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このページは、Nikon Fのページです。他のカメラをご覧になりたい方は、赤いボタンをクリックして下さい。
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Nikon F2の作例:上の写真は、フランスの首都パリにある有名なノートルダム大聖堂です。クリスマスから新年にかけてライトアップされていました。1975年1月のお正月に撮りました。パリでも大晦日の24時を越えた瞬間に新年のお祝いをしますが、正月休みはないようです。 当時は1ドル=240円のレートでした。日本人の海外旅行が珍しかった時代に渡仏し、パリ市内の各所を自費でスナップ撮影しました。
冬のパリの朝は、氷点下になると、セーヌ川から川霧が立ち上って、古い建物が霧に霞んでフォトジェニック!
絶妙な冬の斜光線によって名画(絵画、映画、写真)が生まれるのでしょう。
レンズはマニュアルフォーカスのズームニッコール28-45mm f4.5
エクタクロームX使用。スキャナはEPSON GT-X970を使用。Photoshopで褪色した色調を補正しています。

Nikon F2の作例:パリのノートルダム大聖堂は、セーヌ川の中洲であるシテ島に建っています。聖堂内は撮影禁止です。

Nikon F2の作例:1月のパリの朝は9時ごろに陽が昇り、朝の気温が氷点下になると、セーヌ川から川霧が立ち上る。
フランスの映画作家も、天然のソフトフォーカスフィルター(霧)を巧みに映画に採り入れているようです。

Nikon F2の作例: マレ地区といって、ジャン・ギャバンがタバコを燻らせて歩いていそうな雰囲気のある場所です。
パリはメトロ(地下鉄)が網の目のように発達していて、3回乗り換えると、だいたい目的地に着けるようになっています。
庶民の生活臭のある裏通りの散歩が大好きなぼくは、メトロを利用して、観光客が行かないパリの裏通りを歩き回りました。

Nikon F2の作例:パリ市民の台所「ムフタール市場」。ここのムッシュ(旦那)たちは、カメラを向けるとポーズを決める。パリの商売人には英語が通じるので、フランス語で話しかけなくていい。でも、「ボンソワ ムッシュ」ぐらいは言えるように。
ここでは、野ウサギやカモが丸ごと売られていて驚きました。フランスではカモやウサギの肉が、好まれているようですね。

Nikon F2の作例:パリの人懐っこい子供たち。言葉は通じなくても笑みがこぼれています。

 

Nikon F2の作例:エトワール凱旋門の真正面から伸びる、シャンゼリゼ・ブールヴァール(大通り)の歩道で、ヤングカップルをスナップ撮影したものを掲載しました。 凡そ40年前のパリ・ファッションですが、今でも通用しますね。
レンズはマニュアルフォーカスのズームニッコール80-200mm f4.5 エクタクロームX使用

わが愛機 Nikon F


ぼくの持っていた3台のNikon Fは、手元にはありません「わが愛機」を書くに当たって、知り合いのカメラ店へ行って、販売用のNikon Fを撮影させて頂きました。ぼくが初めてNikon Fを買ったのは、昭和40年(1965年)です。当時は、50mm f2付きの標準レンズセットが実売5万円ほどで買えましたが、写真のNikon Fのf1.4標準レンズ付きセットは、もちろん中古品ですが、程度が良いので13万円ほどの値が付いていました。

掲載写真は、コピー用紙を敷いて手持ちで撮影しました。バックのグラデーションは、 Photoshopで画像処理しています。Photoshopでレタッチ技術をマスターすれば、本格的なスタジオが無くても、スタジオで撮ったような写真に仕上げることができます。もちろん、スタジオがあれば、掲載したものより、もっといい写真に仕上げることができます。

撮影用に借りたFは、Nikon F2と並行生産されていた、740万台の最終モデルです。装着レンズはAi-Nikkorで、「カニの爪(F用ニッコールに付けられた露出計連動爪)」のデザインから判断して、1975年以降に製造されたものでしょう。

Nikon Fのデザインは、東京オリンピックのポスターデザインを担当した亀倉雄策氏です。カメラ設計は、日本光学第一設計部の更田 正彦(ふけた まさひこ)氏だと言われています。

わが愛機 Vol.1 Nikon F

35mm判 銀塩一眼レフカメラにおいて不朽の名機

はじめに、「ぼくの愛機」のページは、以前に掲載していた「Nikon Fについて」のアクセスが非常に多く、100ページを超えるコラムのページは2005年頃に廃止にしましたが、人気のあったページは編集し直して作例写真も数枚増やしました。これからも「ぼくの愛機」のコーナーをよろしくご愛読のほどお願い致します。

さて、ぼくが、写真のカメラマンになりたいと思ったキッカケは、写専(しゃせん:日本写真専門学校※現在は日本写真映像専門学校)の在学中ではなく、写専を卒業した後でした。

初就職が京都市下京区の河原町四条の近くにあったテレビCMの制作会社だったので、仕事が定時に終わるような日は、夜の7時〜8時頃にかけて河原町通りでウインドウショッピングを楽しみました。
京都は大阪よりも欧米の観光客が多く、そんな中で、京都へ取材に来ていた外人の報道カメラマンのカッコ良さに憧れたからですが、その時、彼が持っていたカメラがNikon F(アイレベルファインダーモデルのブラックボディ)だったのです。
カメラマンって、格好いい人もいてるんやなぁ、ぼくもあんな風になりたいと思いました。

でも、その人がライカM3やNikon SPを胸元にぶら下げていたら、カメラマンになりたいとは思わなかったでしょう。ぼくは、一眼レフしか好きになれなかったからです。
なぜなら、ぼくにとっては、二重像合致式のピント合わせやパララックス(視差)のある距離計連動式のレンジファインダー機が扱いにくく、透視ファインダーのガラス面は、手の指紋などで汚れやすいこともあって、一眼レフの方が好きだったからです。
とくに一眼レフカメラは、装着レンズのボケ具合やピントの山が確かめられるでしょ。また、レンズにキャップ付けたままで撮影するポカも、一眼レフでは起こらない。

だから、「カメラを買うなら一眼レフ」。
この考え方は、デジタルカメラの時代になってきた昨今でも変わっていません。
但し、4×5インチ判のサイズで撮影する場合は、距離計内蔵のスーパーテヒニカを使う場合もありましたが。

一眼レフと言えば、二眼レフカメラもあるわけで、写真学校時代に、写真とは関係のないアルバイトをして二眼レフのマミヤC3も購入して使ったことがありますが、近距離撮影ではパラパックスを配慮しなければならず、やはり、ぼくのような広告写真を撮るようなカメラマンは、一眼レフの方が仕事がしやすいですね。

東京オリンピックは昭和39年に開催され、東海道新幹線も開通しました。
開業当初は、超特急の「ひかり(0系)」でも、東京〜大阪間は4時間も掛かっていました。ぼくがちょうど二十歳の時でした。
日本が欧米先進国と肩を並べて歩みだした昭和40年代の始め頃、つまり、ぼくが駆け出しの頃は、広角レンズを使って撮影する時は、Nikon SPで、望遠レンズを使って撮影する時はNikon Fで、というような組み合わせが、裕福なカメラマンでは基本になっていたようです。

しかし、その後、バックフォーカスが長くできるレトロフォーカス型の超広角レンズの設計技術が進むにつれ、ミラーアップなしでもNikon Fに取り付けられる超広角レンズ・Nikkor Auto 20mm f3.5も昭和45年頃に発売されたので、35mm判のレンジファインダー機は、1970年代になって、急激に衰退していきました。

35mm判の距離計連動式レンジファインダー機は、距離計の基線長の制約から135mmまでしか望遠レンズが使えず、Nikon S用のNikkor 250mmや350mmを使う時は、専用のミラーボックスが必要でした。残念ながら、ぼくはNikon S用の250mmや350mmの望遠レンズとミラーボックスの実物は見たことはありませんが、ライカ用のビゾフレックスなら見たことがあります。望遠レンズを頻繁に使う方なら、最初から一眼レフを買った方が、安くついて合理的ですね。

今なお、シャッター音の静かな距離計連動式レンジファインダー機をこよなく愛用されている方々の中には、ぼくのように広告写真を撮影する立場から考えたカメラ選びには、異論や反論もあるでしょう。
カメラは、ある程度の汎用性を視野に入れながら、カメラマンの撮影意図に合ったものを選べばいいわけです。最初は人の真似でカメラを買っても、後になって自分の撮りたいものに適したカメラに買い替えても、カメラに対する知識が深まって、無駄にはなりません。
ぼくなんかは、小型カメラに関しては、Nikon FやF2を多数所有しながら、飽き性も手伝って、Canon A-1, Canon new F-1や高価な Canon HS F-1にも手を出し、随分カメラやレンズの無駄買い?をしましたが、後悔は全くしておりません。

第二次大戦後のパリで、奥深いスナップ写真(人生の機微を捉えたもの)を撮るので有名な、アンリ・カルチェ・ブレッソン氏が、距離計連動式レンジファインダー機のライカを愛用していたから、フォトジャーナリストならライカを使えとか、ニューヨークで活躍していた、広告写真界の才人、リチャード・アベドン氏が二眼レフのローライフレックスを愛用していたから、コマーシャルフォトのプロなら、ローライを使えとか 言うような考え方は非常に短絡的ですが、自分の目指す写真の分野で、お手本になる写真家がどんなカメラを使って仕事をしているのかは、一応、知っておいた方がカメラ選びの参考にはなるでしょう。

35mm判一眼レフの中で、Nikon Fを選んだ理由は?

ぼくが二十歳の頃に、Nikon Fを買う動機を与えてくれた外人のカメラマンは、どのような方なのか存じませんが、Nikon Fを買いたい時に、Nikon Fのシステムが既に完成されていたことには、大変感謝しております。
カメラマンという職業に就くには、いい時代に生まれてきて良かったなぁとつくづく思います。
現在では、仕事で使うカメラの選択肢がだんだん狭くなってきて、プロ用小型カメラのジャンルでは、Canon派とNikon派になってしまいましたね。

これは、プロ用デジタル一眼レフでも同様のことが言えます。
ぼくが昭和40年の春、20歳の時でしたが、Nikon Fを買う前に、実はCanon Pellix(キヤノン ペリックス)にも大変興味があって、京都市の中心・河原町四条にあるカメラ店の「三条サクラヤ(四条店)」のウインドウに鼻を擦りつけて、どちらにしょうかと迷っていたのです。ぼくは写専に入る前までは、日本光学(正式には日本光学工業。現在の名は、ニコン)という名は全く知らず、世界最高のカメラはキャノネットEEと信じていた「超ド素人」だったのです。

写専に入る前までは、自宅にあったカメラと言えば、兄が使っていたマミヤ・メトラ35しか触ったことがなかったのですが、キャノンさんは全段の新聞広告でド派手なキャノネットの広告(カメラより、猫の写真が印象的。猫の瞳は、周囲の明るさに応じて丸く膨らんだり、楕円形に細くなったりするのをカメラのEE技術に応用したもの)を頻繁に広告していたので、「一流新聞に全段(15段)の広告を出す」→「一流企業」→「一流の製品」という三段論法と、キャノンさんの広告コピーを担当していたコピーライターの魔術にぼくは洗脳されて、いつの間にか、キャノネットEEというか、キヤノンカメラは世界の一流品と言う風に、ぼくの頭の中に刷り込まれていったのです。

キヤノン製のカメラを一度も使ったこともないのに、一流新聞に掲載される新聞広告を見ただけで、一流品だと思い込んでしまう単純さには、恥ずかしく思ってしまいます。
因みに、ぼくは今までNikon Fの新聞広告は一度も見たことがありません。

ただ、ぼくが青春時代に愛読していたリーダーズ・ダイジェスト(日本語版)には、日本光学は積極的に宣伝していました。
アメリカでは、"ニコン(Nikon)"を"ナイコン"と発音するカメラマニアやカメラマンが多かったらしく、「ナイコンと呼ばずに、ニコンと呼んで下さい」という広告を何度も見たことがあります。スポーツ用品の製造で有名なアメリカの「NIKE」ブランドは、ニケとは言わず、「ナイキ」って発音しますからね。

ところが、2007年のNikon D80のテレビCMを見ていると、スマップの木村拓哉君がバーのようなところで席に座って、D-80に頬摺りしていると、外人のバーテンダーが「Is that Nikon?(イズ ザット ナイコン?:それ、ナイコンなんだろ)」。ニコンと呼ばずに敢えてナイコンと発音させています。
木村君が「Yes It's my treasure(うん、ぼくの宝物なんだ)」と答えているではありませんか...。Nikonさんは、再び、昔の佳き時代を復活させようと、ナイコンと呼んで欲しいのかな。

リーダーズ・ダイジェスト(日本語版)に掲載されて印象に残る日本光学の広告と言えば、
「飛行機事故の墜落現場の焼け跡から、火炎の痕が付いたNikon Fが発見され、シャッターを切ってみたところ、正常に作動しました。それで、カメラに入っていたフィルムを慎重に取り出して現像してみたところ、画像が現れ・・・」というような主旨の 雑誌広告を思い出します。昔のことなので、文脈の前後まではハッキリと記憶していませんが、当時のぼくは、この広告を"ニコン神話"の作り話やと思っていました。

ところが、2004年頃のテレビ番組で、紛争地帯で亡くなられたフリーのフォトジャーナリストのドキュメントが放送され、失礼ながらビールを飲みながらボーっとして観ていたのですが、彼の遺品、Nikon F正面のシャッターボタン側に銃弾が貫通しており、その映像を見て、酔いで霞んでいた目がパッと覚め、ぼくは絶句してしまいました。それと同時に、今時、Nikon Fを使って仕事をしているような方がいらっしゃるというのも、驚きましたが。

その方の写真展で、銃撃されたカメラも展示するので、ご遺族の方が壊れたカメラの中にフイルムがまだ入っているので、彼が亡くなる直前に何を写していたのかを調べて欲しいということになり、富士写真フィルムの特別チームが、慎重にネガ現像とプリントをすることになりました。

彼が亡くなってから、かなりの時間が経過し、カメラボディに大きな穴が開いているので、巻き取り軸に巻き取られたままのネガは、ムキだしの状態です。しかも、Nikon Fは露光済みフィルムの乳剤面を外巻きするので、撮影済みの生フィルムは完全にカブッている筈ですが、巻き取り軸に差し込んだ方の最初の1コマに、ぼんやりと猫が写っていたのです。猫好きな彼は、異国の戦地で猫を写していたのです。
戦地取材のフォトジャーナリストと作品云々については、このページでは触れませんが。
墜落現場で発見したNikon Fの広告は、神話ではなかったのです。

Nikon Fは、昭和34年(1959年)から発売され、昭和38年に入学した写真学校の生徒の中でも、十数人ぐらいは、Nikon Fを持っていたように思います。
当時の35mm判一眼レフとして、プロが待望する殆どのニーズを実現させた画期的なカメラでした。カメラボディのベースモデルは、Nikon S3やSPなのですが、SPにミラーボックスを組み込んだだけのカメラではなく、日本光学の社運をかけた新技術が投入されていました。

主な仕様

1、ミラーアップも可能なクイック・リターン・ミラーの搭載
2、露出計連動爪を採用した完全自動絞りの交換レンズ(深度確認用の絞り込みボタン付き)
3、35mm一眼レフカメラに初めてのズームレンズを発売
4、露出計と連動するフォトミック・ファインダーと交換可能(後にTTL測光が可能)
5、目を6cm離しても全視野が見られるアクションファインダーと交換可能。
6、ファインダー・スクリーンの交換可能
7、スピードライト(ストロボ)同調に対応(60分の1秒以下)
8、別売りのモータードライブと脱着可能(250枚撮り長尺フィルムマガジン仕様もあった)
9、耐久性のあるチタン製のシャッター幕採用。
10、フィルム巻き戻しによる多重露光が可能(シャッターボタンが回転し、赤マークを刻印)
11、アイレベルファインダー付きの標準モデルは、電池不要で稼働。
12、視野率100%の光学ファインダー。
13、現像済みフィルムをカットする時、パーフォレーションがカットされない。

等々と、最初から完成度が高いカメラでした。シャッターダイアルの目盛りの色分けや、レンズ絞りと被写界深度の色分けもグッドアイディアだと思いますね。

Nikon Fの外観をデザインしたのが、「東京オリンピック公式ポスター」を手掛けた、日本の代表的グラフィックデザイナーの亀倉雄策氏(1915-1997)だそうで、Nikon Fのカメラデザインも東京オリンピックのポスター(写真は、早崎 治氏)デザインも、ぼくの気に入ったデザインです。
カメラの設計は、日本光学第一設計部の更田正彦(ふけた まさひこ)氏だと言われています。

Nikon Fのライバル、Canon Pellixは、もっと凄かったのです。
「瞬きしない一眼レフ、だから、シャッターチャンスは見逃さない」
通常の一眼レフは、シャッターボタンを押した瞬間にミラーが跳ね上がって、ファインダーが一瞬、遮光されて真っ暗になり、フィルムに写っている瞬間像がファインダーでは確認ができません。これは、長年の勘に頼るしか仕方がありません。

キャノンさんは、半透明のペリクルミラーを他社に先駆けて自社開発し、それをCanon Pellixに搭載して、フィルムに写された瞬間像をファインダーで確認できるようにしました。凄いアイディアでした。
もちろん、いつものように「新聞広告」で、ド派手な全段広告ですわ。「瞬きしない一眼レフ」のキャッチコピーには、ぼくはグラッときましたね。

しかし、長所の裏には短所ありで、いいことづくめでないのが世の常です。
一眼レフカメラに半透明のミラー(ハーフミラー)を固定することによって、シャッターを切った瞬間の被写体の様子が確認でき、ミラーショックも無くなり、カメラブレが少なくなる長所があるものの、ハーフミラーによって、ファインダー像はやや暗くなり、フィルム面に達するレンズの光量は、ミラーで一部が吸収されて、3分の2段ほど光量が落ちます。つまり、開放F値の暗いレンズは使い辛いことになります。また、ミラーに大きな傷やホコリが付着すると、画質に影響します。
シャッターチャンスを優先するか、使いやすさを優先させるかを比べると、ぼくにとっては、Nikon Fの方が役に立つだろうと判断して、買うことを決めたのです。

ところで、当時、初就職した京都市内の映像プロダクションで映画キャメラマンの助手をしていたぼくが、Nikon Fを買ったことを、勤務先の社内でうっかり口を滑らせてしまったので、
ぼくの師匠が、
「おまえなぁ、助手の分際で、Nikon Fを買うなんて、何ちゅうこっちゃ。会社のペトリ(ペトリV型)でも、まともな写真撮れんのに...、ちょっと、オレに貸せや」。
「えーっ、貸すんですか?...まだ、ぼく、使ってませんのに」。
「厭か?...あっ、そ〜ぉ」。
師匠の目には、
「厭やったら、ARRI(35mm映画キャメラのアリフレックス)の使い方、教えたれへんで」。
と、言っているようなので、立場の弱いぼくは、買ったばかりで一枚の写真も撮らない内に、師匠にNikon Fを貸してしまいました。バカですねぇ、ぼくは。

これが間違いの元でした。飲んべえの師匠は、スナックのツケが溜まっていて、ぼくの想像では質屋へぼくのNikon Fを質草に持って行ったようで、一月半経っても返してくれません。
段々不安になってきて、返却を申し出ると、給料日の数日後に戻ってきました。
よく、考えれば、質屋に保管されている方が「未使用の状態」で、その方が良かったかも知れませんね。

二回目は、知り合いが故郷に帰るので、カメラを貸して欲しいと言われてNikon Fを貸したところ、カメラが ボコボコになって返ってきました。50mm f2の前玉が割れて、ボディも大きく凹んでいて修理不能の「全損」状態でした。一体、どんな落とし方をしたんだろ。きっと、展望台なんかに登っていて、カメラが肩から滑り落ちて、数十メートル下に落としたんでしょうね。

このように、一番最初に買った一眼レフ、Nikon Fのブラックは、ぼくが殆ど使わない内に、半年で廃棄処分になってしまいました。
あ〜ぁ。/(@_@)\
カメラは、他人に貸すものでないということが、身に滲みて分かりました。とくにプロ用カメラは...。

ぼくは、気を取り直して、すぐ、Nikon F(白:実際はシルバー)一台と35mm f2.8、50mm f2、135mm f3.5を買いました。
そして、当時知り合った、ぼくより二周りほど年上のアマチュアカメラマンのF氏と一緒に、阪神パークへ「スナップ写真」を撮りに行きました。大先輩は、ぼくの持ってきたNikonを見るなり、
「君のレンズの揃え方は、おかしいで。Nikon Fを買ったら、最初は、28mm、50mm、105mm.200mmと揃えるのが常識や。最初から、35mm、50mm、135mmと揃えるのは、中途半端やで」。
と言われてしまいました。

ぼくは、ちょっとムカッとしましたが、言われてみればその通りで、ぼくは後で、35mmと135mmを下取りして貰って、28mm f3.5と105mm f2.5に買い替えました。これが精一杯で、F氏のように200mm f4まで買い揃える資力はなかったです。
28mm f3.5レンズは、シャープさが足りませんでしたが、105mm f2.5レンズはシャープで、大口径でありながら逆光にも強く、素晴らしいレンズでしたね。Fさん、教えてくれて有難う。それと、35mm判の105mmという焦点距離は、フレーミングしやすい画角です。とくに後から発売された、 Micro Nikkor 105mm f2.8レンズの描写は大変素晴らしく、MF用レンズ、AF用レンズ共にぼくの大好きなレンズの一つになりました。

昭和41年に京都へ通勤していたテレビコマーシャルの制作会社が倒産して、その後半年ほどのアルバイトを経て、ぼくは大阪の広告制作会社に勤めることになりました。新聞の求人広告では、カメラマン募集のことだけしか書いてなかったのですが、面接に行くと、採用条件は、Nikon F一台と交換レンズを3本以上所有してることが必須だったので、二十数人の応募者を抑えて、ぼくが運良く合格しました。

もし、ぼくがNikon Fじゃなく、Canon Pellixにしていたら、例え腕が良くても不合格でしたね。
Nikon Fを壊された後、気を取り直して、すぐにNikon Fを買った。そして、レンズも3本も買った。
その心意気と決断が、ぼくを救ってくれたのです。人生って、諦めてはいけませんねぇ。

1968年の頃の(ぼくが24歳の時)の仕事中の貴重な写真です。
カメラはNikon Fブラックに105mm f2.5。三脚はスリック製です。レリーズを付けているのは、商品撮影をしていたのでしょう。この頃は、会社勤めのカメラマンでした。
写真を見ると、三脚の水平が取れておらず、横着していますね。ズボンの前チャックも少し開いているのも気になります。なりふり構わず、がむしゃらに働いていた頃が懐かしいです。
場所は、大阪市天王寺区上汐町のサンスタジオ(1スタ)にて。

小型カメラしか使えないカメラマンは、C級のカメラマンか?

広告制作会社で約三ヶ月間のアシスタント研修の後、ぼくは第一線で一人前の仕事を任されるようになりました。ぼくの担当するスポンサーは松下電器さんで、製品のスタジオ商品撮影と、モデルを使っての使用例や設置例の撮影、そして販売店の撮影をする仕事でした。セールスプロモーション(販売促進)用のオートスライドに使うので、カメラは35mm判だけで十分だったのです。

と、いうことは、35mm判ならどんなカメラを使ってもOKな筈ですが、その当時はNikon Fだけが、視野率100%のファインダーで、フィルム送りの精度が高く、画面と画面の間にパーフォレーションの目がこないので、オートスライドの仕事をするには、カメラはNikon Fしか使えなかったのです。


Nikon Fの作例:プロになって7年目...昭和48年(1973年)3月26日、ぼくが担当していた松下電器ラジオ事業部さんの商品撮影。
カタログ写真用では無いので、商品撮影でも35mmカメラで充分だった。今のハイビジョン放送では、テキストが合成されてオンエアーされるが、約40年前のぼくの撮影法は、タレントさんにテロップを持たせて同時撮影していた。スーパーインポーズ方法だと、納品するフィルムがデューププリントになって、スライドの画質がガクンと落ちるので、ぼくは撮影時にテロップをインサートしていた。

プロのカメラマンになってから数年間は、35mm判のNikon F二台と4本の交換レンズ(28mm f3.5、P Cニッコール35mm f3.5、50mm f2、105mm f2.5)とCanon製のYガン(Canon 4Sbの専用フラッシュガンで、FP級の閃光電球を使用)で十分満足な仕事をこなせていたのですが、玄光社が昭和41年6月1日に発行した「コマーシャルフォト・シリーズVol.2」の21ページに、

「国際線のジェットパイロットをプロ操縦士中のプロだとすれば、軽飛行機しか操縦できないプロは、Cクラスのプロだということになる。小型カメラで向こうが作ってくれるイベントしか写せない写真のプロは、自由に最新の(4×5インチ判の)大型カメラのメカニズムを駆使したうえ、光やモデルを演出して写せるプロに比べて、Cクラスだ、ということになりはしないだろうか」。

この記事を読んだぼくは筆者のY氏に対して、物凄く腹が立ちました。
ぼくのような小型カメラを使って仕事をするカメラマンは、C 級の烙印を押されてしまったからです。

「写真はテクニックが全てではなく、写真が人々に与えるインパクトの方が重要だろ」。
と、二十歳そこそこの駆け出しが、出版社に遠吠えしても始まらないので、Nikon Fで稼いで将来の独立の為に、昭和43年(1968年)に西ドイツ製のリンホフ・スーパーテヒニカV(5)型を買うことにしました。
だって、小型カメラしか使えないカメラマンは、C級カメラマンだと、馬鹿な評論家に断言されたら、悔しいじゃないですか。

悔しいとい言えば、写専に在籍中のぼくは、実習費を捻出するためにアルバイトの方に精を出していて、あまり気乗りのしない大型カメラの講習はさぼっていたからです。だから、ぼくはプロカメラマンになっても、しばらくは、大型カメラに関しては素人だったのです。

写専の同期生は、卒業後は早々と大型のビューカメラを使いこなして仕事をしている者も多数おり、同窓会などに出席して仕事の話になった時、大型カメラの事を知らなかったら、大恥をかくじゃありませんか。
「えーっ、君は、35(さんご)だけで仕事してるの!一体、何の仕事?」あきらかに蔑視の眼差しです。

当時、ようやく35mm判がメインになった新聞社でも、グラフ誌なんかでは、4×5インチ判の「スピグラ(米国製のスピードグラフィック)」を使うので、35mm判だけで飯が食えるカメラマンが少なく、ぼくのやっている、オートスライドという特殊なジャンルの仕事を説明するのに、返答に困りましたね。

一般的にカタログ用の商品撮影には、4×5インチ判のビューカメラを使って撮影するのですが、ビューカメラって、デザインが地味すぎて、その当時の最高級機・ジナーを使っても、素人目には「古臭いカメラ」にしか見えません。一口に言うと、カブリ(黒い布)を使ってピント合わせをする大型カメラは、爺臭い印象がして、ぼくは好きになれませんでした。

ところが、西ドイツ製のリンホフ・スーパーテヒニカV(5)型を梅田の「ツカモトカメラ」のショーウインドウでまじまじと見つめると、カメラにオーラが漂っており、いつのまにかその虜になってしまいました。これは、バリバリの商社マンから晩年になって写真家に転身された、風景写真家の前田 真三氏も「銀一カメラ」のショーウインドウで、スーパーテヒニカにオーラを感じたというようなことを写真集の中で述べておられます。

ぼくの場合は、普段は小型カメラで飯を食っていても、いざとなれば、スーパーテヒニカを使って撮影できるころをデモンストレーションしておけば、プロカメラマンとしてのステータスも上がるだろうと思ったからです。
もちろん、カメラだけ買っても意味はないので、レンズはスーパーアンギュロン90mm f8、ジンマー150mm f5.6、ジンマー240mm f5.6の三本もほぼ同時期にキャッシュで購入し、総額で50万円ぐらいしました。
当時の月給がカメラ手当込みで43,000円だったので、我ながらよく無謀な買い物をしたものだと呆れてしまいます。所帯を持っておれば、不可能でしょうね。

当時は、給料やボーナスの殆どをカメラ購入に注ぎ込んでおり、まぁ、日本が高度経済成長期だった頃のことでもあり、将来の見通しも明るかったから、そんな事ができたのでしょう。先行きの不透明な現在の景況と、熟年になった我が身を考えると、今ではそのような冒険はとてもできません。

4×5インチ判のリンホフ・スーパーテヒニカの感想については、このページにあるナビボタンをクリックして下さい。


「小型カメラしか扱えないカメラマンは、C級カメラマンだ」と1966年版のコマーシャルフォト・シリーズ2巻に書かれ、ぼくが発憤して1968年に買ったリンホフ・スーパーテヒニカV(5)型です。Nikon Fよりも長く活躍し、1995年ごろまでは現役でした。

テヒニカの、フロントライズのラチェットレバーは、耐久性のあるマスターテヒニカのものと交換しています。

スーパーテヒニカを買ったときは、三本のレンズがシュナイダー製でしたが、舶来のレンズはレンズの「やけ」が予想以上に早く、カラーフィルムのヌケが劣ってきますので、レンズコーティングの進歩した国産のFUJINONやNikkorに買い替えました。

10年も前から4×5インチ判の大型カメラを使う仕事が全く無くなり、また、カメラ各部のガタが目立ってきたので修理せず、2003年に売却しました。35年の長い間、ご苦労様でした。

下のスナップ写真は、1971年(27歳)の頃、能登半島の外浦海岸へ写真を撮りに行った時のものです。

Nikon Fは、本当に名機だったのか?

ところで、Nikon Fは35mm判の歴代一眼レフの中では「世界の名機」と言われています。これには、ぼくは異論がありません。しかし、Nikon Fが「神話化」されて語られるのには、ぼくは疑問を持ちますね。本当に、完璧なカメラだったのだろうかと。

正確な年月日は不明ですが、昭和42〜43年頃に、ぼくとライターのK氏は、滋賀県と岐阜県の県境にある、伊吹山山麓の水力発電所へ設備機器納入事例の写真を撮るために取材に行ったことがあります。
この時は、発電所に機械を納入したメーカーさんの営業担当者一名も同行されるので、運転手付きのロケ車(クラウンのライトバン)を手配して、大阪市内から4人で伊吹山山麓の現地へ行きました。

現地に着くと、当日は快晴でした。
発電所の方と打ち合わせが終わると、天候の変わりやすい伊吹山山麓部なので、天候が良い間に、発電所の外観を先に数カット撮影しました。それが終わると、発電所の屋内にメーカーさんが納入した機器が設置してある場所をアングルを変えて7〜8カットほど撮影しました。

発電所の屋内は薄暗く、2分の1秒以上の長いスローシャッターを切ると、当時のエクタクロームXが相反則不軌現象(カラーバランスの崩れ)を起こすので、シャッターダイアルを4分の1秒に設定して、6B(FP級)の閃光電球を焚きました。
当時は、入射式のセレン光電池の露出計(セコニック・スタジオデラックス)で計った平均値から、半絞りづつ階段露光で開けて行き、二段まで開けて5カット撮影するのが一般的な方法でした。

翌日、取引先のラボから配達されたカラーフィルムを観て、ぼくは絶句してしまいました。
発電所の外観を撮った写真は、全滅なのです。「未露光」で真っ黒けです。屋内は、問題なくきれいに撮れていました。

「わぁ〜、えらいこっちゃ〜、どないしょ〜」。
取りあえず、ぼくは、フィルムを持参して、直属上司の係長に謝りました。
係長:「何っ、写ってへん!どアホ。Nikon Fで撮って、写れへようなことは、あらへん。フィルムがキッチリ巻かれんと、空回りしてたんとちゃうか?」。
尾林:「いや、フィルムは巻かれてますよ。ほら、途中から室内が写っているでしょ」。
係長:「あっ、ホンマや。けったいやなぁ〜。お前、カメラの点検ちゃんとしてんのか?」。
尾林;「ロケに出る時は、(Nikon Fの)裏蓋外して、シャッターが正常に開くか確認してますよ〜」。
係長:「ほなら、何で、そんなことになんのや。...K君に言うたんか?」。
尾林:「まだですわ」。
係長:「隠さんと、謝ってこい。撮り直しができるのやったら、一人で行けよ」。

読者の皆さん、なぜ、こんなことが起きたか分かりますか?
これは、Nikon Fだけに発生する問題ではなく、共通のシャッターメカニズムを持つ、Nikon S3やSPにも起こり得る現象なのです。

ぼくは、大チョンボにショックで寝付かれず、一晩徹夜して、フィルムが正常に巻かれ、シャッターも正常に切れて未露光になる原因をいろいろと考えてみました。
低速シャッターでフラッシュを焚いたカットは、ちゃんと撮れているので、どうやら高速シャッター側のメカニズムに問題があることが判明しました。

Nikon Fの裏蓋を外し、シャッターボタンを囲むAR切替リングを何となく操作して、高速から低速までシャッターを切って見ると、何と、AR切替リングを少し右に回転(フィルムの巻き戻し方向)させると、フィルム送りのスプロケットが正常に回転して、125分の1秒以上の高速シャッター側では、先幕と後幕がくっついてシャッターが走行することが分かりました。これは、カメラ設計上において重大な欠陥です。

早速、大阪のニコンサービスセンターに行ってそのことを説明すると、担当者の方は平然としておられました。ぼくは、まだ二十三歳の若造でしたので、
「 使用説明書通りにカメラを操作していないから、そのようになったのでは...」と逃げられてしまいました。

しかし、ニコン大井工場のカメラ設計部にぼくの声が届いていたようで、Nikon F2では、フィルム巻き戻しボタンがカメラ底部に変更されて、上記のような問題点は解消されました。
F用のARリングは、F2ではTLリングに変更されて、シャッターボタンのロックとタイム露光(シャッターダイアルをBにして、TLリングをTの方に回すと、2秒以上の長時間露光ができる)の切替に使われるようになりました。

その当時のぼくは、Nikon Fを使って頻繁に多重露光をしていたので、ぼくのNikon FはAR切替リングが甘くなって、フィルム装填の時、リングの切り込みがA側から少し右へずれていたのでしょう。
シャッター幕が全開する60分の1秒以下なら、正常に露光されますが、125分の1秒以上の高速側は、先幕走行と後幕走行の間に一定間隔のスリット(露光のための隙間)が開かず、先幕と後幕が重なって走行するので、未露光になってしまいます。

AE,AF機全盛の昨今では、Nikon Fを仕事で使っておられるような方は、殆どいないと思いますが、もし、Nikon Fを使うような時はフィルム装填の時、AR切替リングの切り込みの位置が、キッチリとAの方向に向いているかを再確認して下さいね。

また、中古のNikon Fを買う場合、125分の1秒以上の高速シャッターでは、シャッターバウンドが発生しやすいので、裏蓋を開けて空シャッターを切って確認してみて下さい。シャッターバウンドが起きると、画面端に2〜4ミリの部分が露出オーバーになってしまいます。これは、シャッターのブレーキが効かないので、跳ね返って起きる現象です。NikonFの新品を買ってから3〜4年経ってくると、125分の1秒以上の高速シャッターを切れば、この現象がよく発生していましたね。
Nikon Fは、常に60分の1秒以下のシャッター速度で撮影しておれば、どんな場合でも大丈夫なようです。

名機といえども、完璧なカメラは存在しません。ぼくは、カメラを買った後は、愛機のクセや欠陥を早く見つけることに専念します。悪く言えばあら探しですね。これは、プロとしての、仕業点検です。
だって、苦労して撮った写真が、原因不明で未露光になり、或いは絞りの故障などで、救いようのない露出オーバーになり、全ての責任をカメラマンに負わされるのは、厭ですからね。プロとしての信用と収入を同時に無くすわけですから...。Nikon Fを使っての失敗は、発電所ロケの一件だけでした。


Nikon FとNikon F2

ぼくがカメラマンとして長く活躍できたのも、Nikon FとF2のお陰です。
Nikon Fの740万台の最終モデルは、左下のNikon F2の巻き上げレバーやセルフタイマーの部品を共用しています。Ai-Nikkor 50mm f2レンズは、1975年以降のMFレンズだと思います。

Nikon F2では、フィルム巻き戻しボタンはカメラ底部に変更されて、AR切替リングの問題点が解消されました。また、F2では多重露光の精度が非常に高くなりましたが、Nikon Fのように34〜35枚まで撮影してから、特定のコマにフィルムを巻き戻して多重露光させる、ウルトラCの芸当は出来なくなってしまいました。尤も、日本中でそんなNikon Fの使い方を頻繁にしていたのは、ぼくだけでしょうね。

F2ではシャッターボタンの位置が前に出て、シャッターが切りやすくなりました。F2は、常時5台所有し、その内、チタンボディは3台も持っていましたが、希望者にすべて売却しました。
もし、FとF2のX接点が250分の1秒だったなら、売らなかったでしょう。

撮影技術の基本を学ぶなら、マニュアル機が一番。
マニュアル式一眼レフの真の名機は、Nikon F2だ。

昭和47年(1972年)から、ぼくのメインカメラは、Nikon F2になりました。Nikon Fは1980年になると、殆ど使わなくなって、売却してしまいました。
Nikon F2は、スタジオ撮影用のカメラとして、2001年まで愛用していました。

ところで、Nikon F2の後にNikon F3も買いましたが、ぼくのF3は調子が悪く、4年ぐらい使ってから売却してしまいました。初期型のNikon F3は、モータードライブのバッテリーケースの設計(専用バッテリーがアメリカ製らしい)が悪く、使用中にバッテリーが接点から何度も外れてしまうのです。

だから、F3のモータードライブを使っていて、突然シャッターが切れなくなってチャンスを逃し、慌ててしまいました。よく見るとバッテリーがケースから少し外れているのです。かったるいカメラでしたね。いらちなぼくは、Canon new F-1のシステムに入れ替えました。Canon new F-1は、Nikon F3より、ニコン的なカメラであったような気がしますね。EOS DIGITAL全盛の時代にあって、Canon new F-1については、もう語る必要などはないでしょうけど...。

Nikon F2は、欠点の殆ど無い使いやすいカメラで、真の名機は「NikonF2」だと、ぼくは思っています。
スタジオカメラマンなら、今でもNikon F2の愛用者が多いのではないでしょうか。
若いカメラマンの方で、スタジオ撮りが主な方は、アイレベルファインダーのNikon F2の使用をお奨めします。根気よく捜せば、程度のいい中古品がゲットできると思います。ニコンさんは、今でもMFレンズを豊富に販売しているし、何よりも、Nikon F2を使うと、カメラの原点が味わえて、写真が撮れるからです。

今では、プロ志望なら、手っ取り早く、Nikon F5かF6からスタートするのが当たり前だと思いますが、F2を使って寄り道するのも、一つの方法論ですね。

もっとも、仕事でデジタル一眼レフをメインにされている方は、時代に逆戻りする必要はありません。
時代の最先端を行く、旬のカメラを使って仕事をするのも、プロにとっては大事なことですからね。
ただ、AE.AFカメラの便利さに慣らされてしまうと、写真を撮る姿勢が横着になってしまいます。
便利さに甘えて、カメラ任せで、写真がちゃんと写る原理を知らなかったら、プロとしてダメになってしまいますね。

2004/3/15、2006/6/2、2008/4/2、2008/11/15 2014/2/20更新 尾林

 
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