の戦争責任追及を求める国々が入って構成される極東委員会がGHQの上部組織として1945年2月に発足する予定であり、GHQはその前に新憲法の制定を行おうと起草作業を急いだのである。
 2月13日、GHQは吉田首相に憲法案を渡す際に、これを受け入れなければ国民に公表すると言った。憲法研究会などに代表される民主主義を求める国民世論の状況をGHQは把握していたので、明治憲法の頭から抜け出せない頑迷な政府に対し強く言えたのである。国会に提案された憲法案審議で、日本人による修正も行われた。GHQ案にはなかった「生存権条項」が社会党代議士となっていた森戸辰男によって入れられ、「国民は健康で文化的な最低限度の生活水準を保障される」という憲法研究会案そのままの文言が憲法25条として明記されることになった。9条の第2項には、芦田 均修正案として「前項の目的を達成するために」が入れられ、「自衛のための戦力を持つ」可能性があると危惧した極東委員会(ソ連など)は「シビリアンコントロール(文民統制)」を要請、修正案(貴族院)として第66条に入れられた。

自由民権運動から日本国憲法への地下水脈
 日本国憲法は、当時の世界と日本の歴史の中に積み重ねられてきた人類の英知が複合されてできた成果であった。明治の自由民権、大正デモクラシーから日本国憲法へと続く地下水脈が確かに存在した。また日本国憲法は日本だけの問題ではなく、世界の平和と民主主義の発展の歴史にとっても重要な位置にある。これを次の世代にどのように渡してゆくか私たちの努力にかかっている。

6月例会報告 報告者 小林義孝さん(本会会員・NPO法人摂河泉地域文化研究所)「1930年代・大阪の宗教的世界−生駒の神仏 永和の神−」

6月例会の写真

 赤松啓介と「生駒の神々」

 庶民の性風俗や民間信仰の研究で知られた在野の民俗学者、赤松啓介は、1932〜33年に生駒山地の神々、民間信仰の調査を行った。これが赤松の民俗学のはじまりであり、柳田国男が「日本民俗学会」の前身である「民間伝承の会」を立ち上げたのは、その3年後の1935年であった。
 関西の三大霊場は、伏見稲荷、能勢妙見、生駒聖天とされる。生駒の中心地石切に大阪の民間信仰が集中して大阪の一大宗教センターとなった。いつごろからあるのかわからないくらい昔からの民間信仰地帯であるが、特に近世以後拡大してきた。さらに、近代になって近鉄の前身「大阪電気軌道」が設立され、線路が一直線に敷設されたために東大阪は街外れに駅のできるところが多かった。そのため民間信仰の行場が鉄道の便のよい所に集中してきて、結局石切にさまざまな宗教の行場、施設が集まったのである。
 行場に必要な滝は、急な崖があって滝の流れが得やすい大阪側にあり、生駒山麓の大阪側に滝のある行場、宿泊所などができた。水の流れをあらわすシンボルは龍であり、生駒はどこにでも龍を祀る神社がある。
  このような石切神社を中心とする霊場生駒山地周辺は大阪に暮らす人々が、さまざまな悩み事、病気の相談、精神不安に関わる相談と解決を求めて訪れる場所となり、1930年代は、特に活況を呈した。

 赤松の潜入調査

 1930年代は、日本が中国大陸に侵略戦争を拡大してゆくときであり、戦争景気と同時にファシズムと軍国主義の世情不安の空気も日本をおおってゆく頃であった。このような時勢の中、宗教団体も拡張してきた。今日のPL教団の前身「ひとのみち教団」は布施の永和に拠点を置き、80万の巨大教団となっていた。仮設の「ひとのみち駅」までできたくらいである。特に「夫婦和合」を宗教的題目としてかかげ、主に中産階級に浸透し、新潮社社主や吉川英治などの作家も信者であった。教団は1936〜37年に弾圧され、解体した。教団の太陽神信仰が天皇制イデオロギーと抵触したこと、教祖が信者女性と不適切な関係を持ったことなどが弾圧の口実になったと考えられる。
 赤松は新興宗教団体に信者になりすまして潜入調査を行った。六畳ぐらいの狭い部屋に2〜30人ほどが入って般若心経を一心不乱に唱えていると、「左翼の俺でも目の前に白い煙が見えてきたぞ」などと、その時の体験談を語っている。赤松は各行場の状況を調査し、「新しい神が増殖している」さまを報告している。たとえば石切周辺の家で、立ち小便をする人が増えると、よく家の壁に鳥居を描くことが行われるが、今度はその鳥居にお賽銭をする人が増えるというようなことを記録している。
 石切神社は「でんぼの神様」として知られるが、お詣りする人が二列縦隊に並んでいることがあるという。

 大坂と江戸のちがい

 報告者は江戸(東京)には生駒のような場所があるんだろうか?と疑問を投げかけている。生駒は近世以来大阪中から悩める人々がやってくる一大センターである。しかし江戸には、そのようなセンター的な場所が見当たらないという。宗教的な場所はあっても、各地に分立しているのが江戸の特徴だ。歴史的な蓄積伝統のちがいが大阪との間にはあるのだろうか?土葬中心(江戸)と火葬中心(大坂)など葬法の違いも両地域文化の違いとしてあるという。

   赤松の視角、1930年代の大阪と宗教世界

 今は死語となった(ように思われる)「宗教はアヘン」という言葉がある。インチキ宗教が跋扈する情勢の反映と諸科学一般、弁証法的唯物論の未熟な理解を背景にして宗教を一面的に捉えた乱暴な考え方だが、赤松らが活躍をはじめた頃の「マルクス主義者」の間では「常識」として生きていた考え方である。赤松は戦前、日本共産党員であった時期があるが、「戦闘的無神論者同盟」なる組織を立ち上げていた。当然、彼の考え方の中には「宗教アヘン説」というものもあったように考えられる。軍国主義、ファシズムが日本を次第におおってゆき、自由な学問研究、言論の自由が奪われてゆく時期に、赤松は生駒の信仰の世界を探求することを隠れ蓑としながら、しかし、大阪の都市に暮らす底辺の人々が生きる上で、どのような矛盾をかかえ、そのはけぐちを求める先として生駒の神々を頼っているのかを分析したものと思われる。それは彼なりの情勢分析であったのかもしれない。質疑交流では活発な意見交換が行われた。

7月例会報告 報告者 神崎貞代さん「松月ホテルの人々−17歳少女の朝鮮引き揚げ物語り」

7月例会の写真

 清津(チョンジン)からの脱出
 神崎さん(旧姓羽畑貞代)は1928(昭和3)年山口県宇部市に生まれ、1934(昭和9)年に北朝鮮清津府へ一家で移住した。父親は青果商を営み成功して、その後酢の醸造業を始めた。しかし、1945(昭和20)年貞代さんが入学した京城女子師範学校から夏休みに清津へ帰った8月13日にソ連軍の艦砲射撃がはじまった。清津府民は一斉避難をはじめ、家族6人も脱出、苦難の逃避行が始まった。

  咸興(ハムフン)での越冬、数千人が亡くなる
 清津から列車や徒歩で富寧、古茂山、延社、白岩、吉州、城津を経て咸興(ハムフン)に着いた。途中、日本の敗北を知り、軍人や公務員は先に逃げて一般の日本人は置いてゆかれたことも知った。ソ連兵の略奪、暴行が行われ、自分はアメーバ赤痢にかかり、家族は集団から離脱して野宿をし、親切な日本人の奥さんに助けられたりして、ようやく北朝鮮のまんなかあたりにある咸興(ハムフン)に着いた。ここで足止めをされ越冬することになった。鉄道官舎の玄関口に寝泊まりした。過酷な冬の寒さと食糧不足などで多くの人が亡くなった。9月から12月までに4407名の人が亡くなっている。末っ子の信江さん(2歳)が衰弱のため亡くなった。帽子の箱をもらって棺桶代わりとし共同墓地に埋葬した。神崎さん自身、共同浴場の脱衣場の体重計で測ると23Kgしかなかった。鏡に映る姿は骸骨のようで愕然とした。そのころ、毎日チフスでたくさんの人たちが亡くなっていった。

 松月ホテルの人々
 咸興で生きるために女性は洗濯女、男性は墓堀人、闇市での商売をし、神崎さんはタバコ売りなどをして生活しているとき、女学校のクラスメートに出会った。彼女は孤児となっていたが、ホテルで働いており、同じように働かないかと誘われた。父の反対をおして、その松月ホテルで働くこととなった。
 松月ホテルに入ったおかげで救われた。ホテルはソ連軍の高級将校が宿泊し、金日成も訪れるような場所であった(金日成が来た時、泊まる前に大掃除をしたことや、食事に出した目玉焼きの残りを食べたことがあるという)。料理長の斉藤さん、通訳の田谷さん、ボイラーマンの藤島さんたち親切な日本人が居て、ボーイをしている朝鮮人の人たちも、メードとなった彼女たちを大事にしてくれた。ソ連軍将校も紳士的であった。
 清津の店で働いていた朝鮮人の李さんが家族を案じて探しに来てくれた。彼が、三女の礼子さん(5歳)を帰国が決まるまで預かってくれることになった。その後、咸興の近くの興南に両親と二女の久子さん(女学校1年)が送られた。宿泊先の小学校に3人を訪ねてゆくと人相が変わるほど衰弱していた。父だけ咸興にもどり働くことにした。ソ連軍将校からもらったパンやお菓子を母親と妹にあげて二人も咸興に歩いて戻ることになった。
 ホテルに宿泊するソ連軍将校は紳士的で、日本人を人間として扱ってくれた。彼らとは仲良くなり、ロシア語会話も習った。将校のうちで特に“ボリショイ・キャピタン”と呼んでいた長身の美男子の将校が思いがけず帰国前に食事会をしてくれた。そのとき日本の住所を書いてくれと頼まれて書いたが、結局その後の交流はなかった。翌年日本へ帰れることになった矢先、母が胃けいれんを起こして帰れなくなった。それでしばらく道立病院の看護の仕事を引き受けることになった。そのとき入院患者の青年裴(ハイ)さんと出会う。帰国間際に彼は背中のケロイド状の拷問の傷跡を見せてくれた。そして「ぼくは君をうらんでいるわけじゃない。日本へ帰ったらあなたも日本の復興のためにがんばってほしい」と話し、自分の書いた挿絵(その絵は、思索する若者がうつむいて座っている光景で、「希望 いずこへ」と書かれていた)を彼女に贈ってくれたという。食事の世話や小便の処理など、心をこめて彼の世話をしていた神崎さんに対して彼が抱いていた感情が70年の時を越えて伝わってくる。神崎さんは、その挿絵を今も大事に持っている。

 38度線を越えて
 翌年5月に避難民一行は咸興を列車で出発帰路につき、38度線をめざした。途中で通過する部落ごとにお金を請求された。その大半を負担してくれたのが、“モスコー”というあだ名をつけられた女性であった。彼女はロシア人男性などを相手にする女性であったが、貯めていた金を部落を通過するたびに、みんなの代わりに支払っていた。みんなは世話になっていたが、その一方で彼女を半ば軽蔑するような目で見ていた。
 ようやく38度線に到り、河(おそらくイムジン河)を渡るときホタルが夜の闇に舞っている中を小さな船で越えて行った。38度線を越えたとき、みんなを率いてきた団長は、ここまで来れたのは、「モスコー」と呼ばれた女性のおかげであったと、感謝の気持ちを語った。その後韓国の東豆川、京城(ソウル)から仁川(インチョン)に行きアメリカの貨物船に乗船して佐世保に上陸、和歌山の粉河に帰り着いた。

  棄てられた国民、戦争と軍隊の実態を知る
 神崎さんは、朝鮮半島にいた日本人は日本に捨てられた棄民だったということを実体験して生きて帰った。軍人と役人が先に逃げ出し、列車の屋根の上から軍人が自分たちにむかって、「お前たちは乗るな」「軍属でない者は乗るな」と叫んでいたという。
 そして「36年間朝鮮半島を植民地としてお邪魔した日本人の一人として『ご免なさい』の思いは今も拭いきれません」と言う。戦前の日本人はまちがったことを教えられていて、今の安倍さんの言ってること、やろうとしていることは、それと同じだと思うと言われた。毎日、新聞をしっかりと読んでいるという。神崎さんは『松月ホテルの人々』を出版し、各地で自分の体験を伝えるために講演をされている。お歳には見えないほど若々しく、和歌山市内中心部の自宅から毎朝、和歌山城天守まで歩いておられ、そのエネルギーはすごい。息子さんが送り迎えなどをされて母親の語り部の活動を支えている。質疑交流で活発な議論があり、本会の滝川さんのお母さんも清津にいて、滝川さんが持参した清津の地図があったおかげで話に臨場感があり良かった。

8月例会報告 渡辺 武さん(本会会員・元大阪城天守閣館長) 「戦国のゲルニカ」(大坂夏の陣図屏風)から戦争と平和の問題を考える

8月例会の写真

 まったく異質な合戦図屏風
 「大坂夏の陣図屏風」には、慶長20(1615)年5月7日(旧暦)に徳川方が大坂城を総攻撃し、わずか半日ほどで落城した瞬間が描かれている。6曲1双(6つに区切られた屏風が2つ、右側が右隻、左側が左隻)の右隻には合戦の様子が、左隻には敗走する兵士、逃げ惑う庶民と彼らを襲う徳川方兵士、野盗の残虐な行為などが克明に描かれている。
 渡辺さんが大阪城天守閣の学芸員となった1962年、四年前に福岡の黒田家(黒田長政の子孫)から有償で譲られた屏風が桐の箱におさめられたまま保管されていた。その後、痛んだところを修復して、年間一ヶ月ほど展示している。その他の日には複製を展示し、貸し出しはいっさいしていない。
 報告でも強調されたように、この屏風の特徴は左隻に描かれた戦争の悲惨な実態をリアルに表現しているところである。この点で、他の合戦図屏風とはまったく異質である。
  かつて岡本良一氏は、この屏風絵を評して「元和版ゲルニカ」と表現した。ナチスがスペインのゲルニカ村を無差別爆撃したことに対してピカソが怒りと抗議をあらわすために描いた「ゲルニカ」(奇しくも屏風全体とほぼ同じ横幅約7m)と共通するモチーフが、この屏風絵には感じられる。岡本氏は、合戦図一般の評価がまだ低かった頃に夏の陣図屏風を検討し、戦争を告発する歴史資料としての重要性を主張した。のちに渡辺さんは、NHKの歴史ドキュメンタリー番組「その時歴史が動いた」で夏の陣図屏風を紹介する放送の制作に協力した時、放送タイトルを長い議論の末に「戦国のゲルニカ」とした。

 「戦国のゲルニカ」−屏風の図像の部分写真をパワーポイントで紹介
 屏風には戦争の持つあらゆる要素が描かれているという。多く描かれている場面は首を取る凄惨な場面である。戦国時代、戦場での手柄は敵の首級をとることであった。その中でも指揮官クラスの「兜首」が第一で、一般兵士の首は「平首」「素首」と呼ばれた。しかし敵の首を取ることはむづかしい。そこで、よりたやすい敗走する兵士の首をとることを「追い首」と呼んだ。さらにひどいはなしが、一般庶民の 首をはねて偽装することが横行した。これを「にせ首」と呼び、屏風には首を取られた夫の遺骸を前に茫然としている妻の姿が描かれている。そして味方同士でも部隊が違えば首を取り合うことも起こった。これを「味方討ち」という。画像には大将の前に持ち込まれた首が検分されている場面があり、横で「首帳」を記載する武士の姿が描かれている。5月7日を主に徳川方が取った首級が14000〜18000ほどという。豊臣方の取った数は不明であるが、推定で徳川の3分の1ほどとすると、合計20000〜24000人が半日余りで殺害、首を斬られたことになる。それのみでなく城下の火災による焼死者、窒息死者や川を渡って逃げる途中におぼれたり、野盗や徳川方兵士に襲われたりして死亡した一般庶民の数は数え切れない。左隻に描かれている画像は、逃げ惑う庶民が無残に殺害されていく地獄のような場面が、これでもかというほど執拗に描かれている。北の京都方面へ逃げる敗残兵が「追い首」を取られ、一般庶民は略奪され抵抗すると殺害され、「ニセ首」にされている。婦女暴行の現場。拉致連行される女性たち。天満橋付近では焼け落ちた橋桁付近で川を渡る庶民が襲われ、行き惑う姿が描かれている。屏風絵は合戦の勝者を顕彰することもなく(図像中唯一、討ち死にした本多忠朝の奮戦ぶりが描かれている。)、むしろ戦争の無残で醜悪な実態、庶民の犠牲を描き、戦争そのものを告発しているようである。この屏風絵はいったい誰が企画し、いつ頃、どんな絵師がこれを描いたのだろう。

 作者は誰か?
 現在、屏風絵の制作者(あるいは企画者)は不明である。しかし江戸時代からの由来、現在までに行われた調査と推測に基づいて、候補者として考えられている説がいくつかある。
 1)黒田長政と黒田美作(家老・荒木村重の家臣の遺児であったが後に黒田家に仕えた) 屏風絵は黒田家に伝来してきたものであり、長政が家老黒田美作に制作を命じ、美作は絵師八郎兵衛に命じて作らせたが、制作途中で絵師が病死し、その後完成させた。
 2)竹森貞幸(黒田家家臣)   貞幸は長政から命じられ、江戸の田町の絵師に命じて長政存命中に屏風を完成させた。     3)本多忠朝の子孫 討ち死にした本多忠朝の子孫が祖先顕彰のため制作、娘が黒田家に嫁ぐ際に嫁入 り道具として持ち込んだ。
 4)松平忠直   家康の孫にあたる越前藩主松平忠直がお抱え絵師岩佐又兵衛またはその弟子達に描かせた。
 5)絵師岩佐又兵衛と黒田美作 荒木村重の遺児にあたる岩佐又兵衛は浮世絵の開祖といわれる絵師で、松平忠直や幕府に仕える絵師となるが、黒田美作とも関係が深く、その縁で黒田美作に制作協力したのではないか。

 屏風絵が訴えること
 制作者が誰か、絵師あるいは絵師集団が誰か、証拠となるものが発見されないとわからない。しかし、作者がたとえ確定されなくても屏風絵が訴える内容が重要と、渡辺さんは強調される。特に左隻に描かれた悲惨な戦災の実相は、この戦争を体験した人々の「二度と戦争はごめんだ」という気持ちをあらわすものであり、そのことがあるから「元和偃武(げんなえんぶ)」(大坂夏の陣で豊臣氏が滅び戦乱がなくなって平和となったことを指し、「偃武」とは武器をおさめ戦乱のない天下太平の世を到来させるという中国の言葉)は多くの人々に支持され、以後250年間一度も内外の戦争のない時代が続いたのだという。
 これに対して第2次世界大戦後、たった70年を経て再び戦争をする国にしようと安倍晋三政権は安保法案を強行しようとしている。日本人の心のなかには、多くの「夏の陣図屏風」「ゲルニカ」と同じ風景が未だ焼き付いている。「二度と戦争はごめんだ」と巷の声は法案の中身を知れば知るほど拡がっていく現在である。「大坂夏の陣図屏風」に描かれた日本人の戦を許さない心は、400年の時空を超えて私たちの心に響いて来る、そのような深い印象を持った例会であった。

9月例会報告 森下 徹さん(本会会員・和泉市史料編纂室)「戦争と和泉」展−地方における空襲・戦争体験を掘り起こす

9月例会の写真

5つの展示コーナー
 森下さんが勤める和泉市教育委員会文化財振興課は、遺跡の発掘のほか、市史編さん、史跡整備、地域の活性化など文化財と地域の歴史に関わるトータルな仕事を担っている。その基地のような場所がいずみの国歴史館だ。今回の戦後70年を記念した特別展「戦争と和泉」は森下さんが中心となって企画し、地域に残された戦争に関わる記録、遺物などを集め、掘り起こし展示したという。公立の博物館の活動としては貴重なものである。関心も高く、いつもの入場者を上まわる1300人(8月の1ヶ月)ほどが訪れているそうだ。  展示は5つのコーナーで構成されている

 T軍隊のいた街 和泉
 明治初年、信太山丘陵の聖神社境内地が国有地とされ大砲射的場ができ(のち信太山演習場)、1919年に伯太村に野砲兵第4連隊が移転した。のちに横山村福瀬にも戦闘射撃場が置かれ和泉地域は大阪の軍事拠点となる。戦後は米軍が進駐し、進駐軍による農耕禁止の立て札が展示されている。  この頃、基地の土地返還運動が起こり、1957年に日本に全面返還された(大半は自衛隊に引き継がれる)。これは、この頃、沖縄の米軍基地化が進んで行ったことと対応する。

 U出征する若者たち
 展示された日の丸の寄せ書きに「最後までご無事で」と書かれている。おそらく母親が書いたものと思われる。表向き勇ましく送り出さなくてはいけない出征に際して渡す旗の中に母親の思いが込められている。紙芝居に描かれた光明池の鯉のはなしも同じ気持ちが読みとれる。出征を迎えると、池に二匹の鯉を放す。そのときに「行ってコイ、帰ってコイ」と願いながら放したという。また、葛の葉の井戸では、出征前の兵士が姿見の井戸に姿を映して無事を祈ったという。庶民の本音を映し出す貴重な記録・資料である。

V銃後の生活
 地域でも町内会や隣組、国防婦人会などの組織を通じて戦争遂行を支える活動が行われていた。武器製造のための金属回収を「敗れて家宝も何になる」と大至急で呼びかける回覧板が展示されている。物量資源、経済力で圧倒する米国を相手に、鍋や釜、寺の鐘などを溶かして武器を作っていたかと思うと唖然とする。横山村からは陸軍の有名な戦闘機「隼」が一機献納されている。

 W戦没者の慰霊と追悼
  和泉市域での戦死者数は正確には不明である。いくつかの資料を突き合わせ1399名まで計数できているそうだ。行政村ごとに軍人墓地がある。山手の地域には、軍人だけの墓地があり、@共同墓地内にあるもの A共同墓地に隣接してあるもの B全く離れた土地にあるものなど3つのタイプに分けられるという。阪和線沿線の村では共同墓地がなく、軍人の墓が寺の墓地や集落の墓地の中に散在するものが多い。

 X戦後の出発
 戦後民主主義の息吹が伝わる資料が多い。 南松尾小学校の高岡舜正教頭の「学事報告」が印象的である。 「独裁命令的の教育によればまたもとの戦争に戦争にかりたてた時のような個人の心の発達せない命令でなければ何一つ出来ぬ、命令であればそれのよしあし判断も出来ず之に従うような人間を作ってしまう」。

「戦死者関係書類綴」について
 展示資料中、旧和泉町の出身軍人、軍属の死亡通知を綴じた「戦死者関係書類綴」という資料がみられる。敗戦直後に、多くの公文書が焼却処分された例が多い中で奇跡的に残された貴重な資料といえる。中身は軍人と軍属(軍が雇用する文官《軍学校教官、技術者、通訳、看護婦長等》、雇員《下士官相当の職務》、傭人《軍機関の労務者で看護婦、小使、馬丁等》の総称)の死亡通知等である。その中に「慰安婦」の死亡者通知があり、ビルマ駐在の日本軍司令部から発せられている。これは慰安婦が軍属と同様の扱いをうけていたことを示す資料として貴重である。
 例会は平日で台風襲来の予報もある中で、15名が参加し盛り上がった。地域からの戦争資料の掘り起こしの大切さを実感し、特に「戦死者関係書類綴」の資料の重要性も明らかにされ、今後の調査が期待されるところである。

10月例会報告 森田登代子さん(NPO法人ピースポット・ワンフォー、なにわ創成塾主宰)「庶民から見た江戸時代の天皇即位式」

10月例会の写真

 即位式見物で授乳する女性
 江戸時代、第109代明正天皇(女帝)の即位式を描いた「御即位行幸図屏風」(宮内庁蔵)に、見物に来て弁当を食べる女性、子どもに授乳する女性、幡をふる子どもなどが描かれている。江戸時代、天皇の即位式を間近で庶民が見物できたことも意外だが、その真っ最中に授乳する女性がいたことは驚きだ。     森田さんの研究は、天皇の即位式に、このような庶民のすがたが見える驚きが出発点であった。

  図像史料に見る 近世以前の天皇の即位式
 江戸時代以前は、天皇が生前に譲位することがふつうであり、これを「受禅(じゅぜん)」といった。「践祚(せんそ)」は前の天皇が崩御して、新しい天皇に替わることで、どちらかといえば異常事態であった。明治以後、「登極令」(明治42年)により、天皇が崩御ののち、新天皇の践祚の式が行われ、元号が制定され一世一元となった。
 近世以前の天皇の即位式は、譲位・受禅即位(剣璽渡御《けんじとぎょ》=先帝から新帝に宝剣と神璽を受け継ぐ儀式)・剣璽渡御式、移徙(わたまし・いし=新天皇が現在の住居から禁裏へ引越すること)・還幸行列、天皇即位式、御世始の能が行われ、即位式から半年以内の秋、または翌年の秋に大嘗会(祭)が行われた。剣璽渡御行列や移徙などは庶民の見物が可能だった。「触(ふれ」(京都町奉行所からの伝達指令)や公家日記などの文字史料によると、見物には「切手(入場券)」を携帯すること。「男性100人、女性200人が禁裏内の南庭(紫宸殿の前庭)で座って見物。見物人が殺到した。」など、天皇即位式は庶民にとって物見遊山のようなもので、子どもへの授乳をする女性や食べては行けない弁当を食べる女性もあらわれた。翌日、翌々日の威儀物・調度品の見物は「切手」がなくても入れたので人が殺到し死者怪我人まで出る事態となった。
 なお、これらの即位式や東山天皇の時に再興された大嘗会の費用は江戸幕府からの資金援助であった。
 報告の合間に、森田さんが集められた生の史料を見せて頂いた(写真)。天皇即位式のようすを描いた図像など貴重なもので、中には東大に保管されているものと同様の史料もあった。「明正天皇即位式図」には、「高御座(即位式の時の天皇の座がおかれる所)」 に座る普通は描かれない天皇の顔が描かれている。

 明治以後の天皇即位式の変化とその背景
 明治維新以後、旧皇室令「旧皇室典範」 (明治26年)や「登極令」(明治42年)により、天皇崩御後、新天皇践祚の式が行われることになり、一世一元の元号が制定され、即位礼(御大典)などが定められた。幕末までの即位式は、神仏習合的であり仏教の影響が強かった。特に「即位灌頂」は、密教による重要な即位儀式であった。しかし、明治維新以後、神仏分離令、廃仏毀釈など国家神道の確立などを背景として、天皇即位式における神仏習合的要素は解体されることとなる。そして神格化によって天皇と庶民の距離は以後ますます大きく開いていったことは周知の如くである。

 女性、母親の視点から見た貴重な研究
 今回の報告では、江戸時代の即位式での庶民の“参加”の実態が、文字史料と図像史料により明らかにされ、従来の天皇即位式には庶民は登場しないという学界にあった一般的見解は妥当でないことが明らかにされた。即位式に見る庶民の旺盛な好奇心、バイタリテイには驚かされる。明治以後の変化について、どう考えるのか、今回は十分な時間をとることができなかったのは残念だが、盛り上がった質疑の中にあった、「明治天皇の即位式の際に(承明門に)置かれた地球儀」の意味など、明治新政府の考える新たな天皇制のありかたを考える重要なヒントではないかと思われる。「即位式に授乳する女性」という、一般研究者がなかなか目を付けない、女性、母親ならではの視点から研究を始めた森田さんの今後の御活躍を期待する。

11月例会報告 隆g章光さん(黄檗宗清寿院住職)「鎖国時代の大坂文化サロン」

11月例会の写真

 黄檗宗清寿院(大阪関帝廟)住職の隆g章光(おもき・しょうこう)さんに、「鎖国時代の大坂文化サロン」と題して報告していただきました。地元大阪の近世を彩った町人文化について詳しく解説してもらえる機会を得ることが出来ました。報告の構成は以下の四部です。
1.黄檗宗清寿院の由来
2.大坂の文化人木村蒹葭堂(けんかどう)との交流
3.著名文化人の墓所として
4.画会・雅会などサロンとして
資料:『画本三國志』全八巻(都賀大陸作・桂宗信画)、『雨月物語』(上田秋成著・桂宗信画)等の紹介と解説
 清寿院は、1764年(明和元)中国僧大成禅師を中興開山となし、黄檗宗の末寺となりました。関羽像も明国からもたらされ、当時は「武帝廟」の額が山門に掲げられていました。敷地は約千坪、現在は空襲後の区画整理などにより四百坪に半減。かつて、内殿の北側、現在は観音堂のあたりに池、茶室が設けられていました。『摂津名所図会大成』にも、「清寿院関帝堂 例年五月十三日、関帝祭事ありて、大般若修行伶倫音楽奉納もっとも殊勝なり、且詣人に普茶を出して供養す」とあり、藁葺きの表門や一対の摩伽羅(想像上の大魚)を載せた入母屋の本堂などを見ることができます。黄檗宗は江戸時代、明より隠元和尚が伝えた禅宗で、「宗門人別改め」(注:法的に整備されるのは寛文11年・1671)の影響が少なかった?といいます。武家の信仰が厚く、毛利家の菩提寺「東光寺」は黄檗宗で「萩の唐寺」と称されています。しかしながら、清寿院は、いわゆる文人たちが集まり、画会や雅会を開くサロン的な場となっていました。
 木村蒹葭堂(元文元年1736〜享和2年1802)は、江戸時代中期の日本の文人。大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(しもたや、家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家の長子として生まれま 木村蒹葭堂 す。名は孔恭、字を世肅、号は蒹葭堂。蒹葭とは葦のことであり、「蒹葭堂」とはもともとは彼の書斎のことです。本草学・文学・物産学に通じ、黄檗禅に精通しています。オランダ語を得意とし、ラテン語も解し、書画や煎茶・篆刻をたしなむなど極めて博学多才の人でした。その知識や収蔵品を求めて諸国から様々な文化人が彼の元に訪れました。人々の往来を記録した『蒹葭堂日記』には延べ9万人の来訪者が著されています。その幅広い交友により、当時の一大文化サロンの主といわれます。
 『蒹葭堂日記』には、清寿院の開山禅師との交流も記されています。@天明2年2月23日関帝講に参詣、A天明4年5月13日関帝祭に参詣、B同年9月12日関帝堂参詣、C天明6年5月12日関帝堂参詣、D同年6月11日清寿院で画会、E寛政6年10月16日清寿院で雅会。また、江田世恭(えだながやす・国学者)、桂 宗信(画家)、金子雪操(画家)、五竹庵木僊(俳人)、春名柳窓(蘭学者)、八日庵万和(俳人)、鷲尾八橋(歌人)の墓および桑田墨荘(画家)建立の筆塚が在ります。
 質問は多く出されましたが、いくつか抜粋してあげてみます。
Q1,四天王寺に近いが、関係はあったのか?
A1.ないと思う。資料も残っていない。
Q2.鴻池とのつながりはなかったのか?
A2.見られません。
Q3.大坂の文化というと元禄文化。後半になると江戸が中心になる。しかし、18世紀後半から幕末にかけての大坂について、よくわからない。実際にどのような状況だったのか、報告を聴いていて、フレッシュに感じる。大事なことだ。蒹葭堂の墓は天王寺区の大応寺にあるが、寺町に文化ゾーンがあったの 「画本三國志」 ではないか。
A3.大坂の文化の中心が上町台地だと思います。現在その地域における研究が、外郭団体の協力によって行われています。10年間の区切りとして資料集も出されています。ただし、今後は市の予算の関係で、継続は困難です。
 最後に「近世大坂における寺院をサロンとする自由な雰囲気、そこに知識人の交流により自由な考え方、民主主義の芽がうまれていたのではないか?明治維新だけを(封建制打倒の)変革と評価するのではなく、江戸時代のこのような市民の意識変化を研究することも大事」という、総括的意見が出されて、お開きとなりました。なお、『画本三国志』原本を机上に広げて、住職より詳しく解説がなされました。和綴本全八巻で桂宗信の挿絵は149編に及びます。いろいろ質問が出され、有意義な例会となりました。

12月例会報告

12月例会の写真

@小野賢一さん(会員・歴史教育者協議会・大阪猪飼野探訪会副代表)  「第16師団兵士 下村 實はゆく −ある兵士の戦死を通して戦争を考える−」

 2015年3月例会での報告の続編として新たな発見等を含めて報告された。今回の例会には下村 實の妹西野ミヨシさんも参加され、冒頭にお兄さんの思い出を語られた。
 西野ミヨシさんのお話
 ミヨシさんは7人兄弟の末っ子で、長男の下村 實が故郷の京都府船井郡五ヶ庄村佐々江(現在の南丹市日吉町)を出征した頃は2歳であった。兄は通信教育で教員免許を取り、教員になることを希望していたが、召集令状が来て、その夢を叶えることは出来なかった。「自分は一農民として村の教員になりたい」「兵隊はきらい」と思う一方で「厳しい軍事教練で軍人としての自己をつくらねばならない」体験の中で兄の心は「二極」にわかれ、「渦巻いていた」という。下村が3年間記録した「軍人日記」をもとにミヨシさんは枚方の小学校や地域で20年間、「平和の語り部」として平和教育をすすめてきた。そして小野さんと共同で、今回上記の著書を出版した。それは、「等身大の兵士の生きざまと苦悩と死を取り上げる」ことで、地域の平和教育に生かしたいという目的からであった。ミヨシさんは兄への想いを綴った短歌を数編紹介された。

以下、小野さんの報告から
 全滅する一般兵士、生き残る将官

 下村(一等兵)が所属した第16師団(京都)は1941年12月ルソン島南東部に上陸後、マニラに進撃した。下村は上陸二日後の12月26日ルクバン市郊外で被弾し、翌日亡くなった。23歳であった。下村が死ぬ間際の状況は、若林中隊長の手紙と木下次郎の「マニラ・ロード」(『比島戦記』所収)の二つの文書に偶然記録されていた。
 師団は、13000名中生き残ったのはわずか620名ほどであった。しかし、一般兵士が全滅に近い状況であるのに対して、将官級は師団長、参謀長、連隊長は戦後も生き残ったという。この原因として、将官は戦局が変わると現地から転出させられ、本土決戦要員などにされたというが、一般兵士、民衆を将棋の駒のように切り捨ててゆくのが日本軍部と戦争をすすめる政府の実像であることは明らかだ。「お国のために」という虚妄のスローガンの真の姿が浮かび上がってくる。給与にみる兵士の待遇も一般兵士と将官級とは大きな差があり、それはのちの軍人恩給の格差にも影響している。
 日本軍が押し入ったフィリピン現地では、人口1800万人のうち100万人以上が戦争の犠牲となった。比率では「アジアで最も大なる惨禍」であり(カルロス・P・ロムロフィリピン外相)、日本軍の戦争犯罪はフィリピンの高校教科書にも取り上げられている。
 父の怒り
 兄の戦死の知らせは正月に届いた。妹の幸枝さんの書いた書き初め「大東亜戦桜花の想い」を父親は、怒りのあまり破ってしまった。戦争は戦死する兵士と家族共々、将来の生きる希望や夢を突然奪い去ってしまう。村には男兄弟3名全員が戦死した家もあった。下村家では兄の小さな墓をつくったが、あちこちの家で戦死者が出ているのに、自分とこだけが大きな墓をつくるわけにいかない、との父親の気持ちであった。
 下村の戦死の状況は、同行した元兵士の人が、「(被弾したときに)腸を弾が貫通」し、「自分はもう助からないから、他の人を診てやってくれ」と気丈に言っていたことなどを伝えてくれた。「遺骨」は、お箸箱などが桐の箱に入ってもどってきたという。一般 に戦死者は亡くなった所で小指を切って遺族の元へ送られるそうだが、下村は遺体ごと荼毘に付された。
一個人を描くこと
  フィリピン戦線での下村 實という一兵士の生と死の記録は、混沌とした戦場の中で奇跡のような偶然の機会も手伝ってその死の寸前までの状況が伝えられ、家族と関係者の努力によって記録された。戦争における一個人の状況を取り上げることにより、戦争によって破壊されてゆく人間一人々のありようを深く掘り下げることができ、戦争の実相をより深く知らせている。ジェノサイドの様相を示してきた現代戦の中で、個々の人間の生きようとする希望とそれが無残に打ち砕かれてゆく状況を克明に描くことは特に重要だ。

A森田敏彦さん(会員・天王寺九条の会事務局長) 「大阪戦争モノ語り−街かどの『戦跡』をたずねて」

父の軍隊手帳
 森田さんは府立高校を退職後、大学院で日本史を学びなおした。そのきっかけとなったのは父親の遺品の軍隊手帳であった。満州事変、日中戦争にも参加したことなどが記録されていた。「父が生きているときに体験を聞かなかったことを後悔、なぜ戦争を防げなかったのかを知りたい」という気持ちになった。

「モノ」に語らせる
 これまでに、あまり研究されていない分野の軍馬や軍用犬について調査、著書の出版を行ったが、大阪の戦跡ガイドをしている中で発見したこと、たとえば天満宮の狛犬は元は青銅製だったが、戦時に金属製品供出により明時代の大理石製のものに取り替えら れ、その経緯が漢文で台座に刻まれていることなど、街角の思わぬ所に見いだした戦跡を記録した『大阪戦争モノ語り』と題する著書を出版した。大阪の身近な街角に残る戦争遺跡や遺物を「モノ(石造物など)」に語らせ、被害と加害の両方の視点から紹介し、高校で近現代史にふれることが少ない若い人にも読んでもらえるようにできるだけわかりやすい表現を心がけたという。

戦意高揚をあおる石碑と戦争政策を弾劾する石碑
本では50カ所ほど紹介している。大阪空襲の関係では、3月13日のものより6月7日の大阪市北部の空襲慰霊碑が多い、また被害の痕跡をとどめる大江神社の稲荷や三光神社の折れた鳥居なども。戦争をすすめた施設としては第4師団司令部庁舎跡や大阪砲兵工廠跡など。戦意高揚をあおる教育塔や大村益次郎殉難碑など。戦争に抵抗した人々の顕彰碑は阪口喜一郎顕彰碑や鶴彬川柳碑などがある。印象に残るものとしては、@城北公園の千人塚には、6月7日空襲時のことが刻まれている。身元不明の死者が集められ廃材を薪にして荼毘に付され、遺骨はそのまま土中に埋められた経緯とともに刻まれた言葉は戦争をすすめて国民に塗炭の苦しみを与えた軍国主義政府をきびしく弾劾している。その言葉は、そのまま現在の安倍政権へのするどい指弾ともなっている。A国立大阪病院近くの大村益次郎殉難の碑。88名の発起人と賛助者の名前が刻まれている。荒木貞夫、東條英機などの軍人、伊藤忠兵衛、小林一三、鴻池善右衛門など関西の経済界の要人など軍官民あげて1940年11月(仏印進駐時)に作られた碑は、日本陸軍の創始者大村を顕彰し国民を戦争と軍国主義に総動員する意図が明瞭である。B珍しい碑として平野区の大念佛寺境内の三勇士精忠塔がある。1932年の第1次上海事変の際に久留米第12師団の3名の工兵が中国軍の鉄条網に爆薬筒で突撃、爆破すると共に戦死した。映画、新聞、小説、演劇などで「爆弾3勇士」として大々的に取り上げられ軍国主義の宣伝に利用された。一方で、和泉市黒鳥町にある阪口喜一郎の碑は広島、呉の軍艦内で勇敢にも反戦活動を行った阪口喜一郎を顕彰する碑だ。戦意高揚をあおる碑と戦争と軍国主義を弾劾し、抵抗した人々を顕彰する碑と、二種類の碑をセットで見直すことで当時の社会の実態を把握することができ、それは再び戦争と軍国主義の過ちをくりかえさないために必要なことだ。

  質疑交流から
 報告後、活発な意見交流が行われ、参加者から参考となる意見が多く出された。特に、森田氏が大江神社にある台座のみの遺物について、かつて台座上にあったものを神馬と推測して本に書いたが、のちにあるガイドさんから日露戦争時にロシアから捕獲した大砲が置いてあったいう話を聞いて、やや後悔していたところ、これについて事情をよく知る参加者から「台座に置かれていたのは神馬にまちがいない」との発言があり、この“神託”のような言葉に報告者は胸をなで下ろした。

2014年例会報告

1月例会報告 津田壮章さん「自衛隊退職者団体の発足と発展−1960年代の隊友会を中心に―」

1月例会の写真

<隊友会とはいかなる存在なのか>
 自衛隊・防衛庁が関与し、1959年7月10日に各地の自衛隊退職者団体を吸収する形で隊友会が結成される。発足当時の隊友会基本方針は、「あくまでも自衛隊退職者の親睦と相互扶助」であった。
 この活動方針に関しては、地方や府県発起人から「親睦団体程度では物足りない。もっと勇ましい門出をしたらどうか」という意見もあったが、「隊友会が右翼の団体ではないか」と疑念を持たれたり、「会が政治的に傾向してしまうと入会したい人たちも入れなくなり、また入会した人にも迷惑をかけることにな」ったりすると 、隊友会側は明確に否定している。
 しかし、1960年12月27日に、隊友会が社団法人になると定款第3条では、会の目的が「国民と自衛隊とのかけ橋として、相互の理解を深めることに貢献し、もって我が国の平和と発展に寄与すると共に自衛隊退職者の親睦と相互扶助を図り、その福祉を増進させる」と改定された。「国民と自衛隊とのかけ橋」が目的の第一になり、「親睦と相互扶助を図り、その福祉を増進させる」が後退している。
 隊友会の中で賛助会員(現職自衛官で趣旨に賛同する者)の会員数が最も多くなっている。各駐屯地には隊友会の世話担当者が置かれ、賛助会員名簿の取りまとめや、会費の徴収、隊友会本部への送付などの作業をおこなうとされ、収入を賛助会員に頼っていた。
 ここまで防衛庁が隊友会を支援した背景には、@隊友会が「国民と自衛隊とのかけ橋」となること、A民間防衛の組織となることへの期待があった。
 一方で、防衛庁による支援は介入の側面を伴っていた。隊友会の発足以前に存在した団体が存在したが、全国で既存退職者団体が隊友会支部へと変化していった。
 また隊友会にとって、帝国在郷軍人会が目指すべきモデルの一つであったが、戦後結成された旧軍関係者を中心とする郷友連とは 、協力関係にありながらも一定の距離を置いていた。「郷友連から二月十二日の紀元節に郷友連・隊友会は隊伍を組んで市内行進をしようという話が出たりしたが、当方は体制ができていないことを理由に遠慮した」という話が紹介されている。
 潜在隊友数と正会員数を比較すると 、勢いよく正会員が増加していた1967年においても、組織率は2割程度であった。さらに住所未確認正会員数が約20000人と報告されており、会員であっても活動に参加している者は少数であった。
 会員を増やすために、住宅ローン制度や就職援護講習など「経済的な魅力」を増加さ せるべきという主張と、「国民と自衛隊のかけ橋となり、防衛基盤の確立に寄与する」という「精神的な魅力」の主張があった。この二つの魅力は、「除隊者に名誉と生活の安定を保障することは、直にもって退職自衛官に希望と誇りをもたせ、士気を鼓舞し、自衛隊の志願制度に魅力的基盤を与える」という隊友会にとって根底で交わりあっているものであるとも考えられる。

<機関紙から見る冷戦と隊友>
 機関紙『隊友』発刊以降、1970年12月までに、一面の顔であるコラム欄「喜怒哀楽」「一寸一言」「発煙筒」で扱われたテーマの多くが会員向けの呼びかけである。同時に、ソ連や中共、学生運動といった自衛隊と敵対する勢力や、自衛隊関係の政策などの話題を取り上げることが多い。これらのテーマは、年度ごとに扱われる回数や扱い方が大きく異なる。
 設立直後は会員への呼びかけなど非政治的なテーマが多かったのが、1962年ごろから冷戦を意識した内容が現れ始め、66年ごろからは安保に反対する勢力を国内の「敵」として見出すようになる。
 同じく憲法についても発足当初は正面から批判する記事は見当たらなかったのが、1962年ごろから憲法9条への批判が見られるようになる。一方で、憲法への批判はするものの、明確な改憲を打ち出さない解釈改憲の論調が、次第に増加する。
 また退職した自衛官の多くは民間企業に就職したが、多くの場合、職場には労働組合があった。栃木県支部連合会では、「労働組合の執行委員や、地区の革新系組合の幹部等になっている立場の人」もいたようだが 、「十分、包容する、広い気持ちをもって」会が運営されたとしている。しかし、70年安保が近づくにつれ、「国防や自衛隊を否定する」組合活動に対しては対立姿勢を明確化することとなる。

<行動する隊友会へ>
 1960年代後半の隊友会は、国内の政治的争点に対して積極的な行動が目立ち始める。1968年以降には、自衛隊記念行事に対する反対運動への対抗や 、他団体と合同のデモなど 、直接的な行動が『隊友』の紙面に多く現れるようになる。
 この一つが防衛講演会の開催である。防衛講演会は、政治や教育など、地方の基幹に人脈を作り上げるシステムとして機能し、隊友会山梨県支部連合会・防衛庁・山梨県庁の主催で開催された1963年の防衛講演会は、県内の高校14校の200人に座席が配分された。高校生の集客には、「会員で読売新聞山梨支局員の笠井君が、事前に教育委員会や各学校長を説き回」るなど 、地方政治や行政への影響力を持ち始める。
 こうした変化の代表例が、安保条約堅持の運動体である安保推進国民会議への参加だった。隊友会は、1968年12月14日におこなわれた結成大会以前の準備会から参加し、1969年3月8日の安全保障推進中央国民大会には隊友会からも約100名が参加した。
 自由民主党の小川半次国民運動部長は、1969年1月付けの『隊友』に、「自由民主党は一九七〇年を二年後に控え、日本の安全と平和を維持するため、日米安保体制について国民の理解と協力を求め全国的な一大国民運動を展開することになりました。貴隊友会はこの国民運動の中核的存在として、われわれが大きな期待を寄せています」という文章を掲載している。  隊友会は社団法人のため、会として正式に選挙活動をすることはない。しかし、「会員から適材の出馬を相互支援したり、協力者を後援する等は差支えない」として、源田 実ら隊友会員を国会議員として送り出していた。
 1960年代後半は、地方においても隊友会員の政界進出が増える。1963年の統一地方選挙では、「隊友会員から立候補して、道、県、市、町、村会議員に三十数名が当選」している。特に基地のある地域においては、一定の地盤ができていた。
 1970年の安保改定に際しては、隊友会内部で、いかにして安保条約を堅持するかだけでなく、自衛隊が治安出動をすべきかどうか、さらには、そうした事態において、隊友会がどう動くべきかという争点が浮上する。
 自衛隊の治安出動に関して、『隊友』の一面コラム欄では、「さらに騒ぎが激しくなればどうするか。その時は自衛隊があると安易に論ずる者もなしとしない。(中略)この宝刀は真に我が国の安危を左右する時以外抜くべきでない。しかもその時は、世論の絶対的支持と法的制約が取り除かれておかねばならぬ」として慎重な姿勢を示している。
 隊友会の中には、秩序維持の役割を強く打ち出すグループもあったが、規制当局側の警察が隊友会に求めたのは、「ムードに巻き込まれる人々をうまく指導することが大切で、マスコミの扇動的記事に的確な判断を下せるように隊友会の諸活動を期待したい」というものであった。

<報告を受けて>
 「隊友会の歴史について初めて聞いた」という参加者が多く、「政府と政府の政策の中での隊友会の位置づけはどういうものだったのか」「隊友会自身の性格の変遷について時期区分が必要ではないか」などの今後の研究の進展を期待する声が多かった。

2月例会報告 尾川昌法さん(本会会長)「建国記念の日の起源―戦前の建国祭について」

2月例会の写真

 2月6日、大阪府教育会館で、本会会長の尾川昌法さんに、「建国記念日の起源―戦前の建国祭について」と題して報告していただきました。さる2008年には、靖国神社に繋がる全国各地の招魂社について報告していただいています。本報告は、それを受けての関連研究報告と言えます。その骨子は、『立命館文学』第509号(1988年12月号)掲載の「建国祭の成立―日本主義と民衆・ノート―」を参照とのこと。当日、抜刷のコピーを持参されて、論文の構成に照らして解説されました。
 最初に、「紀元節」と「建国祭」及び戦後の「建国記念の日」三者の違いにふれられました。そもそも、紀元節は神武天皇即位の日を起源とし、1873年3月に紀元節に改称したのちも、一貫して官庁の厳粛な儀式であったと定義。それに対し、建国祭は1926年2月11日に元東京市長の永田永次郎など内務官僚と赤尾敏ら右翼団体によって結成された「建国会」が主催した「国民的行事」と位置付けています。しかし、建国祭は赤尾らの過激化によって、建国会から離脱する者が増え、結果的には政府主導の運動となっていきます。ここで注目すべきは、建国祭に反対する民衆側からの運動についてです。建国祭の翌々年、1928年から労働者・左翼勢力がストライキなどに打って出るなど、意識的な取り組みを起こすようになってきます。
  いわゆる「建国記念の日」は、1951年3月の吉田茂首相による紀元節復活発言に端を発し、66年12月の建国記念日審議会による「2・11」答申・公布を経て制定されます。国会での審議・決定を避けた姑息な手法でした。広範な民主勢力は、今年も大阪をはじめ全国各地で48回目の不承認・反対集会を開催しています。報告者は、現在に至るまで息長く反対運動を継続できていることを、大いに評価しています。それに加えて、これらの運動が本質的には「思想闘争」である点を強調しています。さらに、政府による思想支配を許さず、「建国記念の日」を歴史的科学的により一層解明していくことの重要性を指摘しています。
 戦前の教育を受けた方々から、橿原神宮での建国祭に参列したことや小中学校の奉安殿(天皇と皇后の写真及び教育勅語が納められた建物)に敬礼するのを疎かにして、教師に叱られたこと。村の学校で、教育勅語など校長の長い話を聞かされ、寒くて洟が垂れて困ったなどの体験談が語られました。
 その他の質疑応答を簡単に列挙しておきます。
Q1−建国祭のときに、神輿やだんじりは巡行したのか? A−第1回目は、ありません。その後、そういったことがあったかどうか調べて欲しい です。
Q2−京都の曙新聞(筆者注:東京曙新聞のことか?1875年6月〜82年12月)を閲覧  したことがあるが、建国祭についてふれた記事はなかったです。 A−朝日新聞は紀元節・建国祭の記事を毎年載せていました。
Q3−建国祭を企画した内務官僚の動きは、個人としてか公人としてか? A−あくまで私人としてだけれど、内務省の中で話が出て、そこに赤尾らが押し掛けた のだろう。
Q4−神社本庁、寺院、教会の参加状況は? A−建国祭についていえば、神社が参加。仏教徒も行列に参加している。ただし団体と して参加したわけではない。キリスト教の学校が参加した事例があるが、教団として どうだったのか不明。
  報告1時間半、質疑応答・討論50分。とくに近年の建国記念行事について、資料収集と研究の必要性及び重要性が強調されました。報告者が若手研究者に今後の研究を継いでほしい旨、再三にわたって述べられたことが強く印象に残りました。司会は二宮一郎。

3月例会報告 作田 孝子さん(女性史研究家)「戦前期大阪における紡績産業の分析−泉南三紡績の争議について」

3月例会の写真

 8日(土)教育会館にて、作田氏による表題の報告が行われた。報告者は、大阪の女性史を研究し、府庁を定年退職後、現在は再任用職員として勤務しながら和大大学院修士課程論文としてまとめたものが今回の報告のもととなっている。主な内容は、大正期における泉南三紡績の争議である。三紡績とは、岸和田紡績、寺田紡績、和泉紡績である。

 慢性的不況の時代と泉南三紡績の争議
 第一次大戦以後1914〜1920年の日本は好景気で紡績業も繁栄した。大戦が終わって1920〜1925年は慢性的不況となり、1925〜1931年には昭和恐慌が到来する。米騒動が起こった1918(大正7)年ころは労働者の生活苦が高まり、各地で労働争議がさかんに起こった。賃上げ、労働条件の改善を求めて各産業、企業でストライキがひんぱんに行われていた。
 1923(大正12)年11月、泉州の寺田、和泉、岸和田の三紡績で男女工約8000人が参加するストライキが行われた。
 寺田紡績(旧・泉南郡麻生郷村字津田《現在の貝塚市》)で始まった賃金二割増、解雇手当、労働条件改善などを要求するストライキは、ただちに和泉紡績(旧・泉南郡北掃部村字春木《現在の岸和田市春木》)や泉南最大の岸和田紡績(のちのユニチカ、旧・泉南郡岸和田町、泉南郡北掃部村春木《現在の岸和田市》、堺市戎島に工場)にも波及した。労働者は17日間のストライキを貫徹した。このような争議は岸和田周辺では空前絶後のことであった。
中心となった岸和田紡績は寺田甚余茂が創立した寺田財閥の経営であり、堅実な経営で知られる泉南最大の紡績企業であった。

 悲惨な「女工」の生活、低賃金、長時間労働、劣悪極まる労働条件
 報告者は当時岸和田紡績で働いていた女性に聞き取りをしている。
  争議が起こる背景となった紡績女工の生活は悲惨なものであった。報告者の友人の祖母の場合(Aさん、S47聞き取り)、労働時間は12時間労働で、朝6時から夕方6時まで(昼間勤務)の12時間、夕方6時から翌朝6時まで(夜間勤務)の12時間の二交代制であった。一般女工には休憩はほとんどなかった。食事は交代まで食べられず、夜間勤務の場合食事する暇はなかった。あるいは機械を止めながら食べたりした。昼間勤務の 人でクジをひいて夜間の交代勤務を決めた。36時間連続勤務という場合もあった。このような状態に警察官でさえも「人道上捨て置けない」と言ったほどだ。休日は月2回であった。別の女性(Bさん)の場合、母や兄といっしょに12歳から働き、労働条件は上記と同じようだが、12歳未満のころは深夜警察が来たら浜へ逃げたという体験をしている。7日間徹夜の勤務をした場合、一人平均170匁体重が減量したという。工場内は綿ぼこりが充満し「一尺先が見えない」状態であった。髪の毛が真っ白になり、汗まみれの状態で呼吸器の疾病、結核患者が多かったという。勤続年数は短く、「女工」労働者は使い捨てにされていた。勤続1〜3年未満が33.5%で、家計補助的な賃金で雇える若年労働者が多かった。
  繊維労働者の賃金は全労働者の平均を下回っていた。米一升が12〜3銭の時代で、賃金は月1〜2回の支払い、日本人の男工が1円39銭、女工が1円3銭、朝鮮人の男工が90銭、女工が95銭が平均であった。病院費用や入浴料、寝具など日常の経費も労働者の負担部分が大きかった。寄宿舎にいた労働者は会社が強制的に実家に送金させていた。女工たちは休日には映画館に行ったり、雑誌や古本(5銭ほど)を買ったりしてすごした。 岸和田紡績の20%が朝鮮人労働者で賃金など日本人より差別されていた。昭和2年の統計では岸和田在住の朝鮮人2308人中1389人が紡績労働者であった。争議には朝鮮人労働者も立ち上がった。

 泉南、岸和田を揺るがした大争議
 当時の紡績労働者特に「女工」と呼ばれた女性労働者の境遇は「悲惨という言葉でも言い表せない」(関西労働同盟会)ほどの状況であった。
 1923(大正12)年11月26日に寺田紡績(貝塚市)では、労働者約300名が「2割以上の賃上げ、解雇手当の支払い、病気手当の支給、浴場の設置、食堂の改善、男女別便所の設置、育児所の設置」を要求してストライキをはじめた。これに続いてとなりの和泉紡績でも「賃金2割増、食堂の改善、洗面所の改善」などの要求をかかげてストに入った。両工場の争議開始を受けて泉南最大の紡績会社、岸和田紡績にもたたかいが波及した。同社労働者は、「賃金3割増、夜業手当1割増、負傷手当支給、病気手当支給、食堂・休憩室・便所・洗面所改善、皆勤賞与支給、入浴料の無料」を要求してストライキに立ち上がった。三紡績の労働者のほとんどが共闘して約8000人により17日間のストライキが闘われた。その間、春木海岸で運動会を行ったり、街頭を労働者が行進(デモ)したり、市民に訴えることも行われた。周囲の市民やマスコミは立ち上がった紡績労働者に同情的で「争議は仕方がない」というような声や、会社の女工閉じ込め策に対して「人権蹂躙」という批判もあった。中には争議を見物に来る人もあった。
 争議の中心の組合は、寺田、岸和田紡績は岸和田合同労組、和泉紡績は大阪合同労組であり、それらの上部組織である労働総同盟からの応援、指導が行われた。この時期は総同盟が分裂する前であり、その時期最後の大争議であった。その頃、争議の指導に入った浅井富次郎氏は警察の監視、検束を逃れるために、屋台のおでん屋に紹介された旅館に泊めてもらったという。

 争議の終結、要求は勝ち取れなかったが組合組織は維持
 争議は、会社側の拒否の強硬姿勢、官憲の弾圧、争議団内部の意見対立などがあり、団結してたたかいをすすめることが困難となった。結局、総同盟が妥協することとなり、争議は敗北で終わることとなった。解決の結果は、見舞金の支給、食堂改善、入浴無料など福利施設条件の改善、帰国旅費支給などの内容にとどまった。敗北という結果であったが、不況下で、ここまで資本家を追い詰めた争議は希であった。そして組合の組織は維持できた。岸和田周辺では、それ以前も、以後もない労働者が立ち上がった巨大なたたかいであった。

往年の争議、オルグ経験者など旧知の人々が偶然集まり、もりあがった例会
 例会参加者は25名と盛況であった。泉南から阪本紡績労組の影響を受けて組合結成、争議をたたかった元女性労働者の人たちや、阪本紡績組合役員経験者、戦前泉州地方へオルグに入っていた木津力松氏と、ニチボウで活動していた一美夫人(旧姓平沢)、隔週定時制高校に勤務して「女工」労働者であった教え子と接した経験のある元高校教諭など多彩な顔ぶれが集まり、後半は体験談も交流されて報告をさらに補強する話題を提供することとなった。その話の中で、大正期の労働者の実態と変わらない状況、12時間労働や未成年女子の深夜労働などを隠蔽するようなことが、昭和30〜40年代でも泉州の一部の会社では行われていたことが報告され、唖然とした。また元組合役員であった人からは、現在の労組の活動の停滞状況が「はがゆい」との感想も語られた。

4月例会報告 田中 仁さん(大阪大学大学院教授)「今日の中国情勢とそのゆくえ」

4月例会の写真

 4月26日、大阪府教育会館で、大阪大学大学院教授の田中仁さんに、「今日の中国の情勢と行方」と題して報告していただきました。大阪民衆史研究会としては、現代中国について専門的に分析・解説していただくのに最適の講師を迎えることが出来ました。実現に尽力された関係者に感謝いたします。
  報告レジメによると、構成は次の四部に分けられます。
1.21世紀の中国 グローバル大国化する経済・社会の変容・格差の拡大
2.日本と中国 40年の軌跡
3.米中経済関係 4.21世紀の中国 2012年尖閣問題と反日デモ・問われる構想力
  第一部のグローバル大国化の経済に関する資料として、GDP(国内総生産)の実質成長率が2002年から2012年まで、インドを抜いて10%前後と高いこと。コンテナ取引量が2008年現在、世界の港湾10都市のうち上海をはじめ実に8か所を占めるに至っていることなど・・・図表を駆使してわかりやすく解説。また社会の変容の指標として、エンゲル係数が都市・農村ともに、2010年現在40%に低減。都市部の水道・ガスの普及が90%を超えていることなど・・・が挙げられました。
 報告者によると、これらのデータは光の部分で、影の部分としては、@都市・農村間の所得格差が改革開放政策の始まった1978年から2007年までに3.5倍と広がっている。Aセクター別所得の変化をみると、1998年に最も高かった外資系企業は、2006年には国家機関(月額4000元余)に大きく水をあけられて月額2000元にとどまっていること。このことを指して「国進民退」というそうです。B所得分配の不平等が進み、国家・社会管理者や経営者に富と権限が集中。現在の中国では「階級は存在しない」とされ、階層と表現されていること。C沿海地域が内陸や中間部に比べ富裕化して格差が拡大していることなど、が述べられました。
 日中関係の軌跡では、1978年の日中平和友好条約締結以降、ヒト・モノ・カネ・情報が拡大・深化。この背景には、改革開放の時代―80年代にケ小平が唱えた「先冨論」があり、こうした経済発展と貧富の格差が、国内的には大きな問題となっています。対外的には、ソ連邦を始めとするヨーロッパ社会主義国家群の消滅に対応して、中国の選択が全面的市場化・一党統治の堅持・ナショナリズムの強調となって現れてきています。
 第4部では、中国の経済・軍事大国化に伴い、矛盾が蓄積・経済化し、国家・社会関係の変容が生じていること。こうした社会的不満のはけ口として、「反日」傾向・行動が拡大・強化していきます。高度情報社会化がさらに拍車をかけています。最後にまとめとして、2012 年の尖閣問題と反日デモに対して、我々の構想力が問われていると、指摘されました。
 質疑応答の概略を、以下に列挙しておきます。
Q1−民族問題を考慮するなら、連邦制はどうなのか?
A−ソ連型の連邦制は考えられない。実現の余地があるとすれば、台湾との関係で統合を考 えた連邦制が考えられるだろう。
Q2−尖閣諸島問題を戦前の体制に回帰しようとする日本政府の動きとからめて、 中国は どう考えているのか?
A−日中戦争は中国にとって、侵略によって強いられた総力戦でした。90年代の反日論と中 国の抗日戦争論とを歴史的につき合わせて、その立ち位置を考察する必要があります。
Q3−私は18歳で終戦を迎えました。帰国した皇軍兵士が中国人をほめていました。 国内 でも華僑の方は苦労して日本人と協調していた。今は評価がちがっている。尖閣問題はそんなに重要な問題なのか? 日中の人民にとって、どっちでもいいことではないか?
A−中国の市民は、尖閣諸島を日本が実効支配していることを知らなかった。中国人船長の 拿捕・東京都知事の土地登記問題によって、知ることになった。あれから二年、中国の実 態に関する日本の報道が偏っている。その逆に中国の報道も偏っている。ともに一面的で 全体像をとらえていない。中国社会でも、日本の問題がそんなに大きくはない。イメージの偏りや日本が重要と思っていることが中国の多くの市民にとって重要でない。クールダウンして問題を整理すべきである。
Q4−日本人の中国イメージと中国人の日本イメージは、先生の言う通りです。留学生を見 ていて、日本に対して反日になるようには思えません。ここ20年ほどで中国は大きく変 わった。中国経済はまだ発展すると考えるが、政治改革はどうなっていくのか?
A−早稲田大学の唐亮氏が言っています。経済発展によって中国の一党統治を正当化してい るが、やがて民主化しなければならない。オプションはいろいろある。民族問題や台湾問 題など、どのように民主化するのか、推測が困難なところです。
Q5−中国の統治形態をみていると、歴代王朝の皇帝支配に似てきているように思います。 中国共産党の今後のあり方はどのようなものになると考えればいいのか?
A−毛沢東の権力は地域社会まで掌握したが、制度化しなかった。80年代になって近代的 国民国家として、それを制度化しようとした。しかし天安門事件(89年6月4 日)によっ て、それが流されてしまった。
Q6−最近、胡耀邦の評価が見直される動きがあるように、新聞報道されていたが?
A−天安門事件で失脚した趙紫陽は、政府内の共産党支配を排除するなど政権内部を改革し ようとしていた。民主化の旗頭だった胡耀邦は89年1月に亡くなっている。80年代の中 国政治動向が一番興味深い。当時はまだ社会主義が意味を持っていた。江沢民の影響力が 失われれば、胡耀邦の評価の見直しも可能となる。
Q7−民主化については、若手幹部の政治的影響力によると思うが?
A−中産階層がどれだけ成長するかによる。しかし、経済発展によって恩恵を得ている層は、 政府といい関係を維持したいので、民主化には積極的でない。
Q8−民主化の方向性がわからない。中国共産党の落としどころは?
A−むつかしいですね。呂さんいかがですか?
呂−今すぐに胡耀邦の再評価は困難だが、習近平の父習仲勲の伝記を購入させる動きがある。 胡耀邦と習仲勲との関係が深かったと思われるので、今後の動きに影響するかもしれない。
A−日本の問題については十分に調整されていない。歴史問題など中国の弱みになっている。
Q9−党や政府、国民など中国の政治を構成する要素の中に、市場経済で成長してきた「資 本」がある。これの実態、完全な私企業としての資本か、国家が強く関係する資本なのか、 よくわからないが、「資本」がどういう方向をめざすのか、民主化におよぼす影響は大き いと思うが。
A−「市場」が(政治、社会に)影響をおよぼす要素として重要。経済面からとらえる方法 として、そのような考え方がある。中国では欧米と異なり、国家が資本に強く関与してい る。土地問題についていえば、都市の土地は国有であって、農村で は共有となっている。 共産党の権力の強さを示している。2001年12月にWTO(世界 貿易機関)に加盟したこと によって、世界経済に組み入れられたが、独自性は維持されているのではないか。  環境問題についていえば、北京オリンピック(2008年)から問題化している。ただし、日 本も同様に有害物質を排出しているので、日本としても考えていかなければならない。福 島原発事故の問題などとくに、きっちりと対処していくべきである。
Q10−まとめの部分で、これからは構想力が大切だと痛感しました。
A−日中関係でいま大事なことは、「好き・嫌い、正しい・誤り」という狭い考えで対応する ことではなく、相手を理解して相互に「安定」を求めていかなくてはならない。
Q11−中国と日本の文化交流の歴史を尊重し、さらに増やしていけば両者の関係はよくなる。 日本政府は何をしているのか!歯がゆい思いです。
A−80年代以降、文化交流を同じ目線で出来るようになった。人の流れは大きくな ってき ている。この二年間で関係が悪いのは政府間だけである。学術交流や文化交 流は、実績 もあり分厚いものです。このことを確認して、今何ができるか考えるこ とが大切でしょ う。
 報告1時間20分、質疑応答・討論一時間。大いに議論がわき、大変有意義な例会となりました。

5月例会報告 木津 一美さん「『糸ぐるま』事件からレッドパージへ」

5月例会の写真

 「糸ぐるま事件」
 3月例会の作田さんの報告「戦前期大阪における紡績産業の分析−泉南三紡績の争議について」の続編・戦後版ともいうべき報告である。時代は戦後初期の頃、GHQのもとで日本の民主化がすすめられてゆく一方、産業界内部特に繊維業界では依然として戦前の前近代的な状態が変わらず、労働者は劣悪な待遇、労働条件下に置かれていた。
 日紡貝塚(大日本紡績株式会社貝塚工場)は、昭和9年に貝塚市に誘致され東洋一とうたわれた工場で従業員は最大時約3700名もいた。1947年、その工場で5名の労働者が解雇された。解雇の経過は、5名の労働者はいずれも日本共産党員であったが、会社の劣悪な労働条件を党のガリ版刷り機関紙「糸ぐるま」に書いて労働者に配布したことが、組合の統制を乱したとして組合が除名し、ユニオンショップ条項(労働協約で@雇用された労働者は必ず組合に加入しなければならないこと。A組合を脱退、除名の場合使用者は、その労働者を解雇しなければならないこと。を決めている事業所をユニオンショップという。後者の実施を取り決めている場合をクローズドショップという。)をたてに会社が解雇したのであった。
 「糸ぐるま」が報じた、女子労働者の戦前と変わらない前近代的で劣悪な労働条件と改善要求は以下の様なことであった。  (1)一女子労働者の自殺事件
 引き揚げ者出身の一女子労働者は船中で衣類を盗まれ、日紡で働かざるを得なくなり、その後腹膜炎を患い、「妊娠」のうわさをたてられたために貯水池に身を投げて自殺した。腹膜炎となった背景には会社の生産増強月間の労働強化にあると「糸ぐるま」は明らかにした。
 (2)貧カロリーの給食問題
 会社の給食は栄養士の計算では一日2029Kcalほどで摂取必要カロリーを大幅に下回る内容であった。労働者は不足分を補うために闇市の食料に頼らざるを得なかった。「糸ぐるま」は貧しい会社の給食の実態を公表し、会社が協約で約束した2400Kcalの食事を要求した。
 (3)生理部屋の実態
 生理休暇は、複雑でめんどうな手続きを経て、さらに「牡丹寮」という「生理部屋」に拘束された。2日間は外出禁止で、3回の点呼があり、15畳の狭い部屋に17〜18人が押し込められることもあった。貧しい食事と高温多湿の職場環境により生理障害が多発していた状況で、この問題は深刻であった。
 (4)電報握りつぶし事件
 労働者を採用する際に、会社と女子労働者の仲介をする「募集人」という前近代的な制度があり、多くは、その「募集人」の甘言にだまされて就職してきた。そのため彼女らは故郷に帰ると会社へ戻らない者も多かった。会社が「募集人」の承認を得ないと労働者を帰郷させないために、女子労働者は「父危篤」などのニセ電報を郷里から打たせて帰郷しようという苦肉の策を取らざるを得なかった。電報は多いときで一日20通〜30通も来ることがあった。会社側は、これらの電報を開封し労働者に渡さず、握りつぶそうとした。あるとき、会社が受けとった労働者への電報をゴミ箱に捨てているのが発見されたことがあって、そのことがわかった。
 「糸ぐるま」は、これらの会社側の不当な行いを勇気をもって暴露し、会社への改善要求を明らかにして全労働者にビラ配布して知らせたのである。会社と労働総同盟傘下の御用組合は、「糸ぐるま」と共産党の活動をおさえるために5名の解雇という手段に出たのであった。

   1947年当時の情勢と「糸ぐるま」の反響
 1947年は東西対立が次第に強まり、GHQの占領政策は民主化から日本を反共の方向へもってゆく逆コースが始まった頃である。3年後には朝鮮戦争が勃発することになる。日本では2・1ゼネストがGHQの圧力で中止され、総選挙では社会党が第1党となったが、社会党は日本共産党と絶縁するという条件で保守勢力の協力を得ようとし、この頃に「糸ぐるま」事件が起こった。民主化が表面的にすすめられる中で、繊維産業内部の前近代的な実態を暴露した「糸ぐるま」に対して、右翼的な労働総同盟はこの首切りを正当として正面から立ち向かってきたのである。総同盟日紡貝塚支部組合では元陸軍大尉や元憲兵、労務課員などが執行役員をしていた。会社は組合と一体で労働者に前近代的で劣悪な労働条件を強制していたのである。そして総同盟本部の右翼幹部を頼りにしていた。組合大会に総同盟本部のオルグが来て以後に、被除名労働者に暴行事件を起こしたこともあった。しかし、組合大会では、除名に反対する票が406票、労働者の2割が反対の意志を表明するという画期的な結果となった。産別会議は処分の撤回を求め、合同調査団が結成され、調査や宣伝が行われた。1948年3月地労委の裁定が出されたが、解雇撤回はできなかった。しかし、「糸ぐるま」が伝えた紡績産業の前近代的な実態は広く世間の知るところとなり、大きな反響を呼び、「女工哀史」を二度と繰り返させない世論がひろがったことはたたかいの重要な成果であった。

 「糸ぐるま」事件のたたかいを引き継ぐ
 木津さん(旧姓平沢)は、兵庫県明石市の出身で龍野市に疎開していたが、同市は終戦後社研サークル運動が盛んであった。学習会など、その影響を受けて戦後すぐに18歳で日本共産党に入党した。そして22歳で、「糸ぐるま」のたたかいを引き継ぐ目的をもって日紡貝塚に就職することになった。この頃はまだ就職するのに「募集人」の仲介を経ることが必要であった。女子労働者の95.8%が募集人の仲介であった。木津さんは長野県須坂の貧農の娘ということにして、「募集人」の仲介を経て同社に就職することができた。「募集人」制度は戦前から終戦後も続いており、GHQが廃止を勧告し、職安法 で禁止されていたが会社は総同盟の支援のもとで固執していた。募集人は女子労働者一人のあっせんにつき、120円もの手数料を得ていた。さらに、定着率がよければ歩合がついた。女子労働者は「募集人」の承認がなければやめることができなかった。「募集人」制度と寄宿舎制度は、日本紡績資本の前近代的な搾取率の高さを支える重要な制度であった。
  木津さんは、会社では人のいやがる仕事もすすんでやり、よい労働者となって女子労働者の信頼を得るようになった。彼女らとは、ふるさとの農村の貧しさのことや会社のいじめ、食事の不満、職制への不満など切実な要求・不満を語り合えるようになった。時代は朝鮮戦争のころ、朝鮮特需により1950年には綿紡績製品の輸出は世界一となり、10大企業で60億円の利益をあげていた。そのぶん、労働強化が行われ休日返上、休憩は交代制、生理休暇は25%カットという不当な条件を総同盟傘下の組合が受け入れた。労働者は急増し、かつて2600名ほどであったものが、この時期に3740名に増えた。寄宿舎は15畳定員が10名の所11名がつめこまれた。組合は特需のためやむをえないと受け入れた。
 このような事態に、木津さんは栄養士の石井さんとともに、1949年度の組合役員に立候補し、400票の支持を受けて当選した。そして、「糸ぐるま」を再刊することになった。通算13号で再刊した「糸ぐるま」は、「生理休暇を一ヶ月に一日は取れるようにしよう」など女子労働者の切実な要求をかかげ、ストックホルムアピールなど世界情勢も紹介するとともに詩や短歌、風刺マンガなども掲載し親しみやすい内容にした。内容はすべて木津さんが仕事を終えた後、貝塚駅前の医院を借りて、ガリを切り、謄写版の手刷りで作成した。寄宿舎にはいつも門限を越えて(0時半ころ)帰ることが多かった。ビラは3700名の全労働者に門前や職場を通じて配布された。労務が妨害したが、捨てる人はほとんどいなかった。中には郷里の家族に送っている人もいたという。

 レッドパージと「糸ぐるま」の停刊
 1950年6月6日、朝鮮戦争の直前(開戦は北朝鮮軍が6月25日攻撃開始)、GHQによる日本共産党中央委員24名の追放、「アカハタ」発行の停止が行われ、7月には官公庁や多くの職場で共産党員などが追放されるという、いわゆる「レッドパージ」が起こった。「糸ぐるま」も停刊となった。以後、「糸つなぎ」「綿の花」「スピンドル」など名前を変えて発刊したが、1950年10月繊維産業労働者11万7916名(20社)中、144名が解雇された。「業務上の都合」という理由でパージが行われた。日紡で公然と活動していた木津さんと石井さんは11月15日付で解雇され、最終的に労務課員、警官らが暴力的に排除しにきた。木津さんらは行李にしがみつきながら長い廊下を引きずられて追い出された。

時代を越えて私たちをはげます物語
 木津さんらが「糸ぐるま」事件のたたかいを引き継いだように、わたしたちも現在、木津さんの話を参考にできることはたくさんあると思った。昨今の情勢が時代を逆戻りするような緊迫した事態をむかえているので、なおさらその感を強くする。それと同時 に、労働組合や共産党の働く者の権利と民主主義を守る闘いの記録ではあるが、何かまるで、多くの仲間に支えられた一人の若い女性が正義と真実を求め、巨大な悪と大胆不敵にたたかった神話的な冒険譚のような壮大なドラマを感じさせてくれる話で、それゆえ後に続く者には大きな勇気を授けてくれる報告であったということを最後の感想としておきたい。

6月例会報告 元橋 利恵さん「母子健康手帳の経年比較分析−現代日本の子育て規範に関する一考察」

6月例会の写真

 「母子健康手帳の経年比較分析 ― 現代日本の子育て規範に関する一考察―」をテーマに元橋利恵氏(大学院生)が6月12日に報告を行った。
 元橋氏は、母親に対して育児責任を正当化し母親役割へと向かわせる現代の育児規範はどのようなものであるかと疑問を持ち、母子健康手帳を中心に研究をすすめている。母子健康手帳とは、妊娠中から出産時、乳幼児期(現在は6歳まで)を通じて利用できる記録の媒体である。

<近代的母親規範のゆらぎ>
 「母親は家庭で育児だけに専念することが理想的だ」とする「近代的母親規範」が形成されてくるのは、日本にサラリーマン家庭が登場する1910年代ごろと言われている。戦後高度成長の中で、性別役割分業を前提とし、女性の主婦化や子ども数の少なさを特徴に持つ「家族の戦後体制」が確立すると「近代的母親規範」は普遍化し、強化されていった。
 近代的母親規範は専業主婦を前提にしていたが、1990年代以降、共働き世帯の増加や少子化の問題が起こってくると、夫だけが働き、妻が専業主婦をするライフスタイルが当たり前でなくなってくる。
 少子化対策や男女共同参画の名で、女性も男性も育児と賃労働の両方に関わることが望ましいとされ、「女の子は大きくなって母親になって専業主婦になればいいんだよ」という意見は説得力を持たなくなってきている。
 一方で、一週間の家事関連時間の平均時間は男性が42分で女性が3時間35分と依然として差が大きく、特に35〜49歳の育児期にあたる女性の育児時間は、むしろ過去10年間で大幅に増加(総務庁統計局「社会生活基本調査」 2012年)している。
 つまり、現実には母親の育児責任は軽減されず、意識の面でも「夫は外で働き、妻は主婦業に専念」への賛成割合は微増の45%、「子どもが3歳くらいまでは、母親は仕事を持たず育児に専念したほうがよい」への賛成割合も85.9%に微増するなど(国立社会保障・人口問題研究所「第4回全国家庭動向調査」2008年)、母親の育児責任は増えている。

<育児関連メディア研究からみる現代の子育て規範>
 白書や答申、行政文書などの公的メディアにおいて、「望ましい母親像」は専業母から「仕事と家庭を両立させる母」へと変化している。しかし、行政文書は母親が日常的に目にするメディアではない。
 育児雑誌やテレビ、インターネットなど私的メディアにおいて、90年代ごろから育児雑誌 は手伝うだけの父親から、より育児に積極的な父親像を提示する。一方で、「実際には父親は全然やってくれない」などの愚痴を消化する場として機能しており、母親にとってのある種の理想像と、理想通りにならない現実への愚痴という二つの「共感」の場を提供している。
 三つ目の育児メディアとして、母子手帳が配られる時に一緒に配布される母子健康手帳副読本(以下、副読本)がある。80年代以前の副読本には、授乳をどのタイミングでするか、おむつをいつ外すか、いつまで添い寝するかなどは親の裁量となっていたのが、80年代以降は子どもがどう感じるかなど、子どもを主体にするように変化し、母親に対してより高度な育児を要求されるようになっている。

<母子健康手帳の成りたち>
 母子健康手帳は、1942年に国の人口政策の一環として創設された妊産婦手帳をはじまりとしている。国家総動員法が1938年に制定され、「健兵健民」の政策が推進される。妊産婦手帳の原型はナチス・ドイツで戦時中、産科病院で配布されていたムッターパス(MutterPass)といわれる「妊婦健康記録自己携行制度」を参考にした。
 現在、母子健康手帳の交付と受け取りは、その後の社会保障や医療へのアクセスにおいて重要な役割を担っている。

 母子健康手帳は1942年から2012年までに17回の改訂が行われ、うち全面的な改訂が行われた年を区分として9冊9種類が発行されてきた。この改訂について、
(1)育児者として誰を想定するか、またその呼称の変化
(2)期待する育児がどのように変わったか、質の変化
(3)所有者へのはたらきかけかた(知識伝達の形式)の変化(書き方や内容の構成の変化でどう伝えるか)  を軸に分析を行った。
 第1の転換期は1960年代半ばで、「母」が強調されるようになる。「育児の心得:よいお母さんであるために」(2002年改訂で削除)、「妊婦の職業と環境」、「保護者の記録」という項目が設定され、「母として」という名目のもと、心得や健康管理が説かれるという文脈が前面に出される。
 第2の転換期は1990年代半ばで、「母」役割の強調に代わって父親の育児参加が意識されだす内容になっている。「保護者の記録」欄に「母」とだけあった表記が「母・父」へ変化した。

<副読本>
 副読本でも「父親」が育児者としてクローズアップされていく。「母親」との区別がない、または双方を一緒にした「親」「ふたり」という表現に収斂していく。
 初版から1990年代は、一貫して育児の担い手は母親だけが想定されており父親は脇役である。「赤ちゃんが家庭の中心になると、あなたの関心はもっぱらそっちに向きがちです。でももう一人の、大きな坊やを忘れないでください、母の座にすわったのですが、妻の座を 忘れては困ります」と、そもそも男女が対等になっていなかった。

 1995年からは、「父親の育児参加」が前面になり、母親の補助ではあるが、子どもと直接的に関わる姿が入る。挿絵もミルクを飲ませる父親の絵に変化し、権威的な存在としてまとめるという父親像ではなくなっている。
 2001年からは、父親と母親の区別が抑えられ、「母・父」に代わり「親」や「ふたり」といった表現になる。目次では「父親の育児参加」の章がなくなり、「ふたりで子育て」という章に変化し、「ふたりで育てるという気持ちが大切」、「ふたりで育てていくという意識をもつことが必要」と、「ふたり」を強調した言説となっている。
 このように副読本における育児の担い手の概念は「お母さん」から「お母さん/お父さん」へ、そして「ふたり」「親」へというジェンダーによる区別のない中性的な表現に変化してきた。
 また副読本には母体と子どもの心身の情報を記録するページがあるが、年々、内容が豊富化している(「妊婦の記録」「出産の記録」「保護者の記録」)。親が子どもの年齢にふさわしい的確なケアをしているかどうか記録するようになっており、母親に対してかつてより高い育児の水準を要請するようになっていることが指摘されている。
 副読本における、「親」や「ふたり」といった呼称の中性化は、男女共同参画社会基本法(1999年)や父親の育児参加推奨などを反映したものであるが、実態をみるならば、依然として育児行為の大部分を遂行しているのは母親になっている。

<まとめ>
 母子健康手帳は、一面では育児をめぐる社会問題や科学の発展による新たな知見を反映し、それを育児者に伝達しつつ、他面では「手帳」という特性を備えることによってその所有者に「書き込ませ」、健診時の医師や助産師のチェックを通し、母子を管理するツールとなってきた。
 「持続的に書き込む」行為は、「家計簿」や「主婦日記」のように書き手の意識に規範を形成する働きをもつものであり、母子健康手帳は妊娠時から子が幼児期に至るまで、読ませ、書き込ませ、見せ、参照するという行為を通じて、所有者の身体に作用し、望ましい育児者主体を形成する教育装置であると位置づけられる。
 それに対し、今日の育児規範は育児者を中性化し抽象化することによって、母親が現実的におこなっている具体的で身体的なケアを二義的で後景的なものとしてしまう。そして、育児を担う者の表象から身体性が捨象されたことによって、本能や身体ではないよりどころとして母親の選択と意志が強調されてきたのではないかと考えられる。母子健康手帳は、母親に、選択と意志をもって育児の営みへと向かう育児者として自覚させるという役割を担っている。

 参加者からは「70年代の保育園設立運動の中では、主体的に子育てに参加している父親たちもいた」という発言や、「母子健康手帳には管理し、実際には母親が育児の多くを担っているのに男女が平等であるかのように覆い隠す部分があった。同時に主体的に子どものことを考えたいという人たちにとっても必要だったのではないだろうか。」という意見もあった。

7月例会報告 森田敏彦さん(本会会員)「犬と戦争−戦時下大阪にみる『軍犬報国』」

写真はありません

 馬から犬へ
 報告者は、かつて『戦争に征った馬たち』という軍馬についての著書を書き、本例会でも報告された。今回、軍犬をとりあげることとなった動機について、軍馬は地域が長野県のように限定され、犬であれば大阪でも飼っている人が多く、軍犬を供出して戦争に協力することが行われたであろう、それはどんなシステムで、どんな思いで行われたことかなど、を明らかにしたかったという。ちなみに、報告者は最近流行のペット愛好者では「ぜんぜんない」そうである。

  犬の能力と軍用犬の採用
 日本における軍用犬の本格的な利用は、満鉄の線路警備からはじまって満州事変を経て関東軍が採用を拡大したという。1932年3月6日の「朝日新聞日曜版の子供欄」に「科学の力の及ばぬ軍用犬の力」という特集が組まれている。
 「機械兵器の乱立する中で(第1次大戦で)犬が役立った。伝令兵の代わりに犬が連絡、濃霧や夜間、山地でも犬は1Kmを3分で走り、4〜8Kmを往復する。歩哨のかわりに150m前方の敵をかぎつけ、重機関銃2台を犬が運ぶ。負傷兵の救出も行う。6ヶ月で仕込むことができる。犬種はシエパード、エアデールテリア、ドーベルマンなどである」と犬の持つ軍用犬としての能力の高さを紹介している。

 日本軍の軍用犬の役割
 日本軍では上記の3種が用いられた。日本犬は人見知りをするので飼い主以外の言うことを聞かないとのことで、用いられなかったという。当初の任務は「伝令犬」としての役割であった。しかし、日中戦争が拡大し、軍の駐屯地や「利権」が拡大するに及んで、「警備犬」としての役割が重視されるようになった。頭数は、本土の5万頭、満州で育成されたものを含めて10万頭(陸海軍辞典では1万頭)で、軍馬の100万頭には及ばない。狙撃される犬が多く、犠牲も大きかった。民間から供出される場合は、ノボリと赤ダスキをつけ、出征兵士並みに町内会から送り出した。しかし、元の飼い主の所へもどった例はないという(馬は少数だがもどった例がある)。

 軍用犬を供出するシステム
 陸軍の後援する帝国軍用犬協会という組織があった(1932年発足)。総裁は皇族の久邇宮朝融である。協会の仕事は、犬籍登録、訓練と検査、競技会・展覧会実施、協会誌の発行、訓練士養成、繁殖などの事業であった。もっとも早い発足が大阪支部であった。 大阪は東京に次いで大きな支部で東京以上に活発な活動を行った。甲子園に300頭の犬を集めた展覧会は6〜7万人の観客を集めた。大阪府下を9つの小隊にわけ、小隊ごとに訓 練、競技会を行った。市内から河内長野までの競争、高跳び、遺失物の発見、敵を倒す訓練などが行われた。
 大阪では軍用犬の売買で金儲けをする人も多かった。シエパードは最高300円から45円まで、平均145円で軍に売られた。ドーベルマンは200円から120円ぐらいまで。協会の初代大阪支部長は大阪商工会議所会頭を務めた森平兵衛、二代目支部長は繊維会社「田村駒」の社長、田村駒治郎で野球チームの「松竹ロビンズ」オーナーでもあった。
  大阪では509名が軍犬の所有者として犬籍登録をし、その多くが中流以上の自営業や地主、会社役員、医者、弁護士などの職業の人であった。

 軍用犬の戦死、美談報道
 中津の鉄工所経営者、佐野儀太郎はオビネ号を献納し、戦場で「活躍」の末に「戦死」したことが美談として「毎日」に掲載された。さらに灰田勝彦の歌やラジオ放送にもとりあげられて話題となった。佐野は、その後子供のヨチ号を献納している。
 軍犬の戦場での「活躍」と「戦死」は「武勲」として報道され、それは特に子供に対して影響が大きかった。子供が、犬に負けないように自分も戦場に赴くような煽動が軍用犬美談を利用して行われた。
 大阪の津村別院では、軍用動物の慰霊祭も行われた。犬は100頭ほどが表彰された。犬のための慰霊碑は少なく、鳩・馬・犬をひっくるめた慰霊碑が建てられた。軍馬などに較べ、犬の慰霊碑が少ない理由は、犬の数が少なく、重要性が小さく、犬専門の部隊がなかったことなどによる。
 終戦間際には、軍用犬以外には食用肉として飼い犬を供出させる犬の献納運動も行われた。回覧板などで供出が呼びかけられたというが、抵抗した人々もいた(井上こみち『犬と猫が消えた』)。

 現在の軍用犬
 軍用犬は過去のことではなく、現在も米軍や自衛隊など世界の軍隊で使用されている。米軍は第2次大戦中は太平洋戦線で軍用犬を活発に利用したとされ、現在もテロ対策の作戦に軍用犬が利用され、ビンラデイン殺害作戦に使用されたという。自衛隊は警備犬として400頭の軍用犬を使用している。動物は現在ではペットなど、我々の準家族的な身近な存在である。また災害で活躍する救助犬など、動物の持つ人間を超えた能力や人間の心を癒やす不思議な力が認められている。軍用犬の役割は、そのような動物の能力をゆがんだかたちで利用するものであり、人間と動物の双方にとって大きな悲劇である。

総会記念講演(1) 竹田芳則さん(堺市立図書館、本会会員)明治憲法・帝国議会成立期の政治運動と「立憲政体改革之急務」

総会の写真

 『立憲政体改革之急務』の発見と現在までの経過
 島田邦二郎の書いた『立憲政体改革之急務』は1980年代の自由民権百年を記念する運動のなかで、偶然にも淡路島の島田家にて発見された。島田家は江戸時代阿波徳島藩領で寛政から寛文年間まで鳥井村(現・南あわじ市八木鳥井)の庄屋を勤めた。邦二郎の兄島田彦七は16代目の当主であり、本会会員の島田耕氏は、彦七のひ孫で19代目にあたる。
 「自由民権百年」の会報表紙に国会期成同盟発足の太融寺が掲載された号で、初めてこの資料が世に出たが、これは会報編集長の藤林伸治氏(故人)に同じ映画人仲間の島田 耕氏が資料を紹介したことがきっかけであった。その頃東京で学生(早大)だった竹田も藤林氏と、のちに島田氏と知り合うこととなった。1985年8月11日、大阪から向江強氏、原田久美子氏、萩原俊彦氏と竹田が淡路島に邦二郎の孫島田茂良氏、島田耕氏を訪ねた。さらに1990年8月7日、大阪民衆史研究会により、淡路島の民衆史を探るツアーが行われ、現地の新聞にも報道された。
 2年後、立命館大学の後藤靖氏(日本経済史)は邦二郎に関する論文を書き、史料集を準備していたが果たさぬまま亡くなられ、本研究会がその遺志を継いで大阪民衆史研究特集号として史料集の刊行をすることとなった次第である。
  邦二郎の履歴
 邦二郎は残されている履歴書によれば安政三(1856)年五月十三日、島田五郎の次男として誕生した。寺子屋や漢籍を学び、酒造業に従事し、1876年20歳で洲本師範学校に入学、のち神戸師範学校に合併されて神戸に移った。その後大阪で学んだ後、24歳で慶應義塾に入学した(科外生)。その後千葉県と大阪で英学の教員を務めた後、1886年疾病のため30歳で淡路に帰国、長男均平が誕生する。1887年、31歳で三大建白運動(注・条約改正問題、地租軽減問題、言論の自由問題の三つを要求として掲げる)に参加、1888大同団結運動(注・自由党の解党後、国会開設を前に反政府・民権諸派が大同団結をめざす運動)で中央に代表参加、1890年33歳の頃、三原郡選出の県会議員選挙があり自由党が左右に分裂し自由党左派から立候補したが落選し、これに関わって郡長排斥運動を行う。第一回総選挙が行われた後の1890〜91年に『立憲政体改革之急務』が書かれたのではないかと考えられている。晩年は均平宅に同居、洲本に暮らし、町長などを歴任し、1938年に没。洲本市の安覚寺に墓碑がある。
 「遅れてきた民権青年」と『立憲政体改革之急務』
 明治15年(1882)の、彦七から東京の邦二郎に宛てた手紙が残されている。邦二郎が慶應義塾にいたまま帰郷しないことについて質す内容である。「福沢先生は大学者、板垣退助は無学人」など人物への興味深い批評も書かれている。
 島田家の長男、家長としての責任、地域の民権家としての立場、弟の邦二郎の自由な学問生活へのうらやみと批判などが垣間見える。一方で、当時国会期成同盟が自由党に発展する過程で都市民権派が離脱し、立憲改進党が結成された。そういう都市知識人への批判が込められており、当時の自由党内の議論を反映した手紙である。
 1881年植木枝盛が淡路を遊説に訪れ、島田彦七とも会見している。そして翌年淡路自由党が結成された。邦二郎らは大同団結運動に参加、1895年に彦七が没した際には板垣退助 の弔電が残っている。その後、邦二郎は彦七の役割も含め、地方名望家、地域でのリーダーとしての役割をはたしてゆく。
 邦二郎はなぜ『立憲政体改革之急務』を書いたのか。邦二郎は「三大事件建白運動」に参加する頃から政治運動の表舞台に登場した。三十を超す年齢、植木枝盛と同年齢であった。1880年代前半の自由民権運動全盛期の中心メンバーになっていてよい年齢でもあった。しかし、民権運動高揚の頃に慶應義塾で学び、学問に専念していた。1880〜1881年にかけて全国で私擬憲法案が書かれている。憲法が地域でつくられる状況、そこへもう一度戻りたかったのではないか。『立憲政体改革之急務』は、交詢社(慶応関係者が作った)の私擬憲法案(後続の憲法案に大きな影響を与えた)に影響を受けて書かれていると思われる。 江村氏は交詢社の案をつくるときにも邦二郎が参加したのではないかと推測するが、竹田は、邦二郎が明治10年代の自由民権運動の経験をもとに、20年代に質の高い憲法構想を描いたことに着目している。

総会記念講演(2) 高島千代さん(関西学院大学教授、本会会員)

総会の写真

 条約改正問題と建白運動
 外務卿井上馨による条約改正案に対する政府内外からの批判が高まり、星亨らは条約改正案に関するボアソナードらの意見書(注・日本の裁判所に外国人の判事・検事を採用するなどの譲歩案に反対する意見書)をとりあげ、条約改正問題を争点化する建白運動を開始した。この運動は片岡健吉が地租軽減問題、言論の自由問題を加えた建白書を提出、三大事件建白運動となり、大同団結運動(注・自由党の解党後、国会開設を前に反政府・民権諸派が推進した大同団結のための運動)とつながり自由民権運動の新たな高まりをつくりだすものであった。
 一方、元老院(国会成立以前の立法機関)は条約改正問題や憲法起草にかかわり、政府内で批判的見解をもつ異分子的存在となっていた。民権派は元老院と関係を持ち連携しながら建白運動を展開していった。

 兵庫の民権家法貴発と淡路の動き
 明治20年代の政治情勢と兵庫、淡路の関係を示す資料は現在のところ少ないが、兵庫県丹波の民権家であった法貴発のうごきに当時の記録が残されており、淡路の動向も少し知ることができる。
 法貴発は自由党中央とも関係を持っていた。板垣退助の授爵問題(政府は伯爵授与で懐柔しようとした)では彼が相談にあずかった。大阪、神戸に出て土佐の人物と相談、八月に帰国して以後、条約改正問題が急展開した。星亨らによる暴露があり、10月に建白運動全体が盛り上がった。東京、大阪で三大事件建白運動がすすめられた。元老院の次官とも コンタクトを取り、意見の共通性があった。法貴発自身も大同団結運動の中心にあって、建白書を元老院に提出した。淡路の民権家が法貴発を訪ね、淡路の者も元老院へ行き、淡路の三大事件建白書が11月30日付で元老院へ提出されていることは事実である。(国立公文書館に佐野助作他受理、明治二十年の記録あり)元老院と民権派が連携しながら建白運動が行われているのである。

 保安条例による弾圧と大同団結運動
 三大事件建白運動は、地租問題、言論の自由問題、条約改正問題を掲げているが、旧民権派の人々にとって井上馨外務卿だけではなくて内閣全体の責任を問題にしており、総辞 職すべきである、と議論が展開されている。それは責任内閣論を追求する論となっている。 邦二郎もこういった議論の影響を受けたと考えられる。
 また淡路の邦二郎の建白書の中身は愛媛の建白書と類似している。建白運動は兵庫全体の運動や愛媛との関連も考えられる。法貴発の記録を見ると、淡路だけでなく兵庫県会の中で連合を図ろうとする動きが見える。その後保安条例が出され、建白運動は弾圧されてゆく。保安条例の下で建白運動の頓挫を見ながら、淡路では建白運動が続いていた。明治21年に淡路の廣田、鹿島らが三大事件建白を行っている。鹿島秀麿は改進党系の民権家である。
 その後、建白運動は大同団結運動に収斂してゆく。明治21年10月に大阪で大懇親会が開催され、兵庫から邦二郎、安倍誠五郎が参加、明治22〜23年にかけて大同団結運動が本格的に発展するが、明治憲法が発布されて以後方針をめぐって政社論、非政社論と意見の対立が生じ、邦二郎、佐野助作も巻き込まれてゆく。淡路の中でも分裂が起こり邦二郎はさまざまな公職につきながら対立にまきこまれてゆく。
 大同団結運動の主導権をにぎるために板垣退助は愛国公党を結成する。大阪で旧自由党系のグループ、東雲新聞社に板垣は愛国公党の拠点を置いた。大同団結運動は明治23年に立憲自由党に収束し、邦二郎、佐野らは大同クラブに参加、立憲自由党に参加してゆく。

  現在の憲法論に生きる『立憲政体改革之急務』
 淡路の自由民権運動は三大事件建白運動、大同団結運動、立憲自由党結成に密接にかかわっている。『立憲政体改革之急務』は明治23年12月から翌年に書かれたものとする江村説が正しい。その時期こそが諸運動を経て衆議院選挙に向けた運動が始まる時期で、そのころに国会をめざす立場で邦二郎自身が書いた自己の到達点が『立憲政体改革之急務』であると考えられる。三大建白運動・大同団結運動と関係し、国会が始まったら憲法をみなおすのだという「憲法見直しの運動」を邦二郎が意識して書いたものと考えられる
。  その内容の要点は、改良に適した政体としての立憲政体、徹底した「民権」に立った立憲政体論、人民の義務としての徳義論、政党・国会議員論である。世論は変化するものであり、それに対応したものが立憲政体であると考え、徹底した民権、国民の幸福追求の立場、議会への大権集中、国民一般に対する責任を持つ政治、一院制、地方自治を主張している。
   一方、立憲政体を支える人民がふさわしい徳義をもたなければならないとし、民主主義の主体としての人民にふさわしい教育の必要性を主張している。『立憲政体改革之急務』は自由民権運動のより質の高い到達点を示し、現在の憲法を考える上でも大きな遺産と考えられる。

9月例会報告 布川清司さん(神戸大学名誉教授)「近世百姓の生存意欲(『生存権』)−為政者と私たちの先祖との争い」

9月例会の写真

江戸時代の民衆と倫理
 報告者は「民衆倫理思想史」という独自の分野を研究されてきた。「倫理」という言葉は一般に堅苦しく受けとられがちであるが、それは「私たちのあるべき生き方」あるいは「人生観」ともいうべきことであり、誰もが持つ大切な考え方である。「(江戸時代の)民衆がそのようなものを持っているはずがない」という先入観が、研究者も含め、一般に見られる。
  江戸時代の人口、2800万〜3000万人の84%が農民(百姓)であり、私たちの先祖の多くは百姓であった。そのうち(土地所有が)五石未満の零細農家が摂河泉の八カ村平均で61.7%であった。このような百姓が、権力者の武士階級に服従し、歴史の形成に対し無力な存在であったという考え方があるが、江戸時代に百姓が生存の権利、自由、平等を求めて闘ったありさまは、明治以後の自由民権運動に見られる生存権、平等権、自由権などの権利要求の実体が、すでに江戸時代にあったことを示している。

幕末以前の百姓一揆
(1)仁政を行え−「為政者倫理」の逆用
 江戸時代は、各身分の責任はそれぞれの身分の者がはたすべきことで、武士がその責任をはたせないときは他の身分からの批判が行われた。武士には、民衆の生活を安定させるという「民生安定」の責任と為政者としてお触れ(法令)を出し、それを守る「正義の実践」の義務という「為政者倫理」があった。
 百姓一揆はこの「為政者倫理」の逆用を行うことで武士に抵抗した(承応元年《1652》の小浜、松木長操の一揆、承応元年《1652》佐倉宗吾の一揆など)。
(2)道理のない政治には従わない−「下層倫理」
 一方、「他の誰が何と言おうと、弱い立場にある者が自ら正しいと考えた人間のあり方」すなわち「下層倫理」の主張が有り、積極的な場合は、鎮圧側に対する激しい抵抗があり、百姓側から武士側に対して、「首をもらいたい」という攻撃的表現も見られる。消極的な主張には、「武士側の筋の通らない政治には百姓といえども従わない」という意見が表明されている(享保14年《1729》太宰春台『経済録』、天明7年《1787》『夢物語』など)。
(3)理性的に組織された一揆
 そして百姓一揆は、よく反射的で展望のない行動のように理解されることがあるが、そ うではなくて、よく考えられ準備された行動である。
(4)「天下の百姓」意識から「革命権」まで−百姓一揆の正当性への確信
 一揆の行動の正当性についても、@仁政の要求により、為政者の倫理の逆用がなされたこと、A民衆自らの価値の自覚にもとづく行動のあったことが見られる。それは、米の生産者として社会を支えているという自覚に基づく「天下の百姓とも何とするぞ」(安永2年《1773》飛騨百姓一揆)という表現、自らの行動の公的な性格を示す「一に、国中の為(国中の百姓のため)、二には君の御為」という表現や寛延2年(1749)に代官との論争で相手を論破した彦内騒動など主張の論理性に対する百姓側の自信が見られる。
 また、「革命権の思想」ともいうべき「民衆の道理の正当性」について、「一国乱を起こす事民の道にこれあり」(上田藩百姓一揆《宝暦11年》)、「仕置き(政治)が悪ば年貢はせぬぞ」(大聖寺藩一揆《正徳2年》)、「毛程も情のない殿様は取り替えたらんこそよかるべし」(相模国酒井村)などの表明が行われている。

 幕末維新期の百姓一揆
(1)年貢を否定する  戦後の歴史学では、「合法的な百姓一揆」の過小評価、「一揆後の社会変革の展望がない」ということなど、百姓一揆に対する評価が弱かった。しかし、特に幕末維新期の百姓一揆には、「年貢否定」の意識が見られる。明治元年(1868)の会津世直し一揆では「御年貢の儀、当一か年(もしくは三か年)は無年貢に仰せ付け下されたく、大小百姓共願い候」と「無年貢」の要求が出されている。
(2)為政者を頼まない自立意識  さらに慶応2年(1866)の福島世直し一揆では「世の中穏やかにつかまつりたく恐れながら天下太平、五穀成就を心願に」と為政者の言うべきことを百姓がなりかわって主張し、為政者を頼まない自立意識が芽生えている。明治元年には会津藩南蒲原郡、鹿峠長沢組下37か村が、日本農民史上画期的な四日間の民主的な自治を行っている。 
(3)政治的主体性  嘉永7年(1854)に、伊達郡金原田村の菅野八郎は海防策の駕籠訴(老中、奉行や藩主、家老の駕籠に直接すがって訴状を出すこと)で八丈島に流罪となり、同郡松沢村の氏家粂八は長州征伐にあたって「国内戦争の中止、外敵にあたれ」という手紙を自費で全国の大名に発送し、日本人の中に政治に対する直接的反対行動を起こす政治的主体性が起こってきていることを示している。
(4)武士に対する殺傷事件の発生と禁欲的規律の崩壊現象  一方で、それまで武士身分の者に対して危害を加えることの少なかった百姓一揆の中で、武士の殺傷事件が起こるようになった(慶応4年の福島城下など)、そして一揆の際の略奪行為などが起こり、禁欲的な規律の崩壊も見られるようになった。

 日本人の人権、民主主義意識の起源を求めて
 大阪民衆史研究会は淡路島の自由民権家島田邦二郎による帝国憲法批判の書「立憲政体改革之急務」に日本国憲法の原則のルーツとも言うべき思想を見いだし、史料集発行の準 備をすすめている。今回の布川先生の報告は、日本の人権・民主主義思想の起源をさらに江戸時代にさかのぼって追求している。先生は、そのさらに古い起源を求めて中世の土一揆も検討されたという。しかし、報告にあるように、今のところ江戸時代の百姓一揆などに具体的に人権、民主主義の思想の芽が見られるという内容であった。このことは、これまでの江戸時代の百姓一揆に対する評価に関わる問題を含み、日本の民主主義の発展史に重要な視点をもたらす見解と思われる。自由民権運動の時代、ミルやスペンサーなど西欧の民主主義を学んだ結社の運動家が演説会に行き、「人の上に人はなく 人の下にも人はなし」と語ると、会場は自分の名前さえ書けない村の人々でいっぱいになり、その話は「底辺民衆の魂の深部にふれるものがあった」(色川大吉『自由民権』)。民権家の翻訳された言葉が、なぜ村の人の心に響いたのか、その言葉を受け入れる素地となる思想が、布川先生の報告にあるように、すでに江戸時代の百姓一揆など武士に対する抵抗のたたかいからつくられてきていたためではないだろうか。
 例会では質疑意見交流で多くの意見が出され、活発な議論が行われた。そして、出席者から再度の報告のリクエストが出され、布川先生も快く承諾された。なお先生も研究会に加入していただくことになったことを報告しておきます。

10月例会報告 白石 博則さん「日本城郭史と和泉の城郭−特に和泉市域の中世城館について」

10月例会の写真

 城跡から戦国時代の社会を見る
 現在は第2次城郭ブームという。全国には中世(平安末期の11世紀から戦国時代の終わりの16世紀頃まで)の城館跡が4〜5万あるとされる。かつて村田修三が「城郭から歴史がわかる」として、20年前から各地の中世城郭の悉(しつ)皆(かい)調査(全数調査)が行われてきた。各地の城館はそれぞれ独自の特徴を持ち、その土地や人のありかたがわかる。
 白石氏は和歌山城郭調査研究会の中心メンバーとして、主に和歌山県および泉州の城郭調査に取り組んでいる。その成果は和歌山県立博物館の「手(て)取(どり)城(じよう)模型」の作成や和泉市史(新)における和泉市域の中世城館跡悉皆調査として公表されている。今回は、この調査にもとづき和泉市を核とした和泉国の城館のようすをあきらかにする。

 中世と近世の城郭のちがい
 近世の城郭を象徴するものが天守閣である。安土城以来、近世城郭は一度は天守閣をつくるが、戦争には不必要なものであり、領主の権威のシンボルであった。天守閣は焼失すれば、復元しない場合が多かった。例外的なものとして、和歌山城の天守閣がある。これは焼失したが、おそらくかっこうがつかないので莫大な費用をかけて再建された(*結局和歌山大空襲で再び焼失し、戦後コンクリートで再建された)。近世城郭は天守閣、石垣、その上の建物という全体が権威を示す目的で作られている。これに対して中世の城は、まったく実戦的である。その構造は、南北朝時代以後に必須の施設としてつくられるようになった曲(くる)輪(わ)(塀、土塁、堀などで囲われた城郭内の区画、郭とも。のちに丸と呼ばれる。)、堀、土塁などが重視され、建物は重視されなかった。瓦葺きの建物はほとんどない。

 城郭調査の方法
 調査の方法は、@城館関連の地名から類推して現地調査を行う。城山(シロヤマ、ジョウヤマなど)は城跡、堀(ホリ)、(ホリノハタ)は館跡、土井、土居(ドイ)は城館跡などを示す。A遺構が残っている場合は現地調査で縄張り図(城郭の平面構造の設計プラン)を作成する。B明治期の地図・地籍図などで旧地形を復元する。C発掘調査。などである。

  和泉市域の中世城館跡
 和泉市内には18箇所の城館跡がみられる。山城はなく、城館跡も小規模なものが多い。 これは和泉国全体の特徴である。主として槙(まき)尾(お)山(さん)、切坂城、宮里城の3箇所の城館跡についてくわしくふれられた。

 (1)槙尾山は、空海も滞在したという古刹であるが一山寺院で南北朝時代には南朝の拠点となり、城郭が築かれた。戦国時代は、天文12年に細川氏綱が拠り、巨大な一山寺院に寄生するかたちで臨時的な城郭がつくられた。このように寺に武家が入り、本堂より一段高い所に曲輪をつくる形式が見られる。山内には斜面に建物をせりだしてつくる「かけ造り」の坊院(ぼういん)(子院とも、国人領主や土豪が経営する小寺院)が多く、その石垣が城館の石垣と誤解されている場合がある。

 (2)切坂城は、泉大津から和泉府中を経て河内長野と紀州方面へむかう槇尾街道の分岐点、国分峠付近の要衝にある。標高154mにあり、東(河内)、南(紀伊)から侵攻する敵に対する城である。横山谷をおさえる玉井氏や根来衆が拠っている


 (3)宮里城は、北朝方の拠点として南朝方の槙尾山の勢力と戦った。旧国分村の地籍図には、「城山」「城ノ山」(じょうやま・じょうのやま)という小字名があるので、この付近が推定地であるが、表面調査では目立った遺構はない。

 (4)その他の城館跡  観音寺城は、弥生時代の高地性集落があったところで、南北朝期には北畠顕家が築城し、戦国時代には府中の防衛のために臨時的に丘陵城郭が置かれた。
 坂本城は、南北朝期の村が要害に囲まれているところが城となっていた。
 富秋館跡は、和泉総合高校の東北に隣接、地籍図から50m四方ほどの方形の居館が想定される。「ホリノウチ」の地名から土塁、水堀で囲まれた小さな平城と考えられるが、江戸時代に庄屋の家格をあげるために整備したことも考えられる。 土丸雨山城は橋本正督(まさたか)が拠って南朝方の拠点となった。泉佐野市にあり、二つの峰に中心を持つ和泉では例外的に大きい城である。

 まとめ、大きな城のない和泉国の城館の特徴
 (1)和泉国には城館を権力の表象とするような在地領主はほとんど存在しなかった。
 (2)一方、堺や府中、大津などの都市的場が機能し、手工業が発達した。
 (3)泉州南部では畠山氏や根来衆が河内へのルート上に大規模な山城を築いた。
  (4)天正期の織豊政権との争乱が激化し臨時的に城館が多数営まれるようになった。

11月例会報告 「森おくじの世界−ロシア民謡を日本に広めた人」

11月例会の写真

第T部
斉藤 亨さんのお話
 シベリア抑留とロシア民謡との出会い
 森おくじは北海道の岩内で漁師の家に生まれた。小学校を卒業して十六歳で国鉄に勤めた。少年時代から絵を描くこと、ハーモニカ、詩を書くことが得意であった。
 国鉄入社3年後に徴兵され、サハリン国境警備隊に所属したが、1945年8月ソ連が参戦、15日の終戦も知らされずに戦闘が行われ、捕虜となってシベリアに抑留された。零下50度にも達するきびしい寒さと過酷な強制労働で、そのため6万人が亡くなった。そのころ必死に生きようとする日本人の耳に響いてきたのは、収容所の外の農民たちの歌うロシア民謡であった。森は当時ロシア語はわからなかったが、いい歌だと思った。それが森おくじとロシア民謡の出会いであった。最初のころ聞いた曲「カリンカ」を五線譜に書き写し、日本語に訳した。現在、ダークダックスの歌で、キングレコードから発売されている曲の歌詞は、森の訳である。森おくじと仲間たちは収容所内で即席の楽団をつくり、食堂などで演奏すると強制労働で疲れ果てた捕虜仲間たちを元気づけることができた。音楽好きのロシア兵たちも喜んで、まわりに集まってきた。バイオリンやシンバルなど楽器は手作りであった。他の収容所へも慰問で出かけていった。そのうち各地の収容所でも同じような楽団が結成され、井上頼豊、黒柳守綱(黒柳徹子の父、のちにNHK交響楽団所属)などの活動が知られている。

 「音楽舞踊団カチューシャ」の結成
 森は4年後の1949年10月帰国、舞鶴港に到着した。11月には日比谷公会堂で「帰国感謝大演奏会」を行い、ロシア民謡、日本や朝鮮の民謡の合唱と踊りなどで好評を博し、翌年1月に第2回公演が行われ、全国から公演の依頼がきた。楽団の名前は、当初の「帰還者楽団カチューシャ」からソ連帰りのイメージのある「帰還者」をとり、「楽団カチューシャ」となり、さらに歌と踊りのアンサンブルという最先端のスタイルから「音楽舞踊団カチューシャ」となった。団のポリシーは内部の議論により「反戦平和と労働者・農民のたたかいを支援する」ものとし、のちにミュージカル形式の公演に発展していった。

 弾圧の時代
 1950年に朝鮮戦争が起こり、労組や反戦平和文化運動にもレッドパージなど占領軍・警察の弾圧の嵐が吹き荒れた。京都市長選挙で革新高山市長が誕生した際にもカチューシャの「文工隊」 が警察からねらわれた。大阪市立大学では警察が来て、中心となっていたカチューシャの団員と学生が逮捕されるという事件が起こった。北海道の美幌炭鉱では会社側が公演を妨害、やむなく炭鉱の入り口で公演を行うと労働者でいっぱいになるという結果で、弾圧には内容を工夫して対抗していった。

 うたごえ運動
 森の訳詞したロシア民謡は全国にひろがり、ボニージャックスがカチューシャの舞台に賛助公演もした。その代表曲「一週間」が流行し、NHKの紅白歌合戦でボニージャックスにより歌われた。NHKラジオのロシア語講座テキストに森がロシアの歌72曲を紹介した。新宿に、食堂に集まる学生たちがロシア民謡を歌うようすを見て経営者が、うたごえ喫茶「ともしび」を開設した。その後全国的にうたごえ喫茶、うたごえサークルがひろがった。常設のうたごえ喫茶は大阪の「ホットステンション」、東京の「ともしび」など。歌われる曲はロシア民謡が中心であったが日本や朝鮮の曲も歌われた。カチューシャは 33年目で解散し(公演4000回、観客動員450万人)、現在も「うたごえ」は続けられているが若い人は、うたごえと聞いても知らない人が多い。斉藤さんは、戦後から歌い継がれてきた曲も、これから受け継がれなければ消滅する、と言う。森が掛川市の竹友会に呼ばれて作曲した「桜木音頭」は、今は誰も知らないという。

 森ふみさんのお話
 女子高校生のカチューシャとの出会い
 ふみさんは高知の高校生で、社研部に所属していた。偶然、本研究会の尾川先生と同窓生で、二人は今回の例会で60年ぶりに再会したのである。高校3年生のとき、卒業生を送る会でカチューシャの公演があった。ロシアの歌と踊りの明るさに衝撃を受けた。カチューシャの公演の幕間に、即興で踊れと言われなんとか踊った。それが入団テストで合格した。卒業後まもなく鳥取の公演先に呼ばれた。ふみさんの父親は猛反対したが、社研部の先生らが説得に来てくれた。鳥取に旅立つ前に体育館で「送るゆうべ」をみんながしてくれた。高知の駅では赤旗が林立して、壮行会のように見送りの会が大勢の人の参加で行われた。鳥取の公演先にも父親がついてきた。そのころは、1955年ころで労音やうたごえが生まれ始めた頃であった。

 森おくじとの出会い
 森おくじとの出会いは、愛媛県の松山市であったうたごえ学校でのことである。作詞の分科会を担当していた森おくじをはじめて見た。そのころは「この人が森おくじか」という感じであった。その後結婚して、シベリア抑留時代のことを聞くことがあったが、ロシアの歌の文化に触れ、ロシアの大地から地鳴りのようにわいてくる歌、これを何とか日本の歌にできないかと、考えていたという。馬のしっぽを切ってきてバイオリンの弦を作ったりしたこともあったという。その後、本物の楽器の支給を当局に要請し認められた。森は絵も得意で収容所の所長に気に入られ、所長の家族の肖像画や、村の人の絵を描いたりして村人ともうちとけ、帰国するときには惜しまれて、「二十歳の娘に泣かれたよ」という経験も語っていたという。

 公演活動はきびしい労働
 カチューシャは労組や学校、労音などの公演で全国を巡演し、地域の要求課題を事前に調査し、その土地の課題とむすびつけた公演内容を行い、好評を博した。地方の僻地の学校公演などは、早朝駅に楽器や小道具が大量に到着したのを舞台となる学校に運び、教室の教壇をすべて体育館に集めて即席の舞台をつくった。公演前夜には前夜祭を行い、実行委員会の人の家に泊めてもらうのだが、まっくらな山道を登って夜中に泊めてもらう家に着くようなこともあった。一日三回の公演は過酷な労働であった。  朝鮮戦争のころには弾圧があり、公演の拒否やポスターはがしなどの妨害、北海道では北炭労の要請で北海道の炭鉱すべてをまわったが、妨害があり野外公演で、サーチライトを照明に借りて公演を成功させたこともあった。ふみさんは、カチューシャがミュージカル公演をはじめる前に退団したが、まだおなかに子どもがいる頃、舞台で山の上からカマを持って飛び降りるシーンでは流産を覚悟して飛び降りたという。

 音楽の力
 森おくじがロシア民謡と出会ったのは、収容所の外のロシアの農民たちが日常的に歌っている民謡が聞こえてきて、彼らの心に衝撃とも言える感動を呼び起こした瞬間であった。それはまったく偶然の出会いであった。「ロシアの大地から地鳴りのようにわいてくる歌」(森ふみさん)と表現されている。その感動を森おくじは日本人に伝えたいと純粋に思ったに違いない。戦後の日本の民主化、労働運動などの高揚期に、曲の美しさと人々の民主主義を求める心、それと幻想であった「ソヴィエト社会主義」に「体現された」と思われた「理想」とが共鳴して、ロシア民謡は歌い継がれ、社会運動などと縁のない人々の間にも曲の持つ美しさを通じてひろがった。その後、「ソ連」は崩壊し、ロシア民謡も以前ほど歌われることが少なくなった。
 しかし今またロシア民謡が歌われつつあるとすれば、それは森おくじが収容所で最初に感じた「ロシアの大地から地鳴りのようにわいてくる歌」への感動に近いものがあるのではないだろうか。そして、この音楽の力は現在の日本に生きている私たちに、どんな癒やしや励ましをあたえているのだろう。

第U部 「森おくじとロシア民謡の夕べ」
出演  後藤 ミホコさん(アコーデイオン)
  U部は、午後6時半から松浦由美子さんの司会で開催された。世界的に活躍しているアコーデイオン演奏家後藤ミホコさんが「カリンカ」を力強く繊細なタッチで演奏をはじめると会場には一瞬ロシアの草原の風が吹いたようであった。森ふみさんのお話も交え、参加者もともにロシ ア民謡を合唱し、うたごえの世界となった。ふみさんはネッカチーフを巻いて、とても喜寿とは思えないようすで、音楽に合わせて踊り始めた。カチューシャの舞台が再現されたようであった。ラストで、舞台正面に、まるで仁王立ちになって後藤さんが弾くアコーデイオンから響いてきた 「黒い瞳」は圧巻であった。ロシアの大地を流れてくるジプシー音楽の影響をうけた哀愁のこもる旋律は、ユーラシア大陸の東の端にいて、古代から草原の文化の影響やさまざまな文化が入り交じって形成されたわたしたち日本人の遺伝子の中にある心のふるさとと共鳴しているのかもしれない。

12月例会報告 吉川忠司さん「野洲デルタの歴史的展開と国家起源の伊勢遺跡」

12月例会の写真

 古代湖びわ湖
 吉川さんはびわ湖の南東部を流れる野洲川のデルタ地域にある守山市の市会議員(日本共産党)を30年勤め、退職後びわ湖の歴史と環境問題の研究調査を続けてきた。
 びわ湖は世界でも希な古代湖として知られる。古代湖とは10万年以上存在して、 固有種の生物が存在する湖である。世界では9箇所の古代湖があるとされるが、そのうちでも特に固有種の生物を持っているのは、バイカル湖(ロシア)、タンガニーカ湖(アフリカ。タンザニア)、びわ湖、ガラリヤ湖(イスラエル)、チチカ湖(ペ ルー。ボリビア)、マラウイ湖(アフリカ。マラウイ)の6つという(他の3つはレ マン湖、ボーデン湖、洞庭湖)。びわ湖は、フィリピンプレートとユーラシアプレートが衝突する境界付近にあり、年間北へ30 mm拡大し、 1mm深くなつているという。1976年国土地理院の調査と2001年の滋賀県の調査を比較して、30 c m深くなっていた。
 びわ湖は伊賀上野付近に420万年前に出現して、その後北に移動し、40万年前に現在のびわ湖ができたらしい。びわ湖ナマズはびわ湖の出現以来生息し、進化を遂げてきたという。

 野洲デルタの歴史

  服部遺跡、水田稲作のはじまり
  びわ湖の東南を流れる野洲川のデルタ地域に160万年前から火山灰などの堆積がはじまり、200まmで砂の層があって豊富な地下水がある。服部遺跡では縄文時代晩期には焼き畑の稲作が行われており、その後北部九州から弥生時代前期(BC500年ころ)に水田稲作が伝来した。本格的な水田耕作を行うためには、大規模な人々の協同作業とリーダーの存在が必要である。弥生時代中期前葉(BC400年頃)には首長の存在がみられる。首長とその家族の方形周溝墓がつくられるようになり、彼らが装身具として使用した玉つくり製作は分業のはじまりを示す。金森東遺跡では近江土器がつくられ、北部九州から関東、朝鮮半島まで広い範囲で普及した。

 下之郷遺跡、巨大環濠集落と階級社会の発生
 BC200〜 AD60年、弥生時代中期に栄えた下之郷遺跡は集落の周りを二重の環濠で囲んだ環濠集落である。近畿全体で55箇所の環濠集落がみられ、下之郷遺跡は池上曽根遺跡(和泉市・泉大津市)と並ぶ代表的な遺跡である。「この時代の最大の特徴は、住民の結集形態が血の紐帯から、環濠集落で指揮を執る首長の下に変わったこと」(レジメから)で、階級社会への転換点とされる。下之郷遺跡の形成に必要な労働力は、17000人の延べ労働力とされ、30年ほどをかけて形成されたという。二重の環濠以外に、外側に七条の濠が掘り込ま れているのは大首長の威信表明ではないかとされる。

 伊勢遺跡、国家の起源
 伊勢遺跡はAD90〜 200年の頃栄え、 南北450m、東西700m、面積30万uの中に、 北部には100軒ほどの竪穴住居があり、また方形区画内に4棟の建物と楼観らしき建物がある。邪馬台国女王卑弥呼が共立された時期がAD185〜 190年頃とすると伊勢遺跡の晩期にあたる。大型建物7棟は220mの円周上にあり、その間隔は18mで、30棟あまりが建てられる可能性がある。この頃倭国は下之郷遺跡の頃の100余国から30国になっている時代である。報告者は、これらの建物群を政治協議に特化した区域と考え、「後漢書」東夷伝に記述されている倭の国王帥升(すいしょう)がこれらを建設したのではないかとされている。帥升は後漢の安帝の永初元年(107年)に後漢皇帝に生回(せいこう、奴隷)160人を 贈つたとされている人物である。

 心柱の意味
  上記の方形区画の中に見られる建物は計15本の柱のうち両妻側に独立棟持柱を持ち、中央に心柱を備えているのが特徴で、伊勢神官の神明造りと共通する。報告者は、心柱が以後も五重塔や城郭などに取り入れられていることに注目し、その意味について、建物の機能としては役割を果たしていないが、何か精神的なものを意味しているのではないかとの推側をされている。後の質疑でも、さまざまな意見が出て、今後検討すべき課題とされた。 びわ湖は日本列島の始まりの頃から人類が住み始めて以来、間断なく歴史が積み重ねられている場所である。吉川さんはそのはじまりから現在の環境問題まで、壮大なスケールでびわ湖の過去、現在、未来を追求している。そのひとつの成果が『古代湖の探訪と現琵琶湖の再生』となつて出版されている。今回の報告は、そのごく一部である。氏の論点については、さまざまな見解の違いもあるだろうが、氏の今後のよりいつそうの探求を期待する。

2013年例会報告

1月例会報告 松浦由美子さん「『労働雑誌』関西支局の果たした役割」

1月例会の写真

 木津報告を受けて20年ぶりに「労働雑誌」と岩間光男を語る  昨年の10月例会で木津力松さんが報告された「1931〜41年関西における日本共産党再建と統一戦線運動」の重要なテーマがコミンテルン第7回大会でデイミトロフが提起した「反ファッショ人民戦線」方針であった。スペインやフランス、中国などで反ファシズム人民戦線が形成されたが、日本では1935年に天皇制政府の弾圧で共産党組織が潰滅し、共産党再建も人民戦線方針の具体化も非常に困難な情勢の中、「労働雑誌」という合法的な活動が日本における人民戦線方針のひとつの芽として具体化されていた。松浦さんは30年前から、「労働雑誌」とその関西支局の岩間光男という人物の調査を行い、本例会(1993年於太融寺)でも報告された。木津さんが喜寿をむかえて、なお意気軒昂として研究調査をされている姿と太融寺での松浦報告を知る人があまりいないことに気がつき、その後の調査を含め20年ぶりに「労働雑誌」の報告をしようと思った、と語っている。松浦さんの熱意に応えるように、例会の参加者も22名という総会を除いて過去最高の盛況となった。

「労働雑誌」と関西支局
 30余年前、「港区私たちと戦争展」の事務局で展示企画に関わっていた松浦さんは、不発弾の跡など大阪空襲の被害の痕跡を残す港区の一岡ビルの調査をはじめた。そして、このビルには、戦前川上貫一を支局長として反ファッショ統一戦線を標榜する「労働雑誌」関西支局があったこと、そしてそこで活動していた岩間光男という人物を知ることになる。この偶然の出会いから、その後30年余にわたる松浦さんの調査がはじまった。
 一岡ビルは1933(昭和8)年に建てられた当時最先端をゆくモダンなビルであった。戦争と空襲を生き延びたが、遂に解体されるときに松浦さんは入居者名簿を発見、そこに岩間光男の名前を見つけた時「やっぱり、あった」と松浦さんは息が止まるぐらい驚いたという。
 「労働雑誌」は1935(昭和10)年に創刊された。同年1月東京四谷で「労働雑誌社」が発足し、2月東京新宿の喫茶店「白十字」に秋田雨雀、加藤勘十、小岩井浄、中条百合子らが集まって「労働雑誌」発表懇談会が開かれ、4月に創刊号が3000部印刷された。1936年には発行部数が6000部を超えた。しかし12月には「労働雑誌」メンバーが検挙されて雑誌は廃刊された。  「労働雑誌」関西支局は1936年1月に一岡ビルに開設され、川上寛一が支局長、岩間光男が支局員(書記)として活動をはじめた。「労働雑誌」は、「グラビア安治川河畔工業風景」「大阪市バス外套獲得闘争記」など経済社会情勢や労働運動などと並んで小説 「近藤勇」など娯楽的な要素も多分に交えて編集された大衆的な特徴も備えた雑誌であった。松浦さんは当時の執筆者の一人で小説を書いたことがある松田解子さんに聞き取 りをしている。発刊に当たっての目的として「『大衆の知識と娯楽』に徹し、一つの立場を特に主張したり、指導理論を与えたりはしない。労働者や農民に密着した総合雑誌を目指し、統一戦線を志向した」とある。「労働雑誌」と関西支局はそのような反ファシズム人民戦線のひとつの具体的な活動として、当時の日本の軍国主義ファシズムの社会の中で数少ない合法的な活動を展開し、発行部数6000部、バンクーバーなど海外にも読者がいるというほどの拡がりをつくりだしていたのである。その関西支局の中心に岩間光男がいた。

 日本の人民戦線追求と岩間光男の活動
 岩間は17歳(戸籍上、実際は19歳)の時、1929年4月16日の共産党弾圧事件で検挙され1934年に刑期を終えて出獄する。この頃中野信夫のいる東成無産者診療所2階で釈放された川上貫一を囲む「資本論学習会」に参加している。
 1936年1月、岩間は関西支局開設のために一岡ビルに入居した。支局開設には小岩井浄も活動している。一岡ビルは大阪港の真ん中、夕凪橋の近くにあり日本の一大出征基地である一方、反ファシズムの運動側からは世界に向かって開かれている発信拠点でもあった。「労働雑誌」の読者欄にはカナダ・バンクーバーのキャンプミル労働組合の梅月高市の加藤勘十歓迎の通信がのっている。3月にはアメリカ共産党員のカール・G・ヨネダから野坂・山本連名の「日本の共産主義者への手紙」がエスペランテイストの宝木武則宅に郵送されてくる。
 支局独自の活動として岩間が発行責任者としてガリ版刷りの「支局ニュース」を発行しており、「近畿はもちろんのこと中国・四国・九州の各地に配布ポストが自主的に設置されている」「留守がちなので、電話をかけてから来てほしい」など忙しい活動の様子が記されている。
 1936年はフランス人民戦線内閣が成立した年であるが、7月に労働雑誌社から「フランスのファッショと人民戦線」のパンフレットが2000部発行されている。8月には「労働雑誌」第2巻第8号に「日本人民戦線は果たしてできるか」との出題がなされ、これに対して全農大阪府連や大阪市電従業員組合などの個人から回答が寄せられている。同月大阪団協の呼びかけで近畿の無産団体の無産政治戦線統一促進懇談会が天王寺区役所の楼上に150余の参加で行われ、労働雑誌社主催で関西の労組幹部による「退職金積立金法と労働者」のテーマで座談会がもたれており、戦前のような暗黒時代の中でも人民戦線方針が多数の人に積極的に受け止められ、現在でも行われている要求を基礎とした共同行動も提起されていることがわかる。10月には労働戦線において全日本労働総同盟大阪連合会と全国労働組合同盟大阪連合会が合同し、全日本労働総同盟大阪連合会が発足し、組合員2万7406名を結集している。 11月には発行部数が6000部を超えている。

 いっせい検挙と関西支局の閉鎖、インパールへ
 1936年12月5日川上貫一、長壁民之助ら「日本共産党再建、人民戦線グループ」関 係者約240人が検挙され、「労働雑誌」は廃刊、関西支局は閉鎖となり、岩間は一岡ビル を退去したのち検挙される。
 1937年7月に日中戦争がはじまり、1938年に国家総動員法が公布され日本全体が戦争 動員の体制となる。1941年12月8日太平洋戦争がはじまり、1942年三重県の歩兵第151連隊留守部隊に入隊し、その後中支を経て1944年祭(まつり)第15師団歩兵51連隊に入り、ビルマ戦線に投入されインパール作戦に参加した。岩間は陸軍伍長として、5月11日インド・アッサム州パレル二子山(日本軍が命名した山)で戦死した。享年33歳。終生独身であった。

 希望の芽
 川上や岩間の活動は戦争とファシズムの暴風の中で民主主義と平和の小さな芽が必死で抗って育とうとしている姿に見える。それは松浦さんがまとめた「闇の中の光たち」のタイトルのように、暗黒の中に光る一筋の希望の灯りであった。松浦さんは、深い情熱とすぐれた感性で、この忘れ去られそうになっていた小さな芽をすくいあげ歴史の光をあてて私たちの前に示してくれた。この芽を復活させ、現在に嵐に負けない大きな木を育てることが、戦争とファシズムの後に生きている私たちの課題であると思う。1930年代と相似的な様相を見せ、また嵐の予感を感じさせる現在の社会状況の中で、なおさら強くそのことを思う。

2月例会報告 小林義孝さん「小島勝治・1936年・布施−都市なりたちの民俗学」

2月例会の写真

 「定点(地域)から普遍的世界」への探求
 小林さんは堺・和泉を舞台に民俗学・民具学研究に大きな足跡を残した小谷方明の民俗学について「家と地域を軸にして民俗学と民具学が形成されている」と、その地域にしっかりと立ってゆるがない姿勢を評価している。同じく北河内地域を調査して縄文土器研究の基礎をつくった片山長三についても「地域から日本国家や地球の行く末を見据えた」学問であるとしている。小林さんは、このような研究姿勢を「定点(地域)から普遍的世界」をとらえたものとし、そのような研究と研究者に注目してきた。
 大阪で民俗学の草創期に、統計学という1930年代当時は斬新な手法で布施の農村が都市に変貌してゆく様をとらえようとした小島勝治もそのひとりである。

 1936年頃草創期の大阪民俗学会と小島勝治
 小島は1914(大正3)年に鍛冶屋を営む家に生まれ、大阪市内から布施に転居した。実家を通して職人の世界にふれていたことが後の小島の民俗学に大きな影響を与えた。天王寺師範学校を中退後、浪花中学を経て神宮皇學館を卒業し一時神主となった。この頃、民俗学に興味を持ち、1935年に「土と史」(のちに「土」)という個人誌を発刊、大阪や河内の民俗事象を報告している。1935年に布施町役場の職員となり、統計課に配属された。当時布施町から布施市に移行するための準備作業で資料作成が行われていて、これが小島が統計学とめぐりあい習熟する機会となった。
 小島は1942年に応召され1949年、中国湖南省において30歳で戦病死するまでの短い生涯で、400編近い論文などを発表している。著作集は1970〜80年代に全5冊2000頁にまとめられている。
  柳田国男の影響下、大阪民俗談話会が結成、1936年に近畿民俗学会となり、小島も設立に参加した。事務局には小谷方明、宮本常一がいた。この頃から民俗学研究での小島の活動は活発となり、講演「職人習俗の最終について」、「河内の職人調査」(『大阪毎日』)、「統計と世相の学」(『浪華の鏡』)、「職人の町と農業ー統計上より見たる布施町の農業ー」(『浪華の鏡』)、「傍示村のてつたい」(『旅と伝説』)、「床屋のてみせー大阪府中河地郡岩田の事例」(『旅と伝説』)など業績は爆発的にふえている。

  統計学と民俗学
 小島は統計学の手法を民俗学に取り入れた。『日本統計学文化史序説』(1975)『統計文化論集』(81〜85)は、統計学史の論文であり、この分野では高く評価されていた。一方、『論集』には「統計学と民俗学」など民俗学に関する作品も収められていたが、統計学の分野ほど注目されず、小島は民俗学の世界では「ほとんど忘れ去られた存在であった」。
 当時、拡大する都市「大阪」の周辺であった布施の都市化がすすんでいた。布施の農村から次第に水田が消えてゆき、都市化がすすんでゆく様子を統計的手法で描いた。このような方法に違和感を持つ近畿民俗学会では反論が出されたという。今日では常識的となった統計学の利用は、当時の柳田民俗学研究者にはなじめなかったのである。しかし小島は統計学の立場で考察しながらも、若者の風俗の流行、気質の変化など民俗学的な視点をも持ち続けた。

  「職人」と都市なりたちの民俗学
 報告者は小島の「変化を追いかける」という特質に注目する。たとえば宮座の研究では、その構造をあきらかにするだけではなく、宮座がつぶれてゆく変遷過程を追跡し、動態的な分析をしている。
 小島は、柳田国男にはじまる日本民俗学の「村の原理」を解明しようとする方向に対して、「近代の村が時代の流れの中でどのように変化したか」をとらえようとした。「『職人の町』と農業」では、大阪近郊の農村であった布施が、農村から都市に変貌する姿を追いかけ、その過程で「職人の町」という過渡的な段階を設定し、「純農村の自給自足の生活から進んで互いに他に依存する生活に移る初期の形態」としている。都市を生み出すものとしての「職人」は、たとえば農村の「てつたい」(手伝い)がそのはじまりであるという。「傍示村の神とてつたい」では農繁期に日雇い人(てつたい)として村外の者が働き、農村において「職人」が生まれる契機となる。小島は農業を専業に営む以外のものを広く「職人」とし、村が自給自足段階を脱して外部労働力を導入し、消費生活がはじまり、さらに村内の若者を労働力として都市に放出する過程を描き、村から都市への変化を描こうとしている。「職人」は、その過程に介在する重要な概念である。
小島は、専業以外に冠婚葬祭など種々の機能を果たす「床屋」(「床屋のてみせ」)、肥取りで村と町をむすぶ「ほりや」、人足労働に携わる「あんこう」などさまざまの「職人」を描いている。

 地域に寄り添う民俗学
 小林さんは、小島が一般に「都市民俗学」のはじまりと評価されることがあるが、それは小島を「型にはめてしまう」ことで大事なことをそぎ落としてしまうのではないか、と危惧する。小島は、布施に生活し自分の原体験である「職人」の世界を頭において、この土地に寄り添うように統計的手法をベースに都市化のようすをとらえたのである。そのことこそが大切なのであると、小林さんは強調する。それは、小谷や片山が地域に足をふまえて普遍的世界を描いたことと共通する世界である。地域に、人に寄り添う民俗学、歴史学は、大阪民衆史研究会のめざすところでもある。

3月例会報告 赤塚康雄さん(会員・元天理大学教授)「第2次世界大戦後大阪における戦争孤児の生活と教育」

3月例会の写真

 戦争孤児
 今回は、大阪民衆史研究67号に掲載した赤塚氏の論文(上)に関わって、その後編(68号掲載予定)部分も含めた内容にもとづく報告である。
 1948年に厚生省が調査した数え年1才から20才までの戦災孤児、引揚孤児、一般孤児、棄迷児は、全国で123、512人 、そのうち施設に収容された子どもは12、202人で約10%である。東京は5330人で1703人が収容、大阪は4431人で1413人が収容されている。戦災孤児の多い県は、広島、東京、大阪、愛知の順である。施設の収容率の高いところは東京と大阪で、ともに31%余である。報告者は、これらの孤児を一括して「戦争孤児」と呼ぶことを提唱する。孤児となった直接的な原因はちがうが、共通して戦争が子どもたちから親を家族をうばったことに違いないからである。

   プラットホームに残された子どもたち
 論文の中で特に胸をうつ場面がある。終戦となり学童疎開先から大阪にもどってきた子どもたちが、大阪駅プラットホームで引き取りに来た親と共に次々と家に帰って行く中で、空襲のために両親が亡くなって、最後まで引き取りに来る者がおらず、一人ぽつんとホームに残された子どもの情景である。子どもの底深い悲しみが伝わってくる。学童疎開が、一方で孤児を生み出した、と報告者が語る言葉は一見客観的で冷静なように思えるが、ホームに残された孤児にとって、その瞬間はいっそ空襲で両親と共に死んでいた方がよかったと思えるかもしれない。

 戦災孤児の保護と大阪市立郊外学園
 戦時下の戦災孤児対策は、「殉国の遺児矜持の保持」という言い方で、保護者がすすんで本土決戦に臨めるように、孤児にも「誇り」を持たせようとする軍国主義的な「配慮」であり、孤児に対する財政的な保障はなく養子縁組のあっせんをする程度のことであった。敗戦後に出された戦災孤児保護対策要綱(1945)も個人家庭への委託、養子縁組の斡旋などで、国家負担は削除され、「戦後の孤児対策は虚偽ではじまった」と言われた。
 1945年に文部省が戦災孤児の保護のために「戦災孤児等集団合宿教育所」を政策化し、大阪市では施設として郊外学園が活用されることになり、集団疎開先で発生した孤児を市立の郊外学園に収容、保護した。市立の郊外学園は六甲や淡路、泉大津の助松などにあり、もともと体の虚弱な児童 を、市内の大気汚染などを避けて自然環境のよい所に転地させるためにつくられた施設であった。いくつかの郊外学園などの施設中、柏原の長谷川学園(男子)と泉大津の助松郊外学園(女子)が戦災孤児収容の施設として改組されることになった。疎開先から大阪駅のホームに帰ってきて保護者が来なかった児童を、教員が直接助松(泉大津)と長谷川(柏原)の郊外学園に連れて行った。

 浮浪児と戦争孤児の取り締まり強化
 最初は市民も同情の目で見ていた戦争孤児たちも、町の浮浪児となって闇市などを闊歩するようになると、市民の目は次第に厳しいものになっていった。夏はパンツ一丁、腰にかんづめのカン、割り箸とハリガネという三種の神器を携えてタバコの吸い殻をひろい、冬はドンゴロスを体に巻く物盗りに最適の姿をして、靴磨きを生業とする彼らを見る市民の目は同情から侮蔑、怖れへと変わっていった。そして浮浪児の取り締まり、強制的な施設への収容が行われるようになった。1946年厚生省は「浮浪児その他の児童保護等の応急措置に関する件」の指示を出し、警察官や社会事業家等による町の巡回と停車場や公園などでの孤児の収容がはじまった。
 同年、「主要地方都市浮浪児保護要綱」が出され、常時発見、一斉発見、巡回発見の体制がとられ、犯罪防止と同列化されるようになった。巡回、保護の作業には府立女子大の学生もボランテイアで参加したが、収容の束縛をいやがる子どもたちは、野性的な直感で捕獲の手をすりぬけ、浮浪児の収容はなかなかむずかしかった。

 郊外学園での子どもたちの生活と教育
 浮浪児の収容で、郊外学園の保護児童の数は増加し、長谷川学園では1946年10月には152人となり、寮舎1棟を増築した。助松郊外学園は、現在の泉大津市小津中学校敷地にあったが、当時の学園の園長は「氏名や住所のことでも平気で嘘をつく、叱っても誉めても無表情、入所の夜から脱走する」「焼け出され、大人にだまされ、ボスに搾取され、闇市市場の盛況に幻惑され、社会道徳が全く地に堕ちたおかげの一時的現象」と彼らについて評価している。そして「童心を失った子供への(訓練主義や画一教育の)教育は砂上の楼閣」であり、自由主義的な生活体験にもとづく教育が有効として、自由研究やクラブ活動、生徒会活動などを通じて個性を伸ばす教育を重視する方向に転換してゆくのである。 

   梅田厚生館による孤児収容と民間施設への送致
 大空襲の後、旧大阪駅の小荷物受け渡し所であった所に戦時相談所ができ、手狭となって敗戦後、市民案内所となって孤児や罹災者、復員者、外地引揚者の相談を行った。その後1946年から付設一時保護所を設置、梅田厚生館となった。現在の大阪駅から阪急に向かうガード下付近で、孤児、浮浪者、病人、行路死亡人の収容を行うようになった。1948年の児童福祉法の全面実施後は、孤児は児童相談所に送られた。一時保護所では浮浪児らは一週間ほどの一時的な保護で、その後民間施設などへ送致された。
 博愛社は最も多数の孤児を収容したキリスト教系の施設で、最大時544人が収容されていた。空腹を我慢できずに、また放埒な生活に慣れていたので規律正しい生活をいやがって脱走する者もいた。厚生館ではトラックで各施設をまわって浮浪児を割り当て降ろしていくが、引き受け手がなく10人を厚生館へ連れて帰らなければならないときもあった。また地下鉄で他の施設に連れて行こうとした際、乗り合わせた乗客は子どもたちの姿と異臭に驚き、同席を拒む者もいたという。
 レジメの最後に掲載された写真は衝撃的であった。子どもたちが梅田厚生館から施設に送られてきた直後と、その3週間後の姿が映っている。直後はみんな肋骨が浮き出て骸骨のような胸をしている。3週間後は充分食事が取れたのか、みんなふっくらとしていて、たった3週間でこうも変わるのかという姿である。しかし、別の写真はもっと驚かされるものであった。動物園のオリのような鉄格子の中に閉じ込められた子どもたち、「狩りこみ」という浮浪児の強制収容で両腕を大人につかまれ、抵抗しながら連れて行かれる子ども、逃亡を防ぐためにハダカにされて収容されている姿からは、戦争の犠牲となり、なおかつ厳しい環境で生きぬかねばならなかった子どもたちの言い尽くせぬ悲しみと怒りが伝わってくる。

   現在につながる問題
 大人のはじめた戦争が何の罪もない子どもたちをまきこみ、家族を奪い戦争孤児とした。さらに追い打ちをかけるような市民の冷たい目と取り締まり、収容、拘束の対象にされてゆく子どもたちの姿は戦争のつくりだす限りない罪悪を示している。これらの子どもたちの中にはヤクザ、暴力団の世界に入ってゆく者たちも多くいたと思われる。
 質疑意見交流では、現在の社会と教育、子どもの置かれている状況との問題の類似点に言及する意見も出された。戦争孤児は戦争で家族を奪われたが、現在の子どもたちは主として社会的な原因により、親子の紐帯、社会との紐帯が希薄となり、正常な生育環境を奪われている。そこから子どもをとりまく様々な問題、虐待、非行、犯罪事件、教育現場の荒廃(体罰を含め)などが社会全体をおおう巨大な規模で起こり、その裾野には精神不安定な子ども、大人が増えている。赤塚氏の研究は戦中戦後史のあまり光をあてられなかった問題を発掘すると同時に、この問題を通して現在を見る重要な視角をも提供していると思われる。

4月例会報告 本庄 豊さん(立命館中学・高校・大学)「上海の内山書店繁盛記―日中友好の架け橋、内山完造・美貴とその時代」

4月例会の写真

 4月17日、大阪府教育会館で、立命館中学・高校・大学で教鞭をとられている本庄豊さん(京都歴史教育者協議会副会長)に、「上海の内山書店繁盛記―日中友好の架け橋、内山完造・美貴とその時代」と題して報告していただきました。
 はじめに、自ら社会運動史研究を志すに至った経緯にふれて、高校時代に愛読した住井すゑが社会運動史への目覚めだったこと、東京都立大学の塩田庄兵衛教授に師事せんと入学するも休講、ほどなく先生が立命館大学に異動したため、講義を受ける機会に恵まれなかった、などのエピソードを披露されました。大学卒業後、厚生労働省を経て京都府南部で教職に就き、憧れの塩田先生から指示を仰いで、山本宣治研究を始められました。ところが、先行研究の凄さに圧倒され、山本宣治周辺の研究に手を染めることになった次第。こうした「周辺に目を向け地元から資料を発掘する」という研究姿勢は、我々にとって大いに参考になります。
  信頼を得た人とのつながりから、宇治に住む井上浩さんを紹介され、その伯母井上美貴(内山完造の妻)にたどり着きます。多数の写真や資料を譲り受けて、一昨年末より上海内山書店についての研究を開始。二度にわたって上海に取材を挙行するという、熱の入れようです。『京都民報』には、昨年7月8日より「上海雁ヶ音茶館〜内山書店繁盛記」と銘打った記事を連載。最新号は、今年4月14日の第39回“魯迅臨終 最後の闘い”です。あと3ヵ月、第52回をもって完結の予定です。
  当日の資料として、新聞掲載記事のコピーを持参していただきました。いずれも大変面白く、貴重な情報に溢れています。“資料と現地調査を踏まえたノンフィクションとする。美貴の実家(井上浩さん)からいただいた写真データ(52枚)を中心に、毎回1〜2枚掲載する。写真を導入とし、親しみやすくわかりやすい記述にする。美貴を主人公とし、筆者が次第に内山書に内山書店と完造のことを理解していくという、演繹的な叙述”という手法をとられていて、関心を十分惹きつけるドキュメンタリーとなっています。
  報告の中で特に注目したのは、内山書店を始めたのは実務に長けた美貴さんで、夫の完造は接客や外での講演のため多忙で、二人は分業体制を執っていたという点です。従来の内山書店研究が内山完造や魯迅をはじめとする中国人知識人についてふれても、美貴について書かれていないなど、欠落した箇所に鮮明な光を当てたわけですから、このこと自体優れた研究実績になりえます。
 内山完造生家の近くに生まれたという岡山県出身の松田さんから、中学二年の時、地元中学校で完造の講演を聴いたという体験談が語られました。父親より“内山さんは毛沢東と直接電話で話ができる”と聞いたそうです。それに答えて本庄さんは、内山完造に関心を持ったきっかけは、小倉小学校での講演記録を目にしたことだと表明されました。
 また、膨大な蒐集資料や多大な研究記録をどのように整理・保管しているのかという質問が、山内さんから出されました。本庄さんは、地価の安い場所に倉庫を建て、そこに保管・整理して、当面利用する資料類を自宅の書斎に置いて使っているとのことでした。倉庫建築費用について、お聞きしましたが、明確な回答は避けられました。それにしても、羨ましい研究環境です。  内山夫妻を結びつけたのが京都教会(プロテスタント)という点で、上海のキリスト教関係者との関連性について、司会者から質問が出されました。多分に強いものがあったという回答でした。そのほか、多岐にわたる質問が出され、活況な議論が展開されました。

5月例会報告 中條健志さん(大阪市立大学都市文化研究センター・ドクター研究員)「フランスにおける『移民』の歴史化−国立移民歴史館設立をめぐる議論の分析」

5月例会の写真

 フランス国立移民歴史館が開設される
 2007年フランスのパリ郊外に「国立移民歴史館」が開設された。建物そのものは1931年の国際植民地博覧会の際に建てられ、1960年からアフリカ・オセアニア美術館として利用されていた施設である。いわばフランス帝国主義の面影を残している建物である。例会当日の参加者の中に歴史館を見学された方もおられ、建物外壁の模様の植民地的イメージについて印象を語っておられた。内部の展示はそれほど広い面積のあるものではなく、中には初期の移民の貧しい生活を再現した部屋もあるとのこと。
 フランスは多くの「移民」を抱えた国家である。この場合の「移民」とは、日本のブラジル移民など海外に移住した「移民」ではなくて、外国からフランス本土にやってきた「移民」である。フランスは人口6318万人(2006年)中外国人は364万人で5.8%、移民は513万人で8.1%を占めている。外国人とはフランス国籍を持たずフランスに居住する者、移民とは外国人として国外で生まれ、フランスに居住する者と定義する。移民は外国人として居続けることも、帰化することも可能である。
 中條さんは市大からの派遣プログラムなどを通じて、フランスにおける「移民」の調査研究を続けている。今回の報告の問題意識として、@フランスの「移民」とは何(誰)か?A国家が彼(彼女)らの歴史を語るとはどういうことか?の2点をあげられた。

 移民の歴史と出身地
 フランスの「移民」は、4つの歴史的段階を経ている。
 @1830年(7月革命)以後イタリアやスペインなど近隣ヨーロッパ諸国からの政治的亡命者が受け入れられ、同時に労働力としての移民が始まった。1881年には100万人が入国している。
  A20世紀初めから第2次世界大戦の間はドイツ軍占領期を除き、労働者の受け入れと政治亡命者受け入れが積極的に行われた。1931年には300万人(人口の7%)の外国人がいた。  
 B1945〜1975年の時期は、戦争による労働力人口の減少と出生率の伸び悩みを背景として労働力の需要が高まり、外国人人口は1975年には1947年の倍の340万人となった。  
 C1975〜現在の時期は、増加から定住の時期とされる。1970年代から経済危機、失業の増加などで移民の受け入れは制限され、増加は頭打ちとなった。一方で公共事業やホテル・飲食業などの特定産業分野で外国人労働者の需要は一定数維持されている。

 移民第2世代以降の定住の増加
 移民受け入れの多いEU主要国の現在の上位3位出身地は、フランスはアルジェリア、ポルトガル、モロッコの順。ドイツはトルコ、ポーランド、イタリア。イギリスはインド、ポーランド、アイルランドである。そのほかに、オーストリア、スペイン、スウェーデンなどが移民受け入れの多い国である。フランスは人口約6400万人中(2008年)外国人が約700万人、EU内外国人が約210万人、非EU国が約500万人であり、外国人の割合は約11%である。特徴として、移民出身地は旧植民地ないし旧支配地域が多い。
 フランスに定住する移民第2世代は670万人いる。人口の13%を占め、スペインの1.1%と較べても桁違いに多い。年齢層では18歳から44歳までが過半数を占めている。フランスの社会に占める「移民」とその子孫の位置は他国と較べても大きい。一方でフランス社会には、犯罪や暴動が移民出身の若者によって引き起こされているという風に考えられたり、彼らが人種差別、排外主義の対象とされる問題も無視できない。

 統合各省間連絡会の「統合」政策
 「国立歴史館」構想は1990年の「移民博物館のための協会」設立に始まる。2001年に社会党のジョスパン首相が博物館設立の検討を始め、2002年にシラク大統領が設立計画を発表し、2003年に統合各省間連絡会で国立歴史館プロジェクトが立ち上げられた。歴史館設立計画で掲げられた使命には、「移民の歴史、芸術、文化に関する代表的な種収集品の保管と公開を目的とする」、「移民の歴史と文化や、移民出身の人々の統合に関するあらゆる資料と情報を収集し・・発信する」と書かれている。
 日本では一様に「同化」と訳されているが、報告者は原義に近い「統合」の訳を採用された。「統合」は「同化」よりもややゆるいニュアンスである。しかし、「統合」とは、移民の出自に関わりなくフランス人になるということであり、歴史館設立の目的は政府の移民統合政策と一体のものであるらしい。政府の移民統合政策についての考えが示されていると思われるのが統合各省間連絡会の以下の報告内容である。「否定的にみられることが非常に多い移民や移民達のイメージが、意識的か否かにかかわらず、差別的な態度をもたらしている。それは、時には彼ら自身や彼らの子孫達によって内面化され得るだけに、いっそう統合の足かせとなっている。報告書には、個人や集団の態度や、彼らがおこなう振る舞いを根本的に修正することが、ひとつの必要性として明らかにされている。」
 以上の問題の背景のひとつとして、1980〜2000年代に起こった治安上の問題(暴動など)がある。政府はこれらの問題の原因として「移民」の人々の態度、フランス社会になじまない「アイデンティティの後退」や「コミュノタリズム的傾向(特定文化圏で閉じこもる傾向」があるととらえ、それらを修正し、フランス社会に「移民」の人々を「統合」する必要性があるとしている。

  アイデンティティへの政治の介入と反発
 サルコジ大統領就任後、2007年に移民・統合・国家アイデンティティ・共同開発省が創立された。内務省、労働省、外務省の3つの管轄が一本化され、移民政策の強化−家 族呼び寄せ条件の厳格化などや「アイデンティティ」に関わる領域への政治の介入が強化されることになった。これまで「アイデンティティ不在の最近の世代(移民出身者)」と形容されてきた人々に対する政治の介入とは、ド・ゴール以来提唱されてきた「一定の考え」すなわち「フランス共和国のあるべき姿」という考えに基づいて、移民出身者の特に若者層に対する教育を強めてゆき、移民の人々を「フランスのあるべき姿」に「導いて」ゆこうとする傾向である。
 しかし、このような強硬な政策に対して反発が広がっている。サルコジの移民省創設を受けて、移民歴史館設立の準備をすすめた学術委員会のメンバー12名のうち8名が辞任を表明した。また、フランスの有力各紙でサルコジの政策を批判する論評が出された。
 「(移民と国家アイデンティティ)の接近は移民をステイグマ化(焼き印)す (右奥が中條さん) るもの」(リベラシオン)「個人や集団の歴史と記憶の多様性を理解し・・・万人の歴史をつくることが争点・・民主国家の役割はアイデンティティを定義することではありません」(ルモンド)「ステレオタイプを打破しなければなりません。フランスの歴史的アイデンティティを形づくるもののひとつは移民です。」(ユマニテ)
 これらの批判は共通して、「移民」を社会問題の原因とするような差別的な態度や「フランスのあるべき姿」という「一定の考え」で移民を含めた国民を縛ろうとする政権の考え方を批判し、外国人や「移民」はフランスを豊かにするものであり、移民とその文化を含めた多様なフランス社会を認めること、移民の歴史を含めた共通のフランスの歴史をつくることを求めていると思われる。
 偏狭な国家主義的「アイデンティティ」の押しつけ、という話はどこかの国だけかと思えば、近代民主主義発祥の地フランスでさえこのような事態であることに驚いた。しかし、これを市民・知識人の反発で一定押し返すところ(国民の大きな不評を買った移民省は2010年11月に廃止となる)もさすがフランスである。質疑交流の時間では、在日外国人や華僑など類似する問題に関して意見が出された。

6月例会報告 高島千代さん(関西学院大法学部教授)「『自由民権』の到達点−島田邦二郎の明治憲法批判」

6月例会の写真

自由民権運動と日本人の精神構造
  高島さんは自由民権運動の研究家で、特に秩父困民党など「激化事件」について研究している。自由民権運動を研究するきっかけとなったことは、自分が政治的な大衆行動にも関わる中で、なぜ日本の社会は政治に対し距離があるのか(日本人はなぜ政治に無関心なのか?)という疑問であった。特に江戸時代から明治にかけて百姓一揆、自由民権運動に参加した人々と、その後に政治に無関心となっていった日本人との間にはギャップを感じた。そこで、自由民権運動に参加した人々がどのように日本の国を構想していったのかを明らかにしようと幕末から明治の日本の思想史の研究を始めた。
幕末から明治の憲法案に見る市民の国家創業の構想
 幕末から明治の日本人が新しい国家の構想をどのように考えていたか、維新前後からつくられた官民を交えた多くの憲法草案に見ることが出来る。新井勝紘(専修大)は1865年のジョセフ・ヒコの「国体」、67年の坂本龍馬の「船中八策」から1888年の中江兆民の「国会論」などに至るまでの憲法草案101編を集約している(「由民権運動と憲法論」)。
   日本は明治維新から約20年ほどで近代国家の体裁をととのえたが、この時期に、新しい国家の創業について構想していたのは新政府や官僚だけではなく一般市民も、新しい国家への期待や解放願望などを抱いて、いわば官民挙げて近代国家をつくろうとしていた。
 この時代の人々の国家への期待、解放願望をすくいとって、各人の幸福や権利などを実現するために、どんな国家を構想するか、それが自由民権運動の役割であった。それは幕藩体制の秩序意識すなわち武士や農民、町人などは幕藩体制下でどんな役割を果たすべきかということとは真逆のことで、自由民権運動に見る明治の人の意識は、各個人の幸福を実現するにはどういう国家をつくるか、ということであり、そういう意味での国家創業の時代であったという。
憲法起草運動
 1865〜1878年ころは憲法案起草の第1期で官僚や元老が中心となっている。1879〜1881年ころが憲法案起草運動の最盛期で、民間の人がほとんどである。慶應義塾関係者が多いが、最近になって東京専門学校(早稲田)関係者の憲法草案も発見されている。
  1874年に左院に「民撰議院設立建白書」が提出されたが、設立の要望はそれまでにもいくつか出ていた。1880年に第四回愛国社大会で第一回国会期成同盟大会がもたれた。第二回の国会期成同盟大会で憲法案起草持ち寄り運動が提起され、地域で憲法起草の学習運動、請願署名集めのための演説・討論会がさかんに行われるようになった。この頃、淡路島三原郡八木村の庄屋の家に生まれた島田邦二郎が慶應義塾に入学する(科外生)。
 明治14年の政変(1881年)以後、それまで政府と民間が憲法案について交流する機会があったのが、政府は民権派をシャットアウトして欽定憲法の方向へと大きな変化が起こった。そして1881年10月、国会開設の勅諭が発表され、伊藤博文らのヨーロッパ憲法調査を経て、1889年大日本帝国憲法が公布され翌年帝国議会が開設された。
  明治憲法発布以前の民権派の代表的な憲法構想は星 亨(「国会組織要論」)の一院制、君主の議会に対する拒否権否定、男女同権の普通選挙案などがあり、政府の憲法草案の公示を望む意見(『朝野新聞』)も出されている。明治憲法実施以後の動きとして、憲法を学習する研究会が群馬、埼玉などで行われ、明治憲法の問題点の議論(『朝野新聞』)や明治憲法逐条批判(在米民権家による『第19世紀』)などが見られる。

島田邦二郎の明治憲法批判
 島田邦二郎は憲法起草学習会運動がピークの時期に慶應義塾に入学している。慶應義塾関係者で結成された交詢社は複数の憲法草案を起草している。島田はこのような民間憲法草案の起草運動と明治憲法への点閲・批判活動のひろがりという環境の中で自らの憲法構想をかたち作ってゆき、彼の「立憲政体改革之急務」は、この流れの中に位置づけられる重要な到達点を示すものである。邦二郎は「立憲政体改革之急務」において、「夫レ人ノ世ニ生ルルヤ自由ナリ」と天賦人権を説き、「代議政ノ外観備ハルト雖モ其実挙ラザレバ以テ善良ノ政体トスルニ足ラズ」として立憲政体の長所を改革を実行できる ところとして、「改革之急務」を書いたとしている。特に「一院制」(第六章 二院議院ノ制ヲ改メテ一局議院ト為スベキコトヲ論ズ)「普通選挙」(第三章 撰挙権ヲ拡張シテ普通撰挙権ト為スベキコトヲ論ズ)についての批判、主張は邦二郎がこの憲法構想を執筆した、明治憲法成立直後の時期については、他にみつかっていない。
  そして立憲政体について「匹夫(暴君を指す)ノ権ヲ抑圧スルモノナリ、暴権ヲ制限スルモノナリ」とし、同時に「人民ニ自由権利ヲ与ヘテ其元気実力ヲ養ヒ、自治独立ノ精神ヲ発揮シテ事物判別ノ性ヲ得サシメ」としている。立憲政体が権力の暴走を抑えるものであること、そのもとで国民が民主主義の力を養ってゆくものであり、立憲政体が成立するためには、個人々が主体的な意識をもって責任を果たしてゆくモラルが必要とされていることを主張している。
    高島さんが冒頭に問題意識として出された「日本人はなぜ政治に無関心か?」という疑問に対する重要なヒントが島田邦二郎の「立憲政体改革之急務」の中に読み取ることができる。
  邦二郎の問題提起は、百年余りのちの現在にもなお生き続けているように思われる。いくら最先端の経済発展を遂げた社会であっても、その上部構造であるべきはずの民主主義制度の成熟は全く独自に市民の不断の意識的な努力によって育成され、守らねばならないものなのだ。そしてそれは同時に、一部の者の利益を維持するための権力の理不尽な暴政との闘いの中で勝ち取られるものだ。そうでなければ、油断するといつでも民主主義は後退させられる危険がある。自民党の憲法改悪案は、まさにそのことを示す好例だ。立憲主義を否定するこの復古的な改悪案を見たら島田邦二郎はなんと言うだろうか?

7月例会報告 越智雅典さん(会員・此花郷土史研究会常任顧問)「春日出のなき八州軒を語る」

7月例会の写真

 春日出新田と八州軒
 越智さんは大阪市此花区春日出に住み、地元にあった住友電工に勤め定年前から地名の由来である春日出新田の歴史を調べ始めた。春日出新田は元禄十一(1698)年より京都の雑賀屋七兵衛により開発が行われ、同十五(1702)年石高約四九〇石で完成した。「春日出」という名称の由来として不思議な話が伝わっている。開墾途中に一頭の牡鹿が出て、人夫がこれを撲殺したという。雑賀屋七兵衛は春日出大神を信仰していたので、その死骸を埋め、その地に春日明神を勧請したという故事より春日出の名がついたという(「此花区史」)。当時徳川綱吉の治世で「生類憐れみの令」が施行されているので、この事件は新田開発の成否を左右する重大事である。越智さんは、泉州の豪商食野(めしの)家に所有権が移ったころの「摂州安治川川口春日出新田掛屋敷図」には鹿は「行衛(方)知らず」となっており、これは当時幕府の治水・航路開拓等の開発プロジェクトの中心となっていた江戸の豪商河村瑞賢が「鹿撲殺問題」を「ゆくえ知らず」というかたちでおさめたのではないか、としている。
 その春日出新田に、食野家が紀州徳川家の別荘であった「巌出御殿」を譲り受けて移築した。紀州徳川家初代の徳川頼宣が慶安二(1649)年に和歌山市東北の紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造りの建物で、移築後の春日出では、二階から淡路・紀伊・大和・河内・和泉・播磨・山城・攝津の八国が展望できたので「八州軒」という。春日出新田は天保年間に食野家から大坂の豪商清海家に所有権が移り、明治三十九(1906)年に八州軒は清海家から横浜の生糸貿易商の原富太郎(三渓)に譲られることとなった。このようにして紀州家の別荘は、岩出から大坂の春日出の豪商、さらに横浜の生糸貿易商へと所有者が変転し、まるで近世から近代への日本の経済発展史を彩る装飾品のごとく、数奇な運命を生き延びてきたのである。
 東の桂離宮
 かつての「八州軒」は、現在「臨春閣」(重要文化財)として横浜の名庭園「三渓園」内に保存されており、「東の桂離宮」と称される。横浜市の中心部から東南方向、JR根岸線の根岸駅からタクシーで10分ほどのところに「三渓園」がある。
 清海家から八州軒を買い取った原 三渓は、歴史学者で横浜の生糸貿易商原家の養子となった。家業も発展させ(富岡製糸場の経営にも関わった)、そのかたわら古美術収集を行い、古建築にも関心を示し、古建築を集めた庭園・美術館「三渓園」を創立した。原は明治三十九(1906)年に春日出の浜から解体された八州軒を海路横浜へ運び、その後十年以上をかけて大正六(1917)年周囲の庭園をも含めて移築完成させた。現在は庭園内には18棟の古建築がならび、そのうち臨春閣を含めて10棟が国の重要文化財である。
奈良や鎌倉から移築されたこれらの建物は横浜市の宝物となっている。もちろんその中心は、もと八州軒、現在の臨春閣である。建物は第一屋、第二屋、第三屋からなり、襖絵は狩野探 幽、同安信、同周信、雲澤等悦などによって描かれている。春日出では瓦葺きであったのを三渓は檜皮葺に変えている。江戸初期の宮家の別荘であった桂離宮に対して武家の代表的な別荘建築として評価され、「東の桂離宮」と称されている。
 「淀君化粧の間」という伝承  
 春日出には、「新田の屋では淀殿<君>化粧の間があり、高貴な音楽が流れている」という伝承が古くからあったそうだ。このほかにも「秀吉と淀君が釣り糸をたれたという廊下」という話もある。この話の真偽はわからないが、原 三渓は、その伝承を信じて「桃山御殿」と呼び大切にした。越智さんが茶店のおばさんに聞いた話では「あの建物は桃山御殿(通称)と呼ばれて、そら大切にしてはった。・・・亡くなるまで秀吉と淀君が暮らした想いや・・・」しかし「今は、秀吉の時代の遺構とは別であるという説で通っています」ということである。横浜の空襲の際に、天井が抜けるなどの被害を受けたので復興修理を行った際に調査したところ建物は「桃山の時期ではなく江戸初期の建築」(藤岡通夫博士)であることが明らかとなったためである。
  しかし越智さんは、淀殿が暮らしたという伝説をまだあきらめてはいないようであった。四度訪問し、普通は入れてもらえない建物内部に招かれることとなった。問題の淀殿を追憶させる建屋は第三屋にあると予想し、一階の「天楽の間」には笙・高麗笛・ひちりき・横笛を配した橋の欄干を模した意表をつくデザインの欄間、そして高貴な女性が打ち掛け衣装のまま快く上がることのできるような瀟洒な上り口の階段をあがって二階に入ると「そこに座って一瞬の後、三方向の雨戸が開け放されました。さすがに八州(春日出のときは)の風光を望む姿があったのです」とそのときの感動を語っている。建物の美しさが伝承のロマンをつくりだしているともいえる。
 加藤清正の朝鮮略奪品か?
 越智さんが今回ぜひ言いたかったことがもうひとつある。臨春閣の住之江の間にある廊下の螺鈿の扉と池に面した縁の端に用いられている扉である。これらは数寄屋風の意匠とは異質のものであり、螺鈿の扉は左右一対の図柄ではなく、別個の図柄で別の工芸品からもってこられたものと考えられている。特に螺鈿は朝鮮の工芸品に特有なものであり、これらの品は越智さんの推理によれば、加藤清正が文禄の役の際に朝鮮から略奪してきたものではないかという。そして紀州家と加藤清正の意外な関係が明らかとなった。加藤清正の夫人は家康の養女清浄院(水野氏)で、両人の間に生まれた娘八十姫は紀州徳川家頼宣の夫人となったというのである。八十姫と頼宣の結婚が元和三(1617)年、巌出御殿完成が慶安二(1649)年である。
 現在臨春閣は、横浜のモダンなビル街から離れた小高い山に囲まれて、まるで異次元 のような場所で静かに歴史の謎とロマンを語り続けているようである。横浜を訪問されたときには、ぜひ一度見学に行かれることをおすすめします。
 <アクセス等>JR根岸線で横浜駅から5つめの根岸駅下車、タクシーで10分(1220円程度)。横浜駅東口、根岸駅からバス。車の場合駐車料金500円。入園料一般500円、子ども200円。開園時間は午前9時から午後5時(入園は4時半まで)。10人以上のグループよりガイドを予約できる。

8月例会報告 島田 耕さん(本会会員・映画監督)「映像でたどる桑原英武先生の100年」

写真はありません

 映像でどう歴史を伝えるか
 島田 耕さんは、故今井 正監督の助監督として「キクとイサム」などの映画製作にも参加した。若者を中心とする活字離れ現象もあり、映像を通じて歴史を特に若い人に伝えたいという気持ちから、現在は主としてドキュメンタリー映画の制作を続けている。  例会の最初に上映された「ある治安維持法犠牲者の100年」(DVD、42分)は、治安維持法下で弾圧に抗して闘い、戦後の大阪で民医連と治安維持法国賠同盟の成立に中心的な役割を果たした桑原英武医師の生涯を描いた作品である。

 戦前の地下活動、獄中生活、軍医としての活動
  映画制作のもとになったのは、森紀太雄さん(本会会員)が桑原医師の聞き取りを会報に連載した「治安維持法とわたし」である。森さんが月2〜3回桑原医師の自宅に行き、資料の山も探りながら聞き取りをしてまとめた内容で、島田さんは、「それを40分余りの内容に切り取ることは不可能で、もれていて重要なことが一杯ある、それはまた別の作品にしたい」という。
   桑原さんは戦前、三高を中退して日本共産党の地下活動に参加した。特高警察に捕らえられ、拘禁され、木刀や竹刀で体中めったうちにされる拷問も受けた。映画ではそのときのようすが劇画風にわかりやすく表現されている。一方獄中で投稿した短歌が刑務所内の雑誌で一席に入ったこともあった。「君が代」の文言が入っていたことが作者の意図とは別に誤解されて認められたのかもしれないという。
 そして仮出獄がおそくなり、当時医学部で唯一受験できた岩手医専をギリギリで受験して合格し医師への道を歩むこととなった。その後阪大病院に内科医として就職し、結婚もした。そして軍医を志願し、淡路島由良要塞に赴任した。由良要塞は鳴門海峡と紀淡海峡防衛のために明治時代に陸軍が淡路島由良、友が島、加太などに築いた要塞群の中心で司令部が置かれたところ。実は監督の島田さん自身、旧制中学3年になると、友が島に本土防衛の陣地構築要員として同期200名ほどと共に派遣されている(島田「1945年淡路由良要塞の少年たち」『大阪民衆史研究第64号』参照)。桑原さんとは直接対面することはなかったが同じ部隊に配属され、近い場所にいたのである。

 戦後の民医連、日本共産党、治安維持法国賠同盟設立の活動
 戦後の桑原さんは、まるで水を得た魚のように昼間は阪大病院の医師として、夜は日本共産党の幹部として活躍した。戦後はまだ保険診療が制限されていたが(「保険証の患者お断り」の貼り紙をしている医院もあった)、国民皆保険、保険医療拡大を求める運動がすすみ保険医協会が拡大した(最近は安倍政権のもとでTPP加入、混合診療制度の導入など逆行する動きが出ている。)。その中で、市民のための診療所をつくる運動が起こり、生野区や旭区、此花区などに診療所が開設されていった。これが民医連運動のはじまりであった。桑原さんは西日本各地で民医連診療所をつくるために人材を派遣する「手配師」のような活動をして、各地に診療所を拡大していった。上本町にあった上二診療所が上二病院となり、桑原医師は上二病院を拠点に、地域の人々の命と健康を守る医療活動を行う一方で日本共産党の幹部として、また民医連の設立、拡大をすすめる運動をすすめた。映画の中でも桑原医師に現在も信頼を寄せる多くの市民の姿と声が紹介されている。そして70歳で民医連の役職を退くと、要請を受けて治安維持法犠牲者への国の謝罪と賠償を求める運動に参加する。東京で始まっていたが大阪は手がついていなかった。武田太蔵の発意と援助があって、大阪に同盟の支部を結成した(1982年)。

 桑原さんの意思を受け継ぐ
 島田さんが映画制作にはいったときは、すでに桑原さんが入院中でカメラを持ち込めなかったが、日本電波ニュースが撮影した桑原さんの存命中の貴重な映像が大阪民医連に保管されており、今回の映画のために提供された。
 例会当日は、最近では最多の21名が参加し、非会員の方も多く参加されていた。桑原さんとゆかりのある方もおられ、多くの人が映画にふれながら発言された。関西の知識人の民主的な運動の指導的な人物であったこと、桜宮のホテルで喜寿の祝いをしたときには、あまりに多くの人が参加したので集合写真を2回に分けて撮したこと、お兄さんの康則さんも十三で耳鼻科医院をしながら保険医協会の活動をすすめ、桑原さんと兄弟で民衆医療をよくするために大きな活動をされたこと、「生理休暇読本」(民医連)、「代用監獄についてのパンフ」(治維法同盟)、「時効不適用条約についての特別報告」(治維法同盟)など先駆的な提起をおこなったこと、また桑原さんの周辺には多くのすぐれた運動家がいたことも報告されている。島田さんが今回の映画にいれられなかったが、次回作でぜひ取り上げたい人物として紹介したのが桟敷さんである。桟敷さんは、桑原さんの地下活動を引き継ぎ、のちに保健婦として満州に渡り、敗戦後八路軍(中国共産党の解放軍)の医療専門家として協力し、中国で十数年活動を続けた女性である。帰国後桑原さんと再会し、大阪の民医連の原点をつくる活動をした。
 最後に大阪民医連事務局長の土井さんから意外な報告があった。韓国で民医連をつくる動きがはじまっており、そのために韓国から大阪に民医連の活動を学ぶため医師らが来日しているという。桑原さんたちがめざしたことは大阪でも医療生協や耳原病院などの活動に受け継がれているが、今や国境を越えて広がりつつあることを知って感動を覚えた。

9月例会報告 竹田 芳則さん(本会会員)「島田邦二郎関係資料調査報告」

9月例会の写真

 大阪民衆史研究会は、会員の島田 耕さんの大叔父に当たる島田邦二郎が書いた明治憲法批判の書『立憲政体改革の急務』(以下『改革の急務』と略)について、自由民権運動と日本の立憲主義思想の発展の歴史の中でも重要な文書と位置づけ、淡路島に残されていた邦二郎に関する資料の整理調査と大阪民衆史研究特別号発刊により、『改革の急務』の紹介ほか調査のまとめを報告することを決めた(来秋予定)。
9月例会は、その調査チームの中心である竹田芳則さんによる調査の中間報告である。

 自由民権100年と島田邦二郎の発見
 自由党結成100周年にあたる1981年に神奈川で自由民権百年全国集会が開かれた。竹田氏は当時早稲田の学生で事務局の手伝いをしていた。このとき、会報『自由民権100年』の編集長をしていた藤林伸治氏が島田 耕氏の知人(同じ映画監督)だったので、島田氏から藤林氏に『改革の急務』が届けられ、1985年、『自由民権100年』の16・17合併号(最終刊)に、江村栄一が「明治憲法実施直後に書かれた民間の一改革意見」と題して邦二郎と『改革の急務』の紹介をした。淡路島の旧家(邦二郎の兄である島田彦七の子孫茂良氏)に人知れず眠っていた邦二郎の遺稿が世に出た瞬間であった。

 淡路島の調査と現在までの研究の到達
 同年8月に向井、原田、萩原、竹田、島田らによる淡路島八木村の島田家の土蔵調査が行われた。あいにくの雨という悪天候の中、蔵を調査すると近世の古文書が大量に発見された。これら資料約3000点は淡路文化資料館に寄託され、資料整理が行われた。1987年3月には最初の目録『淡路三原町八木島田家文書』が発行され、その後継続して目録が発行された。    1989年には江村栄一が『憲法構想(日本近代思想体系9)』(岩波)に「立憲政体改革の急務」を紹介した。
1990年8月に大阪民衆史研究会と淡路文化資料館、淡路郷土史研究会の共催で、「淡路島の民衆史を探るツアー」が行われ、島田、後藤 靖、後藤正人、奥村 弘、久保在久、向江、萩原、竹田らが参加した。史料館で資料の閲覧、研究会、島田宅での宿泊交流会が行われた。この調査ツアーは読売新聞(淡路版)に記事が掲載された。  1992年には、後藤 靖が「ある埋もれた帝国憲法・帝国議会批判論」(『近代日本社会と思想』吉川弘文館)を発表した。現在これが邦二郎についてのもっともまとまった論考であるという。その後1994年に島田 耕による私家版『家族の記録B島田邦二郎のこと』が刊行された。

 邦二郎の思想と淡路島の自由民権運動
 竹田は立憲政党の研究をする中で、政治参加の意識、一局議院論、普通選挙制などラデイ カルな要素を含む国約憲法の要求が関西の自由民権運動の伏流となっていったのではないかと考える。「改革の急務」は、明治の他の自由民権派が明治憲法を批判できない中で、国民主 権の主張など、これを根本的に批判し改革を提言している。邦二郎の思想は、当時の自由民権派の中でも特異であり、その背景としての淡路島の自由民権運動が注目される。
 淡路島の自由民権運動についての先行研究は、松本健一「日暮の孤影−淡路民権運動の位相−」(『展望』第179号)が運動全体を描いている数少ない研究であり、「自分たちの考える立憲制とはちがう」と、議会で馬糞を投げつけた青木茂七郎のことなどが紹介されている。「洲本の自由民権運動」(『洲本市史』)には阿波自助社の影響下、洲本自助社が成立したこと、植木枝盛が淡路へ来て自由党が結成されたことなどが紹介されている。『三原郡史』には、明治20年「地租の軽減、言論・集会の自由、強硬外交」を求める「三大建白運動」に三原郡から島田邦二郎、安倍誠五郎、浜田儀一郎らが参加したこと、12月の全国統一行動に邦二郎は兵庫県代表として参加したこと、そして明治22年に島田彦七、南嘉五郎ら自由民権派左派の人びとは「三原苦楽部」を組織し、自由平等平民主義を主張したが、このような活動を「過激粗暴」として批判的な有志が「三原同志会」を組織したことなどが紹介されている。

 まとめ−「立憲政体改革の急務」は何故島田邦二郎によって書かれたか
 竹田は「改革の急務」が邦二郎によって書かれたことの意味、背景について、@人物、A淡路島の自由民権運動、B慶應義塾の三点を挙げている。邦二郎が自由民権運動に関わる最初の入り口は慶應義塾での体験である。慶応は福沢諭吉の影響を受けた民権派の拠点であり、『改革の急務』を書くにあたって邦二郎が学んだ英学や近代民主主義の基本的知識の影響は大きいと考えられる。一方、淡路の自助社など士族民権派(土佐派)の影響も受けている。
 邦二郎は、地方の名望家として地元で議員や村長などの活動をして後半生を生きた。地域の利益のために奔走し、良心に基づいた活動を行った。それは地方の自由民権家の典型的な生き方であり、このような人物の生涯を追求することで日本の民主主義の発展史の一部を描くことができるのではないかと、竹田は考えている。
 当日は堺市長選挙前日の日で、まさに日本の民主主義の前途を占う重大な政治決戦を目前にしていた。翌日の選挙結果は堺市民の多数の良識が結束した結果の勝利であった。民主主義は机上の理論ではなく、与えられるものでもなく、たたかって勝ち取るものであるということを実感する。そして、この時に邦二郎ら我々の先達が民主主義をどのようにとらえ、日本に根付かせようとしていたかということについてあらためて確認する作業がおこなわれつつあることに歴史の不思議な因縁を感じる。

10月例会報告 奥宮 直樹さん「奥宮 健之と『大逆事件』」

10月例会の写真

 土佐と佐倉(千葉)の奥宮家
 奥宮さんは大学時代に、大逆事件で刑死した犠牲者の中に幸徳秋水らと並んで奥宮健之という人物がいることを知った。自分と同じ、少ない苗字なので興味を持ったという。退職後、土佐史談会の山本氏が「長宗我部遺臣の中村企図と下総佐倉奥宮家について」という論文を発表していることを知り、奥宮家が土佐にルーツのあることを発見した。
 資料によれば、奥宮家はもともと土佐の長宗我部家の家臣である。大坂の陣で秀頼方につき、のちその残党は千葉の佐倉藩に所属した。奥宮直樹さんは佐倉出身である。先祖に奥宮太郎左衛門という人物がいた。この名前は土佐奥宮家にも登場し、代々太郎左衛門を名乗ることになっていたらしい。土佐では「オクノミヤ」、佐倉では「オクミヤ」と発音する。奥宮さんは奥宮健之の読み方を「オクミヤケンシ」としている。奥宮健之は土佐に生まれ、長宗我部家家臣をルーツとし、父は陽明学者で勤王派の支援者であった。
 奥宮直樹さんと奥宮健之とは、どうやら遠祖を共通にする遠縁の親戚にあたるらしいということがわかったのである。

 特異な存在
 直樹氏曰く、奥宮健之は大逆事件の犠牲者の中では特異な存在であるらしい。特異さという点で菅野須賀子とは共通性があるという。両者とも、ふるさとをもたない。菅野は大阪出身だが大阪には根付いていない。奥宮は土佐出身だが、全国を渡り歩いていて、幸徳や大石(誠之助)などのように地元の名誉回復運動はむづかしい。自由党からは除名されている境遇だ。さらに、「死してなお汚名」を受ける点でも両者は似ている。菅野は「妖婦」と言われ、奥宮には「スパイ」説が伝えられる。塩田庄兵衛と松本清張は肯定論、否定論の両論併記をしている。もっとも身近にいた堺利彦は奥宮のスパイ説を否定しており、これらの「汚名」を否定する論評も出されているが、ドラマなどの中ではスパイあつかいされることもある。

 奥宮健之の生きざまと思想遍歴
 奥宮健之は土佐・布師田に生まれ、少年期に父親から陽明学をたたきこまれた。陽明学は、知行合一を説き儒教の学派の中でも「知識は行動を伴ってはじめて完成する」として行動を重視する学問であった。このことがのちに健之の生き方に大きな影響をおよぼしたと考えられる。14歳で父と上京し、英人フレドリック・エー・メーヤから英学、算術などを学び、23歳で私学校「育英社」を開設した。24歳から活発に演説行脚を行っ た。この頃交流した人びとに、馬場辰猪、板垣退助、大井憲太郎、植木枝盛、片山潜、 河野広中、尾崎行雄、犬養毅、中江兆民ら錚々たる人物がいる。
 26歳の頃、官吏職務妨害の罪で入獄して以来、入獄を繰り返し29歳で自由党名古屋事件(武装蜂起を企図し、警察官3名を殺害した事件)に関わり、12年7ヶ月の刑期ののち、1897年に41歳で出獄した。その頃、彼に運動の中での居場所はなく、忘れ去られた存在であった。44歳で外遊を始め、パリ万博(通訳として参加)、シアトル、雲南などへ出かけた。
 奥宮の活動と思想遍歴は多岐に渉っている。関係した政治結社は立志社をはじめ、人力車夫を組織してつくった車会党、自由党、日本社会党、政友会など十数結社にのぼる。
 また普通選挙権については板垣らよりも先行して普通選挙の必要性と国民主権、万民の政治的平等を主張した。一方で、貧困問題をマルサスの「人口論」の立場からとらえ、北米移民による日本の貧困問題解決を唱えたり、日露戦争を「是我大和民族力膨張発展の最終時機にして之か逸せばもはや再来の機なきのみならず」と肯定的にとらえていて、帝国主義に対する理解が欠落していた。社会主義については、「ジャンジャックルソーの民約論に心酔したる時代はすでに経過してカルルマークスの資本論に傾聴せざるべからざるの時代とはなれり」とし、明治36年の頃にすでにマルクスに言及しているが、日本の国体、皇室と社会主義とは矛盾しないという独自の発想をも持っていた。無政府主義については「無政府主義者の如く一切政治機関を否認するものとは其根底に於いて意見を異にして居ります」と一線を画している。

 奥宮検挙と平沼騏一郎
 54歳の時、渋谷の自宅で検挙されるが、その前年幸徳秋水から爆弾の製法について尋ねられ、西内正基から聞いたことを幸徳に伝えている。このことが逮捕のきっかけとなったのではないかと考えられている。公判廷において、彼は無政府主義とは一線を画する態度を明確にし、また社会主義と皇室の存在とは矛盾するものではないという彼独自の考え方を主張している。しかし、55歳の1911年1月24日死刑を執行された。
  当時、大審院の次席検事だった平沼騏一郎(のちの総理大臣、1939年の独ソ不可侵条約締結時に内閣総辞職)が「大逆事件」の主任検事となって采配をふるった。一方奥宮健之の長兄にあたる人物が、検事総長のイスを狙う平沼のライバルとして、宮城県控訴院検事長にいた。奥宮が外遊などに出かける資金などは、この長兄に頼っていたという。奥宮健之検挙は、検察内部での長兄の勢力が凋落する原因ともなった。一方手柄をあげた平沼は大審院検事総長にもなり首相にもなっている。出世競争がらみのこのいきさつは、社会主義者の弾圧を策し、政府批判の言論を封じようとしたフレームアップである大逆事件の真相を多面的にとらえるうえでひとつの視角を与える重要な問題ではないかと思われる。奥宮氏による今後の真相の追求に期待したいところである。

 大逆事件は権力犯罪の「原型
 奥宮氏は健之をはじめ、事件の犠牲者について「彼らの無念の思いを拾い上げ灯を灯し、その雪冤をはかる」、「あの時代に自由と権利のために周囲の人のために行動した人 がいたという、そのすばらしさを受け止めたい」としている。また憲法改悪、特定秘密保護法案など現在安倍政権のもとですすめられている動きとも関連させて、大逆事件が権力犯罪の「原型」であることを明らかにし、二度とこのようなことをくりかえさせないために、世論と運動を広げたいとしている。

11月例会報告 呂順長さん(会員・四天王寺大学)「画像にみる近代日中教育文化交流」

11月例会の写真

 11月30日、大阪府教育会館で、四天王寺大学教授の呂順長さん(本会会員)に、「画像にみる近代日中教育文化交流」と題して報告していただきました。昨年の報告(魯迅の実弟周作人について)以来、1年ぶり二回目になります。今回も、写真や書簡類の画像を駆使しての緻密な報告でした。
 三部構成で、1.最初の中国人留学生と日本人漢学者山本梅崖(ばいがい) 2.日本への教育視察(呉汝綸(ごじよりん)と提学使の場合)3.嘉納治五郎(かのうじごろう)と弘(後に宏)文学院、となっています。土佐出身で大阪に漢学塾を開いた山本梅崖は、1897年の中国遊歴をきっかけに数多くの中国人名士と交流していました。それを裏付ける資料高知市立自由民権記念館に所蔵されている「山本憲関係資料」(数年前から親族から寄託された書簡・自筆原稿・写真などの資料6000点以上)にも多く含まれています。その山本梅崖は、中国人留学生を塾生として受け入れ日本語を教えるなど、多大な便宜をはかっていました。最初に渡日した二人の留学生、稽侃(けいかん)と汪有齢(おうゆうれい)そして監督官の孫淦(そんかん)が写っている写真は、呂氏が発掘した貴重なものです。
 個人的には、大いに感動しました。なぜなら孫淦は、大阪川口で商売を営み、第五回内国勧業博覧会(1903年)の「人類館事件」(阿片吸飲あるいは纏足中国人を生身で展示する企画に中国側が官民ともに抗議)に際して、中国人留学生の要請を受けて抗議の先頭に立った人物だからです。また中国の戊(ぼ)戌(じゆつ)変法に係わって日本に亡命した有識者、康有(こうゆう)為(い)・梁敬超(りようけいちよう)らと交わした山本梅崖の書簡も紹介されました。また関心を惹くのは、中国関係について梅崖が大隈重信に宛てた書簡です(『大阪民衆史研究』68号に掲載予定)。
 中国から日本の教育視察に訪れた京師大学堂総教習呉汝綸が東京帝国大学学長井上哲次郎と交わした筆談の中で、井上が“教育は、東西洋の思想を融合・調和するを以て目的と為す”と答えている辺りは、教育に携わる者にとっても大変面白く感じました。
 さらに、柔道の講道館で有名な嘉納治五郎が政府の求めに応じて中国人留学生の教育に携わり、のちに弘文学院(清国乾隆帝の諱(いみな)を避けて宏文学院と改称)を開設したこと。そして多くの中国人留学生を受け入れ便宜をはかったことを、世間に知る人も多くないと思われます。魯(ろ)迅(じん)(文豪)・陳(ちん)独(どく)秀(しゆう)(中国共産党指導者)・田(でん)漢(かん)(劇作家)・呉(ご)敬(けい)恒(こう)(中国国民党長老)など錚(そう)々(そう)たるメンバーが学んだこの学院について、呂氏が自ら講道館へ赴いて多くの資料を発見されたとのこと・・・大いに頭が下がります。
 休憩を挟んで質疑応答の中で出された点について、現代中国に関する事柄を中心に紹介します。
Q.現在の留学生は昔と変わっていますか?
A,欧米に行く留学生と比べて、日本に来る留学生は質的に低くなっています。大半は 高卒で、大学に入れなかった者が多い。数年前に比べて人数も減っています。
Q.大学の数と規模は?
A.数はそんなに変わっていないが、規模は大きくなっています。中国の統一試験を受ける者は、数年前のピーク時1050万人、今は900万台に減少。合格率は平均70%前後、浙江省などは8割弱、かなり高くなっている。大学生のエリート意識は、就職難などで下がっている。
Q.中国のロケット打ち上げが失敗して墜落した事故を、日本のマスコミが取材してい たが、報道はオープンなのか?
A.今は比較的オープンになっています。
Q.中国は複合民族国家ですが、少数民族の独立を認めることはないのか?
A.それはありえない。漢民族からして、伝統的な考えは“統一はよい、分裂はだめ” であり、分裂させた者は罪人扱いになるぐらいであるから。
Q.地域的に自立したモザイク的な国家は?
A.さあ〜。
Q.社会主義や民主主義などの原則と伝統中国は、どう折り合うのか?
A.共産党の立場からすれば、社会主義は堅持されでしょう。政治改革の流れとしては 民主化の方向である。今は共産党が中国を治めている「中国特色のある社会主義」。土地は70年間の使用権のみが認められていた。しかし、11月に開催された第18期中央委員会第三回全体会議(三中全会)では、「土地改革」によって来年ぐらいから所有権が認められ、自由に農民が土地を売買することが出来るようになる。また戸籍制度や一人っ子政策も緩和される。中国では老齢人口の増加が問題になっているが、都市部では育児の大変さのため、子どもをあまり作らない家庭が増えている。
Q.日中関係は、みな関心があるが、今後どうなっていくのか?
A.日中関係は非常に厳しい状況にある。尖閣諸島問題が見える形で現われているけれど、本質は日中のライバル意識にあると思う。アメリカも日本も、中国の発展を歓迎するというが、思惑は中国のこれ以上の発展を可能ならば押さえたい。しかし、中国もすでに押し返す力を持ちはじめている。この力関係に大きな変化が生じない限り、外交問題など、難しい課題であろう。 報告1時間半、質疑応答・討論1時間。とくに現代中国をめぐっての議論は、大いに関心を呼び白熱しました

12月例会報告 白岩昌和さん「濱口梧陵と稲むらの火」

12月例会の写真

五つの顔をもつ男
 濱口梧陵は、「稲むらの火」の梧陵さんとして、ラフカデイオハーンが書いた「A Living God(生ける神)」の主人公として知られている。安政地震の津波が紀州広村の海岸を襲ったときに、とっさの機転で大切な稲むら(稲束を重ねたもの)に火をつけ、これを目印に村人を誘導避難させ、多くの人命を救った。ハーンの書いた梧陵さんの物語は世界中の人に読まれ、 それは現在も語り伝えられて、海外で絵本や公園の記念碑ともなっている。日本では文部省発行小学校国語読本をはじめとするいくつかの教科書に取り上げられた。
 白岩さんは、広川町の濱口梧陵記念館でボランテイアのガイドを務めるかたわら濱口梧陵についての調査研究をしている。冒頭、濱口梧陵には津波から人びとを救った面だけでなく五つの顔があると、その多彩な業績について紹介した。
 梧陵さんの五つの顔とは、@「稲むらの火」の主人公として津波の被害から村人を救い郷土の復興に力を注いだ偉人、A現・耐久高校の前身、耐久社(1852年)を起こした教育者、B種痘館を再興し、薬に関する書物を出版するなど医学界にも貢献した人物、C初代の郵政大臣(駅逓頭)、和歌山県議会の初代議長となるなど政治家としての顔、Dヤマサ醤油の経営者としての顔である。

 「A Living God」と「濱口大明神」
 白岩さんは、ラフカデイオハーンが「Living God」に書いた濱口梧陵のイメージは、一般に『大阪毎日』の記事を出典と考えられているが、『時事新報』(福沢諭吉が出版者)の記事が原典であるという。明治29年の三陸大津波を扱った記事中に、安政地震の際に稲むらの火で村人を救った濱口梧陵が「濱口大明神と敬愛された」との文章があり、ハーンは、神戸で この記事を読み、上京までに「A Living God」を書き『アトランテイックマンスリー』(12月号)に掲載されたのではないかと推測している。同様の記事を掲載している『大阪毎日』の社長高木喜一郎は『時事新報』出身で、二つの記事は同一人物の提供と考えられる。しかし『毎日』では「濱口大明神」の箇所が削られており、その原因として明治25年の久米邦武の筆禍事件(注)と同様に、天皇神格化に触れる問題を避けるためではないかと考えられる。ハーンの「A Living God」や『時事新報』の「濱口大明神」の記事は、天皇を「現人神」と神格化しようとする明治政府の方針にも触れる問題でもあったのかもしれない、との指摘は興味深い。
(注)1892年「史学会雑誌」で「神道は祭天の古俗」と書き筆禍事件を起こし東大を依願免官した。

 「稲むらの火」の真実
 以前の例会でも、疑問と出されていた濱口梧陵が実際にどのように村民に津波の危険を知らせ、避難を誘導したのかということについて報告があった。白岩氏はハーンの「A Living God」や「稲むらの火」の記述は、脚色され忠実に事実そのままを伝えているわけではないと いう。記念館の映画で見られるように、史実に基づき梧陵さん自身も津波に呑まれて、津浪到着後漂流している人びとに知らせるために、稲むらに火をつけて目印にしたとしている。
 関東大震災を予言したと言われる地震学者今村明恒は地震を含む自然災害の教材作成を文部省に要請し、文部省の公募に応じて中井常蔵が「A Living God」を訳し、「津波美談」のタイトルで応募したものが昭和12年尋常小学校教科書(国語読本)に掲載された。今村は「稲むらの火の教え方に就てで、当時の広村の住民が「他力に依頼しようとする風潮が生じいる ために・・・」と当時の世情にも触れている。
 白岩氏は、ハーンが「(村人に危険を知らせるために)火事だ」と呼びかけていることを記述しているのは、現代人とは違う当時の村民の慣習に訴えていることとする。江戸時代にはよく知られる「村八分」の慣例があり、その残りの二分とは「葬式」「火事」であり、村人が必ず参加しなければならないものであった。それで「火事だ」と叫ぶことで、全村人の動員を促したのではないかという。
 そして、ハーンが伝えたかったことは封建時代の価値観であった「貴穀賤金(穀物を大事にして商売、貨幣を蔑む)」の考えから、米に火をつける重大な罪を犯して濱口がとった行動の尊厳さを強調したかったのであって、ハーンは、この話を防災教育の手本に使おうとして書いたのではない、としている。

「知行合一」の人
 濱口梧陵は佐久間象山門下で朱子学を学んだ。梧陵さんの生涯は、経世済民(世の中の貧しい民を救うための学問)、知行合一(学ぶことと行動を一致させ、行動を重視する)の言葉そのものである。安政元年(1854)旧暦11月5日(新暦で12月24日)に津波があり、翌年2月には堤防工事に着工している。約三ヶ月でプランができ、紀州藩とはかって、上田地としての堤防の地の租税を免除し、その堤防工事は被災者の雇用対策を兼ねた。黒松の防潮林は、今村明恒や本多静六林学博士が評価したように現在でも有効性のある対策だと考えられる。このような梧陵さんの行動を勝海舟は梧陵君碑の撰文でも評価するほど二人は生涯の友として交遊をむすんでいた。

 ヤマサ醤油と濱口梧陵
 濱口家の始祖は室町幕府の管領を勤めた斯波氏(のち尾張へ)の家臣であった。戦乱を経て、高野山に入り、本願寺第九世實如に帰依して広村に安楽寺を建立した。東西の濱口家があり、梧陵さんは西濱口家の七代目である。濱口家の家業である銚子のヤマサ醤油は有名であるが、当初は醤油業を営んでいない。銚子は利根川の河口にあり、暖流と寒流のぶつかる潮目で、酵母の生育にも適していたことから醤油醸造を始めた。1645年にヤマサ醤油が創業 し、本家に養子で入った梧陵さんもその七代目として家業に携わり、帰郷中にちょうど安政 元年の地震と津波が起こった。家業の醤油業で稼いだ金を郷土の復興と防災事業に注いだ。十代目濱口儀兵衛(梧洞)が現在の百年企業としてのヤマサの元を築き、銚子に公正学院と いうヤマサの従業員らの為に夜間学校を創った。その六番目の子息毅六は菊正宗に養子に入って社長となるが、菊正宗、白鶴、山邑の3酒造会社が、現在の灘校を含む灘育英会を創立したことにも梧陵さんが偲ばれる。

 経世済民、梧陵さんががめざしたものは
 白岩さんの報告を聞いて、梧陵さんの多彩な行動は、「経世済民(世の中の貧しい民を救うための学問)」にもとづく新しい日本社会、そのような意味での日本の近代国家を構想し ていたのではないかと想像した。そのもっとも具体的な活動は津波への機敏な対処と、被災 後の郷土の復興事業に見られる。梧陵さんはまた江戸末期に私塾を起こし、それがのちの耐久社、県立耐久高校(耐久社敷地は耐久中学校)になっている。1858年には焼失した種痘館を再興し、「七新薬」出版など医学界への貢献もあり、大久保利通の推薦もあり駅逓頭(初代郵政大臣)も務め(前島密の帰国に伴い3週間ほどで辞めたが)、和歌山県議会初代議長ともなった。国会設立の建白書提出の運動にも参加した。福沢諭吉を介して交詢社との交流もあり、記念館の年譜の記載の通り自由民権運動にも関わっていることは間違いないが、詳細は今後の調査を期待したい。梧陵さんは1885(明治18)年欧米視察の途中ニューヨークで亡くなったが、彼がそこに見ようとしていたのはどのような世界だったのだろうか?写真で見る梧陵さん は整った理知的な顔つきの紳士である。そのポーカーフェイスのような表情の下に、激しい情熱と凡人の予想を超える深い思考と行動力を秘めて日本の未来を見据えているようだ。こんな人物が明治の政界でもっと活躍していたら、あるいは現在にもいたらと思う。二次会でも「へえー!」というような興味深い話を聞くことができた。白岩さんの今後の調査を待ち、再度この場で報告をされんことを期待する。