WEBフォトエッセイ015(初稿:2006/2/11, 更新:2008/3/27、2009/2/3,3/11)
平野郷を歩く
大阪市平野区の旧本郷七町と周辺の町


2007年2月11日、2009年2月3日、3月11日更新
写真と記事:尾林 正利
2010年4月に公開しているフォトエッセイ・・ さくら | 京の春 | 大阪今宮の十日戎
平野郷の北隣、旭神社の節分祭(火焚き串祭:ごまたき)





大阪市平野区加美正覚寺(地名)は、旧・平野本郷七町外の北隣にある町です、この町も歴史が古く、町内には古い街並みが所々に残っています。旭神社は加美正覚寺の氏神神社で、夏祭りには「だんじり」が宮入します。

旭神社の「節分祭」は、毎年2月3日に行われ、朝9寺から氏子さん達が集まって「餅つき」をします。御祭神に御供えする「鏡餅」と、「厄除け餅」がつかれ、たこ焼きサイズの「厄除け餅」は数個づつ袋詰めにされて、有料で参拝者に授与されるようになっています。

神事の開始は午後1時からです。奈良県の大峯山で修行を積んだ「修験者(しゅげんじゃ)」がホラ貝を吹きながら隊列を整えて本殿に参内(さんだい)し、宮司さんから修祓(しゅばつ)を受けてから、「火焚き串祭り・通称ごまたき)を行います。

修祓によって神事資格を得た修験者が、神社の境内は浄域ですが、さらに四方に「結界(けっかい)」を張り巡らして厳密な浄域を設け、結界内から邪鬼を弓矢で追い払い、呪文を唱えながら参拝者の名を書いた護摩木(ごまき)を浄らかな火で焚きあげる神事を行います。修験者は旭神社の氏子さん達で、毎月、吉野山や大峯山で修行を励んでおられる方もいました。
護摩焚きの神事は厳かに粛々と行われ、2時間ほど掛かりました。ごまたきが終わると、小さなビニール袋の中に入った福豆が大勢の住民達に撒かれて神事が無事に終わりました。

カメラ:Canon EOS5D
レンズ:EF24-70mm f/2.8L USM使用
露出:シャッター速度優先AE
スピードライト:Canon 580EX使用
撮影日:2007/2/3・尾林

摂津国(今の大阪市)・平野郷の古地図

平野郷(ひらのごう)は、9世紀初めの嵯峨天皇の御代から16世紀の織田信長の時代までは「荘園(しょうえん)」でした。平安貴族の坂上広野麿(さかのうえの ひろのまろ)が、嵯峨天皇より「薬子(くすこ)の変」で、父の坂上田村麻呂と共に平城上皇の平城京遷都を阻む手柄をたてて、上絵図の土地を賜り、荒れ地を開墾したのが平野郷の始まりとされています。絵図の中央上にある杭全神社(くまたじんじゃ)も坂上広野麿の子孫「坂上当道」が創建したようです。詳しくは杭全神社さんのホームページで...。

やがて、広野麿の荘園は、摂関家の藤原氏を通じて宇治平等院へ寄進され、約500年間は宇治平等院の寺領であったため、寺領の特権である「不輸(ふゆ:田租非課税)・不入り(検田使の立ち入り免除)の権」がある官省符荘に認定され、平安時代は徴税役人の国司が、鎌倉・室町時代には、守護・地頭が「平野荘」の領内に立ち入ることはできず、平野荘は坂上家の宗家が代々に亘って惣年寄(そうとしより)の任務を務め、地下請(じげうけ)などをしながら、平等院へ年貢を納めて自治を行っていたと伝えられています。(資料:平野郷町誌)

平野郷が最も栄えるのは、豊臣から徳川時代の前期で、平野郷から富商が輩出し、朱印船貿易や銀座(銀貨鋳造)の頭取として活躍する商人も現れました。「摂州平野大絵図」は、徳川家康が、平野商人の末吉孫左衛門吉安に命じて、元和元年(1615年)の大坂の役(夏の陣)で兵火に遇った町を整備させ、町割が整った後の宝暦13年(1763年)に描かれたものです。絵図には、「古名ノ杭全荘、広野荘、平野荘ヲ今ハ
平野郷町ト云フ」と書かれています。平野郷には、三つの街道が交差していました。
奈良街道(平野郷から西は大坂道、東は大和道)、八尾街道(平野郷から西は住吉街道、東は河内信貴道)、中高野街道(平野郷から北は玉造天満街道、南は高野道)です。

江戸時代の平野郷町は七町から成立し、田畑を除く郷の市街部を環壕で囲み、三街道と通じる13カ所に木戸口(平野郷十三口)を設け、門の傍に門番屋敷も置いて、街道に出入りする通行人の荷物検査などを行っていたようです。市町の北から流町へ縦貫する街道が中高野街道、泥堂から野堂へ横切る街道が奈良街道、背戸口から野堂の東を横切る街道が八尾街道(野堂側出入口は奈良街道と共用)です。


大正13年頃(1924年頃)の平野郷町の地図(赤い線で囲ったところ)です。
平野郷の範囲は、広義の解釈では、平野郷町(本郷という)+現在東住吉区の新在家(現在名は杭全:くまた)、今在家(現在名は今川)、中野、今林、の四散郷が含まれます。喜連村との境界は、平野郷内の辰巳池から多目的の水路が西側の今川まで掘削され、掘削した土砂で「平等堤」が築かれて領地の境界線になってました。この堤が喜連村にも掛かっているところから、水路の領有権を巡って喜連村と争ったことがあります。

明治22年に全国の自治体に市町村制が実施され、明治元年からの野堂の表示は大阪府住吉郡平野野堂町という住所表示でしたが、明治22年からは、大阪府住吉郡平野郷町大字野堂になりました。明治29年に住吉郡が東成郡に編入された時の野堂の住所表示は、大阪府東成郡平野郷町大字野堂でした。大正14年に平野郷町と喜連村は大阪市に編入されて平野郷の町名は消え、大阪市住吉区平野○○や平野○○町になりました。その時の野堂の表示は、大阪市住吉区平野京町や平野新町、平野三十歩町、平野梅ヶ枝町、平野政所町などという名前になっています。市街を出ると田畑の方が多いですが、2007年2月現在では、住宅や商業ビルが密集しています。

地図には国鉄関西本線や奈良街道(今の国道25号線)、チンチン電車の阪堺電気軌道(大正4年:1915年に南海鉄道と対等合併で社名を南海鉄道に変更)平野線が田圃の中を通っています。この地図を拡大しますと、平野郷を守る環壕は昭和の初めにはまだ残っていたようですね。杭全神社の西には大日本紡績平野工場(元は明治20年に創業した平野紡績)や平野撚糸工場、辰巳池の傍には富川?織布工場があって、平野は紡績の町であったことが、地図で判ります。

平成19年の平野郷
(現在の大阪市平野区平野本町の界隈)

平成19年(2007年)1月23日の「平野郷町」の展望。
平野区平野本町(旧・野堂町:のどうちょう)に建っているビルの最上階から、北側の旧・泥堂町(でいどうちょう:現在の平野上町や平野宮町、平野元町)方面を眺めた光景で、今ではこの界隈に田圃は殆どありません。

写真中央の奥に杭全神社の大楠(おおぐす)がチラッと見えます。左端の上には大念仏寺の屋根も見えます。
マンションも所々に建っていますが、平野の中心部は、今でも二階建ての古い町家が多いです。

江戸時代〜明治初期は、舟運が盛んだった平野川
平野郷の歴史と共に流れてきた「平野川」です。右側が杭全神社の鎮守の森です。
平野川は、宝永元年(1704年)に大和川の川違え(かわたがえ:河川の付け替え工事)前は、羽曳野市を縦貫する東除川と繋がっていて、狭山池を水源としていました。

川違え後は、新大和川の柏原付近に設けられた樋門を水源として柏原村から小型の舟が往来できる水路が開削され、弓削を通って八尾の亀井で平野川と合流していました。

当時の柏原村は、付近の新田開発によって綿の栽培が盛んで、原綿を「柏原船(かしわらせん)」に積んで下流の平野に運び、平野郷にあった数軒の「木綿繰屋(もめんくりや)」で原綿の加工(綿くり、綿打ち、糸くり)するビジネスが生まれました。

柏原船は20石船(米に換算すると、約3トン積み)で、全長13.5m、最大幅2m余りの細長い舟だったそうです。かっては平野川の両岸に柳が植えられていたそうですが、昭和27年の大雨で平野川が増水し、樋尻橋付近の堤防が決壊したため野堂町が浸水し、今日のような姿に堤防が改修されました。

平野川は平野郷からの下流は、今川(鳴戸川)と駒川に合流し、北上して寝屋川や大川(淀川水系)と合流しています。柏原からの平野川を利用した舟運は、明治中期の鉄道の発達(国鉄関西本線の開通)によって、明治の終わりには姿を消しました。写真の平野川は左に曲がっていますが、真っ直ぐ進んだ今の杭全公園内に「柏原船」の舟着き場があったようです。

織田信長軍の攻撃を防ぐ、自衛の為の環壕(かんごう)

 
杭全神社(くまたじんじゃ)の本殿東側にある環壕(かんごう)の跡で、現在は300mぐらいしか壕(ほり)が残っていません。しばらく眺めていると、壕に放流されている鯉が近寄ってきました。

ここの環壕が造られた目的は、戦国時代に織田信長が平野郷の惣年寄に法外な「矢銭(やせん:軍資金・戦費)を要求し、値切ったので脅され、平野郷を織田軍から守るために環壕や土塁が設けられたそうです。しかし、守ってくれるものと頼りにしていた地元大名の三好家の力が弱まったので、信長の強引な要求に従わざるを得ませんでした。

平野郷の氏神様、杭全神社(くまたじんじゃ)

上の二枚の写真は杭全神社(くまたじんじゃ)の拝殿(上)と本殿(下)です。平安時代初期に、杭全荘の元領主であった坂上広野麿の子孫によって創建されました。地元の産土神(広野麿の父・坂上田村麻呂)を祀り、地元の氏神神社でもあります。明治時代に内務省神社局から「府社」に列せられ、神社建築や境内の佇まいに格調の高さが見受けられます。
毎年7月11〜14日は平野郷の夏祭りが、杭全神社の例祭として盛大に行われ、13日の夜には旧・平野郷町から9台のだんじりが宮入します。

拝殿の後ろに、和歌山県新宮市の「熊野速玉大社」と似た華麗な三本殿があり、熊野三所権現もお祀りしているそうです。第一本殿には、御祭神のスサノオノミコトをお祀りしてあり、スサノオは祇園宮の守護神・牛頭天王(ごずてんのう)と習合したと伝えられ、杭全神社でも参拝者に「牛王神符(ごおうしんぷ)」を授与されているようです。

平野郷に多い石の道標(みちしるべ)
杭全神社の大鳥居の近くにある道標(みちしるべ)です。奈良街道と中高野街道の交差点近くにあります。大きさが分かり難いので、下校途中の小学生に協力して貰いました。ありがとう。何年生か訊くのをうっかり忘れてしまいました。

寛政12年(1800年)に建てられた道標の右の下に「かうや山(高野山)・大峯山上・ふぢゐ寺(藤井寺)」が刻まれ、杭全神社は「熊野権現と祇園宮」を祀っていた神社であることがよく解ります。平野郷を歩いていると、道標が非常に多く、大峯山やこうやと書いたものが多いことから、平野には大峯山に登って修験道に励む人や高野山にお詣りする人が多かったのでしょう。

平野郷の13カ所にあった木戸口の傍の地蔵堂

平野郷と諸街道を結ぶ出入口には十三カ所に木戸口があって、惣門(そうもん:代官を置かず、年寄という町内の有力者が自治を行う集落を惣という)の傍には、門番屋敷と遠見櫓、地蔵堂が設置されていました。写真の地蔵堂は小さいですが、昔は堂内に十数名が入れる大きさだったそうです。地蔵堂の役目は、平野郷の人々が惣門を出る前に、旅の道中の安全を祈るために設けられました。

写真上は「流口地蔵(ながれくちじぞう)」で、写真下は「樋ノ尻口(ひのしりぐち、ひのじりぐち)地蔵」です。樋ノ尻口地蔵堂は、大坂の役(夏の陣)の時、真田幸村が徳川家康の平野入りを予測して地蔵堂に地雷を仕掛けて退散しました。そこへ予測通りに家康がやってきて樋ノ尻口の地蔵堂で一服しましたが、その時は爆発せず、家康が天王寺の茶臼山へ向かった時に爆発したという話が残っています。

右側の倉庫は、野堂東組の地車庫(じしゃこ・だんじり小屋)です。だんじり小屋の後ろにある煙突は銭湯の煙突で、平野郷界隈を散歩していると、平野にはお風呂屋さん(銭湯)が多いことが分かりました。平野地区は太平洋戦争末期にB-29の空襲を免れ、風呂の無いような昭和初期の民家が今でも多く残っています。

平野郷の中心は、野堂の全興寺(せんこうじ)さん
原の中に薬師ができて、人が集まって住みついた。


お寺の境内に「駄菓子屋博物館」
平野郷町の中心にある「薬師堂全興寺」です。全興寺(せんこうじ)には、ミナミの法善寺横町にあるような水掛け不動さんがあって、参拝者がひっきりなしに訪れる人気のあるお寺でした。全興寺は杭全神社の夏祭りで神輿渡御の御旅所にもなっています。
本堂の西に水溜まりがあって、冬なのにメダカが群をなして泳いでいました。平野郷内をくまなく散歩していて疲れ、ここの境内で一休みしていたら、心が落ち着きました。

また、ここの境内には「駄菓子屋さん博物館」があって、土・日・祝日には無料でオープンしています。博物館では駄菓子の販売はしていません。脱水が手回しの洗濯機や氷柱で冷やす冷蔵庫、真空管式のラジオも展示しています。

お寺の境内で、紙芝居


全興寺の境内で、5年前から毎月第四日曜に行われている「紙芝居」です。「平野の町づくりを考える会」を主宰する全興寺のご住職(一番上の写真の方)が地域のイベントをプロデュースされています。紙芝居をする日は、紙芝居を語るボランティアの方も参加しています。

IT時代になっても、紙芝居を観る子供たちの表情は楽しそうです。ぼくが子供の頃に紙芝居を観たときは、駄菓子付きで5円だったと思いますが、今は100円でした。紙芝居の道具を運搬する自転車のコダワリがいいですね。

平野から消えた南海(阪堺電軌)のチンチン電車。
商店街に人通りの少ないのがチョット気になる。


昭和55年(1980年)、平野中央通商店街の西にあった南海平野駅から、天王寺や恵美須町まで66年間も走り続けてきたチンチン電車が、地下鉄谷町線の八尾南までの開業に伴って廃止にされました。

阪堺電気軌道(当時は南海)は、八角形の平野駅と構内線路と、さよなら運転のヘッドマークを付けたチンチン電車(221号)を現地に永久保存する予定だったそうですが、駅舎と保存車両の管理維持の費用捻出の問題もあって保存計画は中止され 、跡地は殺風景な公園になってしまいました。タイルで線路や枕木を描いても、絵に描いた餅です。もう一回、往時の光景を復元した方が商店街の活性化に役立つと思うのですが...。

今なら、阪堺には廃車待ちの古いチンチン電車もあります。ただし、チンチン電車や駅舎をただ展示しておくだけでは意味がありません。電車を待ち合わせ場所のおしゃれな店舗として、ショーイベントの簡易ステージとして、駅舎の中を展示場にしたり、人集めにジャンジャン活用する工夫が必要になるでしょう。


阪堺のチンチン電車は今も健在で、写真のような昭和3年製(モ161型は、今年79歳)の電車が、2007年も現役バリバリで大阪市内や堺市内を走っています。そろそろ大阪市は上の写真の電車に「重要文化財」を差し上げてもいいのとちがいますか。2007年5月26日に懐かしい「阪堺標準色」の車両(モ163)を発見したので追加撮影しました。下降式ウィンドウと木製のブラインドが懐かしいですね。二度と広告塗装にして欲しくない貴重なチンチン電車です。
平野郷の老舗(しにせ)

散歩中に見つけた酒屋さんで、平野酒のことをお訊きするために立ち寄ってみました。店内に入ると、陳列台ががっしりした一枚板の棚で、圧倒されてしまいました。
お店の方のお話では、現在、平野区内には造り酒屋がなく、平野区の地酒としての「平野酒」は生産されていないとのことでした。

昔は、メーカーさんも販売店さんも、売る商品に自信と誇りを持って商売していた様子がひしひしと伝わってきます。現在もそうあって欲しいのですが...。



平野郷には、和菓子屋さんが多いです。平野郷にはお寺が非常に多く、法事などで親戚縁者が集まって和菓子を食べる機会が多いのでしょう。上から二番目の福本商店は、創業300年の老舗で、300年前から「亀乃饅頭」を製造・販売しています。

「亀乃饅頭」は、300年前に作られた型枠の中に菓子材料を流し込んで焼き上げたもので、皮は香ばしく白あんと合って、美味しい饅頭です。亀の形が面白いので、数個買ってきて事務所で写真を撮ってみました。五個買って600円でお釣りがきました。濃い目のお茶と一緒に食べてね。


写真のタバコ屋さんが老舗かどうかはお訊きしなかったが、ぼくが子供の頃に祖母のおつかいで行ったのが、写真のような感じの「タバコ屋」さんでした。タバコの空ケースを集めて「べったん」を作り、路地でよく遊んだものです。自販機がなければ、もっとレトロチックなのですが...。「まつや」さんは、染織関係のお店でした。

平野郷の古い町家
ここはホンマに大阪市内?道が砂利なら、時代劇の背景にピッタリ





現在の平野区平野本町や平野東の町内には、戦前からの古い町家が沢山残っています。2009年2月2日、そんな古い町家の3軒の玄関に、太平洋戦争前の町名が書かれたプレート(平野郷公益會 発行)を見つけました。
大正14年(1925年)〜昭和18年(1943年)までは、大阪市住吉区の中に平野があったわけです。
平野本町や平野東の中に、北の方から順番に平野京町、平野新町、平野三十歩町(ひらのさんじゅうぶちょう)があり、その南側の通りは平野梅ヶ枝町、さらにその南は、平野政所町(ひらのまんどころちょう)になっていました。さすがに、大正14年以前の大阪府東成郡平野郷町大字野堂の住所札を掲げているような町家はありませんでした。
平野郷の南に隣接した喜連郷の西喜連村と中喜連村(現在は平野区喜連)の古い町家
(喜連小学校前の周辺)喜連と瓜破の詳細はこちらへ(配信停止中)


平野郷の北東に隣接した加美鞍作(かみ くらつくり)の豪農の邸宅
国指定の重要文化財建造物の「奥田邸」です。門の中の屋敷や蔵は江戸時代初期の建物が現存していて、後継者の方が実際に生活しておられます。
重文の写真撮影のOKが出れば、掲載します。

加美鞍作の「がんこ平野郷屋敷」




今は「がんこ平野郷屋敷」になっていますが、元は鞍作村の庄屋さんの屋敷を店舗用にリニューアルしたものです。庭園も立派です。
昼食時には、お琴の先生が来店して、先生の(写真の女性はお店の方)の演奏を聴きながら食事が出来るなんていいですね。

ここの展示館には、何と、「伊万里赤絵」や「楽焼」の茶碗、由緒のありそうな掛け軸などが展示してありました。
屋敷内には、都島区の太閤園の庭園を小ぶりにしたような美しい日本庭園もあって見物もできます。駐車場は店の北側にあって、親しい人同士の食事や宴会などには、なかなか良い所ですよ。ここは、お座敷だから穴の開いた靴下には気をつけてね。

古き佳き時代の平野郷に近代化の波
平野郷や喜連の楯原神社周辺の古い街並みの中を歩いていると、大阪市内という感じが全くしません。

しかし、古い町家や民家が軒を連ねる平野郷の中心に、高層マンションが建ちはじめ、これから先、大阪市は重要伝統的建造物群として平野郷の景観保存ために建築規制をするのか、民間開発の成り行きに任せて街作りを進めるのかを検討しなければならない時が迫ってきているようです。

なにわ七幸巡りの名所・大念仏寺
平野の名所・大念仏寺(だいねんぶつじ:創建は12世紀ごろ)です。
大念仏寺は、大相撲の大阪場所で東関部屋(あずまぜきべや)の宿舎になるので、横綱・曙の全盛時代に、相撲の稽古の写真を撮りに伺った思い出があります。

毎年5月1〜5日の万部法要「万部(まんぶ)おねり(大阪市指定無形民俗文化財)」は、広い境内が大勢の参拝者で混雑するそうですが、まだ見ていません。また大念仏寺では、除夜の鐘を打つのを希望者に開放しているそうですよ。煩悩の多いぼくは、一度鳴らしてみたいですね。

平野郷の人々はお祭り好き


平野と言えば、杭全神社に宮入する、平野郷九町(平野郷で一番大きな野堂町が、野堂北組、野堂東組、野堂町南組の3町に独立)のだんじり曳行が有名です。
旧平野郷の野堂町南組(平野南)や流町の町内には、現在でも田圃が所々に残っています。2007年でも大阪市内に田圃が所々にあるのは、平野区や東住吉区ぐらいでしょう。平野郷夏まつりは、毎年7月中旬に4日間行われています。写真は野堂町南組のだんじりです。男子中学生も参加できます。女性が参加できるのは、9町の内で2町だけのようですね。

木田商店は、だんじりを曳く平野の男なら、誰でも知っているお店です。平野本通商店街のアーケードの中にあります。
祭礼に必要な衣裳やアイテムがここのお店で調達できます。今まで祭りの法被などを着たことがないので、今年は夏まつりの法被を着て、はしゃいでみたいですね。2007年7月にその夢が叶い、野堂町南組地車委員会様のご許可を戴いて、 平野郷夏まつりで、だんじりの曳行を取材しました。是非ごらん下さい。(配信停止中)

三十年先の平野郷を支える人々
平野郷には、写真のような路地が多いです。この路地は園児の通園道になっているようです。選挙権のない園児たちの目の高さに政治家の講演会ポスターが貼ってあって、思わず苦笑してしまいました。恐れ入りました。平野の未来はこの子たちにかかっているのです。

平野郷の撮影データ
カメラ:Canon EOS 5D、EOS 5D Mark2
レンズ:EF24-70mm f2.8L USM、EF24-105mm f4L IS USM
露出:ISO400〜800、シャッター速度優先AE、
スピードライト580EX使用
撮影月日:2007年1月22,23,28日、2009年2月2日

平野郷を歩く
摂津国に繁栄した、中世の環壕自治都市


2007年1月22日〜2月3日に取材
写真と記事:尾林 正利


2007年の2月7日になって、大阪府羽曳野市から大阪市平野区内に住居と事務所を移してから1年が経った。
昨今、目まぐるしく様々な出来事が次々に発生し、世の中の情勢が日々変わっていく1年っていう時の長さは、本当に短いものである。
とくに昨年(2006年)は、泊まり掛けで青森、岐阜、和歌山、佐賀県などへ「祭」をテーマにした写真取材に出掛けたり、通常の仕事の方もやや右肩上がりになって忙しくなり、1年があれよあれよという間に過ぎていった。

羽曳野市に住んでいた頃は、体調維持のため、雨天の日や用事のある日を除いて、四季に関係なく、ほぼ毎夕に自宅から往復で約4kmほどの道を45分かけて散歩していて、65kg±1kgの体重を何とかキープしていたのだが、大阪市内へ引っ越して散歩を中断した途端に、70kgを軽くオーバーしてしまった。

二十代の時は、いくら食べても飲んでも太らない体質であったが、中年になってから肥えやすい体質になってしまった。世間でよく云われているメタボリック・シンドローム(内臓脂肪型肥満症)に罹ってしまったのである。

これは熟年になってから、ぼくの仕事の性質が「動」から「静」に変わってきたからであろう。
五十代になるまでは、ロケ撮影やスタジオ撮影が多くて、ハードな立ち仕事が殆どであったが、五十代になってから、パソコン(Mac)の前に長時間座り続けてデザインや画像処理などのデスクワークが多くなって、運動不足がちになったせいである。
10年ほど前(1997年頃)のApple社のユーザーガイドには、PowerMacでの作業は2時間毎に30分間ほど休憩して、休憩中に軽い体操をするように書かれてあったが、それを一々守るのは面倒くさいものである。

だから、昨年は撮影取材の仕事に重点を置いたので、第一線カメラマンであった頃のシャッターを切る感覚と体のキレが少し戻ってきたが、体重は一向に落ちなかった。
重いカメラバッグと脚立を担いで各地を歩き回っていたら、痩せるどころか、逆に上体に筋肉がついて太ってしまったのだ。

そこで、2007年1月から再び趣味の散歩を再開することにした。今年の計画は、1年間で5kg落とす目標を立てた。仕事や雨天の日もあるので、週に2〜3日ぐらいの散歩なら気長く続けられそうだが、結果はメタボのままであった。

ところで、散歩といっても、どんな場所でやってもいいということではない。
ぼくの場合はコダワリがあって、散歩のコースが変化に富んでいて歩いて楽しくなるようなロケーションでなければ長続きしないのだ。
幸いにして、昨年2月に引っ越してきた大阪市平野区喜連(きれ)の繁華街から7〜8分も北に向かって歩けば、豊臣時代から江戸時代初期までの間、朱印船貿易で栄えた堺と同じような、環壕集落の自治都市であった「平野郷(ひらのごう)」の区域に入る。

この区域をこれからの散歩のコースに選ぶことにしたが、平野郷の名前は知っていても、2007年の1月まで、平野郷ってどんなところかは全く知らなかった。区役所の広報に訊いても、ちゃんと答えられるような方がおられない。

郷土のことを調べるのは、平野図書館へ行って郷土史を読むのが手っ取り早い。平野図書館は旧郷町の中を2日間くまなく散歩している時に偶然に見つけた。早速、数冊の本を二週間お借りして読むことにした。
それから、平野郷の氏神神社である杭全神社(くまたじんじゃ)にも行って、夏祭りの情報についてお訊きしたところ、親切な神職さんから「杭全神社 平野郷夏まつり」という、A4判・40ページ・オール4色刷りの豪華なしおりまで頂いた。本当にありがとうございました。

その豪華なしおりを開いてみると、
「杭全神社 平野郷夏まつり」が、岸和田祭礼(岸和田だんじり祭」に劣らない盛大なお祭りであることがよく分かった。
また、旧平野郷町の野堂に長くお住まいの方で、「平野歴史民俗研究会」のK氏をお訪ねして、平野の歴史を語って頂いた。


平野郷の始まりは平安貴族の荘園
開墾地系荘園から寄進地系荘園の時代


先ず、平野の名の発祥についてだが、これには諸説がある。ぼくが読んだ数冊の史書を参考にして要約すると、平野の誕生は、今から約1200年前の平安京遷都の頃に遡る。

桓武天皇は、延暦13年(794年)の平安京建都の造営や移転事業の他にも大きな仕事があった。それは奈良時代の終わりになっても、天皇の支配力が本州の東北地方に及んでいなかったので、強固な中央集権国家を築くため、約4000人の討伐隊を京から奥州の蝦夷地(えぞち)へ派兵して、主導者を捕らえ、蝦夷(えみし)たちを服従させることであった。しかし、帝の思し召し通りには行かず、中でも奥州胆沢(いさわ:岩手県奥州市水沢)に住む蝦夷(えみし)の族長「アテルイ」は、数百の寡兵ながら戦略に長け、数千の官軍を破り、官軍に多くの犠牲者が出た。
桓武天皇は、二度目の蝦夷討伐隊に優れた武官であった坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ:正三位大納言・征夷大将軍)に命じて、精鋭部隊を編成し奥州に派兵した。坂上田村麻呂の官軍は、困難を極めた戦の末に主導者のアテルイを拘束し降伏させ、アテルイとモレの主導者二名は京へ連行した。アテルイとモレは、帝に臣従の誓いをしたので、仲間を説得させる為、田村麻呂の温情で捕らえた二名は奥州へ放免される筈であったが、諸侯が集まって詮議の結果、河内国で処刑された。

坂上田村麻呂の祖先は古代中国王朝の王家の血統に遡る家柄で、田村麻呂は四代の天皇に亘って武官として要職に就いた。
桓武天皇の崩御後は皇太子の安殿親王(あてのみこ)が平城天皇(へいぜいてんのう)になったが、平成天皇は幼少より病弱であったので、桓武天皇の遺言により、皇位を弟の神野親王に譲って上皇になり、上皇の弟は嵯峨天皇になった。
ところが、嵯峨天皇は先帝が決めた「観察使」の制度を廃止にしたので、兄弟の確執が起きるようになった。上皇側の反発によって、平城京遷都の詔が下された。
上皇へ平城京遷都の詔を促したのは、上皇の后「藤原帯子」の母である尚侍(ないしのかみ しょうじ:最高位の女官)の「藤原薬子(ふじわらの くすこ)」であった。

薬子は上皇を天皇に復権させるため、内裏を平城京に移して上皇の権力強化を謀ろうとした。これが「薬子(くすこ)の変」である。
嵯峨天皇も一時は上皇の詔に従おうとしたが、上皇側に挙兵の動きがあったので、坂上田村麻呂に命じて、上皇の挙兵の動きを阻止させた。田村麻呂の軍勢に対し、勝機が無いと察した上皇は剃髪して出家し、首謀者の薬子は権力への執着が断たれて自殺した。
坂上田村麻呂は二男の広野麿(従四位下・右兵衛督:うひょうえのかみ・天皇の護衛長官)と共に出陣した。この手柄によって、広野麿は、摂津国住吉郡杭全庄の未開地を墾田開発して荘園とするように下賜されたのであった。

奈良時代から平安時代になるまでは、日本の国土は殆ど天皇の土地で公領にされていたが、9世紀頃の平安時代になると、上級官職の貴族や仏教勢力が特権を持つようになり、耕作地の私有化・寺領化が認められるようになった。これが荘園である。
荘園というのは、平安時代の天皇が有力貴族や有力社寺に田畑になりそうな未開地を下賜し、公領の口分田(くぶんでん)以外の墾田開発を積極的に促して、田租による国税収入を増やす目的で私有化を認めた場所である。
荘園のいわれは、領主が田畑と農民を管理する屋敷や農作物を保管する倉庫を建てたので「荘園」という名が付いたそうだ。荘園にも税制上、輸租田(田租課税、農民には賦課や賦役有り)と不輸租田(田租免除)があったが、墾田の殆どは輸租田扱いで、国衙(こくが:地方の役所)の役人が調査にきて田租や賦役などが課せられたが、荘園で働く農民は公領の口分田で働くよりは、労働や賦役の負担は軽かったようだ。

公領の田畑「口分田:くぶんでん)」を耕作していた農民たちは、徴税役人の国司から、班田収授法による「租(そ:年貢米の納付)」、「庸(よう:年に60日の無償労役と10日間の宮城警備の義務)」、「調(ちょう:絹の反物や特産品の上納義務)」の搾取と労役で苦しめられていたので、逃亡する人が多く、畿内をさまよう流民になっていった。流民には奴隷のような人々もいたようだ。このような公領からの脱出者などを雇って開墾する荘園を「開墾地系荘園」という。

坂上広野麿は平安京を下り、摂津国住吉郡杭全庄に居を構え、大勢の農民や使用人を住まわせて村をつくり、荒れ地を開墾して米や農作物が収穫できるようにした。
広野麿が開拓した「広野荘」は、恒久的な「不輸(田租非課税)・不入り(検田使の立入免除)」の官省符荘(太政官と民部省が不輸不入を認定する)にするため、藤原氏へ寄進され、永承年代(えいしょう:1046〜1052年の間)に、摂関家の藤原頼通によって、宇治平等院に寄進された。既に開墾された荘園を寄進するのを「寄進地系荘園」という。

広野荘は後に「平野荘」ともいわれるようになり、平野荘が平等院の寺領になっていたのは、天文の頃(てんぶん:1532〜1555年の間)までらしい。現在でも、東住吉区中野に「平等橋」の名が残っているようだ。
現在は消滅している平等堤というのは、平野郷の南東にあった辰巳池(現在の平野南公園か?)から今川(鳴戸川)へ注ぐ堤のある水路で、平野郷町と喜連村の境界に設けられたもので、堤防は辰巳池や大和川支流の氾濫から平野郷町を守るためであったらしい。

開墾地系荘園を寄進地系荘園に名義変更するのは、特権階級だけに認められた税の優遇措置を利用するためであった。
開墾地系荘園の領主が、荘官や庄屋になって実質的には荘園の自治を掌握し、土地の名義を摂関家の藤原氏の領地や有名な寺社領にすれば、「不輸(ふゆ:非課税)・不入(役人の干渉禁止)の権」という特権が認められていて、徴税役人の国司が荘園内に入って耕作地の測量や雇い人の戸籍調査などが出来ない聖域になったからである。

勿論、名義を借りた領主には、お礼として年貢を納めなければならない。名義を貸す方は、手を拱いていても年貢や特産物が手に入るので、名義貸しを断るところはなく、平安時代の中期には寄進地系荘園が増大した。

やがて、武家社会になり、鎌倉幕府を開いた源頼朝は、義経討伐を名目に全国に守護・地頭を置いて、主に東日本にある荘園の検地を強制的に行って、領主や荘官の特権を剥奪していったが、畿内(きない:山城・大和・摂津、河内・和泉の諸国)には、その影響は殆どなかったようだ。

荘園内の中心部に集落を形成して荘民の結束を固め、集落の周囲を田畑で囲むような自治体を「惣」または「惣村(そうそん)」という。
惣村の中の有力者が代表(乙名:おとな:経験を積んだ複数の長老たちで、惣年寄ともいう)に就き、乙名の中には荘民から年貢米の地下請(じげうけ)などをやって、領主へ年貢を納めていたようだ。

地下請は、豊作・不作に拘わらず、毎年一定量の年貢米や特産品を領主に納めればよく、不作の時のリスクはあるが、地下請を行う惣年寄には惣民から手数料が得られ、領主からも信用もされ、子孫が継続することによって惣年寄たちは資産家になっていった。

惣村では、氏神神社の祭礼は惣村の結束力を高めるために重要な行事であった。神輿の渡御などは氏神神社の氏子構成員が中心になって祭祀(さいし)を行うが、氏子たちが会所に集まって、役割分担などを決めるのを宮座(みやざ)と言う。
宮座の代表には、乙名(おとな:惣年寄)が就任していたので、宮座の代表者が惣村の代表者と考えられるようになった。
平野荘の氏神神社は杭全神社であるが、杭全神社の創建者は、坂上広野麿の子孫だと伝えられている。

平野荘では、惣の代表になれるのは、坂上広野麿の嫡子の家系であるが、その宗家を「平野殿」と呼ばれるようになったらしい。しかし、平野荘は坂上宗家のワンマン統治ではなく、坂上家の分家も参加して、堺の会合衆(えごうしゅう)のような、坂上七名家(七苗家:しちみょうけ:野堂、則光、成安、利則、利國、安國、安宗)による七番頭の合議制を採った。※後に、野堂家は末吉、則光家は井上、利則家は三上、利國家は土橋、安國家は辻葩(辻花)、安宗家は西村と改称した。(坂上七名家の記事は、平野郷町誌を参考)

平野の地名は、荘園を開墾した広野麿の広野(ひろの)を地名に採用し、最初は広野だったが、やがて広野が平野(ひらの)に訛(なま)ったものとされている。
個人的には、平野という地名は、約500年間も宇治平等院の寺領(寄進地系荘園)でもあったことから、平等院の「平」と広野麿の「野」を合成して平野になったのではないかと思う。
その根拠の一例として、岸和田が「岸」という地名と「和田高家」という領主の名を合成して生まれた地名であるからだ。


写真上は、平安時代初期に建てられた平野上町にある長寶寺で、坂上家の氏寺である。征夷大将軍であった坂上田村麻呂が娘(坂上春子:桓武天皇の妃)が桓武帝崩御の後に出家し、慈心大姉と号したので、兄・広野麿の荘園の中に本山を開基して、尼僧になった春子が法灯を守って住んでいたと伝えられている。正門には「後醍醐天皇行在所跡」の碑が誇らしげに建てられている。
写真下は、現在は平野上町にある、平安時代に建てられていた坂上広野麿の屋敷跡の記念碑。近くには末吉家の邸宅が現存している。(2009/4/15・docomoのらくらくホンで撮影)

豊臣・徳川時代の初期
平野商人(政商)の誕生と光と影

坂上七名家で野堂家の血筋から、「末吉(すえよし)」の姓を名乗る者が現れ、やがて末吉家は、末吉藤右衛門行増の代に5名の男子がいて、長男は「末吉藤左衛門増久」を名乗って東家に、次男は、「末吉勘兵衛利方」と名乗って西家の家系に分かれた。

末吉の東西両家は、ともに時の権力者と巧みに結びついた政商となって、平野郷の歴史に大きな影響を与えた。
しかし、大坂の役(おおさかのえき)で、豊臣方についた東家と、徳川方についた西家では、江戸時代になってから明暗がハッキリと分かれてしまったようだ。

先ず、西家の末吉勘兵衛利方は堺の北の庄と南の庄で、天正11年(1583年)に馬座の権利を取得し、馬の売買と馬を使って運送をする独占権を得て、行商に乗り出した。
東家の末吉藤左衛門増久の次男・増重は天正11年(1583年)に秀吉から越前にあった北袋銀山の採掘権を所得し、文禄2年(1593年)に秀吉から朱印状を受けて鉱山採掘を行った。

豊臣・徳川時代は現代と違って、他国(外国ではなくて、今で言うと他の都道府県のこと)へ旅行するのは制限されていた。また、他国で商売するには、藩主発行の商用ビザが必要だったのだ。

現代では大阪から東京まで商用で出張するには、乗車券と特急券を買って東海道新幹線に乗れば、東京までパーッと行けるが、豊臣・徳川時代の日本は、通行手形という身分証明証(摂津国代官発行:今なら平野区役所発行の住民票に相当)と、出張先の国の藩主の朱印状または黒印状(江戸城主発行:今なら東京都知事の営業許可証に相当)が必要だったわけである。

徳川時代の東海道には箱根に関所があって、ここで通行手形の検札があった。
今でも江戸幕府が続き、そのような規則や制度があれば、上下の「のぞみ」は「三島駅」で停車して、沼津奉行(今なら沼津署)の署員が車内に乗り込んできて、乗客の通行手形を検札するとなると、日本の経済に大きな支障が出る。やはり、日本は封建主義時代には戻らない方がいいね。

平野郷は摂津国にあり、豊臣・徳川時代の平野商人は畿内諸国の往還は自由であったが、畿内を出て商いを行うには、諸国往還の許可証と商売保護の保証の二通が必要であった。

東家の末吉藤左衛門増久の次男・増重は、天正16年(1588年)に、秀吉から諸国往還の朱印状を受け、最上藩(もがみはん:山形県)から藩内の通関往来の黒印状を得た。
西家の末吉勘兵衛利方は、天正16年(1588年)に、岡崎城主であった家康から免船六隻分の国内港湾の出入りを許され、後に家康が関八州を領有したことで、大坂〜岡崎〜関東間の廻船業に弾みがつくようになった。
豊臣時代の平野荘は、秀吉の正室「おね、又は、ねね。高台院)」の領地であり、勘兵衛利方は、家康とも親しかった高台院を通じて、家康に便宜を図って貰ったものと思われる。

慶長3年(1598年)に秀吉は伏見城にて病死した。秀吉が命じた朝鮮出兵は依然として継続しており、豊臣家臣の中で出兵継続派と撤退派の抗争が起って、豊臣政権は盤石(ばんじゃく:強固)なものでは無くなっていた。
弟の秀長の死により、豊臣政権の行方に不安を感じていた晩年の秀吉は、亡くなる前に「五大老・五奉行」の制度を設けて、筆頭大老の家康に実子「秀頼(ひでより:側室・淀との子」の後見人に任命して臣従を誓わせていた。

しかし、秀吉の死後間もなく豊臣政権は脆くも崩れ出し、慶長5年9月(1600年10月)に家康と石田三成がそれぞれの派閥大名を巻き込んで争う、天下分け目の合戦「関ヶ原の戦い」が起こった。
結局、家康が関ヶ原の合戦に勝利し、家康は慶長8年(1603年)に伏見城で「征夷大将軍」を宣言し、同年より江戸城で徳川家による「江戸幕府」を開いた。恩賞のあった外様大名は石高が加増されたが、江戸より遠い西の国へ移封となった。
外様の扱いに家康らしい慎重さがみられるが、豊臣家の処遇が難題になった。

秀吉の実子・秀頼を改易(かいえき:財産と地位を没収して平民にする)してしまうと、秀頼の後見人であった家康は諸大名から信用を失い兼ねないので、家康は秀吉との約束を守って、三男秀忠(ひでただ)の娘「千姫(せんひめ:側室の西郷局との子)」を秀頼に嫁がせた。
そして、慶長10年(1605年)に征夷大将軍の地位を秀忠に譲って、秀頼を徳川秀忠に臣従させるように高台院に申し入れたが、秀頼の母・淀君(よどぎみ)が認めなかったので、徳川家と豊臣家の関係がギクシャクし出したのであった。

慶長19年(1614年)、そんな折りに豊臣家が五年もかけて、秀吉の供養のために建てていた方広寺で「鐘銘事件」がおこり、梵鐘に彫られた「国家安康 君臣豊楽」の銘文が問題になった。

この銘文は、大坂奉行の片桐且元が南禅寺の僧に選定させて鐘に彫らせたものだが、この銘文を家康が側近の僧や学者に解読させたところ、国家安康は、家と康を分断(徳川家を分断)し、君臣豊楽は、臣と豊が逆にくっついて豊臣家の再起繁栄を願っているとして、徳川家にとっては不吉な銘文であるとして家康を立腹させた。
家康は方広寺での秀吉の供養を延期させ、梵鐘を撞くのを禁止させたのである。

豊臣家は、奉行の片桐且元ほか数名を家康の居城・駿府城に遣わせたが、話がまとまらず、上げた拳を下ろすには、家康が納得するような豊臣側の譲歩が必要であった。
片桐且元は、家康のほとぼりが冷めるまで秀頼を大坂城から退去させれば解決できるとしたが、関ヶ原合戦の仕返しを果たしたいと思っていた強硬派の家臣は、方広寺の一件は家康の挑発だとして弱腰の奉行を追放し、合戦準備に入ったのである。家康の方も融和に応じない淀君の態度を察して合戦準備を密かに進めていた。
これが大坂の役(おおさかのえき)の原因である。

関ヶ原の戦いでは、平野郷は兵火に遭わなかったが、大坂の役では、再三に渡って兵火を受けた。
慶長19年(1614年)、家康と秀忠は、二条城に末吉孫左衛門吉安(西家)を召して、平野郷の安堵の朱印状を与えた。
同じくして、豊臣方からも末吉家の東家に、豊臣方に忠誠であるなら平野郷安堵の褒美を与えるという秀頼の黒印状が届けられたそうだ。

平野郷では、どっちにつくか、東西の末吉家が中心となって七名家で話し合いが長引いたが、結果として徳川側に味方することになった。

再び末吉孫左衛門吉安(以下吉安と記述)は京の二条城で指揮を執る家康に召され、「平野郷は大坂城兵の出陣が予測され、先に徳川方の兵を平野郷の警備につけるので、河内に向かっている三将の軍の道案内をせよ」との命令が下った。
吉安は京から下って、枚方(ひらかた)で陣を張っていた三将に会って平野まで道案内して鞍作(くらつくり)村まで来たところ、豊臣方の城兵が先に平野郷へ入って年寄(としより:平野郷町の責任者)5名を捕らえて、町内に放火した直後であった。

吉安も急いで帰郷して消火にあたり、徳川軍は、大坂城兵が襲ってこないように頑丈な門を設置して平野郷に守備兵を残して大坂城方面に向かった。
家康・秀忠も平野郷を通って、家康は茶臼山(現在は天王寺公園内)に、秀忠は岡山(現在の生野区勝山)に陣を張って大坂城本丸への攻撃態勢に入った。

家康と秀忠が率いる徳川軍は、朝鮮の役より4万人多い20万人の軍勢で大坂城を囲み、じりじりと近寄って、大砲300門で大坂城天守閣に向かって集中砲撃し、何発かは天守に着弾したので、籠城して家臣を指揮していた淀君は、和議に応じることになった。

しかし、翌年の慶長20年(元和元年:1615年)に再び合戦が起こった。
壕が埋められて丸腰になった大坂城での戦いが不利とみた豊臣方は、城外に出撃する作戦を立て、真田左衛門尉幸村と後藤又兵衛基次の軍勢は、大坂城から道明寺へ、長曽我部盛親の軍勢は八尾へ、木村重成の軍勢は、若江へ進軍した。

これに対し、東軍の主力は道明寺から平野を経由して大坂城へ進軍し、八尾街道や平野街道は両軍の往来が激しかったので、近くで壮絶な白兵戦が多く、両軍に死傷者が続出した。二度の役で平野郷でも大念仏寺の本堂や伽藍が焼かれ、かなりの町家(商家)や民家が兵火に見舞われたようだ。

大坂の役が終わって翌年の元和2年(1616年)に、幕府は吉安に平野郷の町制を行うように命じ、碁盤の目のような町割になるように道路を整備させた。これは、大坂の役の時に実際に家康と秀忠という二人の徳川家の将軍が平野郷を訪れており、兵火によって半ば焦土と化した平野郷の再生には、この際、町割をスッキリさせた方が町の美観と保安上において都合が良いと判断したからだろう。

さらに家康は吉安を二条城に召し、平野郷及び畿内五郡の代官に任ずるという恩賞を与え、吉安は志紀郡と河内郡の代官になった。
一方、東家の末吉藤左衛門増重は秀吉の正室・高台院の台所(だいどころ:金庫番・会計係)に命じられており、豊臣色が強かったので徳川家からは疎遠にされたようだ。


平野商人による銀座の設立と朱印船貿易

さて、末吉の西家が隆盛を極めたのは、銀座(銀行)の設立と朱印船事業(貿易事業)であった。
先述したように、吉安の父・利方の代から、家康の領地に免船6隻分の港湾出入りが許されて、太平洋沿岸航路の廻船業が始まっていた。

秀吉と家康の共通しているところは、外国文化に対する旺盛な興味であった。
秀吉は日本独特の封建主義体制に合わない天主教(てんしゅきょう:キリスト教)を禁じ、伴天連(バテレン:宣教師・ポルトガル語のPadreに由来)を国外に追放したが、貿易に関しては国益になるとして、航海の安全を期すために西国諸藩に和冦(わこう:日本の海賊)退治を行わせ、文禄元年(1592年)に、長崎・堺・京の商人に朱印状を与え、8商人から9隻の朱印船が長崎から出航した。

秀吉の狙いは、唐船(東南アジアと通商)・蘭船(西欧と通商)による、外国人の貿易独占を日本の商人たちにも門戸を広げたかったからである。
平野の末吉家(西家)が朱印船貿易に加わるのは徳川の時代で、慶長9年(1604年)〜15年まで呂宋(ルソン:フィリピンのルソン島)に航海したことが記録されており、京の清水寺に奉納された末吉家の絵馬には、寛永9年〜11年の朱印船の絵馬がある。

末吉家(西家)の朱印船貿易は父の利方、子の吉安、孫の長方、曾孫の長明の4代まで続き、寛永13年(1636年)の鎖国実施(邦人の海外渡航禁止令)の時まで貿易事業が続けられていたようだ。

一方、銀座の方だが、銀座というのは今でいうと日本銀行みたいなものである。品質の一定した品位の高い貨幣を鋳造して、貨幣経済の利便性を高めるため、国内市場に流通させる必要がある。
家康は、関ヶ原合戦後に佐渡金山などを手に入れたことにより、金・銀・銭(せん・銅銭)の三種の貨幣制度を設け、中でも純度84%の金貨・慶長大判は有名で、小判や一分金も鋳造された。

しかし、銀貨に関しては「秤量貨幣(ひょうりょうかへい)といって、形の不揃いな丁銀・豆板銀が発行され、銀貨の重さで金貨と換金された。このため両替商なる商売が生まれた。
銭に関しては、室町時代の頃に、明のから大量に輸入した「永楽通宝(永楽帝時代の通貨)」という銅貨が国内で一文銭(いちもんせん)として流通していた。一文銭は、今の1円玉よりは値打ちがあったと思う。銅貨やからね。それに、今の1円では何も買えない。

慶長6年(1601年)末吉勘兵衛利方は伏見城にいた家康に召された。この時、「願いあらば申せ、聞こう」との有難い仰せに、利方は、国内通貨を一定にして商いの利便を図り、とくに銀貨の品位を高め、極印(ごくいん:保証印)を打って通貨としての信用を維持したいことを述べた。
家康は快諾し、利方と後藤庄三郎の両名を頭取として伏見に銀座を設置した。

銀貨の鋳造は、既に伏見鋳造所が3年前に出来ていて、堺の銀吹き商人・湯浅作兵衛常是(大黒常是:だいこくじょうぜ)によって、大黒印を打った銀貨が製造されていたが、家康公認の銀座の設置によって、常是の鋳造所は伏見銀座の銀吹所となった。

大黒常是の方は、幕府に命じられて江戸にも銀座を開いた。銀座は東京が発祥と誤解している方は大変多いが、京都の伏見が始まりでなのである。
銅貨に関しては、寛永3年(1626年)に水戸の豪商が「寛永通宝」が鋳造し、出来が良かったことから、幕府は公用通貨として輸入銅貨の永楽通宝を廃し、寛永13年から幕府の鋳造所で寛永通宝の製造が本格化した。寛永通宝は、明治維新頃まで流通したそうだ。

このように末吉家(西家)は隆盛を極め、大坂の横堀川に私財を投じて橋を架けた。その名は「末吉橋(昔は孫左衛門橋)」である。※末吉橋は地下鉄・鶴見緑地線の松屋町駅出口の傍にある。
末吉橋は明治43年まで木橋であったそうだが、大阪市電の鉄橋になり、現在は鉄筋コンクリート製の橋である。何度も架け替えられているため、往時のイメージは全くない。


平野郷の町割の完成

元和2年(1616年)に、江戸幕府は代官で平野商人の末吉孫左衛門吉安に命じて、大坂の役で兵火に遇った平野郷の修復工事を命じた。
その後約150年経った宝暦13年(1763年)に製作された絵地図「摂州平野大絵図」を見ると、昔は平野郷町の市街地の外に二重の環壕(かんごう)が掘ってあったようだ。
奈良街道(今の国道25号線)は、江戸時代から平野郷を横切っており、その他の街道の出入口にも、合計十三カ所に木戸口(扉のある惣門)があって、木戸口の傍に遠見櫓(とおみやぐら)や門番屋敷・地蔵堂があって、門番が街道に出入りする通行人から荷物の点検などを行っていたらしい。

平野郷の環壕は、昭和初期の地図を見ると、阪堺電気軌道が大正3年4月(1914年)に今池〜平野間が開通し、それから10年経った頃でも環壕は未だかなり残っていた。但し、平野郷十三口の惣門は、明治15年(1883年)のコレラ流行の2年後に撤去されたようだ。

阪堺電気軌道の平野線は、地下鉄谷町線と路線が競合することから、昭和55年11月(1980年)に廃線になり、66年間も平野郷町の人々に親しまれた八角形の平野駅の駅舎とチンチン電車が平野区から消えた。また、環壕も殆ど埋め立てられた。

平野郷は、江戸時代初期にできた碁盤の目のような町割に、今でも築150年ぐらいの町家(商家)や土蔵、民家が所々に残っているところである。平野郷だけでなく、その周辺の加美正覚寺(かみしょうかくじ)や喜連4丁目周辺にも、レトロチックな街並みが残っている。これは、太平洋戦争末期の頃、平野区(戦時中は東住吉区)がB29による大空襲の攻撃目標から外され、平野付近が殆ど被弾しなかったことによる。

現在でも見られる平野郷の環壕跡は、平野郷の氏神神社である「杭全神社(くまたじんじゃ)」の東側に残っている。神社の東側は「柏原船(かしわらせん)」などの船着き場を埋め立てた杭全公園があって、公園の北側に鯉を放流した環壕の名残が見られる。また、平野公園内にも環壕の名残が見られる。


明治時代以降の平野郷

明治維新後の廃藩置県で、摂津・河内・和泉の三国は合併して大阪府(一時、大阪の名が消えて堺県になったこともある)になり、明治22年(1889年)になって大阪市が誕生した。
この時の大阪市は、東西南北の4区でスタートし、知事と市長が兼任し、庁舎も兼用であった。

明治22年(1889年)の平野郷町と喜連村は、大阪府住吉郡に編入。瓜破村と長吉村は丹北郡へ、加美村は渋川郡へ編入された。
明治29年(1896年)に住吉郡と東成郡が合併して東成郡へ、丹北郡と渋川郡が合併して、中河内郡になる。
大正14年(1925年)に東成郡の平野郷町と喜連村は大阪市住吉区に編入。
昭和18年(1943年)に住吉区から、住吉区・阿倍野区・東住吉区が分区し、大阪市は22区になる。旧平野郷各町と喜連は大阪市東住吉区に編入。
昭和30年(1955年)に中河内郡の瓜破村・長吉村・加美村が東住吉区に編入。
昭和49年(1974年)に東住吉区から平野区が分区。平野(旧郷町)・喜連・瓜破・長吉・加美は平野区へ編入。


平野郷と綿業

弥生時代の遺跡発掘などの出土品から、当時の日本人はすでに麻布の衣類を着ていたと考えられているが、綿で織った衣類は中世の頃まで無かった。
綿の種子が日本に渡来したことが文献で明らかになったのは平安時代の初期で、三河国幡豆郡(はずぐん)天竹村(てんじくむら)に漂着した崑崙人(こんろんじん:インド人)だとされている。この人物の名前は言葉が通じず不明だったが、この崑崙人は綿の種子を入れた壷を持っており、三河の国司は崑崙人が三河こ渡来した報告と持参していた種を蒔いて良いかどうかを使いを通じて桓武天皇に上奏した。

桓武帝はお慶びになり、崑崙人が持っていた種子は各国の国司に分配され、畿内や三河で綿の種が蒔かれたが、日本の風土に合わず、うまく育たなかったらしい。
15世紀の室町時代にも綿の種子が渡来人によって持ち込まれ、綿の栽培が実験的に行われていたが、良質の実に育てるのが難しくて、綿布は中国や朝鮮からの輸入品に頼っていた。

綿が本格的に栽培されるようになったのは、16世紀の初めで、綿布の需要が急増した戦国時代の頃になる。
この頃になって、やっと綿の栽培が上手くいくようになり、摂津国・河内国・和泉国で綿花の栽培が急増し、三河国や伊勢国にも栽培が広がっていった。
16世紀中期には、実綿問屋(綿の実の集荷を専業とする)、繰綿問屋(実綿から不純物を除去した加工品と綿糸を扱う)、綿織物(綿布を扱う)の問屋ができて、分業システムが成立した。

江戸時代になると江戸に近い三河木綿は、江戸や関東方面へ送られ、三河の名は木綿の産地として全国的に有名になった。
明治16年、愛知県幡豆郡天竹村(現在は愛知県西尾市)に「天竹神社(てんじくじんじゃ:天竺神社ともいわれる)」が創建され、平安時代初期に渡来した崑崙人を日本に綿を伝えた始祖として祀られているらしい。

摂津国の平野郷も、江戸時代には繰綿業が盛んになり、宝暦13年(1763年)に刊行された摂州平野大絵図には、平野産物として、平野繰綿(ひらのくりめん)と平野錘(ひらのつむ)が書かれており、平野繰綿には、「摂・河・泉ノ綿ヲ繰出シ、諸国ニ商フ」、平野錘には「女工(ジョコウ)車ニ懸(カケ)テ、糸ヲ牽クノ具(道具)也」と注釈が添えられている。

因みに平野区の花は「綿の花」になっているが、戦後生まれの殆どの方は綿の実をご覧になったことはないと思う。ぼくは中学生の頃に、祖母が自宅の庭で綿の木(植物学的には草)を数本育てていた思い出がある。大正時代の初期、祖母も結婚するまでは、和歌山の紡績工場で働いていたと話していた。

綿の花や実を見たい方は、平野区瓜破東6丁目(うりわりひがし:瓜破霊園の南端)に小学生の教材用に「区民わた畑」があって、一般公開されているらしいので、開花や実ができる頃に見学ができる。
綿は、アオイ科ワタ属の多年草の植物で7〜8月に開花し、8月下旬には綿の実が出来て、やがて実がはじけて綿が飛び出し、それを摘むことが出来るそうだ。

宝永2年(1705年)の平野郷町は戸数2,625軒、人口10,686人に対し、職人が1,212人もいた。
代官所の調べでは、この内、綿実買32人、木綿繰屋166人で、繰綿買問屋9人、繰綿売問屋8人、問屋の場合は兼業もあるので、綿に携わる職人が207人もいた。
これは、宝永元年(1704年)大和川の川違(たが)えによって、大和川の流路が柏原から西進して堺港の北に流れ、長年に亘って水害に苦しめられていた中河内郡の農民は、水害の被害が解消したので、新田開発に奮闘することになった。

平野川の水源は南河内郡の狭山池を水源としていたが、川違えによって、東除川との接続が途切れ、平野川の上流は、柏原付近の樋門から大和川の水を引くことになり、人工の水路が開削され、舟が往来出来るようにされた。
中河内の土壌は、過去の水害の影響で石の混じった土砂が多く、稲作よりも綿の栽培に適し、また綿が米よりも高く取引されるようになっていたので、新田では綿を栽培する農家が急増したのである。

柏原(かしわら)村付近で集荷される原綿は、柏原の古町から原綿20石(こく:米20石なら3トン)積みの「柏原船」に積み、弓削(現在は八尾飛行場で分断)を通って、八尾の亀井で平野川に入って杭全神社の東隣にあった港に荷揚げされていたらしい。
原綿は、平野郷町にある木綿繰屋(もめんくりや)で繰綿や綿糸に加工していた。

綿繰りは女性の仕事で、行程は「綿くり」、「綿打ち」、「糸くり」の順で行い、1日のノルマは50匁(もんめ)であった。5匁の糸を10袋分作って1日の作業が終了。それ以上の分は職人の「へそくり」になっていたようだ。へそくりの語源は糸くりにあったのか!
※へそくりは、臍には関係なく、綜麻(へそ)という紡いだ麻を巻き付けた糸巻きを意味するらしい。

明治になると、明治政府は産業の近代化に力を入れ、手作業から機械化を奨励し、綿布を大量に生産するために綿糸の需要が急増した。
河内綿は繊維が太く短かったので、動力織機による綿糸の大量生産には向かず、明治政府は関税を撤廃して価格の安い外国綿の使用を認めたので、河内綿の生産農家は、輸入原綿との価格競争に太刀打ち出来ず、次々と廃業に追い込まれたようだ。

明治22年(1889年)に大阪鉄道(初代の大阪鉄道、後に関西鉄道と合併)が開業することを視野に入れて、平野郷の坂上七名家で宗家筋に当たる末吉家が有力商人を集めて発起人とし、明治20年(1887年)に平野紡績を大阪府住吉郡平野泥堂町(現在は大阪市平野区平野宮町)に創立した。資本金は50万円(発行株数は20,000株)であった。
因みに明治20年の1円の価値を現在に置き換えると、平均で10,000円ぐらいになる。

その根拠は、明治20年の大阪では、精米10キロ(6升5合)の小売価格が80銭だったらしい。昔の米価は、数度の戦争による米不足の影響で、消費者米価の変動が激しい時もあって正確な比較にはならないが、平成21年のスーパーで売っている新潟産コシヒカリ10キロが5000円ほどなので、米価は約6250倍している。

明治30年頃の尋常小学校(4年制の義務教育)の正教員初任給が月給12円(町村赴任)だったそうで、現在は180000円だから公務員給料は15000倍になっている。ま、中を取って当時の1円は10000円ぐらいの価値があったものと思われる。
1円=100銭=1000厘で、明治36年開業時の大阪市電の1区が1銭(現在は200円)、同年の大衆食堂で食べるきつねうどん一杯が1銭5厘(現在は300〜600円)だった。現在では電車賃が20000倍、食べ物が20000〜40000倍と、現在では日常生活に必要なものの値段が高すぎる。

末吉家が中心になって経営する平野紡績は、英語の堪能な工学博士・菊池恭三氏を大阪造幣局から引き抜いて工務長として採用し、渡航滞在費や研修費に4000円という大金を渡して英国へ派遣させて、当時は紡績技術面において世界最先端であったマンチェスターで紡績技術を学ばせるなどして、平野紡績は平野郷を代表する会社になっていた。

しかし、帰国数年後に工務長の菊池氏はライバルの尼崎紡績に引き抜かれ、末吉家は会社経営から退き、その後の平野紡績は筆頭株主の金沢仁兵衛氏が社長になった。金沢氏は北浜銀行の経営にも参加するほどの人物であったが、本業の業績が次第に悪化して明治35年に摂津紡績に吸収されたのであった。
やがて、摂津紡績は尼崎紡績と合併して大正7年(1918年)に大日本紡績になった。社長には、元平野紡績の工務長であった菊池恭三氏が就任した。戦後の大日本紡績は、ニチボーと社名が変わり、ニチボーとニチレが合併した「ユニチカ」は、紡績産業の低迷から平野工場を閉鎖して更地にし、その跡地にはスーパー「イズミヤ」やマンションが建っている。

また、平野には清酒「平野酒」があると聞いて街中を探したが、見つからなかった。現在の平野には造り酒屋はないようだ。織田信長の時代には、そのような地酒があったそうだ。


明治から大正時代の平野郷の地名変更について、

現在、大阪市平野区で平野郷(本郷)と呼ばれるエリアは、平野馬場、平野北、平野市町、平野宮町、平野元町、平野上町、平野本町、平野東、平野南、流町、背戸口、西脇、平野西の各町を指す。
注意しなければならないのは、大正時代の平野郷町の町域が東西が約1Km、南北が約1kmだったのが、平野区になってから、平野郷町と云われていた町域が西側へ1.5倍、南へ1.5倍も町域が膨張して旧名が使われていることである。例えば平野区役所は背戸口にあるので、地名からみれば平野郷の中に入るが、区役所は平野郷の環壕から離れた場所にあるので、厳密には平野郷とは言えないと思う。広義の意味で捉えると、平野郷夏まつりで、地車が曳行される地域が「平野郷」と考えていいだろう。

明治(M)元年〜大正(T)14年までの平野郷の住所表示は、
大阪府住吉郡平野泥堂町(でいどうちょう)→M22 大阪府住吉郡平野郷町大字泥堂 → M29 東成郡に編入 → T14 に大阪市住吉区に編入して、由緒ある泥堂の地名が廃止され、大阪市住吉区平野○○町に変更。(例:平野宮町など)
大阪府住吉郡平野郡野堂町(のどうちょう)→M 22大阪府住吉郡平野郷町大字野堂 → M29 東成郡に編入 → T14 に大阪市住吉区に編入して、由緒ある野堂の地名が消滅し野堂の地名が平野○○町に変更。(例:平野三十歩町など)
大阪府住吉郡平野市町(いちちょう、いちまち)→ M22大阪府住吉郡平野郷町大字市 → M29 東成郡に編入 → T14 に大阪市住吉区に編入して、大阪市住吉区平野市町
大阪府住吉郡平野馬場町(ばばちょう)→M22 大阪府住吉郡平野郷町大字馬場 → M29 東成郡に編入 → T14 大阪市住吉区に編入して、大阪市住吉区平野馬場町
大阪府住吉郡平野西脇町(にしわきちょう)→M22 大阪府住吉郡平野郷町大字西脇 → M29 東成郡に編入 → T14 大阪市住吉区に編入して、大阪市住吉区平野西脇町
大阪市住吉郡平野背戸口町(せとぐちちょう)→M22 大阪府住吉郡平野郷町大字背戸口 → M29 東成郡に編入 → T14 大阪市住吉区に編入して、大阪市住吉区平野背戸口町
大阪市住吉郡平野流町(ながれちょう、ながれまち)→M22 大阪府住吉郡平野郷町大字流 → M29 東成郡に編入 → T14 大阪市住吉区に編入して、大阪市住吉区平野流町

平野郷は7町(江戸時代は7丁制:摂州平野大繪図では、野堂丁とも書かれている)であったが、大正14年に大阪市住吉区に編入されてから、人口密度の高い泥堂町と野堂町の町名が消えて平野○○や平野○○町に変更された。
また、馬場町が平野馬場に、市町(いちちょう)が平野市町(ひらのいちまち)に変更された。脊戸口町は「背戸口」に変更され、西脇と流町はそのままであるが、国交省が立てた国道の道路標識では流町(ながれちょう)が「ながれまち」になっている。
平野郷には、本郷7丁(7町)の他に、四散郷(新在家=杭全、今在家=今川、中野=中野、今林=今林)も含んでいたが、散郷4丁は、現在は大阪市東住吉区に編入されているので、平野郷とは言わないようだ。

これらの旧・平野郷七町(本郷)は、杭全神社の氏子町で、毎年7月12〜14日の夏祭りには地車(だんじり)9台(※1)が各町・各組のだんじり小屋から曳き出されて、町内周辺を巡回しながら、13日の夜になって杭全神社に宮入する。

平野に長くお住まいの方々にお訊きすると、杭全神社の夏祭り(平野郷の夏祭り)は、だんじり宮入の時は国道25号線を自動車通行止めにして、大鳥居前でだんじりを激しく揺らすパフォーマンスが行われ、岸和田祭礼のカンカン場に劣らない盛り上がりがあるそうだ。露店も沢山出店するらしい。
(※1:旧・野堂町だけは、北組・東組・南組が独立して、それぞれにだんじりを保有している)

また、平野郷の北北東にある、加美正覚寺(かみしょうかくじ)の町内にも、最近になって泉州型だんじりが新調されて旭神社に宮入する。ここのだんじりは「やりまわし」を行う。岸和田祭礼は去年取材したので、今年の夏はホットな「平野郷の夏祭り」を取材して、読者の皆さんにお伝えしたいと思っている。

主な参考文献「大阪市東住吉区史」、「大阪府東成郡平野郷町誌」

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大阪市平野区「喜連と瓜破を歩く」はこちらへ(配信停止)
2007年2月11日 尾林

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