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松室猛のTMニ水会定例講演



靖国神社の歴史的変遷

1867年(慶応3年)に大政奉還が宣告された。翌1868年、明治元年1月(正確にはこの年の9月8日に改元)に新政府は各国に王政復古を通告した。しかし、それ以降も戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)をはじめ上野での彰義隊、会津城の悲劇や五稜郭の戦い、しばらく後の西南戦争などが相次いだ。これらの戦いに倒れた勤皇の志士たちの慰霊招魂の祭祀が必要だとする発想のもとに、明治2年6月29日に九段坂の歩兵屯所跡に仮拝殿がつくられ第1回目の招魂祭が執り行われた。この仮拝殿を更に立派な「社」にすべく、時の軍務官大村益次郎がその建設にあたった。明治5年に本殿が完成、これが靖国神社の前身となる「東京招魂社」である。靖国神社の参道中ほどに大村益次郎の銅像が建立されているのはその顕彰である。
明治12年6月4日付けで太政大臣三条実美の名で東京招魂社を「靖国神社」と改称する「太政官達」が発せられ別格官幣社となった。当時は陸・海軍省と内務省が管轄していた。
当時の弔いには「参り墓・祭り墓」と称するのがあり、下級武士や子孫を持たずに死んだ若い戦士は、その葬りの痕跡すら消え去る恐れがあったので祀る必要があるとするものであった。

戦時中の靖国神社

戦時中、靖国神社は国家神道としての道をたどるが、この経緯を理解するためには天皇が絶対的な権力の座に至る経緯を知る必要がある。大政奉還以前の天皇は武力も財力も持たないが唯一の権威の象徴として存在していた。すなわち、幕府にないものはイデオロギー的、宗教的権威であった。そこで天皇は、天照大神の子孫である「天子」として、理論的、制度的体系化が必要であった。天子であり、大元帥として軍部を統括し、皇祖神を絶対神とし、唯一の祭祀者であることにより「現人神」としての天皇像が必要であった。
もともと神道は、日本固有のもので創唱者が特定できないこと、教義が存在しないこと、職業的宗教家による積極的、組織的布教活動がみられないことが一般的であるが、神官の教導的兼補を廃止し葬儀と教化活動をしない、国家の祭祀としての宗教活動のみに従事することによって教派神道、仏教、キリスト教の3教の上に君臨する超越的国家宗教としての地位を与えられたのである。靖国神社はこの流れの中で天皇と国に殉じた志士を祀る社として別格官幣社に列せられ天皇の親拝を仰ぐ神社であった。明治憲法にも信仰の自由の規定があっただけに、国家神道が宗教か否かをめぐり、かなり無理で難解な議論が交わされた経緯があるが、招魂社に端を発した靖国神社はこれらの思想を背景に、戦争による犠牲者を悲劇であるとも悲惨であるとも感じさせることなく、むしろ逆に天皇陛下のために、国に殉じることは栄光であり、名誉であると考えさせるように国挙げて取り組んでいったのである。

戦後の靖国神社

戦後の一時期、靖国神社は天皇制及び軍国主義の象徴と捉えられ、焼き払おうとする動きがあった。これを防いだ理由を理解するのに面白い文献がる。1944年11月発行のアメリカの総合雑誌フォーチューンに日本特集号があるが、それを補って米国戦時出版委員会によって設立された海外出版協会刊行の『大日本帝国の研究』がある。(高橋哲哉著・靖国問題参照)
その第1章は「惟神( かんながら)の道」と題されているが、『天皇とは日本人の活力、忠誠心、ひいては道徳心がここに帰一する。いわば心の拠り所であり世俗の政権が神聖な権威を授かり、すべての栄誉がここにその源を発するところなのである。日本人にとって天皇とは、今日生きている根拠であるとともに、まさかの時は身命をなげうつための根拠である・・中略・・これが神道、すなわち惟神の道である』と記されているが、この文章は天皇に関するくだりであるが、靖国神社もこの感覚と同様に国民に浸透しており、これを焼却することはむしろ敵愾心をかきたてることになるとして、「神社令」に沿うことを条件として存続されることになったのでる。
靖国神社は昭和21年2月20日にGHQから発せられた「宗教法人令」によって東京都が認可する宗教法人となった。
昭和31年1月に第8回全国戦没者遺族大会で、「靖国神社国家護持」の決議がなされた。
昭和44年から毎年4回にわたり自民党が「靖国神社法案」や「戦没者慰霊表敬法案」などを提出したが、いずれも審議未了となり49年に廃案となり今日に至っている。

祀られている人達

1853年のペリー来航以来の国事殉難者と決められたが、反政府軍の戦士は除外されている。(安政の大獄・桜田門事件・西南戦争の西郷隆盛など)

事変別殉難者の数

明治維新の際の乱
西南戦争
日清戦争
台湾征討
北清事変
日露戦争
第一次世界大戦
済南事変
満州事変
支那事変
第二次世界大戦
平成16年合祀数
7,751柱
6,971柱
13,619柱
1,130柱
1,256柱
88,429柱
4,850柱
185柱
17,174柱
191,074柱
2,132,699柱
2、466、532柱

靖国神社は厚生省(現厚労省)が31年に各都道府県を通して名簿を集め、公務死と認定した人を「御祭神名票」にして靖国神社に送った。昭和41年に届いた御祭神名票の中に、いわゆる戦犯が入っているのである。合祀は新たに祀る人の本籍を紙に記し魂を呼び寄せる招魂式を行い霊璽簿にする。これを本殿に移して御霊として祭るのである。

極東国際軍事裁判(東京裁判)をめぐる問題点

東京裁判は世界11カ国から裁判官・検察官・弁護団を集めて行われたが、勝者が敗者を裁くものであり、法理論的にみれば裁判が依拠すべき法的根拠は極めて不明確である。
まず、A級・B級・C級戦犯の呼び名についてであるが、東京裁判は東条英機元首相他を、共同謀議して侵略戦争を計画遂行したとして28人をA級戦犯として起訴した。この裁判は「罪刑法定主義」や、後に制定された法により処罰することを禁じる「事後法禁止」に違反するとして、インドのパール判事は全員無罪を主張したが採用されなかった。
一般にA級戦犯が最も罪が重いという意味で誤用されているが、A・B・Cの区別はランクではなく『平和に対する罪』『戦争法規に違反した罪』『民間人に対する罪』の犯罪の範疇を示すものである。A級は7名、B・C級は1000人以上が処刑された。
東京裁判で示されたような罪を罰する成文法はない。しかし無条件降伏を受け入れ占領軍総司令官の権限下に置かれていた当時の日本は、これらを主張できる立場ではなかった。
東京裁判のもう一つの問題点に、裁かれた者より、裁かれなかった者に対する問題があるとする論がある。勝者の裁きであるが故に、東京大空襲や広島・長崎への原爆投下などの無差別大量殺戮というアメリカの重大な戦争犯罪が裁かれなかったことがそれである。
しかし勝者の裁きだからとすべてを否定することは、戦後の日本国を国際的に承認させた条件そのものを否定することになり兼ねない。
後に中曽根総理の時代に後藤田官房長官は東京裁判の「判決」を受諾していることを確認している。

戦犯合祀問題

戦犯が合祀されるに至った経過について、講和条約(昭和27年4月28日発効)第11条にまつわる論議がある。この条項は下記のごとく、裁判の受諾と赦免に関する規定である。

平和条約 第十一条【戦争犯罪】
「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。」となっており、講和条約発効後の昭和28年8月に、この第11条にもとづき「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の一部が改正された。その結果、戦犯として刑死、獄死した遺族にも戦没者遺族年金と弔慰金が支給されることになった。
恩給についても昭和29・30年と改正があり、刑死、獄死した人の遺族に対して公務扶助料が支給されるようになり戦争裁判による禁固、懲役の刑を受けた人の拘禁期間を公務在職年数に参入することになった。恩給法では「死刑又は無期もしくは3年以上の禁錮刑に処せられた者は恩給受給権を失う」と規定しているが、戦争裁判での受刑者がこの規定の適用を受けていないのは国内法による罪人でないと保証していることになる。
遺族援護法の改正は第16特別国会に於ける自由党、改進党、左派、右派社会党などの与野党挙げて全会一致の可決であったことは特筆されるべきであろう。

最近になって条約の第11条の英文解釈に関して各種の議論が出てきた。
すなわち、「戦争裁判を受諾」(accepts the judgments)の解釈についてjudgmentsが「判決」か「裁判」かで議論が交わされている。率直にいって「裁判の受諾」と「判決の受諾」との違いはわかりにくいが、通常の英文解釈としてverdictは評決を意味し、verdictに基づいて裁判官が下す判決をjudgments、刑の宣告をsentenceと言うそうである。
この問題をめぐり17年6月2日の参院外交防衛委員会で外務省国際法局長の林景一氏は、『judgmentsを受諾しているとし、judgmentsの内容として裁判所の設立根拠、訴因のもとになる事実認識についての認定(verdict)、刑の宣告(sentence)のすべてが含まれる。したがって、わが国はこの受諾により少なくともこの裁判について不法、不当なものとして異議を申し述べる立場にない』と発言、これが現政府の公式見解となっている。
また、平和条約とは、戦時中の旧怨を忘れ、未来志向で関係を結ぶものであり条約の発効によって戦争犯罪人はすべて解放することが原則であるとする主張がある。ところがこの原則が踏襲されず、むしろ刑の執行について日本が引き受けたことがその後の問題を生んでいるとの指摘がある。しかし、裁判を有効として受諾しなければ刑の執行を継続できないし、戦時中のお互いの怨念を水に流し、言うならば「手打ち」として独立と称する政治的選択をしたのだから、その不法・不当性を国家として批判せず、赦免も実行したのだからこれらを受け入れざるを得ないのではないだろうか。 (弁護士稲田朋美氏・サンケイ新聞・正論6/11及びWEB参照)

ここまでくればこの受刑者たちを何と呼べばよいのかが問題になるが、厚生省は「刑死」「被処刑者」の表現は避けて「法務死」「法務死亡者」と呼んだ。
靖国神社第6代松平永芳宮司は国事殉難者と解釈すべきとする見解から、これらの人を「昭和殉難者」と呼んでいる。
A級戦犯のうち絞首刑7名(昭和23年12月23日死刑執行、横浜の久保山火葬場にて荼毘に付し米軍により遺骨は砕かれ東京湾に捨てられた)、公判中病死した7名の計14名を昭和53年10月17日に靖国神社に合祀した。

合祀は直ちに問題にはならず、翌年4月19日の朝日新聞が戦犯合祀を掲載した記事から議論を呼ぶようになった。その主張は、彼らは戦死、戦没者ではない。英霊と同列に顕彰することは、彼らの指導した戦争を侵略戦争ではなく正しい戦争として正当化することにつながるとするものであった。 
この時期に中曽根総理は「戦後政治の総決算」を唱えたが、この新国家主義が軍国主義復活と強く警戒感を呼んだ。当時から参拝が私的か公的かをめぐりマスコミが執拗に問い続けていたが、この流れを受けて59年7月に藤波孝生内閣官房長官の私的諮問機関である「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(略称・靖国懇)が設置され、一年間の討議を経て総理の公式参拝は憲法上可能であると報告した。
この見解をもとに昭和60年の終戦記念日に公式参拝をした中曽根首相に対し早速に中国の人民日報が不快感を表明した。終戦記念日に参拝したのはこれが初めてではなく、公的か私的かを明確にしなかったことはあったが、靖国懇の報告が出てから、にわかに騒がしくなってきた。風見鶏の異名を取った中曽根首相はこれを機に靖国神社参拝を中止した。

戦犯の分祀について

1986年2月、中曽根時代に後藤田官房長官の依頼を受けて大槻文平靖国神社奉賛会会長が松平永芳宮司に分祀に関して意向を打診した。その結果は「それは絶対にできない。神社には「座」がありそれを分割することはできない。そもそも神社のご祭神を政治的配慮によって差別し、いったん神として祀ったものをはずすことは祭神に対する冒涜であり、断じて同意できない」という明確な拒否であった。戦犯の遺族の中にも分祀容認論もあるが、東条英機氏の孫は絶対反対を主張しており意見が分かれている。いずれにしろ靖国神社側の明確な拒否があるため分祀は不可能である。
また、戦犯の分祀とは別に信仰上の理由や、かつての植民として併合された国の遺族からも合祀絶止の要求があるが、同じ理由によりすべて拒否されている。

歴代総理の参拝歴

吉田 茂
岸 信介
池田勇人
佐藤栄作
田中角栄
三木武夫
福田赳夫
大平正芳
鈴木善幸
中曽根康弘
昭和26年から29年にかけて5回
3年5ヶ月の任期中に2回
4年4ヶ月  〃  4回
7年8ヶ月  〃 11回
2年5ヶ月  〃  5回
2年  〃  〃  3回
2年  〃  〃  4回
1年7ヶ月  〃  3回
2年5ヶ月  〃  8回
3年4ヶ月  〃 10回


「靖国懇」以降の騒ぎで中曽根氏は参拝を止めた。
その後の総理である竹下、宇野、海部、宮沢、細川、羽田、村山は10年間にわたり一切参拝は行わず。橋本龍太郎氏は1996年自分の誕生日に参拝、翌年は中止、以降小渕、森両氏は参拝せず、小泉政権誕生によって復活、現在に至っている。

天皇陛下の参拝歴

昭和20年11月26日
〃 27年10月16日
〃 29年10月19日
〃 32年4月23日
〃 34年4月8日
〃 40年10月19日
〃 44年10月20日
〃 50年11月21日
臨時大招魂祭
講和条約発効の報告参拝
例大祭
例大祭
臨時大祭

創立百年記念大祭
20年12月に「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件」と称する長文の指令がGHQより発せられた。いわゆる「神道指令」と呼ばれるものだが、この達しがあってから陛下は占領が終結するまでの6年間は参拝を自粛された。
それ以降については表の通りであるが、50年以降は憲法解釈の問題や政情・治安の問題などから宮内庁と関係部局との調整の結果、陛下の参拝は行われていない。(戦犯合祀に対する各種の発言も関係があるのではないか?)

日本国憲法第20条・政教分離原則との関係

学者、研究者のなかには極めて明確に天皇陛下及び閣僚の参拝は憲法違反であるとする主張がある。天皇陛下には私人としての立場はなく、その行為は国事行為であるため参拝は違憲であるとし、国務大臣も靖国神社が宗教法人である限り大臣としての参拝は違憲であるとするものである。
この件に関する訴訟で問題なのは下級審と上級審の判断に違いが散見されることである。
また、この種の裁判の訴訟の本旨は憲法違反かどうかを求めるものではなく、精神的、実質的な損害賠償請求事件であるが、訴因は認められず原告敗訴となっているのに、判決文のなかで憲法解釈がなされ、違憲もしくはその疑いがあるとするものが相次いだ。

この場合、被告側は訴因に関しては勝訴であるため控訴することができず、特別抗告に持ち込んだケースが散見されるがいずれも棄却されている。

靖国裁判の判例

1991年 仙台高裁の判例
岩手県議会が天皇と総理の公式参拝を求める意見書を提出したことに対し、印刷費、書類送達のための交通費などの返還請求。一審は原告敗訴。
高裁判決も判決主文では原告敗訴ながら「天皇、首相の公式参拝はその目的が宗教的意義をもち特定の宗教への関心を呼び起こす行為。相当とされる限度を超えるもので、違憲である」と断定。
1992年
1992年
2004年
2004年
2004年
2004年
2月28日福岡高裁は原告敗訴ながら公式参拝を継続すれば違憲であると判定。
7月30日大阪高裁は原告敗訴だが、違憲の疑いがあると判定。
2月27日大阪地裁も原告敗訴だが、憲法解釈には踏み込まなかった。
3月16日松山地裁は憲法判断には踏み込まなかった。
4月7日福岡地裁は明確に憲法違反であると判定した。
11月25日千葉地裁は憲法判断に踏み込まなかった。
これらの事実が示すように現行法のもとでは憲法に違反するかどうかを確認したり、行政訴訟でこれを問い質す方法がなく、原告が違憲性を確認する手段は損害賠償請求訴訟の形を借りるしかないが、その結果判決主文ではない傍論の部分で憲法判断が示されているケースがあり上記の一部はその例である。

しかし、次に示す津の地鎮祭判決のように、何をもって宗教的行為とするかが問題であり、古くからの習俗的行為や、宗教法人が所有する芸術的価値の高い仏像などを美術品として管理保存するための公的負担が直ちに政教分離規程の違反とならないことは明らかである。

政教分離に関する最高裁の憲法判断

1997年7月の「津・地鎮祭訴訟」の判決がある。津市が体育館建設に際し地鎮祭を行ったことに対する訴訟の判決である。判決要旨は下記の通りである。
『自治体がそれを執行した場合であっても「目的」が宗教的意義をもち、その「効果」が特定の宗教を援助、または他の宗教を圧迫するものでない限り憲法違反ではない』
すなわち、国の宗教活動とは宗教のとの関わりのあるすべての行為ではなく、目的と効果が問題なのである。これが世に言われる『目的・効果基準』といわれる判断基準である。
総理の参拝が違憲か合憲かについては侃侃諤諤の議論があるが、その対応、立場などを勘案して『目的・効果基準』に照らして判断するべきではないだろうか。

全国戦没者追悼式
1965年以来毎年8月15日に政府主催で日本武道館において天皇・皇后両陛下、首相以下各閣僚が参加して全国戦没者追悼式を挙行している。
戦没者追悼式の歴史を調べてみると最初は1952年に新宿御苑、1963年には日比谷公会堂、
1964年には靖国神社境内で開催されている。
この追悼式は宗教法人とのかかわりはなく、追悼対象者は先の大戦の軍民合わせた死者数、すなわち、空襲による一般市民の死亡者も含めた数であり310万人が追悼対象者である。

千鳥が淵戦没者墓苑

1959年3月28日に国立墓苑として竣工。本屋は六角堂になっており、その中央には古代の豪族の寝棺を模したとされる陶棺があり、その中に陛下から贈られた金の壷があり昭和12年以降の無名戦士の遺骨を収納。全戦没者の遺骨を象徴するとされる「象徴遺骨」が納められている。
戦没者遺骨収集団がかつての激戦地を訪ね遺骨の収集をしているが、それらを集めてお祀りする施設で、一般の戦没者のための施設ではない。この施設は「墓」であるが、通常の墓とはすこし趣の違う施設である。お祀りに関しては各宗派がそれぞれのしきたりに従って行われている。

新しい国立追悼施設を設置の是非論

2001年12月14日に小泉内閣の福田康夫官房長官は私的諮問機関「追悼・平和祈念のための記念碑等施設のあり方を考える懇談会」(通称・追悼懇)を設置した。
2004年12月24日に1年間の議論を経た結果「国を挙げて追悼・平和祈念を行うための無宗教の恒久的施設が必要」と報告している。
この問題が本年6月20日、ソウルに於ける小泉・盧武鉉会談において話題となったが、小泉総理は「日本の国民世論を考慮し、建設するかどうかを含めて検討する」と慎重な発言をした。この問題については、「外国の元首が来日した際に献花できるような施設が必要だ」「靖国神社を形骸化させるので、つくるべきでない」、あるいは「追悼懇の報告書では平和を祈念するのは良いが、慰霊となると靖国神社と同質になり問題がある」とする意見などがある。読売新聞は建設推進を主張し、サンケイ新聞は屋上屋の施設はつくるべきではないと反対しており、賛否両論がある。
小泉首相は訪韓前の17日に、戦没者に対する新たな追悼施設の建設について「わだかまりなく追悼できる施設は検討してもよいと思うが、いかなる施設をつくっても、靖国に代わる施設はありませんよ」と述べ、仮に新たな追悼施設ができたとしても、靖国神社に代わるものにはならないとの認識を示した。
冬柴公明党幹事長は追悼施設建設のための調査費を計上すべきであると武部自民党幹事長に持ちかけ、武部幹事長も同意したが党内には異論があり調査費の計上は直ちには行われそうにない。

どうなる、どうあるべきか、これからの靖国神社

今年も8月15日がやってくる。小泉総理は今年の参拝をどうするのか内外から注目を集めているが、現時点では「熟慮の上、判断する」として明確な意思表明はされてない。
総理の参拝には賛否があり、国益を損ねる参拝はすべきでないとの主張がある一方で、外国からとやかく言われる筋ではない、堂々と参拝すべきであるとの見解もある。
それぞれに各界の識者が意見を述べておられるが、そのいずれにも神社の独自性、特異性についての見解が見られないのは不思議な気がする。あえて、これに近いものを探すと靖国問題に関する文献の中に、いわゆる「文化論」に根ざす見解がある程度だ。

死者に対する対応は国によって異なるのは事実で、中国では「悪事をはたらいた死者を、死後も鞭打つ」が、日本では「悪事をはたらいたとしても、死によって償われた」とする解釈が一般的である。韓国は「許すが忘れない。「恨」をいつまでも抱いている」が、日本は「過去を水に流す」という感覚が一般的だ。
これらは文化の違いと理解すべきと思うが、わが国では死者に対する思いは宗教的というより崇祖・崇敬の念が強いのではないだろうか。

宗教法人としての「神社」の特異性について

もともと神道は「氏神様」といわれ親しまれているように、地域の安全や豊作を祈念する場として定着しており、「願かけ」が精々で、宗教として、または信仰の対象としての認識が希薄である。
日本人は諸外国から多大の影響を受けながらも、一方では独自の文化を構築してきた誇り高い民族である。神社神道は法的には宗教法人であるが、日本独自の文化に根ざす国民的習俗、習慣としての一面をかなりの部分で持っているといえるであろう。
全国的に有名な岸和田のだんじり祭りなどは、あらゆる宗派の仏教徒が宗派などを全く意識することなく地域ぐるみで取り組み、見事な地域連携の姿を見せているではないか。
日本では宗教家といえども他宗に対してそれほど排他的でないのが普通であり、この辺りに「八百万の神のおわします妙なる国、日本」の日本たる所以があるのではないのか。

「氏神様」と靖国神社との違いはそれなりに検証してきた通りであるが、宗教法人だからという括りだけで参拝が違憲だとする根拠は総理が国の機関であるからとの論拠以外にないはずだ
百歩譲って、当世風のコンプライアンスとやらで、公人か、私人かの仕分けの検討は許容範囲ではないかと思うが、首相が歌舞伎やオペラを鑑賞したからといって他の舞台芸術を差別しているという者があれば、その者の精神状態を疑う以外にないだろう。一国の総理にも私人としての一面があることを認めないのはいかがなものだろうか。
神社神道の成立過程からしても、神社はすべて宗教法人であるから総理の参拝は違憲であるとするのが果たして法理論的といえるのであろうか。

論理的な議論に馴染みにくい指摘であることは承知の上だが、それなら年頭の伊勢神宮参拝がなぜ問題にならないのかが不思議である。宗教法人だから違憲だとする単純な論者達はどう答えるのだろう。いずれにしろ日本人としての感性を持っている人や、戦没者に崇敬の念を捧げる者には理解されない点であろう。

国の機関である総理といえども、日本の伝統を重んじる日本国民であらねば、国の代表者たり得ないのは当然である。 近隣諸国との軋轢を解消させるために総理の靖国参拝を止めるべきだとする声があるが、軋轢とは何なのだろう。経済的利益を追い求める財界筋なども同じようなもの言いをしているが、経済的利益を守ることと国家の主権をまもることとどちらが大切かは問うまでもないだろう。

もし、戦犯の分祀をすれば中国や韓国が納得するかといえば、そんなことは絶対にあり得ない。
次は、靖国神社が軍国主義的だなどと言いだすだろうし、中国や韓国は必ず次なる恫喝の手段として日中戦争の責任者や日韓併合時代の責任者などを切り札として使うであろう。

中国にいたっては核武装をして、旧ソ連、モンゴル、ベトナムなどと武力衝突を繰り返した事実をもちながら、戦後60年を経過した日本が、今日まで憲法に明記した不戦の誓いを頑なに守ってきた事実すら伝えようとせず、いたずらに内政の失敗を外敵に置き換え、反日教育のみに専念している中・韓のずるいやり方には我慢ができない思いである。

靖国問題は純然たる内政問題なのに外交交渉の恫喝材料として使われているが、このような事態を招いたのは、わが国の外交が他国から内政干渉を許さない毅然たる態度をとらないことに起因していると断ぜざるを得ない。

靖国問題を考えるためには、あらゆる角度からの検証が必要であると考え、私なりの意気込みで取り組んではみたが、本論とは違う次元でことが進んでいることが虚しく感じられてならない。

靖国問題だけでなく内政干渉や主権侵害に対して確たる対応ができない国を主権国家と呼べるのだろうか、こんな国に明日があるのだろうか。

   

終戦60年目を迎えて 松 室  猛

                      

参考文献 高橋哲哉著 靖国問題(ちくま新書)
大江志乃夫著
靖国神社(岩波新書)
小堀桂一郎著
靖国神社と日本人(PHP新書)
文芸春秋7月号 ・正論 8月号
稲田朋美氏・サンケイ新聞・正論6/11及びWEB



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