[闇を紡ぐもの]…闇烏秘文Ver.1

男は暗闇の中、ただ逃げていた。迫りくる「モノ」から逃れたい、ただその一心で。

「くっ、来るなっ。来るな来るな来るなぁっ!」何もない空間に向け叫ぶ男、その眼の焦点はすでに定まっていない。

「こっ、ここまで来れば…。」男は安堵のため息をもらす。
そう、確かにここまで来れば…。
ここは路地裏の行き止まり。
人の気配も生物の気配もなく、ただ深い闇に包まれた静寂の空間。

「はあっ、はあっ、はあっ…。」男は息を吸った。何度も、何度も。
肺の奥、心の奥にわだかまる重いものを吐き出すかのように。

男はしばらく動こうとはしなかった。動けないほど憔悴していたのかもしれない。
ただ、自然と耳だけは研ぎ澄まされ周囲の様子をのがすまいとしていた。
しばらくして男は確信した。自分は逃げ切ったのだ、と。
突如屋敷に現れ、そこにいた者達を次々と殺していったあの死神から。

「くっそう、覚えていろよ。このワシを怒らせたこと、きっと後悔させてやるぞ。」
男は人知れずつぶやいた。
先ほどまでの恐怖は、助かったと確信した瞬間に怒りに変わったらしい。
男は気づいているのだろうか。歯軋りして唸るその姿、自分こそが死神を思わせるものであることに…。

「無駄ですよ。あなたには明日という日は来ないのですから。」
闇に溶けてしまいそうに静かな、そして艶やかな声。
それでいて聴く者をひきつけて離さない。
「魅了される」とはこういう感じのことをいうのかも知れない。

「ひいっ、ひいいっ」男は言葉にならない声をあげた。
何も無いはずの暗闇、そう、今まで何も無かったはずの暗闇の中に、確かに「誰か」がいる。そして、その「誰か」が誰なのかを男は理解していた。

「きっ、きさまっ、何故、何故ワシを…。」男は問い掛けた。初めから答えなど期待してはいないのだが。

「何故?あなたはしてはならないことをした。侵してはならないものを侵してしまった。理由はそれで十分でしょう?」
期待していなかった「答え」が帰ってきた。

男は今や確信していた。自分がこれから死ぬことを。
それでいて何故か気持ちは落ち着いてきている。
あの「声」のせいだろうか?

「最後に聞かせてくれないか?貴様が何者なのかを」男は再度闇に向かって問い掛けた。
「僕の名は闇烏、闇に棲むものに真の闇を教えるもの。」

男が次の言葉を発することはなかった…。

数日後、新聞の地方欄に小さな記事が載った。「臓器無き死体、発見さる」と。
だが、世間は誰も知らない。
男はそんな姿になっても死ぬことさえできなかったのだということを。
そして今も「生かされ続けている」のだということを。