2012/5/5に更新
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2012年5月
わが愛機 Vol.7
リンホフ・スーパーテヒニカと共に歩んだ青春

作例の写真作品:尾林 正利(1974年〜1986年)
4×5インチ判写真作品のデジタル・リマスター:2012年5月4日
文:尾林 正利(2012年5月5日)
1968年4月、24歳の時に買った、西ドイツ製のシノゴ判(4×5インチ判)カメラ
Linhof Super Technika V(5×7インチ判もあった)
写真のスーパーテヒニカは、V型(5型)モデルで、現在は、スーパーテヒニカ後継機のマスターテヒニカが販売されている。ボディ前枠に付いているフロントライズ用のラチェットレバーは、耐久性のあるマスターテヒニカのラチェットレバーに取り換えている。なお、テヒニカという呼び方は、ドイツ語読みだ。

標準レンズに附属したブーメランのようなカムと連動する、二重像合致式の距離計ファインダー付のテヒニカを「スーパーテヒニカ」と呼び、距離計ファインダーの無いのは、単に「テヒニカ」と呼んでいる。リンホフ社の大型カメラには、スタジオ撮影専門のカメラとして「リンホフ・カルダン」という、ビューカメラも販売されている。
なお、買ったときの交換レンズは西ドイツのシュナイダー製だったが、レンズの「ヤケ」が意外に早く、1985年頃に、発色のヌケのいい国産のフジノンレンズに入れ替えた。
カメラの写真は、2003年に、Fuji FinePix S2Proに AF-S Zoom-Nikkor17ー35mm f2.8D IF-EDを取り付けて撮った。

ミュンヘン市のリンホフ社から送られてきた礼状
1968年4月にスーパーテヒニカを買って、5月の連休に、スーパーテヒニカをバッグに入れて長崎を旅行し、五島列島にも船で渡った。古いレンガ造りの教会を撮るためである。旅行から帰ってくると、ドイツのミュンヘンから礼状と、リンホフ社が発行する出版物の案内が届いていた。肉筆の署名のある手紙を見て感激した。

上の写真は、カメラ:キヤノンEOS5D mark2に、EF50mm MACROを付けて撮影
撮影:2012/5/4

スーパーテヒニカで撮った写真作品の一部(風景)
レンゲ咲く新緑の斑鳩と法起寺(現在はユネスコの世界文化遺産に登録)
奈良県の斑鳩(いかるが)の里は、自宅からクルマを運転して国道25号線を走れば、40分ぐらいで行ける。最近は奈良でも田圃が少なくなって、ビニールハウス栽培が増え、上の作例のような牧歌的な写真を撮ることが困難になっている。斑鳩の里を見て回るのには、JR法隆寺駅前でレンタサイクル(貸し自転車)を利用するのが便利ですよ。

カメラ:リンホフ スーパーテヒニカV4×5
レンズ:シュナイーダー製 ジンマーW 240mm f5.6
フィルム:コダック製 エクタクロームEPR
スキャナー:エプソンGT-X970使用
撮影年月日:記録なし(1982年〜1986年の5月)

伊勢志摩・波切(なきり)の荒磯
三重県の伊勢志摩は、風光明媚なので国立公園になっている。リアス式海岸の浜辺に散在する古びた漁港と漁村の佇まいが絵になるので、絵描きさんが作品を描きに訪れる所だ。三重県志摩市大王町の波切(なきり)は、太平洋の外洋に面し、好天でも波が高い荒磯である。
ぼくは台風前の、海が時化(しけ)だした荒波を撮りたかったので、理想的な形の波が岸壁に押し寄せるのを大王崎灯台付近で1時間ほど待ってシャッターを切った。波切へは、近鉄志摩線の鵜方駅(特急停車)から路線バスが出ている。なお、現在は、テトラポッドの波消し護岸工事が進んでいて、このような写真は撮れなくなった。

カメラ:リンホフ スーパーテヒニカV4×5
レンズ:富士光機製 フジノンT 400mm f8
フィルム:コダック製 エクタクロームEP
スキャナー:エプソンGT-X970使用
撮影年月日:昭和47年(1972年)10月29日午後4時すぎ

伊勢志摩・光る海
上の写真は、伊勢志摩の五ヶ所湾周辺(南勢町内瀬)をロケハンしている時に撮ったもの。うねりくねった海岸沿いの道を運転していて、突然、真ん前に、この光景が広がっていた。クルマを停めて大急ぎで撮影した。海面全体に均等なさざ波が立つという光景は珍しい。養殖海苔を手入れする舟を画面中央付近来るのを待ってシャッターを切った。

カメラ:リンホフ スーパーテヒニカV4×5
レンズ:富士光機製 フジノンT 400mm f8
フィルム:コダック製 エクタクロームEP
スキャナー:エプソンGT-X970使用
撮影年月日:昭和47年(1972年)10月22日

伯耆大山(ほうきだいせん)の夜明け
上の写真は、日の出の大山を撮りたくて、島根県松江市美保関の海岸に車中泊して撮ったもの。写真のような朝焼雲が出る時は、天気が悪くなる前兆である。山陰地方は、大阪よりも雨が降りやすく、1日晴れているような日は少ないので、風景写真を撮るのに根気が要る。この写真を撮ってから1時間後には曇天になった。

カメラ:リンホフ スーパーテヒニカV4×5
レンズ:シュナイダー製 テヒニカ・ジンマーW 150mm f5.6
フィルム:コダック製 エクタクロームEP
スキャナー:エプソンGT-X970使用
撮影年月日:昭和47年(1972年)10月8日午前5時30分

スーパーテヒニカで撮った写真作品(モデルロケの作例)
上の写真は、作品展用に撮影したもの。ロケ地は滋賀県。ロケハンで、レンガ造りの古びた倉庫が気に入って、それに相応しいシチュエーションを考えて写真を撮った。黒衣の衣裳はレンタル、スモークを焚いて撮影した。モデルさんは、ハムレットに登場するオフィーリアのような感じだが、この写真には深い意味はない。発電機も借りて、1200W/Sバルカーのゼネレータを2台、ライトヘッドを4灯使ってライティング。ぼくは広告写真のカメラマンなので、ロケであっても「テイク」な写真よりも、「メイク」な写真を撮るのが好きだ。

カメラ:リンホフ スーパーテヒニカV4×5
レンズ:シュナイダー製テヒニカ・ジンマーW 240mm f5.6
フィルム:コダック製 エクタクロームEPR
スキャナー:エプソンGT-X970使用
撮影年月日:1974年10月28日

スーパーテヒニカで撮った写真作品(スタジオでの作例)
上の写真は、作品展用に撮影したもの。スタジオは大阪の印刷会社のスタジオ。太陽になる光線は、3KW(3000W)のソーラースポットライト。ブラインドはぼくが作った。市販のものでは、このような美しい影がでない。白のアクリル絵の具でベタ塗りした板の上に、白の食器や花器を配置し、マーガレットを生けた。爽やかなティータイムの雰囲気を狙ってみた。
この頃のぼくは、喫煙者だったので、朝の一服は気分がいいので、何の抵抗もなくタバコを入れたが、禁煙の世の中になった今となっては反省している。ぼくは、上の作例のようなスタジオ撮影を得意にしていた。

カメラ:リンホフ スーパーテヒニカV4×5
レンズ:シュナイダー製 ジンマーW240mm f5.6
フィルム:コダック製 エクタクロームEPY
スキャナー:エプソンGT-X970使用
撮影年月日:昭和48年(1973年)4月19日

数個の小道具を作ってディスプレイしたインスタレーション作品
上の写真も作品展用に撮影したもの。スタジオは大阪のサンスタジオ。小道具の木箱は既製品ではなく、ぼくがデザインして発注した。ホルンは京都の骨董店で買ったもので、音は出ない。
クラシック音楽を感じるような写真を撮ろうとチャレンジしてみた。

カメラ:リンホフ スーパーテヒニカV4×5
レンズ:シュナイダー製 ジンマーW240mm f5.6
フィルム:コダック製 エクタクロームEPY
スキャナー:エプソンGT-X970使用
撮影年月日:昭和48年(1973年)4月3日

抽象的なスタジオ作品
上の写真は、ぼくのスタジオで撮影したもの。東急ハンズで適当な出来合いの小物を数種買ってきて、テーブルトップに並べて撮影した。これも、インスタレーション写真である。

カメラ:リンホフ スーパーテヒニカV4×5
レンズ:富士フィルム製 EBCフジノンSW90mm f5.6
フィルム:コダック製 エクタクロームEPY
スキャナー:エプソンGT-X970使用
撮影年月日:1986年(月日はダイアリーに記載なし)

自作のイラストとオブジェを入れたスタジオ撮影
上の写真も、ぼくのスタジオで撮影したもの。自作のイラストを壁に張り、自作のオブジェ(金属の植物)も並べて撮影した。気怠(けだる)い夏の浜辺のバンガローから、ふと、海を眺めた光景をイメージしてみた。

カメラ:リンホフ スーパーテヒニカV4×5
レンズ:富士フィルム製 EBCフジノンW150mm f5.6
フィルム:コダック製 エクタクロームEPY
スキャナー:エプソンGT-X970使用
撮影年月日:1986年(月日はダイアリーに記載なし)

スーパーテヒニカを仕事で使った撮影例の一部(レコードジャケット)
上の写真は、松下電器ステレオ事業部さんの仕事である。来日したウィーン室内合奏団がシューベルトの八重奏曲 ヘ長調 作品166を演奏することになり、大阪から東京へクルマで出張して、取材することになった。演奏会場に着くと、Technicsの オープンリールテープデッキ・RS-1500U5台も加わって収録し、レコード盤も製作することになり、レコードジャケットのカバー写真と収録スナップを撮ることになった。演奏中は写真を撮れないので、リハーサルの後に撮った。なお、レコード盤は非売品である。

カメラ:リンホフ スーパーテヒニカV4×5
レンズ:シュナイダー製 ジンマーW150mm f5.6
フィルム:コダック製 エクタクロームEPR
照明:バルカー2400W/sゼネ2台、1200W/sゼネ2台
スキャナー:エプソンGT-X970使用
撮影年月日:昭和52年(1977年)2月28日
場所:東京上野の石橋メモリアルホール

スーパーテヒニカを仕事で使った撮影例の一部(雑誌)
上の写真は、旭化成製造の手芸糸を販売するハマナカさんが出版(当時の定価480円)したハマナカドリーナ作品集VOL.1、VOL.2の表紙と、各ページの写真撮影を担当したもの。作例の写真はVOL.2号の方である。

カメラ:リンホフ スーパーテヒニカV4×5
レンズ:シュナイダー製 スーパーアンギュロンSW90mm f8
フィルム:コダック製 エクタクロームEPR
バルカーストロボ1200W/sゼネレータ2台使用
スキャナー:エプソンGT-X970使用
撮影年月日:昭和50年(1975年)7月11日

スーパーテヒニカを仕事で使った撮影例の一部(商品チラシ)
上の写真は、広告写真のカメラマンなら殆どが経験するモデル入れ込みの商品撮影である。大型商品の撮影パターンは二通りあって、実際に商品が設置された場所へ行ってロケ撮影する方法と、大きなスタジオで、大道具さんにカメラに写る範囲の部屋を拵えて貰って商品を配置して撮影する方法だ。
理想的には、天井が高く、各部屋が広い豪邸や立派なホテルを借りて、商品を持っていって撮るのが良いのだが、撮影許可の承諾を得るのに何やかやと制約が多い。

ロケ撮影が困難な場合は、スタ撮になる。作例では、大阪のサンスタジオにてセット(大道具)を組んで貰って撮影した。ぼくはビジネスホテルによく泊まるので、自販機の置いてある光景は見慣れている。それをイメージしながら、セットの図面と寸法を書いて、広告写真の撮影に慣れた大工さんに壁の建て込みを頼み、ぼくが買ってきた壁紙を貼って貰った。植木とカーペットはレンタルである。

商品だけでは大きさが判らないので、商品の傍にきれいなモデルさんに立ってもらった。当時のモデル撮影は、ファッション誌以外は、ヘヤーメイクさんは無し、スタイリストさんも無しで、モデルさんはスタジオに着くと、自分で化粧と髪を整え、自前の衣裳でカメラの前に立った。

カメラ:リンホフ スーパーテヒニカV4×5
レンズ:富士フィルム製 フジノンW210mm f5.6
フィルム:コダック製 エクタクロームEPY
スキャナー:エプソンGT-X970使用
撮影年月日:昭和53年(1978年)2月5日

スーパーテヒニカを仕事に使った撮影例(広報誌)
上の写真は、ぼくのスタジオで撮った。農機のクボタさんのSP広告をやっている広告会社からの仕事である。海外向け広報誌の表紙写真と、見開きの日本料理(料理担当は、北新地の神田川さん)の撮影をぼくが十数回ほど担当していた。日本の7月は暑い。爽やかな感じのする風鈴を表紙にして、数個をわざとぶらして涼しい風を表現してみた。外国人には風鈴の音(ね)で、涼を感じる日本文化が分かるだろうか・・・。

カメラ:リンホフ スーパーテヒニカV4×5
レンズ:富士フィルム製フジノンW210mm f5.6
フィルム:コダック製 エクタクロームEPY
照明:3200Kタングステンライト
スキャナー:エプソンGT-X970使用
撮影年月日:昭和58年(1983年)5月28日

わが愛機 VOL.7
ドイツ人の職人気質が造り上げた、堅牢な名機
大型カメラの リンホフ・スーパーテヒニカと
共に歩んだ、35年間のフォトライフ

2012年5月5日 尾林 正利

日本には様々な分野のプロ写真家は多いが、現在でも4×5インチ判(業界用語では、シノゴ)の大型カメラでフィルム撮影しているような写真家は、21世紀になって急速に進歩した写真のデジタル化によって、かなり減ってきていると思う。主に広告写真を撮影していたぼくも、2003年からシノゴを使わなくなった写真家の一人だ。

因みに、4×5インチ判のカメラとは、1インチ=25.4mmだから、メートル法に換算すると、凡そ100 ×127mmの画面サイズになる。
小型の35mm判(業界用語で、サンゴ)のカメラは、24×36mmの画面サイズだ。
数字で説明しても分からない人は、実際に、コピー用紙などを使って、そのサイズにハサミで切ってサンゴとシノゴの画面を比較すれば、一目瞭然。
フィルムカメラでも、デジタルカメラでも、撮影原板の画面サイズが大きいほど大伸ばしに耐え、引き伸ばした画像の画質が良くなる。

ついでに、シノゴよりもっと大きなフォーマットでは、現在市販されているものでは、8 ×10インチ判(業界用語では、エイト・バイ・テン:実画面は203×254mm)のビューカメラもある。
ぼくの広告写真スタジオは、26年間(1975/1〜2001/2)も大阪市北区天満で営業していたが、エイト・バイ・テンのカメラを使って写真を撮るようなオファーは遂に来なかった。
8 ×10インチ判のカメラも高価だが、8 ×10インチ判の広いイメージサークルをカバーするレンズも高価になる。もちろん、フィルム代や現像代も高くなる。

当然、ラージ フォーマット カメラに使うフィルムは、ロールフィルムの市販品はブロニー判(中判)止まりなので、レントゲン写真のような一枚撮りのシートフィルムをシートフィルムホルダー(※カットフィルムホルダーとも言う。業界用語では、撮り枠)に装填して撮影する。
撮り枠から引き蓋(遮光板)を抜いたとき、差し込み口から漏光(光もれ)しやすく、ホルダーに装填したフィルムがカブリやすいので、カメラバック全体に黒布で覆って撮影しなければならない。

ぼくが高校生の頃まで、学校入学時や卒業時の集合写真撮影は、学校と契約している営業写真館のカメラマンがやって来て、クラシックな木製の組立暗函(くみたてあんばこ)で、写真を撮っていた。
国産暗函の殆どは、ネガのシートフィルムのサイズが、キャビネ判(5×7インチ判に近い:130×180mm)の大型カメラだった。アメリカ製の組立暗函、木製のバーク・アンド・ジェームス製のカメラは非常に高価で、著名な料理写真家も愛用されていた。二十歳の頃、写專(日本写真専門学校:当時)の校外実習でスタジオ見学したことがある。

6×6判(ロクロク判:実画面は56×56mm)のハッセルブラッドでも、A12やA16フィルムマガジンを使い古せば、マガジン内部に貼った遮光用のモルトピレン(ウレタン)が引き蓋の開け閉めで弾力が劣化して隙間が出来、同様のフィルムカブリを起こす。
余談だが、ハッセルにフィルムの入ったマガジンを装着したときは、引き蓋を抜いたら、引き蓋の差し込み口に、黒のテープ(パーマセル製)を貼って、フィルムカブリを防いでいた。

暗室内で行うシートフィルムの「撮り枠」への装填や取り出しは難しいそうに思われるが、慣れれば、どうってことはない。
広告写真スタジオでは、モノクロのフィルム現像や引き伸ばしプリントをしなくても、シートフィルム交換用の暗室(暗室用換気扇の取り付けも)が必須であった。

スタジオを持たないフリー・カメラマンの方は、自宅の押し入れを暗室に代用する人もおられるようだが、ホコリの多い押し入れとか、ダークバッグなどでシノゴのフィルム交換をやると、フィルムにホコリが付きやすいので避けた方がいい。
セーターを着てフィルム交換をやるのは厳禁だ。本当は、防塵服を着てクリーンルームの暗室でフィルム交換をするのが望ましい。

コダック系やフジ系のプロラボには、シノゴ用のフィルム交換室があるので、利用された方がいい。
プロの写真家や広告写真関係者をターゲットにしたプロラボは、コダック系の堀内カラーさんとイマジカさん、フジ系のクリエイトさんがあるが、今では東京都心部・名古屋市内・大阪市内しか店舗がない。詳しくは富士フィルムさんのWEBサイトでお調べ頂きたい。

広告写真のプロは、芸術写真家と違って、仕事のスピードも大事。撮影したフィルムの納品まで3日も掛かっていたら、デザインや印刷にかかる日程が遅れて、仕事の遅い広告写真家はお得意さんに逃げられてしまう。コマーシャルフォトを目指す人は、将来を考えてデジタルカメラに切り換えた方が賢明だと思う。
ぼくは大阪市内に住んでいるが、2003年からフィルム撮影をデジタル撮影に切り換えたので、長いお付き合いのあったプロラボさんとは疎遠になってしまい、ツケ払いができなくなってしまった。

ぼくの知り合いは、2012年になっても、たった一社のクライアントさんから、フィルムで納品して欲しいと言われるところがあるそうだ。
ははーん、印刷会社は、製版料でも儲けたいから、デジタルカメラで撮られると、印刷会社のスキャナーが不要。商売が上がったりに・・・?

実は、それが主な原因ではないようだ。
フィルム撮影のメリットは、細かい格子模様の建物や家電商品、衣類を撮影しても、印刷で「モアレパターン」が発生しにくいことである。デジタル撮影のデメリットは、細かい格子模様の建物や商品、衣服を撮影すると、印刷でモアレパターンがしばしば発生することである。

これは、カラーフィルムの感光乳剤(エマルジョン)に混ぜられた三層三種のハロゲン化銀(結晶は多角形)の感光物質が不規則な配列になっており、被写体の格子パターンと干渉しない。
デジタルカメラのイメージセンサー上に集積されたフォトダイオードは、規則正しい格子状か、又はハニカム状に配列され、パソコンモニターのRGB画素配列のパターンや製版の網点のパターンと干渉するからである。

ぼくの経験では、愛用のデジタルカメラで、あるメーカさんのエアコン室外機を撮ると、デジタルカメラの格子パターンと、エアコン室外機の格子パターンのデザインが干渉して、モアレが出た印刷物を見て目を覆った。
ぼくは気にしたが、クレームをいう人はいなかった。撮った写真を観て、エアコン室外機の設置工事さえ正しければ、メーカーさんは些細なことは気にしないようだ。

テレビ放送でも、ゲストが細かい格子模様のネクタイやスーツを着て出演ていると、ゲストが動く度に画面がちらつく。
これがモアレだ。テレビ局でもモアレに気付かない鈍感な人も多い。

キャノンさん、広告写真や建築写真用に、細かい格子模様がある被写体を撮っても、モアレの発生しないイメージセンサーとDIGICを開発してしてね。
広告写真界では、商品写真や建築写真のジャンルで、デジタルカメラのモアレが解消されないしばらくの間は、デジタルカメラとフィルムカメラとの併用が続くだろう。

エアコン室外機を撮る度に、EOS5D mark2とEOS-1を併用なんて、経費と納品時間がかかって面倒なので、デジタルカメラでモアレの出やすい被写体を撮る仕事を受けないようにした。

デジタル写真が嫌いで、これから先も銀塩写真に拘りたい人は、自宅を改装して暗室を造った方がいいが、現像液や定着液の廃液処理の問題、ハイポ(チオ硫酸ナトリウム溶液)のキツイ臭いが、住まいに染み着く問題もあって、家族の同意が必要になる。
ぼくの場合は、19歳(1963年)の春、写専に入学してまもなく、自室を暗室に改造し、フィルム現像と印画紙現像ができるようにしたが、電気を点けても構わない水洗は、洗濯場の流し台を利用させてもらった。家族は反対しなかった。行水用の大きなタライで、サービス判〜半切印画紙を水洗していた頃が瞼に浮かぶ。

写専に通っていた凡そ50年前と昨今と比べると、35mm判(サンゴ)のカメラ性能が向上し、AE(自動露出)、AF(オートフォーカス)当たり前になった。カラーフィルムも性能アップ。フジフィルムにはベルビアという超微粒子で高彩度のカラーフィルムもある。

粒子が細かくなったのに、 なぜ、そんなでかいカメラが必要かというと、広告写真や観光写真の場合は、写真をB全のポスター(1030 × 1456mm:JRの各駅に張ってある大判のポスターサイズ)に引き伸ばす場合がある。
最初から大きなポスターに使う目的で撮影する場合は、大判のカメラで、シートフィルムのベルビアで撮っておけば、35mm判のベルビアから拡大するよりも、画像を引き伸ばす倍率が低いので、精細な質感描写の写真ポスターが出来るからである。

その他にも、大型カメラを使うメリットがある。
蛇腹式のビューカメラには、前枠(レンズボード)と後枠(カメラバック)にアオリ機能(カメラ ムーブメント機能)があって、ティルトのアオリ テクニックを使えば、奥行きのある被写体を小絞りにしなくても、近景から遠景までピントが合う「パンフォーカス写真」がカンタンに撮れるし、シフトのアオリ テクニックを使えば、ハイアングルやローアングルで撮った時に発生する被写体の極端な歪み、上窄(うわすぼ)み・下窄(したすぼ)みを人間の視覚に合わせて、被写体の形状をカメラのアオリ操作で修整できるのだ。

今では、パソコン画像ソフトのAdobe Photoshopで、パソコン上でシフトアオリの修整が非常にカンタンになったが、ティルトアオリの修整は、近景にピント合わして1枚、中景にピントを合わせて1枚、遠景にピントを合わせて1枚撮り、その3枚の写真をAdobe Photoshopで一枚写真に合成するのは、かなりのスキルを要する。
もちろん、35mm判(サンゴ)のニコンFマウントやキャノンEFマウントにも、アオリレンズのPCニコールやキャノンTS-Eレンズが販売されているが、現状ではカメラボディ焦点面でのアオリ補正が出来ないので、充分だとはいえない。

イメージセンサーをティルトとシフトができるように可動にすれば、理想的なアオリが出来るが、センサーを可動にすると、光学ファインダーが使えず、液晶モニターを使ったライブビューなってしまうし、TS-Eレンズのイメージ・サークルを今より50%ほど拡大しなければならない・・・実現性はないね。

高層建築の外観写真や室内撮影にはビューカメラの使用が必須になる。
料理写真ではティルトとシフトの両方のアオリ テクニックを併用する。 蛇腹繰り出し式の大型カメラには、凡そ下記のように分類されると思う。

1、ビューカメラ・・・舶来品では、ジナーやリンホフ カルダン系など。国産品では、トヨビューなど。蛇腹は、広角レンズ用に袋蛇腹、標準レンズ用に標準蛇腹、長焦点レンズ用に延長蛇腹と組み換えができる。カメラバックに電子接点のないNikon Fマウントや66判のハッセルのマウントを取り付ければ、ニコンもハッセルもビューカメラに変身する。但し自動絞りは使えないし、フランジバックの問題で、前枠に広角用凹みボードを使っても、無限遠にピントがくるレンズは少ない。
ま、ニコンには、ベローズ用のマイクロニッコール105mmやハッセルにはベローズ用のマクロ・プラナー135mmがあるので、純正品の方が使い易いのは、言うまでもない。

2、テクニカルカメラ・・・舶来品では、リンホフ テヒニカ系、国産品ではトプコン ホースマン45系など。コンパクトな折りたたみ式ビューカメラだが、スーパーテヒニカは蛇腹の交換が出来ないので、シノゴの超広角65mm、75mmが非常に使いにくい。広角は90mmから使える。望遠はテレタイプのフジノンT400mmまでで、使用できるレンズに制限がある。

3、プレスカメラ(舶来品では、スピードグラフィック(スピグラ)、国産品では報道用・営業写真家向けのマミヤプレス(中判で製造終了) などに分類されている。
1964年の東京オリンピックの時は、大手新聞社でも系列のグラフ誌に写真を掲載するときは、フラッシュガン付きのスピグラを使っていたが、きれいな画質より、決定的瞬間を重視する報道の現場は、35mm判一眼レフカメラの機動力を優先するようになり、スピグラの出番は急速に激減していった。

スイス製のジナーなどは、大型カメラの電子制御化が進んで、電子シャッターを採用。現在では数社のデジタルバックが使用できるようになっている。非常に高価。
大型カメラ用レンズは、カメラから独立していて、現在、メジャーなブランドでは、シュナイダー製、ツアイス製、FUJIFILMのフジノン、ニッコールの大型レンズが販売されているが、大型カメラ用レンズの選び方は、同じ焦点距離のレンズでも、焦点面のイメージサークルの直径が違うので、シノゴでアオリを利用する場合は、ゴーナナ(5×7インチ判)を余裕でカバーするイメージサークルの広いレンズを買わなければならない。

なお、カラー撮影が主な人は、交換レンズを買うときは同じメーカーの製品に統一することが肝要である。
さらに、外国製レンズは、国産のレンズより、ガラスの「ヤケ」が意外に早くレンズが曇る、黄ばみが早くて「ヌケ」が落ちるようだ。白いドレスや雪景色を写すと黄ばむのだ。コダックのエクタクロームは黄色の彩度が高いので、レンズの劣化を正直に描写する。

デジタルなら色被り修整は超カンタンなのだが、フィルムでは難しい。というのは、印刷所の現場責任者は、シノゴ原板のポジフィルムの色調を見本にして印刷するから、オリジナルが色被りしていたら、そのまま印刷される。
今なら、褪色したカラーフィルムをスキャナーを使ってデジタルに変換すれば、真っ赤に褪色した救いようのないポジフィルムでも、Adobe Photoshopでレタッチのスキルがあれば、撮影時の色調に近づけることができるのだ。
スーパーテヒニカを買った時は、外国製のレンズを買ったが、レンズのヤケに気付いて、3本同時にEBC FUJINONレンズに入れ替えた。広告写真では、ピントが合った部分のシャープさ、スカッとした発色の美しさが求められる。

大型カメラ用のレンズには、ピント合わせのヘリコイドは省略されているが、レンズシャッターと絞りが内蔵されている。
大型カメラ用レンズを買うときは、ジナー用を除いて、通常はコンパクトなリンホフボードに大型カメラ用レンズを取り付けて販売されている。レンズを交換する時はボードごと交換する。

余談になるが、ゴッドファーザーPart IIIでは、アル・パチーノが扮するドン・コルレオーネ 一家の記念写真を撮るのに、何と日本製の「トヨ・ビュー」が使われていて、ぼくはコッポラ監督に親近感を覚えた。
トヨビューは、大阪府豊中市にある「酒井特殊カメラ製作所(現在は、有限会社サカイマシンツールに社名変更)」で製造しており、自分で設計図を書いてオーダーメードのカメラ部品を特注で依頼できる。トヨ・ビュー45Gは、数年間はぼくのスタジオの稼ぎ頭でもあった。

さて、ぼくがなぜ、リンホフ スーパーテヒニカを欲しくなったか・・・その経緯を話してみよう。
ぼくは22歳(1966年)の時に、新聞の求人広告で広告制作会社に就職し、3カ月間の見習い研修のあとで、プロカメラマンとしてライターさんとペアを組んで仕事することになった。

その会社では、カメラマン採用の条件は、写専卒か大卒者で、Nikon Fと交換レンズ3本以上を持っている事が必須で、少し職業経験を積んだ、26〜28歳ぐらいの即戦力になれそうな男性が必要とされた。
一般社会常識の筆記試験と面接を受けたぼくは22歳であったが、年齢が若すぎる以外は、筆記試験合否のカットラインとカメラ所有の必須条件をクリアーし、若くても、2年間ほどテレビCM製作会社に勤務して、ロケやスタジオ撮影、タイトルなどの線画撮影の仕事に関わっていた実績を買われて、二十数名の応募者の中から、ぼくだけが採用された。

一本立ちした初めての仕事の担当が、いきなり、大企業の松下電器さんであった。
現在はパナソニックさんである。因みにPanasonicの名称は、北米向け(MECA向け)商品に付けられたブランド名で、最初は、ラジオ事業部、ステレオ事業部、録音機事業部から出荷する、北米向け商品に刻印された。その他は、Nationalブランド。
その当時は、経営の神様・松下幸之助相談役がご健在の頃であった。しかも、松下さんの顔(基幹事業部)でもあった、茨木市(いばらきし)にあるテレビ事業部さんが行う販促関係の写真撮影を担当することになった。新米であっても、プロカメラマンとしての撮影料をスポンサーに請求するのだから、撮影の失敗は許されない。

初めてライターさんに連れられて、茨木へ二人で打ち合わせに行った。その当時は「嵯峨」という白黒19インチの家具調テレビが大ヒットしていた。その嵯峨が、玄関ロビーのホットコーナに置いてある。
商談室で、商務課の主任さんや課長さんと販売店取材の打ち合わせをした時は緊張し、話がぼくに振られそうになると、ライターさんは機転を利かしてフォローし、ぼくに殆ど喋る機会は無かった。

それまでは、ぼくの上司であった係長がテレビ事業部さんの撮影を担当していたので、帰社すると、スポンサーさんから営業課長に新米カメラマンの起用にご不満の電話があったらしく、最初の写真取材は、上司のベテランカメラマンの付き添いで、滋賀県の販売店へインタビュー取材に行くことになった。

今のぼくなら、販売店取材などは、一人でも出来る簡単な仕事なのだが、松下さんの仕事でプロデビューの時は、演出もできるライターさん、店主の話を録音する音声さん、新米カメラマンのぼく、撮影助手もやってくれるロケ車の運転手さん、ぼくの上司(ベテランのカメラマン)、スポンサーさんから二人、と7名で取材にいった。 まるで、テレビー・クルー(撮影隊)のような大袈裟な取材だった。

当時は三脚を使うことが常識だった。 三脚が必須なのは、当時のデーライトタイプのカラーリヴァーサルフィルム(KODAK製のエクタクロームX)の感度がASA64(現在はISO64相当)しかなく、店内撮影では1/30〜1/15秒のシャッタースピードになったからである。
今使っている、EOS5D mark2は、感度設定をISO 6400にして撮ってもノイズが出ない(※高感度撮影時のノイズ低減を「する」にチェック)し、標準ズームに手ブレ防止装置も付いていて、その場で撮った写真のプレビューができるので、未露光撮影や救いようのない露出の過不足、ピンボケの失敗は殆どない。

昭和41年(1966年)当時は、スピードライト(ストロボ)がプロにも普及しておらず、店内ではフラッシュ(6BのFP級閃光電球)を焚いて撮影した。
FP級とは、フォーカルプレーンシャッター専用の閃光電球で、6BのBは、ブルーコーティングの略で、デーライトカラーフィルム用のことだ。
Nikon Fの場合は、シャッター速度回転ダイアルの外側リングを引き上げてFP接点に切り換えれば、全速のシャッター速度にフラッシュが同調する。 店主さんの顔写真を撮影する時、一発目が発光しなかったので、現場が凍り付いた。

係長が耳元で「落ち着いて、慌てよ???」と、変な日本語をいったので、おかしかった。
きっと、フラッシュの発光ミスがあっても、落ち着いてプロらしい動きをせよ・・・と、仰りたかったのだろう。 二発目からは発光したので、ホッとした。
ぼくのプロデビューは、ちょっと泥臭く、ぎくしゃくしてしまった。

その後のぼくは、今まで30名を超えるライターさんと一緒に仕事したお陰もあって、文章を書くコツが少し分かり、フォトエッセイを書くのも好きになっていった。
22歳からのぼくは、「アサヒカメラ(アサカメ)」と「コマーシャル・フォト(コマフォト)」を25年間ほど定期購読していて、写専卒業後も写真表現のトレンドやスティルカメラの新製品情報を貪欲に仕入れていた。

広告写真界やファッション写真界の人々を読者ターゲットにした、コマーシャルフォト・シリーズVOL.2(昭和41年:1966年6月1日発行)に、
「国際線のジェットパイロットをプロ操縦士中のプロだとすれば、軽飛行機しか操縦できないパイロットはCクラスのプロだと言うことになる。
小型カメラで向こうが作ってくれるイベントしか写せない写真のプロは、自由に最新の大型カメラのメカニズムを駆使したうえ、光やモデルを演出して写せるプロに比べて、Cクラスだ、ということになりはしないだろうか」と書いた人がいて、そういう軽率な喩え方をした筆者に読者のぼくは腹が立った。ニコンさんやキャノンさんにも失礼だろう。

この時は、出版社の玄光社さんにも腹が立ったけど、23年後になって、トヨビュー45Gを使って制作したぼくの写真作品を「フォトテクニック(1989年7・8月号)」という写真誌に見開きで紹介して頂き、原稿料まで頂いたので感謝している。

当時のぼくは、Nikon Fだけで仕事していたので、Cクラスカメラマンと見下され、悔しくなって、大型カメラに興味を持つことになったが、写専時代は、黒い冠布(かぶり)でピントグラスを覆って、ルーペでピント合わせするジジ臭いビューカメラに全く興味がなく、広告写真のカメラマンになるつもりはなく、シノゴの実技をサボっていたので、写専に2年通って卒業しても、大型カメラの知識と技能は「ゼロ」に近かった。

大阪市北区梅田のOSミュージック(現在は廃業)の入口近くに、輸入カメラ専門の「ツカモトカメラ(現在の店は大阪駅前第4ビルで、国産カメラも販売)」があって、ショーウインドウのホットコーナーには、リンホフ、ハッセル、ライカが展示してある。
当時は、「リンホフ、ハッセル、ライカを持って仕事しておれば、一流カメラマンや」。といわれていた風潮があったので、
国産品愛好でニコン党だったぼくは、「アホか!」と、最初は食わず嫌いで、一流になれる「三種の神器」をチラ見していたのであるが、ドイツ製の大型カメラ・リンホフ スーパーテヒニカV(Vは5型)にオーラーを感じ、やがて、スーパーテヒニカで撮影している自分の姿が夢にまで登場するようになった。

1968年当時の店頭価格は、299,000円! ぼくの月給は38,000円・・・。
その当時のぼくは、実家から通勤しており、今までのアルバイト収入や給料を殆ど貯金していたので、50万円ほど貯め込んでいた。
「よっしゃ、買おう」。

スーパーテヒニカは、当時の仕事ですぐに必要なカメラではなかったが、将来のことを考えて、思い切って交換レンズ3本とスーパー・ローレックス6×7判用も購入した。
カメラを買って6年経った、昭和49年(1974年)のぼくの所有機材リストに記帳されたデーターによると、リンホフ・スーパーテヒニカV2の価格が353,000円。6年間に54,000円も値上がりした。

広角レンズは、シュナイダー製のスーパー・アンギュロン90mm f8 コンパー・シャッター付。レンズ代が95,000円とリンホフ純正の広角用凹みボード代が9,600円。
標準レンズは、シュナイダー製の連動カム付きテヒニカ・ジンマー150mm f5.6 コンパー・シャッター付。レンズ代が72,000円にリンホフ純正ボード代が7,700円。
長焦点レンズは、シュナイダー製のテヒニカ・ジンマー240mm f5.6 コンパー・シャッター付。レンズ代が143,000円とリンホフ純正ボード代が4100円。

さらに、昭和47年(1972年)には望遠レンズに富士光機製(現在は富士フイルム)のフジノンT400mm F8も買った。レンズ代が89,000円と国産レンズボード代が2,000円だった。
社長に頼んで、レンズ3本もほぼ同時期に買ったので、スーパーテヒニカの価格を安くして貰った。
その代わり、十年後に社長が直々にぼくのスタジオへトヨビューを売りに来られ、社長の言い値で買って、お店に協力することになった。

標準レンズのジンマー150mm f5.6のLINHOFマーク付きには、ブーメランのような形状の連動カムが付属している。
この連動カムは、テヒニカの蛇腹レールの奥にカムソケットがあって、連動カムをカチッと差し込むと、標準レンズを取り付けた蛇腹の伸縮に合わせてカムも動き、カメラ内蔵の距離計が連動して距離計ファインダーで二重像合致式のピント合わせができるが、スーパーテヒニカで手持ち撮影したのは、長崎県五島列島で試した一回だけであった。福江島の大瀬崎灯台を海上の渡船から撮った時だった。 なお、廉価版のテヒニカには距離計ファンダーは省かれている。
スーパーテヒニカは、とても堅牢で、1968〜2003年まで35年間も使っていた。蛇腹の摩耗で新品と交換が必要になり、その他のオーバーホールも高く付くので、売却することになった。

なお、スーパーテヒニカV(5型)の後継機は、リンホフ マスターテヒニカである。従来のベージュのボディーカラーがブラックに変更され、広角レンズを使った時のフロントライズのアオリをスムーズにするため、軍艦部(カメラボディ上面)に、開閉式のフラップが 設けられた。
リンホフ社のカメラを買うと、シュリロ貿易を通じて、ドイツから「英文」のお礼の手紙が送られてくる。 これには、ちょっと感激した。
ハッセルやニコンカメラ、キャノンカメラをいくら買っても、製造メーカーから、丁重なお礼の手紙が来たことはない。
まぁ、十年間ほど、ニコンさんのNPS会員やキャノンさんのCPS会員にして貰ったから、それがお礼だと思っておこう。

シノゴを買うと、頑丈で重い三脚が必須である。それで、フランス製のジッツオ三脚を買った。機関銃の銃座も造っているメーカーらしい。
シノゴの撮影には、ジッツオ三脚に、スーパーテヒニカと交換レンズ、フィルムホルダー20枚やポラホルダー、テヒニカ専用の6×7判のロールホルダーを持って行くので、荷物が嵩張り、電車での移動がシンドイ。
そこで、シノゴのロケ撮影のために、クルマが必要になって、1968年の冬から会社勤務の合間に自動車学校に通って、自動車運転免許(普通)を取ることになった。

当時は、学科教習(自動車運転の交通規則と自動車のメカニズムの教習)と、技能教習(MT車のみ。校内路上教習と仮免後の公道教習を合わせて22時間)で、2万9千円ぐらいだったが、補習を受けたので3万8千円も掛かった。今と比較すると、大変安い。
因みに、ぼくが1969年に通っていた近鉄自動車学校(天美校)では、2012年4月からは、入学から卒業まで、296,275円(MT車の普通免許)もする。43年間に10倍!これは、学科検定や技能検定がスムーズに進んだ場合であって、技能教習の補習を受けると、一回の技能教習料が5040円。昨今の若者の車離れは、運転免許を取得する費用の問題もかなり影響しているのかも知れない。

何しろ、24歳頃のぼくは超売れっ子になっていたので忙しく、飛び飛びに技能教習を受けたので、次のステップに進む効果測定で落とされ、振り出しに逆戻り。だから、運転が全然上達しない。一回1200円の技能教習の補習を7回ほど受けた。
免許証をやっとこさで貰ったのは、1969年(昭和44年)の8月であった。
大阪市に隣接した門真市(かどまし)の自動車運転免許試験場で、ペーパーテストを合格したので糠喜びしていたら、いきなり、抜打ちで、路上での技能教習テストがあって、ぼくの名前が呼ばれた。ぼく以外にも3人ほどいた。ぼくが最初であった。ここで落ちたら、4万円がパー!月給が飛んでしまう。

恐る恐る教官の指示に従って運転席に座り、緊張に震え、汗ばむ手でハンドルを握って、ギアチェンジのクラッチ操作がぎこちなく、カックンカックンと走り出し、案の定、大の苦手だったクランク走行で脱輪。オマケにエンスト。万事休す。青ざめた顔で呆然としていると、
教官が、 「ハイ、降りて・・・そんなに、心配せんでもええよ。一応(自動車学校の技能検定では合格なので)免許証は渡すけど、通っていた学校で技能教習を4〜5回ほど受けたほうがいい」。

クルマを買ったのは、昭和45年(1970年)の春であった。この時の月給はグーンと昇給して、7万円。
新聞広告にデカデカと発表された、BIG NEW SPRINTER! が目に焼き付いた。
買った クルマは、
トヨタ・オート店誕生と同時に新発売された、トヨタ・スプリンター1200SL(ツードア クーペ、1200cc ツインキャブ OHVエンジン搭載車で77馬力)のブルーであった。 会社から徒歩3分の場所に、トヨタオート北大阪の天満橋営業所が開店し、クルマを買うのにも便利だった。

スプリンターの新車価格は60万円台だったと思うが、その頃はまだ日誌を付けていなかったので、詳細はハッキリと憶えていない。他に強制賠償保険料と任意の自動車保険料、自動車取得税、自動車税、車庫証明と登録諸費用などで、プラス15万ぐらい払ったように思う。当時は、消費税が無かった。

自動車を買うことを決めた時は、実家から会社勤務のサラリーマンで、毎月給与所得が見込まれるということで与信審査にパスし、マル専の割賦販売(5年:60回均等分割)でクルマを購入した。
毎月の決済日前にマル専専用の銀行口座に月額割賦金を入金し、決済指定日またはその前に、マル専小切手を自動車販売会社に持って行く面倒な支払方法であった。
今ならクルマの割賦販売専用のローン会社が数社あって、金融機関の普通預金口座から毎月の決済日に自動引き落としされるようになって便利になっている。

新車が来た時は、免許証を交付して貰ってから8カ月も運転していないペーパードライバーだったので、ぼくは自動車の運転には全く慣れていないので、会社から電車で帰宅すると、運転の上手い兄がぼくの教官代わりになって、万博開催前に開通した出来立てのホヤホヤのまっさらな大阪中央環状線の松原〜吹田を自動車運転教習用のテストコースにし、毎晩深夜に1往復走って運転の練習を行った。

車を買って一週間目に、会社の同僚に新車のお披露目をすることになり、25歳のぼくは、自分が買ったマイカーに乗って意気揚々と出社した。
会社の隣のコンビニ店主が、毎朝駐禁防止の背の低いドラム缶を店頭前の道路上に置いてあるのをついつい忘れて、会社の玄関前に着くとイージーに幅寄せして、ガシャーン!ガガガーッっと、運転席から見て左側のフェンダーを擦(こす)ってしまった。

今のぼくなら年の功で、社会常識的な法律の知識が備わっているので、コンビニ店主に対し、大阪市市道という公道上に故意に障害物(ドラム缶)を置いて、公道を通行する自動車に交通安全上の危険と損害を与えた。道路交通法違反と器物損壊の罪で全額弁償して貰えるが、25歳の時はそんな知識は皆無だった。
納車一週間目で左フェンダーの「板金塗装修理」である。トホホ・・・。

任意の自動車保険に入って いたが、車両保険の免責が5万円だったので、5万円は自己負担になる。自動車販売店から見積を取った結果、ぼくは運転が下手だから、また、同じような事が起きるだろうと考え、一回の修理費用が10万円を超える時に保険を使うことにし、現金で修理して貰った。クルマを持つと、予期せぬ出費を覚悟しなければならない。

まぁ、このスプリンターは、ぼくの足になって、非常に活躍してくれた。クルマを買って2ヶ月も経つと、運転が見違えるほど上達した。
大阪万博の当時は、ガソリン代がレギュラー1リッター当たり53円で、3年後の昭和48年(1973年)でも67円だったので、メチャ安かった。
当時のクルマは、排ガス浄化装置を取り付ける義務がないので、クルマの燃費が良くて、名神高速吹田インター手前のGSで45リッターの満タンにすると、名神・東名高速を通って、首都高速3号線の渋谷出口までの片道525kmを余裕で無給油で行けた。

ぼくは、ノンストップに拘りがあって、仕事に夢中になると、昼飯抜きで一気にやってしまう時が多々ある。必要ならトイレも我慢する。名神吹田インター〜東京インターまで、体の調子が良いときは、運転に夢中になり、MT車のスプリンター1200SLでノンストップで走ったことが何度かある。所要時間は5時間半ほどだった。

1970年当時は、日本社会がモータリゼーションの少し前なので、名神も東名も交通量が少なくがら空き。防音壁も無かった。オービスなんてケッタイなモンは無かった。世の中が大らかだった。
高速道路に交通渋滞の発生が多い現在の方が、ドライバーがのろのろ運転にイライラしてカッカするので、却って悲惨な交通事故が多い。
クルマのドライバーは、学科教習と技能教習の検定試験に合格した人なんだから、プロ意識を持ち、刻々と変化する道路状況に応じて、安全運転せなあかん。

長距離ドライブと云えば、2006年に佐賀県の唐津くんちを取材したが、この時のクルマもトヨタ・スプリンターであった。スプリンター・カリブBZツーリングという、これも俊足が売り物のクルマだ。
佐賀県伊万里市を朝8時に出発して、兵庫県の加古川バイパスまで一般国道(国道202号、国道3号、国道2号)を走り、神明道路と阪神高速を利用して、大阪市平野区の自宅に夜11時半に着いた。707km を一人で運転した。
ぼくは、還暦過ぎても自動車の運転が大好き。高速道路では飛ばすほうだが、防音壁の続く味気ない高速道路を走るより、日本各地の町並みを楽しみながら一般道をのんびり走るのも好きなのである。

クルマを買ったことで、ぼくの行動範囲は拡大した。
現在はインターネットで、旅行する前に行きたい場所の情報を詳しく調べ、ビジネスホテルや旅館の手配がカンタンにでき、観光旅館でもネット予約なら、一人でも泊めて貰えるが、インターネットが無い頃は現地に着いてから宿を探し、独り客の場合は断られて、車中泊が当たり前であった。
写真を撮ることより、まだ知らない風光明媚な国立公園などの様子を愛車で見て回るのが楽しかったので、スーパーテヒニカを買ってから数年間は、売れた写真は僅かであるが、大型カメラに慣れ親しむことが出来た。

勤務先の会社では、愛用のNikon FやNikon F2を使うことが殆どであったが、ぼくのスーパーテヒニカが、会社の仕事に必須になる時がやってきたのである。
それは、1970年(昭和45年)に行われた大阪万博であった。

大阪万博の各パビリオンでは、数台の映写機を使った「マルチスライド」の映像ショーが大流行(おおはやり)だった。
とくに、コダック社の35mm判のスライド映写機「カローセル」を数台〜十数台使った3面〜9面のマルチスライドショーは、関西の大手企業が大勢の招待者を一同に集めて行う、セールスプロモーション(販売促進)のイベントには最適だと注目され、勤務先の会社が一番の取引先であった松下電器さんも全国の支社から幹部社員を本社講堂に集めて行う「新年度方針発表会」や各事業部さんが内外の販社要人を招待して開催する「新製品セミナー」などに「マルチスライド(マルチイメージ)」が採用されることになった。

その後、家電業界だけでなく、自動車業界、アパレル業界、旅行業界などの大企業も、次々にマルチ映像の販促イベントを積極的に活用されるようになって、ぼくは忙しくなっていった。
万博で体験したような、巨大スクリーンの映像で商品説明すると、商品写真に迫力があって商品の特徴が分かりやすく、認知度が倍増する。

当時はシノゴ判の映写機が無かったので、4×5インチのカラーリヴァーサルフィルム(カラースライド)を35mm判サイズに、コンピューター制御で、最大で9面にトリミングデュープして、9台の映写機で9枚の写真が1枚の写真に繋がるように映写機の位置をラックに積んで上映すれば、シネラマのような継ぎ目のある大画面ができる。
スライド映写機のコマ送りのタイミングはコンピューター制御である。

マルチスライド(マルチイメージ)需要のお陰で、とくに大阪では、4×5インチで撮った写真の需要が急増した。4×5インチで撮ると、1カットの撮影料金が35mm判撮影料の2〜3倍にアップして、ぼくの年収もそれに比例する筈だった。
しかし、ぼくは会社勤務のカメラマンだったので、月収は同じだった。
ぼくの買ったスーパーテヒニカは、先行投資が実って意外なニーズで大活躍することになったので、1973年9月に会社勤務のカメラマンを辞めてフリーになり、写真スタジオ開店への準備に取り掛かった。29歳の時だった。

ぼくが独立したのを知って、新しい取引先から海外取材のオファーを受け、1974年2月に、フランス領ポリネシアのソシエテ諸島(中心はタヒチ島)の近くあるモーレア島のバカンス村に、日本人観光客を誘致するための6面マルチ映像を制作することになって、2週間ほどタヒチに行って取材することになった。1ドル=240円の時代だった。スーパーテヒニカを南太平洋に持って行った。

シノゴのカメラは、スライド制作の為に作られていないので、リスフィルムで作った特製のマスクを作って貰って、それをシノゴのピントグラスに貼り付けで、構図を決めて撮影した。
カメラを製造したリンホフ社は、まさかマルチイメージのマスターカメラにスーパーテヒニカが利用されているとは、予想もしなかっただろう。

35mm判のアスペクト比は 2:3で、従来のオートスライドの制作には、Nikon FシリーズやCanon F-1シリーズのフィルム式一眼レフを使っていたが、二面並列映写(アスペクト比は2:6)の場合は、アサヒペンタックス67を使っていた。三面映写の場合(アスペクト比は2:9)は4×5インチ判のスーパーテヒニカやトヨビュー45Gを使っていた。

超横長画面の、リンホフ・テクノラマ617(画面サイズは、56 ×170mm)は、ブロニー判のロールフィルムを使い、マルチスライドに適したマスター・カメラであった。現在でも人気があるらしい。もちろん、フィルムカメラで、デジタルバック仕様はない。

関西経済が活発な時は、カメラマンのぼくはマルチイメージの企画も担当して、スポンサーにプレゼンする絵コンテも描いて、撮影会議に参加していたので、大変忙しかった。
スポンサー受けする、絵コンテ制作のノウハウは、テレビCM制作をやっていた頃の経験が生きたわけである。

ところが、1990年10月に起きた東証の株価大暴落で、土地神話に湧いたバブル景気が崩壊、数年後には数行の銀行や大手証券会社が倒産した。1995年には、阪神淡路大震災と1ドル80円の円高のダブルパンチで、被災地の震災復興と輸出が頼みの関西経済は苦境に立った。ぼくの写真スタジオも商品撮影が激減して、ロケ撮影のみの仕事になった。スタジオ商品撮影の需要回復の兆しがなかったので、2001年2月に閉鎖することにした。
スタジオを開けた時は「スタジオ開き」をやって、祝い酒を酌み交わしたが、26年後に閉めた時は、「お別れ会」もなく、あっけなかった。

さて、今のぼくには、徹夜作業が当たり前のスタジオ商品撮影や工場生産ラインの撮影は、体力が続かない。
現在は、体の負担が軽い仕事だけを受けている。
今では、取材に携行する撮影機材はシンブルでコンパクトな方が有り難いが、ぼくの場合は、最近流行の軽すぎて小さすぎるカメラは却ってぶれやすい。
個人的には、ケータイカメラのようなライブビューカメラは嫌いだ。一眼カメラは光学ファインダーに拘りたい。適度な大きさと重さのEOS5DやNikon D800ぐらいが、カメラを構えた時にしっくりきて丁度いい。

文章を書いたり、Macでイラストを描いたり、WEBページの制作などは、力仕事や立ち仕事ではないので、一生続けられると思う。
使わなくなって2003年に売却した、リンホフ スーパーテヒニカとトヨ・ビュー45G・・・。今頃、誰が使っているのかな?
シノゴで撮った数百枚のカラーリヴァーサルを時々ビュワーを点けて眺めると、愛機と一緒に愛車で旅した遠い青春時代が懐かしく、若かりし自分の姿が脳裏に甦ってくる。
これからも制作意欲を持続させるため、新たな助っ人のMac Pro Xeon 64−bitワークステーションのパフォーマンスを借りて、クリエイティヴなフォトライフを送っていきたい。

2012年5月5日 尾林
マキシム フォトグラフィーのWEBコンテンツ(左のバナーをクリックすれば、ご覧になりたいページが開きます)
フォトギャラリーには、四季の花や風物詩の写真、さらに、フォトエッセイに掲載した写真の中で、見応えのある写真は大きな画像にして掲載しています。例えば、岡山県真庭市の醍醐桜、兵庫県加東市の平池の蓮、兵庫県佐用のひまわり畑など...で、ぼくが実際に取材に行った写真を掲載しております。

ご覧になられるのは自由ですが、撮った写真家に無断でコピーして勝手に使うことは著作権法によって出来ません。写真が気に入られて、ご自宅のリビングやお店などでお使いになりたい場合は、有料で提供しておりますので、「管理人室」のページで、写真や画像の入手方法をご確認下さい。
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フォトエッセイには、主に日本各地で行われている祭りや行事などを取材して掲載しています。フォトギャラリーと違うところは、記事にあります。祭が行われた場所の土地柄や祭に関わる歴史にもご興味のある方は、ぜひお読み下さい。
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ぼくが22歳の時に一人前のコマーシャルフォトのカメラマンになったときの愛機は、Nikon Fでした。NikonはF3まで愛用しました。
その後、小型カメラでは、Canon newF-1、Canon HS F-1、大型カメラではリンホフ スーパーテヒニカやトヨ・ビュー45G、中判カメラではハッセルブラッド500CMや500ELX、アサヒペンタックス67、FUJI GX-680などを愛用しましたが、現在はフィルムカメラを全く使っておりません。

初めて買ったデジタル一眼レフは、FUJI FinePixS2Proでしたが、2011年の現在ではCanon EOS5D Mark2をメインとして使っております。FUJI FinePix S2Pro、S3Pro、Canon EO S5D、 EOS-1Ds Mark2、EOS 5D Mark2のリポートを掲載しています。
 

 
最近は、飼っているペットの写真(主に子犬や子猫)をネットに投稿するのが流行ってきています。ぼくも、ペット関連用品を製造販売する会社の製品カタログの写真を撮った経験があって、その製品の種類の多さに驚いたことがあります。
わが家にも1988年に、生後1年のシェットランド・シープドッグの「カム」がやってきて、家族の一員になりました。2003年まで生きました。詳細は、左のバナーをクリックして下さい。

 

 
大阪スケッチは、平成3〜4年頃(1991〜1992年)に大阪市内の行事や風物詩を写真に撮って、数枚のプリントを参考にして画を描きました。しかし、大阪市内には絵になるような催事が少なく、たった一年で、題材探しの壁にぶち当たってしまいました。1996年12月になって、ぼくの写真スタジオにMacを導入して画像処理の仕事を始めるようになり、Macの方が面白くなって、10枚ほど絵を描いただけで終了しました。今思えば、絵を描くことに夢中になっていた時期があったなんて、懐かしいですね。
大阪スケッチには、「天神祭・船渡御」、「大阪城天守閣」、「住吉大社の御田植神事」、「阪堺のチンチン電車」などを掲載しています。


 

 
ぼくの作品コーナーには、主に1985年〜1989年にかけて、写真展用に制作した写真を掲載しています。絵画作品の大阪スケッチは、1990年から1994年かけて制作したものです。ご覧になられるのは自由ですが、無断でコピーして勝手に使うことは出来ません。

作品を気に入られて、ご自宅やお店で飾りたい場合は、有料で提供しております.。

 

 
2001年2月末に、大阪市北区天満にあった写真スタジオを閉鎖してから、早くも10年が経ってしまいました。現在では、左の写真のような外人モデルを使った華やかなコマーシャルフォト関係の仕事は殆どやっておりませんが、セールスプロモーション用の写真取材やMacを使ったグラフィックデザイン、WEBページの仕事はやっております。
2000年以降になって受注した仕事の中から一部を掲載しました。
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ブログには、取材時のエピソードや日頃思っていることを書いております。月に1〜2回ぐらいは更新して行きたいと思っております。掲示板の開設は、まだ考えておりませんが、各ページの上下に設けたメール・アイコンをクリックして、フォームメールにご感想を書いて送って下さい。
左の写真は、京都市の北野天満宮近くにある上七軒の「ふた葉」さんの親子丼(おやこどん)です。ここのお店は、二十年ほど前から親子丼を注文すると「玉子の黄身」がオマケで入っています。オマケの玉子を掻き混ぜると、親子丼の味に深みが出て美味しいです。ちょっとしたアイディアで中味の濃いブログにしたいですね。
 

 
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Photographs and Written by Masatoshi Obayashi.
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