松室猛のTMニ水会定例講演・資料

 平成24年5 戻る





地域政党「大阪維新の会」はどこへ行く

 地域政党「大阪維新の会」は、発足当初国政選挙には係わりを持たないと明言していた。2011年の統一地方選挙で大阪府議会で過半数、大阪市会では過半数には届かなかったものの33議席で第1党を占める議席を獲得した。また、昨年末には知事・市長のダブル選挙を自ら仕掛け双方とも圧勝した。維新の会は当初の政策目標である大阪都構想実現のために、既成政党の協力要請を画策していたが、圧勝で自信をつけた橋下、松井、浅田らの維新の会幹部は「日本の体制を変えるのは今しかない」と思うようになり、年始の自派のパーティで国政選挙への進出を公言するに至った。即ち、都構想だけでなく日本全体の政治機構改革、彼らの言葉で言えば「グレートリセット」を表明するに至ったのである。
 国政選挙を目標に候補者を養成すべく「維新政治塾」の結成を呼びかけ、参加者は3,326名の応募があった。中には現職国会議員を含め国政選挙経験者の応募もあったが、それらを1,000名余り除外し2,262名を選定し6月中にリポートテストをして、さらに半分程度に絞り込み正式塾生を選抜すると発表するに至った。
 この破竹の勢いは地方行政関係者のみならず、国政に関わる既成政党のすべてに多大の影響を及ぼし、維新の会にすり寄る傾向が顕著となってきた。独特のキャラクターと、抜きん出た発信力をもつ橋下の勢いは留まるところを知らない状態である。
 このような情勢のなかで一躍時代の寵児となった橋下徹とはどんな人物か、何を考えているのかなどについて侃々諤々の議論が巻き起こっている。維新の会が急遽国選挙への進出を明言し、彼自身が今後どうするのかについて憶測が飛び交っている。維新の会の幹事長である松井一郎は、維新の会の現職の転出は認めないと明言している。橋下、松井の代表格2名の転出はまず無理だろうが、すべての現職に転出を認めないとすれば、国政選挙に300名の候補者を擁立することは困難だろうし、200名の当選はまずあり得ないだろう。もし仮にこの数字に近い当選者を期待するのなら、現職国会議員を自派の議員に取り込んで政党要件を確保しなければ比例区との重複立候補は不可能であり、この数の議席確保はさらに遠のくだろう。近い将来、現職国会議員を取り込んで地域政党から本格的な政党に移行するのは既定の事実である。それが誰なのかは定かでないが2人の息子が維新所属の府会議員である自民党の国会議員などは、その先駈けとなるのではないか。その他、民主もゼロではないだろうが、やはり自民からの移籍者が多いのではないだろうか。大変興味のあるところだ。

どうなる大阪都構想

 
国政進出を明言し政治塾に取組んでいるが、独自の政策である大阪都構想に向けての取り組みにかなりの齟齬が出てきている。府・市の議員による大都市制度推進協議会は立ち上がったが、大阪市を解体し区政を布くと明言しながら、依然として区の数も8〜9と複数を示しているし、その規模や、どことどこを併合するのかについては公募した区長にやらせるなどと極めて中途半端な発言をしている。このような状態のなかで、協議会では「区割り案がないと具体的な制度設計ができない」「この問題が明確化しなければ協議会の議論は始められない」と最初から不協和音が沸き起こっている。結局、知事と市長がで案を出すと報道陣に発表した。問題はこれからである。協議会での結論は出席議員の多数決となっているが、協議会の構成は維新8名、公明4名、自民3名、民主2名、共産1名と橋下、松井の両名である。両首長を加えても維新だけでは過半数にならない。そこで熱心なのが公明党の取り込みである。衆院選挙支援とのバーターがそれである。公明党はダブル選挙に際しては、最後まで態度を明らかにしなかった。ところが選挙が終わった直後に白浜代表は臆面もなく早速橋下と会談をし、衆院選支援の要請をしていることなど、実に巧妙に立ち回っている。だから協議会の進捗に維新の会はそれなりの目算をもっているのだろうが、問題は区割り案に対する各派及び地域住民の反応と対応である。
 区割り案がまったく示されてないとのことだが、出展の信憑性は定かでないが、維新の会内部資料としてWIKIに掲載されているものをみれば下記のとおりである。この案では8区案になっている。

大阪市の分割(8分割)
都島区・旭区・北区
福島区・此花区・西区・港区
大正区・浪速区・住之江区・中央区
天王寺区・阿倍野区・西成区
西淀川区・東淀川区・淀川区
東成区・城東区・鶴見区
生野区・平野区
住吉区・東住吉区 

堺市の分割(3分割)
堺区・西区
中区・南区
東区・北区・三原区

人 口
295,420人
280,550人
324,826人
304,358人
443、227人
347、273人
339,242人
294,015人


279,125人
276,929人
274,014人

近隣市

豊中区 386,623人 大東区 126,504人
吹田区 358,885人 門真区 131,706人
守口区 147,465人 摂津区   85,009人
八尾区 273,487人 東大阪区 513,821人
松原区 127,276人 (維新の会内部資料、WIKIより転載)

大阪都の人口 5,605,553人


 大阪都構想における各区の人口は、摂津区の85,009人と東大阪市の513,821人とでは約6倍の開きがある。松原市、大東市、門真市も15万人未満であり、区の大きさにこれほどのばらつきがあることに問題はないのか。これを解決するためには現在の市を合併するか、都制移行時に現行の市域を見直す必要があるが、その点について政策集の構想案では言及されていない。
 また、堺市、吹田市は双方ともに選挙時に橋下が支援した市長であるが、都構想に関しては協議会への参加そのものを渋っており、この調整だけでも大変むつかしい問題がある。
 さらに組織変更に関する住民の意見聴取と同意は欠かせない要件であるのに、先日松井知事は、都構想に向けての住民投票は大阪市だけ実施すればよいと発言していた。その根拠は、先の選挙で維新の会の政策である都構想は府民から承認されたからだとしていたが、都構想が全面的に承認されたという理解には無理がある。選挙の勝利をもって白紙委任とする論法は間違いである。
 松井が住民投票を市内だけにしたいと考えるのは、平成の大合併の際に大阪府でも合併協議会を立ち上げ住民投票までした自治体があったが、圧倒的に合併反対が大勢を占めていたからであろう。合併と機構改革は違うというのかもしれないが、地域住民は住みなれた地域の名称や、その区域には執着に近い思い入れがあるのだ。
 この点に関しては、平成23年9月の二水会定例講演ですべてのデータを示し解説しているので参照願いたい。【http://www.wombat.zaq.ne.jp/matsumuro/ 定例講演録】・『大阪秋の陣』と橋下改革の行方・23年9月】
 こんな状態で国政進出を推進することが実際問題として可能であろうか。
 国政に向けて「維新八策」を発表した。これはマニフェストと言えるものではないと二水会でも取り上げ指摘した。各界からその指摘を受けた結果、維新の会の浅田政調会長は「維新八策は公約とか政策集ではなく一致団結してやっていくための価値観集」だと苦しい言い訳をしており、これを土台に維新政治塾などで次期衆院選のマニフェストを作成すると明言した。
 問題を先送りした感があるが、これをマニフェストにするのは大変な作業で、維新政治塾の講師陣やアドバイザリースタッフは、脱藩官僚を含め多くの学識経験者を召致しているが、この作業と都構想の実現の取組みが順調に推移するのかは疑問である。
 二兎を追う感じがするが、これほどの大きな課題を整合性を保ちつつ処理する能力が今の維新の会にあるとは到底思えない。
 以上の如き経過から、メデァでは都構想が実現するかの如く報じられているがその可能性は先ず大変難しいと言わざるを得ない。

橋下徹の評価について

 4年前、橋下の知事初当選の時点で筆者は選管委員長であった。当選証書の伝達を最後に委員長を退いたので、ブログで知事就任前に彼について感じることを書いたことがある。今でもそのブログは残っているが、内容のあらましは、「彼はマスコミ育ちだけに、その筋から煽られると道を間違えるかもしれないが、それをさせない、しっかりとしたアドバイザーが側におれば彼は大化けする知事になるだろう」と感じるままに書いた。彼とは2〜3度会っただけで個人的には付き合いはなかったが、茶髪にジーパン時代のことは知らないだけに、初対面の印象は爽やかな若者と感じた。以前から承知している堺屋太一氏が後ろ盾なのを知っていたことも事実だが、真面目さとやる気を感じたので思うままに書いたのである。知事就任直後に、財政再建プログラムを提起し、従来にはなかった取り組みをしたのを眺めながら、私の思いが正しかったと目を細める思いで眺めていた。
 危惧したマスメデァからの煽りにより道を間違えないかとの思いは、杞憂に終わり、それどころか、むしろ逆にメディアを煽るが如き活躍で今日を迎えている。
 しかし、考えてみるとメディアの対応の方が彼よりはるかに幼く、彼に付きまとい報道の先陣争いをする様は迎合しているとしか思えない状態である。その結果が、今日の橋下の存在であり今や彼の発言が中央政界を震撼させるほど存在感を嵩めるに至っているのである。
 しかし、これは決して「瓢箪から駒」ではなく彼の計算されたマスコミ操作術とマスコミの幼さが生んだ結果である。
 昔から、「毒にならぬものは、薬にはもならぬ」という諺がある。橋下には類稀な政治家としての評価と、独りよがりの独裁者、アジテーターとしての評価とがある。発言の明解さ、分かりやすさ、行動力を評価する人は多い。
 政治家がいろんな発言をしても注目されず、メディアも取り上げない場合が多い。その点彼は視聴率を必要以上に意識するテレビ番組に関わっていたので、自分の発言に対する反応を十二分に計算し発言することに長けている。彼は頭の回転が速いだけに、熟慮して発言することより即座に発言するので不適切な発言も多い。同時に前言を臆面もなく覆して恥じない図太さも持っている。
 このような彼の発言と行動パターンについて、彼の著書『最後に思わずYESといわせる最強の交渉術』のなかで「交渉において非常に重要なのが、こちらが一度はオーケーした内容をノーとひっくり返していく過程」「具体的手法として、自分が言ったことに前提条件を無理やり付ける」と語っているのは彼の言動を象徴している。このやり方は弁護士とて同じだろうが、政治家としては決して許されないものである。
 いずれにしろ彼の発言は常に話題性に満ちているだけに、最近わが国の論壇には橋下論が目白押しである。

山本健治氏から届いた著書

先日フリーライターの山本健治氏から届いた彼の著書、「橋下徹論・ハシズム」−とんでもない、  
とほうもない、とてつもない−について紹介することにしたい。
標題からも感じられる様に、山本氏は橋下の政治姿勢について危険なものを感じておられ、4年弱の知事時代を中心に彼の政治姿勢の検証をまとめられたのである。彼は、かつてテレビのコメンテーターとして活躍していたのでご存知の方も多いと思うが、彼は以前に大阪府議会議員をしていたことがあり、その時代からの知人である。久しく会う機会はなかったが、共通の友人の叙勲のパーティでお会いしたことがあった。
山本健治氏 その時の話しで、彼が何故コメンテーターを辞めたのかを知らされた。

複数の番組で“ヤマケン”と親しまれていたのに、民主党政権の誕生直後に、例によって“ヤマケン”流の毒舌で政権批判をしたところ民放各社は彼を出演させなくなったとのことだった。
民放労連の偏向性は以前から聞き及んでいたが、一社だけでなく、すべてが右へ倣えする偏向振りには驚かされた。
 そんな彼が「第三書館」の要請で執筆したのが「橋下徹論」である。
 議員時代から、彼は権力におもねることをせず、自からの信念に忠実に活動を続けてこられただけに、是々非々の発言は彼の鋭い感性と共に、以前と変らぬヤマケンさんを感じた。
 彼は橋下イズムを「ハシズム」と称し、ファシズムと類似した捉え方をしていた。新書版で230頁に及ぶ著作の中で大阪の知事がどんな経緯で選ばれてきたのかに関する部分は、地方政界の歴史を理解する上で大変有意義な資料でもある。

 しかし彼の言いたいことはそれが本旨ではなく、一期の満了も待たずに市長に転進し、次は中央への進出となれば大阪はどうなるのだとの危惧の念と共に、橋下の言動についての詳しい検証は、さすがにヤマケンさんだと敬服した。
 結論から言えば橋下は見せ掛けばかりで、人気だけの虚構の政治家だと指摘しておられると読み取らせてもらった。

 橋下に関する評価とは別に、強く同感する部分として次の部分があった。書き出しの部分で、民主が圧勝した2009年選挙に際し大阪の選挙民が民主に200万票を与え17の選挙区で勝利する熱狂的な支持を取り上げ、政権交代以降の鳩山、菅、野田政権の裏切り、迷走ぶりに愛想つかししたとはいえ、僅か数年も経たないうちに、まったく反対の側の「橋下&大阪維新の会」に走っているのはブレが大き過ぎると評している点である。その原因は橋下が知事、市長になってからの言動について、知っているつもりだろうが、ほとんどはメディアを通じて自分の期待感によって形成、増幅された期待像でしかないとの指摘はまったく同感である。橋下と維新の会を支持すると答えた人たちが、どれだけ彼らの主張や、過去の実績、これからの目論みを理解しているかであると指摘しているのは、最近の風潮の危なさそのものである。
 確かに彼が言うとおり選挙に際して選挙民は、示された政策を深く検証することより、何となく期待可能性を感じる候補もしくは政党にすり寄る傾向があることを私自身も何回も指摘してきた。この傾向が消えない限りマスコミを上手くコントロールする橋下旋風は止まらないだろう。

現代情報社会の特異性

 従来から、あらゆる社会情勢に関して忌憚なき論評を発し論壇の中核をなしているものに総合雑誌がある。わが国の論壇に総合雑誌の占める割合は小さくない。順不同ながら「中央公論」「文芸春秋」「世界」「正論」「新潮」「潮」「ボイス」「宝島」「Themis」「WILL」などがあり、そのそれぞれに主張があり読み比べは興味がある。しかし、「現代」「論座」「諸君」などが相次いで廃刊となったのは情報伝達の様変わりと相まって活字離れの影響も少なくないようで少し寂しい気がする。週刊誌は、数えきれないほど発行されているが、記事内容が興味本位に過ぎ、分析のための資料価値に乏しいので読まないことにしている。率直にいって、あの程度の情報が蔓延することと、テレビのコメンテーターの発する短絡的かつ情緒的な発言の影響が大きいのが現代社会の悪しき特徴であり、かなり問題だと以前から感じてきた。視覚と聴覚から入り込む情報は、充分咀嚼されずに入り込むだけに即効的な影響があるからだ。
 こんな状態のなかで選挙が行なわれれば、その政策や主張を充分考慮せずに、感覚的、情緒的に判断する傾向が顕著となり、一斉に「右へ倣え」式となり、トンでもない「風」となるのである。最近の選挙の傾向がこの状態を呈しているのは、まさしくマスメディアの影響に他ならない。
 このような情報環境のなかで、橋下の発信力と行動力には刮目するものがある。
 彼をめぐるメデァの対応に独特なものがあり、メディアによって作り出された感がある。彼の過剰なほどの自信もメディアによってつくり上げられたものだ。
 彼は選挙に勝利したことをもって、「自分の考えが民意である」と称し、自分の考え方を全面的に肯定するのは、自惚れ、傲慢さ以外の何ものでもない。特に「選んだ人間に決定権を与える、それが選挙だ。ある種の白紙委任」という発想は短絡的であり危険ですらある。選挙に勝利したことは代議制民主主義の手続きとして評価されるものではあるが、間違ってはならないのは、その勝利が「白紙委任」ではないことだ。加えて選挙という方式が単純多数決で1票でも多いほうが勝利者となるが、有権者総数や投票率、得票率を考え合わせれば決して絶対的なものでないことは自明の理であり、勝利したとしても、それに参加しなかったサイレント・マジョリティの存在を忘れてはならないのである。これを忘れているのが橋下である。
 それにしても最近の論壇では地方の異変とも言うべき橋下旋風に関する論評が目白押しである。彼の一挙手一投足が既成政党を揺るがすに至ったことは特異な政治情勢とみるべきである。

総合雑誌が評する橋下イズム

 順不同ながら、そのいくつかを紹介しながら検証してみたい。
 先ず、「中央公論の5月号」では「徹底解剖・橋下徹」と題して特集を組んでいる。
 「覆面座談会、官僚たちの本音大バトル」の見出しは「天才的センス」と「おとぎ話のような政策」となっている。簡単に紹介すれば「グレートリセット、給付型公約から改革型公約へ〜 今の日本では皆さんにリンゴを与えられません、リンゴのなる木の土を耕し直す」とあるのに対して、「何がしたいのかわからない、手段を書いているがこれでは国家像が見えない」と指摘している。この論評は他誌にも見られるもので、経済政策として新自由主義的な部分が多いが、その反面、所得再分配的発想があるのは整合性を欠くとの指摘も同様である。首相公選論について全員が反対ではないが、反対論が強い。「おとぎ話のような政策」とこき下ろされているのは、円高による輸入業の儲けを輸出業の損失への部分について、「自由主義経済で変動相場制をとっている以上、円高還元により消費者がメリットを享受すべきであり、輸出業者への横流ししろというのは変動相場制を理解していない」と発言している部分だ。また、都構想の実現によって経済の活性化や雇用創出などを言うのは飛躍そのものであると指摘している。
 4年間の知事時代の総括の「苛烈なコストカッター」の部分では、芸術活動に対する公的支援に関して刺激的な言葉でカットに臨む姿勢は、文化行政がどうあるべきかという本質的な議論を呼んだが、彼の感覚は既成の価値観や永年の慣行を揺さぶる橋下流の問いかけをしているだけだと指摘している。
 大胆な政策決定者の顔として、「エンドユーザーへの集中投下」として私学授業の無料化を取り上げ、年収610万未満の世帯まで授業料を無償にし610万円以上、800万円未満は年10万の円の負担に抑え、生徒全体の7割が対象となったのは全国でも例がない規模だと評価している。これにより生徒の選択肢は公私に関係なく競争の世界に放り込まれた。橋下の姿勢には競争のない「公なるもの」への不信があると分析している。
 統治機構などの体制変革を基調とし、グレートリセットを提唱する橋下だが、難病で苦しむ高校生からのメールに応えて院内高校の開設をその日のうちにメールで指示を流し、1,400万円の予算措置を実現したのは、このあとで紹介する佐々淳行の八策に対する批判に応えた対応の早さと同様に高く評価されている。

 総合雑誌のなかで一番センセーショナルな標題をつけているのがPHPが発行する「Voice5月号」である。その表紙には、「総力特集・橋下徹に日本の改革を委ねよ!」と大きく書かれている。

中身の文章を読み進めると表紙の言葉ほど過激さはなく、大前研一は、維新八策に対し明確に賛否を書き、評価できるもの、そうでないものとを仕分けて論評している。それだけに彼の指摘と見解は読む者を納得させるものがある。
 大前研一は1989年に著書「平成維新」を上梓して、平成維新の会を呼びかけたことがあり、橋下からもこの名称を使うことを了承して欲しいと連絡があったと書いている。大前自身も、現在の日本を一度壊し、新たに作り直さねば

新しい経済や希望は生まれないとしている点で橋下との共通項がある。
 大前は首相公選論には否定的である。マスコミの対応の問題点を例に挙げている。アメリカではマスコミがディベートなどを通じて誰が大統領にふさわしくないかをスクリーニングするが、日本のマスコミはお笑い候補などに便乗してしまう。だから首相公選論には反対というのだ。わが国のマスコミと選挙民の民度に疑問を抱いているのだろう。首相公選論より「第一党の党首しか首相にしない」という規定をつくるべきという。もしその人が欠ければ、同じ党から二人目を出し、三人目を出さねばならなくなった時点で議会を解散し総選挙をする。そうすれば比較的直接選挙に近い形で国民は首相を選ぶことが出来るというのである。傾聴に値する見解だ。参院の廃止と反原発運動についても否定的である。大阪市が関電の筆頭株主であることから橋下は反原発運動として株主総会に乗り込んで株主権を行使するのは一種の恫喝政治であると断じている。
 大前は最後に維新の会 の地方議員の能力が低すぎると指摘している。新人議員の社会的マナーを心得ない態度が問題になっていた。橋下が職員に謝ったことについて、小沢チルドレンならぬ“橋下ベイビーズ”をいくら増やしてもどうにもならないだろう、政治塾で促成栽培された議員たちが江戸に攻め込めば民主党の悪夢が跳ね返って来る。中央にケンカを売るだけの能力に疑問を呈している。
 そのほか宮崎哲弥、萱野稔人、飯田保之の若手論客による対談を取り上げている。宮崎哲弥は、従来の利益分配型の政治が崩壊し改革型政治が台頭してきたとし、この形をワード・ポリティクスと称している。「利益で動員する政治」から「言葉で喚起する政治」へのシフトだというのである。萱野稔人は、勝てそうな相手を見つけケンカを売るが、叩ける相手のあるうちは人気も続くが、最終的には国民全体で不利益を分担するところへ行き着く。その時に不利益を分担したくない民衆は失望し権力基盤を失う可能性があるという。飯田は、橋下が言うフラットタックスとベーシックインカムとは本来相いれないものだとし、年金積み立て方式への移行といいながらベーシックインカムが必要かと疑問を呈している。
 佐々淳行は、維新の会が重視しているのは「地方分権」「地域主権」という国内問題である。本気で国政に出ようとするのなら、まず何よりも安全保障政策を掲げ、国家像を示すべきだと指摘する。最初の八策にはなかったこの問題に関し、佐々は橋下の素早い反応振りに驚嘆し、今後中国や北朝鮮への対峙やアメリカとの同盟強化の姿勢をはっきりと示せば「百年に一度の政治家」となるだろうと持ち上げている。彼にこのように言わせたのには前段の話がある。最初の船中八策を見た佐々は2月24日のサンケイ新聞で「船中八策に異議あり」という厳しい批判論を寄せていた。国政を担うには外交、安全保障分野への認識が著しくかけていると激しい論調で批判していた。その上で天皇制の護持や憲法9条の改正などが必要だと指摘した。すると同日の午後1時過ぎに橋下はツイッターで、「佐々さんの主張はまさに正論。反論はありません」と素早い反応をしたことを紹介している。そして3月に発表された八策の中間案に憲法9条についての国民投票が盛り込まれていた。この柔軟で素早い対応に佐々は感動している。しかしこれらの対応は、「場当たり的」で、いい加減な思い付きを取りあえず公表して反応を確かめる彼らしい朝令暮改方式と言えなくもない。
 佐々の橋下に対する反応は、ノンフィクション作家の森功が、橋下を「老人キラー」と呼ぶ所以でもある。(中央公論5月号)Voiceの対極をなすのが「宝島6月号」だ。表紙写真からも読み取れるように、「希代のアジテーターにそそのかされるな!」「虚構の橋下旋風」と大変勇ましい。
先ず表紙をめくると「読者の皆様へ ムードに流されるのはもうやめよう」「宝島社は、橋下徹という人物について懐疑的です。その欺瞞について追求しており、今後も続けてまいります」と編集長の富樫生は明言している。
 各誌に共通する橋下評として、小泉純一郎との類似性を指摘する声がある。しかし、抵抗勢力を作って叩くというみせかけの手法は似ているが、小泉には権力志向がなかった。橋下は典型的な権力志向者だという人は多い。茶髪弁護士として異端視されることよりも、目立つことを選ぶキャラは、手段を選ばず頂点を極めようとする性格の現れである。
 北大教授の山口二郎は、橋下を評して次のように語っている。
田中角栄は「敵を作らず、味方を増やす」政治を目指した。「敵を作りだす」点では小泉的だが小泉は、これという人物を側近にして存分に力を発揮できるような環境を整えた。橋下は、敵を作るとこまでは一緒だが、側近に場を与える部分がない。徹底的に伝統的に秩序や既成の価値を否定する古典的なニヒリストで、他人へのリスペクトが見られないスタイルでは国益を担った本当の交渉はできないと評している。
 共産党府議団の宮原団長は、大阪は貧困と格差が大きいのにそこから抜け出す道が見えてこない。この閉塞感からの脱却に維新の会が何かを変えてくれるだろうとの期待があるとしながらも、国民の身近なところに敵をつくり、メディアを使って徹底的な刷り込みをする手法を常に用いることを指摘している。
 面白かったのは「関係者が語る橋下像」の欄で、平松邦夫が「急膨張した橋下さんの影響力は検証しないメディアの責任です」と語っていることだ。
 「橋下さんの言うことがしょちゅう変る。トンでもないことの言い放しは山ほどある、それを隠すために次のテーマを出す。メディアはそっちへ流れてしまう。日替わり定食みたいにパット飛びついてしまう。プラスやマイナスすら検 証しないマスメディアの怠慢であり、社によって違いがあればまだしも、すべてが横並びなのは怖い」これを言う平松がメディアの出身者であることが面白い。いずれにしろ誰もがメディアの対応が正常でないと指摘している点は共通している。
 「正論5月号」でも、「徹底検証・大阪維新の会は本物か」と題した特集を組んでいる。表紙の右端に「理念なきB層政治家・・・橋下徹は『保守』ではない!」の見出しが書かれている。哲学者・適菜収の主張である。
 適菜は、大阪都構想を実現させるためには独裁が必要であり「大阪市がもっている権限、力、お金をむしりとる」「権力を全部引き剥がして新しい権力機構をつくる」「日本の国を一からリセットする」と言った破壊主義と設計主義は典型的な左翼思想の発想だと決め付けている。また、テレビで、徴兵制や核武装論を熱弁した後で、「あれはテレビ番組でウケを狙っただけ」といったかと思うと、愛国者のふりをしながら「お国のためになんて、ケツの穴が痒くなるだけ」と述べ「政治とは自分の権力欲、名誉欲を達成する手段」であるとする橋下を、保守を名乗る人々が持ち上げている間抜けな構図は、日本社会の「病と知的退廃」が生み出したものだと厳しく糾弾している。
 かなり過激な主張だが、標題のサブタイトルには「新たな愚民政党誕生で今度こそ日本は潰れる。国民よ、また騙されたいのですか−」と中身を読まなくても主張が読み取れる論評だ。要するに、この20年間にわたる政治の腐敗、議員の劣化、あらゆる革命思想、半文明主義、国家解体のイデオロギーを寄せ集めたものが橋下の大衆運動を支えているという。哲学者だからか、文章に難解なところがるが、橋下に立ち向かうには同じ土俵に乗らないことだという。結論的にはテレビに乗せられるな、視聴者に飽きられたら終わりなのだと説くが、これはそう簡単ではない。もっとも危険なのは既存政党が接近する時だと言っているが、共産党を除くすべての政党がすでにすり寄っており、今さらの感がある。
 大阪市の特別顧問、山田宏の「平成の龍馬伝がはじまった」と題する文章も読んではみたが、会の顧問としての話しの域を出ないものだ。

むすび

 政治家に対する評価には賛否・功罪があるのは常である。橋下に対しても同様で、一般的には人気があり支持率が高い。橋下自身やそのグループの主張を逐一検証すれば、論理性・実現可能性の双方に問題がある点は多い。
 行動力についての検証結果は、実行力とスピード感は評価が高い。
 大阪市には伏魔殿のような官僚機構が存在し、従来の市長選挙はこの組織が仕切ってきた。これらに立ち向かう橋下の姿勢は、官僚に乗っ取られた民主党政治とは違うものがある。役人や組織に立ち向かう行動力を大衆が快く感じているのは事実だ。いずれにしろ、これまでの拡大路線では解決できない時代だけに、「グレートリセット」の提唱は、政策ではないとしても聞かせる話しである。
 彼の行動力は従来の政治家にはなかったものであることは認めるが、政策面での評価や支持率の高さは、実際の評価以上にマスメディアによって恣意的につくりだされた傾向は否定できない。ここに問題があるのだ。テレビなどで彼の主張に対する反論を取り上げることは、まず無いのはそのことを物語っている。極論すれば、タレント性とカリスマ性を併せ持つ人物をもてはやし過ぎる傾向があるのだ。人気の源泉をポピュリズムにあるとする見解もあるが、むしろ大衆の方がポピュリズムの逆の形で擦り寄っている傾向があることが最近顕在化してきた。
 宮崎哲弥が指摘するように「言葉で喚起する政治」が最近の風潮だとすれば、橋下の街頭における演説はまさにアジテーターそのもので、ワード・ポリティクスを実践する典型的な政治家といえるだろう。
 しかし、この傾向は危険性を孕んでいる。選挙結果の「白紙委任」感覚は、選挙での勝利がすべてを仕切るといい、その次が「俺が民意だ」となれば二元代表制などは何の意味も持たない。仮に、類い稀な資質を持った政治家であると是認するとしても、ここまで自惚れと思い込みが過ぎると独裁でありファッショと言わざるを得ない。
 二水会でマスメディアの問題点を幾度か指摘してきたが、その責任はマスメディアだけに負わせることはことはできないだろう。選挙権を行使する大衆の民度をあげることにより、メディアに対して、また、言葉の魔術のごときアジテーションに対して適確な判断力を培う努力をしなければならない。
 政治塾が大流行であるが、促成栽培の如く短期間で政治家が養成されるわけがないことを正しく認識し、むしろ一般市民の民度を上げる地道な取り組みこそが大事であることを痛感する。
 ささやかながら二水会は、こんな取り組みを続けねばならないと考えている。

(文中敬称略)

平成24年5月
松室  猛

参考文献

「橋下徹論」山本健治、第3書館、2012/5
「VOICE」 5月号、株PHP研究所、2012/4
「宝島」6月号、株・宝島社、2012/05
「中央公論」5月号、中央公論新社、2012/4
「正論」5月号、産経新聞社、2012/5
「橋下『大阪維新』の嘘」、一ノ宮美成他、株・宝島社、2012/3
「橋下徹・改革者か壊し屋か」、吉富有治、中央公論新社、2011/3



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