「税金(国税)は国家予算の財源ではない」ことを理解しよう!


1.ミクロな視点とマクロな視点

 多くの皆さんは、このページの表題である「税金(国税)は国家予算の財源ではない」という主張を見て、面食らったのではないかと思います。


「何それ?」

「意味がわかんない」


という人も多いのではないでしょうか。

 だって、これって、例えて言うと、町内会費を集めに来た人に「この会費は町内行事のための財源ではないんですよ」と言われたようなものですから。思わず「何だって?町内行事のために使われないんだったら何に使うんだ。こっちは町内行事に使うと思うから渋々払ってるのに、そうじゃないって言うんなら金返せ、泥棒!」と言い返したくなるのが普通ですよね。

 でも税金(国税)って、実は国家予算の財源でないだけでなく、何の財源でもないんです。


「何の財源でもない?そんなバカなことがあるか!もし本当にそうなら今までに払った税金返せ、この泥棒!」


 まあ、はやる気持ちもわかるんですが、まずは落ち着きましょうw。以下で順を追って説明していきたいと思いますから、少々お付き合いください。

 人間っていうのは、身近なものについては理屈で理解するより前に体感と経験で判断するという特質があります。

 なぜなら、人間が生きていく上で日々、時々刻々やらなきゃならないことは沢山あるので、その各事項をいちいち理屈で考えて理解しながら実行したのでは脳のキャパを超えてしまって自分の体が制御不能になってしまうからでしょうね。

 しかし、人間は必要な時には理屈で考えて行動することもある。それじゃあ、経験や体感で行動する場合と理屈で考えて理解してから行動する場合をどういう基準で切り替えているのか?

 それは、普段扱いなれているもの前者の基準で行動し、馴染みのない対象を扱う場合後者の基準で行動する、というように人間というものは切り替えているように見えます。

 実際、大抵の場合はこういう使い分けでうまく行くんです。

 ところが中には例外があって、オカネにまつわる話がその典型的な例外なんですね。

 オカネというものは、我々にとってあまりにも身近なモノです。だから、オカネに関する話は大抵の人が自分の体感と経験でものごとを判断します。

 ところがオカネにはミクロの観点とマクロの観点があって、我々がいつも体感しているのはミクロな観点のオカネの方なんです。

 このミクロの観点では、収入が増えればオカネは増え支出が増えればオカネは減ります。こんなことは、我々は誰でも子供の時からず〜っと経験しているから、考えるまでも無く当たり前だと思っています。

 だって、我々が身近なオカネへのかかわりの世界では、家計にしろ企業会計にしろ、この原則が当たり前に成り立っているからです。

 ところがマクロの観点では、これが正反対になります。

 税収が増えると、それだけ市中から貨幣が政府によって回収されてしまうため、市中に流通している貨幣はミクロの場合とは逆に減少してしまいます。一方、政府支出が増えると、その分だけ政府から公共事業への支払額として市中に貨幣が供給されますから、これまたミクロの場合とは逆に、市中の貨幣は増加します。つまり

■ミクロの場合■
収入が増える → オカネは増える
支出が増える → オカネは減る


□マクロの場合□
収入が増える → オカネは減る
支出が増える → オカネは増える


 というわけで、マクロにおいては、我々の経験であるところのミクロの場合とは収支とオカネの増減の関係がまるっきり真逆になっているわけです。

 つまり、同じオカネのことを考える場合でも、我々が体感しているようなミクロの場合には体感や経験で判断してもよいが、我々が体感していないマクロの場合には、ミクロの場合の体感でそのまま判断するのではなく、逆に頭でしっかり考えて、理屈で判断しなければ間違うよということなのです。

 では次に進みます。

 今度はオカネの増減が我々の幸不幸とどういう関係にあるか、という話です。

 ミクロな場合、すなわち個人の家計や企業会計の場合、オカネが増えれば増えるほどハッピーですよね。これは、オカネがあればあるほどたくさんのものが買えますし、イヤな仕事を我慢して稼ぐ必要もなくなるからです。これはこんな理屈をいちいち考えなくても、我々の体感で判断できるとおりですよね。

 ではマクロの場合はどうでしょう?

 国がオカネを沢山持っている、すなわち市場に貨幣が沢山流通しているということは、モノやサービスの供給力以上にオカネがあると、いくらオカネがあっても、普通は提供できるモノやサービスには限りがありますから、セリが生じてモノやサービスの値段が吊り上がってしまいます。つまりインフレになってしまうわけです。

 ところが、日本のようにモノやサービスの供給力が限りなく強い場合は、オカネが増えたら増えた分だけ消費者にオカネが行き渡り、消費者が買いたいモノの量、つまり有効需要も増えますが、それに応じて供給量を増やすことが可能なので、実際に生産を増やせて、しかもそれがちゃんと売れるので、売る方も儲かるので、みんなハッピーになります(まあ、もちろんそれでもオカネを増やし過ぎればインフレになりますが、日本の供給力はハンパ無いので、インフレにならずに増やせるオカネの量の限度は、多くの人が想像しているよりはるかに大きいです)。

 逆に、オカネが少なすぎるとどうなるかというと、モノやサービスをいくら生産しようと頑張って働いても、国全体の貨幣が不足していますから、オカネを持つ人が少なくなり、モノを買える人が少なくなるので必要な売上を得ることができません。その結果、働けども働けども所得は増えず、せっかく生産供給力が有り余っていて全員に行き渡るくらい生産する能力があるのに、消費者は貨幣が足りないというだけの理由で満足に消費ができず、皆不幸になってしまいます。

 つまり、日本のように供給力が十分ある国では、マクロにおいてもミクロの場合と同じで(ただし同じなのは結論だけで理由は異なる)、オカネは少ないのが悪く、多い方が善いのです。

 さて、最初に説明したように、ミクロとマクロでは@収支Aオカネの増減の関係が逆なのでした。そして、今説明したように、日本ではAオカネの増減とB国民の幸不幸の関係はミクロとマクロで同じ。となれば、この2つの事実の論理的帰結として、日本では@収支国民の幸不幸の関係はミクロとマクロで真逆である、つまり、ミクロでは収入が多ければ多いほど、支出は少なければ少ないほどハッピーなのに対し、マクロでは収入(=税収)は少なければ少ないほど、支出(=財政支出)は多ければ多いほどハッピーになるということになります。

 ところが財務省の官僚は、こうした理屈を実際はわかっているにもかかわらず、この理屈が自分たちの属する財務省の省益に反するため、彼らも所詮はサラリーマンですから組織の論理には抗えず、上で説明したような結論を無理やり否定するため、上で述べたインフレの害をことさら誇張して力説し、「マクロではオカネが増えると(ハイパー)インフレになるから悪なのだ」と反対の結論に持っていこうとするのです。

 しかし彼らにとってはまことに残念なことに、日本は供給力が大変大きいため、ヘリコプターでお札を大々的にばら撒くと言うような円の信用をわざとなくすようなバカげたことでもしない限り、ハイパーインフレどころかマイルドなインフレにすらなりません。彼らは御用経済学者を取り込んで、途上国のような供給力に限界がある国の例をことさら取り上げて「ハイパーインフレになる〜」というウソのプロパガンダを吹聴しているだけなのです。


2.国家ってどういう意味?

 前節では収支オカネの増減がミクロとマクロでは真反対になるというファクトを力説しました。これは、人の注意を引き付けて関心を持ってもらうためには、逆説的な、一見常識の正反対のファクトを提示するのがしばしば有効だからです。

 しかし、そのような話を聞いた人から来る次の反応は「そんなバカなことがあるか!」です。いくら、上のファクトを理屈で説明して、その理屈そのものの穴が見つからなくても、オカネは経験でよく知っているからという意識がある人は、その自分の経験から来る常識に反したことを言われると、「うまいこと胡麻化して騙しているのではないか」とまず疑い、「アブナい話にはかかわるな」の本能が発現して、話題を変えようとすることでしょう。

 なので、やはり次にするべきことは、一見常識に反しているように見えるが、その常識がここでは通用しないということを腹でわかる、腑に落ちるように話を展開することです。

 この場合、どうして前節のような話を聞いた人は腑に落ちないのか。それは、オカネに限らず、例えばバケツに水を入れる場合、収入(バケツに入れる水)を増やせばオカネ(バケツに溜まる水)が増えるのは当たり前で、それが減るなんてクダラない冗談としか思えないからです。

 そこでこちらから質問を投げかけてみます:


「マクロの場合、税収って言葉を使って、いかにも税が収入みたいに呼ぶけど、これって誰の収入でしょう?」


 すると


「国家の収入でしょ?」


という答えが返って来るかもしれません。そうしたら、すかさず


「国家と言っても意味が広い。その場合の国家って、日本政府のこと?、それとも日本国民のこと?」


と畳みかけてみます。

 どうでしょう?もうお気付きでしょうか?

 そうなんです!税収というのは日本政府にとっての収入であって、日本国民にとっては支出なんですよね。

 同じく財政支出日本政府にとっての支出であって、日本国民にとっては逆に収入なんです。

 これに対して、オカネが増えるとか減ると上で説明したとき、「誰のオカネが増えたり減ったりするのか」というと、日本国民のオカネが増えたり減ったりすることを意味するわけです。だから、前節の表で□マクロの場合□として提示したものは、誰にとってという部分を追加すると、


□マクロの場合□
日本政府収入が増える → 日本国民のオカネは減る
日本政府支出が増える → 日本国民のオカネは増える


ということになる。つまり誰にとっての話か?が矢印の左右で違うから、バケツの例とは一見真逆に見える結果が得られたわけですね。言ってみれば、


バケツ入れる水が増える → 水道の貯水池の水量は減る


という事実を、何にとっての話かというの部分を隠して


入れる水が増える → 水量は減る


と書くと、正しいことでも一見逆説的でウソに見えるのと同じことです。

 財務省がよく使う「国の借金を一人当たりに直すと〜」のレトリックも、実は国の借金というのが実は日本政府の借金のことであり、一人当たりというのが実は日本国民一人当たりという意味である、というわけで、誰のという部分が違うんだから、対象の違うものに対する借金を人数で割り算するということ自体がナンセンスなのも、実はこれとまったく同じ話です。

 とにかく国家という抽象的で曖昧な概念を扱う時は、胡麻化される可能性が高いですから特に用心が必要です。


3.国家の統治機構にとっての収入とは

 前節では国家と言っても日本国民のことを指す場合と日本政府のことを指す場合がある、という話をしました。

 しかし「国の借金ガ〜」という話をするとき、基本的に国家とは日本政府のことを指します。だから、□マクロの場合□をこの基本に従って書き直すと、実は次のようになってしまいます:

□マクロの場合□
日本政府収入が増える → 日本政府のオカネは増える
日本政府支出が増える → 日本政府のオカネは減る


 というわけで、今度は矢印の右側の「増える」と「減る」が最初に紹介したものとは逆になってしまいました。このように書き直すと、


「ほら、やっぱり日本政府にとっての税収が増えたら日本政府のオカネが増えていいじゃないか」


と返したくなるのではないでしょうか?そうしたら、私なら次のように畳みかけます:


日本政府のオカネが増えて何かいいことあるの?」


 一見すると開き直りとも聞こえるセリフに貴方は戸惑うかもしれません。だって、オカネが増えるのが善いことなのは、ミクロでもマクロでもどっちでも正しい、と既に説明したとおりだからです。

 でもこれ、開き直りでも何でもないんです。そのことを理解するために、日本政府という概念をもう少し一般化して、これを国家の統治機構に置き換えます。その昔、王様がいて、この王様(とその家臣たち)が国を統治していた時代には、国家の統治機構にとっての収入とは、王様一族にとっての収入でした。この場合の国家の統治機構は、一般の家計と何ら変わりがありません。国家の統治機構の中に王様一族という生活者が居り、彼らは自分の収入、つまり税収で生活して、彼らの生活費の支出が国家の支出でした。

 ところが、この仕組みが変わるのが近代国家です。中世のような意味での王様は最早存在せず、国家の統治機構というのは、国家の運営を司るための機能そのもののことを指すようになります。つまり、この時点で既に国家の統治機構の内部には生活者という概念が存在しなくなっているわけです。

 つまり、国家の統治機構は、内部に生活者が居ない単なるになってしまっているのです。もちろん立憲君主やら大統領やら首相やら国家公務員という存在はありますが、彼らは最早国家の統治機構内部にいる生活者などではなく、普段は国民の一部であり、国家の統治機構に雇われて仕事をしているだけです。ですから彼らの生活のための収入である給料は、国家予算という国家の統治機構にとっての支出の一部に過ぎません。

 要するに何が言いたいかというと、近代国家における国家の統治機構というのは、その中に生活者が含まれていないのだから、この国家の統治機構それ自体がオカネを貯めたりオカネを稼いだりする必要なんて無い、ということなんです。だって、ただのなんですから。そこいらに転がっている段ボール箱を見て雨に濡れて可哀そうだからこの箱さんにお金を恵んでやろう、なんて奇特な人がいますか?それと同じです。

 というわけで、近代国家において、国家の統治機構家計企業と同じように考えるのは、国家というものを王様が居た時代と同じように考えている、という意味で全くの時代錯誤であり、このことを理解できない人には「貴方、いったい何時代に住んでるんだ、ってことですよ」と丁寧に教えてあげればいいと思います。


4.貨幣は人為的な約束事に過ぎない

 前節で、私は次のように書きました:

日本政府のオカネが増えて何かいいことあるの?」


 しかし、これに対して次のような反論があるかもしれません:


「前回の説明で、日本政府がオカネを儲ける(すなわち収支差額がプラスになる)必要が無いのはわかったけれど、でも収支差額がマイナスになったらいけないんじゃないの?」


 こういう疑問を持つ人はまだ多いんじゃないかと思います。そうなんです!これこそが実はPB黒字化論なんです。黒字化は必要ないって説明してるのに、何で黒字化かというと、既に沢山の借金をかかえてるから、その借金を返すために黒字化が必要だ、というわけなんでしょう。つまり、上のような疑問を持つ人の根本的思考は、


 個人の家計であれ、企業の会計であれ、中世の王様の家計であれ、近代以降の国家統治機構の会計であれ、確かに支出したい以上に儲ける必要は無いかもしれないが、収支が赤字になることは許されない。もし仮に一時的に赤字になって借金で凌いだとしても、その借金を返済するためにどこかで黒字に転じなければならない


というものではないかと思います。

 さて、実はここからが、直感的に理解するのが難しい部分なんです。私ならそういう反論に対してこう切り出します:


 借金借金って言うけどね、そもそもオカネって単なる約束事でしかないんだよ。と言っても、昔は約束事じゃなかったのが、現代、正確に言うと、お札が兌換紙幣から不換紙幣に移行したときから完全な約束事になったんだけどね。でも、そのときオカネって本当はどういう約束事にすればいいのかってことを深く考えないで、この約束事を決めたもんだから、それまでの、オカネが約束事ではなかった時代の習慣とか制約条件のうち、必要でない、守らなくもいい習慣とか制約条件の一部を、気づかずに間違って約束事の中に持ち込んでしまったために、私たちは、その、本来なら不必要で、守らなくてもいいはずの約束事に縛られてしまっていて、身動きが取れなくなっているだけなんだよ。国債が国の借金だ、とか、その借金を減らさなければならないなんていう約束事が、まさにそんな、不必要で守らなくてもいい、間違った約束事の典型的な例なんだよ。


 こんな風に切り出してから、詳しく説明を始めます。

 まず、昔の、オカネが約束事ではなかった時代って何か。これはなにもMMT(現代貨幣理論)が説くような、貨幣の起源を先史時代まで遡る必要はありません。日本なら江戸時代、欧州なら金貨を使っていた時代のことを考えれば十分です。このころは、貨幣はそれ自体が商品として価値のあるモノでしたから、オカネでモノを買うのは、価値のあるモノと価値のあるモノを単に等価交換していただけですから、約束事もへったくれもありません。まあ、物々交換が高度に発達した状態、という程度の理解で十分だと思います。

 で、この時代の貨幣制約条件って何か。

 それは、貨幣の総量に制限があるってことです。そもそもその頃って産業革命前ですからモノの生産量はギリギリ、というか不足しているのが当たり前ですから、物々交換の親玉に過ぎない金貨だって供給不足だったわけです。ただ、いくら産業革命前だとしても、中には供給力が十分だった商品だってあるでしょう。しかし、物々交換の親玉、つまりあらゆる商品と交換してもらえる、つまり誰でもが欲しがるモノってのは、必然的に希少価値があるモノでなければ機能しません。だって希少価値が無かったら、お店に行ってそれを差し出されても、店の人から「そんなもの、自分で簡単に探して来れる(自分で作れる)から要らないよ」と言われて、店の商品と交換してもらえない可能性があるからです。

 なので、この貨幣として物々交換の親玉が使われていたときというのは、それは希少価値があるモノでなけれなならない蓋然性があったのです。このような時代、プライマリー・バランス(PB)、すなわち


収入 ≧ 支出


という制約条件は、家計にとっても、生産者にとっても、そしてこれが大事なことですが、貨幣を発行していた国家の統治機構にとってすら、物理的に必然的な制約条件だったわけです。だって、国家は貨幣を発行するとは言っても、無から作れるわけじゃなくて、天然資源に過ぎない金(=gold)を単に加工していただけですから、金という天然資源の量的制約を受けます。つまり、国家の支出は国家による金の保有量が上限であり、もし国家が保有している金貨をすべて支出してしまったら、それ以上貨幣を発行しようと思ったら、過去に市中に発行済みの貨幣の一部を税金の名目で市場から回収し、それを新たな貨幣発行に回すしかなかったわけです。これが、貨幣が希少価値を持つ資源そのものであった時代には、国家が税金収入すなわち支出の財源として、その範囲内でしか支出できなかった本質的な理由です。

 やがて、金は重いし偽物を見分けるのも困難で不便だということから、兌換紙幣の時代に入ります。しかし、これはオカネの新たな約束事というには大げさで、兌換紙幣とは要するに金(gold)の引換券です。だから、この時代でも、家計生産者国家の統治機構のいずれにとっても収入支出の関係を縛るプライマリー・バランスの現物が貨幣だった時代、すなわち金貨が貨幣だった時代と何ら変わりません。

 さて、以上ざっと兌換紙幣までの歴史を振り返って来ました。ところが、この時代に、人々は貨幣が持たなければならないもう一つの条件、すなわち必要な制約条件のことをコロッと忘れていました、というか、気付いてすらいませんでした。

 貨幣には、その貨幣の持つ物理的制約から、やむを得ず生じてしまう制約条件というものがあります。それが上で説明してきたプライマリー・バランスという制約条件です。ところが他方で貨幣には、それが真に貨幣として機能するために、積極的に満たさなければならない条件、という意味での制約条件があります。それは

「貨幣を使った経済活動が円滑に行われ、人々の生活が豊かになるために、貨幣というものに課すべき制約条件」


です。そして、これら2種類の、意味が全く異なる制約条件は、論理的には互いに全く無関係です。

 その、論理的には全く無関係な2つの制約条件なのに、何でその一方の存在が人々に全く意識されなかったのか?

 それは、後者の、貨幣として機能するために必要な制約条件が、たまたま兌換紙幣の時代の終わり、すなわち1970年代前半のニクソンショックで米ドルが金との交換を止めるまでは、時代の特殊性により、偶然にもそれが意識されなくても経済がうまくまわっていたからに過ぎないのです!

 まずは貨幣として機能するために必要な制約条件とは具体的にどんな制約条件なのかを説明しましょう。それは


市場の経済の活性化に伴う市中での取引の総量比例して、市中に出回っている貨幣量増減していること。


 非常に大雑把に言えばこのように述べることができます。大雑把と言ったのは、本当は市中での取引の総量とは現時点での実際の取引量という意味ではなく、生産・供給量のポテンシャルから判断して、そのポテンシャルが実際に発揮されて実現した場合に市中で取引がされるであろう場合の推定取引総量と呼んだ方が正確だからです。なぜなら、現時点での実際の取引量では、いくら供給力にポテンシャルがあっても、現実の取引量が逆に市中に流通する貨幣量によって制約を受けてしまうからです。

 細かいことはともかくとして、この制約条件は、気がついて見れば至極当然の条件であることがわかるでしょう。要するに、オカネというものは、商品を取引するときに使われるものなのだから、供給能力に見合っただけの需要に対してその価値が等価交換される際に、ちょうどそれに見合うだけの貨幣が市場に存在していなければ、この商品の交換がスムーズに行われなくなるからです。つまり貨幣はこの水準と比べて多すぎても少なすぎてもいけない。多すぎれば商品の供給より貨幣の方が多くなるので貨幣の価値が失われ(いわゆるインフレ)、最悪その貨幣の信用が損なわれてその貨幣を使う人がいなくなる(いわゆるハイパー・インフレ)。逆に貨幣がこの水準と比べて少なすぎれば、せっかく供給力はあるのに、それを手に入れたい人が貨幣が足りないというだけの理由で買えなくなるというミスマッチが起きる(いわゆるデフレ)。いずれの場合も、せっかく貨幣というものを用いて経済を円滑に回そうと思ったのに、これじゃあ貨幣を使うのをやめて物々交換に戻った方がマシだということになってしまう。

 ですから、この四角い枠で囲った制約条件は、貨幣を用いた経済(貨幣経済)を採用するからには必須の条件なのです。

 ところが、兌換紙幣時代の終わりまで、人々はこの制約条件に気付いていませんでした。それはなぜでしょうか?

 理由は、プライマリー・バランスの制約条件だけで、世の中が偶然にもうまくいっていたからなんですね。

 高度成長期までは、経済が発展し、それに伴って消費者が欲しいと思っていた商品が次々に増え、それらを大量生産する設備も充実してきました。だから、市中における取引の総量は増え続けました。すると、上記の枠で囲った制約条件によれば、普通に考えると、貨幣もそれに伴って増えていかなかったら、この条件が成り立たないはずですよね。すると、プライマリー・バランス、つまり貨幣の総量が変わらない、という制約条件とは矛盾してしまうではないですか?

 ところが、これがその時代の特殊性によって矛盾には至らなかったのです。そのカラクリというのが、いわゆる信用創造の存在です。つまり、企業は急増する工業製品の需要に応えるため、借金をしてでも設備投資をして生産能力を拡大しようとしました。そして、この企業による銀行からの借金することによって貨幣が増える、正確に言うと、現金が増えるのではなくて、預金通貨という、現金ではない新たな種類の貨幣が勝手に増えるわけです。そして、この預金通貨が増えることによって、プライマリーバランスの制約で増やせない現金の不足を補っていたわけです。

 この信用創造についてもう少し詳しく説明すると、企業が銀行から借金したとき、普通は企業が借金した額を銀行から同企業の預金口座に振り込んでもらうわけですが、このとき、企業が銀行から借りた現金は、預金口座に預けることで再び銀行に戻ることになります。ですから現金の増減はプラスマイナスゼロ。それなのに、企業の預金口座の預金残高は、この借金した分だけ増えている。この預金口座の金額が増えた、すなわちこの企業の借金という行為によって預金通貨が増えたことを信用創造と呼ぶわけです。

 しかし、この信用創造で増えた預金通貨というのは、我々が見慣れた現金とは違い過ぎて、これを貨幣と見做すには一種の意識改革が必要です。多くの人は、預金口座の数字をオカネだと思っていない、つまり、預金口座の数字はいつでも銀行からオカネを引き出せる限度額を記録したものでしかない、と理解してるのではないでしょうか。

 しかし、今の世の中では、デビットカードをはじめとするキャッシュレス決済のことを考えればわかるように、現金を使わずに預金口座から直接決済ができるわけで、預金口座の数字が現金と同じ役割を果たすことができます。これは、預金貨幣と現金を経済活動において区別する必要が無いことを意味しています。そこで、現金に預金貨幣を加えたものを経済統計などではマネー・ストックと呼んで、これを現代では貨幣と見做しているのです。

 さて、話を元に戻すと、高度成長期までの世界では、プライマリー・バランスという制約があったにもかかわらず、預金通貨が勝手に増えていたから、貨幣の総量は取引の総量に比例して増減しなければならないという制約条件は人々が意識しない間に自動的に満たされていたというわけです。

 ところが高度成長が終わり、低成長下になったとき、企業もこれまでのような増産も要らないから設備投資も要らなくなった上に、企業自身が金持ちになった結果、企業は設備投資のために借金する必要がなくなり、従って信用創造も激減し、従って預金通貨は増えなくなった。しかし低成長とはいえ、世の中の技術は進歩し続けているので必ず新たな商品やサービスは生まれ続けているので経済は発展し続けるものであり、従って四角の枠で囲った制約条件により、貨幣は増え続けなければならない。ところが、我々はプライマリー・バランスの条件を今までのように金科玉条のように守り続けているために、この四角の枠で囲った制約条件を満たすことができなくなってしまった。これが今日の、高度成長が終わり、低成長に入った経済がうまく行かず、失われた20年とか30年とかに突入してしまっている最大の原因なのです。

 ところが、今日では貨幣は兌換紙幣の時代から不換紙幣の時代に完全に移行しています。従って、兌換紙幣ならではの物理的制約条件であるプライマリー・バランスの制約条件は、最早必要なくなってしまっています。つまり、本当は、政府はPBの制約条件から解放され、経済発展の度合いの要請に応じて必要なだけ貨幣を発行することが現在では物理的に可能になっているわけです!ですから、本当なら、経済は低成長ながら成長しているのだから、信用創造による貨幣の増加が無くなったのなら、政府は(正確に言うと、政府自身は日本銀行券を刷る権利が無いから、政府と日銀を会計的に統合した統合政府は)この貨幣の不足分を不換紙幣になったことによって意味を失ったプライマリーバランスなど無視して、現金を刷ることによって補うことができるはずなのです!

 ああ、それなのに、それなのに…

 世の中の人は、


@ あまりにも兌換紙幣までの歴史が長すぎて、PBがそれまでの貨幣の特質によるやむを得ない物理的制約条件でしかなかったことを忘れ、不換紙幣になったら最早必要ない制約条件になってしまったことに気付いていないこと


A 貨幣は、本来なら経済の発展に比例して増減させなければ正しく機能しないモノのはずなのに、高度成長期までは、信用創造でオネが増えていたために、PB制約条件のもとでも偶然うまくいっていた、という事実に気が付かず、こちらの制約条件が必須であることに気付いていないこと


という2つの気付いていないことによって、本当は今日の経済というのはすばらしく全員がハッピーになれる状況が訪れているというのに、そのチャンスを自分達でみすみす逃しているという、まことに残念な時代である、ということができるのです。


5.国債は国の借金ではない

 前節で、不換紙幣の時代になって、オカネの量は限られたものである必要は無く、必要に応じて追加発行できるものになった、ということを説明しました。

 ところで現在の法律では、一般国民は勝手にオカネを作ってはいけないことになっています。いわゆる偽札造りの罪ってヤツです。

 これは、不換紙幣の時代には、金(gold)との引換券を偽造した罪であって、本当は金を貰う権利が無いのに、あるかのように偽った罪ということで、要するに本物を偽った偽造に対する罪であった、というわけですから納得できます。

 ところが、貨幣が兌換紙幣から不換紙幣になり、紙幣が金との引換券でなくなった今日でも、一般国民が通貨を造るのは重罪ということになっています。これはなぜでしょうか?

 その理由は2つあって、


@ 通貨の量をコントロールする権限を国家が掌握しておきたいのに、それを一介の個人が勝手に行ったのでは、この権限が機能しなくなることによって国家規模での経済政策が機能しなくなる恐れがあること


A 通貨を勝手に造ると、造った人だけが商品を手に入れる権利が得られ、まじめに働いてモノやサービスを供給している人の勤労意欲を削ぎ、ひいては彼らが真面目にモノやサービスを供給する意欲を失うことによって国家の供給力が失われるのを防ぎたいこと


 これらはいずれもまことに尤もな理由であり、兌換紙幣の時代から不換紙幣の時代に移行しても、偽札造りは許さないという根本原則は、一般国民に対しては変わらず継続した方が善いと言えると思います。

 では、兌換紙幣から不換紙幣への移行に伴って、個々の家計企業についてはこのように勝手な貨幣の製造は許さないというルールを継続するのはよいとして、政府についてはどうでしょう? 政府についても貨幣の勝手な製造を許さないというルールを継続することに何かメリットがあるでしょうか?

 政府による貨幣製造は、まさに政府の権限の行使そのものですから、上記@による理由は存在しません。またAの理由も、政府は国民全体の利益を考えて貨幣を製造するわけですから、特定の国民に対するえこひいきにならない限り(例えば国家元首の縁故者にカネを刷って配るとかでない限り)、まじめな労働者の勤労意欲を削ぐということにはなりません

 ということは、政府の場合だけは例外であって、政府だけは貨幣の製造を認めても別に問題はないわけです。

 ところが、現在の法律では、財政法の第4条により、国家財政の支出は国債の発行以外の方法によらなければならない、と規定されています。つまり税収の範囲でしか支出してはいけないと法律で定められています。しかも国債の発行は建設国債についてのみは認められているが、これとて国会の承認がいる、とされています。

 こんな法律上の縛りがあるのはなぜでしょうか?

 実は戦後、GHQが日本の再軍備を恐れ、戦時に国債発行で戦費を調達することができないようにするための縛りであったことが既に明らかになっています。なるほど、建設国債であればこれを軍備に流用するというのはさすがに大義名分に反しますからね。

 しかし、戦後70年以上も経過して、当初の趣旨が忘れ去られ、この規定がPBによる財政を縛るものであるという認識にすり替わってしまい、今日では、政府による収入支出の関係を、


市場の経済の活性化に伴う市中での取引の総量比例して、市中に出回っている貨幣量増減していること。


という条件ではなく、兌換紙幣制度の廃止でもはや意味が無くなったPBで縛る、すなわち


収入 ≧ 支出


という条件を強要するものとして君臨しています。そして財務省も、この法律を盾に財政出動を認めない、財政赤字縮小のために増税すべし、という方針で突き進んでいるわけです。

 これはトンでもない誤解に基づく政策判断であり、もう一度、貨幣の本質に戻って考えなければならないのは火を見るより明らかではないでしょうか。

 法律(財政法)の縛りがあるから貨幣を追加発行できない、なんていう人がいるけれど、それは法律の方が時代遅れなんです。こんな経済の実態とかけ離れた法律は即刻改正しなければおかしいはずです。

 同様に、国債の意味も変えなければなりません。国債の発行とは、要するに政府による支出収入の差額を国債発行によって補填する、という意味ですが、そもそもPBに意味が無い以上、これは国の借金などではありません。単に税金として回収した紙幣を再利用して支出に流用したときに、それだけでは不足する貨幣の製造を、政府にはお札すなわち日本銀行券を製造する権限が無いので、かわりに政府に発行権限がある国債を発行することで代替しているに過ぎません。

 つまり、国債の発行とは国の借金などではなく、政府に権限が認められた範囲での通貨の追加発行に過ぎないわけです。だって、国債を発行するときは、日本銀行券と交換するということだし、国債の償還に際しては、日本銀行券に変換するか、新たに発行する国債と交換するかどちらかなんですから、これは国債というオカネが日本銀行券というオカネと相互に両替している、というだけのことに過ぎません。そもそも国債が政府の負債だというのなら、日本銀行券は日銀の負債です。負債という意味ではどちらも同じです。なのにその一方である日本銀行券をオカネだと主張するのなら、国債もオカネであると主張して何が問題なのでしょうか?

 ですから、「国債の累積発行額が1000兆円を超えた」というニュースも、「国の借金が1000兆円を超えてしまった。大変だぁ」ではなく、単に、「政府権限による貨幣の発行実績が1000兆円を超えた」というだけのことであり、「これから1000兆円を超える借金を返していかなければならない」んじゃなくて「国民の間に1000兆円も貨幣が増えたんだ。それだけ国民が豊かになった証拠だ。素晴らしい!」と喜ばなくてはいけません。

 さて、このように、国債が実は日本銀行券とは別種の通貨の発行に過ぎないというのなら、「じゃあ予算のすべての財源を国債で賄えばいいじゃないか。何で税金なんか徴収するんだという疑問が湧いてきませんか?

 もうおわかりでしょう?そもそも貨幣は国家(統合政府)が発行元なんですから、自分が発行しているものを、わざわざ人からかき集める必要なんかなかったのです!つまり税金とは通貨発行で市中の貨幣が増えすぎるとハイパーインフレなどの弊害をもたらすから、それを防ぐために市場から貨幣を回収しているだけだったのです!!。

 つまり、近代国家においては税金というのは、集めたら即シュレッダーです。逆に財政支出はオカネを輪転機で刷って支出するだけです。ただ、現実には輪転機でオカネを刷るにはそれなりに新たに資源を使うので、もったいないから税金として回収した紙幣をシュレッダーにかけるかわりに、これを再利用して資源の無駄遣いを省こうってだけの話です。

 以上のように、世間一般におけるオカネの常識は、至る所で常識的判断が実は間違っていた、という事実のオンパレードです。このことを、まずは皆さんが自分自身で心の底から納得し、更に未だこのことを知らない99%の一般の人々にぜひとも拡散して欲しい。そして、人を説得しようとする人たちは、このことを十分自分の中で、腑に落ちた上で説得に当たらなければなりません。

 この原稿は、単に貨幣の真実を説明するというよりは、単に理屈だけでなく腑に落ちることを願って書いたものです。人を説得するには表面的な理解、あるいは理屈を必死で追いかけて理解したというだけでは、なかなか人を心から説得することはできないものです。今回の一連の投稿が、単に自分が納得するだけでなく、人を説得する場合においてもその一助となるならば、筆者としてこれ以上の喜びはありません。