蒙古襲来の時に活躍した河野通有の子孫である、四国今治の河野家の長男。
村上三島水軍の本家である能島村上家の主筋にあたり、因島村上家・来島村上家
とも縁が深く、そのために、村上水軍の財宝の地図が代々伝わっている。
(大三島の大山祇神社の代々の神官とも縁がある。能島の村上武吉が豊臣秀吉に追われて能島城を脱出して屋代島に逃れたとき、莫大な財宝を当時の河野大祝に託した。)
戦国時代の英雄村上武吉は河野家の鶴姫にベタ惚れだったので、村上家ではなく、河野家に地図が伝わったわけである。
三条家の尉染に鶴姫の面影を見た河野武吉は宝探しを決意する。(大三島には尉染に丁度合う鎧もある。)村上武吉は弱小の頃
京都の東福寺で生活したことがあり、そのとき三条家の姫君と出会い、つい惚れた弱みで渡した地図があった。その地図は武吉
の先祖の遺産の地図であったが、室町時代のこととて、ただの銅銭であった。その場所は武吉もよく知っていたので、三条の姫と
将来そこで遊ぶ約束で渡したわけである。後に鶴姫に恋した武吉そのことを後悔するが、能島から逃れる時に財宝の隠し場所に
そこを選んでしまう。狭い場所であったため、先祖の遺産は掘り出して、能島の海岸に打ち捨てた。当時の切迫した状況では
金銀宝玉以外の銅銭など捨てるしかなかったのである。桃山時代に能島の海岸で発見された銅銭がそれである
河野武吉の武吉はこの村上武吉にあやかろうと両親が付けた名である。
村上水軍の財宝を調べていた大学生の河野武吉は京都の三条家にも地図が伝わることを知る。そこで縁をつくるため三条家の娘に見合いを
申し込んだわけである。
このような話を聞くといかにも腹黒い男のように見えるが、だいたい埋蔵金などほとんど発見されないわけで、夢を追うだけの男
である。容姿からして見合いが成立するわけもなかったのであるが、三条家の奥方や尉染が、ゲテモノ食いであったため、宝探しが具体化してくる。
河野武吉本人は多少粗暴な面はあるが単細胞で、見かけもめでたいが、性格もめでたい男である。