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大阪民衆史研究会活動資料室

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 2012年資料

誤った対応をした「校長の苦悩」を擁護する

NHKの放映に抗議の投稿

渡 辺 倬 カ

 作家の赤川次郎さんは、2012年4月14日付けの『朝日新聞』の「声」欄に投稿している。
 「大阪の橋下徹市長は大阪府立和泉高校の管理職をなぜ処分しないのだろう?教師の口元チェックをしながら、姿勢正しく心をこめて「君が代」を歌えたはずがないのだから。それにしても生徒のためのものであるはずの卒業式で管理職が教師の口元を監視する。なんと醜悪な光景だろう!橋下氏は独裁も必要と言っているそうだが、なるほど「密告の奨励」は独裁政治につきものである…」と。
 私はこの主張に全面的に賛同する。
  和泉高校の隔週定時制(定時制家政科)は、私が新任教諭としてスタートした、そして17年間も過ごしたかけがえのない大切な学校である。隔週定時制は、当時九州、沖縄など西日本の中学を卒業して大阪の繊維関係企業に集団就職して働きながら学ぶ勤労学生のための学校であった。今は、隔週定時制は生徒がいなくなって廃止されて、全日制だけの学校になっているが、和泉高校そのものは私を優しく励ましてくれた学校、厳しく鍛えてくれた学校である。再任用を含めた41年間の教職生活を無事に終えることができた一番の基礎は、和泉高校隔週定時制時代の様々な経験である。
  和泉高校へのそのような「思い」をもつ私が、8月15日の「NHKかんさい特集・夏『君 が代条例の波紋』」を見て、どうしてもこのまま見過ごすことができなくなり以下のような主張を郵送しました。

  NHK大阪殿
                    大阪の明日の教育を切り開くために

 2012年8月15日(水)、「NHKかんさい特集・夏『君が代条例の波紋』」を見た。
  NHKは「口元チェック校長の言い訳報道に徹した」と私は思った。何故そうなったのだろうか? それは「君が代条例」の違憲性、教育の条理への背反性をまったく問題にしていないからであり、日本国憲法を中心に置いた考察をしていないからである。

  例えば、小渕内閣時での「国旗・国歌法」成立の際の審議の不十分さ、国民的論議の不足は報道しながら、当時「この法律は国旗、国歌についての単なる定義法である。したがっ て、日の丸・君が代の歴史についての学習や教育は大いにすすめるべきだと考える。しかし、日の丸・君が代を国民に押しつけることはしないし、押しつけることはなじまない」という政府答弁はいっさい報じていない。まして、2011年の「君が代条例」は、大阪府議 会においてほとんど審議もなく「大阪維新の会」が多数を頼んで強行したものであるにもかかわらず、この暴走については何も報じなかった。

 こうした報道姿勢のなかで「教育現場での異常」を異常と感じない鈍感さを露呈している。その端的な例が、和泉高校生が、学校から自衛隊の駐屯所(か?)を訪問し、自衛隊の隊員から直接授業を受けていることである(「國」という言葉について教えている)。何のコメントもなく、疑問点もなく映し出されていた。自衛隊行事に個人が個人として参加するのは自由である。しかし、非武装を謳う第9条を有する日本国憲法の観点から自衛隊員が学校から正式に参加した生徒に直接授業をすることについては、もっと慎重であるべきであろう。自衛隊員の生徒への直接の「教え」は長崎の被爆体験を聞くのとは次元が違う問題だと気づかない鈍感さに背筋が凍る思いをした。

 憲法で保障された内面の自由に抵触する可能性のある「君が代条例」を具体化するために府教委が発した職務命令を忠実に実行しようとすれば、そのチェックポイントは際限なく拡大するであろう。そして教師不信のこの口元チェックという暴走を一度実行した校長が、次はどうするのか悩んでいる姿を報道することに意味があるとは思われない。

 日本国憲法に考察の中心をおいて、「君が代条例」を批判的に報道する視点に立ちきることが、それのみが大阪の明日の教育を切り開く展望を与えてくれることになるのだ。
                                               2012年8月16日
                                              岸和田市:渡 辺

 

愛国心教育

熊井 三郎

 私は愛国心教育に大賛成である。強力に推し進めてもらいたいと思っている。子どもたちにではない。いい歳した経団連のおじさんたちにである。井上ひさしさんのいう闇の枢密顧問官たちにである。
 彼らはいずれも巨大企業の経営者である。一にも二にも自分たちの利益しか考えていない。自分たちの利益というのは経営する巨大企業の利益のことであり、つきつめれば自分たちの保身のことである。なぜ保身かと言えば、株主のために利益を出せればだせるほど自分は安泰であり、出せなければクビだと心得ているからである。それが国民を困らせようが、彼らが好んで口にする「国益」を害しようが、お抱えの政治家や官僚や学者・評論家・マスコミを使って実現してしまうのである。
 原発が悲惨を極めている最中でもあくまで推進を主張し、言うことを聞かなければ企業は海外に逃げて行くぞ、そうなれば産業は空洞化し経済は停滞し雇用は破壊されるぞと、政府と国民を嚇し上げている。まさにいい歳をしたこの連中にこそ愛国心教育がいると私が考える所以である。
  今日も今日とて、これ以上ドル安円高が進めば、つまり政府が手を打たなければ、企業は海外へ逃げると、経団連御用達の大新聞さんが嚇していらっしゃる。法人税を下げないと逃げる、規制を緩めないと逃げると、まあバージョン多彩で言いたい放題だ。 じゃあ聞くが、円安になれば逃げた企業は出戻ってこなければおかしいよな。そして円高になればまた逃げるんだよな。そんな愉快な企業があるのなら暗い世相に明るい話題だ、ぜひ紹介してほしい。
 そもそも経団連とは、危険な使用済み核燃料を出しつづけ、その処理法さえ確立していない原発―核分裂発電所を、世界有数の地震・津波国に建て続けさせ、自分たちの利益のためには日本の子どもたちを絶滅させてもいいと考えている恐るべき陰謀団体なのである。こうなってくるともはや愛国心教育では間に合わず、国民の厳しい糾弾しかないのかもしれない。

2012年2月7日掲載

転換から前進へ―現実が提起する問題

尾川 昌法

 2012年は、大きな歴史の転換点、という予感がある。1月の台湾総統選に始まって、ロシア大統領選、アメリカ大統領選、韓国大統領選、中国共産党大会、など主要な国と地域で政権交代をかけた選挙が予定され、ジャーナリズムは「スーパー・イヤー」と呼んで、その変動に注目している。北朝鮮に発足した後継政権の動向が加わるアジア情勢は、さらに激動することも予想される。
 日本では、昨年11月大阪府市のダブル首長選を仕掛けてもくろみを達した「維新の会」の政策が本格的に展開される。府市の職員、教員に服従を強制する権力支配体制を作り上げるばかりではなく、市民・公共団体の補助金カット、保育・幼稚園や市営地下鉄等の民営化を推進しようとしている。世界経済の危機的状況に揺れる日本独占資本に奉仕するための新自由主義的構造改革路線にほかならない。これが大阪の問題でなく全国に連動した「草の根の保守運動」であるのは、「維新の会」代表である新大阪市長の施政方針演説も明言したことである。そし てまた世界にエネルギー政策の転換を迫った3・11震災は収束のめども見えないままに1周年を迎える。
 歴史は常に大なり小なり転換しつつ前進するが、2012年は大きい転換期に入っているように思われる。この転換期の現実が私たちに提起している問題は何か。現実が提起している問題を確認し、それを民衆の視座から研究しなければならない、と私たちは歴史学の先輩たちから学び、引き継いでいる。今、その研究課題は何か。地方自治、あるいは地域民主主義が一つの重要課題ではないか。保守運動の攻撃の焦点が地方自治にあり、積み上げてきた成果を壊そうとしているからである。
 明治憲法に地方自治は全く規定されていない。地方制度は全て法律で決められていた。天皇制の中央集権体制の末端機構でしかなかったからである。現憲法がはじめて「地方自治」(第8章)を規定して60余年、私たちは民主主義とともに地方自治を学び、発展させてきたのであった。用語はともかく「地方自治」は、もちろん近現代の問題に制限される問題ではなく、古代から現代までの問題として広く考察されなければならないであろう。民主主義が古代に発生し近現代へ発展しつながっているのと同様である。
 もう 安心して楽しく暮らせる地域社会を住民自身で築いていく運動は、地方自治の認識とともに広がり全国的な運動に成長している。3・11震災の被災地域の直面している重要課題でもあるのはいうまでもない。地方自治あるいは地域民主主義を発展させる住民運動であり、人権尊重を基本理念とする憲法を擁護し、民主主義の進化・拡大・発展を求める運動である。この運動の視座から、地方自治の歴史的形態と展開について、これまで以上に意識的に考察しなければならない。これが現実が提起する問題である、と私は思う

2012年1月11日掲載

 2011年資料

嵐の前のエジプトの旅

林耕二

激変の2週間前に帰国する

 今年1月4日から11日の日程でエジプト(ルクソール)を訪れた。今回で5回目のエジプトの旅である。帰ってから2週間後の1月25日から反ムバラクのデモと集会がカイロを中心にはじまった。最初にフェイスブックを通じてデモの呼びかけを行った若者たち(当初は「4月6日運動」)の予想さえ超えて、よく乾燥した草原に火のついたように、たちまちエジプト北部の中心都市(カイロ、アレキサンドリア、スエズ)に反ムバラクの抗議行動の炎がひろがった。

「ムバラクはきらいだ」と言ったタクシ ー運転手

 エジプト社会のほんの表面にしか触れることのない旅人にさえ、今回の事態を多少予感させることはあった。昨年の1月カイロから600キロ南の古都ルクソール(古代はギリシャ語でテーベ、古代エジプト後でワセト)を訪ねた際、タクシーの運転手が唐突に外国人の私に言った。「ムバラクはきらいだ!」。はきすてるように小声で彼が言ったので驚いた。警察の検問所で警官に呼ばれて、車に帰って来た時だ。暗い表情で帰って来た。そのときはよくわからず、その話にはあまり深入りはしなかったがあとで述べるような事情があったと思われる。
 エジプトのひとり旅でよくタクシーを利用する。日本より非常に安いのだが乗車前に必ず料金を交渉した上で乗る。外人には法外な料金をふっかけてくることがあり、半分くらいに値切る交渉をする。それでも日本と較べると相当安い。ルクソール空港からホテルのある市中心部までは7Kmほだが、40エジプトポンド(現在のレートで560円ほど)で行った。あるオランダ人女性は同じ道を20ドル(1800円ほど)取られたと嘆いていた。

白昼堂々の警察官のワイロ請求

 エジプトの公共交通の料金はずいぶん安い。たとえばルクソールのナイル川の東岸(市の中心部で生活区域)と西岸(王家の谷など古代遺跡の宝庫で農作地域)をむすぶフェリーは片道1ポンド(14円)である。カイロの地下鉄は料金は均一で1ポンド。しかし、外国人とエジプト人に料金差が設けられている場所もある。カイロ博物館は外国人は50ポンドでおよそ700円(少し前まではレート換算で1000円くらい)ほどだが、エジプト人は3ポンドで50円弱である。ある旅行者が現地の人に聞いたところエジプト人は最低で月に400(約6000円)ポンドあ れば生活できるという。一日2ドルほどの生活費の人も多いと報道されていた。
 警察官のワイロ請求行為は白昼堂々と行われていた。今回も同じルクソールを訪れ、南に120キロほどの所にあるエドフのホルス神殿を見るためにタクシーを雇った。運転手はアリババ氏である。ターバンを巻いて、首から足元まで覆う古びたアラブの服装をしているので、日に焼けた目鼻立ちの大きい顔つきからしてもアラビアンナイトの世界に出てきて不思議ではない人物である。ナイル川に沿って一本道を恐ろしいスピードで走り続けるのだが、村や町、要所には必ず検問所がある。ナイルの中流域は現在もテロや誘拐などの危険があるということになっ ていて旅行者は少し前まで一人では自由に行動できず、コンボイ(集団を組んで行くツアー)の方式でしか行けなかった。昨年はこの地域でガイドと運転手の2名を雇い高い料金を払った。日本の代理店を仲介したのだが、むやみに単独行動しないように注意してくれた。「なんと言ってもエジプトは警察国家ですから気をつけてください」と。
 最近は緩和されているが、検問所は鉄の柵を交互に並べ2〜3mほどのやぐらがあり、その上の銃眼から機関銃が脅すようにのぞいている。アリババ氏はルクソールを出発する際に、通行手形のような書類をもらってきた。 これにはもちろん費用がかかる。ところが、検問所を通過するたびに、警察官がアリババ氏にあきらかなワイロを請求している。毎回5〜10エジプトポンド(100円前後)の少額であるが、目的地に着くまでに50ポンド(700円ほど)になった。契約料金は60ドルであるので、日本円で換算 すれば約5400円の10%以上になる。彼の手元にあった小額紙幣の束がたちまち底をつきアリババ氏は嘆く。「日本ではこんなことはあるのか?」と聞くので、「いや、こんなことをすれば日本では警官も逮捕される」と腕をくくられるジェスチャーも交えて言うと、彼は「ウーム!」とうめくようにため息をついた。
翌朝、今度は北に160Kmほどのオシリス神の信仰の中心地アビュドスのセテイ1世神殿に行くのに同じ値段で同じタクシーを契約していたが、朝待ち合わせ場所に行くと運賃の値上げを要求してきた。100ドルにしてくれという。前日のワイロにまいったアリババ氏がごねだしたのである。一歩も退かずに、これは契約だから値上げはできない、とつっぱったら、とうとうアリババ氏は運転手を降りて別の運転手に交代した。昨年の運転手が「ムバラクは嫌い」と言った状況と同じだということを思い出した。そのときも検問所で止められて、彼だけしばらくどこかへ連れて行かれて帰ってきたときは情けない顔をしていた。昨年同じようなことがあったのだと思われる。今年はさらに堂々と警官のワイロ要求が外国人の目の前でも行われていたのである。 
 こんなこともあった。カイロ博物館で休息のために座ったベンチの横に警官がいて、水をやろう、と言う。警官なので好意と素直に受け取ってペットボトルを持ったとたん、手を差し出して金を請求された。あわてて返したが、びっくりした。天下のカイロ博物館で警官が水の押し売りをしていた。おそらくトップの腐敗が末端の警察官に、金額や事の大小はあれ蔓延しきっていたのである。他の発展途上国でも多かれ少なかれ公務員のけちなワイロ請求はあるように思えるが、エジプトの警察官ほど堂々としたワイロ請求や上記のとんでもない行為は少ないように思えた。タクシー運転手も、この警察官の理不尽な態度の後ろにムバラクの存在を見ていたから「ムバラクはきらいだ」と言ったのであると思う。

イスラムの精神をもふみにじる警官の態度

 イスラム教徒に課される義務である五行の中に「喜捨(ザカート)」がある。これは裕福な者が行う慈善的な行為であるが、ザカートのもとの意味は「清浄」「純粋」などで、それが「慈善」「救貧税」「喜捨」などと訳されている。イスラム教が本来持つ相互扶助の精神が具体化されたものである。政府の税金や個人の任意の寄付でもなく、各人の財産を通じて信仰心を表明することだという。ザカートには割合が定められていて、金銀や現金、商品などの収入であれば、その25%が喜捨にあてられるという(平田伊都子「イスラム入門」)。これらは裕福な者が貧しい者を対象に行う行為であるが、これのねじれたかたちが「バクシーシ」である。エジプトを旅していると、タクシー料金 でも、レストランの食事代でも請求だけ払ったあとに、さらに「バクシーシ」と言って手を出されることがよくある。我々の理解する言葉ではチップである。料金をふっかけたうえにニヤニヤ笑って「バクシーシ」と言われると、我々にはまったく納得がいかないことである。「バクシーシ」は「ザカート」のねじれたかたちのもので、貧しい者が裕福な者によく言えば「チップ」、悪く言えば「せびる」行為である。ただし、適当な額で習慣通り払えば、相手のサービスなどが特段によくなる社会の潤滑油である。かげんを見て利用せざるをえない。警察官の白昼堂々のワイロの請求は、このような「バクシーシ」的な習慣が土壌にあるのかな?とも思えるが、これが権力をたてにして弱い者にたかり、イスラムの精神もふみにじり、いじめるような行為になっているのでエジプト庶民はみな怒るのだ。  

運転手は「新しい大統領がほしい」と言った

 「ムバラクは嫌いだ」の運転手のつぶやきはエジプト中に無数に広がっていたのだ。今年別の運転手に「ムバラクはどう思う?」とためしに聞いてみた。彼は即座に、「長すぎる!」「新しい(大統領が)ほしい!」と力強く答えた。自由が抑圧されている状態は観光客からはなかなかわからないが、ナイル川で乗ったファルーカというナイル独自の帆舟に掲げている小さな旗に、ゲバラの顔と「FREEDOM(自由)」の文字が描かれていた。舟のキャプテンのアフメド氏は、「自分はヌビア人(エジプトの最南端、アスワン付近に住む人々で古代エジプト時代に征服された。北のエジプト人より皮膚が黒く、貧困層である)だが」といい、「他のエジプト人からは嫌われているので私に会ったと言うことはホテルでは言わないでくれ」と語った。またコプト教会(エジプトの独自のキリスト教で古代エジプト人の伝統を継いでいると言われる、同教徒には上流層が多く人口の10%ほど)に対するイスラム教徒によると思われる大きな襲撃事件は昨年と今年もあった。エジプト社会も民族、宗教が異なり対立や皆それぞれの要求がある。ただ最近の教会爆破事件は、アフメド氏も「あれは外国人がやった。(エジプトでは)イスラム教もキリスト教も友人同士だ」と言った。
 タクシーでナイル川沿いに走る道路に、ムバラクの巨大な看板があちこちに立てられていた。自分がつくった道路だと誇るように、黒いサングラスをかけて立つ映画の看板のような姿は、どう見ても大統領より国民ににらみをきかし、たかっているギャングの親分としか見えなかった。そのムバラクは2月11日ついに辞任に追い込まれ、反ムバラク運動の中心場所であったカイロのタハリール広場を埋め尽くしていた民衆もそれぞれの職場や 家庭にもどった。リビアとは違って国民に銃口を向けなかった軍が暫定的に統治を行い、憲法改定国民投票(19日)、人民議会選挙(6月)新大統領選挙(7月半ば)など民政移管の日程が組まれている。独裁の30年間に耐えたエジプト国民の怒りと冷静な抗議行動に支えられた変革の力は、あともどりはさせないだろう。先日カイロでよく泊まるペンションのオーナーのエザット氏にメールで問い合わせると、「エジプトはもう大丈夫です。何もあぶなくないですよ。もちろんさくら(宿の名前)はやっています。ぜひ遊びに来て下さい。お待ちしています。」と返事が返ってきた(2月14日)。  (さくらは、あのタハリール広場まで歩いて10分ほどのところの建物にある。一泊1000円ほどでオーナーは日本語を喋るので便利。)

3月10日掲載 本文には写真がありますが省略しました

戦争と戦った三重の人々

−遠くでかすかに鐘が鳴る−

酒井一

夏の暑さの中でひとしきり思い浮かぶ俳句がある。
 八月や六日九日十五日
 1945年の日本の姿。忘れっぽい日本人の心にいくども蘇ってくる作者不明の俳句である。
 戦争は突然やってくるのではない。必ず予兆があり、それを見すごしたあとに惨憺たる事態がやってくる。終戦の日、あえて敗戦とはいわない。戦争の本質は勝敗をこえて存在するからであるが、大人たちのその後にみせた反省のない変身ぶりに、少年たちの心は傷ついた。その上、政府・国家は必ず崩壊するという歴史の教訓を学んだ。長じて、嵐の中で狂奔せず、時代の流れを見つめて、ときに烈しく戦争と戦い、ときに静かに人間としての生き方を求めた人たちのことを知ると、勇気づけられた。三重県にはこのような働きを残した人たちが少なからずいる。暗夜の光芒というべき存在で、嬉しいかぎりである。  治安維持法によって逮捕された民衆の中の学者河上肇は、1935年「除夜の歌」と題して、サブタイトルに記した詩を書いた。あすを信じるものの密かな確信である。
 少し古い記事だが、2003年12月31日付の朝日新聞天声人語は、この年に生誕百年を迎えた人たちの名を列挙した。小津安二郎・小林多喜二・林芙美子・草野心平・小野十三郎・棟方志功・知里幸恵(アイヌの神話集をまとめた)・山之口漠(沖縄出身の詩人)などである。これに私は「吉田肉腫」を発見してガン研究を飛躍的に発見させた吉田富三、新聞のアンケートで戦争犯罪人はだれかと尋ねられて、自分の名前だけを書いた英文学者中野好夫を加えたい。こう並べてみると一つの生年をスタートにしてそれぞれの生き方が浮かび上がってくる。
 小津安二郎は、現在の東京都江東区の生まれだが、9歳の時父の郷里である松坂へ転居し、県立宇治山田中学校に学んだ。当時すでに映画に熱中し、進学に成功せず、一年間松阪市飯高町の宮前尋常小学校の代用教員を務めたこともある。「地面ぎりぎりから撮影する低いカメラアングルと厳格なまでの正面からの切り返しのフィクスショット」に特徴があるといわれる。戦後ホームドラマの型を完成させた映画監督である。小津の名画に登場する原節子を思い出すが、戦前に限っていえば、1927年から松竹蒲田撮影所などで制作した映画は39点。親しかった吉田喜重監督の話では、小津は軍服が町にあふれていた時代にも、画面に一人の軍人も登場させていないという。かれの作品にやさしい伊勢の風土を感じるのは、私だけだろうか。
 老いて今聴けば不戦の歌ならん「スーダラ節」に口笛で和す 岡山市 佐藤茂広 
  2007年4月30日の朝日歌壇入選の短歌、選者は佐佐木幸綱。この人も鈴鹿市石薬師にルーツをもつ信綱の孫。この年3月27日に植木等が他界した。
 等の父は、植木徹之助、浄土真宗の僧籍に入って徹誠(てつじょう)と称した。つねづね「人間はみな平等」「戦争は集団的な殺人」と語っていた。日中戦争が始まった翌年(1938年)、小学校6年生になってまもない頃、先生に引率されて伊勢神宮へ参拝した時、号外!号外!と言う声と鈴の音が聞こえ、ばら撒かれた号外を児童たちが争って拾った。なんとそこに検挙された父の写真が載っていた。ションボリしてる等(この名には平等の思想がこめられている)に、担任の先生が「植木君のお父さんはけっして悪いことをしたんじゃない。立派なことをしたんだよ。ただ進みすぎていたんだ。今のご時勢に合わないだけなんだよ」と声をかけ、励ましたという(『80年代の日本国憲法ー私はこう考える』所収、植木等「父に学ぶ」岩波ブックレットNo.16、1983年)。徹誠の名は、三重県の三大民衆運動のひとつ「朝熊闘争」で伝わっている。いまは伊勢市に入っている度会郡四郷村朝熊区の山林解放を求めて差別撤廃に献身した。ユニークで権力を恐れない豪放な人生を送った。治安維持法によって何度も投獄された。等がこのビラに驚いた時は、四郷小学校に通っていた。彼を励ました引率者の先生の名を確かめたい思いに駆られる。随分勇気のいる行動だが、子どもを庇い、時代を見つめる澄んだ瞳が浮かんでくる。『夢を食い続けた男ーおやじ徹誠一代記』という植木等の本(朝日文庫、1987年)に、小学校の恩師上林貞治と朝熊の道端で話をしている写真がある。この先生だろうか。  等の妹婿で朝熊入会問題を調査した川村喜二郎氏によると、地区でデイミトロフの名を語るのに驚いたという。コミンテルン(共産主義インターナショナル)の幹部で、ブルガリアの武装蜂起で死刑の宣告を受けて逃亡、1933年ヒトラーらファシストの謀略によってドイツ国会議事堂放火事件の首謀者とされた人物である。法廷で闘って無罪を勝ち取り釈放された。反ファシズム統一戦線論を唱え、第2次世界大戦後にブルガリア人民共和国首相に就任した。つねに民衆にわかりやすく簡明に具体的に呼びかけることを説き、劇的な生涯を送った。その名が朝熊の運動で語られていたのである。川村氏の推定では、コミンテルンの情報が密かに海員組合の手で伝えられたのではという。その通りであろう。戦争がグローバルに展開しはじめたとき、反対運動も国際的なものだった。
 朝熊の三宝寺に住んだ頃は、獄中の父に代わって檀家廻りをし、宇治山田署に父の差入れに行ったりして、いじめに会ったが、父と三重県下に広がっていた社会運動から学んだ教訓は大きいものがあった。兄の徹も型破りの青年だったが、1942年に岐阜県各務原の第67連隊に入り、翌年1月ニューギニア近くの海上で戦死、21歳。人権・反戦に生きた父の子でもこう追い込まれる。徹誠は、「わかっちゃいるけど、やめられない!」のスーダラ節に親鸞の教えがあると等に語って元気づけたが、77年弾圧時の苦しみをうわ言で語ったりして82歳で死亡した。「ハナ肇とクレージーキャッツ」の一員として爆発的人気を博し、60年代からの高度経済成長のもとで「無責任」時代をつかんだ明るさに満ちた魅力の背景に、この父の生き方が光っている。
 1937年1月21日、立憲政友会の代議士浜田国松は、第七十議会で、官僚を中心に組織された広田弘毅内閣に対して劇的な論陣を張った。前年に2・26事件が起き、軍部大臣現役制が復活、軍部の力が強化されてきた。振り返るとこの演説のあと半年を経ずして蘆溝橋事件が起こり、日中戦争が始まる。まさに戦火が臨界点に達しようとする重大な時である。  当時の宇治山田市出身の弁護士、三重師範学校を卒業し、一旦小学校教員を務めたあと、東京法学院(現・中央大学)に学んだ。いくつかの政党歴を経て、衆議院議員当選12回、この演説のすぐ前まで衆議院議長を務めた政界の大物、自由主義・反ファッショの担い手であった。
 「軍人は政治に関わってはならないはずである。」と述べて、政党政治を終わらせた5・15事件以後の情勢をふまえて行った演説に、寺内寿一陸軍大臣が反発、軍を侮辱した部分があるとした。やりとりの挙げ句、浜田は陸軍大臣が国家の公職者なら、私も陛下の下の公職者であり、「殊に九千万人の国民を背後にして居る公職者である」と反論し、侮辱に当たるようなことがあれば「割腹して君に謝する、なかったら君、割腹せよ」と結んだ。世に「腹切り問答」と呼ばれるものである。当時70歳、議員歴30年の重みを持つ発言である。その内容は、同年1月30日に早速『議政壇上に叫ぶ』(森田書房)として出版された。9カ所に及ぶ伏せ字があるが、迅速な対応に驚く。「広田内閣に告ぐ」「軍部万能を排す」「台頭する軍部の政治推進力」「軍民一致か、国民一致か」「寺内陸相に問ふ」など13項目にわたる鋭い舌鋒の演説である。
 寺内は1933年6月、大阪に置かれていた第4師団長時代有名なゴーストップ事件を経験していた。天神橋筋六丁目交差点で赤信号を無視して横断した一等兵を、交通巡査が制止したために起こったもので、「兵士は警官の命令に従わない」といったことから喧嘩になり、果ては陸軍省と内務省の対立にまで広がった。この事件は軍部が国民生活の上に立ち始めたことを象徴する出来事だった。
 腹切り問答の結果、軍部と政党の対立が深刻となり、閣内不一致で広田内閣は総辞職。この議会のあとすぐ、浜田は斎藤隆夫(立憲民政党)と加藤堪十(日本労働組合全国評議会、のち日本無産党)とともに『議会主義か、ファッショか』(第百書房、1937年)を発行した。三重県には浜田と同一選挙区から出た「憲政の神様」尾崎行雄(萼堂)がいるが、この時期、尾崎・斎藤・浜田の三人は輝ける反ファッショ先鋒の国会議員だった。斎藤は36年5月7日第六十九議会でこれまた歴史に残る「粛軍演説」を行っていた。伊勢市岡本町の私邸跡に浜田の顕彰碑が建てられている。

 竹内浩三「骨のうたう」  

  骨のうたう
戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や 

 旧宇治山田市吹上町で1921年に生まれた竹内浩三の詩である。宇治山田中学校を経て日本大学専門部映画科へ。1942年久居の中部第38部隊に入り、45年4月フィリピン・ルソン島のバギオ北方1052高地にて戦死、23歳。
 『三重大学五十年史』通史編は、日本国憲法と教育基本法の理念に基づいて新制三重大学が設置される記述の冒頭に、この詩を掲げた。戦争を疑い戦争で死んだ、この伊勢人らしいやさしい気持ちを、新制日本の三重県における教育のスタートに位置づけたのである。
 「ぼくもいくさに征くのだけれど」と題した詩にはこう歌う。「街はいくさがたりであふれ/どこへいっても征くはなし 勝ったはなし/三ヶ月もたてばぼくも征くのだけれど/だけど こうしてぼんやりしている」「だれもかれもおとこならみんな征く/ぼくも征くのだけれど 征くのだけれど」。詩「帰還」には「あなたは/かえってきた/あなたは/白くしずかな箱にいる/白くしずかな きよらかな/ひたぶる/ひたぶる/ちみどろの/ひたぶる/あなたは/たたかった だ/目は黒ずみ  くずれた/みな きけ/みな みよ/このとき/あなたは」(/は改行をしめす)。白木の箱に納められた戦死者の遺骨に自分を重ね、事実その通りになった。
 「鈍走記」と題する草稿には、「戦争は悪の豪華版である」「戦争しなくとも、建設はできる」「子供は、注釈なしで、にくいものをにくみ、したいことをする。だから、すきだ」と書いている。  
 浩三の小さな手帳に書かれた「筑波日記」は、宮沢賢治の本をくり抜いてその中に収められ、4歳年上の姉、松島こうの許に届けられた。宇治山田は空襲に遭ったが、浩三の記録は姉の嫁ぎ先である松阪市日野町の八雲神社で守り抜かれ、日の目を見た。ある本には「たまたま姉が松阪に引っ越していたため」とあるが、この神社の宮司で本草学研究でも知られた三重大学松島博教授の妻だった。
 二人姉弟を生んだ母は、小学校教諭を務め短歌を佐佐木信綱に学んだ。門人の死を悼んで信綱は弔歌を贈っている。浩三の姉は、弟の遺骨と称するものが届けられた時、「一片のみ骨さえなければおくつきに手ずれし学帽ふかくうずめぬ」と詠んだ。浩三は予想したように白木の箱に入って戻ってきたが、骨はなかった。姉の嘆きが聞こえてくるようだ。浩三関係の記録は、松阪の本居宣長記念館に寄贈されている。
 浩三の「戦死ヤアハレ」の詩が、1980年に朝熊山上金剛證寺の墓地に建てられた。その後5年ほどしてこの碑を見た時の感動は忘れられない。宇治山田出身の伝説の名投手沢村栄治は、1944年12月東シナ海で戦死したが、浩三と同じ墓地でほんの数歩のところに葬られている。ここからは富士山が見える。


−岩間光男−

 

今まで述べてきた小津・植木・浜田・竹内はよく知られ、一般の刊行物によって足跡を追うことができる。つぎに取り上げる2人、岩間光男と永田和夫はほとんど知られていないが、これらの人たちと同じ思いに立って平和に生きることを願い、戦争の根源に向かって戦争と戦った人物である。しかもともに心ならずも「国賊」「非国民」の名を背負って従軍し、1944年3月から始まった悪名高いインドのインパール作戦で命を絶った三重県人である。
 まず、岩間光男のこと。大阪の難波新地(南地)九郎右衛門町で、1910年8月に芸妓・四木部春栄の婚外子として生まれた。父は三重県出身のブルジョアとも元外交官ともいわれる。母も三重県出身で心が通ったのであろう。光男の出生届では1913年8月で3年遅れになっている。2歳のとき大阪市電気局勤めの岩間倉太郎の養子になり、実親の縁か少年期を津市で過ごしている。修成尋常高等小学校時代の写真が残っている。23年に養父母の元へ引き取られ、大阪府西成郡鷺洲第三尋常高等小学校などを経て、大阪市立都島工業学校電気科に進学したが、学費が続かず退学した。
 大正・昭和前期に大阪市周辺は紡績についで機械金属などの工業化が進展し、労働者が多く社会運動の拠点になっていた。岩間もその流れの中で大阪金属労働者組合に関係し、港区市岡に移り住み、勤めのかたわら「無産者新聞」の仕事に関係した。世に言う28年3・15事件の頃である。
 29年3月3日岩間は天王寺公会堂で開かれた第2回全国農民組合全国大会に参加、治安維持法改悪に断固反対していた労農党代議士山本宣治の「山宣ひとり孤塁を守る」云々の名演説を聞いた。この演説については壇上で書記をしていたNは、生前山宣はこんなセンチメンタルな表現をしなかったとしばしば私に語っていた。それはともかくその2日あと山宣は東京で暗殺される。そして4・16事件が起こり、岩間も最年少で逮捕された。  その後刑期を終えた34年2月から、かれの姿が大阪港に近い市岡に現れる。ここに一岡ビルがあり、その一角で「労働雑誌」関西支局の活動をはじめた。反ファシズム統一戦線の取り組みである。
 岩間の生涯は、松浦由美子さんの『闇のなかの光たち インパール作戦と「労働雑誌」記者岩間光男』(自家版、2002年)に実に見事に尋問調書、聞き取り、現地調査などによって浮き彫りにされている。忘れられた反戦の人への温かいレクイエムである。
 松浦さんは大阪の教職員組合の事務局に勤めるかたわら、社会派シャンソン歌手として令名高く、大阪民衆史研究会の中心メンバーでもある。「労働雑誌」を発刊していた一岡ビルの警察作成の入居者名簿をすら入手。岩間の本籍地が三重県鈴鹿郡昼生村三寺であることを確認すると、亀山に出かけて電話帳から岩間姓を追う仕事を進めた。
 1942年11月岩間は本籍地の関係で久居の歩兵第151連隊に入営、43年3月中国大陸に駐屯していた際第15師団歩兵第51連隊に転属、9月に同連隊第2大隊第6中隊の一人として南方に転進、船でサイゴンに向かう。ここからあのインパール作戦に参加、44年5月11日戦死。
 松浦さんは、岩間の分隊長だった度会郡南伊勢町神前浦出身の浜地利男を捜し出し、津の三重県護国神社で催されていた祭・歩兵第51連隊戦友による慰霊祭に参加、浜地の優れた手記を本に収めて、反戦運動家岩間の人柄と戦死の様子を伝えている。浜地はこれより早く70年に『歩兵第51連隊史(中支よりインパール)』にいくつかの文章を寄せていたが、松浦さんの本には岩間に光をあてて得がたい戦争の実態を描き出している。中隊長から秘密の話として岩間が「思想的な注意人物となっている」と伝えられた。隊の編成表には岩間のような補充兵について個人の経歴、家族の貧富の程度、入隊前の本人の考課表など詳細な「兵籍書類」が用意されていた。しかし久居以来の軍隊生活の中で浜地と岩間は上官部下の関係を超えて信頼関係が生まれていた。
 インパールの激戦と惨状はここではとくに触れないが、よりにもよってこの連隊に編成された三重県の兵士は不運だった。松浦さんの調査は、浜地ら生き残った旧兵士たちとともに、現地に追悼の旅をしている。研究はこうでなくてはならない。インパールでの苦闘を「靖国街道」として軍医の目で記録した京都の中野信夫は、社会人類学者の中根千枝氏が学術調査のかたわら、インパールのコヒマで現地人が葬ってくれた数百の「土まんじゅう」に合掌する姿に感涙を流している。このような思いでここを訪れた女性は数少ないのではないか。
 43年6月インパール作戦の参加以前、中支西湖箕橋で歩兵第51連隊第6中隊全員を撮った写真が浜地の手元にある。後日の書き込みによると、総員176名、インパールのあと戦死115名、病死36名、生存(負傷者を)20名、不明5名。死亡率は不明者を含めて156名、88.6%、生き残った者は文字どおり九死に一生を得たことになる。


―永田 和生―


 『新版きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記』(岩波文庫、1995年)に永田和生の手記が載せられている。1916年5月伊勢市古市町に古くからの酒屋の三男として生まれ、宇治山田中学校、第八高等学校を経て京都帝国大学農学部農業経済学科に入学した。京大の共産主義学生グループを指揮して、40年検挙、懲役3年、執行猶予3年で出所し、42年9月卒業。10月1日から直ちに久居の中部38部隊に入営、竹内浩三と同年の同部隊とみられる。44年7月インパール道標38マイルの地点でマラリアとアミーバ赤痢により戦病死した。28歳。かれの歩みに、多気郡多気町相可の酒造家に生まれて社会運動に献身した河合秀夫の影響を考えてみたくなる。
 永田の生涯を追った『聞こえますか命の叫び』(かもがわブックレット、2006年)が、当時国会議員だった児玉健次氏によってまとめられた。表題は永田の言葉からの引用である。
 在隊手帳などを見ると、「人はもっともっとたのしく働き、暮らすべきものを」といい、軍隊内に不平不満が充満していると指摘している。出陣前に帰郷し、同じ京大学生関係の治安維持法違反に問われた友人竹田恒男あてに、「老いた母は僕に涙をみせまいと婦人会の集まりに出ていった。そのうしろ姿を心の中に拝みつつ、僕は涙を流した」と書き送っている。軍隊では高学歴ながら思想犯のため幹部候補生になることなく一兵卒だった。しかしその目は時代を見つめ、出陣に当たって「船は南に行く、アメリカの生産力と日本のそれと・・・」と記している。世界情勢も的確に見抜いている。
   この時点で所属部隊は、歩兵第151連隊第6中隊。広島宇品港からビルマへ向かい、インド東北部に投じられた。
 母せいは、ビルマ戦線歩兵第151連隊第6中隊戦没者合同17回忌慰霊祭が三重県護国神社で催された時参列し、インパールの生存者から報告を受けた。1961年4月の第三回合同慰霊祭のことであろう。この席では軍医だった紀平正生(産婦人科病院長)や子息を喪った浜地文平(度会郡南伊勢町神前浦出身、三重県師範学校卒業、衆議院議員当選8回)らが挨拶している。せいは、子の苦しみを思えば「耐えがたき親ごころでございます。いつの日にか忘れられましょうぞ。『わだつみ』の『不戦のちかい』こそ実に望ましく、おねがいするものであります」(「わだつみのこえ」12号、1962年6月)と記している。
 岩間(前号参照)と永田、所属連隊は違うがともに久居からインパールへ。自ら反対した侵略戦争の犠牲になった二人に、松浦さんの言葉を借りれば、社会運動(光)と戦争(闇)という相反する二つの問題があり、進歩と逆流の中に歴史を統一的に理解して分析することが問われている。そして歴史の向う岸に、戦争への異議を唱え、戦前「遠くでかすかに鐘が鳴る」ことを祈った時代から、今こそ「より近くに」平和の鐘と戦争からの解放を期待することを実現しなければならないだろう。それが21世紀の人類の課題であり、底流として、無告の兵士に代って戦争と戦った人たちの足跡を想起することがもつ意味であろう。(敬称は現存者にのみつけた)   完


 (三重大学退職教員の会「春秋会」機関誌「春秋」第33号2010・11より転載)

2011年1月28日掲載 2月12日続き掲載 3月10日続き掲載 4月16日続き掲載 5月8日掲載完了

 2010年資料

大阪民衆史研究会設立20周年をむかえて

尾川昌法

 大阪民衆史研究会は設立20周年を迎えました。1990年6月17日、奈良の久保在久氏自宅で、大阪の民衆史編纂を目標に「大阪民衆史研究会」を設立、3名の代表委員と事務局担当者、運営方法などを決定しました。大阪の民衆史を編纂するという具体的な目標を持って出発したので、会報は「編纂ニュース」として翌月の7月10日に創刊されました。この時の会員は「執筆者」として13人が参加していました。それから20年後の現在、「編纂ニュース」は「大阪民衆史研究会報」となって193号(「編纂ニュース」31号と合算して224号)、研究誌『大阪民衆史研究』は64号を発行し、会員は130人に発展しています。
 この創刊号に代表委員の一人であった向江強氏(現在会長)は、「大阪の民衆史を叙述するという目標で一致はしたものの、何をどのような視点でどう描き出すのか、さらにいえば、民衆史とはいったい何か、という根本的な問題で必ずしも一致しているのではない」、と問題を提起した論考をのせています。そして向江氏は、特に民衆生活の日常性と非日常性という問題を取り上げ、「非日常的な事件は、それ自体として突如として発生することはありえない。日常性の中にこそその根拠が存在するのであって、存在の矛盾は潜在的に進行し発展し顕在化する」ことを強調しています。例えば、百姓一揆のような非日常的事件であっても、その根拠は日常生活の矛盾の中に潜在している。それが重要である、と強調しています。  
 私がこの論考を取り上げるのは、大阪民衆史研究会の初心がここに読み取れると思うからです。二点を指摘できると思います。第一は、原則的に考える歴史認識の方法です。歴史発展の本質を追究しようという姿勢である、といってもよいと思います。初期の「編纂ニュース」には、「民衆」や「民衆史」の概念を巡って真剣な議論がかわされ、きわめて原則的に考えていたことが記録されています。第二は、民衆生活の日常性を重視するという民衆的視点です。特別の大事件だけではなく、日常生活を深く探究することで歴史の発展を読み解こうとする姿勢です。歴史の全体的把握を目指している、といってもよいと思います。民衆の視点から原則的に歴史を認識しようとすること、これが大阪民衆史研究会の初心といえるのではないかと私は思います。この初心は、現在の「会報」や研究誌に引き継がれ流れているものですが、20周年の今、改めて振り返り、さらに深化、発展させなければならない、と思います。
 今年はまた、韓国併合100周年、現行の日米安保条約調印と未曾有の国民的運動となったその反対運動から50周年に当たります。100年、50年という節目は遠い昔を懐かしむためではなく、私たちの歴史認識を問い直す機会であることに意義があると思います。歴史認識を問うということは、私たちはどこまで来たか、どこへ向かって進むのか、当面する歴史的課題は何か、を確認することでもあると思います。
 この5月10日、韓国併合100年にあたり日韓知識人共同声明が発表されました。それぞれ100人余の知識人が署名した声明です。韓国では重要な新聞社の主筆、社長や学者研究者を含み、日本では歴史研究者のほか「9条の会」の呼びかけ人となっている作家たちを含んでいます。声明は、「韓国併合の過程は不義不当であり、併合条約も不義不当である」ことを明らかにし、「われわれはこのような共通の歴史認識を有する。この共通の歴史認識に立って、日本と韓国のあいだにある、歴史に由来する多くの問題を問い直し、共同の努力によって解決していくことができるだろう」、と述べ、併合条約を未だに「有効」とする日本政府の公式見解の修正、歴史関係資料の収集と公開を要求しています。声明はまた、「罪の許しは乞わねばならず、許しはあたえられなければならない。苦痛は癒され、損害は償わなければならない」、と関東大震災における朝鮮人の大量殺害や日本軍「慰安婦」問題などの解決にも言及しています。「共通の歴史認識」に立って、100年後の現在の解決すべき課題を指摘したものです。
 日米安保条約も甚大な被害を日本社会にあたえ続けています。この条約から発生した米軍事基地は、人々の平和的生存権を侵害しています。沖縄県普天間基地の「移転」問題が当面の重大な政治問題になっていますが、この条約を廃棄することこそが、今こそ必要であり、根本的解決につながることが、誰の目にも明らかになっています。
 来年は、アジア太平洋戦争開戦から70年となります。この侵略戦争が生み出した人権侵害の諸問題は、未解決のままに残されています。たとえば、原爆被災者、空襲被災者、シベリア・中国の抑留者、従軍慰安婦(軍隊の性奴隷)、治安維持法犠牲者などに対する謝罪、補償問題があります。今も私達は各地で、謝罪と補償を要求して運動を進めています。「苦痛は癒され、損害は償われなければならない」、と日韓知識人共同声明は言っています。平和的に生存する人間の権利は現実のものとして保障されなければなりません。
 大阪民衆史研究会は20周年の記念総会を、韓国併合100年、現行日米安保条約50年の年に、来年にはアジア太平洋戦争開戦70年を迎えるという節目の年に開催しています。この機会に、歴史をふりかえることで様々な未解決の問題や私たちが当面している歴史的課題を見いだすことができますが、同時に、歴史教育と歴史研究の意義、役割の大きさを改めて私たちに教えています。その歴史教育、歴史研究にかかわる研究会として、私たちは誇りとともに責任の重さもまた痛感しています。民衆の視点から原則的に歴史認識を追求する、という研究会の初心を思い起こし、それをさらに鍛え発展させなければならない、と考えます。研究会の運営基盤を安定させるために、会員拡大も重要な課題です。そのためにも、若手研究者にとって魅力ある研究会でなければなりません。研究会設立20周年を越えて、私たちは、さらに前に進まなければなりません。

   2010年7月31日
   大阪民衆史研究会定期総会

喧騒の国 戦禍を引きずる国 ベトナム

開沼淳一

喧騒の国ベトナム

 ハノイ市であれホーチミン市であれ、ベトナムに来て誰もがビックリすることはバイクが道路いっぱいに溢れ、途切れることがないことだ。バスの窓を通して道路脇で警察官と何人かが話しているところをよく見かけたが、交通事故は珍しくないようだ。何列も隙間無く並んで/でイクが走っており、接触事故は少なくないのだろう。ベトナムの車両は右側通行で、対向する車線の大量のバイクが左折して来るときは、一斉にこちら側に押し寄せてくる感じで、ぶつからないか冷や冷やものだ。100〜150CC程度の排気量の小さなバイクだが、二人乗りはおろか子ども二人も乗せた4人乗りも見かける。10分も歩くと頭がクラタラするような排気ガスによる大気汚染の中、マスクを付けて運転する姿が多く見られる。バイクは大通りだけを走っているわけではない。ハノイ旧市街で経験したことだが、大人二人が並んで歩くのがやっとという幅の通路に沿って露店が所狭しと並んでいたが、その通路にバイクが割り込んで人ってくる。店のお客さんなのか、単なる通行人なのかわからぬが、バイクの通行規制はないのか、と思う。   バイクの大群が走る大通りを横断するのは勇気がいる。私たちは10数人のツアー客がまとまって横断したが、一人で横断する気にはなれない。ところが現地の人は慣れたものである。荷物を天秤棒に担いだ年輩の婦人がバイクの大群の中を横断していた。バイクの大群は暴走族の大群ではないということだ。ともかく、皆が若い。発展途上の国のエネルギーを感じる。
 大通りの雰囲気が一昨年行ったキューバとはまるで違う。バス停に人が溢れ、 通りのあちこちでヒッチハイクの人が手を振っていた光景を思い出した。同じ社会主義国だが、こうもまちの様子が違うのかと思う。

今も引きずるべトナム戦争の戦禍

 ツーズー病院の子どもたちに大きなショツクを受けた。枯葉剤によって奇形で生まれた子が入院している病院の一画に案内してもらった。ふくらはぎから下が欠損している予が私たち一行を迎えて廊下を歩き回っていた。通された部屋のべッドの中で寝転がっている子どもたちがいた。頭が異常に大きくいびつな形の水頭症の子、短い腕の先に指が2本ついている子、足が曲がっていて異常に細い子、全身が焼かれたような皮膚の色をしている子、顔の前面が異様に前に突き出た子。カメラを向けることができなかった。訪問した私たちのメンバーの指をシッカリ握って離そうとしない子どももいた。ベッドの外に出たいという思いとそれがかなわない悔しさを体で表していたのかもしれない。どの子も小学校に人るかどうかの年格好の子どもたちに見えた。戦争が終わって既に35年経過している。しかし、ベトナム戦争の戦禍は今も続いている。
  私たちがホーチミン市のツ一ズー病院を訪れたのは枯葉剤被害者の支援活動をしているドクさんに会うこととドクさんの主治医で枯葉剤の子どもたちの面倒を見ている平和村の村長でもある女医のタン先生の話を聞くことであった。タン先生の話では病院の中に平和村があり、60人の子どもが入院しており、その内30人は病院から学校に通い、残りの30人は病院生活を送っていること、全国で枯葉剤を浴びた者が450万人いること、しかし、実態は十分掴めていない。奇形の子どもを生んだことを世間に知られたくないと、隠そうとするから、とのことであった。この病院に入っている子どもたちはほんの一部で、家族の中で複数の子どもたちに障害があり、貧しくて子どもたちの面倒が見ることができないなど、厳しい家庭条件の子どもたちだけで、同じような境遇の子どもたちは他にいっぱいいること、などが話された。人が生きていくためには医療、教育、生活・生計、社会参加の4つが必要だがこれらの子どもたちの将来をどのように支えるのか、大きな問題があると語られた。
 アメリカの責任を問う裁判を行っていたが、負けてしまった。しかし、たたかいを続けるとも言っておられた。アメリカ国内ではべトナム帰還兵に対するアメリカ政府の枯葉剤に対する補償がされているのにべトナムの人に対しては何もしていないということであった。
 センターツーリストの松本社長とドクさんが10年来の付き合いということもあり、そのよしみで昨年10月に生まれた双子の赤ちゃんを家まで見せてもらいにいった。ドクさんはバイクを改造して3輪 にしたのを運転して案内してくれた。名前はフーシー(富士)ちゃん、ホアン(桜)ちゃんである。ドクさんと日本の結びつきを感じさせる名前である。二人の子どもは障害もなく健康に育っているということだった。ドクさんは年齢29歳で、もう立派なお父さんである。しかし、枯葉剤の被害者でドクさんのように家庭を持てたというのは例外的な事である。
  枯葉剤が何をもたらすのか。何故その被害を止めることができなかったのか。カメラマンの中村梧郎氏が「母は枯葉剤を浴びた」(1983年新潮文庫)で数多くの写真とべトナ各地だけでなくアメリカでの取材記事で告発している。27年前発行の著書で、生まれて11ケ月になるべトちゃんとドクちゃんの様子も書かれている。枯葉剤はi961年から1971年まで10年にわたって低空を飛ぶ飛行機からまき続けられた。解放勢力を絶滅させるため、見通しを良くするためジヤングルを枯らせるために、食糧を絶つため田や畑の食糧地帯にまかれ続けた。枯葉剤を扱っていたアメリカ兵の中にも被害を受けたものは少なくないが、アメリカ政府はその危険性を把握していなかったのか。著書によれば、アメリカ政府は既に1963年の段階でネズミの出産異常や奇形を引き起こすことを知っていた。67年には「作戦中の兵士やべトナムの農民に有害。ダイオキシンは遺伝障害を起こす恐れがある」という研究成果があったのを無視し、67〜69年に作戦がエスカレートした。197l年に枯葉作戦を停止したが、それは試験データが科学者の間に漏れ始めたことと、化学兵器に対する国際世論の反発が大きくなったからである。自国の兵士であっても、アメリカ政府幹部や軍産共同体にとっては所詮補充のきく捨てゴマ、消耗品目なのである。
 また、中村氏の著書に、ワシントンにあるべトナム戦争記念碑についての記述がある。57・939人の名前が彫り込まれた記念碑の中に「カズト・モリワキ」という日本人の名前があることをカソリックの神父が示し、「アメリカの市民権を得たいと考えたのだろう。彼にとっては本当に意味のない死だったと思う」と語っている。神父は横浜にある米軍岸根野戦病院でべトナム戦争の兵士が死の間際に「何のための戦いなのか。何のための自分の負傷なのか。」と問われた、というのである。
  祖国アメリカがべトナムから攻撃を受けたわけでもなく、愛する家族がべトナムの攻撃で危険に見舞われたわけでもない。戦場はアメリカから遠く離れたべトナムである。そこで300万人のべトナム人が犠牲になった。「共産主義の侵略からべトナムを守る」というのが兵士たちの戦うことの意義付けだったのだろう。しかし、守るべきべトナム人民の自由を奪い殺毅することでしかなかった戦場の体験は「ベトナムを守る」とは無縁の戦いであることを思い知らされる。枯葉剤を浴びなかった兵士にも精神疾患を患うものも少なくない。
 沖縄に駐留する海兵隊はべトナムだけでなくイラクやアフガニスタンにも派遣された。その部隊がクラスター爆弾や劣化ウラン弾を使っている。枯葉剤に対する暖昧な決着が今もクラスター爆弾や劣化ウラン弾で傷つく子どもたちを生みだしている。それらを防止する唯一の道はどれだけ多くの人たちが現実の姿を知ることになるのか、であろう。
(参考) ホームページ日本国際法律家協会(弁護士・梅田章二氏)より
  2003年10月枯葉剤のべトナム人犠牲者がアメリカの化学薬品会社を訴える
  米国地方裁判所2005年3月10日訴えを棄却
  最高裁判所・2009年3月提訴の聴聞拒否
(2009年5月15・I6日ベトナム枯葉剤国際民衆法廷パリで開催・今も被害者が生み出されており、また生態系に対する徹底的な破壊という点で明らかに国際人道法に反する)
民医連の月刊誌「いつでも元気」5月号に申村梧郎氏が最近のドクさんの様子を書いている。また、2009年5月にアメリカのカリフォルニアで「枯葉剤写真展」を開き、「枯葉南シンポジウム」で残虐兵器の使用正当化の論理との決別を訴えたが、共感の気持ちをスタンデイング・オベーションで表してもらったということである。

和泉市いずみの国歴史館・冬季企画展

「描かれた戦争、創られるイメージ」

ー刷り物で見る日清・日露戦争と東アジアー

森下 徹

  「坂の上の雲」の時代、日本は、日清戦争・義和団事件・日露戦争という3つの戦争を通じて、植民地を領有するアジアで唯一の帝国主義国として成長を遂げた。 これら三つの戦争は、新聞や雑誌、大衆芸能など多様なメディアで報じられた。この企画展では、その中でも、錦絵や石版画、双六、豆本など多種多様な刷り物に着目し、戦争がどのように描かれ、語られ、伝えられたのか、また、当時の民衆の中国・朝鮮やロシアに対するイメージがどのように創られていったのかを明らかにするとともに、戦争が地域社会や庶民生活にどのような影響をあたえたのか、地元和泉に残る日清・日露戦争関係資料から浮かび上がらせることを目指したものである。
 企画展全体の成果や課題などについては、3月例会で報告させていただくとして、ここでは、韓国併合100年にちなんで、朝鮮・韓国との関わりに絞って展示内容の一端を紹介したい。 いうまでもなく、日清・日露戦争は、日本と清、日本とロシアが、朝鮮半島や満州をめぐって争った戦争であり、主な戦場は朝鮮半島であり、満州であった。 今回の展示では、200点を超える錦絵・石版画や絵本などを紹介しているが、朝鮮・韓国を主題としたものは実は余り多くない。
  日清戦争の宣戦布告は1894年8月1日だが、7月23日の朝鮮王宮占領事件から事実上戦争は始まった。戦争当初に描かれた刷り物をみると「朝鮮事件」、「日清韓戦争」、「三国交渉画報」などのタイトルを付したものもいくつか見られる。日本と朝鮮との戦争、もしくは日・清・韓三国の争いとみた絵師たちがいたのである。
 しかし、地上戦が本格化すると、刷り物のテーマは、日本と清との戦争にほぼ絞られていく。牙山,成歓・平壌・元山・九連城・旅順・威海衛などでの日本軍の華々しい勝利や数多の軍国美談が描かれ、朝鮮・韓国はその戦場として登場するにすぎない。しかし、実際には、日清の戦争だけでなく、再蜂起した東学農民軍と日本軍との闘いも続いていた。日本軍は、農民軍の 「殺戮命令」を出し徹底的に弾圧した。農民軍側は、およそ半年の間に3万から5万もの死者を出している。
 姜徳相氏は、王宮占領に至るまでを第一次日韓戦争、日清開戦後,農民軍再蜂起後の戦争を第二次日韓戦争と呼んでいる(姜徳相「錦絵の中の朝鮮と中国」岩波書店2007)。姜氏によれば、日清戦争勝利の錦絵が何百点にものぼるのと対照的に、第二次日韓戦争に関する錦絵は一点もない。それは、第一次日韓戦争を描いた絵師たちの視線が、日清戦争の進展とともに中国に移り、朝鮮に直接画題を求めることはなくなっていくからだという。こうした姜氏の指摘は、この企画展に出展している錦絵にもそっくりあてはまる。なお、日露戦争を描いた石版画においても、韓国は戦場として描かれるのみで、日露戦争下の日韓関係やのちの韓国併合にいたる過程は充分見えない。
 以上のような朝鮮・韓国の「欠落」は、絵師たちの認識の問題にとどまらず、当時の民衆の朝鮮・韓国観や戦争認識の一面を鋭く表現したものといえよう。はたして現代日本人の歴史認識と無関係といえるだろうか。そのような思いを強くしつつ、展示の準備にあたったのだが、どこまで展示で表現できただろうか。残りの会期はわずかだが、ぜひ会員の皆さんにも参加いただき、ご批判いたければ幸いである。

 2009年資料

石山合戦異聞

林 耕二

はじめに

 本州最南端近く、串本町古座(旧古座町)に雑賀衆の末裔が生きていると知ったのは、数年前古座川で行われる河内(こうち)祭の取材に来たときであった。四万十川より美しいと言われる古座川の川縁に佇む老舗旅館の神保館に泊まった際、主人の神保圭志氏から先祖が雑賀衆であると聞かされて驚いた。のちに氏から送って頂いた系図によれば、初代が雑賀彦兵衛で、その後しばらく間が空いて一代目が雑賀市兵衛、二代目が雑賀市右衛門、三代目が神保市右衛門となり、以下神保姓となって九代目が圭志氏の父親の神保欣一氏である。古座には雑賀の屋号を名のる家が現在神保家を含めて9軒あるという。雑賀衆とは、地縁でむすばれた集団であり、もともと雑賀という姓ではなく、鈴木や土橋などの異なる姓をもつ人びとが寄り集まったものであった。しかし、信長や秀吉との戦いに敗れて雑賀の地を離れた人びとが、自分たちが雑賀衆であったという誇りを残すために雑賀という姓や屋号を名乗ったことと思われる。
 地元の郷土史家中根七郎氏の書かれた「善照寺」によると、石山合戦が信長との和睦、本願寺側の石山撤退に終わって以後のl581(天正九)年頃、山本善内なる人物が雑賀衆の一隊を率いて、この地に落ち延ぴ、山本は現在ある善照寺という西本願寺派の寺院(当時は善内寺)を建立して祝髪(出家)し、その他の雑賀衆もこの地に住み着いたという。
 熊野水軍や捕鯨漁労の海人文化と出会い、熊野の森と古座川と太平洋に囲まれたこの土地の心地よい空気に癒されていた私は、この邂逅にも感動した。 私は石山合戦以後、各地に散った雑賀衆のその後について調べていたが、その調査を再開する機会が思わぬところから訪れてきたのである。そこで、その後神保氏とは文通などでやりとりし、後日この地を再度訪れることとした。
  そして再度古座を訪れる機会は、またしても偶然の縁がはじまりとなった。私の知人で同じ和歌山出身の府立高校教員の堀潤氏の先祖が古座の雑賀衆だということを本人から聞いて知ったのである。氏の父方の祖母の実家が雑賀姓である。堀氏自身もお父さんが古座高校教員をしていたため少年時代を古座で過ごしたそうである。堀氏と私は今年の3月末に古座を訪れ、再び神保館に泊まり(1泊朝食付きで4500円)、神保氏の案内で善照寺を訪問した。そして山本善内の消息について16代目の住職山本昭隆氏(65才)からお話をうかがった。そこでわかったことは、決して歴史の表面には明かされずに闇に葬られてきた意外な事実であった。タイトルに異聞としたのは、そのようなことが理由である。

1、信長上洛と石山合戦の開始

 この話は戦国時代の1570 〜1580 年の前後11年間織田信長と石山本願寺を中心とする反信長同盟との間で戦われた石山合戦が終わる間際に起こった出来事である。そこで本題に入る前に、石山合戦についての経過を少しまとめておきたい。
 織田信長は、1560 (永禄三)年の桶狭間の合戦以後、美濃の斎藤龍典を破り岐阜を拠点に「天下布武」一天下統一の意志を明らかにした。1568 (永禄十一)年上洛した信長は、三好氏など畿内の勢力を破り、足利義昭を第15代将軍職につけた。1570 (永禄十三・元亀元)年には浅井・朝倉の連合軍を姉川の戦いで破り、天皇と足利将軍家の権威を背景として中央での実権を握りつつあった。
  一方、信長に反感を持つ足利義昭を軸とする全国各地での反信長勢力の結集が行われつつあった。1570 (元亀元) 年7月20日、四国に撤退していた三好勢が摂津中島に上陸、野田福島に砦を築いた。そのすぐとなりにあった石山本願寺(現在の大阪城の位置)は、信長からの矢銭の要求や寺の明け渡しなどの「無理難題」に対して反信長の態度を固め、9月6日、本願寺第11世宗主頭如は信長と戦うように近江中郡の門徒に傲文を送り、天王寺に本陣を置いた信長に対して9月12日夜半、石山本願寺から鉄砲などによる攻撃が開始された。さらに、頭如は9月16日を期して全国の門徒に反信長の戦いに立ち上がるよう指令を下した。これがl0年におよぶ石山合戦のはじまりであった。石山の中心部隊は雑賀衆の鉄砲隊であった。朝倉・浅井連合軍が北近江から攻撃を開始したため、信長はいったん大坂を退陣し、天皇と将軍を仲立ちに和睦を行いこの危機を切り抜けた。

2、石山の主力部隊としての雑賀衆鉄砲隊

 1570(元亀元)年将軍義昭を軸に、本願寺、武田信玄、朝倉義景、浅井長政、松永久秀、三好義継などの連携による信長包囲網が成立した。その司令塔である武田信玄は、1572(元亀三)年、32000人の兵を率いて甲府を出陣した。三方原で徳川家康を破り、野田城を陥落させた。しかし信玄は病のため甲府に帰国する途中、駒場で亡くなった。司令塔をうしなった反信長同盟はもろく、信長は1573(天正元)年槙島城の戦いで足利義昭を破り、義昭を追放し、室町幕府が滅亡した。信長はさらに朝倉義景、浅井長政、三好義継を討ち、松永久秀を降参させ、武田信玄を盟主とする第一次ともいうべき反信長包囲網は崩壊した。
 有力な大名が倒れる中で信長の前にたちはだかったのは本願寺と各地の一向一揆の勢力であった。信長は、1574(天正二)年、長島一向一揆を、I575(天正三)年、越前一向一揆をそれぞれ約三万人の老若男女の大虐殺という凄惨な攻撃で壊滅させた。 信長の攻勢に対して本願寺側も徹底抗戦のかまえをとり、再三雑賀衆鉄砲隊の出動を要請している。1575(天正三)年の本願寺下間頼廉からの書状は、雑賀衆に対して「織田信長が昨四日に京着するのが必定となる由・・・鉄砲衆五百人を早々に参らせられたい。・・・とくに雑賀衆の協力が肝要に思し召されている。・・・鈴木孫一も参られるよう仰せ出されている」との顕如の要請を伝えている。1576(天正四)年には、石山本願寺に雑賀衆の大部隊が入城したことが記録されている(真鍋真入斎書付)。このとき、馬上百騎、鉄砲隊千挺が入城し、その大将格として、中ノ島的場源四郎、雑賀孫市、木ノ本横庄司加仁衛門などの名があげられている。このうち、中ノ島的場源四郎は現在の和歌山市中之島にいた雑賀衆の鉄砲隊千挺組の大将であった。鉄砲の腕がすぐれ、のちに秀吉の紀州攻めの際、貝塚市二色の浜付近に在った雑賀衆の砦である沢城の大将となった。雑賀孫市は、本名を鈴木孫一といい、紀の川北岸の平井 (南海本線紀ノ川駅北側)に本拠をおき、雑賀衆の中心的な人物として石山合戦においてもっとも重要な役割を演じる。
 雑賀衆が人ってから本願寺側は士気が高まり、戦闘でもその鉄砲隊が信長軍を悩まし、戦線は膠着状態となった。信長側は、本願寺への補給路が海上から木津川を経由して行われていることに着目、この補給路を断つ作戦に転換した。しかし、木津砦への攻撃を事前に予測した雑賀衆は、三津寺付近 (南区三津寺町)で 「鉄砲構」による攻撃 (塹壕と土塁により射撃を行う)で信長軍を退却させ、逆に信長の本陣である王寺砦まで追撃、包囲することとなった。5月7日、雑賀衆の数挺の鉄砲から撃ち出される銃弾が雨のよぅに降るなかで信長自身足に銃撃を受けている。信長軍と雑賀衆らは、ついに槍による白兵戦で激突、雑賀衆は槍遣いでも優れた働きを見せ、信長軍を退却させたのであった。1576(天正四)年、本願寺の下間正秀から中嶋孫太郎にあて、「このたぴ、木津 (木津砦)に至って在城し、殊に粉骨を尽され、一昨日の十三日には、今官表において、一戦に及はれ、一番槍にて両度に (織田信長方の武士を)分捕ったことなど、高名は比類ない。その通りをつぶさに披露したところ、先ず頭如上人が感じ思し食された。たいへんなことではあるが、敵 (織田信長軍)が在陣中に出陣して、ますます戦功にぬきんじれば、とくに忠節となす由、よくよく心得申すべき旨を仰せ出された。恐々謹言。」(訳・松田文夫氏)という軍忠状が出されている。中嶋孫太郎は鈴木孫一の兄であり、木津の合戦で活躍した後、専光寺 (和歌山市専光寺町)住職となった。私の実家は、南海和歌山市駅近くにあるこの専光寺の檀家であり、この軍忠状を見せていただいたことがある。

3、木津川の海戦と石山への補給路の確保

 1576(天正四)年、足利義昭や頭如の働きかけで毛利輝元が反信長同盟の新たな盟主として木願寺救援、信長攻撃のための東征に乗り出した。部隊は三隊にわかれ、陸路は山陽道を京都へ、山陰道から京都の背後へ、そして海路を毛利水軍が摂津、和泉へむけて出陣した。毛利水軍は、村上水軍、小早川水軍、多賀谷水軍、能美水軍の約九百隻(兵糧船約六百隻、軍船約三百隻)で構成されてた。これを待ち構える織田側は九鬼水軍、和泉の水軍らからなる三百隻余りの水軍部隊で、木津川河口に巨船安宅船を本陣として中心に置き、周辺に中小の船を配置した。瀬戸内海をすすむ毛利水軍は、7月初め頃には淡路島の岩屋城に到着した。そして7月12日、雑賀孫一が鉄砲隊三百名を含む雑賀水軍を率いて貝塚で合流した。当時の雑賀には雑賀庄の湊、雑賀、岡の水軍衆と十ケ郷の松江、加太の水軍衆がいた。1576(天正四)年六月二八日の顕如から雑賀衆への書状には、「近日、中国(毛利氏)の警固船が(石山本願寺へ)差し上ってくる由である。それについて、紀伊国の警固衆と手合わせのこと肝要の由を申し越してきた。当然のことであるので、急速に、その心得を頼み入れる。」(訳・松田)とあり、両軍のチームワークについて気遣い、「他国(毛利)勢と喧嘩口論の乱暴などをおこすこと堅く停止すること」と細かく注意を述べている。 決戦の火蓋は、7月13日、雑賀衆の提起した正面突破作戦によって木津川河口で開かれた。関船や小早と呼ばれる小型で速力の早い船を多く配し、鉄砲で武装された雑賀水軍を先頭に毛利水軍は、大きな安宅船の並ぶ織田水軍の中に入り込むと「投げ焙ろくTという手瑠弾のようなものを安宅船に投げ込み炎上させた。さらに数に優る小型の戦闘船が織田の軍船を包囲して乗り込むという戦法で戦い、14日の朝には織田水軍は壊滅した。この時織田軍に参戦した和泉の勢力では日根野氏、淡輪氏(主馬兵衛尉、大和守、鉄斎)、田中氏らの名が記録されているが、現在の泉大津市助松にいた田中遠江守重景もこの戦いで亡くなり(石碑には石山川口で7月15日没とある)、大津市助松にある田中家の墓地(牛滝塚)に葬られている。田中家は江戸時代には大庄屋を勤め紀州藩主の参勤交代時の本陣となった。本陣跡は現在も助松町に残っている。本願寺側は、この勝利によって瀬戸内海から木津川を経て石山本願寺までの海上輸送ルートを獲得し、武器・弾薬・食料などが石山本願寺まで続々運び入れられたのである。

4、戦国時代の紀州と雑賛衆

 戦国時代の紀州は、九つの勢力圏にわかれていた。「伊都郡は高野山の勢力圏、那賀郡は粉河寺と根来寺の二つの勢力圏、名草郡・海部郡 (現和歌山市・海南市)は雑賀一揆の勢力圏、有田郡は守護畠山氏の勢力圏、日高郡は室町幕府の奉公衆湯河氏と玉置氏の二つの勢力圏、牟婁郡は同じく奉公衆の山本氏と熊野の二つの勢力圏」であった (「和歌山県史・中世、第一節」547P)。
 高野山、根来寺、粉河寺など宗教支配と世俗的権力を併せ持つ巨大な寺社勢力、紀北の雑賀衆 (惣国)や紀南の湯河氏 (領主制)などの勢力が分立する紀州は守護 (畠山氏)の介入のおよばない地であった。ルイス・フロイスは 「そこには一種の宗教(団体)が四つ五つあり、そのおのおのが大いなる共和国的存在」と述べている(「日本史」)。このよぅな状況から紀州には一国を支配するような戦国大名が成立しなかったo
 そしてこの紀州の中枢部、紀ノ川流域の平野部を支配していたのが雑賀衆であった。雑賀衆は自治的な惣国を形成していた。ほぼ現在の和歌山市全域と海南市の一部にあたる地域に36の村があり、各村の連合体を組と呼び、雑賀庄、十ク郷、南郷、宮郷、中郷の五組があった。これを雑賀五組 (からみ)といい、五組をあわせて雑賀惣国を形成していた。惣国とは行政単位の国郡制の国ではなく、村々が結合してできた 「くに」であり、まさに民衆の力で形成された「くに」である。惣はl4〜15世紀頃から近畿地方など生産力の高い地域で形成された村落の自治的結合をいい、地侍や有力名主で構成された合議機関を中心に自治が行われた。年貢・公事の徴収の下請け、警察・裁判権の行使、荘園領主や守護大名などへの抵抗 (一挨)、戦乱期の自衛などが惣を中心に行われた。惣村は周辺の村々と結合してより大きな結合体を形成した。雑賀惣国内では、各村同士の紛争も幕府や守護が関わることなく惣国が独自に紛争処理を行った。有力な戦国大名がいなかった紀州で雑賀衆は民衆が主役の独自の世界を築いていたのである。
  雑賀衆の代表は上層農民が多く、1562(永禄五)年の湯河直春起請文に登場する三十六名のうち、稲井 (大野)、松江 (且来)以上現,海南市、田所 (三葛)、嶋田 (中嶋)以上現・和歌山市、の四名が名字を持ち武士 (地侍)であったとみられる (「和歌山県史・中世」589P)。五組の中で、小雑賀川(和歌川)をはさんで東側の地域の南郷、宮郷、中郷は肥沃な土地柄で農業生産力が高く、西側の雑賀庄と紀ノ川北岸の十ケ郷は海岸沿いで農業生産力が低く、漁業、貿易、手工業、製塩、造船業などの生業が主で雑賀水軍の中心はここにあった。雑賀塩は江戸時代にも赤穂、蛭浜とならび全国に知られた名産地であった。また雑賀湊地域の船大工は薩摩まで出かけ、「紀のみなとの商売人」たちは 「土佐前を船に乗り、さつまあきない計仕る」(昔阿波物語)とあるように鹿児島の坊ノ津を経て明国までも交易していたと考えられる。また紀州を拠点とする雑賀衆は現在の大阪府南部の貝塚市、泉佐野市や田尻町など泉州地域にも進出していた。一方で、雑賀惣国内部は経済的基盤のちがいから、時に利害を対立させることもあり決して一枚岩ではなかった。
 そして雑賀衆は鉄砲を自在にあやつる傭兵集団として知られた。その本領は、石山合戦でいかんなく発揮された。数千丁と言われる雑賀の鉄砲のルーツは、根来の津田監物算長が種子島時尭から1543年に伝わったとされる鉄砲の一丁をゆずりうけて根来に伝え、そのことは、いち早く雑賀衆の土橋家などが根来寺の坊院(小寺院)を通じて知る機会があったこと、また雑賀は雑賀鉢という独特の兜を製作する甲冑師がおり、甲冑製作をもとに鉄砲をつくることはむつかしくはないこと、などが考えられることから、雑賀で独自に鉄砲を製作したり、または堺から技術者が来て製作したことなどが考えられる。
  雑賀衆はまた浄土真宗門徒として本願寺を支えた。紀州と浄土真宗の関係は、1486(文明十八)年に蓮如が紀州を訪れたことが教団拡大の大きなきっかけとなったと言われている。しかし蓮如訪問以前にも浄土真宗の各派が紀州に入っていることが明らかとなっている。雑賀衆の門徒らは本願寺の「番衆」という警護役すなわち傭兵の役割をつとめた。ルイス・フロイスは、石山本願寺の顕如のもとに派遣された雑賀衆の兵が常時六,七千人いたとしている(「日本史」)。

5、信長の紀州攻めと雑賀衆の戦い

 信長は、木津川の海戦での惨敗から、紀州雑賀衆をせん滅しなければ本願寺は倒れず、また中国方面への侵攻も不可能であることから総力をあげて雑賀攻撃を行うこととなった。このとき、事前に信長のエ作を受けて根来寺と雑賀の南、宮、中の三郷は信長方についた。1576(天正四)年信長から三郷にあてた朱印状には、「(紀州)雑賀(一挨)の成敗について、忠節に励むとのこと神妙である。根来寺のこと、これまた無二の協カするよぅ申し遣わしている。・・・準備でき次第ただちに軍勢を出すこと。恩賞のことは、戦功により望みに従う。」とある。雑賀衆側は、十万ともいわれる織田軍を前にして雑賀庄、十ケ郷の二郷だけとなった。
 1577(天正五)年2月13日信長は京都を立ち、八幡から若江に東高野街道を南下、16日和泉の「香庄」に、l8日には佐野へ移動した。「香庄」の位置について岸和田市神於町とする従来の説(信長公記注、阪南市史なと)があるが、太田宏一氏は「香庄」の位置について堺市津久野町神野町を最有力候補地としている。
  22日には、志立(信達)に陣を置き、信長は、ここから軍を浜手軍(滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・細川藤孝、忠興・筒井順慶・大和衆なと)と山手軍(佐久間信盛・羽柴筑前守・荒木村重・別所長治・堀秀政など)の二手にわけ、浜手は現在信長街道と呼ばれている泉南市信達付近の熊野街道から阪南市内に入るルートを通り淡輪から三手にわかれて(孝子峠、平井峠、木ノ本峠付近を推定)山越えして和歌山側に侵人した。このうち平井峠は、孝子峠駅付近から山中へ人って、なだらかな峠をおよそ30分で越えると平井城のあった和歌山市平井付近に出る。山手は根来杉の坊(鉄砲を伝えた津田監物の津田家が建立した子院)と雑賀の三組(南、宮、中の三つの郷)の者が案内して、熊野街道筋を雄の山峠か風吹峠を越えて和歌山市田井ノ瀬付近(推定)で紀の川を越え、現在の和歌山市小雑賀付近で和歌川をはさんで雑賀の主力軍と対時した。
  当時雑賀軍の主な砦は、まず紀の川右岸に山手軍が攻撃目標とした中野城と平井城があった。中野城は和歌山市野にあり、孝子峠の和歌山側入りロから500mほど南側である。土入川支流をとり入れた平城で軍需物資などの輸送の水運にめぐまれていた。現在は城の遺構と考えられる石垣と堀跡がスーパー駐車場の裏にひっそり残されている。織田軍との緒戦の前線基地となったが、2月28日に信長が淡輪に陣をおくと城兵は降伏し城を明け渡した(信長公記)。平井城は和歌山市平井の蓮乗寺付近(南海線紀ノ川駅北側)と考えられる。平井は雑賀(鈴木)孫一の本拠であり蓮乗寺の西側に孫一の邸宅跡があった。その北側の山麓付近に城跡があったのではないかと推測されている。ちなみに蓮乗寺の住職は鈴木氏であり、同寺には鈴木孫一の名を刻んだ墓がある。孫一本人ではなくてその子供の墓ではないかと言われている。
 織田軍は3月1日、平井城を「竹束で弾丸を防ぎながら、やぐらを建てて日夜激しく攻めた」(同書)。信長は3月2日山側と浜側の中間にある鳥取郡(現・阪南市石田)の若宮八幡(波大神社)に本陣を移した。同神社は私の家の近所である。
 雑賀の主力軍は紀の川左岸、現在の和歌山市中心部から和歌川に沿って和歌浦まで各出城をむすぶ巨大な防衛線をひき、小雑賀川(和歌川)をはさんで織田軍を迎え撃った。まず北から、和歌山市中之島のJR紀和駅構内東側の付近にあった中津城は、周囲に堀をめぐらした面積二反ほどの砦で、大正時代まで堀のなごりの大きい蓮池が紀和町、天王町にあった。信長の紀州攻めの ときは市内の東にあった太田党が根来衆の応援を受けて中津城を攻め、このときの城主雑賀権太夫は討ち取られたということである(「藤橘の下かげ」島嘉穂著)。さらに南に向かって現在の和歌山城付近の吹上峰、原見坂、宇須山、東禅寺山、弥勒寺山、和歌浦に雑賀衆の拠点とされた雑賀城があった。弥勒寺山は、1550(天文十九)年に黒江(海南市)から本願寺の紀州御坊が移転し弥勒寺と呼ばれた。御坊は1563(永禄六)年には市内の鷺森(鷺森別院)に移ったが、信長の攻撃時は、雑賀衆がここに城をかまえて戦ったという言い伝えがある。雑賀城は、和歌浦の妙見山という小山の北側に置かれていたようである。頂上は千畳敷と呼ばれる小さな広場になっている。ここには居館があったとされ、土塁跡がわずかに残っている。
 宇須山、弥勒寺山と雑賀城をむすぶ線の対岸に小雑賀があり、ここから織田軍が小雑賀川を越えて攻め寄せた。この時の雑賀軍のようすを信長公記では、「敵(雑賀衆)は小雑賀川を前にし、川岸に柵を設けて支えている。そこへ堀久太郎の兵がどっと突っ込んで、向こうの川岸まで乗り越えたが、岸が高くて馬が上がれない、ここが大事と敵は鉄砲をもって防いだから、堀久太郎は、部下のすぐれた武者数人を討たれて、引き退いた。その後は川を境に追いつめ、対陣した。」と書かれている。実際は、織田軍の損害はもっと大きかった。雑賀衆は小雑賀川をいったん干し上げて川床に桶や壷を埋めて織田軍が渡河しようとすると河の中の障害物に足をとられて動けず、そこを狙い撃ちされた。不思議なことにこの時満潮が続き、川の水は干潮の時刻となっても水を満々とたたえて流れていたといわれる。孫一は勝利を喜び、神に感謝して矢の宮神社でびっこの足をひきずりながら踊ったといわれている。膠着状態となった戦線で、信長は3月15日、雑賀衆の七名(土橋平次、鈴木孫一、岡崎三郎大夫、松田源大夫、宮本兵大夫、島本左衛門大夫、栗本二郎大夫)の代表にたいし形式的な降服の誓詞を出させ、「大坂の石山本願寺攻めでは、お指図どおり尽カする旨、約束申したので、お許しになった」(信長公記)として3月21日兵を収めて退陣した。「降伏文書」を出したといっても、同年7月には孫一らは、信長方についた雑賀の三組 (南、宮、中の各郷)を裏切り者として攻撃している。
  詳細に戦いの様子を見れば、この時信長は紀州と雑賀衆を攻め落とすことができなかったことは明らかである。ところが多くの歴史書、高校日本史の資料集などは信長に雑賀衆が降伏したことを2〜3行で書いているのみである。根来衆と雑賀衆を混同しているものさえある。リアルタイムでこの戦の情報を得たルイス・フロイスは 「要衝雑賀は難攻不落の観があった。・・・信長は雑賀が陥落するならば、多年包囲してきた大坂は自滅する外なきことを知っていたので、既述のように再度にわたって攻撃し、初回に一連の軍勢を投入した時には、兵数十万におよび、次回には七万人の軍勢をもってした。だが (雑賀の)地はあまりにも堅固であり、二度ともその試みは不首尾に終わったばかりか、味方はいくらかの損失を被った」と書いている (「日本史」)。雑賀衆の強さの秘密は、紀北の村々が連合し、現在の和歌山市内の各砦をつないで市域全体が巨大な城塞と化して、そこに暮らす民衆の団結の力で信長と名だたる家臣団のほぼオールスターキヤストがそろった戦闘集団に立ち向かって一歩も退かなかったということである。信長は上洛して本能寺で討たれるまでの十五年間の内十一年間を石山合戦に費やしている。全国的な一向一撲のネットワークとともに、紀州雑賀衆の戦いは戦国時代史を根底で大きく動かしているのである。

6、巨大鉄装甲船の登場と石山合戦の終焉

 信長は木津川口の第1次海戦で大敗した経験をもとに、九鬼嘉隆に命じて鉄板で装甲した大船 (巨大安宅船) を建造した。「多門院日記」には 「堺浦へ近日伊勢より大船調付きおわんぬ。人数五千程乗る。横ヘ七間(約13m)、竪へ十二、三間 (約23m)もこれある鉄の船也。大坂へ取りより通路止むべき用と云々」の記録が残されている。1578 (天正六)年六月に完成した大船七隻は熊野浦から堺へ、途中淡輪付近での雑賀衆による攻撃も大砲でけちらして大阪湾へ入り、石山本願寺への毛利方の海上補給路をふさいだ。十一月六日、毛利方が船六百隻で木津方面へやってくると 「六日の午前八時ごろから正午頃まで、海上で船戦がおこなわれた。・・・六艘の大船 (注・実際に建造された船は滝川一益のもの一艘を加え七艘であった)には大砲が数多くあった (注・一艘に3門の説あり)。そこで敵船を間近に寄せ付けておいて、大将軍の乗船と思われる船に見当をつけて大砲を発して打ち崩したから、敵船は恐れをなしてそれ以上寄せて来なかった。そのうえ数百そうの敵船を木津浦へ追い込んだ」(「信長公記」巻十一)。鉄板で装甲した巨大船には、第1次木津川口海戦で効果のあった「ほうろく火矢」も効果がなかった。こうして石山本願寺への補給路は断たれた。すでに l575 (天正三)年前田利家による残虐な越前一向一揆の鎮圧により北陸からの支援も困難となり、摂津の荒木村重による信長への反乱も高山右近らの寝返りなどで形勢は不利となり石山本願寺は次第に孤立していった。

7、信長・顕如の和睦と抗戦派教如の再籠城

 正親町天皇の勅命で、1580 (天正八)年閏三月、顕如上人は信長との講和を受け入れた。同年三月十七日信長が本願寺へ出した血判誓詞によれば、信長は顕如に対し和睦の条件として「『惣赦免』の代価として大坂 (石山)の退城、人質の提出を命じ、退城後に織田方が占拠した加賀南部の二郡を返却するなどの七か条を提示した」(「織田信長起請文」解説『西本願寺展図録』)。同年四月十日顕如は石山を退去して紀州鷺森(和歌山市)に移った。
 このとき新門主となった顕如の長男教如は「蓮如以来の聖地の放棄、信長の表裏別心への危惧、武田、毛利などの大名との和解放置のままの和平の不当性など」を理由として抗戦を主張し、再び石山本願寺に籠城した。教如に従った抗戦派は 「摂津富田の教行寺証誓、近江堅田の慈敬寺証智、毫摂寺善海などの一家衆や、本願寺坊官下間頼龍と紀伊雑賀衆の一部の門徒らであった」(「大阪市史第二巻 P667」)。教如は三月十三日付書状で紀州雑賀衆の長老達、岡了順、宮本平大夫、松江源三大夫、嶋本左衛門大夫、岡太郎次郎に籠城抗戦と雑賀一向宗の支援を求めている(「I580 (天正八)年石山本願寺教如書状」)。この五名のうち、岡太郎次郎は、岡了順の息子で、岡の若者の代表であり、嶋本左衛門大夫と共に徹底抗戦を主張していた。一方、宮本平大夫、松江源三大夫らは講和派であった。このように講和派と抗戦派に分裂する雑賀衆の中で岡了順は、苦渋の選択として講和を受け入れた、(薗田香融 「道心堅固」「思いで」念誓寺)。しかし、その後天正八年四月の雑賀衆起請文 (1580(天正八)年『雑賀衆起請文』)では、抗戦派も含めて講和の誓詞に名をつらねている。念誓寺は現在和歌山市東紺屋町にあるが、当初岡道場の名で現在の和歌山市鷹匠町珊瑚寺付近にあったとされる。七月二十八日付の顕如が奈良の惣門徒衆にあてた手紙の中で 「以後新門主 (教如)不慮之企、併徒者のいひなしニ同心せられ」とあり、教如の石山再籠城が「徒者(いたずらもの)」にそそのかされたためと書いている(「顕如消息」「西本願寺展図録」)。
 七月になって信長は再び本願寺出城への攻撃を開始、花隈などいくつかの出城が陥落した。前関白で公家らしからぬ武人の近衛前久が和平幹旋を行い八月二十日以内での条目履行を迫った (「近衛前久起請文」「西本願寺展図録」)。教如は八月二日に本願寺を前久に渡してさびしく紀州へむかった。退去後石山本願寺は炎上し三日まで燃え続けたという。
 「信長公記」には、石山本願寺と他の出城を明け渡し、雑賀衆など籠城していた人々が 「蜘蛛の子を散したるが如く、雑賀、淡路島、おのが様々に分散しつつ落ち行く形成、哀れなりし事ども也」と記録されている。

8、古座にやってきた雑賀衆と山本善内

 串本町(旧古座町)古座小字上ノ町に位置する善照寺(真宗本願寺派)は道路に面して白壁となまこ壁の重層の山門がそびえ、一見して砦か城のような印象を与える。寺の由緒には、同寺は山本善内之介弘忠という人が開祖で、弘忠は石山合戦の時、兄兵衛尉弘朝が戦死、また八木與十郎という者を討ち取って後、祝髪して善空と称し、1581(天正九)年同寺院を創立したとある。
 現在の住職山本昭隆氏は善内の十六代目の子孫である。氏は南紀州新聞に「石山合戦と善照寺」という記事を2007年4月から10回にわたって連載した。その中で、同寺に残る古文書(善照寺文書)にもとづいて石山合戦終熄時に起こった出来事を紹介している。以下は山本氏の連載記事と氏の話にもとづく内容である。

9、 山本善内に課せられた重大な使命

 顕如が鷺森に移った同じ天正八年、善内も一族と共に古座に来た。古座、高池、西向には善照寺の檀家で雑賀屋の屋号を称する旧家が巽、神保、浅川、中島、玉置、角、松本、関戸の9軒ある。神保家の現在の子孫は旅館神保館の経営者、神保圭志氏である。神保家の系図には初代が雑賀彦兵衛、その後一代目が雑賀市兵衛、二代目が雑賀市右衛門、三代目から神保市右衛門となっている。初代と一代目の間の間隔が空いていることが不明であるが、圭志氏が九代目である。9軒のうち巽家は古座の地元であるという。山本昭隆氏によれば巽家は地元側で、落ち延びてきた雑賀衆の受け入れ役となったのではないかといぅ。
  善内の出自は不明というが、古座に来た理由として当地が紀南の物流拠点であったこと、本願寺を支援する豪族、高川原氏や小山氏などを頼って来たことが考えられるという。 石山合戦の終了翌年 (158I年)、善内にある重大な使命が本願寺から課せられた。その内容が善照寺文書として紹介されている。
  「内々申し上げられ候旨趣、つぶさに上聞に達し候。彼の輩、深重に言を並ぶる儀に候。申し合わせの如く、その (証拠)これ有るに於いては、別して忠節比類なくおぽしめさるべく候。いよいよ、油断なく入情すべき事肝要の旨、能々申すべく候由。仰せ出され候。依って御印排べらるる所如件 (くだんのごとし)。刑部法眼、少進法橋 連署判。天正九年三月三日 古座山本善内殿」
 山本氏はこの書状について、最後に 「御印排べらるる」とあることから、門主の印を押すという形式をとるもので門主の直状 (花押)と同じ権威を示し、間違いなく門主の意を受けたことを示す重要文書であるとしている。内容は彼の輩が、八木與十郎を指し、この人物が本願寺にとって不都合なことをして、取り調べにもしらを切っていること、証拠もあるので討ち取ることもやむなしとし、申し合わせの如く油断なく首尾を果たせ、というものであるとされている。善内は四月十八日付書状で 「天正九年巳三月八日に八木與十郎うちに、四月十一日に上様より御使者下されなされ、善吉 (善内)けんちう仕り候。音物 (いんもつ)には米五石、樽一つ、小山殿へ樽二つ、(略)その時の御使者は寺内源二太夫殿なり。天正九年四月十八日山本善内介弘忠判」として、三月八日に八木を討ち取り古座に帰還して、本願寺門主からの贈物を受け取ったことを示している。
  善内に討ち取られたと思われる八木與十郎が如何なる人物であるのか不明だが、古座の郷土史家中根七郎氏は天正三年第2次和平の際に信長のもとに派遣された本願寺の使者の中に八木駿河守という人物がおり、これが八木與十郎ではないかと推測されている。
  山本氏は石山合戦終了翌年の未だ不安定な時期に、本願寺が八木與十郎に関して看過できない事態があり、この事態解決のために特命が山本善内に下されたと見る。特に與十郎は教団内で重要な地位にあり、昵懇の間柄であったと思われる山本善内以外に八木討伐の役目は果たせなかったのではないかと推測されている。善照寺明細帳には、善内は義のために情を忍びて之を討ち、祝髪 (剃髪)して出家した、とある。推理されることは、木願寺が抗戦派の指導者を身内により始末したということが考えられるが、その真相は未だ謎の部分が多い。その謎を明らかにするために今後、八木與十郎の消息などの調査もすすめるつもりである。

2009/8/5掲載

『蟹工船』発表八十周年にあたって

―競争や分断を乗り越えて社会的反撃の年に―

室谷 雄二

 今年は、『蟹工船』の作品が発表されて八十周年にあたります。現代の"蟹工船ブーム" の担い手である若者たちは、「派遣切り」撤回など、いま、社会的反撃に立ち上がっていま す。
 去る二月二十八日、大阪多喜二祭実行委員会は、"蟹工船ブーム"と現代格言社会"に 焦点をあて、「多喜二の火を継ぐ−2009年大阪多喜二祭」を開催し、三百五十人の方が参加 しました。講演は、尾西康充・三重大学教授が「現代格差社会における『蟹工船』−『てむかい』から『叛逆』ヘ―」のテーマで講演され、まんが「蟹工船」の解説者である島村輝 ・女子美術大学教授のコメント、「地域労組おおさか」の青年の訴えなどがありました。ま た、別室では「関西勤労協・戦前の出版物を保存会による「多喜二資料展」も開催されまし た。
 『蟹工船』が、発表されたのは、プロレタリア文化運動の機関誌だった『戦旗』の一九二 九(昭和四)年五月号に一章から四章、六月号に五章以下が掲載され、前作の『一九二八年 三月一五目』以上に全国的に大きな反響をよびました。六月号は発禁処分をうけましたが、 全国につくられた支局網を経由して、読者から読者へと手渡され、一万二千部が発行されま した。この年一九二九年、『戦旗』はこの六月号をはじめ、発行の半分は発売禁止という事 態となりました。
 こうした権力による弾圧に屈せず『蟹工船』は、すぐに、果敢に、「戦旗社」から単行本 として九月に発行されるのです。前作『一九二八年三月一五日』の削除・伏字十三ケ所を復元し、これを収録して<初版>『蟹工船』を出版。短期間に一万五千部を売りつくしました。 ところが、この初版本もたちまち発売禁止処分を受けます。このため、処分該当となった『一 九二八年三月一五日』をはずして、『蟹工船』だけを収録した<改訂版>『蟹工船』をこの年の十一月に発行。この本もすぐさま発売禁止処分。めげずに翌年三月、さらに該当文章を 削除し、総ルビ付き<改定普及版>『蟹工船』を発行したのです。
 三冊の『蟹工船』は、たび重なる発売禁止にもかかわらず、独自の配布網をつくって半年 間で三万五千部という驚異的普及を実現したのです。まさに、『蟹工船』最後の一行「そし て、彼等は、立ち上がった。――もう一度!」を地でいったものです。多喜二はその印税千円のほとんどを「戦旗社」に寄付したと言われています。
 多喜二と大阪は縁があります。『戦旗』のたびたびの発売禁止で、『戦旗』防衛三千円基金」募金運動の関西巡回講演会がもたれることになります。小樽から上京まもない多喜二が、 一九三〇年五月、江口換、中野重治、片岡鉄兵、貴司内治、徳永直、大宅壮一らと関西にや って来ます。一行は、一七日に京都・三条青年会館で講演。翌朝、宇治の「山宣」の墓に詣で、その足で京阪電車に乗って大阪入りします。一八日の夜、内本町・実業会館で講演会。 このポスターの弁士のトップには、多喜二の名前をつらねています。「とても盛況で、七時 半迄に早くも聴衆は場外にあふれ遅れて押かけた諸君は満員で拒絶された」と、一参加者か ら当日の模様が、『戦旗』七月号に通信されています。
 一行は、神戸、三重の山田、松阪で講演をすませ、多喜二が二三日大阪に戻ったところ、 高之内警察署(現在の南警察署)に検挙、十六日間拘留され、初めての拷問をうけることに なります。多喜二は、「中ではひどい拷問された。竹刀でなぐられた。柔道で投げられた。 髪の毛は何日も抜けた。何とか科学的取調法を三十分やらせられた」と友人の斉藤次郎へ書 簡を送っています。
 東京に戻った多喜二は、再び逮捕されます。『蟹工船』の作品のなか万、蟹缶詰の「献上 品」に「石ころでも入れておけ!」と書いたことから、皇室侮辱の「不敬罪」で追起訴を受 け投獄されたのです。
 小説『蟹工船』は奴隷的労働のもと、漁夫、雑夫、船員、船頭などが、分断、競争を乗り 越えて、反撃、団結、ストライキヘとすすみます。多喜二は、『蟹工船』の作品の意図を蔵 原惟人への書簡で次のように述べています。帝国主義の機構、帝国主義戦争の経済的根拠に ふれるためには「帝国軍隊―財閥―国際関係―労働者。この三つが、全体的に見られなけれ ばならない。それには蟹工船は最もいゝ舞台だった」。(一九二九年三月三一日小樽)。
 角川文庫の『蟹工船』巻末解説で、作家の雨宮処凛さんは、現代の「派遣」の若者の実態 は、「『蟹工船』に描かれる世界はあまりにも彼らの境遇と近い」と共通点を述べます。続 けて「偽装請負が非難を浴びると、キヤノンの会長で、日本経団連会長でもある御手洗富士夫氏は『偽装請負を合法化しろ』というような主張をした。『蟹工船』のこんな一説が思わず浮かぶ。『労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいい事だった』と告発します。
 総選挙の年。「多喜二の火を継ぐ」ということは、多喜二が『蟹工船』の作品などで、意 図したように、競争や分断を乗り越えて、国を支配する本当の"敵"にたいし、若者からお年寄りまで、「社会的連帯」で反撃し、政策そのものを転換させることだと思います。 (大阪多喜二祭実行委員会 事務局長)

2009/3/17掲載

「沖縄戦学習と教科書問題」シンポジウムに参加して

一歴教協近畿ブロック研究集会報告−

田宮 正彦

 歴史教育者協議会近畿ブロック研究集会、2008年11月29 ・30 日に参加しました。初日「沖縄戦学習と教科書問題」について三氏によるシンポジウムのテーマは、坂本昇氏(東京歴教協・都立田園調布高校)「教科書検定と沖細微学習〜執筆者として、歴史教育者として〜」、山口嗣史(沖縄県歴教協)「教科書検定意見撤回運動ならびに大江・岩波訴訟は我々を強くしたのか一今沖縄でやっていること、今後やりたいこと―」、平井美津子(大阪歴教協・吹田市立西山田中学校)「中学生の沖縄ノート―社会と向き合うようになった中学生たちとその後―」、教科書執筆者の検定の実態と沖縄戦学習の実践・課題についての報告とフロアーからの意見表明かありました。
 坂本氏の教科書執筆者としての発言を紹介します(氏のレジュメ)。2006年12月19日、教科調査官は教科書執筆者につぎのようこ検定意見を通達している。
 最近、集団自決に際して、軍の正式な命令はなかったというふうにほぼ固まりつつあるように考えている。……何らかの命令もしくはそれに準じた強制力のあるものが、軍からあったということを誤解されたら困るということで、意見を付け加えさせて頂いた。
坂本氏は、検定審議会やマスコミには、大江・岩波裁判の「梅沢陳述書」などを検定の根拠にしていたことがわかったとき、怒りに燃えたと述べています。
  2007年9月29日、沖縄県民大会(正式には「教科書検定意見撤回を求める県民大会」)には11万人が集まり、検定意見撤回(「教科書検定意見の撤回と記述の回復」)を決議した。執筆者とて高校生に2008年4月から、良い教科書を届けるためには、修正の準備を整えておく必要があった。12月4日、文科省は各教科書会社の役員クラスを呼んで、「指針」をロ頭で伝えている。
@ 直接的な車の命令に基づいて行われたかは、現時点では確認できない。 A「集団自決」には「複合的要因」があったことを明示しないと誤解が生じる(「複合的要因」とは、教育訓練や感情の植え付け、車による手榴弾配布の事実や壕の追い出し、住民を巻き込んだ地上戦末期の極限状況などのこと)。この「指針」は、後日審議会「日本史小委員会」の「基本的とらえ方」として公表された。
 11月1目、執筆者が提出した訂正申請は、おもに3点である。
@ 本文に「日本車によって『集団自決(※)』 においこまれたり、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった」と書き、側注として「※これを『強制集団死』とよぶこともある」とした。
A 証言史料の中段に「軍から命令が出たとの知らせがあり、いよいよ手榴弾による自決が殆まりました。操作ミスが原因でわずかの手榴弾しか発火しません。そのため死傷者は少数になりました。しかし結果はより恐ろしい惨事を招いたのです」を挿入した。
B2007年の記述を追記して、「また国内でも、2007年の教科書検定の結果、沖縄戦の『集団自決』に日本軍の強制があった記述が消えたことが問題になった(※)」と書き、側注として、「※沖縄県では、同年9月には『検定撤回』を求める県民大会が、1995年の県民犬合(→P.24)を大きくこえる規模で開催された」。
 2007年12月26日、訂正申請の結果が発表された。「検定意見」は撤回されないまま「軍の強制・命令」は認められなかった。文科省・教科書調査官らは、自らの体面を取り繕った。検定の「密室性」はほとんど変わらなかった。審議会では「軍の命令・強制は×で、おいこまれた○」などというという記述の適否までは決定していなかったはずなのに、調査官の判断で、訂正申請内容を何度も書き直しさせた。「指針」や一部の識者意見などを最大限に利用して、調査官の考えに沿って「書かせる検定」になった。
 故・家永三郎氏はかつて第三次教科書訴訟で、「私は裁判所に歴史教科書の記述の是非を認定してもらうつもりはない。文部省による教科書記述への権力的介入の不当性の問題を訴えているのだ」と。歴史教科書の内容を決めるのは文科省でも裁判所でもない。歴史学の成果の共有財産にのみ依拠して、歴史の真実を記述すべきであることは言うまでもないと、まとめています。
 10月30目、高裁判決後、現在再訂正申請を検討中であるが、各社とも「修正されたので終わった」「現状では困難」という判断が多く、なかなか厳しくなっている。「このまま次回まで待てない」「何かやろう」ということで、執筆者間では2007年6月ごろから、意志統一して確認してきた。また「『検定意見』とその経過自体を教科書にきちんと記載することが、執筆者集団としての責務である」とう同僚執筆者の発言にも鼓舞された。沖縄の人たちのみならず、卒業生や同僚などからの激励も多いと述べています。

 (参考文献)「沖縄から見える日本―沖縄戦・教科書・基地・文化―」『歴史地理教育N0.727(2008.3増刊号)

2009/1/14掲載

歴史認識正す声をもっとあげよう

柳河瀬 精

 08年10月31日、アパグループが「真の近現代史観」懸賞論文で田母神俊雄航空幕僚長が最優秀賞を受賞したと発表。その内容が問題となり、その夜のうちに更迭されました。「日本が侵略国家だというのは濡れ衣だ」などという田母神論文は、史実に基づかない俗論を言い立てたものに過ぎないものであることは、多くの論者が指摘しています。
 問題は、今回明るみに出た論文にとどまらないことです。 これまでに明らかになったことを列挙します。
○ 田母神はこれまでにも自衛隊内の訓話、講話や、隊内語の論文で繰り返して述べていたにもかかわらず、放置されたまま、出世の階段をのぼっていたこと。
○ 田母神は「元首相二人」が理解してくれていると、政治家との交流も言っている。
○ 田母神が統幕学校長だった時、歴史観講座を開設し、全講師が侵略美化派で、その受講者は400人にのぼっていること。
○ 田母神とともに懸賞論文に応募していたものが多数おり、同様の論旨に満ちていること。
○ 田母神と別の空将が隊内諾に同趣旨の論文を発表していること。
○ 防衛大学教科書では、目本の過去の戦争をすべて「自衛が基本」との戦争観で書かれており、「大東亜戦争」と表記していること。
○ A級戦犯を祀る「殉国七土廟」で自隊幹部研修を計画していたこと。
○ 各地の自衛隊で、戦前陸海軍を継承する歴史が、幹部によって講話されていること。  
 自衛隊内部が歪んだ歴史観で汚染されていることは、きわめて根の深い問題だといわざるをえません。
 「靖国派」の日本会議国会議員連盟に属する議員たちは、ことさらに声をあげてはいませんが、共鳴し、同調していることは聞違いありません。麻生太郎首相は日本会議国会議員連盟元会長で、特別顧問です。安倍音三元首相は首相になる直前まで幹事長でした。毎年、多数の国会議員が靖国神社参拝を繰り返していますが、彼らの歴史観も田母神と共通しています。
 田母神には支援者、同調者がいます。田母神が更迭され、処分もされないまま6000万円といわれる退職金を受け取ったことも話題になりましたが、講演などで忙しくしているといいます。ヤフーの調査では田母神論文を支持するものが58%にのぼるといいます。身近なところでも、高槻の芥川公民館で田母神論文のコピーが配布されています。わたしが12月8日、太平洋戦争開戦の日、京橋駅で宣伝をしていたとき、「反日日本人の宣伝か。自分は田母神論文に共鳴している」と言う男がよってきました。
 【参考】衆議院議員松浪健太(高槻市)は日本会議国会議員連盟会員、大阪府会議員吉田利幸(高槻市)、高槻市会議員古田稔弘は日本会議地方議員連盟会員
 自衛隊内部で歪んだ歴史観が根深く、多年にわたって堆積している状況が明るみに出てきているとき、いまひとつあらためて注目しなければならない問題を思い起こします。
 日中歴史共同研究の近現代史分科会の委員の一人に防衛庁防衛研究所戦史部上席研究官兼第一戦史研究室長庄司潤―郎が加わっていることです。
 当時、わたしは問題提起を考えて、準備を始めていましたが、発表しないままになっていました。その準備を思い返しながら、改めてそもそもから説明したいと思います。

 2006年10月おこなわれた日中首脳会談(当時安倍音三首相と胡錦濤国家主席)で日中歴史共同研究をすすめることで合意されました。これを受け、ハノイで聞かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)閣僚会議期間中の11月16日日中両国外相会談(当時麻生太郎外相と李肇星外相)が行われ、実施枠組みについて協議がされました。
 合意は次のとおり公表されています。
1、日中共同声明などの三つの政治文言の原則および歴史を直視し、未来に向かうとの精神に基づき、日中歴史共同研究を実施する。
1、日中歴史共同研究の目的は、両国の有識者が、日中二千年余の交流に関する歴史、近代の不幸な歴史および戦後60年の日中関係の発展に関する歴史についての共同研究を通じて、歴史に対する客観的認識を深めることによって相互理解の増進を図ることにある。
1、それぞれ10名の有識者から構成される委員会を立ち上げ、「古代、中近世史」および「近現代史」の2区分で分科会を設置しそれぞれ日中相互に主催する。 日本側は日本国際問題研究所に、中国側は中国社会科学院近代史研究所に、具体的実施について委託する。
1、年内に第1回会合を関催し、日中平和友好条約締結30周年にあたる2008年中に、研究成果を発表することを目指す。
  日中両国の合意の目的とされていることは、きわめて明快です。
 しかし、日本側が委託した日本国際問題研究所とは、どんな団体なのでしょうか。 歴史の共同研究という主題と目的にふさわしく、国民の納得が得られる機関であるといえる団体なのでしょうか。まずここに疑問を感じました。
 日本国際問題研究所は、1959年12月に設立された「国際問題を研究することを主たる目的とした総合的な国際問題研究機関」です。外務省の外郭団体で、初代会長は吉田元首相です。日中歴史共同研究発足当時の役員は、会長・平岩外四(東京電力顧問)、顧問・平泉渉(鹿島平和研究所会長)、副会長・若井恒塔(東京三菱銀行特別顧問)、岡田明重(三井住友銀行特別顧問)服部禮次郎(セイコー名誉会長)、松永信雄(元日本国際問題研究所理事長兼所長)、理事長・佐藤行雄です。
 研究所の目的は「(1)国際政治・経済、国際法の諸科学の発展を図り、(2)国際問題の調査研究のための諸手段を設け、(3)国際問題の情報・知識・思想の交換を促進し、(4)全国の大学を通じて国際問題に関する研究を奨励し、(5)海外の諸大学・研究機関との交流を図る」となっています。
 歴史の研究機関といえるようなものではありません。強いて歴史に関係があるるといえるのは、顧問・平泉渉の父が皇国史観で著名な平泉澄元東大教授であるといえるくらいのものです。
 日本側委員として選ばれたのは、【古代・中近世史分科会】川本芳昭九州大大学院教授、菊池秀明国際基督教大教授、小島敦東京大大学院助教授、鶴問和幸学習院大教授、山内昌之東京大大学院教授、【近現代史分科会】北岡伸一束京大教授・前国連次席大使、小島朋之慶応大教授、坂元一哉大阪大大学院教授、庄司潤一郎防衛庁防衛研究所戦史部第一戦史研究室長、波多野澄雄筑波大大学院教授です。
 日本側座長は北岡伸一、中国側座長は歩平・中国社会科学院近代史研究所所長です。
 北岡伸一は、東京大学大学院法学政治学研究科教授、専門は日本政治外女史です。長期的な外交戦略検討のために設置された小泉純一郎首相の私的諮問機関「対外関係タスクフォース」委員(2001年9月〜2002年11月)であったあと、2004年4月から2006年9月まで日本政府国連代表部次席大使です。現在、日本の集団的自衛権保持の可能性について考える三首相(当時)の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(2007年4月設置)の有識者委員です。この懇談会の人選について、秋山収元内閣法制局長官は「非常に偏っていると思う。従来の政府解釈に批判的な立場の人ばかり、安倍首相と異なる主張の人は見当たらない。」(朝日新聞07年5月18日)と指摘していますが、そういう人物の一人です。
 庄司潤一郎防衛庁防衛研究所戦史部第一戦史研究室長を委員の一人に加えているところにも、日本側のこの「共同研究」で、どのような主張をしようというのか、その立場が端的に現れているのではないでしょうか。
 山内昌之東京大大学院教授は専門がイスラム史で、著作の中に中国史研究のものは見当たりません。安倍内関のもとに内閣官房に設けられた「美しい国づくり」企画会議で座長代理となった人物です。
 日中外相会談の当事者である麻生太郎外相(当時)は「米国でも南北戦争を、南部地域の教科書は『北部の侵略』と書いている。同じ国でも一致しないものだ」(産経新聞06年12月3日)と語っています。それが事実であるかどうか、わたしには知識の持ち合わせはありません。麻生外相はこれまでも数々の放言で物議も引き起こした人物で、その放言は韓国で新聞漫画にさえされています。外相会談の合意があって、まだ半月あまりでのこの発言は、はじめから共同研究で一致を作り出そうという目標など持たないという、あからさまな表明と指摘されかねないものでした。合意に沿って努力する立場などまったく感じられません。
 座長北岡伸一は記者会見で「日中間には認識のギャップがある。強いて一致させようとは考えていない」「過去の歴史をめぐり議論が紛糾し、現在、未来の問題に取り組めないのは不健全。 日中があるべき仕事に取り組める環境をつくるのに役立てればうれしい」(共同通信06年12月18日)と語っています。


 第1回会合は12月に北京で行われました。第2回会合は3月、東京で聞かれました。
 第2回会合について、「来年6月までに提出する報告書を『古代・中近世史』『近現代史』の2巻構成とし、各章ごとに日中の学者がそれぞれ作成した論文を掲載することを決めた。また、『共通関心事項』を設定し、犠牲者致などで見解が分かれる南京大虐殺や靖国問題などについて必ず触れることでも合意した。」時事通信(07年3月20日)が配信しています。
 産経新聞は社説で「歴史共同研究で最大の争点になることが予想される南京事件について中国は相変わらず、「30万人虐殺」説を宣伝し続けている。新華社電によると、その数字を記した「南京大虐殺遭難同胞記念館」の拡張工事が来年4月に完成する予定だ。しかし、旧日本車が南京の捕虜や市民30万人を虐殺したとする説は、日本側の実証的な研究によって否定されている。歴史共同研究を通じ、そうした日中両国の歴史認識の違いがさらに明確になることを期待する。」(06年12月26日)と述べています。
 認識のギャップが最も大きく表れるのは、日中戦争にかかわる問題です。
 1982年、日本の文部省(当時)は教科書検定で、歴史教科書から「侵略」の言葉を「進出」に改めさせ、加害の事実を記述させないようにしようとしました。中・韓両国は激しく抗議してきました。当時の鈴木善幸内閣は宮沢官房長官談話で「アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」と言明しなければなりませんでした。
 中国では、この教科書検定問題がきっかけの一つとなって、日本の侵略戦争、中国の抗日戦争の歴史を記録し展示する記念飽が各地に建設されました。
 最大規模の、中国人民抗日戦争記念飽は盧溝橋事件(中国では七・七事変)50周年記念として1987年に建設されています。
 2007年6月13日、「中国の抗日記念飽から不当な写真の撤回を求める国会議員の会」が発足しました。意図するところは明白です。抗日記念館の展示内容を調査し、自分たちが「事実誤認」と思う写真などの撤去を求めていくというものです。会長となった平沼赳夫はあいさつで「たくさんの抗日記念館で反日教育が行われ、間違った歴史観を植え付けることを許すことはできない」 (「産経新聞」07年6月14日)と述べています。   この議連の役員は、【顧問】町村信孝(衆・自)、中川昭一(衆・自)、島村宣伸(衆・自)、玉津徳一郎(衆・自)、亀井静香(衆・国民新)、泉信也(参・自)、【会長】平沼赳夫(衆・無) 【副会長】古屋圭司(衆・自)、今津寛(衆・ 自)、西村真悟(衆・無)、中川義雄(参・自)、亀井郁夫(参・国民新)【幹事長】萩生田光(衆・自)【事務局長】稲田朋美(衆・自)【会計監査】西川京子(衆・自)、戸井田撤(衆・自)です。
 中国には盧溝橋の中国人民抗日戦争記念館、南京の侵華日軍南京犬唐殺遇難同胞記念館、柳条湖の九・一八事件記念館を始めたくさんの抗日記念館があります。ここで展示されている写真を撤去させようという意図をむき出しにした議員連盟です。
 議連は「中国の抗日記念館から不当な写真の撤去を求める国会議員の会」で、自民、国民新両党と無所属の国会議員計42人が所属しています。
  これに関連して、中国外交部秦剛報道官は定例記者会見で質問に答えました。
 「近代に日本軍国主義が発動した中国侵略戦争は、中国人民に重大な災禍をもたらした。この時代の歴史を銘記するのは、深い恨みを引きずるためではなく、悲劇の再演を防ぎ、すばらしい未来を切り開くためである。
 中国政府は中日関係の問題において、一貫して『歴史を鑑(かがみ)として、未来に向かう』ことを主張しており、いわゆる『反日教育』は存在しない。当該歴史写真は当時の痛ましい史実を記録しているのであり、こうした写真の撤去を要求することは、誤った歴史と決別する勇気に乏しいことを顕わにするだけだ。」(「人民網日本話版」07年6月15日)
  「前事不忘後事之師」は中国人民抗日戦争記念館に掲げられている言菓です。
 安倍元首相は官房長官時代に、先の戦争が侵略戦争とされる点や「従軍慰安婦」開題で旧日本車の関与を認めた河野談話に否定的な見解を示してきました。首相となって一転、侵略戦争を認めた村山談話と河野談話を受け入れる態度をとるようになりました。
 こうした経緯があるなか、2008年1月5日、6日に北京で第3回全体会合を開催、本年中にも研究成果をとりまとめる予定と合意されました。近現代史についていえば、以下の各章について日中双方1本ずつ、合計18本の論文執筆を予定していること。これまでの16本の論文について報告・意見交換することが確認しあいました。
第1部 アヘン戦争(1840年)から満州事変(1931年)までの時期  
 第1章 アヘン戦争(1840年)から日清戦争(1894年)まで
 第2章 日清戦争(1894年)から辛亥革命(1911年)まで
 第3章 第1次大戦(1914年)から1920年代まで
第2部 満州事変(1931年)から終戦(1945年)までの時期
 第1章 満州事変(1931年)から盧溝橋事件(1937年)まで
 第2章 盧溝橋事件(1937年)から目米開戦(1941年)まで
 第3章 日米開戦(1941年)から終戦(1945年)まで
第3部 戦後(1945年以降)の時期
 第1章 戦後(1945年)から日中国交正常化(1972年)まで
 第2章 日中国交正常化(1972年)から現在まで
 第3章 日中における歴史認識、歴史教育等について
 そして2008年3月14日〜16日、近現代史分科会を日本で開くこと、2008年6月後半又は7月前半第4回全体会合(東京)を行い、報告書を完成させることという作業日程を確認しあいました。
 2008年5月、胡錦濤国家主席が訪日した時、日中首脳間で歴史共同研究の果たす役割を高く評価するとともに今後も継続していくことで一致しています。
 しかし、第4回全体会合が聞かれたと二ュースはないままです。

 二国間の歴史共同研究で歴史を共有する先鞭をつけたのはドイツとフランスです。両国間ではすでに共用できる歴史教科書も作られて、一部で実際に使用されているというニュースに接しています。ドイツはポーランドとの間でも歴史を共有しようとしています。
 日韓歴史共同研究では、政府関与のものは両国間の歴史共有から程遠いものになっています。
 日中歴史共同研究では共同研究に入る前から、意見相違は当たり前と言う発言が当事者から飛び出しており、しかも担当者がふさわしい人物であるかどうか、という状況ですからよい結果など到底望めないものかもしれま廿ん。
 2008年12月、ASEAN(東南アジア諸国連合)憲章が発効し、2015年の共同体実現へ着実な一歩を進めました。この地域は1954年SEATO(東南アジア条約機構)という反共軍事同盟がアメリカ主導で締結されたところです。(77年解消)いまこの地域に軍事同盟はありません。  わたしの生涯のなかで起こっているこの激変は驚くばかりです。歪んだ歴史観に自衛隊が汚染され、日米同盟にしがみつく日本は、東アジアで一番遅れた国になってしまいます。
 歴史認識を正していくための共同の輪を、わたしたちのまわりでもっと広げていかなければならないと痛感しています。

2009/1/14掲載

 2008年資料

安藤重雄先生の想い出

   ―陸奥と庶民の香り

後藤 正人

 2006年3月21日(祝日)の深夜に職場から戻った小生は、安藤重雄先生(1928年生)が20日(月)に亡くなられ、21日に通夜が行われること、22日(水)に近鉄「奈良駅」の近くのカトリック教会で午前11時半から葬式が行われること、そして小生に「お世話になりました」との奥様からの伝言をワイフから受け取った。
 3月21日には、深夜失礼ながら、会員のK氏に奈良市のカトリック教会の場所を伺い、22日には会員のM君へは残念ながら電話は繋がらなかったが、雨のそぼ降る中を近鉄「奈良駅」へ向かった。少々まごついたが、案内の看板を発見することができた。奈良女子大学へ向かう途中に教会はあった。11時半から牧師の先導により厳粛かつ祝福の気持ちを込めた式が始まった(終了は午後1時)。祝福の意味は、この後で小生に判明することとなる。牧師は、安藤先生の業績に触れると共に、「ヨゼフ・安藤重雄」として神に祝福されて神の身許に召されたことを告げた。牧師は、会葬者たちと共に、数曲の賛美歌を歌った。会葬者の手元には式次第の冊子が置かれており、幾つかの賛美歌の歌詞が印刷されていた。教会の女性の方に、かつてカトリック系大学でのクリスマスのミサで聴いたことのあった共通の曲の名を伺うと、賛美歌657番「いつくしみ深き」(表記?)という曲であった。ちなみに、その後に教会形式の結婚式に参列した際にも、共通の賛美歌が歌われたが、それは賛美歌660番「神とともにいまして」だったようである。
 安藤先生のお見送りの前に、先生の最後のお顔をじっと拝見していたら、ある女性が「お父さん(?)、後藤先生ですよ」とおっしゃられて、沢山の蘭などの花を下さった。小生はそれを先生の体の回りにそっと置いたが、しばし立ち去りがたかったことを覚えている。その女性は、先生の奥様の妹さんであるという。
  大阪船場にある会社に勤めているという安藤先生の長男から伺ったところに依ると、先生は20日の午後7時11分に亡くなられたという。会葬に来ていた会員のK氏夫妻に依れば、先生の奥様の妹さん(英語教師)が以前からクリスチャンだそうであるが、やがて姉である奥様が洗礼され、そして先生も洗礼されたのであろう。昨年、長崎県の「五島列島南北の旅」では、自然環境や歴史・民俗と共に、キリシタン弾圧の遺跡や、美しいステンドグラスなどのあるカトリック教会などに痛く感動した印象も蘇って来たものである。
  安藤先生をお見送りした後、かつて先生に案内された奈良市の二つの店に寄ってみた。一つはカトリック教会近くの海鮮の店(M)で昼食をとり、その後でアーケード通りを少し脇に入った喫茶店(A)でコーヒーを味わった。やはり奈良市のM氏が撮ってくれた先生との丹後での写真を二つの店の二人のオーナーに見せた処、先生がこの10年ほどは来られていなかったにも拘わらず、記憶して呉れていたのである。

  3月21日は教授会や大学院の会議の後、ベートーヴェン第9「合唱」で外山雄三氏や小林研一郎氏などの指揮による和歌山県民文化会館での10回の演奏会(テノールの一員として。それまでは1977、78年に外山雄三指揮で京都会館で2度)に出演するにつき、合唱の練習を指導してくれた同僚のM教授が退職されるので、職場の歓送会でそれまでのお礼の気持ちを込めて、「オー・ソレ・ミオ」をアカペラの怪しげなイタリア語で歌って差し上げた高揚が一遍に冷めてしまった。急に、かつて「日本史」の非常勤を委嘱された大阪商業大学の近くの病院(2度。会員のMさんを誘う)、大阪市内の病院、奈良県田原本町の病院(ワイフと)、奈良市の病院(会員のM君を誘う)、同市の医療老人ホーム(4、5回)にお見舞いした際の安藤先生の様子が頭に浮かんで来た。このホームでは、偶然に慰問に来られていた方の演奏するハーモニカと合わせて、「荒城の月」などを歌ったことや、仕事で来られていた方に奈良駅まで送って頂いたことも思い出された。
  安藤先生との愉快な、かつほろ苦い思い出もある「丹後の文学旅行」や、おそらく憲法・政治学研究会などの後の20数回にわたる懇親会におけるアカペラなどや、奈良市の一夕でのカラオケによる10数曲に亙る「歌合戦」は決して忘れられないことであろう。ここで先生から数曲の演歌を歌えるようになる切っ掛けを作って頂いたことも感謝したい。
 安藤先生は陸奥(みちのく)をこよなく愛しておられたが、先生の同郷で文学サークルを主宰される女性は、小生宛の便りで「安藤先生は本当は故郷に帰って来たかったのかも知れません。『関西人には成り切れない』と話されていたことが有りました」と触れておられたことも伝えておきたいと思う。

  さて、安藤先生のことについては、@後藤編『法史学の広場』安藤重雄先生古稀記念・通巻第5号(和歌山大学法史学研究会、1999年3月)を出版して、そこには町田恵一「安藤重雄先生の講義のこと」、後藤「安藤重雄先生の人・教育・学風」が収められている。拙稿では、先生の多少の業績にも触れておいた。また、A後藤編・解説『安藤重雄「海棠」等所収作品集』(和歌山大学後藤研究室刊、2000年11月)が発行されている。@は関西啄木懇話会編・刊『啄木文庫』30号(68頁、2000年)にM氏によって、Aも同誌31号(166頁、2001年1月)に紹介された。現在、この『啄木文庫』は、残念ながら廃刊となっている。大阪商業大学の紀要や商業史研究所の紀要には、管見の限りでは、先生の業績目録は見受けられない。大塩事件研究会の『大塩研究』などに期待したい。
  そこで小生は、歴史専攻の会員の皆さんのために、敢えて上記の『啄木文庫』18号(10周年記念特集号、写真入り、1990年11月)と同誌31号(創立20周年記念号、写真入り)のそれぞれの総目次から、及び小生が気が付いたそれに漏れているものから、安藤先生の作品を以下に紹介して、先生の「社会文学」を追懐することとしたいと思う。

「序言」、「特集・啄木短歌との出会い 感性的なるものへの飢え!」(2号、 1982年4月)
「啄木短歌における『常民』性」(3号、1982年11月)
「懇話会詠草:短歌」(4号、1983年4月)
「書評:『播州平野にて 内海繁文学評論集』」(5号、1983年8月)
「ふるさとの駅に立つ唯一の木碑」(9号、1985年1月)
「啄木のひろば:丸谷喜市先生十三回忌に」(11号、1986年7月)
「啄木の歌この1首」(12号、1987年2月)
「啄木研究の画期にー会発足十周年に寄せて」(18号、1990年11月)
「書評・『啄木評論の世界』を読む」(19号、1991年8月)
「門川正雄さんをしのぶ・農民文学の友 門川さんを懐う」(20号、1992年4月)
「挨拶:「横一線」でさらに活性化を」(21号、1992年12月)
「人迷わせな啄木短歌」(23号、1994年4月)
「石川啄木の『国際性』について」(25号、1995年8月)
「十五年のお祝いを意義深く」、「『違うから良いのだ』ー寛容の会の伝統を」(26号、 1996年4月)
「本・紹介と批評:「石井勉次郎『林中放話』」(27号、1997年)

 安藤先生は、関西啄木懇話会では学閥とボス支配の克服や、会則の民主的改正に意欲を示され、また会長に選出されたように懇話会の諸活動に尽力されたこ とも指摘しておきたい。 (2006.6.14)

大阪府平野屋新田会所跡・保存の新段階へ

建物は破壊されたが、発掘調査で新しい意義を確認!

平野屋新田会所を考える会

 国会でも取り上げられ国史跡指定に向けて着実に進展していた平野屋新田会所の建物群が、開発業者に破壊されたのは今年1月のことでした。その経緯は『文全協ニュース』179号に書かせていただきました。

現地説明会の開催
 その後、開発業者はその跡地で宅地開発を模索しており、それに対応するために大東市教育委員会は国の補助金を得て範囲確認のための発掘調査を5月から実施し、その成果を広く公開するために現地説明会が6月8日(日)に開催されました。当日は700人を越える参加者により大盛況で、市民の関心の高さがうかがわれます。さらに建物解体の経過を踏まえて文化庁記念物課長と担当調査官が終日現場で待機し、3名の国会議員をはじめ府会議員・市会議員が多数訪れ、前代未間の現地説明会になりました。

調査の成果
 発掘調査によって明らかになったことは、@主屋、蔵をはじめとする建物跡、庭園、船着場などの施設、会所の敷地をめぐる濠が良好に遺存していること、A建物は数度にわたる建て替えや改築が行われており、18世紀前半の会所の設置から現代にいたる変遷を把握できる可能性があること、B庭園も保存状況が良好であり、その変遷を追うことができること、の3点にまとめられます。

新しい歴史的意味
 今回の発掘調査の成果からいくつかの会所の新しい意義を確認することがでます。@会所の景観と機能の全体像が明らかになり、A今後、会所の施設の変遷が詳細に把握できれば、新田経営の歴史的な変化を解明することができます。Bそのことは大和川付替えを契機とする日本近世を代表する大開発の中心である深野池(ふこのいけ・320町歩の面積)のその後の経営の実態を明らかにすることのできる可能性があります。Cそしてこの開発が大坂の豪商に担われたものであり、新田会所が大坂商人の経営と生活の中の意味を考えることもできます。D農業生産、農業経営の遺跡として、平野屋新田会所は、新しい価値をもつに至ったのです。

国史跡指定を要望
 建物は破壊されました。しかし発掘調査によって新田開発と経営の拠点としての平野屋新田会所は、その重要性がさらに高まり、国史跡の価値は失っていないとわたしたちは考えます。現場を見た多くの市民とこのことは共有できると思います。国史跡指定に向けての運動を、ただちに再構築しなければなりません。全国の皆さんのご支援をお願いします。

平野屋新田会所を国史跡に!


平野屋新田会所を考える会
〒574-0037 大東市新町10-5 小林義孝(大阪民衆史研究会会員)方
TEL 090・3860・5200

歴史的判決で軍の強制明らか

沖縄・集団自決の悲劇

山口 哲臣

 戦時真っ唯中の師範学校で徹底した軍国主義教育を受け、最後の現役兵として十九歳で帝国陸軍に入隊した体験を持つ私は、いかに軍隊の命令、強制が絶対で有無を言わせぬ至上のものであったかを、つぶさに見聞きし実践させられてきた一人である。
  だから、国内で唯一の地上戦がおこなわれ、非戦闘員であった高齢者・女性・子どもらが多くの犠牲を強いられた沖縄戦の歴史的経過は、決して人ごとではない。同胞日本民族のいつわりのない実態であり、悲劇であったことを、まず知ることではないだろうか。
  二〇〇八年二月二十八日、大阪地裁は、沖縄戦での「集団自決」に日本軍が深くかかわつた事態を認める判決を言い渡し、旧日本軍が住民に「集団自決」を命じたという岩波新書・大江健三郎著『沖縄ノート』の記述で、名誉を傷つけられらたとして、著者大江健二郎と出版元の岩波書店を訴えたのだが、大阪地裁の判決によつて、当時の隊長等のねらいが誤りであり、元隊長らが「集団自決」に深く関与していたことは「十分に推認できる」という認識を示した。
 大江健三郎の『沖縄ノート』では主として、座間味島で百七十八人、渡嘉敷島で三百六十八人の住民が集団死した事実を、現地の生き残りや住民たちが遺していた資料をもとに、いわば生き証人の証言を正確に編集したドキュメンタリー集である。
 この「集団自決」は犠牲者住民が手榴弾を爆発させて死に臨んでいる。その手榴弾は軍の守備隊が住民に渡さなければ絶対に手に入れることのできないもの。兵隊が勝手に渡したなどの言い訳は、旧日本軍の厳しい軍律を知る著者など想像すら出来ないウソと言えよう。
 元隊長らが起こしたこの裁判のねらいは、「南京大虐殺はなかった」「従軍慰安婦」問題で日本軍の強制した証拠はない、など侵略戦争を美化し、軍の蛮行を正当化する動向と同じ類の、歴史の敗北者の玩弄でしかない。
 昨年文部科学省は、この裁判原告の主張を理由に、高校教科書から、旧軍隊が「集団自決」を命令・強制したという文言を削除してしまった。彼らも歴史的敗北者の道を歩み続けている。

児玉花外作詞・小諸商業学校校歌について

後藤 正人

  はじめに
 児玉花外 (1874 -1943年) の作詞になる校歌は、原作詞者として明治大学校歌 「白雲なびく」など、若干は知られている。ここではあまり知られていない花外作詞になる 小諸商業学校 (現長野県立小諸商業高等学校)の校歌を紹介・検討し、同校歌をより深 く理解するために、作曲家・岡野貞一をめぐっても紹介・検討しておきたい。なお、同 校校歌の制定は1923 年(大正12)年10月、同校の前身は島崎藤村も教師を務めた小諸義塾である。

   (1) 小諸商業学校校歌の歌詞
 イギリスの大詩人・バーンズやウィリアム・モリスに譬えられ児玉花外は日本最初の 本格的な社会主義詩人であり、大塩中齋なども歌い、中齋を随筆にも残したことはすで に紹介・検討したことがある (後藤 「児玉花外『社会主義詩集と』大塩中齋顕彰―社 的ロマン派詩人の思想と行動」『立命館大学人文科学研究所紀要』70号、1998年)。
 小諸商業高校の校歌は次のとおりである。

   1  古城の月に照らしみる  小諸商史の輝きは
     代々の栄えを重ねつゝ  花とも匂う堅実の
     美徳囲むる吾等こそ  尚も光らん亀鑑なれ
   2  浅間烏帽子の意気を負い 力に燃ゆる若人に
    秀づ蓼科八ケ岳  いなづま映る千曲川
    道をたまわず進みたる  偉人の跡を教えずや
   3  雲のとばりの紫に  日本アルプス神の威の
    希望の影を遠くひき  積る文化の雪深く
    星を飾れる駒草が  高き理想に導かん

 花外が文化の役割を優れた言葉で歌った校歌は、徳育的なことがないばかりか、北信 の自然と文化の香りが調和して絶妙な気分を漂わせている一大傑作である。戦前の歌詞 でありながら、もちろん現在も花外作詞の校歌として愛唱されている。このことは花外 作詩の青森県法奥小学校の校歌と同じように、歌詞の持っている普遍的な優れた内容に 拠っているからである(後藤『歴史・文芸・教育―自由・平等・友愛の復権』和歌山大学法史学研究会、2005年)。
 花外が、大詩人のみならず、朗吟家であり、随筆家であり、歴史小説家でもあったこ とは、研究してみると初めて判明することであるが、歌詞の素晴らしさはこうした花外 の持っている諸要素が然らしめた結果であると考えられる。 作詞者としての花外の校歌では、原作詞の 「白雲なびく」(明治大学校歌)は余りにも有名であるが、これまでは青森県南部地方の小学校校歌や旧制中学校の祝歌が紹介されているにすぎない (前掲後藤『歴史、文芸、教育』)。

  (2) 小諸商業学校校歌の作曲家・岡野貞一をめぐって
  作曲者の岡野貞一(1878 ―1941年)は現鳥取市古市の生まれで、東京音楽学校教授 を務めつつ、文部省の教科書編纂に当たった。岡野は、作詞者の高野辰之とのコンビで、 馴染み深い名曲 「故郷」、「朧月夜」、「春の小川」や「紅葉」などを作曲した。また岡野は多くの学校校歌を作曲したことでも知られている。なお末見であるが、鈴木恵一『岡野貞一とその名曲』日刊、2005年) があるという。
  高野辰之(1876―1947年)は、現長野県中野市生まれの国学者で、1909年(明治42) に文部省の小学唱歌編纂委員に委嘱された。翌 1910 年には東京音楽学校 (現東京芸術 大学)教授、その後に文学博士、著書『日本歌謡史』・『日本歌詩集成』・『近松門左衛門全集』などがある。ちなみに長野県下水内郡豊田付永江には 「高野辰之記念館」があるという。
  小諸商業学校校歌の曲調は、音楽教室の同僚にお願いした演奏テープをじっと聴いて みると、文部省唱歌 「われは海の子」と少なからず共通点があるよぅに私には考えられる。なお、この演奏では行進曲としても魅力ある内容を有していた。
 さて「われは海の子」の初出は1910年(明治43)で、作曲者が不詳となっているが、 先の岡野貞一が関わっていたことは研究者に知られている。岡野は、「われば海の子」 の作曲について、指導的な役割を果たしたのではなかろうか。
  宮原晃一の歌詞 「われは海の子」は実に7 番まであり、5 番以降は軍国主義的な内容も含まれるために、省略されることも多い。宮原は現鹿児島市の出身で、同市内にある祇園之洲公園には「われは海の子」の詩碑があるという(『ザライ』13号付録、2006 年)。 ただし同冊子では、宮原晃一郎となっているが、晃一が正しい。
  なお鮫島潤「甲突川の思い出(3) ―天保山の周辺から(2)」(『鹿児島市医報』43巻 10 号、2004 年)によれば、宮原晃一は1872 年 (明治5)に薩摩藩士の子として加治屋町 に出生、後に北海道の「小樽で新聞記者をしていたが郷里鹿児島の天保山の海辺の美し さが忘れられず作詞して文部省の懸賞に出し文部省唱歌に当選したのである」という。
また「さわぐいそべの松原」も現在は面影がなく、「煙たなびくとまやこそ」の煙は当 時塩屋町 (現在は甲突町)の塩田で塩を炊く煙であり、それを裏付ける塩釜神社が現存 するが、その海辺情緒も失われてしまっているとのことである。祇園之洲は、広大な錦 江湾と秀麗な桜島を完全に見渡せる唯一の場所であるという。

   むすびに
  児玉花外作詞の 「小諸商業高校佼歌」を多少検討していくうちに、種々の事柄が見え てきた。小諸義塾は、かつて拙稿「信州小諸における馬場辰猪と木下尚江との遊説活動」 (本誌68号、2000年)で扱ったことがあるが、本校校歌の背景には多くの観念が内包 されていることが判明した。これからも花外作詞の校歌の掘り起こしの仕事にも精を出 していきたいと考えている。

「回顧と展望」について

尾川 昌法

 「回顧と展望」は年末年始の恒例である。マスコミが政治、経済、文芸、論壇などの分野別に特集するだけでなく、職場の同僚や友人との忘年会や新年会でも「いろいろありましたが、新年もよろしく」と回顧と展望が挨拶される。過去を振り返り当面する問題をうまく解決したいと願う人間の知恵の産物であり、おそらく人類の新年行事とともに古い貫例であろう。過去を歴史と意識する原点であるといえる力もしれない。
旧西ドイツのウ゛ァイツゼッカー大統領がドイツ敗戦40周年に連邦議会でした有名な演説の一節、「過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも目を閉ざす」、 ということばはこの歴史意識の原点を言い当てている。
 歴史意識は、しかしまだ歴史学ではない。歴史学が成立するのは歴史における「発展」に気付いてからである。 何が発展したか、発展はどのようにして起こったか、どんな尺度ではかれるのか。そこに生まれた多くの歴史観の違いをこえて、「実事求是」は歴史学の基本的方法となった。 「実事求是」は事実の羅列ではなくことの真相を求め尋ねることである。多くの事実をふまえて歴史の流れ向かう本流を探究しなければならない。私たちは2007年に何を見た か。
 2007年の歴史で最も強く記憶に残るいくつかの事実がある。日本史教科書から日本軍が集団自決を強制した記述を削除したことが明らかになったのは3月であった 安倍晋三内閣は、前年暮れに教育基本法改悪を強行し、なおも「戦後レジームからの脱却」を呼号していた。沖縄の県議会をはじめ41市町村議会のすべてが次々と検定意見 の撤回と記述の回復を求める意見書を可決して文部科学省に提出した。7月の参議院選挙で自民党は大敗し、安倍晋三内閣は9月、臨時国会の論戦を前に突如として 辞職、福田康夫内閣に代わつたその9月、11万人の沖縄県民大会が検定意見の撤回を要求して開かれた。復古主義的「改革」路線に反対し、歴史的事実の歪曲を許さず、 立憲主義、民主主義を求める人民の意志を表明するものであった。
 国外では、旧日本軍の従軍慰安婦、性的奴隷強制について日本政府の公式謝罪を求める決議があいついでいた。 7月にアメリカ下院本会議で採択、11月にオランダとカナダの下院で、12月にはEUの欧州議会が、同様に公式謝罪と歴史事実の国民教育を求める決議を採択蟄ぼ音本政府の 国際的孤立状態を示したばかりでなく、人権の尊重や歴史的事実の歪由を許さない、という世界の世論を示すものであった。人権理念の世界的水準は、9月に国連総会が 「先住民の権利宣言」を圧倒的多数で採択したことにもあらわれている。70か国に3億7000万人をこえると見られている先住民の権利について、個人的権利とともに 「民族として必要な発展にとって欠かせない集団としての権利」を明記した画期的な宣言である。
 日本でも世界でも、歴史の歪曲を許さず、人権と民主主義を要求する 人類の意志が示されている、と言えるだろう。これが歴史の流れ向かう本流ではないか、と思う。歴史の発展をはかる尺度となる民主主義の深化・拡大の歴史は、 もちろん数十年、数世紀の長い時間の中で検証されなければならない。それが私の今年もつづく歴史へのまなざしであり関心事である。

坂口喜一郎・鶴彬・大阪商大事件の節目の年

柳河瀬 精

 2008年は、三・一五大弾圧80周年、小林多喜二虐殺75周年、坂口喜一郎虐殺75周年、鶴彬没後70周年、大阪商大事件65周年などの節目の年となります。
  坂口喜一郎は和泉市黒鳥出身で、呉海兵団に志願し、プロレタリア文学の読書から社会科学を学ぶようになり、31年治安維持法違反で検挙され海軍刑務所に収容、 不起訴のまま帰郷を命じられますが、そのまま呉で仲間とともに海軍内に日本共産党の組織確立を図つて活動、機関紙「聟ゆるマスト」を発行しました。党の指示で横須賀中心に活動中、33年11月東京で検挙され、広島刑務所へ送られます。未決のまま獄中で虐待のため同年12月27日獄死しました。黒鳥には顕彰碑が建てられています。
 いま呉に 「聳ゆるマスト」顕彰碑の建設計画があり、07年11月、募金活動をすすめるためのビデオ作りのため、呉から建設委員会の人たちがこられて、黒鳥の顕彰碑や坂口家の墓地を 撮影、坂口家の遺族や、顕彰碑建設の関係者などと交流されました。呉の運動にも呼応して、黒鳥での碑前祭を没後75周年の節目に行わなければならないと考えています。
  鶴彬(本名喜多一二)は石川県河北郡高松町(現かほく市)出身で、15才ころから川柳を始め、18才で大阪の町工場の労働者になったころから階級意識に目覚めプロレタリア川柳 を主唱するようになります。徴兵により金沢第7連隊に入営、隊内における活動が発覚、軍法会議で懲役2年の判決を受け大阪衛成監獄(陸軍刑務所)に収監されます。出獄後、 川柳・評論を発表していましたが、37年特高警察によつて治安維持法違反で検挙され、東京。中野区の警察署に留置中、赤痢に罹患するが放置され病状が悪イヒし、釈放されないまま豊多摩病院へ移されますが、38年9月、29才の生涯を閉じました。
 鶴彬の句碑は、故郷に「枯れ草よ団結をして春を待つ」、金沢市内に「暁を抱いて闇にゐる蕾」、盛岡市に「手と足をもいだ丸太にしてかへし」がすでにありますが、大阪衛成監獄跡にも句碑を建立する運動がすすみ、08年秋にも除幕できることになつています。
  戦争たけなわの43年3月から45年1月の間、大阪市立大学の前身、大阪商科大学の教員、学生ら約100人が治安維持法違反で検挙されたのが大阪商大事件です。半数近くの人た ちが45年10月6日前後の釈放にいたるまで、各警察署留置場、大阪拘置所、大阪刑務所で拘束されていました。実刑判決を受けたのは3名、40数名が未決のまま拘留され 、はげしい拷問と虐待のなかで獄死者3名、発狂者3名、釈放後の病死者数名あります。
 上林貞治郎『大阪商大事件の真相』(1986年。日本機関誌出版センター)は事件の概要を ご自身の体験の含めて詳しく明らかにされています。
 事件の関係者の中にはまだお元気でおられる方もいらつしやいます。65周年という節目の機会に、関係者から直接事件を 語つていただく機会を作り、あらためて事件のことを広く知らせていきたいと企画検討中です。
 08年に迎える坂口喜一郎、鶴彬、大阪商大事件の節目に、ともに先覚者たちを しのび、学びあえるようにお願いいたします。

 2007年資料

関東大震災に遭った穂積陳重

一和歌山大学附属図書館 「脇村文庫」から一

後藤 正人

(1)はじめに
 1923年 (大正12)9月1日に勃発した関東大震災は、死者不明14万人余り、全壊焼失57万余戸の大災害を引き起こした。たとえば生方敏郎「明治大正見聞史」(中公文庫、1978年)によれば、関東大震災の戒厳令に接した大ジャーナリストの見聞した厳しい人権状況が詳細に描かれている。とりわけ山崎今朝弥「地震,憲兵・火事・巡査」(岩波文庫、1982年)によれば、流言蜚語が流され、殺された朝鮮人の数は司法当局の取り敢えずの発表によると1O00人、同じく殺された南葛労働者は1000人あるいは2000人とも指摘されている。朝鮮人で命からがら上海に帰ったものは1万人近いという。
 東京大学明治新聞雑誌文庫の室長・宮武外骨が指摘していたように、一方では日本の旧民法典や明治民法典の作成に参画した磯部四郎 (1851一 l923年)がこの大震災の犠牲者となっていた (村上一博編「磯部四郎論文選集一日本近代法学の巨肇」信山社、2005年)。
 他方では、家制度が緩やかであった旧民法典の施行に反対した東大教授・穂積陳重 (1856一1926年)は神奈川県の葉山にある別荘で大震災に遭っていた。果たして、関東大震災に直面した陳重は如何に振舞ったのであろうか。
  かつて私は、従来殆んど見過ごされていた 1889年 (明治22)夏に西日本を襲った大水害 (及び地震)をめぐる状況と原因論を多少検討したことがあり、それが戦後の風水害の対策に余り生かされていないよぅに感じていた。 現在、地震の防災面に関するハード面の対策の重要性は指摘されるようになったが、大地震に直面する人々の精神面への対策や、被災後における精神面のケアーへの国家・地方自治体の対策は忘却されてはならない今日的な課題である。 大地震の実感について、近年には後藤編・解説「甲南大学生の阪神淡路大地震被災報告」(増訂第2版、和歌山大学後藤研究室刊、2007年)などがあるが、陳重の 「震災直後の書簡」は大学者の 「大地震の実感」を示すものとして有益な資料といえよう。

(2)大地震直後における陳重の重遠宛書簡
  この陳重の書簡とは、大震災中に葉山にいた陳重が東京にあった息子・重遠の派遣した牛込の八百屋の若者 (自転車で駆けつけた)に託した重遠宛の私信である。
 この臨場感ある書簡は、穂積重遠「父を語る」(自刊・東京市牛込区払方町9番、1929年[昭和4]4月8日付)に所収されてある。本書は、陳重没後3周年に際して、東大教授・穂積重遠(私法学者)が日本評論社の「経済往来」(1928年10月号以下)に連載した随筆を改稿して、親戚故旧に頒布した特別の作品である。陳重が、神伝流泳法の達人であったこと、ローマ字やエスペラント語(世界共通語)にも同情を持っていたことや、校正の赤ペンをもって臨終を迎えたことなども興味深いものがある。
  原文は旧漢字や旧仮名遣いであるが、当用漢字と現代仮名遣いに直した。また本文では敬称はすべて割愛してある。読者におかれては、諒とされたい。 ちなみに、本書は重遠が寄贈した神保氏(後考を待ちたい)を通じて、やはり東大教授の脇村義太郎(現和歌山県田辺市出身、1900一1997年)が入手したものである。現在は和歌山大学附属図書館の「脇村文庫」に所蔵されている。かつて「教授会クループ事件」で人権抑圧に遭ったこともある脇村義太郎の蔵書が、一部ではあれ、なぜ当大学附属図書館に所蔵されるようになったのか。そこには脇村の弟子たちの中から当大学の経済学部のスタッフとなった教員がかつて存在したことも、その重要な理由の一つであるよぅに思われる。
 ・・・昼食の為め別荘に帰り、縁側へ上るとたんに、突然身体が投げ出される様な心持がしたから、思わず側の柱をつかまえ体を支えると用げ瞬間に、空中に異様の響が聞こえ、体は激しく左右にふられて倒れんとするから、堅く柱をつかみ体を支えると、まさ(女中)は泣きながら足にしゃがみつき、いね(女中)は其側に倒れて、両人共悲鳴を挙げて、「旦那様どうしましょう」と泣声を出す。家屋のゆれる音すさまじく、戸障子倒れ、諸道具の倒れる音、棚より物の落ちる音、ガラス戸のこわれる音すさまじく、壁は落ちて土煙を立て、室内暗し、屋根より瓦なだれ落ち、あぶなくて戸外に逃れることが出来ぬから、声を励して「まだ逃げ出してはいけん」「大丈夫だから落ついて居れ」と叫び、はり(梁・・・引用者)の墜落を恐れて上を見れば、電燈球時計の下げ振りの如く南北に動いて殆んど天井を打たんとす。何分程であったかはっきりわからぬが、震動が梢々静になって庭の方の屋根より瓦が落ちぬ様になってから、三人とも庭に飛び降り、松の木をつかまえて静止を待つ。・・・地面三四尺づつの縞の如く大なる縦裂を為し、どろ水を吹き出して居る。・・・

(3)若干の解説
 この書簡によれば、強烈な地震に遭遇した陳重は、幸運にも側にあった柱を必死の思いで掴み、女中の一人に吾が足をしがみつかれ、女中たちの悲鳴や泣き声の中で、女中たちを指揮して沈着に振舞ったように思われる。また、この重遠の本書によれば、陳重の別荘の隣家といってよい所に男爵・松岡康毅の別荘があり、彼はここで圧死、女中が重傷であったことも伝えている。これらを拝読した私には、「日木法史」などの非常勤講師を委嘱されていた甲南大学が1995年1月17日に阪神淡路大地震に遭遇した際に、学生たちの80枚の被災レポートを読んだことと二重写しになって見えてくる。ちなみに熊谷 (開作)文庫内の穂積陳重著書の隣り合わせに「松岡康毅伝」が並んでいたことは奇遇であった。
  さて家族を全て東京に帰していた時に大地震に見舞われた陳重は、この時67歳ほどであった。それにしても数歳若輩の私は陳重のような沈着な行動が取れるであろうか、甚だ疑問である。一方で陳重は息子・重遠に余り心配をかけるようなことを叙述しなかったかもしれないし、他方の重遠も差障りのある内容があったとしても公表を避けたことであろう。当時としては老境に入りつつあった陳重には、この関東大震災は精神的に大きな意味を持ったのではないであろうか。

[関連文献]
後藤「権利の法社会史一近代国家と民衆運動」第4章「l9世紀のヒューマニズムと自然環境論一l889年大水害の森林濫伐原因論」(法律文化社、1993年)
脇村義太郎「わが故郷田辺と学問」岩波書店、l998年
後藤「平和・人権・教育」第4章「戦後変革期における大学職組一和歌山大学教職員組合をめぐって」(宇治書店、2005年)

村嶋歸之のまなざし

木村 和世

1 村嶋歸之をめぐる人々

 村嶋歸之と言っても、その名前を知っている人は少ない。最近でこそ、何人かの研究者がとりあげるようになったが、研究を始めた20年ほど前は、労働運動史のなかのごく一部分でその名前がとりあげられるぐらいであった。
村嶋は1891年11月20日、奈良県で生まれ、1965年1月13日、73歳でなくなった。村嶋は子どものころは豊かな環境で育ったと言ってよい。父・滝口歸一は式上、式下、宇陀、十市の4つの郡の郡長となり、その後、衆議院議員を務めている。彼の社会に対する関心は父の影響もあったのであろう。早稲田大学に進むと同時にさまざまな社会問題への関心をあらわにしている。この学生時代がのちの村嶋の思想のべ一スを形作っていたと考えられる。
 早稲田を卒業する直前に彼は母の実家の村嶋姓を継いだ。村嶋とはどのような人物かと問われたら、彼を表わすさまざまな名称が飛び出す。新聞記者、犯罪学者、社会学者、労働運動家、キリスト者、教育者、社会事業家。そしてさらに彼の特徴を示すものとして盛り場や路地裏のルポルタージュがある。 村嶋は大正期の関西の労働運動を牽引した一人であったが、彼の行動の根底をなしていたものは大阪毎日新聞記者としての自覚と誇り、ヒューマニズムであった。彼のまわりをとりまくきらびやかな人物群にも目を奪われる。関一、本山彦一、小河滋次郎、松岡駒吉、西尾末広、森戸辰男、馬島|、野坂鐵 (参三)、志賀志那人、さらに常に行動をともにした賀川豊彦、久留弘三らがあげられる。
 このなかでも賀川、久留とは労働運動を通して密接な関係を築いていた。のちに村嶋がキリスト教徒になってからは、賀川と生涯行動をともにしている。そして彼の行動を見るとき、忘れてならないのは、村嶋が学生時代に罹った結核であろう。この病気とともに彼は波乱に満ちた人生を歩んでいくことになる。彼が大阪毎日新聞に入社したのは 1915年である。1915年というと第一次世界大戦 (1914〜1918年)がおこった翌年であり、大阪には街路樹をもつ最初のメイン・ストリ一トとして堺筋ができあがり、三越 (1917年)、白木屋 (1921年)、高島屋 (1922年)・松坂屋 (1925年)がつぎつぎに開業していた時代だった。そして繁栄の表通りから隠れた路地裏にもうひとつの賛困に満ちた社会や喧騒にあふれた盛り場があった。 また、この年は東京で労働者の親睦、共済、修養を目的として鈴木文治によって結成された友愛会の大阪支部が北区に会員6O人で結成された年でもあった。
 新聞記者として村嶋が名をあげたのは同新聞1917年2月から3月にかけて連載された「ドン底生活」(1回〜24回)であったと言える。この下層社会をとりあげた記事から、「ドンちゃん」の愛称で呼はれていくのだが、社内では長くこの話が伝えられていたようである。「毎日新聞百年史」(1972年)でも項目を設け、村嶋についての記述をしている。

2 大正デモクラシーの高まりと新聞社

 1916年7月、「朝日新聞」には河上肇が「貧乏物語」を連載していた。それは大きな高まりを見せた大正デモクラシーの波が社会問題にも目をむけはじめたことを示していた。それを追かけるかのように「大阪毎日新聞」に連載されたのである。村嶋はこれに続いて「ドン底通信」(1917年2月 14回連載)、「見よ!!このダークサイドを」(1918年1月 10回連載)を発表した。
 河上肇がヨーロッパの賀困を取り上げたのに対し、村嶋は日本の、しかも大阪や神戸の貧困を取り上げた。これは多くの都市の中問層をひきつけていった。 村嶋がこれほど自在に連載を続けられたのは時代の要請に基づいて紙面を構成していこうとする新聞社の姿勢があったといえる。「大阪毎日新聞」に大きな影響力をもった人物として第5代社長・本山彦一がいる。彼の 「新聞商品主義」は広く知られている。1910年の大阪毎日編集者会議の席上で本山は新聞の販売部数拡大のためには 「俗耳に入り易いといふ心がけと、いまひとつは人気に投ずるといふものがなくてはならぬ」(「松陰本山彦一」大阪毎日新聞社 1937年) と述べている。村嶋の 「ドン底生活」に始まる一連のシリーズはこうした読者の社会問題への関心の高まりに応じた大阪毎日新聞仕の姿勢にあったといえよう。こうして彼が社内で立場を確固たるものにしていったころ、神戸では東京から久留弘三が友愛会の活動を拡げるためにやってきた。また、賀川豊彦も神戸新開地で路傍伝道を行い、新川に住み、救済活動を続けていた。
神戸で村嶋は 「ドン底生活」を書いた記者としてだけではなく、労働運動に積極的に参加する記者として登場する。村嶋と労働運動との接近により、大阪毎日新聞紙上にはいち早く、労働運動のニュースが掲載されるようになった。村嶋だけでなく、このころには何人かの記者は労働問題講演会の壇上に立ち、熱弁をふるうようになった。 新聞社と労働運動の蜜月時代である。
 1919年4月20日、大阪聯合会、神戸聯合会、京都聯合会三者による友愛会関西労働同盟会の記念講演会が大阪中央公会堂で開催された。労働者たちは、聯合会旗、支部旗が翻るなか、「目覚めよ、日本の労働者」の労働歌を歌いながら行進をした。「大阪朝日新聞万歳」「大阪毎日新聞万歳」と万歳を三唱しながら進んだ。公会堂では 「陛下万歳1、「友愛会万歳」を叫んだ (「労働者新聞」5月15日付)。このとき、村嶋28歳、またのちに戦前最大の争議と言われた三菱・川崎造船所争議団の指導部となった久留は27歳、賀川は31歳であった。非常に若い情熱が彼らを結び付けていたと言える。
 村嶋は社内ではすでに労働記者としての立場を確立していたが、その考えを署名入りの記事を掲載することにより立場を明白にしていったのは1919年9月15日、川崎造船所1万6000人の労働者が賃金値上げを要求してサ大阪民衆史研究サポタージュ闘争が行われたときであった。村嶋はこの争議に密接にかかわり、みずからも著書でこのサボタージュという戦術を教えたのは自分であると述べている 「(犬馬鹿三太郎の生涯)1991年」。「大阪毎日」もこの争議を大々的に取り上げた。村嶋の決意表明ともとれる署名の入った記事 「川崎造船所労働争議委員諸君に興ふる書一新聞記者の立場から一」(「労働者新聞」10月20日付)は、すべての労働者へのエールであった。彼はこのなかで、サボタージュが工場民主、普通選挙、運動の蓄積を労働者にもたらし、さらにサボタージュ続行か放棄か、同盟罷業かという選択を労働者自身の手で行ったということが普通選挙につながるものとして高く評価した。

3 運動の過激化

 賛困を背景とした社会が争議の後ろにはあった。1921年になると新聞記事には 「労働不安」、「生活不安」という言葉が頻繁に出てくるようになった。このころ争議は次第に過激化していった。大阪では大阪電燈株式会社、藤永田造船所争議が起こった。
 しかし、このころの紙面をみると、労働争議が続行している6月9日には 「公開映写を開始せる/東宮殿下御映画」のニュースが大々的に報じられていた。これは皇太子英国訪問の活動写真二ュ一スが公開されたことを報じたものであり、東京の日比谷公園では8日午後7時からおよそ13万人の観衆を集め上映されたと報じていた。この前日、藤永田造船所争議をめぐって友愛会は同情罷業の傲文一万杖を西区など大工場の密集する場所で配布していた。
10日には西尾末広、松岡駒吉などが検挙されたが、新聞は連日、「東宮の御英姿」を報道していた。18日になると、労働者のなかの強硬派が「最早穏健ナル運動ハ何等効ナキヲ知レリ決死の覚悟ヲ以テ最後ノ手段二訴へ直接行動二出ツルノ外ナシ」という過激な発言をしていくよぅになる。19日には職工服に梶棒という姿で武装した労働者の姿が報告され、労働者の妻たちは一隊をつくり工場主の自宅を訪問陳情するなどもはや家族をまきこんだ様相が示されていった。労働者1000人は「手にした梶棒、仕込み杖、木剣、金棒の類を揮って警官隊と入り乱れ肉の響き、血の呻きは随所に起こり全く修羅場を現出した」(「大阪毎日」6月19日)という状況になった。
 ここにいたって、争議はようやく報道され世間の注目を集めるようになった。こうした一連の報道から新聞社の労働運動に対する姿勢に対する変化の出ていることが見てとれる。村嶋はこのとき病気で臥せっている。こうした労働運動の過激化はこれまで運動の支援をしていた知識人層の一部の離反をうながした。この大電争議、藤永田争議のあとに続くのが三菱・川崎造船所争議であつた。これには賀川、久留が深く関わった。争議のきっかけは工場に勤務する労働者にほかの労働組合に加入する自由を会社側に求めるものであった。会社側からは労働者が組合をつくるのは自由だが、組合を認めることはできないという回答が返ってきた。会社側は交渉に現われる労働者を容赦なく馘首していった。
やがて6日に開かれた不当解雇糾弾の演説会には20O0人の労働者が参加した(「大阪毎日」7月7日付)。こうして戦前最大規模の争議はその発端をひらいていく。
 病気で臥せっている村嶋の自宅には頻繁に労働運動の幹部の出入りが見られるようになった 。 村嶋の思想と行動を見る場合、どうしても、この時期の労働運動に触れなければならない。実際に彼は労働者の小さな集まりにも参加し、行動をともにしている。村嶋の記事はそうした労働者からの聞き取りを行いながら、実際に足で収集したものに豊富な統計資料を裏打ちしたものであったといえる。
 7月8日三菱・川崎争議は、京阪神一帯から応援が集まり、労働者の数は3万7000人から4万人に及んだといわれる。これに対する当局の弾圧は苛烈をきわめ、最高幹部である久留、賀川を含め労働者を指揮していたと思われるものは片っ端から検挙された。8月12日、三菱・川崎罷業団は 「惨敗宣言」を出し、戦前最大規模の争議は終わった。

4 路地裏から

 争議のあと、分裂を重ねる労働運動から、次第に村嶋は遠ざかっていく。そして彼がふたたび帰ってきたのは、彼の記者生活の出発点ともいえる路地裏の世界だった。そこには変わらない彼のまなざしがあった。
「ドン底生活」から8年たって発表された「自由労働者の手記」(「労働文化」1925年)のなかで村嶋は大阪の新世界を描いている。新世界にはすでに 「電光」が輝いていた。輝きは以前より増しているのに、その下に拡がる世界は混沌としていた。「居酒屋から漏れ出る濁み声・・・此処数丁のドン底街には、明状し難い、ドス黒い雰囲気が漂う」(同上書)。 しかし、路地裏の悲惨を描くだけではなく、たぴたぴ彼のルポルタージュを色どるのは大阪や神戸の盛り場の風景であった。笑いや苦しみ、侮蔑などの感情を鮮やかに織りなしながら、社会の実相に迫っていく。
三菱・川崎造船所争議のあと、村嶋は「わが新開地 (顕微鏡的研究U)」(神戸文化書院 1922年)を発表する。このなかでも村嶋はデーターを駆使して論を展開する。そして数字にあらわされない色、臭い、手で触った感触までも文章のなかにちりばめていく。歓楽や工ロスという言葉で読者の興味を惹きつけながら、そこに住む人々の生活を取り上げていくのも村嶋の手法であった。
 本書の「序」で賀川豊彦は「あなたが如何に人問らしい人問であって、社会のドン底に流れる濁流にも猶救はる可き或る秘密の鍵のあることを教えてくれる立派な研究」と称えた。「秘密の鍵」とは統制されない庶民のエネルギーであった。村嶋はこうした希望やエネルギーを庶民の娯楽のなかにも見ている。彼は漫オを取り上げ、「安価な平俗な社会主義言動でもつて非常に観客をよろこぱせてゐる」(「道頓堀の考現学的研究」「雲の柱」第10巻第1号 1931年)と述べた。
 彼の姿勢の基本をなしているのは新聞人としての強烈な自己認識であり、労働運動への関心もそこから出発している。彼のルポルタージュは庶民の日常生活を等身大に描くことからはじまり、それを新聞紙上に発表することにより「社会悪の報告者」としての自己をつらぬいたといえる。

(木村和世氏の著書「路地裏の社会史」は「リンク集」のページで「神戸新聞」のサイトから紹介しています)

2007年9月30日掲載

中国江南の道教を訪ねる旅

林 耕二

 二宮一郎氏、A氏(都合により匿名)と私の3名で8月14日〜19日の間、江南の旧都(南宋の首都 臨安)杭州を中心に道教の寺院である道観を訪ね、道士の聞き取り調査を行った。 目的は現在和泉市周辺の有志を中心に続けている「信太伝承研究会」の1テーマである陰陽道のルーツを探ることであった。そのほかに、7000年前の稲作遺跡である河姆渡(かぼと)遺跡、寧波市、紹興市などを訪ねた。 今回は、道士の聞き取り調査のあらましを紹介する。

現地の道教研究者と合流

 上海空港に午後5時頃(現地時間)降り立ち、杭州市行きの長距離バスに乗り換え、高速道路を一路杭州に向かった。バスは運転手から車掌までどうやら一家で運営しているらしい。中国的な特色のある請負制度による商売らしい(上海〜杭州間104元=約1560円)。
 関空を出発して約7時間後、午後9時近く浙江大学経営のホテルに到着すると、同大学の研究者が一同で出迎えてくれた。地元の錚々たる研究者が顔を揃えているので恐縮した。民俗学者で浙江大学人文学院教授の呂洪年氏、同大学非物質文化遺産研究センター主任教授の頼金良氏、 浙江大学道教文化研究センター主任の孔令宏教授(彼は孔子の76代目ということを後に伺った)、そして大学院生の倪さんである。浙江大学は中国有数の、また最大規模の大学である。

経済と文化の中心地江南

西湖風景

 杭州市は、9世紀五代十国の呉越の首都となり、1129年漢民族の宋が女真族の金の圧迫で長江以南に南遷して南宋を建国、都(臨安)を置いたところである。以後長江流域の米作や茶の生産など江南地方の開発がすすみ、中国経済の中心が華北から江南地方に移った。
 景徳珍の陶器生産や商業貿易も活発となり、 臨安のほかにも寧波、泉州、広州など長江下流の沿海都市が貿易港として発展し、日本やイスラムの商人も往来することとなった。その流れは現在の社会主義市場経済の中心地域となって引き継がれている。
 市内には、宋の時代から喫茶の習慣の流行と商取引の場などに利用されて盛んとなった茶館など喫茶店の元祖が、今も清朝の頃の店の体裁を残して繁盛している。清朝最大領土を実現した乾隆帝が通ったという料理店が今も現存する。経済的に豊かな地域の伝統を街を歩いていて感じた。市の西側には中国屈指の観光地西湖があり、 街全体にうるおいと洗練された情緒をもたらしている(写真1)。南に銭塘江(せんとうこう)が流れている。この河は年に一度河口から水が逆流する不思議な現象でよく知られている。

道教について

 翌日2つの道観を訪ねた。道観は道教の寺院である。最初は玉皇山福星観(ぎょくこうざんふくせいかん)という道観を訪ねた。杭州市の南にある玉皇山という丘の上にある。 道教は中国固有の宗教で、老荘の思想、不老不死の神仙思想、シャーマニズム、民間のさまざまな信仰、陰陽五行思想、易経などのさまざまな信仰、思想、哲学が混じ りあって成立した。後漢末(3世紀)の太平道や五斗米道を源流とし、北魏(5世紀)の寇謙之(こうけんし)が国家的宗教として教団をつくり、以後広く普及するようになった。

青年実業家が道教に入ったきっかけ

福星観の道士

 34歳の男性道士の聞き取りを行った。現代的な風貌の好青年で、カンフー映画に出てくるような道士の衣装と髷がなかなか似合っている(写真2)。彼はもと上海でパソコン関係の会社を経営していたが、 ストレスなどで体調を崩し、太極拳や気功術で体を鍛えている内に、その効果に驚き、道教に関心を持ったと話してくれた。結局26歳の時に出家してこの道観に入ったという。流派は全真竜門派である。
士の日常の仕事は、個人の修養、信者の相談活動、法事(主に葬儀)、芸術活動などをおこなうという。

「気」ということ

 私たちが、日本の陰陽道との関わりで道教の調査をしていると言うと、陰陽道という言葉には親しみがわくと答えた。氏の説明では、日本の陰陽道にみられるような迷信的なことは原始道教にみられるが、 現在は医療においても漢方など科学的な面を追求しているという。また、一方でその教義と実践の中心には「気」ということが重視されていて、葬儀においては遺体にしばらく残っている気が「邪気」 とならないようにこれを「超度」する(はらう)ための祭祀を行うこと、また生きている人の悩みの相談では楽天的な方向へもってゆくことなどカウンセリングに似ていると思った。
自然の災害の原因も、 自然の大きな気の流れがぶつかりあって起こるという解釈であった。道教の実践は、この「気」の流れをとらえ、コントロールすることにあると思われる。

文化大革命の傷跡から立ち直る中国道教界

 今度の聞き取りで感じた特徴的なことは、文化大革命による破壊の傷跡がなお残っていることである。文革の時には道観がほとんど破壊され、今その復興につとめている最中という。孔氏(浙江大学)の話では、全国で破壊が行われたが浙江省はまだましであったとのことである。その理由は、こ の地域の文化的な基礎にあり、文化財の価値を理解する人が多かったことによるという。

「抱朴子」の道観

抱撲道院

 次に訪ねた抱樸道院は、道教の教典「抱朴子(ほうぼくし)」で知られる葛洪(かっこう)を祀る道観であり、晋の武帝の時代(3世紀)に建てられたという。杭州市の西にある西湖の北に隣接した丘の上にある。黄色い門を入ると木々の緑の間を長い石段が続く。石段を登りきった所に不老不死の薬“練丹” を作ったという装置(模型)が色鮮やかに彩色されて置かれている。
門をくぐると正面壁に道の字が。鮮やかな朱色に染められた堂の奥には極彩色の祭壇と神像が置かれている(写真3)。
しばらくすると堂の中から笛の音が聞こえてきた。日本の横笛よりやや太めの音である。 女性道士が笛の練習をしているという。
道観では女性の道士が行う主なことに楽器の練習がある。笛、二胡、琴、太鼓、鉦などを法事の際などに演奏するという。

日本軍の侵略暴行から市民を守った道観

高信一氏の写真

 冷房の効いた事務所のような所で、中国道教協会常務理事副秘書長の役職にある高信一氏のお話をうかがった(写真4)。
氏は1939年に、6歳の頃父親と一緒に道観へ入 った。戦時中は、日本軍が杭州市を占領し、市民7000人ほどが、さきほど訪問した福星観に逃げ込んだ。食べ物もなく、日本軍が道観に入ってきて暴行を加えるので、当時の道観の住持が憲兵隊司令部に直接要請に行き、 日本軍の暴力行為をやめさせたという。



文化大革命による抑圧破壊を乗り越えて再建にとりかかる

 戦後は、道士が200名ほどいたが、1950年代以後、毛沢東の指導する中国共産党の宗教政策により道教は抑圧され、氏の祖父は監獄に入れられ、氏自身1951年頃に3ヶ月収監された経験がある。1956年頃には道 士はいなくなったという。
 60年〜70年代の文化大革命の破壊を経て、1980年代以後道教界の再建が行われて現在に至っている。特に80年代には道士の希望者が多かったという。しかしその理由は、意外にも「少林寺」や「武当山」などの映画の影響が強いという現代的なものであった。現在は80年代と較べ停滞気味という。
 過去には、(1)幼い頃に道観に入った人、(2)30代〜40代の人生に挫折した失意の人、(3)老年で親不孝の子を持った人、などが道観に入った例であるが、最近はそのような事例も少なく、女性の場合は「駆け込み寺」的な理由が多く、 失恋などのケースも多いという。またあまり長続きしないことも特徴という。

おわりに

 このほか女性道士の聞き取りなど、今回は浙江大学の研究者の協力で貴重な調査結果を得ることができた。今回の紙面ではその内容を十分伝えられないが、今後よく整理してくわしい報告を10月以後の「信太伝承研究会」例会にて行う予定である。

2007年9月23日掲載

鞆港(鞆の浦)埋め立て計画反対にご協力を

池田 一彦

(福山市鞆の浦歴史民俗資料館企画部長・本会会員)

 「鞆の浦を世界遺産に」と題して、2000年11月に大阪民衆史研究会報に、歴史的港湾の保存を訴えさせていただきました。また、「朝鮮通信使と鞆港」をテーマとして報告させていただきました。
  広島県福山市鞆町は瀬戸内海の中央部に位置し、万葉集(八首)に歌われるなど、多くの歴史遺産の現存する港町です。江戸時代の港湾施設の波上場、雁木(がんき=積み荷を上げ下ろしする施設)、焚場(たでば=船底をいぶす所、修理場を兼ねる)、常夜燈、船番所が五点セットとして現存しています(写真)。
  鞆港を中心に、江戸時代の朝鮮通信使は"日東第一形勝"と絶賛し、港を囲む小さな島々は、1926年に名勝「鞆公園」として国指定されています。
  1983年、広島県が鞆港を埋め立て橋を架ける港湾計画を策定以来、反対運動などで24年が経過しました。今年、5 月23日、福山市は埋め立て免許を管理責任者の知事宛に申請しました。 7月2 日、広島県に埋め立て免許の差し止めを求める訴訟の第1 回口頭弁論が広島地裁でありました。鞆町の住民563人でつくる原告団です。次回は9月6日広島地裁の予定です。

鞆の浦の写真(1)

(鞆港)
南側に玉津島、津軽島、東側に仙酔島弁天島 があり西側は山になっていて、瀬戸内海の多 島海の典型、代表的な地形になっている天然 の良港であった。

鞆の浦の写真(2)

(鞆港の東側)
左側は大可島といい、南北朝時代(14世紀)の古戦場であり、東側の岬は鞆港を守っている。この大可島から出ている波止場は寛政期(18世紀末)のものであろう。

鞆の浦の写真(3)

(鞆港の西側)
南端の岬は淀姫神社のある明神岬といい、そこからつき出している波止場は寛政期(18世紀末)のものである。

鞆の浦の写真(4)

建物は国の重要文化財、広島県史跡鞆七卿落遺跡であり、港町の町並みの中核である。18世紀後半。

鞆の浦の写真(5)

建物は国の重要文化財、広島県史跡鞆七卿落遺跡。

鞆の浦の写真(6)

東南端からつき出している波止場。南に向かって3段積みに石垣をついている。寛政3(1791)年のもの。

「リンク集」のページで鞆の浦支援の会のホームページを紹介しています

先日、和泉市教育委員会に提出しておりました「マイ山古墳保存に関する要望書」への回答が寄せられました。


教委文第  24号

平成19年7月23日

大阪民衆史研究会  会長 向江 強 様

和泉市教育委員会

教育長 馬越 かよ子

マイ山古墳保存に関する要望書について(回答)

 時下、ますますご清祥のことと存じます。
 平素は本市文化財行政に対しご指導、ご協力を賜り、御礼申し上げます。
 さて、2007年6月28日付けで要望のありました件について、下記のとおり回答いたし ます。

1 開発計画並びに発掘調査の終了により、マイ山古墳の現状保存、旧状復帰は極めて困 難な状況にあります。よって現地を整備して一般公開することはできません。

2 調査により確認されました竪穴式石室を現地近くの公園内に移築し部分保存を図り、また、説明板等を設置しマイ山古墳の歴史的意義を顕彰できるよう調整しております。


和泉公民第 9 号

平成19年 7月23日

大阪民衆史研究会   会長 向 江  強 様

和泉市長 井 坂 善 行

マイ山古墳保存に関する要望書について(回答)

 時下、ますますご清祥のことと存じます。
 平素は本市文化財行政をはじめ行政各般にわたりご指導、ご協力を賜り、御礼中 し上げます。
 さて、平成19年6月28日付けで要望のありました件について、下記のとおり 回答いたします。

1、マイ山古墳の現状保存および遺跡公園化による整備、一般公開を行うこと。
【回 答】
   開発計画並びに発掘調査の終了により、マイ山古墳の現状保存、旧状復帰は極めて困難な状況にあります。よって、現地を整備して一般公開することはできません。

2.現状の保存が不可能の場合、現地付近に同規模の古墳を復元して小石室等の移築保存を行い、遺跡公園として整備し、一般公開を行うこと。
【回 答】
   調査により確認されました竪穴式石室を現地近くの公園内に移築し部分保存を図り、また、説明板等を設置しマイ山古墳の歴史的意義を顕彰できるよう調 整しております。

マイ山古墳保存に関する要望書

 和泉市箕形町および岸和田市東ヶ丘町に位置するマイ山古墳は、大阪府下では数少ない古墳時代後期の前方後円墳(帆立貝形)です。和泉市では現存する後期古墳はマイ山を含めて3例しかありません。
 そして尾根上にありながら自然地形をそのまま利用せず、基礎から土を盛り上げて築成している特異な例の古墳として非常に重要な遺跡です。
 また、4つ(または3つ)の埋葬施設のうち第2主体の小石室は、川原石を積み上げたその形状が舟形をしている可能性があります。全国的に舟葬に関わる遺構が増えている中で、今後時間をかけて調査検討する必要のある重要な遺構であると考えられます。
 私たちは上記の理由から、マイ山古墳が府下のみならず全国的にも重要な意義をもつ遺跡であると考えます。和泉市による発掘調査がおこなわれていますが、古墳が調査終了後に宅地開発のために取り除かれることは貴重な歴史遺産を失うことであり、また日本の古代国家成立過程の研究の上で重要な資料を失うことになります。古墳を保存し、後世に伝えてゆくことこそが私たちの責務であると考えます。
 私たちは和泉市に対して、マイ山古墳について以下の要望をします。

一 マイ山古墳の現状保存および遺跡公園化による整備、一般公開を行うこと。
一 現状の保存が不可能の場合、現地付近に同規模の古墳を復元して小石室等の移築保存を行い、遺跡公園として整備し、一般公開を行うこと。

   

2007年6月28日

和泉市教育委員会  馬越かよ子教育長殿

大阪民衆史研究会
会長 向江 強

平野屋新田会所を国指定史跡に

小林 義孝

 今年2月に発行された『大阪民衆史研究』60号に 「地域史像の更新―平野屋新田会所を考える会の活動から―」(上)を掲載いただきました。ここでは平野屋新田会所の現状と歴史的意義、そしてその保存をめざす市民と研究者の団体である 「平野屋新田会所を考える会」の活動の歩みを述べました。
 拙文を執筆し投稿させていただいた昨年末の時点ですでに、新田会所が大阪地方裁判所から競売の公告がなされていました。開発しにくい場所なので、応札する業者もほとんどないのではないか、という楽観的 な見方が大勢を占め、大東市も適正な価格であれば落札した業者から新田会所を購入したい、という意向をもって調整しているということも聞き及んでおりました。
 そし て今年1月のはじめに入札結果が発表されました。大方の予想に反して、奈良の宅建業者が思わぬ高値で落札してしまいました。それも5億円を越えるあまりにも高い金額 で。どうなるのだろうかとまったく暗中模索。
 その時、会所をなんとか保全したいという会所を長く所有されてきた高松家一族の方々から、競売結果について異議申し立てを行うので協力してほしいという連絡がありました。新田会所の建物の権利の半分を保有していることを根拠に、裁判所に異議を申し立てて宅建業者の手に落ちる時期を 引き伸ばし、何とか善後策をという方針による目論見とのことでした。この時の異議申し立ての論拠は、裁判所が新田会所の文化財としての価値を正当に評価していないというものでした。1回目 の申し立てによって決定が10日間延び、さらにもう一度異議を申し立てたところ2ケ月も決定が延期されました。そしてこの2ケ月の間に、驚くべき動きがあったのです。
  わたしたち平野屋新田会所を考える会としては、ともかく保存の要望書を関係機関に送ろうということになりました。これが、文化庁を動かすことになったのです。
  平野屋新田会所を考える会では、別記(資料)のような要望書を文部科学大臣、文化庁長官、大阪府知事、大阪府教育委員会教育長あてに提出しました。
 これに対して、文化庁では平野屋新田会所の意義を認め、直ちに前向きに検討いただいたようです。2月の中頃には、大東市教育委員会に対して府教育委員会を経由して文化庁から資料の要求がなされ、3月は じめには文化庁の担当官が会所を視察されました。国史跡指定と公有化に向けて具体的に動き始めたのです。まったく急転直下の出来事です。平野屋新田会所のもつ意義 は、身近にいるわたしたちの認識を超えていたようです。
 わたしたちは国史跡として、同じ性格の遺跡である鴻池新田会所をよく知っています。鴻池新田会所の本屋や米蔵などの建物 群は国の重要文化財に指定されて、整備され保存と公開がはかられています。鴻池新田会所と比較して、平野屋新田会所は、規模、保存状態、歴史性 (―平野屋新田会所 は歴史を明らかにする史料があまり見つかっていない―)などで種々の点で見劣りがし、現状では府指定史跡に相当するのではないか、ということが暗黙の了解であった ように思います。そしてさらに今後の調査と研究によって歴史性を一層明らかにできれば、国史跡への道も開けるのでは、と考えていました。
 しかし文化庁の担当官は、要望書に付し た吉田高子氏著『旧平野屋新田会所屋敷と建物』(大東市教育委員会 2002年)、岡村喜史氏編著『平野屋会所文書目録』(大東市教育委員会 2005年)などを検討され、直 ちにその意義を認め、保存の方向で動きはじめたようです。大和川付替えに伴い、大坂の豪商の主導した先進地河内の大規模な新田開発の遺跡・遺構として大きな意味を もつものと評価されたと思います。近くで関わっていたわたしたちより、日本史全体を見渡して判断される国の担当官の眼力には恐れ入ります。
 大東市はこの間、市の単独予算でも購入 を、という意向を固めつつあったようにうかがっています。その踏ん張りがまた国史跡を呼び込んだともいえます。このような一連の動きを受けて大東市議会も3月に会の保存を求める決議を、2000 年に引き続いて、全会一致で行い、また5月には 「平野屋会所等歴史的史跡保存に関する特別委員会」を設置しました。議会、行政、市民と研究者が一体となって保存に 向けて動きはじめたのです。
 さらに大阪3区選出の田端正広衆議院議員 (公明党)は、平野屋新田会所に深い理解を示され、現地を調査するとともに、平野屋新田会所を考える会の代表である佐久間貴士 (大阪樟蔭女子大学教授)からレクチヤーを受け、4月24日の衆議院決算行政監視委員会で、歴史的・文化的遺産としての平野屋新田会所の保存を訴え、迅速な対 応を求めたのです。
 これに対して、伊吹文明文部科学大臣は 「大東市が史跡申請すれば、文化財保護審議会にお願いして、重要なものであると認定されれば史跡に指定することは可能」との見解を示され、また高塩至文化庁次長は 「開発行為で遺跡が失われることは大変残念なこと」と述べ、今後、大阪府教育委員会と相談し、大東市に対し て、指導,助言を行っていく考えを示したとのことです 「『SSK二ュ一ス』より)。
 平野屋新田会所の保存が、政権与党の代議士に取り上げられて、一気に国政のレベルの問題とされ、その歴史的意義が広く認 知されることとなったのです。遺跡の保存は、現代の社会との接点で議論されます。"保存か、開発が'、"開発といかに調和するか"などなど。しかし平野屋新田会所は、国史跡指定という最良の形で 文化財保存の"長い険しい"道程をひと飛びにかけ抜けたようです。幸運の女神が微笑んでいます。
  これも長く会所を保全いただいた高松家の方々、地域で一体となって保護に努めて きた地域の住民、地域の歴史性を示す重要な象徴として保護に理解を示していただいた多くの市民、さらに日本の歴史の上での意義を明らかにしてきた研究者、これらの方々の総力が結集したたまものと思います。
 今後、国の文化財保護審議会への諮問、審議会からの答申、そして官報告示という手順を踏んで、国史跡となります。そして 市が国から費用の8割の補助を受けて公有化し、5割の補助金の交付を受けて保存と活用のために修理がなされることになります。保存された平野屋新田会所を、市民のもの、国民の共有財産として、どのように保 存と活用を行っていくのか。階段を一段上がった場所で考え続けねばなりません。従来のように何でも行政に要求して実現していくような手法は、良きにつけ、悪しきに つけ、ありえない時代に入っています。行政と市民、そして地域で活動するさまざまな組織や機関が一丸となって、より良い会所のあり方を考えていかねばなりません。 これが次の課題です。これからも平野屋新田会所を注視いただき、ご支援をお願いいたします。


(平野屋新田会所を考える会)


[資 料]

平野屋新田会所の史跡指定と保存に関する要望書


 大阪府大東市平野屋一丁目に所在する平野屋新田会所は、18世紀初頭に行われた大和川の付替えによって開発が可能になった深野池に造成された新田のうち、深南新田 と河内屋南新田の運営と管理を主に行う拠点として設置されたものです。
 大和川付替えにより開発された新田の多くは大坂の豪商が取得し、戦後の農地解放まで継持されており、当該の新田も平野屋、天王寺屋、助松屋そして銭屋 (高松家)と所有者が変遷するものの、新田会所は一貫して新田経営の中心として機能してきました。
  平野屋新田会所は、主屋、表長屋門、裏長屋門、屋敷蔵、道具蔵、干石蔵跡、庭園船着場、さらに地域に公開されている座摩神社など江戸時代中期頃の建物群が、新田会所の遺構として良好に遺存しています。さらに周辺には新田の人々の屋敷や舟による物資運搬や濯潮のための水路や舟溜まりなど、近世の新田の姿をよく留めており、 今も新田を生産や生活の場とした人々の子孫が生活を営んでいます。
  平野屋新田会所は、遺構のみならず、それを取巻ぐ歴史的環境と景観、そして新田と新田会所を支えてきた人々の子孫などが一体となって今も生き続けており、これほ ど往時の様子をよく残す新田開発の拠点遺跡は他にほとんど例をみないものです。
 東大阪市鴻池元町に所在する鴻池新田会所は、同じく大和川の付替えによる新開池 の新田開発のための会所で、敷地が国史跡に建造物が国の重要文化財に指定され保存と活用が図られています。しかし鴻池新田会所の周辺は市街地化がすすみ、会所を取り巻いた新田の景観はほとんど留めていません。この点からも近世の河内の新田開発という巨大な事業の遺跡として平野屋新田会所はかけがえのないものと考えます。
  深野池の開発は、日本の新田開発の最大級のものであり、池の埋め立てによるものとしては、鴻池新田の新開池埋め立てをしのぐ、日本最大のものといわれます。徳川 幕府が行った有名な干葉県印旛沼,手賀沼の新田開発も規模は大きいのですが結局成功しませんでした。高等学校の教科書には、鴻池新田と印旛沼・手賀沼の開発がのせ られていますが、本来深野池新田開発も日本を代表する新田開発として取り上げるべきものなのです。
 そうした意味で、平野屋新田会所は、日本の歴史を知る上でかけがえのない遺跡と して国指定史跡の価値をもっていると考えます。平野屋新田会所は、大和川付替えに始まる地域の歴史の始まりを象徴する遺跡であり、地域とその住民にとってかけがえのないものであります。さらに近世の新田開発 大都市大坂とその背後の地域である河内との関係、近世の豪商による新田開発など、日本の歴史を明らかにし、さらに豊にするために重要なものなのであります。
  しかしバブル経済の崩壊により200年近くも平野屋新田会所を運営,管理・維持してきた所有者の負債のため、大阪地方裁判所により競売が実施され、宅建業者等が深 い関心を示しています。貴重な歴史的遺産が存亡の危機に立たされております。平野屋新田会所の保存については、広く関心がもたれており、大東市議会において は買収と保存についての請願が、2000年3月に全員一致で採択されています。平野屋新田会所を国民の共有する文化遺産財産として永く保存・活用がはかられる ために以下のことを要望いたします。

(1)平野屋新田会所を国史跡に指定し公有化して下さい。
(2)宅地開発が行われないよぅに、早急に関係機関と協議の上、ご指導をお願 いいたします。

文化庁長官  近藤 信司 様

2007 年1月21日


平野屋新田会所を考える会代表

佐久間貴士

(大阪樟蔭女子大学教授)

2007.6.16掲載

「慰安婦」問題の真実

向江 強

 安倍音三首相は、アメリカの下院で審議中の「従軍慰安婦」決議をめぐって「官憲が家に押し入って人さらいの如く連れていく強制はなかった」「慰安婦狩りのような強制性があったという証言はない」として狭義の強制はなかつたといい、「決議があったからといって、われわれが謝罪することはない」(五日の参院予算委員会)と答弁している。
 安倍首相は「河野談話」は継承するといいながら、「慰安婦」が強制連行された証拠はないと、軍の関与を疑問視する発言を繰り返しているが、全くの矛盾で同一人の発言とは考えられない。
 一九九三年の河野洋平官房長官談話(抜粋)は、「…調査の結果、…数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、…軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。…募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、…甘言、強 圧による等、水人たちの意志に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接之に荷担したこともあったことが明らかになった。…慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。…政府は、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」とのべている。
談話は募集について、軍の要請を受けた業者に主として責任を負わせる形をとっているが、軍や官憲が直接強制的な連行を行った例が幾多もみられるのである。
 その一例を挙げると1940年の秋朝鮮の文三珠は満一六識のとき、「ある日、私はハルコの家に遊びにいきましたが、日がしずみかけたので、ハルコの家をでて自分の家に帰りかけました。まだいくらも歩かないうちに、軍服を着た日本人が私に近寄ってきました。彼は突然、私の腕を引っ張って、日本語で何かいいました。その頃は、巡査という言葉を聞くことさえ恐ろしい時代だったので、 私は何も言えず彼に引っ張られるまま連れていかれました。‥・・‥連れていかれた先は、憲兵隊ではないかと思われます。」と語った。彼女の行く先は中国東北の軍慰安所であった。
 中国の日本占領地の場合、軍が直接の指揮をとっている。1944年5月25日の洛陽攻略の後戦車第三師団経理部のある少尉は、後方参謀によばれて「至急民家を改装して兵隊用の慰安所を作れ。ついでに洛陽で女も集めてこい」という命令を受けた。
そこで、「これは、メチヤクチヤである」と思ったが、トラックに塩二、三俵をつんで洛陽に行き二、三軒まわって十数人の女性を集めた(新京睦軍経理学校醍醐規制記念文集編集委員会事務局編『追憶』上巻)。
この将校は、衡陽でも同年夏、慰安婦徴収業務を担当し、中国人女性一五名を塩と交換に売春業者から譲りうけている。中国占領地の場合市内や村の有力者に物資を提供したりして、女性を集めさせたり、「討伐」の際に女性達を連行している。
東南アジアの場合も軍による徴集に地元の有力者の利用、詐欺による連行の例が見られ、フィリピン・インドネシアなどでの暴力的連行が少なくなかったといわれている。
以上の例証はすべて「吉見義明著『従軍慰安婦』V章、岩波新書、1995年第一刷」よりの引用である。
 具体例としてはほんの少しの引用に過ぎないが、安倍首相の言う「強制は無かった」という言明がいかに事実をみていないか、強制には狭義や広義の区別はなく、強制という語彙は、「威力、権力で人の自由意志を押さえつけ、無理にさせること、無理じい」という意味であるから、強制の語には意味に幅などはなく、したがって狭義、広義の意も成立しないのである。
 安倍首相の発言は、当の米議会はもとより、韓国の6紙の社説による批判、韓国33国会議員の声明、中国外相の「適切処理を」の発言、東南アジア各紙の社説や論評での批判など「歴史の書き換えは許されない」等「国際社会の不信を広げただけ」である。
 安倍首相は、「国内外からの非難が集中」している現実を直視し、直ちに「慰安婦」発言を取り消し、被害者に国家として謝罪し、救済する義務かある。河野談話を継承するというなら行動で示すべきである。

2007年3月11日

2007.3.24掲載

 2006年資料

天皇の退位をすすめた … 三好達治

中村 勲

 2006年4月号の「大阪市政だより」に小さな記事で「第1回三好達治賞受賞者が決まりました」という記事を読んで、前々から思っていたことなので、高槻市上牧町にある「本澄寺」内にある三好達治記念館を訪ねることにしました。
  5月4日に妻が々高槻市成合にある「防空壕」を見学したいというので、大阪平和委員会の玉置敏次さんに案内を依頼し、防空壕を見学した後に記念館まで送って頂きました。
 本道寺は約500年前に建立された日蓮宗のお寺ということを住職の三好龍孝氏より聞き、以後3時間に及ぶ達治の作品について説明と懇談を行いました。
  三好達治については、西淀川区にあったハンセン病外島保養院のことを調べている中で、昭和5年と9年に、西淀川区大和田に住んでいたことが判明し、詩の中に外島保養院や善念寺というお寺のことが詩の中に取り入れられていたので、興味深く研究をしていました。
  今回の記念館を訪ねて、二つの発見をしたことがあります。一つは、三好達治賞は大阪市が設けたものではなく、関係者の努力で賞が設けられたこと。 二つ目は、日本の敗戦直後の1946(昭和21年6月に、日本再建のために昭和天皇に退位を進めた文章を残していたということです。
   その文章は「なつかしい日本」という題で、当時「新潮」という雑誌の求めに応じて書いたものです(筑摩書房刊、全集8)。
  三好達治は大阪市西区に生まれ、家庭の事情で一時、三田市のお寺に行っていますが、その後、大阪市で市岡中学から軍人になるべく、大阪陸軍地方幼年学校から東京陸軍中央幼年学校にすすみ、京都三高から東大に学んで、詩人になっています。 そして、昭和初期に「測量船」「日まわり」「神崎川付近」などの詩の中で、外島保養院などハンセン病患者についても詩の中に取り入れられています。
  その後、中野重治などとも交友関係が見られますが、戦後の早い時期に昭和天皇に退位をすすめていたことはおどろきです。
  もし、昭和天皇が三好達治が書いた頃に退位していたら、今日の情勢はもっと変化していたのではないかと思う次第です。 興味のある方は、一度、記念館を訪れられたらと思います。(事前に電話予約必要 住職三好龍孝)

三好達治は天皇退位について、どのように述べたか
 三好達治は、雑誌 「新潮」の依頼で「なつかしいにほん」というエッ一セイ風の文章を1946(昭和21)年6月に書いているが少し長くなるが、その一部を紹介しょう。
  明治以後の戦争責任について「すべて責任は、最重大責任者から、明確に潔ぎよく彼等の責任をとっていただくことにしたい。それでなければ一国の志風はいかにも振作すべき法図がない。戦後道義の退廃は、誰しもいうが如く、国家衰亡の第一原因をなしているが、救抜の途はない。即ち條理を匡すこと。たとへば上位の者から順当に責ある人が責に当たるの範を示して貰いたい。
 陛下も例外ではなく、一億赤子のお父さんとして立派に範を示していただきたい。これなくしては、道義は決して興らない。道義が興らなければ文化は整はない。ひいては百般の科学のみな興隆をみないであろう(筑摩書房・全集12冊8巻)。
 そして、天皇制の問題では、「天皇制の問題は、国体政体の問題として、今日最も明確なる理性の判断を要求している。事は専家のこれを考ふる人もあるべく私たちが凡庸の常一識を以て差出がましく杜撰の説をなすにも当たるまいものと考えられるが、近来法制家・憲法家等々の説をのべるをきくに、彼らの説くところも専門家らしき取柄のあるものはなく傾聴して従ふべきほどの卓論とても見あたらない。私の如きもこれに関連して、ここに一言を費やしておくことも必ずしも徒爾ではないものと信ずる。
けれども天皇制の問題よりも、まず差当り取り急ぎ開明を要するのは、この度の国運に関する陛下の責任、今上陛下の出処と進退でなければならない。陛下は、一国の元首としてこの度の戦争敗戦の責任をまず第一の責任者として、おとりにならなければならない。 これは申すまでもなきことである。
 重臣会議とやら御前会議とやらいふものの存じて、最後に国事を決定した建前から言って陛下は、席上至上判決者であられた意味合いを否む訳にはゆくまい。
 陛下もまた軍閥者流の横行を制止しきれずして、やむことを得ずして大勢の赴くところに身も亦従い玉ひしが如くに説くのは、近衛前宰相の手記に、くわしく語るところである。恐らくこれは事実に近て信瀬するに足ることであろう。 前後の事情より推して私たちにもそう判断される」と書き続けていますが、ここでは、あまり長くなるので省くことにします。三好達治は、このようにして昭和天皇に退位をすすめた文章を書いているのである。

ブレヒト没後50年

ブレヒ トと私

松浦 由美子

 「演劇を志ざす者、ブレヒトを知らずして演劇人にあらず」と演劇論をぶつ先輩。ブレヒトの名前を初めて聞いたのはこの時、高校の演劇部であった。
東京の大学に入学したり、演劇の道に進んだ先輩たちは帰郷すると、部室を訪ねてくれて東京の演劇事情と芝居の感想を熱っぽく語る。「セチュアンの善人」の台本を後輩に見せながらブレヒトの素晴らしさを説く。私たちは先輩を取り巻き、台本を回し読みしたが、もうひとつ良く分からなかった。
  マスコミは隣の中国の文化革命や大学民主化を求める学生達の姿を報道する、そんな時代であった。大学でも学生演劇に夢中になって大阪府内の大学演劇サークルに出入りしていた。演劇仲間から労演のチケットがまわってくると喜んで代わりに観にいった。俳優座の 「母(おふくろ)」をみたのはこの頃だろうか。「大阪労演の50年」年史をひもとくと、1972年らしい。
以来、自立劇団や商業演劇ふくめ多くはないがブレヒト劇を観続けた。「演劇人でも志す人」でもないのに。ちなみに大阪労演におけるブレヒト演目は50年代1本、60年代6本、70年代4本、80年代7本、90年代9本である。
  1975年、新聞の文化欄の 「民衆の力になる文化を」といぅ記事に触発されてシャンソンという分野を選び、歌うことで表現をする道を選びとった。しかし、ブレヒトソングには結びつかず月日は過ぎる。
 80年代の終わり頃か、シャンソンの友人から「三文オペラの海賊ジェニ一を歌ったら。ブレヒトの歌があう」とすすめられ、歌ったこともないのに衣装と白いブーツまでプレゼントされた。偶然か必然か書店で「三文オペラ」のドイツ語の楽譜集を見つけ購入したが、ただ大切に保管していただけである。90年代の半ばからシャンソンの彩りとしてブレヒトソングを取り入れるようになった。
  20世紀は戦争の時代だと言われる。21世紀は戦争のない時代にしたいと願って来たのに、東西の冷戦後の世界をめぐる情勢は予断を許さない。2000年過ぎた頃から、社会に無関心で「陶酔」する一部のシヤンソン愛好家は着飾ったままフアシズムの後をついて行くのではないかと危機感を抱くようになる。
もうひとつには、1930年代の大阪における「人民戦線事件」の掘り起こし作業を70年代から続けて来たことも大きい。ファシズムのドイツと日本における反ファッショ人民戦線。ブレヒトは近くにいた。「ブレヒトと向き合う」ことは必然だったのかもしれない。
  ブレヒトは難しく、分かりにくい。しかし、考えると新しい発見がある。論理的な思考が苦手だといわれる日本人のなかでどうすれば、ブレヒトをもっと知ってもらい広げることができるのだろう。高校生の私たちが目を白黒させて演劇部の先輩の傲をきいていたような風潮がまだ残っているのではないだろうか。
  2003午9月人形劇団クラルテの 「三文オペラ」 を観劇しながら、人形とのコラボレーションでブレヒトソングを分かりやすく伝えることはできないかと考えた。「ブレヒトと戦争」「ブレヒトと女」として2004年メイアターでの舞台となった。「茶色の朝」はフランスでネオナチが台頭して来たおりフランク・パブロフが寓話をもとにフアシズムの警戒を呼びかけたものである。
 2003年12月教育基本法改悪反対の集会が東京で開催され「茶色の朝」は書店に並ぶ前に販売されていた。出版社曰く 「この集会に間に合わせました」。帰りの新幹線のなかで読んでいると一人語り用の台本にできそうである。人形劇団クラルテの松本則子さんにお願いして脚本をつくってもらい、掲載の了承を得た。
  高校生の私がブレヒトの名前を初めて聞いたあの日から、40年近い歳月が流れた。ブレヒトは点から線につながり、閉塞の時代に座標軸となる。
 地下水脈のように命をつなぐ。ガットネロ実験劇場で井戸を掘ろう。

高校世界史の未履修問題について

偏屈 堂生

 高校で世界史を履修していなかったという「被害」にあった生徒たちは、テレビのインタヴュ一で一様に 「先生たちは、私たちを大学に進学させてくれるためにやってくれたこと。先生は悪くない」。保護者たちも然り。「(子供たちを進学させてほしい、という)私たちの要求を受け入れてくれた」。生徒たちのこうした声は、大学受験のために、塾や予備校に通うことが自明のこととされる大阪で教師をしているせいか、うらやましく聞こえる。高校での教育の原点を見たような気がする。
 学習指導要領に定められたカリキュラムどおりに授業をしていなかったとして、熊木県を除く540校 (11月1日現在)にものぼる高校が問題視されている。自殺者まで出した。文部科学省は、手抜きとも思えるその場しのぎの代替措置をとって、解決に導こうとしている。
  高校の地理歴史科 (かつては社会科と呼ばれていた)では、「国際社会に主体的に生きる日本人としての自覚と資質を養う」(高等学校学習指導要領、世界史A・Bの目標より)ため、世界史は必修科目となっている。
 問題視されている学校は、ほとんどが4年制大学への進学率が抜群に高い、いわゆる進学校ばかりだという。また、集中している地域は予備校や進学塾がほとんど存在しないところのようだ。公立高校が予備校の役割を果たさなければならないのは、必然のことであろう。
 ご存じかもしれないが、今、学校は、校長は、そして教員は毎年、教育委員会に対して 「今年はどういう目標を立て、それをどう実現していくか」といった自己申告をさせられている。そしてその目標に到達するかしないかによって、何段階かの評価が下され、給与等に反映される。下手をすると、その職に就いていること自体危うくなる。成果主義が学校に浸透しつつある。
 目標には、「今年は何人を有名大学、難関大学に合格させる」といったものも含まれる。「何人」などと具体的な数値目標を出してしまうと、その数をクリアしなければならない、というプレッシヤ一にさいなまれる。これは私立でやっていることではない。公立の高校が、である。
 「被害」にあった生徒たち (高校3年生がほとんどだろう)は、2003年よりはじまった 「完全週5日制」によって、「ゆとり教育」の 「恩恵」に浴している。土曜日の授業が削減され、同時に学ぶ内容も削減されている。だからといって、大学の入学試験問題は 「ゆとり教育」にふさわしいものになったわけではない。
  学校も教師も困っている。授業時間の削減は、授業の内容はおろか、時間割編成に大きな支障をきたした。しかも、「進学実績を上げる」といった目標とその達成を至上命題とさせられている。生徒・保護者からの期待もある。板挟みにあった学校と教師はどうすればよいのか。時間割を従来の6時限から7時限に増やし、夏休みなど長期休業の日数を削減し、そして土曜日には「補習」というかたちでの学習の時間を確保するしかない。しかし、こうすることによって教師たちは間違いなく疲弊する。生徒も同じであろう。そのなれの果てが、末履修というウソの構築ではないか。
 なぜ、今こうした問題が取り上げられているのか。偏屈堂の目には、何らかの情報操作がおこなわれている気がしてならないのである。中学生たちのいじめによる自殺問題といい、安倍内閣のすすめている教育改革の伏線 (学校・教師がこんな体たらくだから、教育改革、教育基本法改正が必要)のような気がしてならない。杷憂で終わるといいのだが…。

司馬遼太郎没後十年に思う

山口 哲臣

 私は1996年5月号の民衆史会報に、「急逝した司馬遼太郎をめぐって」を書いている。本屋の店頭には司馬の没後十年を記念する、それらしい文献が新旧とりまぜてならんでいるのを見かけた。
それらのなかから「週刊・司馬遼太郎」といぅのを購入してきて、しばし下味を拾い読みしてみたところである。
 放映を終了したばかりのNHK大河ドラマ 「功名が辻」の裏話や、「菜の花の沖」のシンポジウムなど、時流に乗った記事が紙面に躍っている、と同時に司馬遼太郎のさまざまな活躍ぶり、原風景を多彩な執筆陣を配して語らせ、天下の各層の読者を魅了しようと、本を出す方も必死である。
 さて、私は十年前の会報に司馬遼太郎のことを、国民的声望の高い作家として好意的に書いた。例えば文化勲章を受章したときのテレビインタビューに応えて、司馬が「受賞したことを忘れることですね」、とひとこといい、多くを語らなかったことを、私は 「司馬さんの言外にふくまれた作家の心意気、受賞したことなど忘れて、今後も司馬遼の道をゆく」と言っているように感じられたと書いている。だが……。
 私のこのよぅな司馬遼賛歌に見識ある警告を発したのが、同じ時期 (97年6月)にやはり会報に書かれていた向江強の 「司馬史観」批判論である。それは私あてに書かれたものではなく、当時の司馬遼太郎プームにあやつられる巷の動向に、どうしても批判の眼を向けたい向江さんの、やむにやまれない良心と歴史観があったからである。
 いま、司馬が世を去って十年。世は強引に憲法を外にはじき出そうと画策し、自殺、いじめなどが常となり、全ての規範をファシズムに逆もどりさせる作用が加速している。
  中国侵略が拡大して、太平洋戦争への準備にうつつをぬかしていた頃、吉川英治の『宮本武蔵』が一世を風靡した。いままた、実に分かり易いヒーローを描く名手司馬遼が、没後十年を期して再度のブームを巻き起こすことがあっても不思議ではない。 読者、会員のみなさん、科学的視点に立った歴史観をみなぎらせる世論を、いまこそ最大限に喚起していこうではありませんか。

 2005年資料

史的唯物論と歴史学の課題

向江 強

(一)
 先ず史的唯物論の本質と基本思想という問題から入りたい。
これは、先の報告(『大阪民衆史研究』48号 総会報告「21世紀への展望 民衆史とその方法」―HP管理者注―)でも触れているが、マルクスの『経済学批判』序言の「唯物論的歴史観の公式」によって要約されている。報告では、問題点として、1)この歴史観の公式は、なによりも研究にさいしての手引きである。2)物質的生産力の発展を社会発展の原動力として捉えることの現代的意義について。3)歴史の法則的発展としてという問題。4)土台と上部構造の関係についての4点について述べていた。
 ところがこの「研究の手引き」という概念と「科学・法則」という概念は、対立するものであり、「科学・法則」とする見解はスターリン支配下のソ連のものである、という議論がある。これは両者を分離対立させ、唯物史観の法則性を否定する全くの形而上学的見地という外はない。今はやりのマルクス主義批判の見本のようなものである。
 たしかにマルクスは(エヌ・力・ミハイロフスキー)を批判して「西ヨーロッパでの資本主義の創生にかんする私の歴史的素描を、社会的労働の生産力の最大の飛躍によって人問の最も全面的な発展を確保するような経済的構成に最後に到達するために、あらゆる民族が、いかなる歴史的状況のもとにおかれていようとも、不可避的に通らなければならない普遍的発展過程の歴史哲学的理論に転化することが、彼には絶対に必要なのです。しかし、そんなことは願いさげにしたいものです。」といって一例をあげた後、「したがって、いちじるしく類似した出来事でも、異なる歴史的環境のなかで起こるならば、まったく異なる結果をみちびきだすのです。これらの発展のおのおのを別個に研究し、しかるのちに、それらを相互に比較するならば、人はこの現象を解く鍵を容易に発見するでありましょう。しかしながら、超歴史的なことがその最高の長所であるような普遍的歴史哲学理論という万能の合鍵によっては、けっしてそこに到達しえぬでありましょう。」(『マルクス工ンゲルス全集』19巻 117頁)と結んでいる。
 マルクスは、この手紙を『オテーチェストヴェンヌィエ・ザピスキ』編集部へは送らなかった。マルクスの死後エンゲルスが発見して発表したものであった。マルクスはここで言葉を選び、「普遍的歴史哲学理論という万能の合鍵」という言葉を使用しているが、「科学・法則」という言葉は使っていない。われわれがマルクス主義用語として使う「法則」という言葉は、「諸事物・諸現象またそれらの生成・発展・消滅にかんする普遍的・本質的な必然的関連とこれを表現する命題」(『社会科学総合辞典』新日本出版社、1992年)とか 「新しいものへの転化の、必然的な道すじ」(『哲学辞典』青木書店、1971年)といって使用されている。マルクスが非難した「超歴史的に普遍的歴史哲学理論」とは似て非なるものである。命題とは、事物を論理的・抽象的に反映している知識の基本的な形態のことであり、ことばで表現された判断・主張のことでもある。したがって具体的状況の分析と判断抜きに機械的に抽象的な命題を現実に適用することは、まさしく教条主義のそしりを免れない。「法則」は、普遍的なのだが、条件が異なればまた別の「法則」が働くようになるのである。
  マルクスは、『資本論』の第一版序文で「資本主義的生産の自然法則から生ずる社会的な敵対関係の発展度の高低が、それ自体として問題になるのではない。この法則そのもの、鉄の必然性をもって作用し自分をつらぬくこの傾向、これが問題なのである。」(23巻9頁)とか「経済的社会構成の発展を一つ自然史的過程と考える私の立場」(23巻 10頁)とも述べていて事態は明瞭である。
  エンゲルスは、このことを至る所で強調しているが、次の草稿を見れば一目瞭然である。「カール・マルクスは百年にそう多くはでない傑出した人物のひとりでした。チャールズ・ダ一ヴィンは、地球上の生物界の発展法則を発見しました。マルクスは、それにしたがって人間の歴史がみずからを動かし発展させてゆくあの根本法則、同意を得るのに簡単な説明でほとんど十分なほど単純で自明な一法則の発見者でした。それだけではありません。マルクスは、また、資本家と賃金労働者とへの大階級分裂をもっている社会の現状を生みだしたあの<根本>法則、それに従ってこの社会が組織され、成長しすぎてほとんど自分が自分の手に負えなくなるまでになったあの法則、またそれに従ってこの社会が結局は社会のこれまでのすべての歴史的段階と同じように死滅し<他のものに席をゆずら>なければならないあの法則を、発見しました。」((カール・マルクスのための弔辞の草稿)19巻329頁)と述べている。
  以上述べてきたことは、史的唯物論がこれまで偶然の積み重ねとして理解していた、人間の歴史と社会に発展法則があることを、揺るがぬものにしたということを論証している。

(二)
 網野善彦氏(2004年2月、死去された)の言説を検討しておくことは、史的唯物論を擁護し、科学的歴史学について考えようとするものにとって避けて通ることができない。本格的に網野批判をするためには、彼の全著作を姐上にのせる必要があるが、私にはその能力はない。彼のいくつかのマルクス主義史学批判の論説を本稿の主題に関連する限りで検討してみたい。
 網野氏のマルクス主義批判のなかで、よく目にするのが、「社会構成史」的時代区分にたいする反発的言辞である。「またごく最近まで、この区分にアジア的社会(総体的奴隷制)、奴隷制社会、封建社会、資本主義社会などの「社会構成史」上の時代区分を重ねて考えようとする試みが広く行われてきたが、いまや奴隷とはなにか、封建社会とはなにか、さらに資本主義とはなにかを、あらためて根底的に問い直さなくてはならなくなっているだけでなく、このような社会構成の概念だけで、人類社会のきわめて多様なあり方をとらえうるかが、事実そのものの力によって問われている現在、本来、「日本国」の制度史的区分であるさきの区分に、「社会構成史」的な区分をあてはめようとするこの試み自体、もはや無理というほかない。」(『日本社会の歴史(下)』岩波新書、1997年)。
 網野氏のこの発言は、マルクスが『経済学批判』序言でのべた「大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式を、経済的社会構成体が進歩していく諸時期としてあげることができる」と言ったことにかかわる問題であり、これを現実の日本歴史社会へどう適用できるかはすべて解決のついた問題ではない。
本来マルクスの『経済学批判』序言は、人類社会の発展の普遍的・抽象的次元での発言であって一国の歴史の具体的事実について発言したものではない。
永原慶二氏のまとめによると、その後の論争を経た結果「(1)一国史について社会構成体の初段階を機械的に見いだそうとするような見方の不適当さ、(2)「社会構成体」のような理論範疇は、現実の歴史においては、複雑多様な存在形態を示すこと、(3)一つの歴史段階においては、基本的生産様式・階級関係と、それと構造的結合性をもつ副次的生産様式・階級関係が同時的に存在すること、(4)一国社会の社会構成体のあり方や、移行のあり方は、国際的な条件(「東アジア地域世界」など)によって強い規定性をうけること、」(前掲書177頁)としている。
 網野氏の議論では、この間の事情は無視され、マルクスの理論が根本的に否定されることになる。水と共に赤ん坊を流す類のものと言うべきであろう。 永原氏は同書で、「網野善彦の中世世界史像」についてやや立ち入った批判を展開している。
永原氏は、『無縁・公界・楽』と『日本中世の非農業民と天皇』の二書をとりあげる。まず永原氏は、この書以後の研究・著作・発言は休みなく続けられ、内容的にも多岐にわたつており、日本の中世史像が飛躍的に豊になつたと高く評価しつつ、網野氏の主張を要約して 「『"無縁"的社会空間』『漂白遍歴型非農業民』『天皇』の三つは、網野の中世史認識のキーワードである。そして、それを実証づけるために『百姓は農民だけではない』というキャッチフレ一ズを掲げ、鋳物師・鵜飼・桂女・白拍子以下さまざまの『非農業民』の存在に注目し、また中世商人活動が、天皇神社に隷属し、特権を認められる供御人・神人などの身分的形態をとることを重視した。総じて『非農業民』が天皇への直結的身分をもち、その権威に結びつくことによって諸国遍歴型の活動を保障されていることの強調である。天皇が『大地と大海原の果てまで』を支配し、遍歴者が広く天皇の権威に直結しているような説明にはイデオロギーと現実との混同があり、一方で『地域』の問題を重視する彼自身の見方とどうかかわるのかといった疑問も少なくないが、これが網野の社会史の初心・原点であることは疑いない。」(同書223頁)とし、さらに「『進歩』への懐疑と浪漫主義的傾斜」という見出しで網野氏への批判を展開する。
第一は網野氏の強調する事実が史実の認識として妥当かと問い、「商人振り出しの手形手形が中央領主に送られ、振り出し商人のかかわる特定の中央商人のもとで換金されるケースの存在から一挙に"信用経済の発達"を強調する」ということに関して「資本主義経済におけるような信用制度が成立していることではない」といって網野氏の「常識とはことなる概念・用語の使用」を問題にする。そして「農民がどのようにして『非農業』的経済分野にかかわり、生業的にもその方向に移行するのか、といった点ついての具体的かつ論理的検討もない」(同書223頁)と批判する。
網野氏の論理の不整合は、「本源的自由」論にもあらわれ、中世前期が"自由"で身分差別も希薄だった、天皇はそうした社会秩序を現実に保障する"聖なるもの"の究極の存在であるかのように印象づけられると言う。この点は網野氏の現代観・歴史観と不可分であり、高度成長の矛盾から生産力の発達が歴史の進歩と見なしえないと考え、一般に歴史の「進歩」に対して懐疑的となっているという。ペシミスティックで"世の中は悪くなる"という一種の空想的浪漫主義的歴史観の傾向をもつものだとも言う。以下永原氏は、国家観・階級観・社会史などについても論じているが、詳しくは本書によって見られたい。
 網野氏は、近世についても発言しており、私としては一言せざるを得ない。網野氏は、「列島社会の非農業的特質」を論じたところ(「日本列島とその周辺―「日本論」の現在」『岩波講座日本通史』@日本列島と人類社会)で、「本来『百姓』の語には農民の意味が全く含まれていないだけでなく、実態に即してみても、古代から近世にいたる百姓の中には、かなりの数の非水田的・非農業的な生業を主として営む人々がいたことは明らかである。(網野―1993)。それがどのくらいの比率に及ぶのかは、現状では測定し難いが、恐らく近世においても百姓の中の40-50%に及んだのではあるまいか」(14頁)という。百姓 (ひゃくしょう)という語について、網野氏の様な理解は、全く百姓の語義の多義的性格を認めようとしない謬論にすぎない。本来あらゆる姓氏を有する公民を意味するというのは当然であるが、農業に従事する人、農民の意味で使われていたのも事実である。
『今昔物語集』二十・四十一に「我ガ田ノロヲ塞デ水不入シテ、百姓ノ田二水ヲ令入ム」との使用例や『地方凡例録』一八・上に「右の通り村村百姓・水呑等に至るまで」などの言い方からしても、百姓が農民の意味をもった言葉として使用されていたのは動かし難いのである。そのほか田舎者、また情趣を解さない者をののしって言ったり、農作業をすることそのものを表現する言葉でもあったことは国語辞典の類をみても明白である。さらに近世において百姓の中の非農業民の比率を40-50%とするごときは、事実の論証なしの主張であるだけに主観主義の誹りを免れない。
網野氏は別のところで「これまで農民が人口の8割以上を占めていたとされましたが、実際は、多く見積もっても4割くらいだとおもいます」(対話 「もののけ姫」と中世の魅力『歴史と出会う』洋泉社、2000年150頁)ともいってその主張は一定していない。 さらに網野氏は論議を工スカレートし、近世国家が「農民の全剰余労働を搾取し」「自給自足の農村」を基盤としてきたという従来の「通説」が全く事実に基づかない「妄想」だと断定、「兵農分離」「商農分離」などの表現は大きな誤りを生みだし、荒唐無稽の「権力中心史観」であるとまで言う。近世史にたいする具体的叙述を欠いた論断だけに始末が悪いが、発展も搾取も否定する反マルクス主義者の行き着く先がかくの如くであ るのは、傷ましいという外はない。

(三)
 史的唯物論の概念のなかで、重要なファクターをしめているのが、階級と階級闘争に関するものであるのは、周知のことであろう。マルクスが、『共産党宣言』で「これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」といったのはあまりにも有名である。
勿論エンゲルスは、注して「つまり、文書にしるされた歴史全体」とことわっている。ところが最近、「階級」や「階級闘争」という言葉が使われなくなってきている。ソ連・東欧の体制崩壊を期にこの傾向はとくに顕著であるように思えるのだが、マルクス主義史観を忌避するあまり、事態の真実を見失っているのではないだろうか。
 手始めに、階級・人民・民衆などの言葉の意味から吟味してみよう。階級については、レーニンの著名な定義がある。「階級と呼ばれるのは、歴史に規定された社会的生産の体制のなかで占めるその地位が、生産手段にたいするその関係 (その大部分は法律によって確認され成文化されている)が、社会的労働組織のなかでの役割が、したがって、彼らが自由にしうる社会的富の分け前をうけとる方法と分け前の大きさが、他とちがう人々の大きな集団である。階級とは、一定の社会経済制度のなかで占めるその地位がちがうことによって、そのうちの一方が他方の労働をわがものとすることができるような、人間の集団をいうのである」(「偉大なる創意」「レ一二ン全集」29巻大月書店、425頁)とある。充分今日でも通用するものだ。
  人民の語については、「一定の国または社会で支配され、抑圧され、搾取されている階級・階層の総称として、科学的社会主義の文献をはじめ、ひろく使用されている用語。日本のように高度に発達した資本主義国でありながら対米従属のもとにある国では、労働者、農民、漁民、勤労市民、知識人、婦人、青年、学生、中小企業家などが人民のなかにふくまれ、人口の圧倒的多数を占める」(「社会科学総合辞典」新日本出版社、1992年)という定義がある。
 民衆という言葉も「国家や社会を構成している多くの人々。多く被支配階級としての一般大衆をさしていう」(『日本国語大事典』)とあってほぼ同義である。
厳密にいえば、階級と人民は同義ではない。人民概念は、階級概念より広く、かつ搾取関係をふくみながらも諸階層を包括している。ここでは「階級」が本質を表し、「人民」が現象を表すという関係でもないことは明らかであろう。 かつて犬丸義一氏が、人民闘争史を提起して「第一には、マルクス主義的には人民闘争史=階級闘争史の現象形態として把握されなければならない」(『講座マルクス主義研究入門』4歴史学 青木書店、1974午294頁)と要約されたことがあった。階級闘争をどう理論的に把握するかという問題にも関わることだが、とにかく従来のマルクス主義的な理解では、階級闘争は歴史を理解する鍵であり、歴史の発展の原動力である。それは諸社会構成体によって対立のあり方は多様であるが、とくに近代社会では、階級間の政治闘争は政党間の政治闘争として現れ、全国的な性格をもつものとされている。労働者階級の階級闘争は、政治・経済・イデオロギーの分野でたたかわれる。人民の闘争は、資本と労働の対立矛盾としてだけではなく、この対立を基本的な軸として、支配階級と諸階層の対立としても現れざるを得ない。社会構成体の対立矛盾は普遍的なもので、その本質であり、階級闘争はその現象とすべきである。社会構成体には、いくつかのウクラードが併存しその対立や矛盾も多様である。したがって闘争も諸階層をふくむ複雑な様相をとらざるをえない。人民闘争もまた、社会構成体の矛盾という本質が現象したものである。本質は直接認識することはできず、現象の研究をつうじて認識しなければならない。
マルクスは、「―そしてもし事物の現象形態と本質とが直接に一致するものならぱおよそ科学は余計なものであろう―」(『資本論V』1047頁)と言っており、現象形態としての階級闘争・人民闘争が研究されなければ、社会構成体の本質を理解することはできない。階級闘争と人民闘争の違いは、本質と現象との関係ではなく、現象形態の多様な姿を現しているに過ぎない。

(四)
 マルクス/エンゲルスは、『ドイツ・イデオロギー』で「意識は意識された存在以外のなにものかでありうるためしはなく、そして人間たちの存在とは彼らの現実的生活過程のことである。全イデオロギーのなかで人間たちと彼らの関係が暗箱のなかでのように逆立ちで現れるとすれば、この現象もまた同じくかれらの歴史的生活過程から出てくるのであって、あたかも網膜上の対象の逆立ちが網膜の直接に生理的な生活過程から出てくるように。」と述べ、「道徳、宗教、形而上学およびその他のイデオロギーとそれらに照応する意識諸形態はこれまでのように自立的なものとはもはや思われなくなる。それらのものはいかなる歴史をももたず、いかなる発展をももた」(全集3巻22頁)ないという。
意識、社会的意識、イデオロギー等は自立的なものでなく、それ自身は発展せず、歴史をもたないというのである。対象が網膜上では逆立ちで写るのだが、人間はそれらの映像をまたもとどおり足でたたせて見せてくれる神経機関をもっている。しかし、社会での出来事は、そのままでは逆立ちしてみえる。結果が原因としてみえる。現象が本質であるようにみえる。イデオロギーが作り出した宗教的・哲学的、法律的諸観念が、社会の現実的諸関係を作りだすようにみえる。イデオロギー自身に歴史があり、それ自身が発展するもののようにみえる。たとえば、宗教・哲学・科学に歴史があるように、あらゆるイデオロギーにその歴史的発展があるとは疑いようがないものと一般には考えられている。
 しかしよく考えてみると、その時々その時代の宗教的・哲学的、法的話観念は、その時代の経済的土台から理解せざるを得ず、その変化変遷も土台の変化にもとづくものであることは明瞭であろう。思想史はまさしく社会構成体の変化との関わりのなかで追跡されるべきものである。だが当然イデオロギー的諸観念は土台に反作用し、両者の交互作用が認められる。
 エンゲルスはw・ボルギウスあての手紙で、「政治的、法律的、哲学的、宗教的、文学的、芸術的などの発展は、経済的発展に立脚しています。しかしそれらの発展はまたすべて、相互に反作用し合いますし、経済的土台に反作用します。経済状態が原因で、それだけが能動的で、他のものはすべて受動的な結果にすぎないというのではありません。そうではなくて、究極的にはつねに自己を貫徹する経済的必然性という基礎のうえでの相互作用なのです」という。また「人間が自分の歴史を自分でつくるのですが、しかし彼らを制約する所与の環境のなかで、現存する事実的諸関係を基礎にしてつくるのであって、この諸関係のうちでは、経済的諸関係が、爾余の政治的およびイデオロギー的諸関係によってたとえどんなに影響されることがあろうとも、究極においては決定的な諸関係であり、理解に導くただひとつの、貫通する赤い糸となっているのです。」(全集39巻185〜186頁)といっている。
  戦後歴史学では、一時期経済史がもてはやされたが、現在では、国家史・思想史・社会史などが盛行しているのは反作用・交互作用の効用という訳でもあるまいが、この基本的関係をきっちり理解した上でのものでなければなるまい。  今度、我々のサークルで『歎異抄』を取り上げることになった。久方ぶりに親鸞の思想に接することになったのだが、新鎌倉仏教の旗手の一人としての親鸞をどう理解し、位置づけるかが問題である。勿論宗教史の問題であり、歴史を学ぶものとしては、おろそかに扱えるような事ではない。
中世はエンゲルスが述べたように、神学以外のすべてのイデオロギー (哲学、政治学、法学)が神学の部門とされていたために、どの社会的運動も政治的運動も神学的形態をとるほか無かったといったが、日本でも同様であろう。日本中世が政治も、哲学も、芸術も、すべて仏教に包含されていたとは言えないにしても、あらゆるところに仏教思想の影響をみない訳にはいかない。とくに東アジア地域に目を向け、仏教思想及びその伝来のあり方まで検討するとなると容易ではない。 親鸞の教義や宗派 (一向宗)が果たした役割の大きさからみれば、中世の階級闘争が宗教一揆の形態を取って現出したのも当然であろう。
 『歎異抄』は親鸞 (1173〜1262)の弟子唯円が、親鸞の教えが正しく受け継がれていないのを歎じて書き残したものといわれる。短い文のなかに親鸞の思想が凝集されていると言う見地から、まず我々を捉えるのは、所謂 「悪人正機」の説である。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人おや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいはんや善人をや。この条一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるゝことあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれは、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。」とある。
  「9条の会」のメンバーの一人となられた梅原猛氏の解説によると、この有名な句は一般に親鸞の独創的な思想と思われているが、必ずしも正しくない。これは法然が浄土教の神髄を語ったもので、弟子の親鸞が法然から口伝を受け、更にそれを唯円に伝えたものとされている。このことの当否は問わなくとも、まず内容を見よう。「善人ですら往生ができる、まして悪人が往生できるのは当然ではないか。世間では悪人ですら往生できる、まして善人が往生できるのは当然ではないかと。」この文章でまず疑問が生ずるのは、善・悪という概念はなにを基準にして与えられるのかということである。一般的には道徳や法、社会通念などがあげられようが、宗教の上ではまた親鸞にとってはそうではなく、仏の前に立って善悪を判別しようとするのである。
仏という絶対者の前で、誰が善人だと言い切れるか、煩悩具足のすべての人が仏の前でその無力を自覚せざるを得ないし、その存在自体が悪だと感得させられるのである。仏教における思想上の基調に無常があるのはよく知られているが、世界が無常であればあるほど逆に常住が求め られ、自身が絶対と同一化したいという願望を追求せざるを得ない。菩提という悟りの境地にあこがれるのは、当然の希求に違いない。
 梅原猛氏は、親鸞のこの言葉を評して、「信仰のパラドックス」という。「悪人のほうが善人よりはるかに救済の可能性が高いという。これはまさに逆説中の逆説、パラドックス中のパラドックスである。」といい、ここに「元来信仰というものの秘密がある」ともいう。核心をつく言葉である。広辞苑によると、逆説とは、「外見上、同時に真でありかつ偽である命題」という。まさに弁証法である。仏教論理のなかには弁証法的論理がよく使われている。勿論観念論的弁証法ではあるが。
たとえば仏教辞典等には、煩悩即菩提、色即是空、空即是色などの即という言葉がある。或いは自他・男女・老若・物心(色心)・生死・善悪・苦楽・美醜など 相対立する概念が不二という概念でとらえられている。対立する二つのものは本来独立・固定のものではなく、根底で不二であり、一体をなすものである。しかしてそれは無我・空において包括されているという。空とは勿論、虚空・無ではなく、相互矛盾・否定をはらみつつ、依存し合う関係(縁起)であり、かつそれを成り立たせる根拠であり、実態のことをさす。不二・空が事物の真相であり、それを掴むことが悟りであるという。即についても同様の論理が指摘されている。
 今一つ親鸞の文章から見えてくるのは、平等の観念である。身分的階級社会において、貴賎の差別無く法の上で平等とするのは卓見である。ある文学者が親鸞を論じたもののなかで「法師寺に住す、寺中一切の僧の畜用する所の法物道具は威く皆共に同じ」(『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』)という句を探し出したことを記している。一切が共通、同等、無区別という平等思想そのものである。 この思想は仏教全体の思想でもある僧伽和合の精神にも通じている。寺院の意志決定にさいしては、「満寺集会」がもたれ「大衆僉議」が行われたが、その有様は、『源平盛衰記』などで語られている。仏教教団は和合僧・和合衆ともよばれ、本来争いなき平和、穏やかに調った的和らぎとは、そのまま仏の悟りの相を意味した。
 今日、宗教関係者のなかに憲法「9条の会」が組織され、宗教者が憲法擁護の運動に参加してきていることは、素晴らしいことで、宗教本来の姿なのである。宗教から学ぶべきことは多い。親鸞に即して言えば今一つ問題が残っている。親鸞の生きた時代の社会の諸相をどう捉えるかという問題である。これは歴史学の問題であり、くわしくは別稿で述べるほかない。当時の人たちのなかには末法思想が浸透しており、治天の君・貴族にかわって平氏が台頭し、平氏が没落して源氏が幕府を開くなど激しい政治的変動があり、土台としての経済的諸関係の変化と地震、大火、天候不順、飢僅などの天変地異の連続は、当時の人々にとってまさしく末法の世を眼前にする思いがあったであろう。社会的経済的救済が絶望的であれば、宗教的救済に頼るほか無かった。親鸞の真剣な思惟と実践の目的は、社会の底辺の民衆の救済にあった。そこに大乗の真理と行があり民衆の宗教があった。


(五)
 エンゲルスはヨーゼフ・ブロッホあての手紙(1890年9月21日)のなかで、我々自身が歴史をつくるが、第一に極めて限定された前提と条件のもとでつくり、第二に歴史の作られ方は、多くの個別意志の葛藤のなかから最終結果が生まれるということを述べている。そこでは「つまり無数の、たがいに阻害し合う力、すなわち力の平行四辺形の無限の集まりがあり、そのなかからひとつの合成カ―歴史的結果―がうまれるのであり、 それ自身はまた全体として無意識に、また無意志にはたらく力の産物としてみなすことができる」ことを論じており、そのさい個々の意志はゼロとみなすのではなく、それどころか個々の意志はそれぞれ合成力に寄与し、そのかぎりでそのなかに含まれているとする。
 これは力の平行四辺形の理論として有名で、歴史家は社会の歴史をえがくに、ただ直裁に社会進歩のあり方をとりあげるのではなく、それがときに反動的であり、後退的でさえあり、ジグザグの道をへて歴史はつくられざるを得ないことを、事実をもって示すべきだとされているのである。
それは言葉を換えて言えば、歴史を偶然性・必然性とともに、また可能性において、その現実性において論ずべきものである。 歴史をつくるのは人間だが、民衆が当面する課題を実現するために、どう歴史を切り開 いていくか、その道筋をどう見通すか、といった問題に逢着する。現実性は、不断に運動し、変化し、無限の多種多様な具体的対象を含んでいる。したがって客観的な世界を構成しているあらゆる諸条件を検討するとともに、主観的・主体的な諸条件についても正確な認識が必要である。しかもその何れもの側面の相互関係・相互作用を把握していなければならない。可能性と現実性のカテゴリーの検討は、歴史学の研究にとって、極めて重要な意義をもっている。
 犬丸義一氏は、1980年代のはじめ、この問題を検討している(「階級闘争史研究の方法論―「歴史における可能性」の理論をめぐって」―「階級闘争の歴史と理論1巻」青木書店1981年)。そのさい哲学者寺沢恒信氏の『弁証法的論理学試論』に依拠して論じていた。寺沢氏は、その現実性と可能性を論じたところで、可能性と不可能性の区別、不可能性には無条件的不可能性と条件的不可能性があることをいい、可能性には実在的可能性と抽象的可能性があり、抽象的可能性には、「生きた」抽象的可能性と「死んだ」抽象的可能性があることを提起していた。
詳細は同書および犬丸論文によられたいが、ここでは具体的事例として、今日的政治課題である憲法問題で論じてみることとする。 現行憲法の九条の改悪をめぐる問題は、戦後政治におけるきわめて重要な戦略的課題である。改憲を主張する側にとっては、改憲の可能性は、「死んだ」抽象的可能性ではなく「生きた」抽象的可能性としては存在している。その客観的・主体的諸条件によっては、「生きた」抽象的可能性は実在的可能性に転化することがあり得る。その条件とは、憲法第九十六条により、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で国会が発議し、国民投票で過半数の賛成を得なければならない。
これは上田耕一郎氏が検討しているように、政治的にはかなりな難問題という。自民公明と民主の三党が一緒にならないと改憲発議はできない。九条の二項はそのままで、三項・四項の「加憲」で自民党が認めるかどうか。また民主党内の岡田・小沢理論の矛盾。さらに自公民三党の最終合意によって改憲発議案が提議できるかどうかなど、主体の側の難問をすべてクリアーしなければならない。また、国民投票法についてもさまざまな問題があり、最後は国民の過半数がたやすく改憲に賛成するかどうかという最大の関門がある。
 改憲阻止勢力の側からすれば、国会内では少数である。しかし国民の過半数は改憲反対である。日本の知性と良識を代表する九氏による「九条の会」の存在は、当初はマスコミも黙殺していたが、今日全国に拡がり発展している。マスコミもこの状況を無視できなくなり、週刊誌などでも取り上げざるを得なくなっている。今改憲阻止のたたかいは、「生きた」抽象的可能性から実在的可能性に転化できる情況である。まさに両者の現実性をめぐる争いは、力関係の変化をめぐる争いでもある。アメリカが要求する「戦争する国」「武力行使する国」への変貌は国民が許さない。そしてアジアと世界の人民が許さないであろう。

(六)
  歴史的に発展しつつある対象を研究し、それを理論体系にまで形成しょうとするためには、歴史的なものと論理的なものの相互の関係について理解していなければならない。この間題は、かつて見田石介氏が「論理=歴史説とマルクスの方法」(『見田石介著作集』第三巻大月書店1976年)で論じたところであった。私見によれば論理=歴史説に関する論争は今日まで決着をみたとは言い難い。全体を俯瞰するところまではいかないが、重要なカテゴリーであるので意見を述べてみたい。
 見田氏は、ローゼンターリの『資本論の弁証法』を批判し、その説を紹介して、理論的、論理的分析は、現実そのものの模写でなければならないということから、分析の論理的行程は客観的な歴史的発展過程と一致しなければならないという説を論=歴史説であるという。 見田氏は、マルクスの『経済学批判への序説』を検討し、マルクスの「経済学的諸範疇を、それらが歴史的に規定的範疇だった順序にしたがって配列することは、実行もできないし、まちがいでもあろう」(『全集13巻』634頁)を引用して、論理=歴史説があやまりであることをマルクスの言葉に即して主張している。
 見田氏の論証は多岐にわたり「思惟過程と客観的過程とのちがい」・「論理=歴史説による分析の否定」・「マルクス主義哲学における分析」にまで及ぶ詳細徹密な論を展開されている。私は今でも見田説の信奉者であるが、著名な革新的経済学者がいまだに論理=歴史説をとっていることが見られ、今日私説を敷術することも無駄ではないと確信している。
 マルクスは、「経済学批判への序説」のなかで、上記の引用部分に続いて「むしろ、諸範疇の順序は、それらが近代ブルジョア社会で互いにもっている関係によって規定されているのであって、この関係は、諸範疇の自然的順序として現れるものや歴史的発展の順序に対応するものとは、まさに逆である。個々で問題にされるものは、経済的諸係がいろいろな社会形態の継起のなかで歴史的に占める関係ではない。まして、『観念のなかでの(ブルードン)(歴史的運動のぽやけた表象のなかでの)経済的諸関係の順序などではなおさらない。問題は、近代ブルジョア社会のなかでのこれら諸関係の編成なのである。』と言っている。
 このことから解るように、資本論全三部の論理的順序は必ずしも歴史的順序にしたがってはいない。「資本の生成過程」の歴史的順序でいえば、第3巻資本主義生産の総過程での「商人資本に関する歴史的考察」が最初にこなければならないことになる。また流通過程も資本の生成には先行しているのだから最初に論ぜられなければならない。また地代にしても、第3巻第6編 「超過利潤の地代への転化」では「資本主義的地代の発生史」は最後に論じられているのである。したがって諸範疇の関係の編成が問題であることはマルクスの指摘するところであり、マルクスは『資本論』で見事に実行しているのである。
 一方『資本論』でマルクスは、「資本の生産過程」で資本の前史として「商品―貨幣―資本」とカテゴリーを展開して論理的順序を歴史的順序に一致させている。一見このことは論理=歴史説が正しいことのように思われるが、マルクスは同じ論文で「貨幣は資本が存在する以前に、銀行が存在する以前に、賃労働その他が存在する以前に、存在しうるし、また歴史的にも存在した。だからこの面から見れば、次のように言うことができる。より簡単な範疇は、より未発展な全体の支配 的な諸関係か、またはより発展した全体の従属的な諸関係、すなわち、より具体的な範疇に表現されている面に向かってこの全体が発展する以前に歴史的にすでに存在していた諸関係かを表現することができる。そのかぎりでは、最も簡単なものから複合的なものへとのぽってゆく抽象的思考の歩みは、現実の歴史的過程に対応するであろう。」と言う。
 ここはやや難解である。つまり貨幣という簡単なカテゴリーは、未発展の社会 (原始,奴隷・封建などの社会あるいは全体)では支配的な役割をするが、発達した社会 (資本主義社会あるいは全体)では資本が支配的で単なる貨幣は従属的な役割しか演じない。そのかぎりでは論理の順序と歴史の順序が照応するというのである。
だからこのような理解なしに、どんな場合にも論理と歴史との一致をいうのは誤りであろう。 「人間の解剖は猿の解剖のための一つの鍵である」とはマルクスの同論文での名言であ る。我々はブルジョア社会の徹底的な分析を通じてのみ過去の社会を認識できるのである。『資本論』の学習が言われる所以である。歴史学研究の方法論についてはこの辺で筆をおくことにしたい。

満蒙開拓団と戦争

尾川 昌法

 この四月中旬、京都市の満蒙開拓団であった平安郷開拓団の人びとに同行して、中国東北部、瀋陽、長春、ハルビンを旅した。かつての入植地、ハルビンの舒楽村を訪ねることが主な目的であったけれども、それは、犠牲となった肉親を偲びながら花束を供え黙とうする慰霊の旅でもあった。
 松花江の埠頭、流氷のつく岸辺、旧収容所跡、公園の池のほとりや旧満鉄沿線など各地でくり返された悲しい出来事が開拓団には多かったのである。
 ちょうど北京ではじまった反日デモが中国に広がっていた頃であった。日本では学生たちが、「過去のことはよく知らないが腹立たしい」と反応し、それを一部の政治家や右翼団体が あおり立てていた。戦争をどう認識しているかという問題が背後に沈んでいるのは明らかである。
  開拓地訪問団はこの時、平頂山虐殺事件記念館と七三一部隊遺跡も見学している。そこには戦争の悲しさを実感させ訴えてくるモノがあった。子供と女性の折り重なった白骨が、細菌をつけたネズミなど小動物を飼育するコンクリートの部屋などが、戦争を語っているのである。しかし、かつて開拓団本部があっ た村に戦争のつめ跡はなかった。 豊かに見える農家と、葉を落としたポプラ並木で区切られてぼうぼうと広がる耕地があるばかりだ。 戦争を直接に語るものはないけれども、しかし人びとは記憶していた。ここからハルビンヘ向けて脱出した船がソ連機の空襲で沈没した、私は中国人の漁師にすくわれて生き延びたのだ、と同行のひとりは話してくれたし、村の古老は、病気のため一人取り残された開拓団の若い女性が自ら命を絶ったことをおぼえていた。
  多くの犠牲者を出した収容所は更地になっており、やがてホテルがたつかもしれないという。開拓団の遺跡はやがて消えていくにしても、侵略戦争と開拓団のことを、私たちは忘れてはならないと思う。
 満州開拓青少年義勇軍をふくめて二十七万人という満蒙開拓団とはなんであったのか。開拓団がソ連国境にそって分散していたのは、入植地図を見れば一目でわかる。開拓団は対ソ作戦の軍事拠点時であり植民地の防壁であった。日清戦争や日露戦争とちがう総力戦体制による侵略戦争であったことを、もっともよく示しているのがこの開拓団の存在であった。
 銃剣や爆弾で兵隊が戦うことが戦争ではない。侵略というのは兵隊が武器をもって制圧することだけではない。満蒙開拓移民は、国策として行政が移民数を割り当て、中国農民から農地を略取して入植した。それまでのブラジルやカナダへの移民とは性格がちがう戦争移民である。
  「従軍慰安婦」、「強制連行」、「住民大量虐殺」、「残留孤児」らとともに「満州移民」とよんだこの開拓団について、いまもっと語られねばならない。しかし、戦争責任を追求する歴史書においてさえ、満蒙開拓団にふれることがほとんどない。本格的な研究が進んでいないからである。研究者の緊急な課題であろう。
 その際に注意したいことのひとつは、被害者か加害者かという二分法で開拓団を追求するという単純な方法は無力だろうということである。彼らは被害者であったが加害者でもあった。彼らを追い込んでいった生活、社会状況、国家制度と政治権力の根源まで追求しなければならないであろう。そうでなければ、侵略とは、戦争とはどういうことかを想像する力を培うことができないからである。この想像する力を歴史から学びとって、私たちが豊かにすること、それが間違いをくり返さないための保証である、と私は思う。
 もうひとつは、開拓団の歴史は戦時だけでなく戦後まで連続して調べなければならないだろうということである。京都市は公式には開拓団の存在すら認めていないという。政府や行政はどう責任をとったか、とらなかったか、開拓団の家族はどんな生活を送ったのか。戦後の生活、社会の歴史に深い影響を残しているからである。
 長野県飯田市では開拓団を「語りつぐ会」が作られて聞き取り調査を続け、市民にそれを発表している。各地の地域史研究の中で開拓団の研究が進むことが期待される。

「文献目録戦後六〇年―北朝鮮引揚者の記録」の編纂に当たって

渡邊 悦次

 六〇年前の一九四五 (昭和二十)年八月十五日、日本は連合国軍に無条件降伏をした。朝鮮在住の日本人にとっては、その日から「異国の民」となり、日本への引揚げを目指す身となった。
 北緯三十八度線を境に南北に分割された朝鮮は、南はアメリカ軍が、北はソ連 (現・ロシア)軍と、それぞれ南北異なる軍政下に置かれた。三十八度線は、大戦中の蜜月時代にかわる米ソ冷戦体制、米ソ対立の一つの象徴となり、今日まで続く南北分断の基となった。その分断の根源には日本の朝鮮植民地支配があったことは言うまでもない。
  米ソ対立は北朝鮮からの日本人引揚げに大きく影響した。ソ連は在北朝鮮の日木軍人も「満州」などと同じくソ連本国に送り、炭坑などで労働カとして使役した。北朝鮮在住日本人の引揚げ,送還も遅れ、ソ連とマッカ一サー司令部間で日本人引揚げ協定の調印は、敗戦から実に一年四か月余後の四六 (昭和二十一)年十二月十九日であり、当日中間協定による引揚げ第一船が博多港に入港した。
 この引揚げ実施の遅れは、北朝鮮の日本人引揚者にとって過酷なものとなり、多くの悲劇を生んだ。それは引揚者の多くが、引揚者である前に戦場地帯から着の身着のまま、戦火を逃れた「戦争難民」であったということからもきている。 敗戦を前にした八月九日の日ソ開戦、ソ連軍の朝鮮領への侵攻、とくに十三日に行われた威鏡北道の中枢都市である清津への艦砲射撃とそれに続く上陸作戦は、清津地域を一大戦場と化した。
 日本敗戦までの短い戦闘とはいえ、成鏡北道の日本人は避難命令によって家を離れ、「戦争難民」と化して南下した。その南下途中で敗戦を知ったが、再び家には戻れず、興南、威興、元山などの都市部に集まり、祖国への引揚を待つことになった。
 厳冬を迎えても夏服姿、その日の食べ物にも事欠き、豆腐ならぬ、「おから」が買えれば上出来だという極限の生活であった。何時くるか分からぬ帰国船を待てず危険覚悟の三十八度線突破も決行された。引揚げの遅れに比例し、発疹チフスを主に多数の死者、餓死者さえもでた。
  北朝鮮引揚者問題の解明なしには戦後史の解明も充分ではないと考え、その記録集成から取り掛かることにした。

京都大学原子炉実験所探訪記

樫本 喜一

私、『大阪民衆史研究』(第57号)におきまして、「宇治原子炉設置反対運動の考察」と題する拙論を発表させていただきました。その題材とした宇治原子炉が、幾多の反対運動を乗り越えて、現在、大阪府泉南郡熊取町にある京都大学原子炉実験所の研究用原子炉となります。
 このたび機会を得まして、その原子炉の実物を見学することができました。その体験をレポートさせていただきます。
 今年は、「民主・自主・公開」の原子力平和利用三原則が取り入れられた原子力基本法が成立して、丁度50年目の節目の年となります。微力ながら、原子力平和利用研究の現状をお知らせできればと考えております。
  原子力施設に入構するには、守衛室で身分確認をする必要があります。今回、事前に見学の中込をしていますので、名簿の確認だけで大丈夫でした。 見学前に原子炉実験所の研究者の方から、同所でどのような研究が行なわれているかの簡単なレクチャーと、実験所のPRビデオの鑑賞を済ませます。その後、別の研究者の方(助教授です)が我々を案内してくれました。これは当番で、研究者の皆さんが交替で案内されるそうです。 この時、原子炉実験棟の中の写真を撮っても大丈夫かどうかを伺ったところ、「どうぞご自由に」とのことでした。原子力発電所及びその関連施設は、核防護上と商業機密の関係で、取材等の写真撮影にも制限を受けると聞いていたので、拍子抜けした位です。さすがに大学の施設、「公開」の原則は守られている、と感心しました。
 ちなみに、この研究用原子炉で使われている核燃料は高濃縮ウランで、兵器級です。決して、大したモノがないから公開している、という訳ではなさそうです。 放射線管理区域に入る前に、靴を脱いで黄色のスリッパに履き替えます。ここで、代表者に電子体温計を少し大きくしたような機械が渡されます。放射線を感知する機械です。感知する放射線の種類は失念しましたが、結局、管理区域を出るまでメーターは全然動きませんでした。説明では、天然由来の放射線の被爆線量と殆ど変わらない、とのことです。なお、見学した月曜日は、実験準備のため原子炉は停止中です。火曜日から金曜日の朝まで原子炉を動かして実験し、金曜日に後片付けをして、土日はお休み‥…というサイクルで原子炉は動いているそうです。
 いよいよ、原子炉本体のある部屋に入ります。潜水艦や宇宙船のエアロックのような、途中に小部屋のある二重の扉を通り抜けて入りました(万一にも放射性物質が漏れ出さないように、原子炉を納めた部屋は減圧されています)。部屋は大きな円筒形で、原子炉本体を納めています。原子炉は、最近都市部のミ二開発でよく見かける、一階が駐車場の三階建て住宅を、少しずんぐりさせたような大きさです。それがすっぽり入って、なおかつ廻りに色々な実験器具が取り囲み、天井に大きなクレーンが備え付けられた部屋でした。最新式の機械もあるのでしょうが、素人目には各々の機器は、年季が入った物が多いと感じられます。それを、案内していただいた方に言うと、「その通りです」とのことでした。
  この原子炉が初臨界を迎えたのは、1964年(昭和39)のことです。この先、改造期間を挟んで10年位、この原子炉は稼働させる予定だそうです。その後は、廃炉となる訳ですが、具体的にどの様な形で廃棄するのかまだよく分からないとのことでした。原子力発電所の原子炉とは比べ物にならない程小さく、放射能レベルも低い研究用原子炉ですが、廃棄そのものにはやはり通常の機械と違う困難が予想されていることが感じられました。原子力研究が開始された、初期の研究炉は次々と寿命を迎えつつあるようです。それらの廃炉処理について、決め手となる方法があるとは聞かれません。近い将来、原子力発電所の大型原子炉の廃炉が、研究用原子炉の後を追って開始されるでしょう。現代の原子力平和利用は、今後に向かって、難しい問題を抱えていることを実感しました。
 見学は、続いて実験用の施設を色々説明していただきましたが、長くなるので割愛します。一同、放射線管理区域を出る前に手を洗い、手と足の放射線測定を行なって、異常なしを確認しました。そしてその後、放射性廃棄物処理棟の見学に廻りました。ここでも、放射能を持つ廃棄物の処理と管理に苦労していることを教えていただきました。やはり、炉本体を含めた放射性廃棄物の処理が、原子力平和利用の最大の問題点であることを認識しました。 研究対象である研究用原子炉の実物を見学出来て、色々得るものが多かったと思います。ここでは触れませんでしたが、色々微妙な話も伺うことが出来ました。本当に有意義な機会でした。
 最後になりましたが、このような貴重な機会を与えていただいた市民団体 「くらしを見つめるひととき」の皆様と、忙しいお仕事の合間に原子炉実験所でご案内いただいた、研究者の方々にお礼を中し述べてレポートを締めくくりたいと思います。

 2004年資料

「幻の歌劇団映画」とその時代の映画事情

長谷川 圭市

 第三回宝塚映画祭が、2002年(平成13年)10月26日(土)から11月3日(日)まで、阪急宝塚線売布駅前シネピピアを中心に開催されました。
 最近、戦争中に製作された「幻の歌劇団映画」が発見され、60年振りに宝塚映画祭で公開されました。宝塚映画製作所(現宝塚映像)は、六甲、長尾の山並みに囲まれた、宝塚歌劇団のある宝塚ファミリーランドの敷地に隣接して撮影所のスタジオがありました。その同じ場所あたりで今回発見された「幻の歌劇団映画」が製作されたのです。
  「軍国女学生」(昭和13年作品・約30分)最初期につくられたオール女性キャストによる歌劇映画。神戸女学院でロケ。出演は葦原邦子、櫻緋紗子、園井恵子、竹田鶴子、尾上さくらほか。兄の出征などのエピソードをまじえながら、女学生の日常を描く。
 「支那人形」(昭和14年作品・約13分)当時の歌劇トップスター葦原邦子主演の掌編。歌劇スタの素顔を描く「宝塚花物語シリーズ」の第一作として製作された。作品の最後には、レピューシーンも見られる。
 「瞼の戦場」(昭和15年作品・約18分音ズレあり)宝塚歌劇映画第四回作品。出演は月丘夢路、二條宮子、山鳩くるみほか。元は85分程度の作品であったと思われるが、現存するフィルムは18分のみ。戦場で負傷し失明した青年と、タイピスト養成所で働く少女との心の交流を描く。
  「山と少女」(昭和13年作品・約6分)宝塚歌劇映画の長編第一回作品。主演は山鳩くるみ、鶴萬亀子、園井恵子ほか。ハイキングに出かけた三人の女学生たちが、道に迷いたどりついた山荘で出会った少女との間にいきかわす友情の物語。関西学院でロケあり。
 「典亜大行進曲亜細亜之力」(昭和16年頃の作品・約7分)国威発揚のために、歌劇団生徒を出演させてつくられた宣伝映画。軍歌「亜細亜之カ」の演奏に乗せて、歌劇団生徒の歌とダンスで「大東亜共栄圏の理想」を描いている。と第三回宝塚映画祭のパンフは「よみがえった『幻の歌劇団映画』」のタイトルで紹介されています。
  約○○分の尺数から判断してDB作業(ダビング=音楽・効果音・足音などの音を音声とミックスし、映画として完成させる作業)のロール割の長さでDB作業でのNG口一ルだと思われます。
ネガ切りのミス、プロジェクト(映写機)サウンドフィルム(音声録音)工キサイターランプ(モジュレーションに光を当て音声を再生する装置)など映写機の機能があります。映像を照射するレンズより音声フィルムは20コマ先行したところにエキサイターランプがあります。1秒24コマフィルムは走りますから、音声が1秒弱おくれて再生されるのです。ネガ切りのミスです。
 このように見ていくとDBミスのプリントを会社に見つからぬように隠したプリントだと思われます。 当時、フィルムは爆薬の製造に欠かせない原料でしたから軍から厳しく使用制限されていました。その上、表現抑制によるフィルムの配給制度が施行されていた時期でした。製作者の手にフィルムが入りにくく、フィルムは製作者にとって大変貴重なものであったのです。
同時に、NGによるフイルムの使用は製作コストを増大させます。うるさい会社にばれないように隠した映画技術者の気持ちは良く理解できます。
 さて、技術的なことはさておいて、その当時の映画事情を見てみましょう。
1938年 (昭和13年)12月15日、常に時代とともに流動する宝塚をめざすとして、阪急、電鉄の創始者小林一三氏が、現の撮影所がある場所あたりに200坪のスタジオを建設して、戦中の宝塚映画製作所を伊島理吉氏を所長にスタートさせます。
  「大衆の演劇を目標として天下に一芸一能の士を募っていた宝塚ショウは多彩な面々四十八名の参加を得、この日結成式を挙行」と宝塚歌劇団の年譜に記載されています。 38年当時、月丘夢路、宮城千賀子、轟タ起子、園井恵子などが映画界に引き抜かれました。宝塚歌劇のスターを映画界に引き抜かれないために、スタジオを建設して、スターの流失をふさがなければならなかったという事情がありました。
  また、宝塚歌劇の舞台作品を目新しい企画と内容にするために、撮影所が必要でした。宝塚歌劇では、1938年 (昭和 13年)5月にはキノドラマ「軍国女学生」が上演され、同7月にはキノオペレッタ「花ある氷河」が連鎖劇で上演されています。 その後、これが改作撮影され「軍国女学生」(監督内村緑哉)として一本の映画に完成されています。これが端緒となって、宝塚映画製作所は、これ以後、独自の作品を創り出し映画界に進出していきます。
 さて、宝塚映画製作所は、39年 (昭和 14年)4月、短編シリーズ「支那人形」を製作しています。5月に短編映画「日・独 (ナチスドイツ)・伊 (イタリア)親善宝塚振袖使節道中記」及び「宝塚歌劇二十五年を語る」を製作しています。
  この作品は、38年11月6日に伊が日独防共協定に参加したことを祝って、小林一三社 長は宝塚歌劇団を親善団として送りました。その記録を映画化したものです。
38年12月13日には日本軍が南京を占領し、南京大虐殺を引き起こしています。天皇は、南京攻略部隊に対して「深ク満足二思フ」と「御言葉」を発し、侵略戦争を激励しています。戦争は中国全土に拡大され、アメリカとの関係も悪化していきます。このような社会状況下で宝塚映画製作所は戦争遂行の翼賛映画を製作していきます。第 T回作品は「山と少女」(監督松井稔)続いて 「雪割草」(監督松井稔)「女学生と兵隊」(監督松井稔)「瞼の戦場」(監督清瀬英次郎)「南十字星」(監督清瀬英次郎)などの劇場用映画の他に短編、文化映画も数多く製作されています。
 あこがれの大スター葦原邦子さんの海軍将校姿の男装を主役に、園井恵子、月丘夢路さんなど、往年のスターが初々しい可憐な姿を映画祭で観せてくれました。また、歌劇団は支那事変 (日中戦争)第二周年にあたり引田一郎氏を団長に天津乙女さん以下13名と楽員や係員を北支皇軍(天皇の軍隊)慰間団を編成し、中国に渡っています。
当時、映画各社は戦争映画を製作していました。日活映画「土と兵隊」などがあります。しかし、戦争賛美の翼賛映画は製作していませんでした。宝塚映画製作所は、小林一三氏の指導のもと東宝・PCLとの提携を強め、軍国主義賛美、侵略戦争推進を国民に啓発宣伝する映画界の魁としての役割を果たしていきます。
映画界は、翼賛映画製作一色に塗りつぶされていきます。実業家小林一三氏が、変身し、国家権力に積極的に迎合していきます。戦時下の大臣になったこと、敗戦後、戦争犯罪人として裁かれたことがなによりもこのことを証明しています。
 翼賛映画製作に果たすもう一つの役割に(昭和14)10月の映画法の実施があります。 フィルムの原料(セルロイド)は火薬の原料であるという理由で映画各社に配給されるようになります。配給を受けるには作品台本を付け、生フィルムを扱う、監督、撮影、録音(サウンドフィルム=当時はフィルムに光学録音をしていた)の担当者に定められたフィルムが配給されたのです。そのため、監督、撮影、録音担当者は国に登録が義務づけられました。その時に撮影技師、録音技師の名称が付けられました。その名残が現在でも日本では続いています。
政府は、フィルムの配給を口実に作品内容のチェックを台本、そして監督、撮影、録音技師への圧力にフィルム配給を利用したのです。「戦ふ兵隊」を製作した亀井文夫監督は上映を禁止され作品の発表を止められ、フィルムの配給を打ち切られ作品製作の道を閉ざされました。 その他に台本チェック、上映前の作品チェックの検閲機構もありました。当時の映画作家はがんじがらめに作品創造を規制されていたのです。戦時体制下(現在の有事法制下)、言論、表現の自由は、国家権力によって極端に弾圧され、生活圧迫の進行と合わ国民は暗い大変苦しい日々の生活を強いられました。
「あのねオッサン、わしゃかなわんわ」と映画のストーリーに関係なくギャグをとはした珍優高瀬実乗氏に大変人気が集まりました。国民の日々暗く「うつうつ」とした気持ちを代弁していたからでしょう。 ところが「あのねオッサン、わしゃかなわんわ」の名セリフも、戦時下の状況に見合わないという軍部の要請で、37年(昭和12年)に自粛という形で画面から消えていきます。国民のささやかな抵抗も軍部に取り上げられていくのです。
  当時の時代背景について、「この年昭和14年4月5日、映画法施行規則が内務省、文部省、厚生省の三省令第一号として発令された。脚本の事前検閲、14歳末満の児童の入場制限、国民教育に有効な映画の認定、文化映画とニュース映画の強制上映、俳優、監督、技師の登録制という厳しいものであった。監督の登録試験とはどんなものだったのか、現実に現場を仕切っている監督にとっては、馬鹿馬鹿しいものであるが、まず技能証明書の発行を申請しなければならない。監督も又、一つの技能であつたのである。
く前項ノ申請書二ハ左二掲グ書類オョビ技能審査手数料三円ヲ添付スベシ 一、 履歴書。ニ、写真。三、健康証明書。四、演出ノ業務二従事セントスルモノニアリテハ本人ノ作成シタル脚本)とあつて、その試験の課目は、
第一次審査
第 一次考査 (提出シタル脚本二ッキコレヲ行ウ)
第二次考査 (第一次考査二合格シタルモノニツキ左ノ順序二ョリコレヲ行ウ)
 一 性格考査 (志操、性格、才幹、判断等二"ソキコレヲ行ウ)
 二 学科オョビ常識考査 (国語、国史、国民常識等二ッキロ頭マタハ筆記二ョリコレヲ行ウ)
 三 演出者トシテ必見ナル知識考査 (脚本・コンティニュティ・フィルム・装置・衣装・演技・扮装,撮影・照明・録音,現像,編集・美術・文学,演劇・映画二関スル法規、映画事業等二ツキロ頭マタハ筆記二ョリコレヲ行ウ)
  四 コンテイニュテイ考査 (コンティニュティヲ作成セシメテコレヲ行ウ)
第二次審査
試作品考査 (第一次審査二合格シタルモノョリ第一次審査合格後マタハ第二次審査不 合格後1年以内二製作シタル試作品映画ヲ提出セシメテコレヲ行ウ)
  この審査はジナリオが書けねば監督はNGという考えの様であるが、果たして監督の本質をこんな試験で見出すことが出来るのか。そして、この試験は誰が試験官になるのか。並大抵の者では、監督の心の奥に秘められた、資質を見つけ出せぬであろう。やや、噴飯ものの感をまぬかれない。
 更に遊興営業時間の短縮、ネオンサインの全廃とあっては、夜の街もにわかに淋しくなり、学生の長髪禁止、女性のパーマネントは自粛、男の流行はカーキ色の国民服で、これを着ないと非国民扱い。隣組が出来て、回覧板10万枚が東京中に配られた。 そして街には軍歌『父よあなたは強かった』が流れ、軍事色は、日本人全体を覆って行くのであった。J(高瀬昌弘著 「我が心の稲垣浩」より)と記載されています。
  41年 (昭和16年)1月、映画興行は2時間半制となります。そして認定文化映画及び二ュ一ス映画の強制併映が規定されます。同時に、社団法人文化映画協会が創立され、「認定」映画の配給が一元化されます。当局の許可のない映画は劇場にかけられない。当局の許可のない作品は発表できないという仕組みがつくられたのです。
2月には、宝塚映画製作所第5回作品 「南十字星」がクランクイン(撮影開始)しています。8月には、臨戦映画体制案によって文化映画は、一社に統合するよう軍部情報局から提唱されます。 10月には、東宝京都撮影所が閉鎖されます,その他、小さなプロダクション(撮影所) が解散させられていきます。その解散会社が、後に統合され大日本映画製作株式会社(大映)の設立につながっていきます。
 宝塚映画製作所は、10月30日、軍事産業優先・侵略戦争遂行のために、文化産業の縮小を迫られ、国策に合わせて 「映画戦時体制建設に応じて」という名目で閉鎖されていきます。
  映画作品のチェックは完全に内務省と軍部に掌握されてしまいます。小林一三氏の命令で宝塚映画製作所は進んで軍部の強権に協力していきました。その1力月余の12月8日、海軍の真珠湾奇襲攻撃を皮切りに、陸、海、空軍はアメリカ、イギリス、オーストラリア、アジア諸国などとアジア各地で交戦し、大東亜戦争 (第二次世界大戦)が勃発します。日本国民の悲劇が大きく膨れあがっていきます。言論、表現の自由への弾圧は戦争への道です。日・独・伊の防共三国軍事同盟にみられる反共攻撃。国内での言論、表現、報道の自由をふみにじり民主主義破壊のための反共攻撃は戦争への道です。 当時の時代背景について、「昭和16年12月8日、日本は米英に宣戦布告し、ハワイ真珠湾を空襲し、マレー半島上陸を開始する。小学校が国民学校に名称を変え、米の配給 が始まり、大人一日2合5杓、米穀通帳、外食券もこの年からであった。
 ドレミファはハニホヘトイロハに変り、片仮名名前の芸人の名は使用禁止された。政府大本営は支那事変を含め、この戦争を大東亜戦争 (第二次世界大戦)と呼ぶことになった (昭和16年12月12日) 浩の 「映画覚書U」の昭和 15年度のペ一ジに、赤鉛筆で大きく「大東亜戦争と共に、英、米、仏、映画の上映禁止となる」と書かれている。無念であったのだろう……。
 映画法により、監督、俳優、キヤメラマン、録音技師の技能審査、登録制、証明書発行規定を大日本映画協会と内務省で立案し、2月第1回審査を行う。 試験は実技考査と性格常識考査の二部門に分かれていて、前者は専門家の大日本映画協会から嘱託を受け、後者は文部省や内務省のお役人が審査に当たった。」(高瀬昌弘著 「我が心の稲垣浩」より)と記載されています。
45年 (昭和20年)8月6日、広島に原子爆弾が投下されます。大本営は 「新型爆弾投下」と原子爆弾を隠蔽します。しかし、国民は、物凄い爆弾が投下されたことを口込みで知せっていきます。勝ち目のない戦争の被害が押し寄ぜてくることを察知、刹那的な考え方が支配し、治安は乱れていきます。 戦中の宝塚映画製作所の作品に出演されていた、園井恵子さんは 「無法松の一生」(稲垣浩監督)作品で無法松が密かに思いを寄せる、楚々とした美人で陸軍将校の若奥さん役を演じた大スターです。 移動演劇隊 「桜隊」(軍隊や軍需工場への慰問隊)が広島の原爆被害に遭います。隊長丸山定夫氏 (当時45才)以下9名。そのなかには、宝塚歌劇団出身の園井恵子さんも含まれていました。
  当時を回顧して、「園井恵子はこの作品(無法松の一生)後、昭和20年1月属していた苦楽座が解散し、主宰の丸山定夫と共に、「富島松五郎伝」を持って移動演劇隊桜隊として地方巡業に出る。そして広島公演中の8月6日被爆する。」(高瀬昌弘著 「我が心の稲垣浩」より)と記載されています。
被爆によって、放射能に冒された園井恵子さんは苦しみながら芦屋の自宅で逝き、九名全員が死去されたのです。園井恵子さんは、歌劇団時代須藤五郎先生(元日本共産党参議院議員)の教え子でした。園井恵子さんの歌劇時代、映画俳優、舞台俳優の仲間が芦屋在住の園井恵子さんの病状の面倒を看られだそうです。よく見舞われた須藤先生は、筆者に 「演技者として再起したい願望、放射能に冒されての苦しみ、看ていられなかった、本当に酷かった。原爆は許せない」といっておられました。
 「無法松の一生」は28年 (昭和3牢)に伊丹万作氏によってシナリオが作られますが。映画化されたのは43年 (昭和18年)原作岩下俊作「富島松五郎伝」、製作大映京都、脚本伊丹万作、撮影宮川一夫、監督稲垣浩によって世に送られた名作であります。 この映画は、映画法の検閲によって、10巻で造られた作品が九巻に縮小される検閲カツトを強いられた作品でありました。私はこの作品の再上映を戦後観賞するのですが、この時はGHQ民間情報局によってカットされたものでした。戦争遂行のために検閲を行う国家権力、占領政策遂行のために検閲を行うアメリカの権力によって二度も検閲カット受けた作品であったのです。
 その検閲カットの時代背景とカットの詳細は、「映画法は前述の昭和14年10月1日に勅令、内務省会で施行された。シナリオは総て、撮影開始 10日前に内務大臣に届出なければならず、く公衆の観覧に供する映画は、内務大臣の検閲を受けなければならない。左に掲げるような映画は検閲不合格となる。
○ 皇室の尊厳を冒涜し、又は帝国の威信を存するおそれあるもの。
○ 朝憲素乱の思想を鼓吹するおそれのあるもの。
○ 政治上、軍事上、外交上、経済上その他公演上支障のおそれのあるもの。
○ 国語の酔生を著しく害するおそれあるもの。
○ 製作技術著しく拙劣なるもの。 ○ その他国民文化の進展を阻害するおそれのあるもの。
○ 善良なる風俗を索り、国民道義を頽廃せしむる恐れあるもの。
 松五郎の吉岡夫人に対する、淡い淡い自分さえも気付かぬ程の慕情シーンは、総てカットされた。壁に貼られた酒屋のホスターを見つめ、夫人に擬する松の恋心が少しでも現れる場所はカットである。 ラストシーンの一つ前、雪の中に死んだ松五郎の住む宇和島屋の一室で、松五郎の遺品の行李を調べると、吉岡よし子、吉岡敏雄の名前で五百円程の通帳が出て来る。そして、その後、く未亡人、松の遺骸を囲う屏風の内側へ姿を消す 「松五郎さん……」と云うとそれに続いてしのびがねた鳴咽の声がもれてくる。)の部分がカット。原作によると、(かくて富岡松五郎は、死んではじめて吉岡夫人の手に抱かれ、そしてはじめて美しい情愛の棺のはなむけさえうけたのである。)という感動の場面は、検閲の前に無惨に姿を消すのであった。
 10巻で造った作品が最後の巻、夫人との部分のシーン、カットの為に結局九巻にまとめられて、封切られる。ドラマとして一番大切な部分を切られた作品に対する内務省の通達。く本映画ハ全一〇巻トシ申請セシトコロ、第十巻目二於ケル切除箇所ガ二〇四M二及ビ、残余部分八四Mトナリタル為メソノ残余部分を第九巻」二繰り人レ、全九巻トシテ処理セルモノナリ。)
 伊丹 (伊丹万作)、浩、両者の心の痛み,それはどれ程であづたろうか。そしてこの作品は戦後再び米軍の検閲を受け、又々、カットされる運命に会う。 軍国主義を鼓吹するものとして、敏雄少年が唄う「青葉の笛」の部分、中学と師範の生徒が提灯行列の時唄う「四條畷のタ嵐」「アムール河の流血や」の部分、少年時代の松五郎の継母にじめられて家出する件が児童搾取を是認するという理由でカットされるのである。
  この心残りが戦後の三船敏郎主演のリメークの 「無法松の一生」に引き継がれるのである。ヴヱネチア映画祭のグランブリに決まった時、浩の電報 「トリマシタ、ナキマシタ」は、昭和十八年の阪妻版以来のスタッフ、キヤストに対する監督としての、精一杯の感動を伝える為の電文であったのである。」(高瀬昌弘著 「我が心の稲垣浩」より)と記載されています。
  また、稲垣監督の心情を、GHQの規制基準を紹介しながら、時代背景を描写されています。「戦いが済んで、好きな様に時代劇が撮れる。そんな想いが浩の胸の内を去来したと想う。然し、次にやって来たのは、アメリカGHQ指令通達、45年 (昭和20年)9月22日の映画演劇の製作方針であった。(封建的忠誠、および復讐の信条に立脚せる歌舞伎は、現代の世界において通用せず、殺人が大衆面前で正当化され、個人的復讐が法を無視して許容されるかぎり、日本人は国際関係を支配する根本理念を理解しないであろう。)
  昭和20年11月、GHQ民間情報局D,コシデ民間情報教育部長による映画製作禁止条項が発表され、同年12月、従来の内務省による映画法が禁止された。そのアメリカ式禁止条項とは
1 軍国主義を鼓吹するもの
2 仇討ちに関するもの
3 国家主義を宣伝するもの
4 愛国主義乃至排外主義
5 歴史上の事実を歪曲するもの
6 人権又は宗教的差別
7 封建的忠誠心または生命の軽視を好ましき事とし、あるいは名誉ある事とし たもの
8 直接間接を問わず自殺 (ハラキリをふくむ)を是認したもの
9 婦人に対する圧制及び婦人の堕落 (娼婦を主人公とすること)を扱い、これを是認したもの
10残忍非道暴行を調歌したもの
11民主主義精神に反するもの
12児童搾取を是認するもの違反するもの)
以上であったが、一番影響を受けたのは時代劇であった。仇討、チヤンバラ、刀は駄目とあっては、剣豪スターも軒並み形なしであったし。
 CIE (ClVIL lNFORMATION AND EDUCATION SECTION民間情報局)により「無法松の一生」も又、軍国主義と小学生吉岡敏雄の唄う「青葉の笛」及び中学生、師範学校生の唄う軍歌が削除された。 この作品は、軍国主義時代の日本政府と、その反対のアメリカ民間情報局の両者から検閲カットされるという珍しい作品となった。
  このCIE課長のコンデの力は日本映画を支配する程であったが、台本検閲がパスし作品が完成すると、CIEの映画演劇課員で試写し、更にCCD(民間検閲局)の正真正銘の検閲を受けなければ上映出来なかった。この検閲は46年 (昭和21年)1月から始められた。」(高瀬昌弘著 「我が心の稲垣浩」より)
 「浩が 「無法松の一生」三船敏郎主演のリメーク版を持って、ヴェネチア映画祭に出発する数日前、それは58年 (昭和33年)、夏の終わりであった。 この作品 (無法松の一生)は、戦前、43年 (昭和18年)、阪東妻三郎、園井恵子主演で、大映株式会社で製作された戦時中の作品のリメークであったが、溢れるヒューマニズムと詩情を湛えた内容は日本人の心を打った。然し臨戦体制の下での前作は、しがない人力車夫が、日本陸軍の将校未亡人に恋心を抱くなど論外と、二人のクライマックスシーンと阪妻が未亡人を想うシーンは情報局によって無惨に切除された。更に戦後、この映画はアメリカ進駐軍によっても、再度カットされる運命にあった。少年が唄う唱歌 「青葉の笛」と中学校、師範学校の生徒の乱斗シーンでのバックに流れる二つの軍歌が、軍国主義を助長するとして、又々カットされるのである。 (中略)
 前作阪妻版は昭和 18年すでに「キネマ旬報」は休刊中で、「映画評論」優秀映画選出の一位であり、二位は黒澤明監督第一作 「姿三四郎」、木下恵介監督の処女作「花咲く港」は四位に入っていた。」 (高瀬昌弘著 「我が心の稲垣浩」より)と指摘されています。

「参考資料」

ベネチア国際映画祭での主な日本映画受賞作(2003年9月21日付赤旗日曜版より)
 1951年 金獅子賞「羅生門」(黒澤明監督)
   52年 監督賞「西鶴一代女」(溝口健二監督)
   58年 金獅子賞「無法松の一生」(稲垣浩監督)三船敏郎主演、シネマスコープ、アグファ・カラー

* 浩は、今回のスタッフに戦時中の前作を観るのを禁じた。今回の「無法松の一生は新しい作品であって、阪東妻三郎主演作のリメークとは違う。その意思を持って仕事に入って欲しいと全スタッフに宣言した。 浩は、三船敏郎という素材で、全く新しい「無法松の一生」に挑む心であった。(高瀬昌弘著「我が心の稲垣浩」より)
 当時の時代背景と映画事情、小林一三氏が侵略戦争に協力、軍国主義賛美映画を日本映画界に持ち込まれた経緯を考察しながら、貴重な歴史的作品「幻の歌劇団映画」を「映画祭」後も鑑賞されたいと思います。文化は平和でなければ充実しません。平和はたたかい取らねばなりません。「自衛隊のイラク派兵」「平和憲法改悪」の策動を粉砕しなければなりません。

「現象と本質」との関係について

@ 天文学的における現象的把握 (天動説)と本質的把握 (地動説)

A経済学における現象的考察と本質的考察

南 清彦

はしがき
 現象と本質というテーマは、自然科学および社会科学のいずれの分野においても、最も重要な「方法論」的課題である。老学者というより老学生としての筆者 (86歳)の私見を少しここに述べたのでよろしく御批判下さい。
@ 天文学における現象的把握 (天動説)と本質的把握 (地動説)
  現在、低学年の小学生の半数以上が、「太陽は朝、東の空から出て、夕方には西の空に沈む」という誤った天動説的な考え方をもっていると新聞は報じている。しかし、この報じ方に疑義を感じるのは私一人ではないと思う。何故ならば、小学校低学年児は、地動説や天動説については何も習っていないのであるから、太陽の「見かけの動き」をこのように答えたことについて、むしろほめてやるべきではなかろうか。
  「見かけの現象」がまかり通って常識化している例は他にもある。例えば、電流はプラスからマイナスヘ流れると通常いわれている。これは電子のマイナスがプラス側にうつるという実態 (本質)を電子がプラス側からマイナス側に移るように見えたことで、このように決まったといわれている。生徒も中学生になれば、理科の地学分野で、太陽と地球の関係は「地動が本質」であって、「天動は見かけの姿」であるということを学ぶことになっている。他方、このような両者の関係を習っていない小学生の場合、たとい天動説的考え方をもっていても、非難に当たらないだろう。ドイツ語もロシヤ語も習っていない小学生をつかまえて「今の小学生はドイツ語とロシア語の区別も知らない」と断じ るのと同じことではないでしょうか (以上の文章は、元中学校の理科の教師をしていた寺嶋実氏から受けたものである)。
  さて、天動ではなく地動がおこる原因 (地動説の根拠)について、私なりに少しふれてみよう。地球上でリンゴが枝から地表に向って落ちるのも地球の引力によってである。小さなリンゴにも、もちろん、それ相応の引力(万有引力)をもっている。しかし、地球の引力にくらべると桁違いに小さいので、優越的立場にある地球の引力によってリンゴは地表に落ちるわけである。
この関係は、地球と太陽との間にもあてはまる。つまり、太陽は地球にくらべて圧倒的に大きいため、強い引力をもって、水星、金星、地球、土星などの惑星を支配したのである。但し、地球などが一方的に太陽に引っぱられないのは、地球の回転による遠心力と太陽からの向心力(引力)とが均衡するすることによって、「つかず離れずの地球の公転」がはじまったのである。
いま一つ、地動の根拠、つまり、地球が太陽の周囲を公転する結果おこる現象として、われわれの住んでいる地球に春夏秋冬の季節(寒暖)がやってくる点である。これは地球が二三・五度傾きながら太陽の周囲を公転すること(地動説)によっておこるのであって、太陽が地球を廻るという天動説では理解できないのである。
 専門外の筆者が行う頼りない(?)地動説の根拠の説明はこれで終わるとして、ここで筆者のいいたいのは「現象としての天動説」から、「本質としての地動説」が発見されたのは、近代天文学者が実証的観察と理論的分析によって、この理論を解明したという点である。つまり、「見かけの天動説」から「本質としての地動説」を解明したのは、研究者の観念的発想や空想によってではなく、実証的・科学的研究のつみあげによってであること、又、両者の間には現象と本質という弁証法的関係(対立と統一)も存在しているという点である。しかし、このような唯物弁証法の根本問題については別の機会にゆずりたい。
A樺済学における現象的考察と本質的考窯
  ここでは二つの例だけをとりあげることにする。第一に、農林業における現象的視点と本質的視点の相違である。現象的視点というのは、例えば水田で米がとれたり、畑で麦や野菜が生産されるのは、空気、水などと共に、土地のもつ自然力(地力)によってである。それ故、地力の大きい土地を借りた農民はその土地の所有者に対し、その自然力に対し、それ相応の借地料(地代)を支払うべきであるというのが常識的見解であり、このような現象面のみを見るのがブルジョア経済学的地代論であった。
 他方、マルクス経済学では、土地から生産された農産物が価値をもつのは、農民が播種や収穫作業などの労働によって農産物に対し付加価値を与えたからである。野山に放置された原始林や野草など自然の状態では空気と同じく価値をもたない(市場価値も存在しない)。したがって地代も発生しない。再言すれば、管理労働や収穫労働や市場への搬入労働などの労働力が加わることによって、農産物は価値や価格をもつ。したがって、そのようなより多くの価値をつくり出す土地を借りた農民はその土地所有者に地代を払うことを経済的に強制されるというのが、マル経的地代論であった。(差額地代や絶対地代などについての詳論は略す)。
 今ひとつの例として、JRの新幹線におけるスピードアップや車輌増結という合理化政策における現象的把握と本質的把握の違いをみよう。 東京と大阪間を三時間要していた運転時間を二時間へと短縮すれば、JR側にとって、労賃などの経費はかなり節約し、収益を増大させる。又、十二輌連結を十六輌連結にすれば、乗客数がふえ、収入が増大する。このような合理化による経済的効果の増大あるいは利潤の増大を、経営者側は、資本の追加投資の増大、つまり、「資本の生産性の増大効果」とみる。他方、労働者側は、JR側にもたらした経済効果や利潤の増大は労働者階級に対する搾取の強化によるとみる。つまり「労働生産性の上昇」という名のもとに運転手や車掌に神経の緊張度を強制した結果とみる。つまり「労働生産性の上昇」という名のもとに運転手や車掌に神経の緊張度を強制本質)の対立を弁証法的に統一することの必した結果とみる。
 このようにして、現象面だけをみるブルジいわれる現代社会は、資本主義の真実(利潤追求原理という本質)を解明しない、といってよい。
おわりに
  われわれは現象面を五感で正しく把握すると共に、その奥にひそむ本質を思考力によって正しく見抜くこと、そして、両者(現象と本質)の対立を弁証法的に統一することの必 要性を皆さんと共に考えたい。情報社会といわれる現代社会はややもすれば表面の上すべりの知識(現象や情報)に一喜一憂することが多いことに、老学生は危機を感じている。 今から五十年ほど前、和歌山大の教養課程の授業(「社会科学概論」)で、こんなこと話したのを思い出してしたためた。

 2003年資料

旧真田山陸軍墓地の保存を

横山 篤夫

 ここ暫く、旧真田山陸軍墓地の歴史の発掘に関わっている。ここは近代日本で最初の国立墓地であり、明治新政府が大阪を拠点に陸軍を創設しようとした過程で、軍中央機関の関連施設として設置された。
 以来130年の歳月を経て、旧日本陸軍の一面がパックされた状態で、旧景観を比較的良く保って今にその姿を伝えている。陸海軍合わせて約90力所あった旧軍の墓地のうち、現存最大の規模で旧状が保たれているので、ここから旧日本軍に関する様々な実態が解明できる貴重な歴史的遺跡と考える。
  しかし和泉砂岩で作られた墓碑は、長年風雪に晒されて破損が進み、全部で5,000基ある墓碑のうち緊急に保存措置を講じないと碑面の剥落が危惧される墓碑は、約400基にのぽる。
 1943年に大阪府仏教会が献納した「仮忠霊堂」(納骨堂)は、資材を極度に節約させられた木造モルタル造りで、ここ1、2年のうちに屋根の修理をしないと、雨漏りで屋根が落ちる危険も指摘されている。
 この保存を急務と考える研究者と市民が、2001年10月に「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」を結成した。今年1月26日午後には、その保存実現のために各界に呼びかけ、フィールドワークとシンポジウムを準備している。この成功をステップに、文化庁による文化財指定を獲得したいと願っている。
  既に『大阪民衆史研究』の誌面をお借りして、拙稿「旧真田山陸軍墓地の祭祀担当団体の成立について」を発表させて頂いた。保存実現のために会員の皆さんのご支援、ご協力をお願いしたい。
  なお、念のため付言すると、陸軍墓地は靖国神社・護国神社のように、国家神道により天皇のために戦死したと認定された死者の霊のみを「英霊」として祭るものとは異なったものである。徴兵制によって兵役従事中の、平時・戦時の死者の死体を埋葬したものが旧陸軍墓地である。
 戦時中、戦意昂揚に利用されたことで、本質を誤解してはなるまい。

映画『狂宴』(1954年作品)と地域住民

田中はるみ

 朝鮮戦争期、独立直後の日本で、映画人と地域住民が協力して制作、完成させた映画がある。『狂宴一古都とアメリカ兵』がそれである。
 独立直後に大阪市内から奈良市内に移転した国連軍施設R・Rセンタ一(Rest and Recuperation Center)と地域住民を主題にした作品である。
 私は、2年程前にR・Rセンターについてまとめたのだが、その時はまだシナリオを読んだだけで、映画そのものを観ていたわけではなかった。最近この作品がビデオ復刻されていたことがわかり、観ることができたので紹介させていただきたい。
  『きけわだつみの声』『ひろしま』の実川秀雄が監督し、望月優子、三島雅夫、東野英治郎、中原早苗、渡辺美佐子、松山英太郎など名優が出演している。まず印象に残ったのが映画の初めと終わりにながされたナレーション。米軍基地から飛び立つ戦闘機の映像をバックに「アメリカ帝国主義の侵略…ベトナムに向けてはじまった…」という内容で、日本が独立してもなお米軍の兵站基地としての役割を担っていることを強く訴えるものだった。
 片岡薫の書いたシナリオを読んで、『狂宴』のあらましを理解していると勝手に思いこんでいた私は、この作品に重くて深い政治的メッセージが隠されていたことをあらためて思い知った。その政治性ゆえ、当時の講評では「材料そのものが直接政治の批判につながるものであるため、表現の歯がゆさは否めず、演技や表情に言外のものを内包させようとしてもそれは劇映画のしかもこのスタイルでは無理である。扱いに類型的な感があるから、大きな吸引力は持ち得ないだろう」(林勝俊、『キネマ旬報日90号、1954・5・1』と酷評されていた。
 同時代的には、一般にあまり受け入れられなかったようだ。 ところが現代に生きる私たちにとっては、独立直後の日本の姿を知るために格好のドキュメンタリー・タッチの映画なのだ。占領が終っても接収は継続され、日米安保条約の下で米軍基地が固定化していく。そのなかで基地を抱える地域の人々は、さまざまな影響を受けた。
 基地でうるおう飲食業者、環境悪化の影響を直接受ける子どもと女性、基地反対運動に立ち上がった人びと。 脚本家の片岡は、全国に700余りある外国軍隊の基地をとりまく問題、これらをすべて『狂宴』のなかで描こうとした。だからこそキャラクターが類型化し、作品としての価値は半減してしまったのだろう。
  平城京大極殿の一角、静かな農村地帯に出現したR・Rセンターは、朝鮮戦争の帰休兵の宿泊施設であって、国連軍の施設だったが、実態は米兵のための施設だった。センターの周りには、帰休兵目当てのキャバレー街がうまれ、奈良市内はまたたく間に変貌していった。そのなかで奈良市民は「センター廃止期成同盟」を結成し、センターの廃止・移転運動を広めていく。『狂宴』制作にあたっても、市民が積極的にかかわった。
 制作者側は、もともと映画のタイトルを『奈良』にするつもりだったが、文化都市・奈良のイメージが悪くなるという市民の苦情を受けて、公募によって『狂宴』に変更した。撮影が始まる前の準備段階で、制作者側は「センター廃止期成同盟」にシナリオに対す意見を求め、数回のすり合わせの結果、最終的なシナリオが完成した。撮影に入っても奈良市民は協力している。ウワナベ池で米兵に暴行された房子が入水自殺するシーンがある。そのシーンには地元の農民組合の人たちがエキストラで参加した。 こうして地域住民と映画人が協力して出来上がった『狂宴』は、映画作品としてはあまり評価されないのかもしれないが、現在の私たちに平和運動のあり方について何らかの示唆をあたえてくれているのではないだろうか。

士官学校での或る体験

寺本 敏夫

 50年前の夏は、職業軍人養成の陸軍士官学校に在籍していました。その士官学校も、本土決戦に備えたのかどうか、八月には浅間山の麓に疎開していてそこで終戦を迎えました。
 士官学校生徒の私たちは、捕虜としてカリフォル二ヤの炭鉱につれていかれるというような噂も一部で流れていました。 疎開前でしたが、「歴史の大きな改変」を校庭に集まった全生徒の前で予言した高級将校がいました。戦局は敗戦が必至だと解っていたのでしょうか。敗戦後割腹自殺をしたという上級教官の話もききましたが、そういう人達とは違った理性的な勇気の持ち主がこの集団の中にもいたというのも、いまでは大きな教訓となっています。 短い期間であっても、士官学校でのあれこれのことは、私にとって忘れ難い体験でしたが中でも次のことは、生涯をつらぬくような一つの教訓にもなっているような気がします。
  当時の陸軍士官学校では、昔からの伝統を重んじたのでしょう、毛筆で日記を書かされていました。それは強制でもありましたが、一面では、わずかに許された自由な表現の時間でもありました。それまでの中学時代に夏目漱石全集などを読み漁っていた私などには特にそう感じられていました。しかし、ある日思っていたことを率直に書きとめたことから、思わぬ波紋が起こりました。 "将校生徒といえども一人の軍人だし、軍人もまた日本人の一員である"と書いたのはこれだけのことですが、感じていたのはこの士官学校で将校生徒々々と強調されおだてられることへの自制だったのでしょうか、願っていたのは、この集団以外の兵隊たち国民たちを蔑視するなということだったと思います。そういう「愛国少年」の一人だったのでしょう。
  ところがそれがどうして「彼ら」に知られることになったのでしょうか、この日記をたてにとられて「貴様は自由主義者だ」と、教官からではなく同僚同級生からきめつけられ、ある日「彼ら」の集団からよびだされ、とり囲まれて袋叩きにあったのです。 自由主義者というのは、当時のこの社会では反社会的思想の持ち主として最悪の決めつけ語であり、非国民と同義語に使われたものです。
 「彼ら」というのは「幼年学校」出身者のことですが、この「幼年学校」というのは他国にはおそらくない、日本帝国陸軍独特のもので、「彼ら」はそこで」13〜14才の少年時代から特別の職業軍人幹部養成教育を受けていたのです。ここから士官学校へはもちろん無試験で、はじめは将校の子弟を育てるためのものであったのかもしれませんが、この学校の出身者でないと、士官学校から陸軍大学を出ていても、中将どまりで大将にはなれないというのが、帝国陸軍の不文律であるといわれていましたから、彼らはそこで徹底したエリート意識を植え付けられていたのではないでしょうか。
  「彼ら」は、私たち中学校出身者よりも数力月遅れて士官学校に入ってきましたから、はじめは私たちの方からいろんな規則を教えてあげていたのですが、何の何の、しぱらくすると「彼ら」は自らを帝国陸軍の「貞幹」(幹部)中の貞幹だといい、われわれ中学校出身者を『属』と称して軽蔑しているのが分かってきました。彼らは教官についても差別をしていて、よく隊をこえて幼年学校出身者の教官のところに結集しているのを知り「彼ら」の派閥意識に味気無い思いをしたものです。
 いまでも忘れません。中学校出身者が万葉集を読んでいたといって「軟弱者」と批判し、廊下に張り出された新聞の変なところを見ていたと、難癖をつけて非難するという、そういうことを繰り返していました。 しかし「彼ら」が最大の集団的暴力を発揮したのは「兵科選び」の時でした。
 当時敗戦を続けていた日本軍の航空隊は飛べる飛行機もなかったのでしょう、殆どが爆弾を抱えて敵地敵艦につっこみ生きて帰ることは絶対にない、日本独特の無謀な戦術「特別攻撃隊」の要員だったのですが、「兵科選択」に際してその「航空隊」を選ばなかったものに、「命惜しみ」として集団リンチをかけたのが彼ら幼年学校出身者の一部集団だったのです。しかも彼らは、規則を破って深夜同級生に呼び出しをかけ、「命惜しみ」として集団暴力を加えながら、そのくせ陰では「俺は航空参謀だ」などといい、後方で指揮をとる「命惜しみ」をしようとしているのですから、偶然それを聞いた私は彼らの本音を知り「詐せない」と思いました。
  本音と立て前の違い、非科学的なものの見方を平然とまかり通していたエリート軍人の卵たちの認識方法、それはどこから来たのでしょうか。彼らにとって国家とは、天皇とそれをとりまく指導者集団、そして国民は彼らに奉仕する『馬』や『道具』と見ていたのではないのでしょうか。士官学校の校歌でも真っ先にでていたのは、『君』のみ楯と選はれて……"という歌詞で、神の国の天皇を守るための軍隊という日本軍の本質を端的に表していました。
 「兵科選ぴ」では私は、彼らに強制された「航空隊」は拒否して「工兵隊」を選びましたが、それはやはり生きて帰ることが許されない「特別攻撃隊」に繋がっていましたので、その点ではリンチを受けなかったのです。けれどもさきにも言ったように日記の件で呼び出され、「自由主義者」だとして白昼軍服が血だらけになるまでに集団で殴られたのでした。それもはじめに呼び出すときは、ただの一人で、「話がある」と呼ぴにきたのですから卑怯なやりかたなのです。派閥的な集団主義はしばしぱこうした卑怯なやりロをもたらすのだということも身をもって知ったわけです。
  野間宏の小説「真空地帯」では将校間の反目の犠牲になった主人公(木谷一等兵)をかばうインテリの下士官がいましたが、私の場合は、軍服が血で汚れているのを認知していても教官はそのことには一言もふれませんでした。その教官は幼年学校出身ではなく、知的な人で私も尊敬していた人でしたが、そういう人でさえそうだったのです。いや、暴力をふるった「彼ら」でも、いま会えばどうということはない「普通の人」なのですが、皇国日本のエリート集団の卵達の意識は、人を人とも思わせないようにしてしまっていたのでした。
 私はその頃早くこうした汚い雰囲気から脱く出して、死んでもよい、第一線に行って自由になりたいと思ったものでした。 自由を欲する気持ちというのはいかなる場合も消すことのできない人間の本性だといまは思うのですが、勇敢な日本軍人の献身的な戦闘性というもののなかには、愛国心や周りの人々への愛情とともに、或いはそれとは別に、こうした半ば絶望的な自由への願望があったかも知れません。 苛酷な戦いを生き抜いてきた人たちが、戦争を語りたくないというのも、凄惨な極限状況とともに、こうした説明のできない非合理主義の横行が背景にあったことが影響してはいないでしょうか。
 このようなせまい集団の派閥主義、官僚主義は、近代化の遅れた社会につきもののようで、今の日本でも払拭されていないように思えますが、軍隊という戦闘組織の中での派閥主義は暴力装置をもっているだけにいっそう恐ろしいのです。無謀な15年戦争を引き起こし、広大な戦線の中で非合理非科学的な戦略戦術で莫大な犠牲をもたらした、少なからぬ要因にもなったでしょう。 夏目漱石が明治の末期に、"日本は滅びるよ"と喝破したのは、こうした日本の指導者層の非合理主義的体質が続くのを見抜いていたからかも知れません。
 いずれにしても私にとっては、短い間の端的な体験が終生の教訓になったことは確かです。せまい派閥主義をどんな場合も嫌うようになりました。自らの体験や頭、討論などで確かめないで、外から教え込まれたものを教条的に受けつけないようになりました。
 戦後50年経ったいま、「経済大国」になった日本はもう「戦後」ではないという論もありますが、本当は、以前と同じではないにしても、似たような大きな矛盾を残したまま日本の歴史は進行してきたように思えてなりません。 戦前のように、暴力主義の横行というのは露骨には見られませんが、矛盾を合理的に解決する努力の弱さや「派閥主義」は残念ながらまだまだ続いているように思えます。矛盾を発見してその解決方法を討論しながら推進していく民主主義の原点がまだ社会的に定着していないからでしょうか。
 私の中学校時代の友人で・普通より早く、4年生から当時の高等学校に入った秀才で、学徒兵として軍隊経験をもったM君が、終戦の年によこした手紙の中でいっていた言葉を思い出します。"天皇制が変わらない限り日本はたいして変わらないのではないか"と。「象徴天皇制」にはなったけれども、「お上依存」は克服されたのでしょうか。国民主権は真に確立されているのでしょうか。日本の社会の、こうした困難な近代化の本みの中で、『学習』は本当に大事なものに思えます。
 近ごろのように幼い時期からの受験本位の勉強は真の知性を損なわせ、またどんな分野でも余り早い時期から専門的分野に入りこむことは、視野を狭くさせ、大衆の存在を忘れさせ、民主主義と人間の自由な発展を遅れさせるような気もします。
  "知をカとして"この言葉の重みを、近ごろつくづく噛みしめています。そして戦後 50の貴重な歴史的遺産、「平和と民主の日本国憲法」をどうしても守り発展させ、予や孫たちに伝えたいと切実に願っています。

沖縄「カメジロ一病院」の三月

島田 耕

 那覇市の南に豊見城市(昨秋まで人口5万の村)がある。那覇市との境界を東支那海へ注ぐ国場川、河口は今も米軍に押さえられている那覇軍港。(隣接する浦添市に代替の新軍港を建設中)
  この河口から数百米上流のあたりでもうひとつ南から合流する河川がある。その合流点の川岸にマングローブの群生(まだ丈はひくい)と干潮の時姿をみせる広大な中州がある。そのあたりは漫湖と呼ばれ、ラムサール条約で渡り鳥たちの楽園に指定された。(98年)
 その漫湖に面したウォーターフロントの那覇市街を眺望できるところで、沖縄医療生協病院が昼夜をわかたず活動している。(9階建、300床ほど16施設、組合員5万世帯) 沖縄県が27年間の米軍直轄支配下から脱して、「国民が主人公」の日本国民となった1972年、祖国復帰後の最初の運動のひとつとして、「生命と健康」を守る医療生協作りにとりくんだ。すでに70年から5人のスタッフで診療所がスタートしたが。その先頭に、国会議員の瀬長亀次郎がいて、国の制度融資の実現や本土の民診運動との交流などで大きな役割を果たしている。 だから、「カメジロー」と共に立ち上がった人々はこの病院を「カメジロ一病院」と呼んだのである。
 そして、今年が30年。豊見城村は瀬長さんの生まれた村。米占領下で弾圧に抗して人民党村政を二度実現する。復帰まで無医村であったので、村に病院をの切実な声と、当時の村長又吉一郎(人民党)の提案で村有地を提供してこの病院が実現した。
 米軍は基地内に立派な「軍病院」を持っているが、沖縄の「原住民」の医療には全く無関心であった。3月23日、30年記念の集いで500名をこえる人々が集い、これからの小泉医療改悪とのた、かいを、地域ぐるみでと決意を固めた。 医療生協の設立を呼ぴかけた時、「患者の立場に立って診てくれる病院なんて、ある訳はない」と頑固に主張した農民玉城正治さんが事実上の組合員第一号として、大きな力をふるったと、この日表彰され息子さんが出席した。
  復帰直後の沖縄では国保が黒字であった。病院はない、医者もいなかったのがその理由である。この病院の第一期工事で、村のはずれに病院を開設(139床)したのが1976年。病院にくるには、真玉橋から川沿いの道を行くしかなく、そこが行きどまりであった。 今は、北側に四車線のバイパス国道、西側にも車道がつき、橋も二本できて交通も便利な救急病院に指定され昼夜の別なく救急車のサイレンがなりひびく。当時を想像するのがむつかしいかわりようである。
 すでに、独立プロ映画運動の仲間、沖縄出身の友人が復帰と共にカメラをかかえて帰り記録映画にとりくんでいた。 77年、この「住民が主人公」の医療生協運動の前進に協力して映画をつくるから手伝え、と呼ばれたのが沖縄との最題して「わったあ病院」(私たちの一)。その完成まで6ケ月近く沖縄に住み、そこに「サンフランシスコ条約体制」下の日本の鋭い現実をみた。以来沖縄は私の中に根付いてしまった。
  そして、98年、「カメジロ一 沖縄の青春」で1年近くすごした。 30年の記念の年だと云うので、私の参加した25年前の作品と30年記念のドキュメント(私の友人たちが完成した) をビデオでもひろめると病院に案内で出ていた。この病院に家内が入院、手術 (整形外科)と云う思わぬ展開となり、2月、3月と専ら患者の家族として毎日三度の食事時に通い、洗濯をしてとどけている。3月初めの手術を経てやっと車いすになったが退院は5月になる。沖縄の友人たちと語る時間も持てず仕事部屋に借りているアパートと病院の往復の毎日である。
  3月20日、朝、病院玄関前でイラクでの米英などの戦争を止めるろと緊急、集会が院内放送で呼びかけられた。病院に緊張感が走った。 医生協労組、医生協理事会がこもごも発言し、全世界の世論でこの暴挙をやめさせようと抗議の声をあげた。100人はこえる人の輪であった。 あの第二次世界大戦で体験した沖縄地上戦のこと、沖縄の基地がイラク戦争に連動してすでに在沖海兵隊も出動していることもあり、沖縄の県民の怒りと不安は重く深い。
  九・一一のテロでがくっと落ち込んだ観光が昨年大きく上向いて、本土の倍ちかい8%台の失業県に「明るさ」がといわれていたのに、早速、団体のキャンセルが出始めたとのこと。 キヤンセルの観光客と引き替えに、本上の警察機動隊が続々とやってきて「テ口」の不安にそなえるのだと言う。2年前にも機動隊が動員されて守るのは米軍基地か、県民かと強いひはんにさらされたのに、やはり米軍は大切なようだ。 県民の「生命と健康」を守る新たなたたかいは、イラク国民の「生命を守れ」「戦争をやめよ」の世界の世論と重なって、今県民の中に輪をひろげている。
  私は25年前からの医療生協の組合員でもあり、今は患者の家族として、6人部屋の患者や家族との話しあいや病院スタッフと時間を見つけて抗議行動に参加している。歴史の逆行をゆるさない人間の英知の勝利を一歩一歩たしかめる日々である

荒山徹「作られた日韓友好のシンボル」(文芸春秋4月号)について

―新たな沙也可抹殺論は何を意味するか―

林 耕二

(1)荒山論文の要旨

 文芸春秋(2003年4月号)に作家荒山徹(「高麗秘帖」などの作品)による上記の文章が掲載された。その内容は、秀吉の朝鮮侵略(文禄慶長の役、韓国では壬辰・丁酉倭乱)に際して朝鮮側に味方して戦った日本武将沙也可(金忠善)の歴史上の実在について否定する文章である。
 冒頭に「16世紀末の日明戦争(文禄・慶長の役)の歴史を今、いかがわしい人物が大きな顔をして罷り通っている。その名は沙也可。」との感情的な書き出しで始め、朝鮮への侵略戦争を「日明戦争」と書き換え、沙也可については、@日本側の史料には登場せず、A「朝鮮の資料にも彼の名は一切、見いだせないのである」と断じ、B金忠善(沙也可が後に国王から功績を認められて名門の金海金氏の姓を受けたもの)については承政院日記への記載は認めるが官職や沙也可との関係は認めない、C沙也可の事績について子孫が記した「慕夏堂文集」については大正時代の朝鮮研究会と幣原坦らの論じた偽書説にもとづいて偽書と決めつけている。そして、「沙也可なんかいない。虚構である。いかがわしい手法で実在と認定された沙也可は、日韓友好の象徴どころか、日韓友好のいかがわしさの、シンボルでこそあろう。今こそ沙也可は改めて否定され、駆除されるべきである。」と結論づけている。
 さらに「かかる怪奇現象(歴史教科書に掲載され、友鹿村に修学旅行生が押し寄せる状況)は、沙也可を実在と認め日韓友好のシンボル視する一部史学者の責任である」として、最後に、日朝関係史、沙也可の研究と慕夏堂金忠善史跡保存基金などの後援の運動で知られた北島万次、貫井正之、上田正昭ら3名の名前を、その「一部史学者」として掲げている。

(2)「壬辰・丁酉倭乱」と「日明戦争」

  まず冒頭の「文禄慶長の役」(1592年・1597年)を「日明戦争」と言い換えるところに氏の立場の一端が現れているように見える。秀吉は明国征服の野望を抱いたことは確かであるが、朝鮮(李朝)に、対明戦争のための国内通過を要請して、それを拒否されたことで一方的に朝鮮半島を侵略し大規模な被害をもたらし、その中で朝鮮・明の連合軍と戦い、ついに破綻したことが、この戦争の実態である。
 日本でも最近は文禄慶長の役に併記して韓国での表記である壬辰・丁酉倭乱(じんしんていゆうわらん)と記述されるようになったほど、この戦争について朝鮮への残酷な侵略戦争であったことは日本の史学界では常識となっている。例として山川出版社の詳説日本史研究(1998年発行)には、「前後7年におよぶ日本軍の朝鮮侵略は、朝鮮では壬辰・丁酉倭乱と呼ばれ、朝鮮の人々を戦火に巻き込み、多くの被害を与えた。」と記されている。この戦争を「日明戦争」と言い換えることは、朝鮮への侵略戦争の実態を覆い隠すことにほかならない。

(3)「募夏堂文集」とは。

 沙也可、金忠善の事績についてくわしく書かれた民間史料が「慕夏堂文集」である。慕 夏堂とは沙也可、金忠善の号であり、夏=儒教思想の本家中国を指し、儒教文化とそれを伝える国を慕う意味と考えられる。
 文集は、沙也可・金忠善の六代目金漢祚が、1798年に初版を刊行したといわれる。その内容は、加藤清正の右先鋒将として四月十三日(1592年)に釜山に上陸した日本武将沙也可は、かねて朝鮮の儒教文化に憧れを抱いていたが、日本の不義の侵略に疑いを持ち、上陸五日後に朝鮮の節度使に「講和書」を送り、帰化を請願した。その後、多くの同じ降倭 (投降した日本兵)の部隊を率いて日本軍と戦い、また鉄砲技術を朝鮮側に伝達して戦局の転換に大きく貢献した。沙也可はその功績により、本貫金海金氏の姓金忠善と位階を下賜され、宮中の警備を行ったり、反乱軍を鎮圧することなどにも功績があった。後の女真族に対する北辺防衛の戦いの功績も含めて正憲大夫の称号を受け、朝鮮の貴族である両班となり、現在の友鹿村に領地を得て晩年を過ごしたことなどが記述されている。
 文集の刊行は、その後1842年に改刊木刻本が、1908年にさらに重刊され韓国の各地に流布したとされている。

(4)朝鮮研究会の 「募夏堂文集」偽言説と中村栄孝氏による沙也可実在証明

 荒山氏は、大正四年に朝鮮研究会が、この「慕夏堂文集」を偽書と断定した内容を主た る根拠として沙也可の実在を否定しているが、朝鮮研究会の「慕夏堂文集」偽書説は、その後 (1933年)、朝鮮総督府に勤める中村栄孝氏によって完全に否定され、沙也可、金忠善の実在が朝鮮側の史料によって証明された。なぜか荒山氏は、このことについてまったく触れておらず、中村氏に論破された朝鮮研究会の古ぼけた偽書説を有力な論拠としているのである。知らなかったのか、わざと書かないでおいたのか、どちらかである。どちらであっても、もはや荒山氏の文章はこの点で失格と言える。無知か自ら「いかがわしい」かのどちらかだからである。
 では、「慕夏堂文集」はどのような背景で偽書とされ、またどのようにそれはくつがえされたのか。1906年初代朝鮮統監となった伊藤博文は、日本武将でありながら朝鮮側に降った者の子孫が韓国内にいることを日本の朝鮮植民地支配の障害と考え、幣原坦 (1905年より学政顧問官)に調査を命じた (「沙也可の謎を解く」金在徳)。
 幣原は、沙也可・金忠善の子孫 (六代目金漢祚)が 1798年に沙也可・金忠善の年譜と記録を「慕夏堂文集」としてまとめ出版したものを偽書と結論づけた。また日韓併合(1915年)の間もない大正四年七月、総督府のもとで朝鮮研究会 (青柳綱太郎主宰)が慕夏堂文集を訳刊行、その巻頭に青柳以下、内藤虎次郎、浅見倫太郎、福田幹次郎、延凌、山道襄一、河合弘民七名の慕夏堂史論を掲載した。七名のうち五名は、慕夏堂文集を偽書と決めつけるものであった。それら偽書説の主な根拠は、@ 「信憑すべき史料に沙也可又は金忠善・慕夏堂などの名が見えないこと (中村)」、(「歴史、日記の中には一言も金忠善の言に及ぶものを見ず」河合弘民著 「偽書慕夏堂文集」)A 「当時の日本武将として有り得べからざることという観念を基礎として金忠善沙也可の事績を疑い、沙也可の存在そのものを否定している(中村)」、(「慕華論の見識に至っては当時の日本国民の思想と相容れざるのみならず、加藤清正の如き忠君愛国の念尤も旺盛にして士気の最も磅構せし肥後藩に非国民的文柔の武将の出現すべき謂われは無き也」青柳綱太郎著「慕夏堂論」)、B「慕夏堂文集」に見られる一部の潤飾、記述の不正確さなど、である。
 このように、沙也可、金忠善のような日本の朝鮮侵略に対して身内の側から公然と反旗をひるがえした者がいることは、日本の朝鮮侵略、植民地支配にとって都合の悪いことであった。それを書いた「慕夏堂文集」は、偽書として否定さるべきものであり、沙也可という人物は、存在しては都合の悪い者であったのである。日本の朝鮮侵略政策に対応して豊臣秀吉の文禄慶長の役が持ち上げられることと反対に、沙也可は400午後にも「日本の裏切り者」として抹殺されるべき存在であったのである。
 これらの偽書説に対して、1933年、朝鮮総督府の「朝鮮史」編纂を担当していた中村栄孝氏は、「慕夏堂金忠善に関する史料に就いて」を発表、「承政院日記」や「朝鮮王朝宣祖実録」(李朝実録)などの朝鮮側史料の中に、金忠善や沙也可の史料のあることを発見、「慕夏堂文集」に記述された沙也可・金忠善の事績が事実であることを証明し、それ以前の朝鮮研究会による偽書説をくつがえしたのである。
 中村が朝鮮史料中に発見した沙也可・金忠善の名と事績は以下のとおり。
(ア) 承政院日記崇禎元年(仁祖六年:1628年)四月二三日記事「其時降倭領将金忠善穂名者為人不特膿勇超人性亦恭謹」(その降倭領将金忠善と名乗る者は、人となりが膳勇人にすぐれるばかりか、性質もまた恭遜でつつましい)。承政院とは李朝の王の命令を伝達し、下部の報告と請願を王に上申する官庁で、王の秘書官室といえる官庁である。この記事は、金忠善が1627年の丁卯の役(1627年の清太宗による第1回朝鮮攻撃)に降倭の子孫らを率いて従軍し、その後、その率いる部隊が首都防衛にあたる御営庁本庁に配置されたこと、金忠善が人となり糖勇で亦恭謹であったことなどを記している。
(イ)金忠善自筆婚書(1630年) 友鹿洞、金相玉氏所蔵の金忠善の長男慶元の婚書であり、金忠善が長男慶元の婚姻のために金生員に送った結納の書である。明の暦年、崇禎三年(朝鮮では仁祖八年、1630年) 十二月十六日の日付と、金忠善の自筆署名があり、その称号は正憲大夫である。慕夏堂文集に、光海君五年(1613年)に北辺防衛の功を以て正憲大夫の位(正二品の下階)を得 て友鹿洞に退居したと記されており、このことと符合する史料である、中村は、「本書が官文書ではなくて、全くの私的文書、而もそれは後世に於いて格別利害を伴わない性質のものであるという点である。従って偽作の必要のないものに違いないから、最も確実な史料と認めて宜しかろう」と史料の信嚴性について特に強調している。
(ウ)宣祖実録(李朝実録)三〇年丁酉(1597年)十一月己酉(二十二日)條「僉知(せんち)沙也加」の記述。 「李朝実録」は、李朝史基本史料。1597年の慶長の役の際、全羅北道方面から慶尚南道方面へ侵入する日本事に対して戦った降倭らの戦功を記録した部分。この中に、降倭孫時老(まごじろう)、降倭延時老(えんじろう)、倭食知沙古汝武(きくえもん)、降倭同知要叱其(よしち)らと共に、「僉知沙也加(せんちさやか)」の名が記されている。荒山氏は、沙也可と沙也加の可と加の字の違いをもって同一人物とせず、また一部の研究者が加をそのまま可に書きかえていると非難している。(沙也加の知僉(せんち)の称号は、僉知中枢府事の略称で、正五品の位。中枢府とは宿衛、軍機を司る官庁のこと。) 中村氏は以上の朝鮮側の官・民の史料に見いだされる金忠善と沙也可(加)の記述をもって、かつて朝鮮研究会が、「歴史、日記の中には一言も金忠善の言に及ぶものを見ず(河合弘民)」として慕夏堂文集を偽書としたことに対して、文集は「大いに潤飾は加えられているにもせよ、その骨子に事実そのものも含まれていることは間違いない。」とした。そして「その潤飾とは、いうまでもなく朝鮮役に際しての功労を宣揚してその追賞を求め、家名を飾ろうとする一代の風潮―英祖から正祖頃へかけての時代の一から来たもの」としている。

(5)「沙也可は日本側史料に登場せず」について

 さて、荒山氏のいう「沙也可は日本側の史料には登場せず」については、そのとおり沙也可という名前に限れば日本側史料ではまだ発見されていない。しかし、他の多くの降倭(朝鮮側に投降した日本兵)とともに、その名前の発音を現地で適当に漢字表記したものと考えられることと、あるいは慕夏堂文集に記述されたように、沙を姓とし、也可を名とするということも考えられる。これらの点を探究調査することは今後の課題であるが、すでに沙也可(サヤカ)の発音と鉄砲の技術に熟練していたと言うことから紀州雑賀(サイカ)衆との関連も有力視されている。また、これまで沙という姓が日本ではないように言われていたが、佐賀県の東松浦郡相知町に沙(いさご)の姓があることが長谷川つとむ「友鹿洞への道」に報告されている。沙家は平安時代に奥州から九州に下り、先祖は小西行長に仕えて鉄砲隊を率いたという。 そして日本側史料の中に限りなく沙也可に近い人物が見いだされるのである。
 1597年の蔚山(ウルサン)で明・朝鮮軍側が清正らの日本勢を包囲した戦いの際、豊後国から出兵した大河内秀元の「朝鮮日記」にある記述、「古へ加藤主計頭に仕へし、岡本越後守と云者、(中略)、今度蔚山へ向かふには八千騎の大将にて来りける」であり、加藤清正に仕えた日本越後守という武将が八千の敵兵を率いてあらわれたという事実である。さらに、「吉川家譜Jに「敵陣ヨリ騎馬ノ兵二人城近ク来り、日本ノ言語ニテ我等ハモト岡本越後守卜称シ加藤家ノ家人、(中略)早ク和睦シテ城ヲ明渡サハ城兵悉ク帰スヘシト告ケレハ」とあり、前記と同じ人物、事件を記述している。(「豊臣秀吉の朝鮮侵略」北島万次)。
 また小西行長配下の字都宮国綱の軍功記「字都官高麗陣物語」には、「阿蘇宮越後守は加藤主計殿家来にて候へ共、曲事仕、高麗へ走り申候、只今は高麗の帝の御気に入、(中略)、日本人千計、高麗人千計、合弐千召連、今度越後守先手間近押寄申也。」とあり、やはり加藤配下の阿蘇官越後守という人物が、謀反_を起こして朝鮮側に寝返り、日本兵干名と朝鮮兵千名の計二千名を率いて日本側を攻撃してきたという内容である。
一方、慕夏堂文集には、蔚山(ウルサン)での攻防戦について以下のような記述がある。「丁酉(1597年)正月十五日、賊(日本軍)が再び西生浦に来て、(中略)、七月には蔚山の古鶴城に陣を取り、蔚山府城を毀して、(中略)、左兵使金應端が金太虚と沙也可に郡兵を率いて先鋒たらしめ、陣外の賊を殆ど殲滅して、内城に迫ろうとする時、(略)」。日本と朝鮮の双方の史料の中に、同時期、同じ場所にきわめて類似する人物が登場し、現在、この岡本越後守あるいは阿蘇宮越後守が同一人物であり、また沙也可・金忠善その人ではないかという可能性が高い。今後の重要な検証課題である。

(6)秀吉の朝鮮侵略に対する国内の抵抗の風潮、運動について

  沙也可の存在を考えるうえで、当時の国内および朝鮮現地での、この戦争に対する日本人の意識と行動についても今後よく検証する必要がある。
 15万もの大軍が、1年たたないうちに半減している事実は、戦死だけではなく、降倭と呼ばれた日本兵の投降者もずいぶんたくさんいたことを示している。戦争開始以前から、この出兵への批判、疑問は武士や一般の人々の間からも多く出ていた。秀吉の弟秀次は、「徒に外国と争端を発し人馬兵糧の費亡は暴挙なり、損失のみ多く得るところ無し」と語っている(武功夜話)。九州でおこった梅北一捺は朝鮮出兵への反乱であったと考えられる。島津家家臣梅北国兼は1592年平戸まで出陣していたが、朝鮮出兵に反対して、加藤清正の領地肥後国佐敷城を一時占領した。このとき、佐敷の町人や庄屋、百姓までもが、梅北に味方して城内に入ったという記録がある(「島津義弘の賭け」山本博文)。
さらに梅北は、周辺に蜂起をよびかけたが、梅北が逆に討ち取られ計画は失敗に終わった。ルイス・フロイスは、この事件について「梅北と称する薩摩国の一人の殿が、かねてより(世相を)不快に思っていたところ、(突如)絶望した者のように己の運命を試そうと決意し、若干の部下を従えて肥後国に侵入し、そして『薩摩国王』の命令で戦いがはじまり、(老)関白を打倒するため日本の全諸侯が謀反を起こしたと言いふらした」と書いている(山本著から)。
  この反乱の背後に島津家がいたかどうかはわからないが、当時出兵について多くの武士、庶民の反感があったことを背景としていることは確かである。そして、現地朝鮮では、7年間の戦争の間に多くの降倭(投降日本兵)が発生するのである。ある者は通訳となり、ある者は鉄砲や剣術の指南を行い、沙也可のように部隊を指揮する指導者ともなった。徳富蘇蜂は、「降倭とは日本人にして明軍もしくは朝鮮軍に降参したる輩のことである。彼らの数はいくばくあったのかは明白に知ることは得ぬがその甚だ少なくなかったことは分明だ」と書いている(近世日本国民史)。つまり、沙也可は決して歴史の偶然の出来事ではなく、まったく当時の歴史的背景から当然現れるべき人物であつたともいえるのである。

(7)荒山氏のフェアでないやりかたと、新たな沙也可抹殺論のねらい

 荒山氏は、朝鮮研究会グループの否定された偽書説を有力な論拠として沙也可、金忠善を否定しているが、なぜ中村栄孝氏の論証を記さなかったのか。金忠善が承政院日記中に登場することは実はこっそり書いているので知らなかったとは言わさない。ではなぜ中村氏の証明を除外したかと言えば、朝鮮研究会グループの偽書説が、「朝鮮側の史料にも沙也可と金忠善についての一言の記述もない」ということが最大の根拠だからである。中村説を正面から書けぱ、荒山氏の最大の論拠がなくなるからである。これは非常にフェアではないやり方ではないか。そして、氏は、同じようなやり方で司馬遼太郎氏まで沙也可否定論の応援に引っ張り出しているのである。
  荒山は「戦後、友鹿の村を訪れた司馬遼太郎は、幣原坦の見解を「妥当」と支持し、そこは作家らしく犯人金漢祚の動機にまで想像の筆を走らせている『街道を行く』韓のくに紀行」」と書いているが、司馬遼太郎が冥界から怒って出てくるような内容である。司馬遼太郎は、慕夏堂文集が金忠善・沙也可自身のものではないということを言っているだけである。
 文集が「沙也可六世の孫の金漢祚そのひとの文章ではないかというのが、幣原坦のごく自然な推論である。」と彼は書いたあとに、「しかしながら沙也可そのひとは実在したに相違ない。その伝承も、かれの子孫が住む友鹿洞のひとびとの間で語り継がれていたにちがいなく、たとえかれの手記が六世の孫の金漢祚の偽作になるとしても、記述のあらかたは伝承どおりであるに相違ない。」と書いているのである。故人の大作家の見解までねじまげて、かつての沙也可抹殺論を今亦復活させようとする荒山氏のやり万は、自ら「いかがわしい」作為となっているのである。
 現代の沙也可「駆除」論のねらいは何であろうか。明治時代、日本帝国主義による朝鮮侵略、植民地支配に国民をイデオロギー的に組織する道具として秀吉の朝鮮侵略が美化され、宣伝普及された。いままたアメリカの目下の同盟者という違いはあれ、再びアジアに軍国主義の先をむけようとしている日本の支配層にとって、400年前の侵略戦争を不義とする沙也可が教科書にまで登場していることは、目障りとなっているにちがいない。

映画「スパイ・ゾルゲ」と私

中島 昭一

 新聞を朝玄関まで取りに行く役目だった小学校4年生の私が、その日の新聞の一面の見出しがいつもと違う紙面で、その『国際諜報団検挙さる』の活字の大きさから、大事件と感じた私は、父親に口頭の説明を求め、新聞を読み終わる時間の長さに、いらいらしながら待ち続け、父親から事件の概要を説明してもらった強烈な記憶がある。
  1942年当時、スパイ・間諜などの言葉は知って居り、その意味も大かた理解出来ていた。当時愛国少年だった私は、ゾルゲの行為は、仕方がないと感じたが、日本人である、尾崎秀美、宮城与徳、には何故日本人としてそんな事をするのかと思った。そして大事な機密をその人たちに漏らしたとされる、当時の国の指導者の愚かしさに腹を立てた。
 この事件は大きい疑間として、私の心に残り成人してから、此の事件に関連する本を読みあさり、そしてその最後が先日封切られた、篠田正浩監督の映画『スパイ・ゾルゲ』だった。そして大きな疑問をもち続けた心に、一定の答えが出た。
 映画を見て、答えが出たと言うより、人の生き方が分かる年齢になったと、言うことだろう。人の生きる目的はいろいろあるが、自分の理想とする目的に向かって、懸命に生きる生き方に、誰しも美しさを感じる。しかし命を懸けた彼等の生き方で、彼等が目的とした理想が今実現しているかと考えると、実現したとは言えない現実がある。
  自分の目的に向かって100%努力するのは当たり前だが、一定の時間が経過すれば、自分の行為を冷静に検証する事、人間は間違いを犯すことを自覚すること、自分の欲望に理由をくっつけ正当化する事等、強さも弱さも、善も悪もすべてを引っくるめ懸命に生きているのが、人間であると理解した、71才が答えを出したのだ。
  最後に私がスパイに近い行為をしたことを告白する。私は昭和 17年 (1942年)当時港区に住んで居た。当時対ソ国境に備えて居た兵士を、大阪港から南方に送り出して居たのだろう、学校が急に休校し、兵士が学校に泊まる事があった。そんな一日学校に行ってみると、校門はしまって居たが校門の中に兵士が30名ほど休息して居り、その一人が私を呼び『僕、この葉書をポストに入れて』と頼まれた。休校になる時先生から注意として、スパイが居るから、見たり開いたりしたことを、人に話すなと注意された。そんなこともあり、兵士がなんとなく周囲を警戒して居た様子もあり、『先生に怒られる』とその申し出を断った。
 その事を家に帰って母に話すと、母は真剣な顔で数分考えた居たが、その理由は話さず『今度そんな事があったら出しておあげ』とだけ言った。そして一週間ぐらいしたとき、同じケースが起こり、私は母に言われた通り、兵士の見て居るところで、校門の前にあったポストに、軍事郵便と朱書きされた葉書を投函した。葉書は多分家族宛てだったろう。上官の検閲のない葉書は、家族のもとに届いただろうか。そしてあの兵士は生きて帰れたのだろうか。私はその行為がなんとなく良くないことと考えて居たので母にも話さず、黙って今まで生きて来た。
  映画が終わったとき周囲の80%が、私と同じ年配の人達だった。その人達とこの映画の関わりを、聞いて見たい気がしてならない。過日『民衆史研究』53号に、戦時下の百貨店―『国策』との関わり―「斎藤寛信氏の力作の巻末『国策展覧会』一覧で、両親や姉に連れられ見に行ったいくつかの展覧会で、黒い大きい目が描かれ、防諜を訴えるポスターがあったのを思いだした。

 2002年資料

沙也可について

林 耕二

 1592年(文禄元年)4月13日、加藤清正軍の先鋒隊として朝鮮半島に入った沙也可は、その直後に朝鮮側に寝返り、以後鉄砲・火薬の製法と戦術を朝鮮側に伝えると共に、自らは鉄砲部隊を率いて秀吉の侵略軍と戦った。
 沙也可は、トンネ、リャサン、キジャン、ウルサンと転戦し、1598年には明軍の指揮下に入り、慶尚道ミルヤンに陣を置いて洛東江沿岸にいた秀吉軍を攻撃した。沙也可の活動は戦局の転換にも大きな影響を与えたと考えられ、その功により名門金海金氏の姓「金忠善」を贈られた。また嘉善(カソンテプ=従二位)の位が与えられた。
  当時、沙也可の他にも多くの投降した日本側の兵士がいて、彼らは「降倭」と呼ばれた。「李朝実録」には、エンジロウ、マゴジロウ、サクエモン、ヨウシチ、ネンジ、サヤカなどの降倭の働きが記録されている。
 「承政院日記」(国王の命令を記録した文書)には、降倭領将金忠善(沙也可)は、胆勇にすぐれているだけでなく、性格も誠実である、として降倭を沙也可の指揮下に入れると役に立つとしている。
  沙也可は、30才で朝鮮の貴族の娘と結婚し、日本軍を撃退後、友鹿村に隠棲した。その後、女真族の侵入に対して、降倭部隊を率いて出動し、北方警備に10年間を過ごした。45オで子供をもち、以後5子が誕生、1624年のイカルの乱を鎮圧、1634年9月30日、友鹿村で72才の波乱の生涯を終えた。
 沙也可は、子孫に対して次の家訓を残したといわれる。「栄達を慕わず、耕を努め、学を努め、怠けず生きるように」
 今、韓国慶尚北道テグ市の三聖山の山麓に戸数67戸の友鹿里がある。ここに沙也可の子孫達が住んでいる。全国には500戸、4000人の子孫がいるといわれる。14代目の金在徳氏は、沙也可を日韓の草の根の架け橋とするために両国を往復し、毎年多くの日本人を友鹿里に迎えている。
  近年、沙也可の正体をめぐる有力な仮説として沈寿官氏などが唱えている紀州雑賀衆説がある。その根拠は、@サイカとサヤカの発音の類似。A鉄砲の製造から戦術まで熟達した人物として、当時の日本では雑賀衆などが考えられる。B秀吉に滅ぼされた雑賀衆は、恨みを持って全国各地に転出、各大名に仕えた者もいた、などである。
 特に「宇都宮高麗帰陣物語」に、「加藤清正の家臣だった阿蘇宮越後守が朝鮮軍へ走った」、「大河内秀元朝鮮日記」、「吉川家譜」には、「加藤清正の家臣で岡本越後守が朝鮮側へ走った」とあり、この越後守が同一人物で、沙也可ではないかと考えられている。 雑賀衆は、戦国時代の和歌山で、いずれの戦国大名にも属せず、農業、漁業、貿易などを営み、火縄銃を自在に操って、石山本願寺を支えて信長らと戦った特異な集団であった。
 沙也可の行動は、その独立的な気風とも一脈通じ、沙也可=雑賀衆説は、歴史の口マンを感じさせる仮説である。五月の風の中、沙也可の14代目金在徳氏と共に紀州を歩くことで、何かを感じて頂ければと思います。

仮病で迎えた私の8月15日

太田 芳男

 私が小学校に入学したのは、柳条湖事件の翌々年1933年だった。兄や姉の絵本には「『アイウエ王』は『ハヒフヘ砲』を撃って侵攻したが、『ワイウ工王』に敗れ『ラリルレ牢』に入れられた」とか、軍縮で大砲や軍艦が壊されているイラストも見受けられた。
 チャンバラごっこでは幕末と大阪の陣、学芸会では「桃太郎」や「舌切り雀」を演じた。五年生で蔵溝橋事件、出征兵士の見送り、「無言の凱旋(戦死者の遺骨送還)」の出迎えが日常行事になると、チャンバラが戦争ごっこに、学芸会も銃弾を受けた兵士が「恩賜の煙草」を吸い「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬ劇に変わった。
  1939年、中学校入学。父兄同伴の校則に違反して映画を見るスリルも味わえたが、街の監視員に通報され、学校で叱られたこともあった。三年生で真珠湾攻撃、「米英に勝てるか」と心配する少数派に属したが、「大勝利」の報道に酔ってしまった。配属将校の軍事教練は毎週、農家や軍の工場、橿原神宮造営などへの動員もしばしばだった。
  学徒出陣の翌年1944年は、志望者が徴兵猶予の残る理工系に殺到。私の選んだ工業専門学校も、年が明けると閉鎖され、海軍の飛行機エンジンを製造する三菱重工業桂工場に動員された。一キロ四方の工場敷地内では駆け足が強制され、樫の梶棒を持った憲兵が徘徊していた。月末は生産目標完遂のため残業や徹夜の連続だが、月初めは手待ち時間ばかり。従業員の大半は、商店主とその店員、無給の中学校と専門学校生徒、指導出来る熟練工は殆どいなかった。まさに軍隊用語の「員数合わせ」、試運転で故障が続出した。
  最初、昼休に焚き火を囲み「富士の白雪」を高唱してストームしていた私たちも、春になると職場を一人か二人に分けられ、学生気分も吹き飛んでしまった。大本営発表は「皇軍大勝利」だが「玉砕」の連続で、「滅私奉公」の決意もどこへやら。サボり方を覚えるようになった頃、結核のツベルクリン反応検査が行われた。医者はみな徴兵されていた時代である。最初に診てくれた女学生は、私の腕に現れた赤い斑点を1センチメートル未満と測定し、陰性と診断されたが、次回の女学生は1センチ以上と測定したので「陽性転換」となり、医務室に呼ばれた。
医学生らしい男に「身体がだるい」と言うと「結核感染」と診断された。お陰で毎日女学生のいる医務室に通い、一時間はサボることが出来たのだが、数日で日赤病院の診断を命じられた。仮病がばれるとビクビクしていたが、医学生か医者か分からぬ若い男は、聴診器を当てただけで「二週間にしましょうか」と言い、「休養を要す」の診断書を書いてくれた。二週間後も、「二週間の休養を要す」だった。
  京都の街には「必勝の信念を持て」「撃ちてし止まん」のスローガンがあふれ、古色蒼然たる寺にも「神州不滅」と書いた白ペンキ塗りの看板。それは国民が「勝ち目がない」と思い出した証拠だった。「米軍機がまくビラは読まずに届けよ」の指令は守られず、田舎へ疎開する荷車が目立つようになると、「浮き足たってどこへ行く」の貼紙が現れた。
 ズル休みしていたので、8月15日の「重大放送」は自宅で聞いた。よくは聞き取れなかったが、敗けたことは理解できた。「本土決戦一億総特攻」の詔勅を恐れていた私は、「もう死ぬことはない」と胸をなで下した。そして泉湧寺境内の天皇陵を参拝、「終戦は天皇陛下のお陰」と感謝し、深ぶかと頭を下げた。
  姉は「米軍に犯される」と心配したが、昔の「欧米崇拝」がよみがえって楽観論が支配し、関心は出征中の姉婿と実兄の帰還に移った。日が暮れて灯火管制の黒布をはずしたところ、警防団長に怒鳴り込まれたが、翌夜は町内みんなが明るい食卓を囲んでいた。動員された工場では、憲兵が水溜まりに投げ込まれたと聞いた。天皇制政府と支配階級は、「敗戦」を「終戦」と言い替えた。心が揺れ動いた18才の私にとっては、「敗戦」ではなかったが、「解放」とも実感できなかった。「終戦」と呼ぶのにふさわしい曖昧な日だったのである。

私の八・一五

樋上 祐一

 その当時、私は今の泉北二ュ一タウンに入る手前の村(旧泉北郡久世村)の小学校(当時は国民学校と称されていた)六年生であった。
 六年生になると、同じ小学校にいた高等科の上級生が近くの工場で働くかされるようになったので、校内で最上級生になった。その頃から大阪・堺の空襲が激しくなり、B29が和歌山県から和泉山脈を越えて公然と姿をあらわすようになった。
 そんな状況下で、学校へは集団で、一年生を先頭に軍隊のように隊列を組み、私達六年生がその責任者となって集団登校した。登校の時、白いシャツや帽子は米軍艦載機に襲われやすいと、草色に染めて着るように命じられた。校門に着くと、すぐそばにある天皇、皇后を奉る奉安殿にまず集団で最敬礼し、そこからはじめて各自の教室に入る毎日であった。
 授業時間の多くは、戦争に関係するものであった。手旗信号、モールス信号の訓練が多かった。 武道の時間には木刀をふりまわし、男子の体操は棒倒し・騎馬戦が多かった。遠足がなくなり、行軍に変って、があり、教えられた軍歌だけを歌いながら遠方まで軍隊式に徒歩をした。
 「軍人勅諭」も教えられ、体罰は日常茶飯事となっていた。 六年生の六月頃、各自が竹槍を作ってもってくるよう命じられた。私達は近くの薮に行って強そうな竹を切ってきて、鉈や鎌を使って竹槍を作った。上陸してくる敵アメリカ兵を突き刺すには、竹槍の先を強くするため火であぶり、よく研いでおけといわれた。当時、校庭には藁人形がいくつか作られ、塹壕も掘られてあった。竹槍を使って藁人形を敵とし、幾度か突撃訓練をした。
 校内には、少年飛行兵、戦車兵の学校案内のポスターが貼られて、小学生の戦意をあおっていた。私は戦車兵になりたいと思った。軍馬のための草刈りがあり、私達上級生は青草を刈り、それを干して学校にもって行かねばならなかった。干草一貫目でも小学生にとっては大変だったので忘れることがない。それでも私達は「米英撃滅」「天皇陛下のため、お国のため」と教えられ、子供ながら一生懸命にやったものである。
 敗戦の日が近づくにつれて、空襲警報が続発し、急いで集団下校することが多くなった。米軍艦載機の搭乗員が見えるくらいに、米機は自由に地上低く飛ぶようになって来た。一度は急降下され、急いで民家に飛びこんだ。そうして、八月十五日を迎えることになった。 八月十五日朝、重大放送があると親からきゝ、村のタバコ屋さんに集まってラジオ放送 を聞いた。どうやら負けたらしいと大人は云う。 その翌日、全校生徒が招集されて、校長先生から敗戦を伝えられた。先生は「日本は科学で米国に負けた。これから科学を勉強して米国に勝つように」と話されたことを覚えている。私達はその話をきいても大いに奮発することもなく、科学の勉強がこれから大切になるそうだと思った程度である。
 昨日まで「鬼畜米英撃滅」と毎日教えられていた割に、そんな考えはいつの間にか消えていた。草刈りに行かずにすみ、軍事教練みたいな授業はなくなり、先生から殴られることが少なくなったのがうれしかった。燈火管制が解かれ、電燈の大きなカバーが取り去られ、部屋が明るくなったのが、何よりうれしかった。占領軍が来たら恐ろしいと思っているうちに、我が村にも占領軍が駐屯して来て、その秋の小学校の運動会で校長先生たちと同席しているのを見て、こわさもなくなった。
 小学六年生の私の八・一五は以上のようなものであった。そして、その歴史的意義を理解するのには、なお相当の時間がかかった。

歴史辞典と女性史

石月 静恵

 女性史が歴史学の中で、確固とした位置を占めつつあることは周知のことである。自治体史や通史でも種々の工夫を凝らして、女性史が盛り込まれてきている。 歴史関係のさまざまな書籍の中で、比較的簡単にある事物や事項についての位置付けを知るには、歴史辞典を見れば良い。女性史がどの程度、市民権を得ているかは、歴史辞典の叙述に現れているのである。
 辞典の執筆は、字数の制約の中で、最新の成果を盛り込もうと、少ない経験ながらいつも苦労させられる。最近では『岩波女性学事典』(岩波書店、2002午6月20日)で、「米騒動」、「処女会」、「全関西婦人連合会」、「東京連合婦人会」の項目を担当したが、それぞれ悩みがあった。 「米騒動」の項目では、1918年の米騒動の始期について、最近の研究を踏まえ、「7月上旬に富山県東水橋村で始まった」と書いたが、魚津町から始まったのではないということを説明した文章と、関係する井本三夫氏の研究論文の一部を添付して送った。
 「全関西婦人連合会」の終期については、以前私は、1941年の大会までとしていたのを、1945年と訂正できたので執筆できて良かったと思った。
 「東京連合婦人会」については、参加団体が時期によってかわり、叙述に苦労した。 「女性史」についての墓礎的知識を得たい場合は、複数巻の歴史事典が役立つ。「女性史」という項目が、歴史辞典でとりあげられているかどうかは、女性史の位置を知るうえでも興味深い。
 2000年に刊行された小学館の『日本歴史事典』は全3巻 (別に索引等1巻)であるが、「女性史」に、はぽ2ぺ一ジがさかれ、各時代の女性史研究の成果を知ることができる。さらに、そのあとに 「女性史を読む」として女性史の文献解説が5ぺ一ジも付けられている。同書の「編纂にあたって」には「近年大きく進展のみられる女性史、歴史考古学、近・現代史などの分野についても最新の知見を取り入れるようにしています」と書かれ、編集委員に「女性史」という分野も掲げられている。
 「女性史」という項目を設けたのは、1993年刊の『日本史大事典』(平凡社、全7巻)あたりからである。同書は「女性史」にほぽ2ぺ一ジを充てており、女性史研究の歴史が理解できる。
 1979年から1993年にかけて刊行された『国史大辞典』(吉川弘文館)は、全14巻 (索引の別巻あり)という大部の辞典であるが、「女性史」は項目として存在せず、「女性」ということぱがつくのは、1女性同盟」の項目だけである。ただし、「婦人運動」、「婦人参政権運動」が掲裁されている。
 一冊本の歴史辞典をみると、1999年刊の『岩波日本史辞典』には 「女性史」という項 目があり、「女性運動」、「女性学」、「女性週刊誌」も項目として取り上げられている。同書の「序」には「アジア地域史や社会史的視角からの都市史・民衆史・生活文化史・女性史などの新分野が大きく開拓された」と述べられ、女性史が強く意識されていることがわかる。
 1997年刊の『日本史広辞典』(山川出版社)には、「女性解放運動」、「婦人参政権運動」が記されている。
 1996年刊の『新版日本史辞典』(角川書店)は「編集のことば」として「国家観の見直し、地域史への注目、女性・被差別民・少数民族・非農業民などこれまで傍流ないし周縁におかれてきた人びとの復権」と書かれている。同書には「女性史」という項目はないが、1966年刊『角川日本史辞典』にはなかった「女性解放運動」という項目が掲載され、執筆者にも女性史、女性学関係の研究者を多く加えている。
 1990年刊『新編日本史辞典』(京大日本史辞典編纂会編、東京創元社)には、「女工哀史」と「女帝」はあるが、「女性史」も「女子教育」という項目もない。
 また、2001年刊『日本史事典』(平凡社)も「女性」が付く項目はなく、「婦人参政権運動」はのっている。 歴史辞典の周辺に属する辞典頬にも触れておこう。
 1990年代になると女性史はかなり意識されるようになっている。1991年刊『大衆文化事典』(弘文堂)には「女性史」はないが、「女性学」、「女性雑誌」、「女性差別」、「婦人家庭欄」といった項目がある。
 同年刊の『日本史総合辞典』(東京書籍)は「女性解放運動」という見出しで、概説半ぺ一ジと以下の用語解説となっている。良妻賢母、民権と女権、家制度、売買春、女教祖、女性労働、『青堵』、平塚らいてう、産児調節、山川菊栄、婦選運動、市川房枝、農村婦人間題、高群逸枝、大日本婦人会、主婦連、女人禁制、ウーマン・リプ、国連婦人の十年、性役割、女性学。
 1993年刊『日本史研究事典』(『日本の歴史』別巻、集英社)には、伊藤康子「声なき女性の声を探ろう一女性史研究へのアプローチ」が掲載されている。また、「序/顕微と望遠の眼」では「歴史研究の根底となる民衆の歴史にしても、研究の拠点というべき地方史・部落史・女性史という視点が重要なばかりでなく、世界の人権の歴史の一環として研究する必要があろう」と述べている。
 1999年刊『日本仏教史辞典』(吉川弘文館)には「女性」という見出しはないが、「女人往生伝」、「女人禁制」、「女人成仏」が解説されている。
 2001年刊『事典しらべる江戸時代』(柏書房)には「女性史・ジェンダー史の視点から一女性の名請人・財産権」に10ぺ一ジが充てられている。以上のように歴史辞典類を散見しただけでも「女牲史」が確立され、確固とした位置を占めるようになってきた過程が理解できよう。
 これら辞典の叙述の中で、気になっていたことがあった。それは、井上清の『日本女性史』の発行年である。『日本史大辞典』(平凡社)の「女性史」には、「戦後、憲法によって男女平等が認められると、その意味を歴史的に確かめるべく女性史の著作がたくさん発表される。なかでも大きな影響力をもったのは、井上清の「日本女性史」(1948)と、高群逸枝の諸著書である。」と書かれている。
 『岩波日本史辞典』の「女性史」にも井上清「日本女性史」(48)となっている。また、通史やその他女性史関係の書物にも1948年と記載されていることが多い。
 女性史総合研究会編『日本女性史研究文献目録』(東京大学出版会、1983年)にも「日本女性史井上清(三一書房"48、改訂版'78)となっている。 私が古書店で購入した『日本女性史』は、「1948年12月25日印刷1949年1月5日発行1951年9月初日十版発行」となっており、初版本を閲覧したわけではないが、1949年発行とすべきであろうと思っていた。それが、『日本歴史大辞典山(小学館)では「女性史を読む」という項目で、「女性史ことはじめ」の筆頭に『日本女性史』が掲載され、「井上清 三一書房 1949年」となっていたので1949年と確定して良いと意を強くした次第である。しかし、同書の「女性史」という用語解説には参考文献として「井上清『日本女性史』(1956・三一書)」と記載されており、なぜ1956年としたのかはよくわからない。
 では、多くの書物で1948年となったのはなぜであろうか。それは、筆者である井上清が「改版にさいして」で「1948年のくれに初版を出したこの本は、幸にも、多くの読者からよろこぱれ、何回も版をかさねた。」と書いたからであろう。井上清が述べたように、『日本女性史』は確かにロングセラーとなった。最初に出版された本は、紙質も悪く、ペ一ジ数の割に分厚い。前述の「改版にさいして」は、1953年7月と著者が書いており、紙質も向上し、カバー、さらに「毎日出版文化賞受賞」という帯がつけられている。私が所蔵しているのは中表紙に「日本女牲史(改訂版)」と印刷され、「1955年4月15日 7版発行」とだけ奥付に書かれ、改訂版の初版が何年に出たのかは記載されていない。最初の本も、改訂版もB6判であった。その後「三一新書」として上下2巻で出された。さらに、「三一新書」のまま「全一冊決定版」ということで『新版日本女性史』が1967年10月10日に第1版が発行された。
 この「全1冊決定版」は、1967年の第1版と1986年の第1版20刷が手元にあり、その内容は変わっていない。先に掲げた『日本女性史研究文献目録』の年は、初版も改訂版も違っていることになる。「井上女性史」とまで略して呼ばれ、多くの人に読まれたこの本が、まちまちに叙述されるのか。ロングセラーなのでそれぞれの個人が所蔵しているものも種々な年の発行があり、 このような現象となったといえるのであろうか。
 些細なことではあるが、辞典類ではなるべく正確に記載していただけたらと願う。

 2001年資料

「沙也可の謎を解く」について

金 在徳

 これは日本の研究者のために今年9月に私が日本語で書いた先祖沙也可についての概説書です。
私はその14代の子孫で、今年81才の老人であります。私が死ぬ前に少しでも多くの日本人に沙也可を正しく知ってもらいたいのがこの本を書いた理由です。 末だ多くの日本の方は沙也可をご存知ないと思うので、先ず沙也可は何者かを書きます。
豊臣秀吉の壬辰倭乱(日本では文禄・慶長の役と呼ぶ)の時釜山上陸の第一軍の副将を勤めた22歳の青年武将が、戦わずに三千人の部下をつれて朝鮮側に投降したのです。一五九二年四月のことであります。理由として「われ中夏の文化を慕うこと久し」といったと伝えられる。この戦争は七年かかったが、秀吉の死とともに日本側の敗北に終わった。 日本側の敗因の一つは海上で李舜臣(イスンシン)の率いる朝鮮水軍に制海権を握られたことと、もう一つはこの沙也可の活躍による陸戦での巻き返しを受げたからであった。
当時朝鮮には鳥銃(日本では種子島銃と呼ぶ)がなかったのですが、沙也可軍団がその製造の技術を朝鮮軍に移植してくれたのです。乱が収まってから王がその功を誉めて金忠善の名を授けられ、大邸(テグ)市郊外の友鹿洞という山村を与えられたので、部下千人とともにその村に穏棲した。千六百四十二年にこの地で72歳で亡くなりました。
今その子孫が四千人おり、その多くがその地で現在生きています。 さて日本の植民地時代に発表された皇国史観に立つ「慕夏堂史論」では、沙也可の存在を否定し、「日本に反逆した国賊」或いは「売国奴」と非難され、子孫の金一族が伝える「族譜」や金忠善の事跡を記録した「慕夏堂文集」を偽書呼ばわりされ、子孫として辛い長い年月を過ごして来ました。
ところが千九百三十三年に、当時、朝鮮総督府の「朝鮮史」の編纂に携わっていた中村栄孝氏が、その作業の過程で、「承政院日記Tや 「朝鮮王朝宣祖実録」によって金忠善をはじめとする多くの降倭の存在を証明しました。それを戦後発掘したのが作家司馬遼太郎先生の「街道を行く」であり、学者では1992年以降の北島万次先生の諸著作であります。
 一九九二年 (平成四)に大阪国際平和センターで「豊臣秀吉の朝鮮侵略四百周年を検証する」と題するシンポジュームが開かれました。そこに沈寿官さんと同じくバネリストとして私も出席しましたが、自分の開祖である金忠善を裏切り者と見る日本人にどのように扱われるか空港につくまで心配でした。しかしこのシンポジュームを期に沙也可の評価は定着したようでした。「反逆の国賊」から一転して「親善の象徴」となりました。
その年にNHKがテレビ映像で紹介していただいたことからも多くの日本人に沙也可を知っていただき幸いでした。 最近は日韓の歴史に興味をもたれる教職員の方とか歴史研究者がかなりいらっしやるようになりました。こうした中で「四百年も昔にしっかりした意見をもち、それを実行した日本人がいたことを誇りに思う」「時代の大勢に抗して、自分の信念を貫いた人物で、21世紀に期待される理想の日本人と言うべき」と言う声を掛けていただくと今までの苦労が実った気持ちになり幸せです。
このような状況の中で、1998年3月に両国が事前に打ち合わせたように、韓国では中学校の道徳教科書に、日本では高等学校の歴史教科書に同時に、沙也可が登場しました。 これは私が考えるに、画期的なことであり、人事ではなく天命と存じます。次の世代への切々とした啓示であり、日韓友好と親善への顧望を反映しています。
  私が夢見るのは両国の先生方や学生たちが沙也可永眠の地、友鹿洞 (ウロクドン)を訪ねていただき、過去の歴史を想起し、これからの日韓関係や世界の平和を自ら問い直していただくことです。私は歳はとりましたが、まだ元気です。いらっしやれぱいつでもご案内します。沙也可についての解説資料を以前はハングルで作成していましたが、日本の方らのご希望が強いので日本語で作成したのが、冒頭で述べた「沙也可の謎を解く」です。韓国で出版したのであまり売れません。多くの日本の皆さんに是非よんでいただきたいと今回の訪日を機に親しい友人たちに売ってほしいとお願いしているのです。

恩田和子史料との出会い

―大阪朝日新聞女性記者の遺稿―

石月 静恵

 20世紀もあと数日という2000年12月26日、「ヤッター」と娘の口調をまねて、ガッツポーズをしたくなるような出会いがあった。
1974年の夏休み、私は卒業論文 「全関西婦人連合会の成立と展開」を書くために、関西大学指導教授の小山仁示先生の名刺を手に朝日新聞大阪本社の社史編修室を訪れた。そして、資料室で史料を閲覧させてもらうことが出来、機関誌『婦人』を何日もかかって閲覧した。
何日目かに、社史編修室の人が 「恩田和子の原稿が6000枚ほどあるけれど、残念ながら今はみせられない」と言われた。無事、卒論を提出したが、その言葉はずっと心に残っており、機会があれば是非みたいと知人には何度か話していた。
2000年の夏休みに大阪女性史研究会で合宿研究会をしたときにも、そのことを話題にしたところ、共に学ぶ宮本英子さんが「何とか頼めるかも知れない」と言われた。そして、朝日新聞社編集委員の政井孝道氏を介して、社史編修室の柳博雄氏のほからいで社史編修室を訪ねることになった。年末に、宮本英子さん、植木佳子さんとともに伺い、柳氏にお開きしたところ恩田和子の原稿についてはご存じ無いとのことであった。そこで、社史編修室の中をいろいろみせていただいたところ、「婦人問題」とかかれたダンボールを3箱発見した。許可を得て、中を確認したところ、「社史編修室」のネーム入り原稿用紙200字詰めで、通し番号がふってあり、6871枚にのぽる原稿が残されていたのである。
興奮しながらも、内容をざっと検討したところ、これが私が学生時代に聞いていた恩田和子の原稿に違いないと確信した。
  21世紀となった今年になってからも、何度か社史編修室に伺って 「婦人問題」の原稿を検討している。大谷渡著『北村兼子』(東方出版)によって、このところ、大阪朝日新聞の女性記者として北村兼子が知られるようになったが、恩田和子は、北村以前から大阪朝日の記者であり、また、戦後定年退職するまで勤め、退職後も社史編修室に嘱託として勤めた。ある意味では、生涯女性記者であった。
そして、恩田は、戦前の女性運動団体であった全関西婦人連合会の創設から関わり、理事として運動の車引者でもあった。その恩田が残した原稿である、何が書かれているのか、ともかく期待は高まらざるを得ない。
そこで、これまでにわかった「恩田和子史料」の内容を簡単に紹介したい。まず、この原稿は朝日新聞が 「婦人問題」を明治後期から昭和23午までどのように扱ってきたかをまとめようとしたものであり、まさに、恩田和子が社史編修室の仕事として書き移したものである。恩田にとっては、やはり全関西婦人連合会が「婦人問題」にとっての画期としてとらえられており、さらに、明治37年の大阪朝日新聞の「婦人の活動」という社説から「婦人問題」が位置付けられたとしている。何に焦点をあてて検討するかにより、種々の読み方が出来るであろうが、私は、やはり、恩田が全関西婦人連合会について丁寧に記事を拾っていることに注目したい。
 これまで、私は『戦間期の女性運動』(東方出版)で、全関西婦人連合会の終期について、1942年に大日本婦人会が結成され、地域により統合されたり解散したりしたと書いた。その後出版された藤目ゆき『性の歴史学』(不二出版)の全関西婦人連合会に関する記述でも、それ以後については書かれていない。また、鈴木裕子『女性運動史料集成』(不二出版)の全関西婦人連合会に関する史料も1942年以後は、掲載されていない。
ところが、恩田和子史料には、1944年、1945年のところに「全関西婦人連合会」に関する記事が記載されており、全関西婦人連合会の名前で何らかの活動が行われていたことがわかったのである。つまり、大日本婦人会の結成によって、全関西婦人連合会は解消したわけではないということである。では、大日本婦人会との関係をどう考え、評価すればよいのかということは、今後の課題である。
  ともかく、貴重な史料と出会えた世紀末であり、期待に胸膨らむ21世紀である。大阪女性史研究会としても、この恩田和子史料を生かしたいと検討中である。恩田和子が亡くなったのは1973年。私が、もう少し早く、全関西婦人連合会という題材に出会っていれば、恩田和子存命中に聞き取りができたかもしれないという悔いは未だに残る。
しかし、卒論の資料収集から4半世紀、やっと恩田和子史料に出会えたのである。この機会を大事にしながら、大阪女性史および女性運動史研究を深めることが出来れば幸いである。

宮本百合子『播州平野』

山口 哲臣

 ことし2001年は宮本百合子の没後50周年 (1月21日)を迎え、各地で記念集会や催しが開かれた。3月3日には『播州平野』ゆかりの兵庫でも、作家の吉開那津子を迎えて後援会が開催されている。
  筆者が住む神戸市西区は明石市を北上した位置にある。近くの神戸市営地下鉄の終着駅西神中央のバスターミナルから、明石行きのバスに乗り20分も南下すると、東西に走りぬける国道2号線と交差する。この国道が『播州平野』に出てくる舞台の一つ。小説の主人公ひろ子が、馬車の荷台にのせてもらい、とことこと東に向かう場面で、荷馬車とともに進む道路を、土地の人々は"二国"と呼んでいる。ひろ子が疲れた両足をぷら下げて馬車にゆられていった辺りが、明石の酉よりの方の大久保地域であろうといわれている。
 現在の大久保一帯はJR大久保駅を中心に、近代化の波がおしよせ、新興住宅のマンションや工業団地の工場・オフイスが立ち並ぴ、見ちがえるほどの都市に変貌している。『播州平野』で主人公のひろ子に、作者が語らせているこの辺りの田園風景は、もはやみじんも残されてはいない。
《微風に杭かれる秋陽は、晩秋の山々と、畑、小さい町とそこの樹木を金色にとかし、荷馬車は、かたり、ことりと一筋の国道の上を、目的地に向って、動いてゆく》(最終の数行より) 現在の"二国"は全国有数の交通量に達し、24時間轟音と莫大な排気ガスをまき散らし、往年の面影はやはりどこにもない。
  この明石の大久保在には戦中戦後にかけて、神戸の帝国酸素KKに翻訳係としてつとめていた大岡昇平も住んでいた土地柄である。彼はフイリピン戦線から敗戦の年の 11月に帰還。家族が待つ大久保にもどったのだが、すぐさま大岡はこの大入保の地で、戦後の第一作である『俘虜記』を書きはじめている。そして大岡昇平の作家としての名声を高めた『野火』などの構想を練り上げたのも、この地でのことであった。
百合子と大岡の接点はなかったのだが、同じ明石の田園地域の一角で、同じ敗戦直後に戦後文学の貴重な動きが展開されていったのも一つの歴史のひとこまである。
 さて、『播州平野』は宮本百合子が戦後真っ先に書いた小説で、戦後の日本文学の幕開けを告げる作品として、当時の多くの人々を鼓舞し、感動を与えた話題作である。同時に敗戦直後の日木の荒廃と混乱のさなかに、平和と民主的な社会を求めつつ、戦前のプロレタリア文学を計使用する民主主義文学の先鞭を担う、先駆的な作品でもあったのである。 全編四百字話めの原稿用紙で三百六十枚。一から十七の章立てで編み上げられている『播州平野』という小説の、全容を象徴してイメージを凝縮しているのが播州平野である。この播州平野そのものが、ぬきさしならぬ場面設定として、作品のなかで顔をのぞかせ、はっきり刻みこまれているのは、この小説の終楽章といえる十七の章のフィナーレのくだりに表出されているだけである。
  作者がこのフィナーレの一節にしか出てこない "播州平野"という熟語を抽出し、それを戦後第一作目の題名にした作者の思いはどこにあったのだろうか、それは播州平野という語感のひぴきにも惹かれたということもあるだろう。と同時に秋陽に映える播州路を、東へ向かい一歩一歩ふみしめる跫音、かたりことりと進む荷馬車の轍の音などが、この作品の主題を紡ぎ、主人公の一歩一歩がようやく獲得した戦争終結と平和への一歩一歩であったのではなかろうか。

郡上一揆について

向江 強

 いま全国各地で、評判の映画、「郡上一揆」が上映されている。 試写会での凄い迫力と感動を忘れることができない。地元郡上八幡市の人達をはじめ全国の支援の力で完成した映画であるだけにぜひ成功させたい。 原作は、こはやしひろしの戯曲「郡上の立百姓」であり、およそ史実に忠実である。
この郡上一揆の特徴のいくつかについて述べたい。
  第一に、郡上一揆が郡上藩3万9千石という極小藩の一揆であり、要求も藩の年貢増徴政策に反対するというごく普通の一揆であったにもかわらず、幕政史上希有の大事件といわれる、幕閣首脳部の多数、藩主の改易など支配層に大量の処罰者を出したと言う点で、政治的性格が色濃いものであった。
郡上藩の年貢増徴政策は、従来の定免法を改め、検見取法とし、これまでの免を高免で請けるか、もしくは一俵につき5升の増米を認めるかなどという理不尽なものであり、黒崎佐一右衛門という当時地方巧者といわれた者を勘定奉行の推挙で新規に召し抱え農民の反対を押し切って強行しようとしたのである。したがってこの増徴策は、はじめから幕府権力が介入する形で計画された。農民の強訴による圧力で藩は一旦要求をうけいれたが藩主金森頼錦は、縁戚関係にある老中本多正珍、寺社奉行本多忠央らと内談して、翌年美濃郡代青木安清を通じて庄屋・組頭たちを笠松陣屋に呼び出し、検見取の受諾と、墨付きを返還させようとした。
 これにあくまで反対した立村の民達は長期に亘るたたかいを勝ち抜いた。江戸の講釈師馬場文耕が書本に綴り講談したことで、獄門となったのは有名である。
  第二に、一揆の闘争形態などをみると、農民の政治的成長が著しい事である。まずこの一揆は、農民達にとって初めての経験ではなかった。延宝五年(1677)藩の年貢米一石につき三升の口米を四升に引き上げるという増徴策に反対して一揆し、家中騒動にも関与して、政治的な性格の強い闘争をたたかい、宝暦元年(1751)には、年貢軽減を要求して江戸藩邸に出訴している。
郡上郡の農民は、幾度ものたたかいで、経験をつみ、闘争方法にも習熟し政治的に大きく成長している事である。したがって集会・強訴・騒動・越訴・駕籠訴・箱訴などあらゆる形態の闘争方法を駆使して、有効な戦術を行使している。
藩と幕府の結託による領主側の攻撃は、必然的にこれに対抗する方法を生み出していった。201ケ村のうち、たたかう立村は19ケ村、寝村は102ケ村となるなど、困難な情勢にもめげず、不屈の闘争を継続しえたのは、頭取層の死を決した勇気と英知であつた。
 傘型連判状による団結、検見中止の回答を口頭ではなく、三家老印判の墨付きをあくまで要求してこれを確保、これが勝利の決め手となったこと、親戚の大名に越訴してその力を利用しようとしたり、老中への駕籠訴で幕閣での取り上げを目論んだり、箱訴をおこなって要求が将軍の目にとまるように仕組んだことなどその政治的判断の的確さは驚くべきものがある。
  第三に、農民の思想的成長もまた注目すべきものがあった。「松山家文書」によれば、返替えの者(心替わりの者)があれば、この世では仲間外しとし、あの世では、仏神の罰を蒙るものと申し合わせている。また天地の利徳をもって天下の御政道であるとし、政道の明徳が曇れば、国家の騒動となって嘆かわしいといっている。
農民たちが検見取りに反対した理由の一つに、もし検見が土地台帳と土地との照合にまで至れば、切添え(隠し田)の田畑が発見され、年貢の対象となることを恐れたという事がある。これは、農民の営々たる土地開墾の成果であって、厳しい収奪からのわずかの逃げ道であった。これについては、出訴した代表農民は一切押し隠していたが、後にこのことが露見し、処罰の重要な理由になっている。この点では、明らかに、農民的な利害を守るということが、天下の御政道にもとるものではないという百姓的価値世界が構築され一揆の正当性に確信がもたれていたと見ることができよう。

昭和神宮設立計画

柳河瀬 精

 いま 「昭和神宮御創建発起人会設立計画書」という文書がばらまかれています。「平成十二年三月吉日」の日付ですから、今年の春頃からはじまっているようです。その範囲については承知していません。 計画書は、立川市北の昭和の森が国有地だから最適な建設場所だと決めて、「昭和神宮」を設立する賛同会員を募り、寄付、寄金を募っています。祭神とするのはいうまでもなく昭和天皇です。
 「設立の趣旨」で神宮建設の事由の第一にあげているのは 「偉大さ」です。《歴代天皇の中で『昭和天皇』の御事跡程、偉大なものはありません》と言い、文脈をたどれば、その偉大さというのは《全人類の為の『聖戦』、天下王道の「総力戦」『大東亜戦争』の開戦と終戟の詔勅を内外に公告し》たことというのですから、まさに十五年戦争を押しすすめたことをたたえているのです。
  昭和天皇の事跡をたたえるために、戦争責任を回避し、平和主義者であつたとする議論は散見してきましたが、十五年戦争推進者として偉大さをたたえる意見を見るのは、はじめてのことです。日本とアジアの侵略戦争犠牲者にどんな申し開きをするのでしょうか。
 事由の第二にあげられているのは、「治世」の長さで、「日本一長い『六十四年』で明治の『四十四年』を遥かに越え」たといいます。そもそも「治世」とは文字通り「治めた世」ということですから、明治憲法下の天皇主権の時代が、戦後も引続いていたことになり、日本国憲法を認めようとしていないものといわなければなりません。
  また、「万世一系の天皇」は 「百二十五代絶えることなく続」く「文化遺産」だとする、今日の歴史学ではしりぞけられている荒唐無稽なことを持ち出しています。神武紀元で 「百二十五代」とすれば、そのなかには百年を超える者もいましたから、「日本一長い」とすることとの整合性がないことも指摘しておきます。
  いまひとつの問題は、建設の候補地をあげて「国有地」だから「最適の場所」としている点です,天皇のためであれば国有地は勝手に使うことができると考えているようですが、ここにも天皇主権主義があらわれています。神社という宗教施設のために国有地が提供されることは、重大な憲法違反であることは言うまでもありません。
  驚くばかりにばかげた設立趣意書なのですが、ただあきれているだけではすまされません。すでに寄金集めは始まっているのでず。 この数年間、右翼的な潮流による大衆動員がいくつも行われています。 東條英機を英雄扱いした映画 「ブライド」ではチケットを買占めばらまくやりかたで、観客動員が図られました。「国民の歴史」では、大量に買占めて無料でぼらまいて 「ベストセラー」作りが行われました。「新しい歴史教科書をつくる会」が教科書の検定合格を求める一方で、大衆動員で地方議会や地方教育委員会へ陳情行動などをおこしていたことは記憶に新しいことです。四月二十九日を 「昭和の日」の呼称に改めさせようとする動きもかなり顕在化してきています。
  これらの運動が保守政党の国会議員・地方議員の一部と結びついていることも、決して軽視することはできません。 彼らのやり方は、科学性や、論理性を無視してもっぱら情緒に訴えるものですが、多弁を用いないからかえって危険性を持っているといわなければなりません, 政治経済の閉塞状況のなかで、偏狭なナショナリズムが力をもつ可能性があることは、ヒットラーの例でも明らかです。そして、今日はそうした可能性をはらんだ状況にもなっています。
「昭和神宮設立」の運動を止めることはわたしたちにはできません。 できることは問題点を指摘する声をおおきくあげ、右翼的な運動に負けない規模と速度で広げていくことでず。昭和天皇の戦争責任を追及する声は、近年ようやく大きくなり始めていると思いますが、これをもっと大きな声にすることが、何より中心の問題でしょう。天皇の名を用いて、治安維持法による残虐きわまる弾圧を行い、人道に反する罪を重ねたことも、もっと大きな声で叫ばなければなりません。
  「昭和神宮設立」の運動が出てきている状況と向かい合ってみると、ひとつの正念場を迎えているように思います。


[資 料]

昭和神宮御創建発起人会設立計画書


設立の趣旨

 日本を日本たらしめたものは何か、それは万世一系の天皇であります。
天皇は日本の国民統合の象徴であり「元首」であります。神ながらの道を継承し皇統連綿として百二十五代絶える事なく続いている事は、人類の尊い文化遺産でもあります。翻って歴代大皇の中で『昭和天皇』の御事跡程、偉大なものはありません。全人類の為の『聖戦』、天下王道の 「総力戦」『大東亜戦争』の開戦と終戦の詔勅を内外に公告し、我が国の立場を明確に示し、終戟時、御身を顧みられず、国家と国民を救われ、大苦難の後、世界平和と繁栄の昭和を築かれた、大恩人であります。
 御治世は、日本一長い 「六十四年」で明治の 「四十四年」を遥かに越えられました。明治天皇は、明治大帝と称せられ、明治,大正の国民の、当然の心情として「明治神宮」にお祀りされておられます。我ら、昭和・平成の民は明治を越える先帝の御事跡と恩恵に感謝し「昭和聖帝」と称え、早急に、「昭和神宮」を御創建し、永遠に御事跡を称えるべきと存ずる次第であります。
 昭和天皇の崩御以来、それまでの天皇誕生日が、みどりの日として祝日の一日に残されたとは言え、我々は当初よりこの日を「昭和の日」「昭和節」と呼ばれる事を願い、その為の運動を続けて参りましたが、今後も目的完遂迄、この運動は続ける所存です。顧みて、昭和天皇の大葬は御生前の御事跡を如実に物語るごとく、世の救世主として、歴史上にも類を見ない、人類最大の国際儀式として営まれ、崩御を悼み、外国使節の元首級、五十五ケ国を含め、百九十余の国からの参列があり、国家的行事として喪に服された国 が三十四ケ国にも及んだ事実を、重大に受け止め、日本国民として速やかに 「昭和神宮」の御創建を期する次第であります,
  明治神宮は、明治天皇崩御の後、四年にして、国民の願いが結集され、大正四年に起工、同九年に完成を見たものであります。全国津々、浦々の国民から十万本にも上る樹木が寄せられ、代々木の森が完成したのです。今のところ、新神宮「昭和神宮」の候補地として、立川市北の、昭和の森が考えられます、ここは国有地であり、多摩御陵にも近く、御創建の場所としては最適かと存ずる次第です。

平成十二年三月吉日

御創建発起人会

(会則)       略

(運営)       略

(代表世話人)  略

南方熊楠と大阪造幣局の恩人W ・ガウランド

―熊楠 「宍道湖の埋立」( 一九三四年)をめぐって―

後藤  正人

  一  はじめに―宍道湖と銅剣
 数年前に宍道湖を淡水化しようとする行政の動向があったが、宍道湖を多少とも犠牲にしようとする動きは現代行政だけではなかった。 民俗学にも造詣の深かった世界一流の博物学者・南方熊楠(一八六七〜一九四一年)ほ、大英博物館時代の一八九七(明治30)年五月にウィリアム・ガウランドから聴いた宍道湖の話として次のようなことを雑誌に発表していた。
 「銅剣は日本にも多くあるはずだ、かつて出雲の宍道湖をみたが、いかにも神代以降の古物が年代を乱さず埋もりおり、一たび沈んだ以上逸出の仕様がないから、順序正しく底をかいたら、学術と歴史上無価の異宝を多く得るだろう」。この話を熊楠に聴かせた人物こそ、大阪市北区天満にある造幣局の創立者・William Gowland(イギリスの冶金学者。一八四二〜一九二二年)である。
  島根県の考古学といえば、一九九四年十月の法制史学会のエクスカーションで見学した荒神谷遺跡(簸川郡斐川町)や、その数年後に招待されて見学した大阪市立博物館の特設展「島根県荒神谷遺跡」(?)でも著名となった大量の銅剣の発掘に思い至る。わが長岡京市の稲解山古墳から発掘された銅剣の数より遥に大量であった。 次に紹介する南方熊楠の「(一)宍道湖の埋立」という小文は、もともと熊楠「歳暮録二則」(『大日』九三号、一九三四年一二月一五日付)の一つとして発表されたものである(『南方熊楠全集5』平凡社、一九七二年)。
なお(二)は、「石油とへリウム」である。紹介に際しては、振り仮名を廃し、段落を施したことを付け加えておきたい。

   二 南方熊楠「宍道湖の埋立」(一九三四年一二月)
  (一)宍道湖の埋立
  今年八月二十日の「大毎」紙に、大阪飛行場の佐々木航空官が十八日に松江市へ飛んで来て市長と会し、宍道湖を幾分埋め立て陸上飛行場を建設に極めるらしいと出であっ た。その後どうなったか知らぬが、そのうち、それが実行さるるかも知れぬから、事後に悔なきよう一言する。
  明治三十年五月、予大英博物館人類学部長チヤーレス・リード男(一昨年七十三で死亡)から、中世英国兵が用いた弾弩(アルバレッタ・ガレ)を貰い、九段遊就館へ寄付する前に、武庫頭ジーロン卿の鑑定書に署名しもらうため、一夜考古学会へ往った。たまたま仏国から来た徳川頼倫侯と鎌田栄吉氏が往って見たいと望むから同道した。鑑定書のこと済んで、リード男が、侯が予の旧主と知り、当夜の論題だった最近テームス河底より堀り出した大銅剣を侯に示し、種々説明し、閉会の後、中の島造幣局の創立者ウィ リアム・ガウランド氏と二人で、侯と鎌田氏と予を数丁離れた学士会院倶楽部へ伴れ行き饗応された。先刻の銅剣について予が種々問い、り,ガ二氏こもごも答えられた末、 ガ氏いわく、あんな銅剣は日本にも多くあるはずだ、かつて出雲の宍道湖をみたが、いかにも神代以降の古物が年代を乱さず埋もりおり、一たび沈んだ以上逸出の仕様がない から、順序正しく底をかいたら、学術と歴史上無価の異宝を多く得るだろうと。  八、九年前、本山彦一氏来訪された時このことを話したが実行せず死なれた。埋め立ててのちは何ともならず、かの湖底をかくくらいのことは、今日造作もないことゆえ、埋めたて前に一応やって見るよう、好学および慾張り連に勧めておく。

  三 若干の解説
  (一)熊楠が大英博物館の学者・リードや、一八八八年に日本から帰国したガウランドと会ったのは、一八九七(明治三〇)年五月の何日で、その際の記録はいかなる内容であったのであろうか。熊楠の在英時代の「日記」(『南方熊楠日記2』八坂書房、一九八七年)を検討してみると、それは次の通りである。ただし、振り仮名は削除した。
  五月十三日(木)
 タ館より帰途鎌田氏を訪、世子方に行、鎌田氏を待合ぜ、九時過古物学会に行く。畢てリード、ガウランド二氏と五人、学士会クラブに行、一飲の後リード氏とつれ歩して其宅近くゆき分る。
 ここに出てくるリードとガウランドとは、先の二人の英国人と同一人物である。リード男爵が熊楠へ引き合わせたガウランドは、かつて一八七二(明治五)年に大阪造幣寮の冶金技師として来日し、ヨーロッパの採鉱精錬法を伝授したが、日本の考古学や、古代の精錬法である「たたら」の研究にも従事した。またガウランドが信濃と飛騨の国境の高山を踏査したことは、佐久間象山(和漢洋の大学者。信州松代藩士、藩主は真田家。一八一一〜一八六四年)を坊佛とさせる。さらにガウランドは、日本人の妻を娶って前後二七年間も日本に滞在したアーネスト・サトー(佐藤愛之助。一八四三〜一九二九年)の『日本旅行案内』(一八八一年) に素材を提供して、「日本アルプス」の名付け親でもあった。
  リードがガウランドを熊楠へ紹介したことは、熊楠のためにも、日本の考古学や近代史のためにも、実に有益なことであったといわなくてはならない。考古学者も近代の資料から多くのことが学べるはずであることが、熊楠の書き残した資料から実証されるのである。
 また文中の世子とは、最後の紀州藩一四代藩主・徳川茂承の養子となった頼倫(一八七二〜一九二五年)のことである。既に紹介したように(後藤正人「南紀侯爵・徳川頼貞の書簡一九四六年四月二二日付について」本誌五三号、一九九九年。頼倫を最後の紀州藩主としたのは誤り)、頼倫は田安家の徳川慶頼(将軍家茂の後見職)の第六子で、頼倫の妻・久子は先の茂承の長女である。なお茂承自身も養子であり、伊予の西条藩主・松平頼学の第七子であった。西条瀋は紀州瀋の支藩である。なお家茂は元紀州家一三代藩主・徳川慶福のことであった。鎌田氏とは和歌山出身の鎌田栄吉のことで、侯爵・頼倫の世話役を果たした人物であり、後に慶鷹義塾の塾長となる。
  熊楠は一九二〇年代に南方植物研究所を諸氏の協力で構想するが、この南方植物研究所の発起人には徳川頼倫、鎌田栄吉、中村啓次郎などがいた。中村は、かつて熊楠が神社合祀令を廃滅させるために資料を提供して帝国議会で質間などをして貰った代議士で、熊楠の郷土の友人であった(後藤正人「南方熊楠の神社合祀令廃滅運動について」同編「法史学の広場」安藤重雄先生古稀記念・通巻第五号、和歌山大学法史学研究会刊、一九九九年)。一九二二(大正一一)年三月、熊楠はこの南方植物研究所の募金活動のために上京して各界の人々に訴えた際に、頼倫の窓口となり募金に応じる役割を果たしたのも鎌田栄吉であった(後藤正人「南方熊楠の「日照権」運動と昭和天皇への「御進講「一九二一から一九三〇年」「和歌山大学教育学部紀要 人文科学」五一集、二00一年」。
  熊楠は、在英中の「日記」では古物学会といい、「大日」では考古学会と述べ、同じく学士会といい、後に学士院会と述べていることも興味深い。また熊楠がリードから貰った中世英国兵士の弾弩(大弓)を寄付した東京の九段遊就館とは不祥である,頼倫の建てた博物館であったのであろうか、後考を待ちたい。
  (二)熊楠は宍道湖の一部埋め立て危機の記事を「大阪毎日新聞」(一九三四年八月二〇日付)で見たのであるが、この時に宍道湖の埋め立て案が実行されたのかどうかは詳らかではない。熊楠は、宍道湖の埋め立てという時事問題について学問的な位置付けを試みている。歴史を振り返り、まず自分の見聞したガウランドの見事な見解を紹介していることは学者の良心というものであろう。
  熊楠は、ガウランドの宍道湖の銅剣の話を毎日新聞社社長の本山彦一(熊本県出身。箕作秋坪の三叉学舎に学ぶ。一八五三〜一九三二年)にして、取り掛かることを勧めたが、実現しなかったという。能楠が本山に話した時期は、熊楠によれば、一九三四年の八、九年前というから、一九二五(大正一四)年か一九二六(大正一五・昭和一)年頃のことである。熊楠が昭和天皇へ植物学の進講を紀州の田辺湾上で行ったのは一九二九(昭和四)年六月一日であったから、その数年前のことであった。 なお熊楠の進講の実現について、本山の「大阪毎日新聞」に同湾の神聖な神島の貴重な植生を明らかにした熊楠の文章が掲載され、また熊楠は、本山による宮内省での進講実現に関する情報の収集に助けられたのであった(前掲後藤「南方熊楠の『日照権』運動と、昭和天皇への『御進講』」)。
 残念ながら、熊楠の宍道湖湖底の発掘の進言は実現しなかった。しかし宍道湖湖底の発掘は考古学者の夢に違いない。種々の問題があるが、将来、ぜひ実現してほしいものである。