松室猛のTMニ水会定例講演・資料

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= 「船中八策」はマニフェストか =

(本稿は24年3月14日に行なう講演会のために執筆したものである)



坂本龍馬を真似る橋下徹
 明治維新を成し遂げた幕末志士の中で坂本龍馬は大河ドラマにも取り上げられ、主演の福山雅治の人気もさることながら、その生き様がブームを呼んでいる。

橋下は、自らの政治結社を「大阪維新の会」と名づけ、最近は国政選挙に向けて「船中八策」になぞらえて「維新八策」と称する基本方針を提示するなど坂本龍馬と似通った名称を随所に用いている。この機会に橋下徹が真似る坂本龍馬とはどんな人物で、坂本が唱えた「船中八策」とは何なのかを検証することから橋下流の政治手法を探ってみることにした。

坂本龍馬の生い立ちと人間関係

 坂本竜馬は天保6年(1835)土佐で5人兄弟の末子として生まれた。幼少の頃は勉強嫌いで、よく泣く、ひ弱な子どもだった。坂本家の家系を辿れば、琵琶湖を馬で渡ったといわれる明智左馬助光春が明智滅亡後土佐に渡り、長宗我部家の「一領具足」(1)になったことに発する。長宗我部の勢力拡大と共に坂本家は酒造業を営み巨万の富を蓄えた。7代目の時に家業を弟に譲り「郷士」(2)の格を買って武士となった。
坂本龍馬(1935〜1967)  坂本の名は家祖が琵琶湖畔の坂本にちなんだものである。
母は龍馬が12歳の時に亡くなり、兄もいたが3歳年上の姉「乙女」が母親代わりとして面倒をみていた。乙女は薙刀や剣術もこなす大柄な女で、馬術にも長じており龍馬に読み書きと剣術の師範もした。14歳になった龍馬は小栗流の町道場に通いはじめてから、俄かに頭角を現し19歳で道場主から目録を貰うまでになった。
 郷士の坂本龍馬は土佐藩家老福岡家の預かり郷士となり、さらに剣術を学ぶために江戸へ旅立った。江戸では北辰一刀流の千葉貞吉道場に入門し、後に免許皆伝を得た剣の達人である。この時、同郷で6歳年長の武市半平太「白札・準上士」(3 )と薩摩屋敷の同室で過ごしている。
 嘉永6年(1853年)坂本龍馬が20歳の時にペルーが浦賀に入港し大騒ぎが起きた。龍馬は黒船を見て海の守りをするために船による警備の重要性を痛感した。これが後に、勝海舟との知己を経て海援隊を編成する契機になるのである。
 当時の歴史を簡単に振り返れば、土佐藩主の山内容堂は、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)、薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)、宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)らとともに将軍継嗣に一橋慶喜を推戴して幕政改革を目論んでいた。だが、安政5年(1858年)4月に井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて紀州の徳川慶福を将軍継嗣に定め、開国を強行し反対派の弾圧に乗り出した。これが「安政の大獄」である。
 この強攻策に反発する攘夷派の志士たちにより安政7年(1860年)3月3日、井伊直弼は江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らによって暗殺された。この「桜田門外の変」が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となった。土佐藩士の武市半平太は江戸に上り、水戸・長州・薩摩などの諸藩の藩士と交流を持ち、江戸で密かに少数の同志とともに「勤王党」を結成した。勤王党結成以来、武市は藩内に薩長2藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張した。しかし、参政吉田東洋をはじめとした当時の土佐藩は佐幕派で「公武合体」論が藩論の主流であった。従って、勤王党の主張は藩内の支持を得られなかった。
 坂本龍馬は武市半平太の影響を受け勤王党に名を連ねたが、武市の武闘派とは少し路線が違う尊王開国派であり、後には公議政体論を唱えた。藩の意向と相容れない坂本が脱藩した理由の一つである。
 細かい経過は省けば、、江戸幕末では「開国」を主張する徳川幕府や薩摩藩と、「攘夷」を主張する長州藩の対立が顕著であった。ところが、欧米列強の圧力により安政5年(1858年)天皇が修好通商条約の勅許を出したことにより「尊皇」と「攘夷」は結びつかなくなった。また、津和野藩の大国隆正らによって、欧米列強の圧力を排するためには一時的に外国と開国してでも国内統一や富国強兵を優先すべきだとする「大攘夷論」が唱えられたことは、「開国」と「攘夷」という相反する対外思想が「討幕」という一つの行動目的へと収斂される可能性を生んだ。
 当時の世相は「尊皇攘夷」「佐幕」「倒幕」「開国」「公武合体」「大攘夷」など様々であった。しかし、遂に薩摩藩と会津藩による長州藩との戦いが御所周辺で起こった。(蛤御門の変)その結果長州藩は朝敵となり、薩摩との軋轢が決定的となり孤立していた。その後、高杉晋作は藩の保守派を倒し長州藩は尊王攘夷へと転じるのである。
 もともと長州は雄藩であり、薩摩は地頭の時代からの実力者で長州と共に徳川に特別な恩顧がなく、徳川の影響力の衰退に対して、このままでは日本がダメになるとの思いは共通していた。顧みれば、薩摩藩、長州藩は300年前の関が原の戦にいずれも破れていたので幕府には恨みがあった。
 山内の土佐藩は、遠州掛川の6万石の小大名であったが関が原の恩賞により土佐藩を徳川から拝領したので徳川に恩顧があり当然佐幕派であった。この辺りに薩土長の同盟成立に難しさがあったのである。加えて山内容堂は文武両道に秀で、他を見下す傾向や酒癖の問題などもあり、かなり協調性を欠く人物であった。
 このような経過から薩土同盟や後の薩長土の盟約に際して、龍馬を初め土佐の中岡慎太郎、後藤象二郎、乾(板垣)退助、長州の桂小五郎、高杉晋作など数々の志士たちが大変な苦労をし身を挺して活躍したのであった。京都の池田屋、伏見の寺田屋事件のみならず新撰組との戦いで多くの志士たちが命を失っている。
 幕末の混乱はあらゆる点で現代の日本の姿に酷似している。機能していない政府の姿、地方の反乱なども当時の様相とそっくりである。

竜馬を取り巻く人間関係
 龍馬は土佐郷士の子として生まれたが、本家は豪商であり彼には商才もあった。
 志士としての活動の中で活動資金を得るために龍馬は頻繁に接触したグラバーの影響を強く受けている。長崎のグラバー商会は、アヘン戦争を推進したイ
 ギリスのジャーディン・マセソン商会の直系である。龍馬が幅広く権力者と交流できた理由は、彼個人の資質よりも、彼が東洋最大手のイギリス武器商会の「営業マン」だったからだという説もある。
 坂本龍馬は貿易商社と政治結社を兼ねた「亀山社中」を結成し、これが後の「海援隊」の母体となった。龍馬は薩長同盟の前段において薩・長の和解に尽力をしたのである。かなりの紆余曲折を経て幕末日本の薩摩と長州の二大地方勢力は討幕へと向かっていくことになる。

武市半平太と龍馬
 龍馬の人間関係を辿ってみれば、まず武市半平太が浮かぶ。半平太は流派は違うが免許皆伝の剣士であり学問的にも秀でたものを持ていた。私塾を開き多くの門下生をもっていた。武力による倒幕が彼の主張であったが、藩そのものを倒幕に向わしめるために腐心した。龍馬は武市に誘われ土佐勤王党に入っている。武市は土佐藩の説得こそが重要であると考え、主として土佐でそのための工作をした。藩の参与である吉田東洋が強硬な佐幕派で公武合体論の主唱者であり、武市の配下の者が吉田東洋暗殺を謀り、それが原因で藩主山内容堂から切腹を命じられた。竜馬との違いは、彼は郷士ながら準上士で拝謁も叶う身分であるが、龍馬は郷士であり下士であったことなども龍馬が脱藩する一因であった。

後藤象二郎と龍馬
 龍馬と後藤象二郎は慶応3年(1867年)6月9日に藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち兵庫へ向かった。龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を書き上げ後藤に提示した。それが船中八策と言われるものである。
 かつて後藤象二郎は藩主山内容堂の信頼を得て大監察や参政に就き、公武合体派の急先鋒として武市半平太など土佐勤王党を弾圧した。しかし、慶応3年、政治姿勢を尊王派に転じ、後に大政奉還論に転換した。
 龍馬が提案した船中八策に基づいて将軍・徳川慶喜に対する大政奉還論を提議した。しかし、大政奉還論は龍馬が考え出したものではなく幕閣の大久保一翁が勝海舟に指示した案であるとされているが、幕府内では一蹴された。それを龍馬が志士たちに説き賛同者を広げていった。後藤は大政奉還策を山内容堂に進言し、同策を藩論として大政奉還の実現に寄与した。
 容堂の同意を得た後藤象二郎が二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、などの連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出した。慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、焦燥した龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、あなたはその場で切腹する覚悟でしょうから、下城なき時は、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」と激しい内容の手紙を送っている。
 薩摩の島津、越前の松平、伊予の伊達、土佐の山内の四賢侯らの働きかけで幕府の徳川慶喜は大政奉還論を受諾し、慶応3年(1867年)11月9日に大政奉還が実現した。

中岡慎太郎と龍馬
 薩長連合、薩土密約、大政奉還等は坂本龍馬を中心に描かれたテレビドラマや小説が多いが、その発想や行動において真の立役者は中岡慎太郎であったという歴史家の意見もある。中岡慎太郎は、庄屋の息子であり郷士で準上士であった。最後は、坂本龍馬ともに近江屋において見回り組みにより暗殺されるのだが、彼は武闘派の武市半平太の影響を受け脱藩の後、永らく長州に滞在し薩長連合締結に奔走していた。倒幕一辺倒の長州にいたこともあり、「陸援隊」を結成し武力による倒幕論者であった。戦わずして国の体制を変革する大政奉還論を実質的に広めたのは龍馬である。龍馬に説得されて最終的には大政奉還論に同意したが、奉還論を幕府が拒否するだろうと考え、最後まで武闘派としての意見を主張していた。この辺りが龍馬とは違うところである。
 中岡慎太郎と坂本龍馬は大政奉還から1ヶ月後の1867年12月10日に、京都の近江屋で見回り組みに襲われ共に暗殺された。
 しかし、この案が受け入れられるためには薩摩、土佐などの武力に加え龍馬の海援隊、中岡の陸援隊など武力を背景とした圧力が必要であった。現代の外交交渉に欠けるのはこの点であろう。
 大政奉還後も佐幕派は依然として強力な力を持っており、これを現実面でどのようにして押さえ込むのかが課題であった。大政奉還後に「鳥羽伏見の戦い」や「戊辰戦争」などが起きるのであるが、幼かった朝廷を輔弼する公卿として担ぎ出された岩倉具視卿との交渉なども中岡の尽力が大きかった。このような動きの結果、勤王派は錦の御旗を掲げることが出来たのである。

坂本龍馬の人物像と他藩の同士達
 龍馬は5尺8寸(176センチ)の大柄であった。同藩の仲間だけでなく、長州藩の高杉晋作、久馬玄瑞、薩摩藩の西郷隆盛、小松刀帯、大久保一蔵などの知己を得ているが、彼に最も影響を与えた人物は身分関係を超越した「奇兵隊」を創設した高杉晋作と勝海舟であると思われる。勝海舟との関係を書けば長くなるので割愛するが、龍馬は土佐弁でユーモアのある魅力的な話し方をしたようだ。会って話をすれば殆んどの相手は彼の底知れぬ魅力に惹かれたようである。女性関係では、預かり主の土佐藩家老の妹「田鶴」とは、相手が年上であり身分の違いもあり恋仲となるが進展しなかった。千葉道場の娘「佐那」は、彼に恋焦がれる思いを抱き、寺田屋の女将「お登勢」からも恋われている。妻となった「お龍」は医師の娘ながら火事で焼け出された際に助けたことが縁で寺田屋に養女として預けた。後に寺田屋事件の時に入浴中であった「おりょう」が門外の異変に気づき、裸で二階の龍馬に急を知らせ難を逃れた。竜馬を救ったのはおりょうの通報と、長州藩士で槍の使い手三吉慎蔵であった。龍馬はピストルで応戦した時に左指を切られ負傷したのを治療するために西郷の勧めで薩摩を旅した際に、おりょうも同行している。俗説ながら、これが日本最初の新婚旅行だとする説もある。
 そんなに旧くない明治維新前夜の歴史ながら、書物によっては、何が真実か見分けのつかない部分がある。しかし、龍馬の偉大さは身を挺して自説を説く熱意と、相手をその気にさせる交渉術は類稀な才能であったようだ。現代の橋下がもつカリスマ性をもっていたようである。
 橋下はマスコミ育ちだけに、テレビなどを通じて人気を博している龍馬を、若さを誇る改革者と捉え、自らにそのイメージをダブらせ上手くマスコミを利用しているところは抜群の才覚と言えそうだ。

坂本龍馬が起草した「船中八策」とは
1(大政奉還)

天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より
出づべき事

2(議会開設)

上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、
万機宜しく公議に決すべき事

3(官制改革)

有材の公卿諸侯及び天下の人材を顧問に備へ官爵を賜ひ、
宜しく従来有名無実の官を除くべき事

4(条約改正)

外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事

5(憲法制定)

古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事

6(海軍の創設)

海軍よろしく拡張すべき事

7(陸軍の創設)

御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事

8(通貨政策)

金銀物貨よろしく国と平均の法を設くべき事

(半藤一利「幕末史」253頁)

「維新八策」とはどんなものか
 龍馬が夕顔丸の船中で起草した「船中八策」は大政奉還後の政治体制の基本的な指針をまとめたものだが、それを現在に置き換えて政治のリセットの要綱を「維新八策」と名づけた辺りは実に、世相を上手く捉えた手法といえる。
 新聞やテレビも連日これを報じていたがマスコミは完全にその作戦に乗せられた感があった。

「維新八策」の具体的な検証に入る前に地域政党が国政進出を明確にした経緯を辿ってみたい。
元々大阪維新の会は地域政党として国政には関与しないと明確に表明していた。昨年秋の同時選挙で圧倒的な勝利を収めたことから自民公明の両党は衆議院議員選挙で維新の会と対決することは得策でないと考え、以前からその傾向はあったが、さらにすり寄る姿勢をを示しだした。
 自民党大阪府連は一昨年の参議院選挙への協力を取り付けるた

橋下 徹(1969〜)

めに、二重党籍問題を不問にしてまで維新の会を野放しにしてい

た。自民党は知事選には中途半端ながら対応したが、末端の衆議院議員たちは殆んど動いていなかった。これらは次なる衆議院選挙での協力が欲しかったからに他ならない。これほど気を遣っていた維新対策でありながら、同時選挙後、橋下は委細構わず国政選挙に向けて具体的な動きを示すに至った。政治塾を立ち上げ候補者養成に取りかかり、維新の会として300名の候補者を擁立すると豪語するに至った。
 大阪都構想に関しても、同時選挙前までは自民党の石原幹事長や民主党の原口前総務大臣などと連携をとり理解を得ているとしていたが、選挙後は自力で政策を実現できると思い込み独自路線を歩みだした。
 橋下が国政選挙への決意を固めたのは1月18日の橋下市長、松井知事、浅田政調会長会談で、「百数十年変わらなかった日本を変えるなら今しかないかもれない」と語り、1月20日の自らの政治資金パーティで事実上の国政進出を表明した。(読売新聞2月17日朝刊)
 また同紙は1月中旬の世論調査の結果、維新の国政進出に「期待する」と応えた人が66%に達したと報じていた。2月11日と12日の産経とFNNの調査でも野田内閣の支持率は26,4%、不支持が51,9%となっていたが、維新の会の国政進出を期待すると答えた数字は64,5%に達していた。
 「政治は闘いだ。選挙の勝利こそ改革のエネルギー」と橋下は公言し「決定できる民主主義」を彼らのキーワードとして国政へ歩みだした。主張が対立する相手を「抵抗勢力」と位置づけケンカを仕掛け、世論を味方につけるのが橋下流のやり方である。彼が過激な姿勢をとる背景には、議論の果てに何も決められない現在の政治体制への失望があるようだ。
 橋下は地方から国を変えようと目論み大阪都構想を掲げたが、この構想の実現のためという大義はあるとしても、現時点ではカリスマ性による圧倒的な選挙における支持を背景に、国の形そのものを変えようとする飛躍した論法を執っている。そのための基本構想としての維新八策が評価できるものかどうかを検証する必要がある
 ともあれ、彼の人気は坂本龍馬に劣らず、国を変えようとして呼びかけた「維新政治塾」は400名の定員に対して3,326人の応募者があった。第1次審査で2,262人に絞り込んだ。最終的にはさらに半分にするようだ。
 「維新八策」は、現時点ではその骨子として91項目示されており、以下がその概略である。

橋下の維新八策

(1)

統治機構の再構築
地方分権の推進・地方交付税の廃止・自治体破綻制度導入・地方共有税制度創設・大阪都構想、道州制・首相公選制・参院廃止・参院議員と首長の兼職・衆院の優越の強化など。

(2)

行財政改革
プライマリーバランス黒字化の目標設定・国会議員の削減と歳費その他の削減・公務員の人件費削減・政党交付金の削減など。

(3)

公務員制度改革
公務員を身分から職業へ・外郭団体改革・大阪職員基本条例をさらに発展、法制化など。

(4)

教育改革
教育委員会制度の廃止を含む抜本改革・生徒、保護者による学校選択の保障・大阪教育基本条例をさらに発展、法制化・最高の教育を限りなく無償で提供など。

(5)

社会保障制度
受益と負担の明確化・所得再配分だけでなく一生を通じてストックによる所得再分配・現行年金制度をリセット・年金の積み立て方式への移行・資産のある人は、まずその資産で老後の生活を賄う・リバースモーゲージの制度化・混合診療制度解禁による市場原理メカニズムの導入・ベーシックインカム制度の検討など。

(6)

経済政策・税制・雇用政策
脱原発・既得権と戦う成長戦略・徹底した規制緩和・現存するインフラの徹底した選択と集中・マーケットの拡大、TPP、FTP参加・円高、海外移転などに沿った対策・円高による為替差損の調整制度(ソブリン、デリバティブ)・産業の過度な保護は禁物・人は保護する・フローを制約しない税制・民間にお金を使わせる税制・生涯使いきり型人生モデル・資産課税、固定資産税は現金化など。

(7)

外交・防衛
日米同盟を基軸としオーストラリアとの関係強化・沖縄負担の軽減・日米地位協定の改定・国際標準の国際貢献の推進

(8)

憲法改正
首相公選制・参議院の廃止・憲法改正発議要件の緩和。

   維新の「船中八策」は、「日本再生のためのグレート・リセット」案であることは理解できても、国政選挙のためのマニフェストと言えるものではない。後述するがマニフェストとはこんなものではない。
 これをもって「橋下維新の国家像鮮明」と産経新聞は持ち上げているが、政権公約というより「宣言」でしかない。読売新聞は2月15日の紙面で、維新版「船中八策」のたたき台の全文を掲載しているが、現時点でそれを精読してもわからないことが多過ぎる。その結果が『突貫「八策」粗さも』と大きな見出しとなっている。
 それを受けてのコメントかどうかは定かでないが、特別顧問の上山信一は「細かい数値目標を入れた選挙公約と違い、各論は役人に任せる『次世代型』の政権綱領だ。公約が実現できない既成政党に失望した有権者には違和感はないはず」と語っている。政権綱領という限りは単なる宣言ではないはずだし、他党との連携を考慮しない大胆さはあるが、これが次世代型という辺りは、やはり上山は政治がわかっていないようだ。特に「公約が実現できない既成政党に失望した有権者には違和感はないはず」とあるのは、綱領と公約についての文理上の混乱がある。何より各論を役人に任せる政権構想とは本末転倒も甚だしい。

橋下が主張する政治家像とは・・
提言のユニークなところは「統治機構改革」で、首相公選論や参議院廃止の検討、首長と国会議員の兼職により国と地方の協議機関とする点である。
 どう考えても直ちに実現できる可能性は皆無である提言を橋下は承知の上で発表している。彼の発言に「政策も大事だが、それよりも体制、システムの変革こそ政治の仕事だと信じ込んでいる。従って細かい政策を打ち出すつもりはない」とあるのは、このことを裏付けている。
 彼の眼中にはマニフェストの形に拘る感覚はまったくないのである。
 政治の様変わりを彼の姿勢にダブらせて考えると、この点に尽きるような気がする。即ち従来の手法ではダメだというのが彼の主張なのだ。この彼の政治感覚を従来の政治手法で判断すること自体が間違いなのかもしれない。
 彼の政治センスのユニークさは過去の政治家にはないもので、彼のもつ発信力がマスメディアに乗り、多様な層にまで受け入れられているのが現実なのだ。
 このように考えてくると維新八策をマニフェストととして検証する感覚は、過去の政治感覚であり、意味を持たないということになるだろう。
 しかし、橋下の政治哲学を無理やり咀嚼したとしても、「八策」のなかでも政
 策的な部分が中途半端に発せられている点について指摘しておかねばならない。
 税制に関して、地方交付税の廃止、それに代わる地方共有税制の創設も現実には大きな問題がある。地域により富の偏在があるのをどこで調整するのかが大きな問題なのである。社会保障制度では現行年金制度をリセット、資産のある人にには年金掛け捨て制の導入や、その資産で老後を賄う制度、ベーシックインカムの検討などが掲げられているが、これをいうなのなら財源裏打ちが必要である。しかし、政策目標を達成するための財源は一切示されておらず、消費税増税についてすら明確し示されていない。報道を比べると24日の産経が主な項目と題する図の中で、資産課税と消費税増税と書いているが、消費税増税は「たたき台」にも示されておらず、他紙の報道にも見当たらない。憲法改正の要件緩和は明確化されているが、国防に関し、日米に豪を加えた体制とされているだけで9条関連の改正には触れられていない。こんな要件を欠いた政策綱領では、どんな国を目指そうとするのか国家観は読み取れない。すべてはこれから示すというのか、あるいは上山が言うように骨組みだけを示し後は官僚が肉付けするというのだろうか。橋下は14日、記者団に「首相公選制や参院廃止は国会議員は絶対認めない。既存の枠組みでやってきた人は、船中八策を受け入れられない」と述べ、既存政党との対決姿勢を鮮明にした。この妥協のない考え方は、まさしく橋下流であり、唯我独尊的な傾向が顕著である。
 橋下が真似ていると思われる龍馬は、薩長や薩土連合を模索し、そのためにあらゆる人脈を活用しフィクサー的な役割に徹しているが、橋下は反対する勢力を切って捨てる点が大きく違っている。それにしては荒っぽ過ぎる政策である。

どうなる維新の会の衆議院議員候補者
 維新政治塾の一次選考に残ったのは2,262人だが、その顔ぶれは大学教授、弁護士、現職議員などがいるそうだ。玉石混交だろうと思われるが、現職地方議員からの転出を認めないとすれば300名も候補を立てることは不可能ではないか。
 松井幹事長が言うように昨年の選挙で有権者から負託を受けた地方議員が辞職して転出するのは問題であるとするのは理解できる。しかし率直に言って維新の会の現職議員の中にも玉石混交が目立ち、よくあれで当選できたと思われる者がかなりいる。それらを除き、新たに300名の候補者を擁立し、200名の当選の可能性はまずあり得ないだろう。大阪が発祥だから西日本が中心で、およそ30〜40名くらいの当選が精一杯のとこではないか。それにしても小泉チルドレンや小沢チルドレンが、それぞれの選挙のときに何名当選したかを考え合わせると、勢いだけで、さらに多数の当選者がでる可能性もある。
その理由は、偏に既成政党が認知されていないことに他ならない。
 佐伯啓思は産経新聞『日の蔭りの中で』で、「今日の日本を覆う閉塞間と自民・民主の二大政党政治への強い失望を前提にすれば、ともかく行動力が売り物の維新の会への高い期待もわからないではない。既成のシステムへの攻撃や破壊的エネルギーが『何か』を期待させることも事実である」としながらも、「脱原発のように昨年の事態を受けたものを除けば1990年以降の「改革論」の延長線上にある」と説き、「この10数年の改革が何をもたらしたのかを踏まえれば急進的な改革に強い警戒が先立つのは当然ではないかと述べている」
 この文章の締めくくりに、フランス革命当時のジャコバン党の急進派が権力闘争に明け暮れる党派の空白を縫って「民衆の友」というスローガンだけで勢力を伸ばした例をあげ、橋下の「選挙を通じての民意」と対比させた評論は、時代を超えて、武闘派的急進派の第3勢力への台頭を予言させ危うさを感じさせられた。
 最近の選挙情勢はまったく不透明であるが、既成政党がだらしないから、維新の会がそれなりの地位を占めることはほぼ間違いないだろう。
 如何に予測らしきことを試みても、橋下は前言を簡単に翻すだけに現職の転出は認めないという点も俄かには信じ難い。
 当面の動きとしては、維新政治塾の講師にかなりの人材を招聘するようで、塾生と共に、学びながら維新八策をマニフェストに仕上げつつ、候補者の発掘をするつもりだろう。滋賀県の嘉田知事も愛知県の大村知事、河村たかしも政治塾を立ち上げるそうだが、教育現場において政治教育が何故かタブー視されてきたことを顧みれば民間が政治教育をすることは大変良いことである。
 既成政党に奮起を願いたいところであるが、まず無理な相談のようだ。公明党は大阪選出の参議院議員の白浜一良が橋下と会い、「二大政党が漂流する中で維新の会は国民の期待を一新に集める存在ですな〜」と持ち上げ、次期衆議院選挙での協力を要請したときに、橋下は「わかりました」と即答したと報じていた。(産経2月22日・THEリーダー【3】)公明党は前回選挙で関西地区の小選挙区で全敗しただけに起死回生のために、なりふり構わない対応をしているようだ。
 民主党がダメ、自民党もダメとなれば、維新の会しか無いではないか、との声が聞こえてきそうな昨今の政治情勢である。

マニフェストとは何か
 最後に政権公約の新しいタイプとしての「マニフェスト」とはどんなものかを簡単に示し本稿の結論としたい。
 議会の目的は政策の選択とその運営であり、議員や首長を選ぶ選挙はその手段である。候補者が議会の目的である政策を予め掲げることは、有権者が適切な判断をするための前提になる。マニフェストは従来の選挙公約とは異なり期限や財源など、必要な政策について判断の基礎となる具体的な数値等を示し事後検証性を担保することで有権者と候補者との間の委任関係を明確化することを目的としている。従ってこの約束事は執行権者でなければできず、政権獲得を目指す議院内閣制の議会議員を除けばそれを提示することはできない。
 以上がマニフェストの基本的な要件であるが、今回橋下が示した「維新八策」はどう考えてもマニフェストではない。
 顧みると、マニフェストが浸透し始めたのは2003年の統一地方選挙からであり、2009年の衆院選における民主党のマニフェストが殆んど実現できず、その結果、選挙民を欺くこととなり政治不信を増幅させているのは大きな問題である。
 マニフェストの提示が選挙民の選択に貢献するためには、何よりも実現可能性が重要となるのである。
 今回の橋下が投げかけた「八策」はマニフェストとは別の次元のものであることは確かだが、それでも選挙民は大きな関心を示しており、選挙に際してはそれなりの影響力をもつだろう。
 それだけに、もう少し具体的な体制変革のための手順を示すべきである。これが不可能なら『言うだけ番長』の謗りは免れないだろう。
 2月15日に発表された維新版「船中八策」のたたき台は、更にまとめて26日に発表されることなっていたが、3月5日まで待ったが発表はされなかったので、この件だけを抽出し3月7日にWEBの『議論の広場』の欄にアップした。
 この欄を読んでいないとは思うが、マニフェストになっていないと厳しく指摘したら、3月10日に維新の会の全体会議を開き追加的な見解を示している。
 そのあらましは、憲法9条に関して国民的議論を経て国民投票にかけるとしているが、こんなのは当り前の話しである。また、資産課税やベーシックインカムなどについてはさすがに派内に異論があるようで、あくまで政治塾のレジュメだと語っている。さらに、浅田政調会長は「維新八策は、公約とか政策集ではなく一致団結してやっていくための価値観集」だとし、これを土台に次期衆院選のマニフェストを作成すると明言した。
 彼らとて、これがマニフェストの要件を具備していないことはわかっているようで、これを土台にマニフェストにするというが、「価値観集」がマニフェストになる可能性があるのだろうか。
 詰まるところ橋下は政策を提示したのではなく『体制変革』のためのお題目を示し、その実現可能性よりも、目新しさによって選挙民の閉塞感からの覚醒を呼び起こそうとする極めて高度な政治対応、選挙対応と見るべきである。
 いずれにしろ橋下が掲げた「維新八策」は、政治の分野は勿論、選挙に関しても、新しい時代の到来を予感させる出来事といわざるを得ない。

( 注 )

(1)百姓が武器を常に畦に備えて、ことが起これば直ぐに出動する半農半武士の制度

(2)山内家が土佐藩主になった時点で、長宗我部の家臣は武士と呼ばれス郷士と呼ばれた

(3)郷士の上で、上士の下の身分。登城も出来るし領主に拝謁も可能な身分

(文中敬称略)
平成24年3月
松 室  猛

<参考文献>
半藤一利「幕末史」新潮社、2009年
司馬遼太郎「龍馬がいく」文春文庫1〜8巻、2003年
菊池明他「坂本龍馬101の謎」新人物文庫、2009年
橋下・堺屋太一「体制維新−大阪都」文春新書、2011年



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