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平成13年4月23日発信


全国初、大阪府議会での
「首相公選を求める意見書」議決に思う


2月定例府議会が会期を1日延長して3月23日に閉会した。
数々の懸案事項があった議会であるが地方議会としては初めて首相公選制に関する意見書が議決された。 この意見書の問題点と自民党議員団からの発議の妥当性について検証してみたい。
懸案事項の山積するなかではあるが森首相の退陣が確定した。 振り返って見ると今日ほど政治に関する不信感の高まりと、政党の存在感が希薄な時代はかつてなかったのではないだろうか。
森総理は小渕前総理の急逝のあと自民党内の派閥の綱引きと均衡を求める声による密室の協議によって誕生したが、指導力の無さとその後の失言続などで退陣を求める声とともに総裁選出過程が問題視され、ガラス張りの中での総理選出を求める声が高まってきた。
しかし、現行制度のもとで行われる首相選出には最大会派の自民党の総裁を選出するのが先であって、 それをガラス張りにし党員はもとより国民に理解される形にするべきであるのは言うまでもないが、政治不信や政党に対する不信感があるからこれらを払拭するために、この際首相を公選により選ぼうと言う論理は短絡そのものと言わねばならず、首相公選論には数々の問題点があることを以下において指摘したい。

首相選出の手順と法的根拠

わが国の首相選出のシステムは日本国憲法の第五章(内閣) 第67条によって議院内閣制が明文化されており、代議制民主主義の典型である議員内閣制のもとで国会議員の中から総理を選ぶことが規定されている。
したがって現行法制下では首相を公選することは憲法の規定を変えない限りできないのである。
また、共和制ではない現行制度のなかで元首を選ぶことに通じかねない公選制は憲法67条以外にも数々の問題がある。
わが国に元首が存在しないことの是非については別の議論ではあるが、首相公選論を 云々する人たちに議員内閣制以外にも国家の基本的な枠組みに関する問題点があることが見えているの だろうか。
現行制度のもとでは首相を選ぶ前段に自民党の総裁を選ぶことをしなければならないが、現在非難が集中しているのは自民党のなかでの密室協議や派閥の綱引きが問題であって、議院内閣制その ものが問題となっているとはいえないのではないか。
勿論、憲法の規定が時流に合わないとすれば憲法を改正すればよいのであるが、国の基本法である憲法を改正することは容易ではないことに加えて、国家元首の問題まであることをこの際知っておく必要が ある。
首相公選論は最近出てきたものではなく、私のおぼろげな記憶をたどれば中曽根氏が「青雲塾」を率い て意気盛んな昭和40年代の前半の頃から彼の主張として提唱されていたのが最初ではないだろうか。
当時は今以上に年功序列が幅を利かせており、若手の論客の出る幕がなかった時代であった。 しかし時代は大幅に変わり女性や若年層が年齢を超越して活動する時代が到来したが、今尚、首相公選論が根強いのは、自民党の派閥の論理と依然として幅を利かせしている年功序列体質に対する党員および国民の反発であろう。
こんな情勢の中で大阪府議会が全国で初めて首相公選制の意見書を決議したのである。
地方議会における意見書の議決とは、地方自治法99条に「普通地方公共団体の議会は、公益に関する事件につき意見書を関係行政庁に提出することができる」と規定されているものを受けて行われるものであるが、この機会に大阪府議会で議決された文言を眺めてみたい。



   第13号意見書   首相公選制に関する意見書

     
今日、わが国においては、国民の政治不信は著しく、また、とりわけ国政に対する国民の関心は極めて低い状況が続いている。      
これまで幾度となく政治改革が叫ばれてきたが、国民の関心を政治に呼び戻すには至っていないのが現状である。      
これは、現行の選挙制度にあって、国民が政治に参加する、あるいは自分の声を国政に反映させるという意識を持てないのが大きな要因であり、特に国民の間に不満が強いのは議院内閣制のもとで、国民自らが政治的リーダーたるべき首相を直接選ぶことができないことにある。
現在、衆参議員の憲法調査会において、首相公選制についての議論も行われているところであるが、国民の政治不信や政治離れの状況を見るにつけ、今も首相公選制の導入を検討すべき時期にあるものと考える。     
よって国会は、国民の政治意識を高めるとともに政治不信を払拭するため、首相公選制の導入について、さらに検討を進めるよう強く要望する。      
以上、地方自治法99条の規定により意見書を提出する。       
    平成13年月24日        

   参議院議長殿                             大阪府議会議長 
                                         横 倉 康 幸




以上が先の議会で議決された意見書である。
文言を検証してみると、政治不信と国民の関心を政治に呼び戻すために公選制の導入をすべきとあるとあるがこのくだりは短絡に過ぎはしないだろうか。
「現行の選挙制度にあって、国民が政治に参加する、あるいは自分の声を国政に反映させるという意識 を持てないのが大きな要因であり、特に国民の間に不満が強いのは議院内閣制のもとで、国民自らが政治的リーダーたるべき首相を直接選ぶことができないことにある。」と断じているが、「現行の選挙制 度にあって・・」とあるが、これは選挙制度ではなく、後段の「議院内閣制」に対する問題であるが、 現在の世論の中で議員内閣制に不満が強いといえるのだろうか。特に議員がこのことを発議することは 議員自らが代議制を根本的に覆すことになりはしないだろうか。
すべてを広く国民に問い掛ける方法は一見民主的な方法の如く見えはするが、衆愚政治とは言わないまでも情緒的かつ感覚的に事を決する危険性があることも事実であり、これらをどのように説明するのだろうか。
「衆愚」の言葉は、大衆を統治の客体として一段低く見る一時代前の発想であるだけに使いたくはないが、残念ながらわが国の選挙風土には選挙民だけでなく候補者にも適任者を選ぶ意識が成熟しているとは 言い難いケースが度々見られるのは周知の事実である。
典型的な間接選挙の例にアメリカの大統領選挙があるが、立候補要件は広く知られているとおり政党の中でまず指名選挙をへて選挙に臨むことからも判るように候補者をどのように絞り込むのかの問題や、さらに選挙人を選挙する間接性を採用しているのは周知の通りである。予備選挙の持つ意味や、膨大な投票数 を単純に集計する方法をとらないのは何故なのかを考えた上での公選制の発議であったのだろうか。
仮に公選制を議論するなら、自民党の総裁選挙の場合でも20名あるいは30名の推薦人が必要であるが、 候補者要件が国会議員限定なのかどうか等も示すべきであり、このあたりのことをまったく議論もせず発 議したことは議員の対応として妥当のもと言えない。 また、選挙のエリアが大きければ大きいほど選挙活動はあいまいなものになり、選挙費用の点からも、筆舌に尽くしがたい問題点が惹起されることになるだろうし、何よりも大雑把な選挙の場合は奇妙な団体が跋扈 (ばっこ)し、やがてそれらが圧力団体になるのが選挙の常道であることも事実なのである。
情報の時代、ITの時代だとはいえ現在大阪府で衆議院選挙を実施するだけで40億2千万円の費用が必要だが、こんな手法をとることで政治が身近になり政治不信が払拭されるというのはにわかには信じがたい。 また、別次元の話しではあるが、原発やダムの問題をめぐり住民投票が各地で話題になっているが、一般論 として国策に関する問題や、広い範囲の行政効果を検証しなければならない行政課題を特定の地域住民の投票で決する方法が正しいと私は考えていない。
敢えていうならば、これらの対応は首長の責任回避であり、 議員自らが住民の選良としての立場を放棄するものだと思うのである。
逆説的な言い方をすれば議会や首長 が機能してないからこんな事態を招くのであることをまず議員は自戒しつつ知るべきある。
首相公選論はこんな問題を包含しており、これを一般人が発議するのはまだしも、議会人が議会の議を経て提議することは代議制を自ら放棄する対応であり、安っぽい「受け」を狙った対応としか言いようがない。
自民党所属の議員として、発議の前段で報告があった際に意見は述べたが議論にはならなかった。善し悪しは別にして意見書案の取り扱いは政調会が主担し前段においてそれほど議論がなされない傾向があるのも問題である。
団の意見として決定されたことに所属議員として従うが、改めて議論をする必要を感じるが故に敢えて問題を提起する次第である。 現在行われている総裁選挙は自民党の中での対応でしかなく議会として取り上げようはないが、意見書に書かれている通り国民に政治への関心を呼び戻すための方策として今可能なことは、自民党員全員の投票によって総裁を選ぶこと以外に方法はないのである。
自民党が実施している総裁選挙は矛盾と欺瞞(ぎまん)に満ちたもので到底承服できないが、それでも従来の 対応からすれば一歩前進であるのは事実である。
この件に関する見解は総裁が決まった後になるが〈言いたい放題〉の項で発信することにしたい。    
    平成13年4月                      大阪府議会議員 松室 猛


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