The History of MGB>part.0:誕生前夜

 

mk0proto  MGは第2次世界大戦後のアメリカでスポーツカー・ブームを巻き起こしたTシリーズ・ミジェットに続き、流線型のスチール・ボディを備えたMGAで英国を代表するスポーツカーの1台として世界の自動車ファンの間に確固たる地位を築き上げた。

 その成功作MGAの後継車種の開発が始まったのは1957年頃の事である。プロジェクトはまずMG開発コード<EX205>として1/4モデルの制作から始まった。

 同時にイタリアン・カロッツェリアの一つ、フルアにもMGAベースのランニング・プロトの制作が依頼された。

 しかしMGAの様なフレーム構造では車重が重くなる事が予想され、1958年にはフルモノコック構造の採用が決定、<EX214>という新たなプロジェクト・コードが付与された。

 EX214は1958年6月に四分の一スケールモデルの図面が完成、9月にはデザイン承認を受けてBMC開発コード<ADO23>が付与された。

 因みにMGBのボディにはシリアル・ナンバーを始め様々なナンバーが打たれているが、Mk.2以降のMGBにおいて「GU23T」など「23」という数字が最初の方にあるのがコミッション・ナンバーである。この数字はADOナンバーを示している。

 

 ADO23の開発で難航したのはエンジンの選定である。当初軽量化を意図して採用したモノコック構造だったが、快適性の向上も合わせてMGAよりも若干小型になったにもかかわらず車重が増加することが判明したのである。

 これではMGAと同じエンジンを搭載したのでは動力性能は低下してしまう。当時Bタイプ・エンジンはMGAにも搭載されていた1600cc仕様が最大で、MGA1600Mk.2に至ってそのチューニングも実用車としての限界に近づきつつあった。

 最初に搭載を検討されたのが、当時BMCが開発中だったV4エンジンである。ランチア・フルビアなどの狭角V型エンジンに触発されて開発されていたこのエンジンは2000ccでVバンクの挟み角は18度というものだった。

 しかし結局このエンジンは設備投資の額の問題からキャンセルされてしまい、当てが外れたMG開発陣は手当たり次第に(という表現が相応しいだろう)様々なエンジンをADO23のエンジン・ベイの中に押し込んでみた。

 それはMGAツインカム用1600ccDOHCエンジン、Cタイプ3000cc6気筒エンジンから2気筒取り外した2000cc4気筒エンジンなど多種多様だったが、結局のところ最有力だったのはMGAと同じ1600cc版Bタイプだった。

 しかしこの事が後のMGBに思わぬ恩恵をもたらした。その一つがどんなエンジンが搭載されるか分からないがゆえに与えられた大きなサイズのエンジン・ベイ・スペースと、それに合わせた大きな開口面積のボンネット・フードだった。

 これはMGAの反省でもあったのだが、同時に後のモータースポーツ・シーンでの整備性をも考慮しての処置だった。しかしこの当時は思いもよらない事だったろうが、このスペースがあったればこそ後に3000cc6気筒や3500ccV8エンジンすら搭載することが可能だったのである(プライベーターでは、5.4リッターのジャギュアV12すら搭載した例がある)。

 ともあれ当初搭載を試みたどのエンジンも結局それぞれの理由で採用には至らなかった訳だが、折よくADO17セダン(オースチン/モーリス1800)用にBタイプ・エンジンがスケール・アップされることになり、EX214はそのエンジンにSUキャブレターを2基装着するという常識的な線に落ち着くことになった。

 

 もう一つMGBに盛り込まれたのが、限られた出力からより高い最高速度を絞り出すための手法としては常識的な「空気抵抗の低減」だった。

 そのためにMG開発陣はEX214を風洞に送り込んだ。MGの絶対速度記録挑戦車であるEX181のノウハウをも注ぎ込んで最終的に得られたCd値は何と0.36という小さな数値だった。

 

 開発が難航したもう一つのものに、リア・サスペンションがある。最も初期には4輪独立懸架すら検討されたがこれはすぐに破棄され、乗り心地の向上と高い操縦性の両立のために5リンク+コイル・スプリング+レバー・ダンパーで試作車が制作された。

 ところがリンクを用いたリア・アクスルの位置決め構造が複雑なため、テストドライバーからの評判も芳しくなく、開発はかなり手こずったと言われる。

 結局MG設計陣はこのサスペンションを諦めて通常のリーフ・スプリングへと後退を余儀なくされるのだが、その決定は開発もかなり押し迫ってからなされた。おかげでチーフ・ボディ・エンジニアだったドナルド(ドン)・ヘイター(「MGB Who’s Who」へ)はリーフ・スプリングの後部取り付け部を設けるために、急遽EX214のボディ後半部を1インチ延長する羽目になった。

 

 EX214は当初からサイド・ウィンドゥを備え、折り畳み式幌の採用を意図していた(そのためMGBは厳密な意味では「ロードスター」ではなく、MGの伝統に従えば「トゥアラー」という事になる)。

 しかし外観はMGAなどの伝統的ロードスターのそれを踏襲しようとした。そのためにはボディに開けられた室内部分の開口部は最小限に止め、フロント・シート背後はすぐにボディ・パネルである事が望ましかった(MGAやオースチン・ヒーレィ・スプライトMk.1を思い返していただければ、お分かりと思う)。

 そこでMG設計陣が意図したのは、フロント・シート背後のボディ・パネルを脱着式とし、その下に幌を格納するというプランだった。しかしこれまた惜しい事にキャンセルされ、生産型では採用とはならなかった。生産型MGBに標準装備されたトノゥ・バー(オープン時にトノウ・カバー/フードカバーの前端形状を整えるために装着する、2分割式のU字型バー)や、MGミジェットMk.1に見られる室内開口後部形状は、実はこのパネルの名残と言う事もできる(本稿冒頭の英国ディンキー製ダイキャスト・ミニチュアカーの写真参照)。

 

 因みにミジェット(スプリジェット)はMGBよりも遅く開発が開始されたが、市販は1年先んじた。これはMGBは前述の通りボディ/エンジン/足回りなど各部がMGAに対してゼロから検討されたのに対して、事実上スプリジェットが先代の“フロッグアイ”スプライトのスキン・チェンジだった事による開発工数の差が大きいと思われる。

 スプリジェット開発チームとMGB開発チームは隣あった製図板で仕事を進めており、ドン・ヘイターはスプリジェット開発にあたってスタイルを含めたMGBのノウハウが注入された事を否定していない。

 ヒーレィ親子とMG開発陣のコンペティションで開発されたADO34のMG側の提案は、端的に言って「寸詰まりのFF版MGB」である。

 このボディ後半部がヒーレィ親子の手になる前半部と組み合わされてスプリジェットとなるのである。

 

 こうして様々な紆余曲折のあげく、ADO23の量産1号車(左ハンドル対米仕様車だったためか、シリアル・ナンバー上は2号車。ボディカラーは「アイリス・ブルー」という水色だった)は1962年5月22日にアビンドン工場のラインを下りた。

 

 1962年9月20日、アールズコートで開催されたロンドン・モーターショウで、新たなMGの旗艦となるスポーツカー「MGB」が正式に一般公開された。

 しかしまさかこの車がその後18年間に渡って生産され続け、あまつさえ生産終了から13年も経過してから各部に改造を施され新たな名前と共に復活すると予想した者は、その時世界に誰一人としていなかったに違いない。

 こうして波瀾万丈の「MGBの30年」が幕を開けたのである。

 

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