<MGB/GT:“Poorman‘s ASTON−MARTIN”>

 

PB-AIRLINEMGというと「オープン・スポーツカー」の印象が強いのだが、実は歴代のMGスポーツ達の中にはクローズド・ボディを備えた仕様も存在していた。

それは流麗なスロープド・バックの「エアライン・クーペ」であったり、またハードトップを作り付けにしたような「FIXED HEAD COUPE」であったりする。

しかしMGBに用意されたのは、それらとは一味異なったものだった。それは2人用のエクストラ・シートを備え、ハッチバックを装備して「スポーツ・ワゴン」的性格をも兼ね備えた、新しいコンセプトを持ったものだったのである。

イギリスのヒストリック・カー専門誌の個人売買欄を見ると、売りに出されているちっぽけなロードスターの注釈に「子供が生まれたため惜譲」などと書かれているものがある。

 独身時代に中古のロードスターを乗り回していた青年もやがて結婚して父親となる。そうなるとそれまでは頬を撫でる風に助手席で共に微笑んでくれていたはずの可愛い恋人は、「母親」という名の暴君に豹変する。

「子供のため」という葵の印籠に逆らう術もなく、彼は後ろ髪を引かれる思いで青春時代を共に過ごした着心地の良いカジュアル・ウェアに別れを告げ、ファミリィ・サルーンという名の窮屈なフォーマル・スーツに袖を通すことになるのだ。

MGB/GTはそうした「スポーツカーに未練のある、昔の若者」のためのクルマでもあった。しかしそれが最初からそうなることを意図していたのかどうかは疑問なのである。

 

MGA-FHCベルギーはブリュッセルでアバルト、ベルトーネ、そしてイソ・リヴォルタの販売代理店および修理店を経営していたジャッキース・クーン(Jacques Coune)は、自分が雇い入れていたイタリア人職人の腕を使って市販車を基に独自のコーチワークを施したオリジナルカーの製造・販売を行う事を計画した。

そうして1964年1月のブリュッセル・モーターショウに出品されたのが「MGBベルリネッタ」である。

このクルマはMGB(この時点で市販されていたのは、トゥアラー・ボディのみである)のメカニカル・コンポーネンツを利用し、その上に独自のデザインを持ったクーペ・ボディを架装したものだった。

ボディ・パネルで元のMGBと共通なのはボンネット/左右ドアその他グリルなど若干の艤装品のみで後はすべてオリジナルであり、ドアから後ろはメタルでルーフ/フェンダー/ブーツリッドは樹脂製である。

そのスタイリングは、グリルやえぐりの付いたヘッドライト周囲の造形によってMGBであることは分かるものの、そのファストバックの基本的なプロポーションはむしろフェラーリの250GTOや275GTBのそれに近いと言える。

テールランプはシムカ1000を始めとしてランチャ・ストラトスなど数多くの車種に用いられている円形小gtb型の物で、トランクルームは室内とトランクスルーになっており長尺物の搭載も可能である。

樹脂パーツの多用のせいか車重は57kgほどトゥアラーより軽いと言われ、メカニカル上のMGBとの違いはクーンが代理店を営んでいるアバルトのマフラーを装着しているだけにも関わらず最高速度は195q/hをマークするという。

 

一方アビンドンの製図盤の上ではEX227の名の下、「Mr.MG」ジョン・ソーンリィ(「MGB Who’s Who」へ)の着想になる「Poorman‘s ASTON−MARTIN(DB2/4)」コンセプト、つまりクローズド・クーペ仕様MGBの開発が1962年1月以来行われていた。

1963年にMG部門チーフ・エンジニアのシドニー・エネヴァと、彼の下でEX227のボディ・ラインを描いたジム・スティムソンは1/4スケール・モデルと図面をロングブリッジのBMC上層部に提出したが、彼らから色良い返事を得る事はできなかった。

そうした時にクーンのMGBベルリネッタが発表されたのである。

 

MGBベルリネッタはBMC首脳の興味を引いた。ブリュッセル・ショウからほどなくして、クーンとアレック・イシゴニス(そう、あのアレック“THE MINI”イシゴニスである)の非公式な会合が持たれた。そこで討議されたのはBMCとクーンの間でのジョイント・ベンチャーの可能性である。

その後BMCから直々に送られた1台のMGBトゥアラーがクーンの下でベルリネッタにコンバージョンされて1964年4月(6月という説もある)にロングブリッジに戻され、「CBW55B」のレジストレーション・ナンバーが与えられた。

その後BMC社長サー・ジョージ・ハリマン/シド・エネヴァ/イシゴニス、そしてサー・レオナード・ロードなどがこのクルマのステアリングを握った。

 

実はこの動きと並行して、1964年にアビンドンから1台のMGBトゥアラー(S/N:G−HN39359)がトリノに送り出されていた。1964年6月、イタリアに送られたMGBトゥアラーはカーデザイン界の巨匠ピニンファリーナの手で振られた魔法の杖がかぶせたルーフを身に纏ってアビンドンに帰ってきた。

そのフロント・ウィンドゥはトゥアラーとは異なる丈の高いもので、それゆえにルーフの長さは短く抑えられて全体としてスポーティなファストバック・シルエットを作り出していた。これが後のMGB/GTの誕生である。

しかしこの「フロント・ウィンドゥを上に延長する」というアイディアがピニンファリーナのものであるのか、それともジム・スティムソンのものなのかは定かではないのが現状である。

 

さてこうして2台揃ったクローズド・ボディ版MGBだったが、オール・スティールのMGB/GTと金属/樹脂混用のMGBベルリネッタでは生産性の点から言っても勝負にはならなかった。

イシゴニスはクーンに対して彼のコンバージョン・モデルは「イタリアン・デザインすぎる」と語り、ジョイント・ベンチャー計画は実施されることはなかった。しかしその裏ではジョン・ソーンリィが長年求めてきたMGスポーツ・クーペは「イタリアン・デザインの第1人者」以外の何者でもないピニンファリーナの手に委ねられることになったのである。

 

クーンは1964年6月(イシゴニスから引導を渡された後と推測するが)にこのMGBベルリネッタを1285ポンドで毎月12〜15台の割合で生産すると公表したものの、基になったMGBトゥアラーは690ポンド(これに消費税259ポンドが加わる)だったから、実に5割も高価だった。

MGB/GTは1965年10月に998ポンド(この時トゥアラーは854ポンド)のプライス・タグと共に発売された。一方MGBベルリネッタは結局独自にヨーロッパ大陸向けに55台の左ハンドル仕様と、BMCにプロポーザルした時の1台の右ハンドル仕様<CBW55B>を加えた56台(58台という説もある)が生まれたのみでその生涯を閉じた。

現存するMGBベルリネッタは12台ほど(8台という説もある)と考えられており、BMCに送られた唯一の右ハンドル仕様車は現在マイク・エイカーズ氏の下で健在である。

 

mk1gt1こうして生まれたMGB/GTは、特に英国国内ではトゥアラーをも遥かに凌ぐほどの好調な販売を記録した成功作となった。それはハッチバック・ボディと車高を上げた副産物でワゴン的にも使える他用途性と、トゥアラーにはないリア・シートの存在が大きな要因であっただろう。

とは言え2名用のそのリア・シートは本来あくまでオケイジョナル(臨時/緊急用)で、せいぜい小学生中学年までの子供用である。それでも当時のカタログを見ると、リア・シートに座る8歳程度の愛らしい少女の首は微妙に曲がっているのだが。

一方輸出市場では実績ある英国車と言えど、安穏とはしていられない事態が起こりつつあった。第2次世界大戦後、奇跡とも呼べる躍進を遂げつつあった極東の小国・日本から現れたクルマ達が本格的な販売競争力を備え始めたのである。それはスポーツカーの分野においてもしかりで、それまではスポーツカー「らしきもの」しか作っていなかった彼等が1969年に世に出したダッツン240Z、そして1972年にはフォード・マスタングの日本的翻訳版であるトヨタ・セリカなどの無視できない力を持ったスポーツ/スペシャリティカーが登場したのである。

元々安い労働力による価格競争力と高度な品質管理能力が備わっていた日本車だったが、そこに魅力的なデザイン/性能という武器を加えて市場への侵攻を開始してきたのである。

特にダッツン240Zは性能/装備/価格/デザインのバランスが極めて高い水準にあり、それまでのスポーツカーの世界基準を一気に書き換えてしまうほどのインパクトを持った車種だった。

日本とは逆に製造品質が低下し、しかも市場の変化に敏感に合わせて行くことが不得手な英国車全体に与えるダメージは甚大だったが、MGBにとってはダッツン240Zに4シーター仕様が、そしてセリカにハッチバック仕様が追加されたことで、その影響は一層強かったのである。

皮肉なことに日本車においてはオープン仕様がなかったためにトゥアラーは彼等とは異なる独自の価値を主張することも可能だったが、MGB/GTは正面から彼等と戦う羽目になった。しかも英国国内においてもフォードがカプリ、ヴォクゾールがフィレンザというスペシャリティ・クーペを発売し、これまた手強いライヴァルとなったのである。

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さらにMGB/GTの行く手に垂れ込めたのが、安全対策の強化に伴ってオープンカーの将来に漂い始めた暗雲と、BLMCの結成だったのである。

本来1970年にMGBとミジェットを統合してモデル・チェンジするはずだったEX234はFFではあったもののオープン・モデルだった。しかしBMCがレイランド・グループと合併してBLMCとなったことで、レイランド・グループ側のトライアンフTR/スピットファイアをも統合すべく、計画はMG/トライアンフ双方の提案によるコンペとして一から練り直しとなった。

この時点でMG側提案もトライアンフ側提案も、どちらもクローズド・クーペだった。これは最大の輸出先である北米市場において、新たに360°横転での安全性が法規化される見通しだったからであり、また当時の市場が求める方向も快適性の向上だった。そこにオープン・ボディである積極的な理由は見出せなかったから、両者の選択は言わば当然の帰結だった。

結果的にこのプロジェクトは1975年にトライアンフTR7として結実するのだが、これは「Triumph Roadster」の名前とは裏腹に(キャンバストップも用意されたものの)クローズド・クーペだった。

そしてこの発売を待たずに、BLMCはまず1974年にMGB/GTの北米市場への輸出を中止した。そして1976年にはMGB/GTは全輸出市場から姿を消したのである。むろんこれは同じクローズド・クーペであるTR7に市場を譲るためだった。

これは事実上MGB/GTの終焉と言えた。その後も英国市場でこそトゥアラーを上回る販売台数(それはトゥアラーの2倍以上にもなる年もあったほどである)を1980年の最期まで維持したが、全市場を通してみればMGB/GTは全MGBの17%を占めるにすぎない(しかし18年の生涯を通じてみれば全MGBの1/4以上がGTである)。

MGB/GTは本国市場での人気ゆえに1975年のジュビリー・モデルやMGB/GT V8など、GTボディしかない仕様のグレードも幾つか存在する。だが近年では英国でもトゥアラーの方に人気があるようで、ヘリテイジ・ボディを用いてGTから作られたトゥアラーも少なくないようだ。一方でGTボディとRV8とを混合した、言わばRV8/GTという変り種を作ったショップもある。

 

 MGB/GTはスポーツカーにも運動性能以外の様々な要素が求められて行く時代を先駆けて駆け抜けた、美しいスポーツ・クーペの1台であることに異を唱える人はいないだろう。

 

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