HOMEおさそい機関誌紹介 例会案内例会資料室活動資料室リンク集

大阪民衆史研究会の諸活動

 このページでは大阪民衆史研究会の活動を紹介します。内容は会員や「会」の主張、意見、さらに小論文や資料の公開などです。

(掲載期間が満了した記事は「活動資料室」へ移動しています。「活動資料室」もご覧下さい)

ジャーナリスト柳沢恭雄の研究

赤塚康雄

柳沢恭雄の「日本の一番長い日」
 敗戦70年に当たる2015年から続けてきた柳沢恭雄研究を本年は終わりまで持っていきたいと考えている。
 柳沢恭雄の名が一般に知られるようになるのは、ポツダム宣言受諾を知らせるための天皇の録音盤奪取目指して陸軍の若手将校が決起した8・15クーデター未遂事件を『日本の一番長い日』と題して半藤一利(作家・当時文藝春秋編集次長)が著作発表しているからである。
 当時、柳沢は日本放送協会(以下NHK)国内局報道部の副部長で、上層部が「玉音」録音のため皇居へ出向いていたので、責任者の立場にあった。その柳沢のいる放送会館報道部へ、8月15日(1945年)早暁、侵入してきたのが反乱軍の畑中健二少佐らであった。皇居で録音盤奪取に失敗し、ラジオ放送を通して国民に総決起を訴えようとしたのである。
  その瞬間を柳沢は、自著『検閲放送』に「私の胸にピストルをつきつけた。『決起の立場を国民に放送させろ。さもなければ撃つぞ』私は無言でいた。放送させるわけにはいかない、とそれだけを考えていた。私は放送させるわけにはいかないという任務感、集中感で張りつめていた。私は彼に反抗しない。敵意を示さない。彼の心情を理解したいと思いながら、彼の眼とピストルを持つ手と指を見つめていた。ピストルは、森近衛第一師団長を射殺してきたピストルである。」と回想している。
 やがて、脅迫めいた言葉を発しなくなったので、空襲警報下ではスタジオが作動しないことを理解してもらおうと柳沢は畑中らを隣の第12スタジオ(ニュース専用スタジオ)に案内、館野守男アナウンサーに彼らを託した。
 『日本の一番長い日』は、この場面の柳沢と館野を逆に扱い、さらに柳沢恭雄の名に 「すみお」とルビを振るなどの間違った表現をとっており、柳沢からの取材不足を露呈していると筆者は感じたものである。もっとも同書は小説あるいは文学であって歴史書ではない。感動を高めるために少々のフィクションが用いられているのかもしれない。しかし、国民に与える影響は決して小さくない。例えば、同書の「自分はいかになろうとも、国民の生命を助けたい」以下の昭和天皇の御前会議における言葉を紹介した下村情報局総裁の説明は国民の間で信じられてきたが、近年の歴史学者の研究(例えば古川隆久『昭和天皇』、鈴木多聞『「終戦」の政治史1943−1945』)では、ほぼ否定されている。映画では、この場面はもっと強烈な印象を国民に与えた。ここまでくると事実誤認であってフィクションでは済まされなくなる。

治安維持法違反で有罪判決の学生時代からNHK入局まで
 柳沢は奈良県と京都府の県境の現・木津川市の地主の次男として誕生、小学校から中学校時代に起きた村内の米騒動、小作争議に影響を受けたのか、中学校(現・京都府立桃山高等学校)2年でマルクス伝、エンゲルス全集等を読破、マルクスボーイを自認していた。浦和高校を経た東京帝大(文学部社会学科)在学中の夏休み、オルグとして労働運動に関わり、治安維持法容疑で特高警察に逮捕され、1933年12月15日、奈良地方裁判所で懲役1年2ヶ月、執行猶予3年の判決を受けた。
 事件の影響あるいは病弱ゆえか、東大を8年かけて卒業、かねてからジャーナリズム志望だった柳沢は、ラジオ放送の未来を有望視し、1938年NHKに入局する。懲役刑を受けながらNHKに入れたのは、当時の松阪広政刑事局長の保証があったからである。
 松阪広政といえば、社会主義者を弾圧した3・15、4・16事件を指揮した検事として知られている。その松阪が反対の位置にいる柳沢を保証した理由は、松阪家は宇治の大地主で、同じ南山城地方の柳沢家と親戚関係にあったからであろう。
 ついでながら暗殺された労農党の山本宣治代議士を検視したのは松阪で、山本と松阪は京都府宇治町立菟道小学校(現・宇治市立)の先輩後輩関係(山本は5年上級)にあり、当時地元では、「平等院の両翼のように左右の大立て者や」とはやしたてられていたと『松阪広政伝』は伝えている。なお松阪は検事総長から小磯内閣の司法相に任命され、終戦時の鈴木内閣でも留任している。

太平洋戦争時に悔い残る仕事二つ
 こうして柳沢は1938年4月、日本放送協会へ入局。報道部国際課に配属され、一年後のNHKの愛宕山(現在NHK放送博物館)から内幸町の放送会館への移転に伴い、報道部ニュース課へ異動。前記報道部副部長に就任したのは軍務からの復帰(1943・1)後の1944年7月であった。
  戦時下の業務で柳沢が悔いを残した仕事が二つある。一つは軍属として徴用され、南方総軍司令部の将校扱いとして従軍したサイゴン(現ホーチミン市)での謀略放送である。仕事の中身は、ラジオサイゴン局の電波を使い、日本陸軍によるインドネシア(オランダ領)のジャワ島攻略戦を容易にすることである。
 もうひとつは、軍務からNHK復帰後、兼務した報道解説委員一人として、天王山のフィリッピンレイテ作戦に「いますぐ兵員と飛行機を集中的に送ることが一億の御楯の神聖な勤め」と解説したことです。
 前者については、電波を砲弾として侵略の手助けをしたことに、後者については、補給を不可能だと知りながら解説したことを郷里に思いを馳せて「京都府の第16師団はレイテで玉砕した。私の甥も帰らない。町の英霊墓地には墓碑が林立している」(『戦後放送私見』)と嘆かねばならなかった。
 柳沢の嘆きや後悔は、戦争というものは、ひとたび始まれば、個人の良心や良識で止められないことを示している。

 柳沢恭雄 戦後の生き方と今年の私の研究課題
 戦争の反省の上に柳沢の戦後は始まる。生前、柳沢が成し遂げた仕事は多彩である。しかし、ジャーナリストの生きる道を示したという点では一貫していたといえる。本年の研究課題は、その柳沢の思想及び行動史を明らかにすることであるが、具体的に追求すべき対象は、ほぼ、次の7点と定めている。
  (1)戦後最初のニュース解説「放送の民主化」(1945・10・2)原稿の発掘と検討。
  (2)1946年11月に自ら結成した日本従業員組合(日本新聞通信放送労働組合放送部へ改組。1949・2・9)委員    長として政府から独立した放送本業の実現追求について。
  (3)放送スト実施(1946・10・5)に果たした柳沢の役割と停職処分の影響及び2・1スト準備について。
  (4)レッドパージによる解職の経過。
  (5)中国への密航と北京における自由日本放送の柳沢の役割と実情。
  (6)日本電波ニュース社の設立(1960・3・2)及び富士国際旅行社(1964・10)設立の意味。
  (7)ベトナム戦争取材時における日本電波ニュース社及び柳沢の役割と実際。
 以上の7点のなかで、ハイライトは何と言っても日本電波ニュース社を設立し、ベトナム戦争を取材したことであろう。柳沢も一記者としてベトナムを巡り、ホー・チ・ミン北ベトナム(ベトナム民主共和国)主席と会談している。62・5・28)。また、当時わがテレビ界で話題になった「ハノイ・田英夫の証言」(1997)にも日本電波ニュース社映像を提供しているし、柳沢自身、田英夫に同行したこともあったようだ。
 以上、元旦の夢に終わらせることなく、今年一年着実に研究を続け、成果を出したいと念じている。

日本労働運動史上に輝く金字塔をうちたてた東宝争議

1948年8月19日、そのとき何があったか

島田 耕

8・19前日の不審火
 1948年8月19日の東宝撮影所への弾圧は、争議団の一人で今も病身をかばいながら活動している田中慎之介(記録映画監督)と私の間では「8・19」で通じる。争議をたたかったなかまたちの間ではそう呼ばれている。
 今年の8月で61年がくる(2009年執筆)。宮森繁の証言によると、「8月19日の前日午前6時45分ごろ、撮影所の現像場の近くで火災が起きた。映画材料のセルロイドがうず高く積んであった部屋で全く火の気もなく、しかも煙が出るや否や、消防署、警察に電話が入っている不可思議」な事件があった。防衛のため泊まり込んでいた組合員中沢廉治が傷を負い乍らも奮闘してボヤをおさえこんだ。
 消防署がかけつけバリケードを解いて消防車を入れろと迫ったが、組合は泊まり込んでいた青柳盛雄弁護士なども参加して拒否し自力で消し止め、弾圧の口実を与えなかった。火災の原因も犯人も不明だが、宮森繁は「放火によって一大惨事を引き起こし国際的にも共産主義者の陰謀と宣伝する」松川事件など「実行したような機関が計画したのと似ている」と思っていると指摘する。
 そして19日当日の朝、撮影所の煙突の上に男がいるのを見つける。この日、これから起きる何かを予期したようなパフォーマンスであった。
 緑の旗を持って、「共産党は焦土戦術をやめろ」の垂れ幕をたらした。ヤクザの一員とも言われる俳優の男の行動だが不可思議な事件であった。
 日本の新聞はこの日の記事として「警察隊の強制執行」と「煙突男」をあつかっているが、米軍には一切ふれていない。(19日夕刊と20日朝日の記事)

米軍の出動−ロイター通信が世界に発信した「8・19」 
  米軍のデモンストレーションは、この日早朝、スタジオの周辺に到着した一個分隊の歩兵と6台のジープと、騎兵銃を持ったMPによって始まった。つづいて、一個分隊の歩兵と6台の装甲車が到着し、スタジオの外部のあちこちを哨戒した。まもなく7台の戦車がただちに正面に位置を占めた。日本の警察の主力が到着したのは、米軍が配置についてからずいぶん時間が経過してからであった。警察官たちは、米国製のトラックに乗り、ピストルをつけ、棒を持ち、掛矢ととびくちを用意していた。彼らは、かつて日本軍の使った鉄かぶとをかぶっていた。攻撃の先鋒は、旧日本軍の戦車を改装した戦車であった。内部の争議団にたいして、最後通牒が発せられると同時、この改装戦車は、エンジンのうなりをたてて、いまにもバリケードを破壊せんものと身構えていた。警官隊の攻撃準備完了とともに、第1騎兵師団のH・C・T・ホフマン准将は、米軍の先頭に立った。 頭上の偵察機には、同師団の最高司令官W・C・チマイス少将が乗り、全行動を統括していた。
 宮森繁は「日映演の情報宣伝部長をやっていて、中央委員長伊藤武郎と検討してジャーナリズム全般にこの弾圧の様子を訴えようと外国の特派員全部を招聘した」「しかし、さすがにこのような大部隊が来るとはわれわれも予想しなかった」と云う。
 前田実(カメラマン)は「私も前夜から撮影部の部屋に泊まり込んでいた。中央広場で誰かの『来たぞ!』と呼ぶ声がしたので、私はバルコニーに出てみた。『子連れの家族会の人たちは急いで退去して下さい』とスピーカーで叫んでいる。ふと見たら、今朝弁当を家から運んできてくれた私の妻が2歳の次女を背負い4歳の長女の手をひっぱって、他の人たちと急いで所外へ退去する姿が目に写った。これがいっそう私の闘志をかきたてた。」

戦車の前を駆け抜ける
 録音助手(当時)の渡会伸は東宝に1938年の公募で入社、20歳(1940年)現役で入隊、南方戦線から1946年6月復員、東宝に復職する。第2次争議を体験して、第3次の争議では職場委員から組織部員になり、地方の映画館の職場オルグ、争議の支援と資金活動のための文化工作隊(移動演劇隊)の受け入れ準備などをして8月は撮影所に戻っていた。
 泊まり込みに持参した食糧がなくなり、18日の夜、会社寮にとりに帰り、19日朝8時半頃成城学園駅に降りた。
 「警官がいっぱいいて通さない。どこに行くんだって言うから寮へ帰るんだって言ったんですよ。(撮影所の近くにも寮があった)
 畑があってそれがずっと撮影所まで続いている。そこへ入って中腰になって走って行ったんです。でそれが途中から坂になって最後は崖になっているんです。約2mくらい。そこを降りる前に首を出してみたら戦車が2台止まっているのが見えるんです。こりゃえらいことになったと思って。しかし他には誰も見えなくてアメリカ兵が一人戦車から下りてブラブラしてるんです。で裏門の方を見たら、そこのバリケードの中にうちの組合員が黒山のようにいるんですよ。これは駆け出したりしたら必ず捕まると思って、それで崖を飛び降りてわざと戦車の方へ忍び寄って行ったんですね。ぼくは背が高いから砲身の中をのぞき込んだんです。そしたらアメリカ兵が怒ってむこうへ行けって訳ですよ。みんなが見て僕だってわかるから渡会そっちじゃない、こっちだって。静かにしろって思いながら2,3歩下がっていくと、アメリカ兵が安心してむこうを向いちゃった。そこでパッと後ろ向いて走り出して、持ってたボストンバッグを裏門越しに投げて、そしたら上から手を出してくれてそれにつかまって中へ飛び降りて入っちゃった。」

たちあがった女性たち
 このとき、宮森繁は「私が見て驚いたことは女性の強さです。米軍や警察隊が来て、正面にはアメリカの戦車がドンと据えられている大変ものものしい光景ですが、ニューフェイスの女優さんを先頭に十数人が腕を組んで日本警官の前に行って『帰れ』と言って『断固として一歩も退かない』と言うのです。これは自発的に取られた行動であります。」
 前田 実はこう書いている。「これでは、昨日から創意を凝らした我が方の防衛手段(大八車やリヤカーに五寸釘を打ちつけた板をはった戦車、暴風雨撮影用の大型扇風機の前に円筒を取り付け、敵が来たら砂利をぶっとばす仕掛け、屋根の上に美術部で使う塗料(あおたけ)を入れた桶を備え、警官にぶっかけ、東宝弾圧の警官だと世間に宣伝、糾弾する目印にすると言う作戦なども役に立ちそうにないと思った。その時、突如『弾圧反対!』『ダンアツハンタイ!』と黄色い声が起こった。家族会の婦人たちが組合で準備していた『民主警察諸君へ』のビラを警官の隊列の中に入って手渡しているのだ。女性の勇気、底力をみせつけられた一幕だった。」
 この日を、長野県松本で「資金の獲得と争議の実情を全国的に訴える目的で」移動映写班として活動していた宮下静江は、日劇の映写技師ともう一人の男子組合員と「三人で移動映写会を国鉄労働組合長野支部の協力で、各分会を中心に地域の人を集めてやっていたの。藤之井、長野、二本松日曹、高田、直江津、糸魚川を廻って最後に松本で大弾圧の一報をもって東京から駆けつけた日比谷映画の技師の人だと思ったけど、この人と合流して松本では急遽大集会が開かれて、弾圧の情況が報告されデモしたのを覚えています。」彼女の職場は舞台制作部、総務。

亀井文夫監督のポスター「暴力では文化は破壊されない」
 前田 実は女性のたたかいの次に「またまた私を驚かせる情景が目に入った。『暴力では文化は破壊されない』と大書した紙(新聞を広げた大きさ)を警官隊の面前に掲げて歩く亀井文夫監督の姿だった。」
 亀井文夫は「表門の警備隊長が花沢徳衛なんだよ。これがカウボーイみたいな帽子かぶっちゃって。でもう表門しめて、有刺鉄線巻き付けたりして。小さなクグリがあったんだけどそこも閉めて出ない訳だ。外側に鉄カブト被ったあれ機動隊かな。それから戦車持ってきたんだけど、これは表門のバリケードを戦車で潰すという考え方じゃなかったかな」「で、その時だよ、ぼくはふっと思いついてね。第2ステージだったかな、進八郎君(合成美術所属)ってタイトル屋が、ビラを書いたりなんかしてたんだよ。それであれ、ホラ。“暴力では文化は破壊されない”って言う言葉書いてくれって云ったんだよ。とっさに思いついた一つの言葉だよな。」
 シナリオライター植草圭之助は「亀井文夫と美人の名の高い菊地雪子(スクリプター) だった。二人は平然とした表情で、そのプラカードを掲げながら、落ち着いた足どりで占領軍や警官隊のひしめく、長い隊列の前面を右端から左へゆっくり歩き出した。 ーなんという平静な剛胆さか、そしてなんと不思議なことに色めき立っていた占領軍兵士、警官隊、指揮者以下、全員、声を失ったのか、この意表を衝いた沈黙の挑戦者の行為を、ただ、黙々と見守っているのだ」
 テレビ作家都筑政昭は植草の目撃談を引用しながら次のように続けている。  「一触即発の緊張状況の中で、この亀井のパフォーマンスは警官隊の戦意をそぐ効果を充分に果たした。労働歌を歌い興奮のるつぼにいるはずの組合側が、思いのほか冷静に『暴力否定』のアピールをしたのである。撮影所の態勢が決戦必死でないことを、暗黙にそして雄弁に語っていた。」

撤収
  裏門をよじのぼって、撮影所に入った渡会 伸は「中の様子は割合に陽気だったですね。あれだけの敵が来て弾圧しなければやれないところまでねばったという事ですかね。つまり、その時点では勝ったんじゃないかという気分がありましたね。」
 当時の撮影所の共産党細胞(当時、現在の支部)の責任者山形雄策(シナリオライター)は「撤収って方針は決まっちゃってんですが、一般にはもちろん発表してませんよ ね。ただとにかくここで激突しないで、犠牲を払わないで戦力温存するってことは、一つの戦術として前から討議されてますけど、だけどもやっぱり朝になってアメリカ軍が出てきたのを見て、いきり立つわけですよ。・・・アメリカに対する幻想っていうのはこれで全部なくなったということですね。」
  10時40分、執行吏は最後通告だとして、11時が過ぎれば強制執行を行う、あと20分待つと言ってきた。期限の11時に土屋は執行吏に執行の受諾を回答し、組合員の承認を得るための集会を開くことを認めさせた。11時15分、拡大職場会議が開かれた。撮影所委員長土屋精之は「我々がこれだけ団結を示したことは、日本の労働者階級の誇りであり、明日の闘争が必ず勝つという確信の基盤を得た」と執行部会議の報告をした。渡会 伸は言う。「30分から45分くらいかかったと思いますよ。それで中ですごくもめましてね。僕の記憶では撤退するって言ったときに大部分の人はほっとしましたよね。正直なところ。しかし特に朝鮮総連の人たちがすごく怒りましたね。」

我美子、岸 旗江ら女優たちもスクラムを組んだ
 都筑政昭著『鳥になった人間 反骨の映画監督、亀井文夫の生涯』(講談社92年刊)は植草圭之助の談として「日映演委員長の伊藤武郎が台の上から、集まってきた人びとに、闘争終結宣言を始めていた。手放しで泣き出している婦人部員や家族会の女性たち、怒りがおさまらず怒号を続けている男たちで、よく聞き取れなかったが、『・・・味方は全員、長期の闘争で肉体的、精神的にも限界にきている。この上、流血の惨事を起こすことは文化的闘争の取るべき道ではない。無念だが一歩後退、二歩前進の途こそ・・・』と涙ながらに語っていた。」
 各所の防備に就いていた人たちも持ち場を離れ、全員が中央広場に結集したのが11時40分、それから4列縦隊に隊列を組んでいっせいにインター(ナショナル)を高らかに歌い、整然たる撤退を始めた。先頭に組合旗を持った執行部、次に芸術家グループが五所平之助を先頭にスクラムを組んで続いた。女優の久我美子、岸 旗江、若山セツ子らはあふれる涙を拭いもせず、インターを歌いながら撤退していったと都筑は書いている。

製作再開
 そして、製作を再開する。「女の一生」も完成した。亀井文夫監督の持論である「革命的エロテイシズム」では印刷工場の昼休みの屋上で職場の仲間の視線を受けての岸 旗江、沼崎 勲の長い長いキスシーンや、岸 旗江が老いた父親と弟たちを残して嫁ぐ前夜、高島田に結い上げた髪形をこわさないようにして台所のタライで行水するシーンが話題になった。嫁ぎ行く娘の背を流しながらの父親(田中栄三)と娘のしみじみとしたシーンは恥じらいと希望に輝く裸体を、丹念に演出している。宮島義勇カメラマンが採用したパンフォーカスの手法は印刷の職場で働く人びとの動きを、奥行きある画面で手前から遠景まで鮮明に見せたことも話題になった。が、ここでは紙数もつきた。
 8・19のたたかいは60年を経た現在まで日本文化、日本映画の発展をめざすジグザグの歴史の中に生きている。親しく教えを受け、はげましてくれた多くの先輩の証言をひろいあつめ、かみしめながら、4回にわたって岸 旗江の輝いた時代の一端を紹介して終わることにする。