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統一地方選挙を顧みて

これでよいのか、

地方選挙と政党のあり方

平成11年春の統一地方選挙は全国12の都府県で知事選挙が施行され(3月25日告示)4月2日に府県会議員選挙が合流し、4月11日に投票を終えた。
その一週間後の4月18日に衛星都市の市長・市議会議員選挙が施行され統一地方選挙の総てが終了した。
政治が一番身近に感じられる季節がこの時期である筈だが、依然として低投票率で推移したのは何によるものなのだろうか。
東京都知事選挙では久しぶりに興味深い侯補者が多く立候補し、テレビを通じて新しいタイプの選挙戦が展開された。
4年前、8年前の地方選挙と今回の選挙を比較しながら顧みると興味深い関連性に気付く。
分析とあるべき姿について所見を述べることにする。


都知事選挙と政党のかかわりについて

東京都知事選挙に勝利した石原慎太郎氏は当選直後に「既成政党がなんらの価値も持たないことがはっきりした」と述べた。全く同感であるが、このことに共感する根拠は後に述べることにし、過去の選挙の経緯の中で地方政治に政党が色濃く関わりをみせた例として8年前の東京都知事選挙が強烈な印象として記憶に残っている。その経緯を簡単にたどってみると、以下の通りである。

平成元年に参議院議員選挙が施行されたが自民党は思わぬ大敗を喫した。その原因は財政健全化を目指す税制改革が争点であり、具体的には大型間接税としての売上税導入をめぐる選択であった。

当時の自民党幹事長は橋本龍太郎氏であり、彼は国民の間でミーハ一的な人気があり、特に中高年のおばさま族に「龍さま」などと呼ばれ、キャーキャー騒がれる程の人気者であったが、参議院選挙の結果は惨憺たるものであった。

当時衆議院の議席は自民党が安定過半数を占めていたが、選挙の結果参議院では与野党の勢力が逆転し、いわゆる衆参ねじれ現象が出現したのであった。

参議院選挙敗北の責任をとって橋本龍太郎氏は幹事長を辞任し後継として小沢一郎氏が幹事長に就任した。

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衆参ねじれ現象がもたらした地方選挙への介入

年が改まり平成2年に衆議院総選挙が施行されたが、この時小沢幹事長は経済界に対して「もし、衆議院選挙で自民党が破れたら連立など一切考えない。いさぎよく野に下る。そのときに困るのは経済界をはじめ国民である筈だ。」と檄を飛ばした。

この発言が恫喝だ・・とマスコミが批判したこともあったが、選挙の結果は自民党の大勝に終わった。ところが先の参議院選挙の敗北があるので、衆参ねじれ現象がもたらす国政の不安定を切り抜けるために参議院対策が大きな懸案事項となり、彼は参院のねじれを修復するために公明党との連携強化を画策したのである。

第一党の幹事長として当然の対応ではあるが、政党間の合従連衡を進めるためにその翌年の平成3年に施行された統一地方選挙の東京都知事選挙に政党として異様なほどの関わり方をしたのである。

当時の都知事は鈴木俊一氏であり、再選出馬を表明しており、自民党東京都連も推薦を決めていたが公明党は鈴木氏の年齢が80歳であったことに難色を示した。何故なら、政党のなかで唯一定年制を採用している公明党は、如何に健康に問題がないとはいえ80歳の侯補者を推薦できない党内事情があったのである。

8年前といえば湾岸戦争勃発によって多国籍軍への支援のあり方や自衛隊の海外派遣などの重要課題を抱えており、なんとしても国会対策として公明、民社を取り込む必要があり、小沢幹事長は参院対策に思いを致す余り公明党の意向を尊重して、自民党都連の抵抗をものともせずNHKの磯村尚徳氏を自公民の推薦侯補として都知事選挙に臨んだのである。

自民党にとって都知事選挙は都連との分裂選挙となり、自公民の相乗りで戦った磯村氏は善戦及ばず鈴木俊一氏の再選を許す結果に終わった。

この敗北の責任を取って小沢一郎氏は幹事長を辞任し閥務に専念することになるが、考えてみると地方行政のあり方に対して政党としての関わりではなく、国政運営の数の論理が優先されそのために地方選挙が利用されたとしか思えない対応であった。

地方選挙に政党が異様なほどの関わりをした例として歴史に残ることだろうが、地方自治体としては大変迷惑な対応であったと言わねばなるまい。

今年の選挙も同じ次元で自民党本部は対応していた。

永田町の懲りない面々が歴史を忘れ、過ちを繰り返す愚を今後も続けるとすれば、石原慎太郎氏ならずとも「政党が都市住民の民意を収斂しきれていない無用の長物」と罵倒されても致し方ないのではないだろうか。

8年前の選挙から、いきなり今年の選挙に飛んでしまったが、4年前の選挙もこの機会に振り返ってみることにする。

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東京と大阪に見るタレント候補当選の理由は?

平成7年の選挙では若干タイプは違うが東京、大阪ともにタレント候補が圧勝した選挙であった。

いろんな分析や見方があるだろうが、衛星都市の市長選挙にも共通して見られた傾向として「自らの意思で立侯補した」候補者が多く当選し、政党が相乗りを模索し算術計算としての安全性を見極めたつもりで神輿に乗った候補者の多くは勝利することができなかった。平成7年の知事選挙、東京の石原信雄氏や大阪の平野拓也氏の敗因について考えてみたい。

官房副長官を長年務め上げた石原信雄氏は政治に関わりを持つ者なら誰しもが認めるプロ中のプロであり、大阪の平野氏は一般職から当時の国家公務員上級職の試験を突破し環境庁の事務次官にまで登り詰めた行政のプロであり大変な努力家であったと聞いている。

両氏とも選挙向きするかしないかは若干問題はあったが、両者とは対極にあるまったく異質の侯補者青島幸男氏と横山ノック氏に破れたのである。

これら一連の敗北には二つの原因があったと考える。

一つは行政や政治のプロが疎まれ、忌避されたとしか言いようがない点と、政党に対する信頼感の失墜である。

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行政のプロが疎まれる原因は何か

先ず第一番目の敗因であるが、高学歴のエリート集団を自認する行政のプロたちは、確かに戦後の混乱期から最近まで、絶対的と思われる程の権力を背景に日本を引っ張ってきた。その結果、世界が驚愕するほどの実績を上げ、世に言われる世界有数の経済大国にまでわが国を導いたのは事実である。

ところが世界中がリアルタイムに連動する近年の経済活動のなかで一国平和主義的経済活動が猛烈な批判の対象となり、当世はやりのグローバルスタンダードとやらに振り回され、無原則な一本槍的成長主義がバブルの如きはかなさで崩れかけると、従来は効果があった官僚による規制や指導が機能せず 坂道を転がり落ちる結果となったのである。

規制緩和が推し進められれば官僚の規制力や指導力が弱まるのは当然で、エリート行政マン達はある日突然神通力を失ってしまう結果となったのである。

合わせて「官は不善を成さず」などとうそぶいていた官僚が、不善どころか相次ぐ不祥事の連続で完全に信用を失うに至るのに時間はかからなかった。

こんな風潮の蔓延するなかで、従来「偉い人」であった人達に対する反感反目は強烈で、行政の舵取りをする選良には、手慣れた行政のプロよりも、気さくさが売りの、身近に感じられる新しい人に選挙民の支持が集まったとみるべきである。

選挙民の選択は、本当の意味で相応しい人を選んだのではなく、古いタイプよりも、何も判らない素人であっても庶民感覚がある人、従来とは違う人を選択として選んだに過ぎないのである。

それが証拠に候補者本人にも、選んだ人達にも、「まさか当選するとは思わなかった」などとぶざけた風潮があったことが、これらを裏付けている。

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政党が信頼感を失墜した理由は?

「無党派層の台頭」などとマスコミは声高にはやし立てたが、この原因の最たるものは政党が評価されていないの一語に尽きる。

大都市圏で自民党をはじめ単一の政党が過半数の支持を得る力量がないために、選挙協力の共闘体制を組むことが多い。いわゆる「相乗り」であるが、国政レベルではかなり政策の違いがありながら、地方行政にイデオロギーは不要であるとかの理屈を付けて総花的な政策協定などを取り交わすが、所詮は申し訳程度の内容でしかなく政党としての影響力を留保することと、不戦敗の誹りを逃れるための「体面を保つ」対応でしかない。

無党派層の台頭と言うよりも「相乗り」と称するご都合主義的な政党の対応に対する反発であり、政党離れというよりも政党が事実上機能していない何よりの証である。

その結果共産党を除く総与党体制が蔓延し、選択肢が狭められることから無関心層を拡大させ、政党離れが加速され、低投票率が恒常化するに至ったのである。

一方、選挙の中身は、「相乗り」は決して相乗効果を発揮することなく、それぞれが他力本願で精一杯の努力をせず、実にいい加減な対応をするのが常で、それぞれの政党や団体の支持者をまとめあげたためしがない。
ここにも政党不信の大きな原因がある。

大阪の場合を例にあげても昭和46年の選挙で、本邦初の万博を大成功に導いた左藤義詮氏が負けたのも、その次の50年の湯川宏氏が負けたのもそうである。

54年の岸昌知事から平成3年の中川和雄知事までは、相乗りの中身はいろいろあり算術計算上の成果はでていないが、ともあれ選挙はクリアーしたのであった。

しかし歴史が繰り返されたとは思わないが、東京と大阪の知事選挙では石原信雄氏や平野拓也氏が、負ける筈のない「相乗り」体制で戦いながら負けたのは、プロに対する忌避感と政党不信の結果であった。

それともう一つ、大阪の平野氏の敗因としてあげられることは、候補者選定経過のなかで、政党間の選挙民を無視し続けた密室協議の不明瞭さがあげられる。

大阪府議会議員団の意向を参酌するどころか一切協議にも加わらせなかった各党代議士の傲慢さと、その対応を是正できなかった大阪府議会議員から選出されている府連役員の不甲斐なさも忘れてはならないだろう。

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政治不信のもう一つの傾向

衆参両院議員選挙の際にも同じような傾向があったが、既存の政治家や既成の政党に対する嫌気感には顕著なものがある。

顧みると、55年体制が崩壊する直前まで自民党は永久政権の様相を呈し、野党はいつまでたっても批判のみに終始し、現実味のある政策を打ち出すことができず、そのどちらにも嫌気感が増嵩していた。

政権の座にあぐらをかいていた当時の自民党のあるまじき金権体質は金丸事件の発覚によって拭いようのない恥部をさらけ出し、遂に55年体制が崩壊するに至ったのであった。

横着な対応を繰り返した自民党の下野は当然の結果であると言わねばならないが、猛烈な政治不信を蔓延させたのは他ならぬ既成の政治家自身であった。

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どこへ行ったのか、新党ブーム

そんな混乱期に突如、細川もりひろ氏が率いる日本新党がデビューし一世を風靡したが、新しさだけを標榜する細川政権は、細川氏自身の佐川急便との黒い噂が災いして早々に政権を投げ出さざるを得ず、新党ブームは一瞬のうちに終息した。

その後の政界再編はひどいもので、新生党から新進党ヘ、新進党が分裂をし自由党と民主党、少し遅れて公明党の復活と続くのであるが、その他諸々の政党の名前など覚える気がしない程の離合集散の繰り返しには呆れるばかりである。

こんな政党の実態のなかで国民の誰しもが政治不信にとどまらず政党離れをおこすのは極めて当然のことであり、こんな状態の政党に政党助成金が支出されていることを黙っている国民もどうかしていると思わずにおれない。

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笑わずにはおれない自民党の東京都知事選対応

今回の東京都知事選に対する自民党の対応など笑わずにはおれない程である。

最初は鳩山邦夫氏に相乗りを表明したが民主党と鳩山氏自身に断られ、誰しもが公明党と近い人物であることを知っている明石康氏を相乗りで担いだのであった。柿沢弘治氏は自民党として名乗りをあげたが受入れられず、出馬を断念しなかったので除名処分を受けることになった。

候補者が出揃った時点で石原慎太郎氏が出馬表明をし、百花繚乱の如き大変興味深い選挙戦となった。当初は伯仲した選挙戦が予測され、誰もが有効投票の1/4の得票を獲得できないのではないかと危惧されていた。結果は石原氏が166万票(得票率30.5%)を得て、只一人法定得票数をクリアーし当選を果たしたのである。

選挙結果は下記のとおりである。

石原慎太郎氏  166万票
鳩山邦夫氏    85万票
舛添要一氏    83万票
明石康氏     69万票
三上満氏     66万票
柿沢弘治氏    63万票

自民党が推薦した明石氏に対して、公明党は最初のころ何故か態度を明確にしなかったが、その後都連の推薦となったが、なぜ党の推薦にしなかったのだうか。自由党も同じく都連の推薦であったが、ともあれ自自公の推薦で戦った明石氏は得票率12.6%という惨憺たる敗北を喫したのである。
石原慎太郎氏が自民党の代議士を25年間務め、その間に2度にわたり閣僚経験があることは周知の事実である。
柿沢氏は自民党の現職であったので党の決定に従わないとの理由で除名処分にしたが、石原氏に対して党として何も成しえなかったこともおかしいし、逆に言えば推薦のお墨付きが首都東京でこれ程軽いということと、地方選挙に関する限り政党などなんの影響力も持たないことを党の内外に知らしめる結果になった。

最大の茶番は、推薦侯補の敗北は党本部執行部の責任ではないと、選挙の最中から予防線を張るが如き発言が相次いだことである。
国会対策として、党のご都合主義的な地方選挙への介入そのものが茶番であり、これほど選挙民を馬鹿にしたものはない。それによって自白公路線がさらに深くなったとでも言うつもりだろうか。

今回の選挙で政権政党自民党の対応が一番だらしなかったと思うとともに、自自公路線などは国政の安定という大義名分はあるとしても、地方議会にはなんの関係もない話である。何故なら府議会に一議席もなく、地方組織を持たない自由党を政党と認知することはできず、国政運営のご都合主義的な対応に地方選挙が利用されただけだとの思いがある。

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大阪の知事選挙と政党の関わりは?

大阪において共産党を除く総ての政党は、相乗りすらできず不戦敗の屈辱を自らの手でつくってしまった。無定見な相乗りが政党不信を増幅させたと説いてきたが、大阪の場合は各党が水面下で一生懸命相乗りの候補を模索したが、遂に候補者を見いだせなかったのである。決して適任者がいない訳ではないが、いい加減な相乗りでは勝てない事がハッキリしていたから名乗りを上げる人がなかったのである。
かつて大阪府議会の本会議場発言で議員の一人が「大阪の最大の不幸は、ノック知事が選挙に強過ぎることだ」と喝破し爆笑を誘った一幕があったが、これは本当のことだと思う。
選挙の前段において「知事選挙に対する私見」を発信したが、大阪の選挙は民の力を信奉するあまり謹厳実直な行政のプロに対する忌避感は強く、アンチ権力、アンチ東京の傾向が何処よりも強い。
従って大阪の選挙は資質としての適格性で選ぶのではなく、好き嫌いで選ぶ傾向がある。
残念なことだと思うが大阪の民意がそれを望むのなら、地方行政は可能な限り民意に沿って対応すべきであり、身近さとひたむきさが感じられるだけの首長であっても、議会と理事者が過ちなき方向づけをすべきであると自らに言い聞かせたのである。
若干、引かれ者の小唄的な感じがしなくもないが、在阪の政党の無気力さと相まって致し方のない結果であったと考えている。
それにしても今回の統一地方選挙で東京と大阪との格差が一段と広がったことは紛れもない事実であり、地方選挙の実施によって益々大阪がローカル化してしまったのは残念である。
首長は勿論、国会議員、地方議員を問わず民度以上の選良は出ないことを改めて知らされた思いである。他人事ではなく民意の向上のためにこそ選良が汗をかくべきであり、これこそがこれからの大阪の課題だと思うのである。

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