松室猛のTMニ水会定例講演・資料

 平成23年3 戻る






はじめに
 平成23年2月6日に愛知県と名古屋市において地方選挙が行なわれた。いわゆるトリプル選挙で、県知事選、名古屋市長選と市議会の解散を問うリコールの住民投票である。県知事選挙は日程通りの選挙だが名古屋市長選挙は河村市長自らが発起人となって市議会の解散を求めるリコール運動を起こし、そのリコールのための住民投票に合わせて自らも辞職しトリプル選挙を画策したものであった。
 市長が自ら議会の解散を求めるリコールは史上初めてであり、政令指定都市で市議会の解散を実現したのも初めての出来事であった。知事、市長、住民投票のトリプル選挙は河村氏の圧勝に終わった。選挙結果は下記の通りであった。

愛知県知事選挙 大村秀章 1,502,571票
(次点) 重富和彦 546,610票
名古屋市長選挙 河村たかし 662,251票
(次点) 石田芳弘 216,764票
市議会リコール住民投票 賛成 696,146票
反対 252,921票

今日に至る経緯
 自治体の異変は名古屋市における史上初めてのケースだけでなく、鹿児島県阿久根市でも前代未聞の事態が発生した。名古屋市と阿久根市のケースを検証してみると、その問題点が明らかになり今回の自治体異変の原因が浮かんでくる。
 阿久根市の場合は議会が機能していないと首長が判断し「専決」と称する議会の議決を経ずに市長が決定する手法を多用した。この前段には、竹原市長が初当選した時点で議会との話し合いが円滑にいかず僅か7ヶ月後に不信任案が上程され可決された。しかし、最初の不信任の後に執行された出直し選挙で再度竹原氏が当選したので、彼としては議会の意向より自分の主張が市民から是認されたとの思い込みがあった。従って竹原市長は議会の主張に妥当性はないと判断をし、議会を開催しようとしなかったのである。こうなると議会側は議会無視であると主張し紛糾するのは当然である。「専決」処分とは、議会を開催する時間がない緊急事態の時や議会が議決しようとしないときに首長が決定できる制度であるが、次の議会で報告をし議会の了解を得ることになっている。ところが竹原市長は、専決は市長の権限であると主張し議会の開催を拒んだ特異なケースであった。給与の削減や副市長の選任などをすべて専決処分したやり方は常軌を逸した手法であった。日本中の話題になった阿久根市の市長と議会の軋轢に対して、遂に市民から市長リコール運動がおこりリコールが実現した時点で市長は退陣し、再度の出直し選挙では竹原市長が敗れ新体制が発足したのである。阿久根市の事案は一応市長解任で落着した。
 一方、名古屋市の場合は河村市長が選挙時に公約として掲げた市民税の10%削減を提案し一度は議会も了承した。ところがその後の議会運営と行政執行に問題を感じた議会はこの減税案を一年限りの実施に切り替える提案をし可決した。その後、市長は議員定数と議員報酬の半減を打ち出したために議会との軋轢が深まりその対立は決定的なものとなった。そこで河村市長は、議会の解散権はないので自らが発議者となって議会解散のリコール運動を起こしたのである。
 河村市長は地域委員会を各校区単位に立ち上げボランティアの委員に議員の代替的な対応をさせることで市議会議員を半減することを提案しているが、これに対しても議会側は猛反発をしているのである。地域のボランティアに高度な行政判断が可能であるのかとの意見が反対の主な理由である。河村市長は議員が家業化していることは問題であり、長く議員を務めるべきではなく、すべての議員は党議拘束無しで個人として対応すべきであると主張している。この論理についてはかなりの疑問と反論が寄せられているが、彼は頑として聞く耳を持たず、そのことを、がなりたてる如くに主張している。
 概略このようなな状態が両市の問題点であるが、両市、両者に共通している点は議会と充分な話し合いをしていないことである。地方自治体のシステムである二元代表制の特徴は、同じ選挙で選ばれたとしても民意に捩じれがあることはしばしば起きるが、その場合最大公約数を求める努力をせずに、選挙時の支持が圧倒的であったことに寄りかかり自分の主張を絶対化して譲らない傾向が顕著である。両市の問題点の根源がここにあるのである。

 今回の名古屋におけるトリプル選挙のトリプルスコアーでの勝利は、益々彼を増長させ、手が付けられない様相を呈するに至っているといえるだろう。リコールを受けて行なわれる名古屋市議会議員選挙で彼が代表を務める「減税日本」から候補者を擁立し議会の過半数を目指すと発言しているが、もしそれが実現すれば議会は完全に河村シンパによって牛耳られ総与党体制的な議会が出現するだろう。こうなれば権力の独占を戒め民意を広く吸収する二元代表制による地方議会の制度が完全に崩壊することになる。
 議会解散のリコールによって、3月4日告示、13日投票で名古屋市議会議員選挙が施行されることになった。市議会定数75に対して既に41名の公認候補を擁立し候補者数としては38の過半数を超えている。しかしかなり無理をした擁立が目立ち過半数確保が実現するかどうかは微妙である。それでも最大会派になることはほぼ確実ではないだろうか。

自治体運営システムの概略
 自治体の政治システムは二元代表制であるがこのシステムの特徴は、首長と議員を直接選挙で選出し、両者の関係は議案審議に関して対等の立場であるとし、それによって権力の集中を防ぎ民意をより良く代表するための制度として発祥した。この制度は外国には例を見ないわが国独自の制度である。執行権者を直接選挙で選ぶことから、地方自治体の首長を大統領制になぞらえる人がいるが大統領制とは似て非なるものである。もっとも大統領制にはいろいろなタイプがあり、アメリカの大統領制はその選挙において候補者選びの段階から選挙をして、本選挙では州単位で大統領を選ぶ選挙人を選出する間接選挙制度を採用している。選挙システムにも違いはあるが、特徴的な違いは大統領の権限に関する点である。
 アメリカの大統領は議会に出席出来ず、予算等の提案権もない。議会の解散権もなければ議会から罷免されることもない。しかし行政執行権者としては陸・海・空3軍の統帥権を含め絶対的な権力者である。立法府は独自に立法をするが、大統領は「教書」と呼ばれる方針を議会に向けて発するに止まる。司法長官の任命権はあるが三権分立が極めて明確な制度となっている。
 それに対して二元代表制は、大統領制と議院内閣制の折衷案的なシステムで、執行権者である首長を直接選挙で選出し、首長は議会の招集権をもち、予算の提案権は首長の専権事項で、行政全般の執行権をもっている。議会は議決権と行政監督権、調査権、不信任決議権、人事案件に対する同意権等をもっている。議決権とは首長提案に対する議決権であるが、議決が得られなければ執行できない。また、議員にも議員提案としての発議権が与えられているが、予算関連についてはかなりの制約がる。地方議会は立法機関ではなく議決機関であるとされている所以である。

二元代表制下における首長権限の突出傾向について
 名古屋市や阿久根市で起きた事案は、地方自治体で首長と議会の意思が乖離した時点、即ち首長提案が否決されたとき、どう処理するかが問題の発端となっている。 
 首長も議員も同じ選挙民から直接選出されているのだが、両者の意見が食い違うことがしばしば見られるようになってきた。両者は議案審議に関してはまったく対等の立場であるが首長提案が否決されると首長は議員よりも広い範囲の民意を代表しているとの自負があるので、首長としてはそのままでは収まらない気分になるようだ。制度としては首長提案が否決されたときは「再議」に付す権限が首長に与えられている。即ち議会に対して再考を促す制度がこれである。

 かつてはこのような極端なケースはほとんど見られなかった。仮に選挙で圧勝したとしても民意の絶対的な支持があると思い込むような首長はいなかったのである。ところがマスメディアを通じて知名度がある候補者が出現してから圧倒的な支持があると過信している首長が登場するようになってきた。議員に託された民意よりも首長である自分に与えられた民意が絶対的なものであると思い込む首長が多く登場するようになったきたのである。
 大阪府においても同じようなことが起こった。橋下知事は突然府庁の移転を議案として議会に上程したが、議会はこれを否決した。ところが橋下知事は次の議会で同じ提案を繰り返し再び否決された。その時点で、おかしなことに移転案は否決されたがWTCのビルを買い取る案件は可決されたのである。移転には反対だが移転予定地にあるビルを買い取る案を可とするのは何を意味するのであろうか。何故このようなことが起きたのかについていろんな見方があるが、その一つの理由として現在府庁は手狭で各部局が入り切らないので近隣の民間ビルを賃借して分室として使っているのは大変不便であり、賃料の合計額が膨大なものとなり不経済であるから庁舎を統合しようとする理屈もあった。しかし、そのことより知事提案に対するかなりの配慮らしきものがあったのも事実のようであった。
 この一連の動きの中で橋下知事は、もし否決されたら辞任をして出直し選挙も辞さないとうそぶいていた。これぞまさしくプレビシット型(Plebiscite)の典型というべき対応である。結果的にはそれをしなかったが、否決することは民意に反するものであるとまで言っていたことはトンでもない思い上がりである。知事提案に対する議会の理解を得るために議会と充分な議論をすべきであったのに、充分な根回しもせず反対する方がおかしいとまで発言していたことは彼の思い上がり以外の何ものでもなかった。そこで彼がしたことは自分を支持する政治団体を立ち上げその代表として知事与党を増やそうとすることであった。
これが「大阪維新の会」である。
 そもそも二元代表制では首長は直接選挙で選ばれるから、与党、野党の区別はないのである。与・野党の呼び名は、最大会派である議員の中から執行権者である総理大臣を選ぶ議院内閣制では、その派から選んだ党派は与党となり、その他の政党は野党となるのである。従って議院内閣制では与・野党は存在するが地方議会では与野党は本来存在しないのである。従って首長自らが知事与党を立ち上げたらこの原則が崩れることになり、もしその政治結社が過半数を占めることになれば議会はすべて知事の言いなりとなり、議会本来のチェック機能が働かなくなる。議会はイエスマンの集合体となり、かつての大政翼賛会そのものとなる危険性がある。

選挙で示される民意とは何か
 
ここで問題になるのが選挙を通じて示される民意とは何かである。
 特に二元代表制における首長を支持する選挙民の民意と、議員を選出する民意の乖離が問題であるが、この原因は選挙の性質と選挙区の範囲の違いによる要素もある。即ち首長に対しては個別の政策より知名度や経歴などに対する包括的な評価が投票動機になることが多いのに対し、議員に対しては地域代表的、かつ利益誘導型を求める要素が多く感じられる点である。
 かつてのように体制選択論が選挙の争点であった時代は中央との直結が宣伝文句として重宝がられ、地域住民も政権政党に近い首長や議員を選ぶ傾向が強かったが、そんな時代とは根本的に時代背景が変わってきている。
 中央における既存の政党が民意の集約力を喪失し、政権抗争に明け暮れている現状に嫌気を感じる選挙民が多くなってきたのである。無党派層の台頭と分析することも可能であるが、ともかく既存の政党が国民から認知されていない現状は拭いようがない。現政権の支持率はそのことを象徴的に示しているし、それなのに野党第一党である自民党に対する国民の信頼感がないのは、既存政党が国民から認知されていないことを如実に示しているというべきであろう。
 最近10年間の総理がどう代わったかを顧みると、2000年4月森喜朗、2001年4月小泉純一郎、2006年9月安倍晋三、2007年9月福田康夫、2008年8月麻生太郎、2009年9月鳩山由紀夫、2010年6月菅直人となっている。この10年間で小泉純一郎を除けば在任期間が1年程でしかないのはいかにもお粗末である。これでは諸外国と長いスパンでの話し合いなどできる訳がないし政治に信頼性がなくなるのは当然である。何故これほど人材がないのかが問題である。
 それなのに平成24年度の国家予算案は3月1日の未明に衆院を通過したが、分離採決された関連法案の審議は極めて流動的であり、結論から言えば何ヶ月財源がもつのかが問題である。小沢グループ16人の会派離脱が今後どうなっていくのか、小沢側近の農水政務官が菅政権の政権運営に異論を唱え辞任を表明したことなどから今年の夏前後に解散総選挙が行なわれる公算が強まったとみるべきであろう。こんな状態では、またまた国民の政治不信、政党不信は更に募るであろう。

 こんな状況下で地域の事を既成政党に任せておけないと言う主張は一見筋が通っているようであり、地域政党の誕生にはそんな意向もあったであろうが、本当のところはそんな次元ではなく、首長が唯我独尊で自らの主張を強引に形にしようとする自己顕示欲による議会運営を図っていると感じれれる点が多いのが問題なのである。
 しかし、今回の名古屋市と、阿久根市の以前の選挙結果は、議会との軋轢で出直し選挙をしてもやはり首長が勝利している事実である。以前に話題になった長野県の田中康夫知事のケースも同じであった。議会で不信任されても再選されるのは何を意味するのだろうか。不信任決議は3分の2の出席と4分の3の賛成がなければ可決とならないのである。選挙民から負託を受けた出席議員の4分の3以上の意思としての不信任決議は大変重いもので、この事実を選挙民の民意と受け止めるべきなのに、再選挙をすれば不信任された首長が当選するのをどのように理解すれば良いのか、実に悩ましい問題である。
このように選挙を通じて示される民意には不可解な部分があるのである。
 民意をどう受け止めるべきかについて以前にも取り上げ、また識者の見解も紹介したことがあるが、どう考えても民意には理解し難いところがある。

気に掛かるポピュリズムの逆転現象
 選挙向けに首長が選挙民におもねる対応をすることがある。理屈はどうであれ選挙民が喜ぶ施策を打ち上げるケースがこれである。ポピュリズムといわれる大衆迎合主義であるが、最近の選挙では選ばれる側の迎合というより、選ぶ側が候補者、すなわちカリスマ性のある候補者に逆におもねる傾向があることである。
 先の総選挙における政権交代だけが謳い文句の選挙結果にも同一性が感じられるし、小泉時代の郵政選挙などを顧みると、何でも良いから小泉が言う郵政民営化以外の主張はすべて拒否する選挙民の感覚はどう考えてもおかしい筈だ。郵政民営化が国政を判断する選択肢である筈がないのに選挙民は雪崩を打つがごとく対応した。小泉劇場などと揶揄されたが、小泉が残した足跡には功罪相半ばする問題点がある。しかし、そのことは後になって初めて気がつくようで、選挙時には熱に侵されたような反応をしたことに対して国民は冷静に反芻し反省する必要がある。
 最近の選挙で感じられることはプレビシット型を容認する衆愚政治的傾向があることである。今年の2月に施行された名古屋におけるトリプル選挙はこの典型ではないだろうか。名古屋において3月14日に議会議員選挙が施行されるが、このような選挙環境の中で市長に寄り添う議員がかなりの数となっていることも問題である。大阪においてもまったく同じ動きが感じられるのである。

何が問題なのだろうか
 
二元代表制が機能していないとの声が増えてきた。確かに軋轢を深める自治体と、その逆に首長べったりの自治体が二極化してきた。その中でも議会の活性化を目指して頑張っている議会もあるが、いずれにしろ首長選挙に際してマニフェストを提示する選挙が蔓延すれば首長の優位性は益々強まるであろう。議員には執行権がないので公約の実現について具体的な日程の提示など出来ないので概括的な主張しかできず、この点からしても議員に対する首長の優位性は益々高まるであろう。議員の資質の問題だとする論法も随所で聴かれるが、そのこともさることながら首長の独善性にも大いなる問題がある。

 このような流れの中から、果たして二元代表制が最善のシステムと言えるのかも問題になってきた。
 地方自治体の制度に関して民主党は「憲法提言」の中で次のように述べている。(2004年6月22日、民主党憲法調査会、および2005年10月31日の憲法提言)
1.中央集権国家から分権国家へ転換する。
 「地域でできることは地域に委ねる」という「補完性の原理」に立脚し、住民に身近な行政は優先的に基礎自治体に配分する。都道府県を広域的に再編して道州を設け、司法・外交・出入国管理など文字通り国家主権に関わる行政を除く大半の広域的行政を道州に移管する。これらの行政権限配分を憲法上明確にする。
2.自治体の立法権限を強化する。
 これまでのような法律の範囲内での条例制定権限ではなく、地方自治体と中央政府の権限配分に対応し、地方自治体に専属的あるいは優先的な立法権限を憲法上保障する。中央政府は、地方自治体の専属的立法分野については立法権を持たず、地方自治体の優先的立法分野については大綱的な基準を定める立法のみ許されることとする。
3.住民自治に根ざす多様な自治体のあり方を認める。
 自治体の組織・運営のあり方は住民自身が決めることを原則とする。これまでの首長と議会の二元代表制だけでなく、「執行委員会制」や「支配人制」など多様な組織形態の採用、地域コミュニティ等を準地方自治体とする三層制の採用、住民発案案件を議会が否決した場合には住民投票により決着をつける「住民発案住民投票」制度の採用などをいずれも自治体に委ねる。
4.財政自治権・課税自主権・新たな財政調整制度を確立する。
 地方自治体が自らの事務・事業を適切に遂行できるよう、その課税自主権・財政自治権を憲法上保障し、必要な財源を自らの責任と判断で調達できるようにする。課税自主権は、各自治体が自らにふさわしいと考える税目・税率の決定権を含む。これらを補完するものとして、現在の地方交付税制度に代えて、新たな水平的財政調整制度を創設する。

 この主張は、民主党の憲法改正の際に地方自治に関する規定を根本的に改正しようとするものであるが、民主党の憲法改正論議が極めて脆弱であることからしても実現可能性はきわめて低いといわねばならない。しかし、首長と議会が直接選挙で選ばれるという二元代表制度の採否を自治体が選択できる余地を憲法上認める点などは根本的な制度改革であるが、隣接する自治体間で制度が異なるなど大きな混乱を引起しかねない。現時点では、憲法改正を前提とする仮定の議論であり、実現可能性に乏しいものとしかいいようがない。

橋下知事が言う議会内閣制とは何か
 平成22年の1月11日の日本経済新聞の朝刊の一面トップで「地方自治法を抜本改正」と大見出しをつけ報じていた。記事の内容は、「都道府県や市町村の首長が議員を在職のまま副知事や副市長、各部局のトップに起用できるようにする。議員を政策決定や執行に参加させることで議会を活性化し、民主党が掲げる『地域主権』の実現に向けた基盤を整備する」であった。このような取り上げ方をしたのは日本経済新聞だけで、あたかも「議院内閣制」への移行が具体的に検討されるが如き報道であった。恐らく日本経済新聞の記事が発端となったものと推測されるが、橋下知事の「議会内閣制」に関する発言を「月刊誌ガバナンス8月号」は次のように報じている。
 大阪府の橋下知事は、地域主権戦略会議の予備的懇談会の席で「地方分権確立のための改革提案」として「首長と地域社会が協働し、責任を共有する仕組みが必要」であるとし「議会内閣制」の導入を提案した。提案の趣旨は「都道府県や指定都市では官僚組織が大きく、厳格な二元代表制の下において首長一人では政治主導による自治体経営に限界がある。議会は二元代表制のもと、首長に対するチェックに軸足をおき予算編成権への関与などに積極的でない」と指摘し、だから「議院内閣制型の議会内閣制として首長が議会の推薦を受けた議員を内閣構成員として政治任用できる制度を創設すべき」だとしている。
 しかし、この論理の前提そのものに論理矛盾がある。すなわち、「官僚組織が大きく、厳格な二元代表制の下において首長一人では政治主導による自治体経営に限界がある」と主張しているが、官僚組織は首長を補佐し実質的には首長の監督下で機能するものであるから、首長一人では政治主導による自治体経営に限界があるという主張に妥当性はない。また、議会が予算編成に対して積極的でないというが、予算編成権は首長の専権事項であり、同時に首長に対するチェックに軸足をおいているというが、この点はむしろ逆で、チェック機能が正しく働いていないのが現実である。また、いかに首長が独任制であるといえども、副知事を任用できるし、地方自治法161条2項の規定により、その人数についても条例で決めることができることに加え、特別秘書の制度も存在するから適材適所の任用と運用により、充分その対応は可能である。民間人の採用により経営感覚を取り入れることも重要であるが、議会対策に専念する副知事の任用によって、不自然な議会内閣制などよりも、よりよい仕組みの構築は可能である。橋下知事は地方議会に与野党の存在を前提としているから地域政党を立ち上げたのであると断ぜざるを得ないし、やはりこの辺りに地方自治体運営に焦りがあるようで、主導権確保を意識しすぎている感を払拭することができない。制度の如何に拘らず、充分な話し合いを前置することが何よりも重要なのである。
 全国知事会は、「相互牽制機能が低下する」とし反対を表明している。全国議長会は「議員を執行機関の構成員にすることで、さらに執行機関を強め、地域主権改革に反する」と反対し、全国市議会議長会は「二元代表制を変質させ首長の権限強化を目指そうとするもの」と批判している。
 民主党のいう、執行委員会制や支配人制はアメリカにおいてその先例はあるが、議会内閣制の導入は自治体間の整合性の問題や議会と執行部との権限の均衡の観点からも論理的矛盾を包含しており、導入には問題があり、議論になじまないものと考えざるを得ない。

政治離れか、政党離れか
 
最近の選挙情勢を分析していて注目すべき点は、今日の既成政党が国民から信頼されず無党派層の増加が気にかかることである。投票率は昭和30年代をピークに下がり続け、国政で6割、地方選挙では5割を切ることも珍しくない。この数字は有権者のほぼ半数しか選挙に行かないことを意味する。この傾向は日本だけでなく、諸外国でも同じような傾向が見られる。アメリカでは、選挙権は18歳になれば自動的に付与されるのではなく自らが申請し登録しなければ選挙権が付与されない。ノースダコタ州が唯一の例外で登録の必要はないが、自動的に選挙権が付与される日本と投票率がそれ程変わらないのは何によるものか分析の必要がある。政治に無関心であるなら登録申請をしないだろう。しかし、地球環境を中心とした温暖化対策のような大きな政治マターについては、それなりの関心を示すことから政治に無関心であるとは断定し難い。従って政治に関心がないのではなく、選挙に際して選ぶべき政党がない、あるいは支持する政党がないので投票に行かないと分析すべきである。つまり政治離れではなく、政党離れだと指摘せざるを得ないのである。
 候補者数および政党所属との相関関係について考える時に注目すべきことは、政党に所属しながら選挙時には無所属で立候補する地方議員候補がかなりいることである。現職議員が、議員活動は政党の会派に所属し、当選後もまた政党の会派に所属するのに選挙時だけ無所属を表明する議員が多いのは、政治的節操の無さであり選挙民の政党離れを加速する要因の一つとなっている。選挙のための戦略のみを後生大事にするような議員が多いことが問題なのである。

 政党史をひも解けば、政党の離合集散の原因の大半が政権抗争であることからしても、主権者である一般有権者が政党を認知しようとしない原因を議員サイドがつくりだしていることに気づくべきである。
 現時点で注目すべきは、地域政党と既成政党の関係を如何に整合させるのかが現代政党論の論点となっていることである。整合を求めるべきなのか、あるいは競合のままなのかが現実の論点となってきた。
 政党の最大の目標が、中央においては政権の確保であり、地方自治体においては地域住民から負託された要望を具現するための影響力の確保であるとすれば、自らの信念に従って邁進すればよいのである。もし、影響力を発揮するに至らないとしても地方自治体においては首長と是々非々の議論を通じて妥協点を見いだす努力をすべきがその責務である。これこそが二元代表制のシステムが要請する課題なのである。それを、首長側は総与党体制の構築のみを意識し、議員がその後を追いかけるごときは本末転倒の対応である。
 地域政党は平成23年の統一地方選挙ですべての既成政党にとって対決政党となることは必定である。地域政党は国政選挙にどの党を支援するかは個人の選択であるとしているが、現行法の下では国との協働関係が円滑でなければ地方改革の進展が期待できないことは厳然たる事実である。したがって国政と地方行政との関係にも明確な主張を持つべきである。一方で対決姿勢を明確にし、他方では、個人的にその都度考える姿勢が許されるとする曖昧さが地域政党の不可解な点である。地域政党が明確な党意識を持つことによって初めて、より確かなで望ましい政治結社と認知され、地域政治の再構築に貢献できるものとなるであろう。
 既成政党は、従来とは異なる政党環境の中で、政党が担うべき機能と役割を原点に立ち返って真剣に再検討すべきが現代の政治課題である。

むすび
 
地方自治体の異変は議会と首長の軋轢が原因であり、軋轢の原因は首長の独断専行が大きいことと、議会が機能していないことが最大の原因である。
 何よりも大きな問題点は議論の欠落であり、その中でも議員同士の話し合いの場がないことである。その結果、唯我独尊の首長を生み出しているケースと、その逆に首長べったりの議会と議員を生み出していることが今日の自治体の異変に繋がっているのである。 
 結論に至るにはかなりの時間が必要であるが、二元代表制が機能しなくなりつつあるのは現実の問題であり、それに変わるシステムの模索が始まっているのが今日の実態といえるだろう。
 統一地方選挙後を考える前に、選挙制度と議会の定数についても真剣に考えるべきである。しかし、地方選挙を目前に控えた現在では定数削減論も時機を逸しているし、制度の根本改革には時間が掛かるので、選挙後の当面の課題は真剣に議論する議会環境をつくりだすことである。それをしなければ、首長を代表とする地域政党の躍進によって益々議論の場としての機能を自ら放棄する傾向が強くなっていくだろう。
 これからの名古屋市市議会は恐らく自治体の審議機関、議決機関としての本来の機能から遠ざかり首長提案の追認機関化し、行政執行の監督権限も希薄化するであろう。この度の地方統一選挙の結果次第で大阪府議会も同じ傾向をたどる可能性を否定し得ない。

 今回の地方選挙の結果によっては地方自治体の現行システムが危機的状態に陥ることに気がついている人がどれ位あるだろうか。
 いかに制度改革をしても、その制度に対する理解と選挙民の民度を高めるために啓発できるような資質を持ち、ためらわずに発言する勇気を持った議員を育てるべきが制度改革以前に必要な要件であることを痛感する昨今である。
(文中敬称略)
平成23年3月
松 室   猛


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