松室猛のTMニ水会定例講演・資料

 平成21年7 戻る




選挙日程について考えられること

衆議院議員の任期が平成21年9月10日に満了となり、間もなく総選挙が実施されることになっている。次回の選挙は解散総選挙なのか、任期満了による選挙なのかが取り沙汰されているが、この機会に選挙の日程と、その趨勢、その後の政局について考えてみることにした。

 まず、総選挙の時期であるが選挙施行の期日について公職選挙法に次のような規定がある。

公職選挙法31条(総選挙)
・任期満了前30日以内に選挙を行なう。
・国会開会中又は閉会日から23日以内にかかった場合は閉会の日から24日以後30日以内に行なう。

・解散の日から40日以内
・12日前に公示しなければならない。

現在開会中の国会の会期末は7月28日である。従って閉会日から起算する場合でも任期満了との絡みは問題ないが、恐らくそれ以前に解散するのではないだろうか。すなわち東京都議選の投票日の7月12日以降、国会の会期末の7月28日までの解散で、40日以内とすれば8月30日の線が浮上してくると思われるのだが、どうだろうか。

その前に民主・社民・国民新の野党三党は7月2日解散、8月2日投票があるとみているようだ。しかし、この案では、選挙は都議選の結果が出た直後になり、都議選の勝敗が流動的だからあり得ないだろう。都議選に敗北すれば総選挙に多大の影響を与えることは必至だ。だから何とか都議選を勝利しようと総理も必死になって都議候補の応援に奔走しているが、その先で「何とか惜敗を期して・・」などとトンでもない発言をして恥をかいているのは、恥ずかしいのを通り越して情けない限りである。
本末転倒の議論だが、7月8日から10日にかけてイタリアで開催されるサミットをどうするのか、経済危機に関する対応に自信をつけた自負と、サッミト好きの麻生総理だけに、このスケジュールを無視出来るだろうか。

いずれにしろ9月までには選挙があるのだから、この予測が狂ったところで大した問題ではない。

千葉市長選挙では自公が推薦する候補が惨敗し、民主が推す最年少の市長が誕生した。7月5日投票の静岡県知事選は民主が纏まらないことから千葉市長選と同じようには行かないだろうが、総選挙を占う剣が峰になるだろう。もし、静岡で負ければ自民党は更に苦しくなるだろう。

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ここまでの文章は6月末ごろに書き上げていたものだが、7月5日に静岡知事選の結果がでた。僅差ではあるが民主党の推薦候補が勝利した。民主は分裂選挙であった。それでも勝ったのは民主の候補者が良いこともあるだろうが、やはり自公体制に対する国民の反発と受け止めるべきだろう。いよいよ選挙情勢は厳しさを加えてきた。後は都議選の結果だろうが、地方議員は独自の後援会組織に乗っ取り選挙を戦うので、“風”の影響をどれだけ抑えられるかが見所だろう。

現在の政局に対する国民の拒否感は、相当強いことを感じさせられた静岡知事選挙であった。(この稿・7月6日記)

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地方議会選挙と国政選挙との関連は無いと総理も公明党も言ってはいるが、この言い方は素直に聞けそうにない。地方選で勝てば、与党側の主張に国民が信任を与えたというだろうし、その勢いで総選挙は勝てると言うに決まっているのだから勝手なものである。

参考までに現時点における都議会の勢力分布を眺めてみると、

東京都議会の現有勢力  大阪府議会の現有勢力
自民党  48 49  (維新の会6を含む)

公明党          

22 23

民主党         

34 24

共産党          

13 10

社民党           

 0

生活者ネット   

府民ネット 3

諸派、無所属         


欠員     


合計 127       112
都議選後に自公連立に変化が起きるのでは・・
都議会でも自民党は過半数に届かないので自公協力は欠かせない。自公で過半数割れとなれば、それこそ国政選挙にそのままの影響が出ることは明らかである。
公明党はその組織からして当選可能性をはじき出し、当選確率を重視して候補者を決定しているので大敗することはないだろう。そうなれば自民の都議会における議席獲得数によっては、総選挙前に公明が自民との連立離脱を検討することになるのではないか。総選挙後に同じようなことが起これば公明党の連立離脱はほぼ確実だろう。

選挙結果の予測は可能か
マスコミは挙って自民党の敗北を予想しているが、その根拠の一つに内閣の支持率がある。6月下旬のどの新聞の世論調査でも支持率は17%〜20%未満でしかないのは如何にも寂し過ぎる。ある総合雑誌などには「さようなら自民党」などの特集まで組んでいる状態である。しかし、最近の選挙予測は従前にくらべ格段に難しくなっているのに、マスコミは既に大勢が決したような報道をしている。このような「アナウンス効果」と称される影響は大きいだろう。

6月18日の産経朝刊には自民党の一期生が「総裁の信任投票を実施する会」と題する文章を配布し賛同者を募り始めたと報道されていた。後日、この趣旨に賛成する議員が100名を越えたと報じていた。また、解散の前に党総裁選挙を前倒ししようという運動が党内で起こっているとの報道もある。その根拠は、麻生で選挙をしてその直後に総裁を代えることは、選挙での信任と異なる体制となるのはおかしいというものである。

何よりも不甲斐ないのは、総理・総裁が政治力を失いかけると「次は俺だ」と名乗りを挙げる人物がいたものだが、批判はすれども名乗りを上げる人物がいないことだ。今までの自民党なら必ず2以上の複数候補が名乗りを上げ凌ぎを削っていたのが最近はこのざまである。マスコミは勝手に枡添要一氏が良いとか言っているが、党内では大した勢力でないことは誰でも知っているのに、最近街を走ると地元候補とともにポスターに収まっている枡添要一の顔写真を見かけるようになってきた。こんな事も今までには無かったことだ。

選挙での勝敗は議席数の増減によって評価されるものであるが、自民党の現有議席そのものが異様に多過ぎる点を見落としてはならない。幾たびかこの件は書いてきたが、先の郵政選挙がおかし過ぎたのである。
「郵政民営化賛成」だけで当選した議員が如何に多かったか。勿論それだけではなく、真摯に政策活動や地域活動を繰り返し当選してきた議員がいることは承知している。しかし、大選挙区ならまだしも小選挙区であるにもかかわらず、選挙前にはどこの誰かまったく判らない候補が複数当選している事実は、従来の選挙に関する常識では考えられないことだ。
これらの現職は、まず次の選挙で淘汰されるのではないだろうか。

大阪の選挙区情勢は
大阪は19選挙区だが、4選挙区は選挙協力と称して自民党は候補者を立てず公明党に明け渡しているので、自民党としては15選挙区でどうなるかが関心の的となる。

批判のあることは承知で、まったくの独断と偏見で選挙の予測をしてみた。
さすがに単独の選挙区がどうなるということは差し障りがあるので控えるが、
1区から5区まで
自民党は中馬弘毅、川条志嘉、中山泰秀の3議席確保しているが、1議席を確保できるだろうか。
6区から10区では
渡嘉敷なおみ、大塚高司、原田憲治、松浪健太の4議席だが、1議席±1議席ではないだろうか。
11区から15区は
北川知克、西野あきら、谷畑孝、竹本直一の4議席だが、ここも2議席±1議席だろう。
16区から19区では
岡下信子、中山太郎の2議席だが、1議席取れるだろうか。

このように大胆な予測をしてみると、大阪の選挙区では壊滅的になる可能性があるようだ。
比例代表では現有議席は5議席だが、惜敗率での当選を見積ても精々5議席±2議席ではないだろうか。

次回の二水会講演会は7月8日だから、都議選は告示されている。まずこの時期までに総選挙はないだろうが、一番ピリピリしている時期になりそうだ。

 最近地方自治体の首長が大変元気がいい。大阪でも橋下知事の支持率が高く彼の衆議院選挙に対する対応が注目されている。彼自身の選挙母体は自・公であった。しかし彼は地方自治体に対する対応として地方分権に真剣に取組む政党を支援するとハッキリ言っているのも従来にはなかったことである。

在阪の代議士の中には地方議会出身の国会議員が多いが、なぜ、国会議員になった途端に地方のために汗をかくことを忘れ、東京に埋没してしまうのだろうか。議員個人の資質にもよるが、党の地方組織がそれらの対応をしないのも不思議である。

政党の存在理由とは
政党の歴史はそんなに古いものではないが、代議制民主主義の出現とともに民意を集約する集団としてそれなりに機能していた時代があった。
「体制選択」が争点であった時代の政党は政治思想と哲学をもっていた。
文明の衝突の著者ハンティントンがいう冷戦の終結以前までは民主主義と社会主義が相対峙していた。社会主義思想が急激に衰退していった頃から国民は総中流意識とともに、どっぷりとぬるま湯に浸かりきり政治離れを加速させ、政治に対する緊迫感が消失した。それとともに世界中で共通の動きとして、政党そのものの存在感が希薄化してきたのである。
政党に関して象徴的な出来事があった。
「潰し屋」と称された小沢一郎氏のかつての動きに象徴されるように、政党が民意を集約する団体としてではなく、「寄らば大樹の陰」的なチルドレン達を引き連れて政党の再編を繰り返していた。この動きからも知れるように、民意ではなく政権獲得のための数合わせの対応を繰返してきた頃から政党に対する信頼が大きく揺らぎだしたのである。
議会制民主主義のさきがけの国イギリスでは、ほぼ二大政党制が定着しているし、アメリカも同様である。しかし、アメリカでも政党が意見の集約をする同質的集団としての機能の大半を喪いつつあり、共和党の党員が民主党の候補者を支援することや、議会においても同様の対応が頻繁に起きている。同質的集団として機能していない原因は、民意が多様化し過ぎており、それを収斂しきれていないからであろう。それと、あらゆる分野で近代化が進み、従来の利益誘導型政治が陰を潜めたことと、なによりも政党と政治家が国民の中に入り込もうとしないことに原因がありそうだ。

日本は二大政党制とはいえず、国会に議席をもっている政党だけで6党もある。これだけの政党が存在しながら民意が集約されずに、「無党派層」が増え続けていることに対し政党にまったく反省の気配が無いのが不思議な気がする。

いろんな意味で歴史に残るであろう小泉純一郎という政治家は、自民党の代表を決める総裁選挙に際して、「自民党をぶっ潰す」と憚らず公言して総裁選を勝利した。しかし、ほとぼりが醒めた現在では彼の政治手法と実績がかなりの分野で問題視されだした。その最たるものは格差の拡大であり、地方の疲弊である。これらをつくりだしたのはワンフレーズ発言や劇場型とかいわれるパフォーマンスと、断定的発言によって高度な政治判断以前に端的に賛否だけを問うアジ演説手法であった。漠然とした風評による支持率の高さなどは、大衆の無責任な体制迎合主義と相まって、従来とは違うタイプに惹かれた結果がつくりだしたものであろう。
政策面では規制緩和と構造改革の美辞が蔓延し、グローバルスタンダードと呼ばれたアメリカ一辺倒の経済政策によって日本固有の「系列」や雇用形態までが破壊されていったのである。その結果、堀江もんや村上ファンドに象徴されるような跳ね上がり者を生み、やがて彼らは淘汰されていった。これらも市場経済至上主義の産物であり、極論すれば規制緩和とアメリカナイズされた金融資本主義に追従した結果であった。政治的には、選挙民は思考する習慣を彼によって削がれてしまったのである。
それまでの政党は、良きにつけ、悪しきにつけ同業団体やその他の利益集団、圧力団体の意見の受け皿であった。構造改革によってすべてが霧散し、この事が特定団体ではなく広い意味の大衆政党への脱皮だと強弁したが、現実の政党は開かれた大衆政党とは程遠いものでしかない。政党そのものが1人のカリスマ指導者によってまったく変質したのは戦前のナチスドイツを髣髴とさせるようで恐ろしい気がする。教科書的表現だが、今こそ選挙民が自らの判断基準をしっかりと持つべきではないだろうか。

彼を支えた経済閣僚の1人であった竹中平蔵は26年生まれの元気な経済学者であったが、理路整然とした弁舌と経済面での博識が評価され、グローバルスタンダードと呼ばれた経済システムの抜本改革が金融資本主義を増長させ格差を助長させた事実は暫く消えることはないだろう。

選挙後の政局はどうなるのだろう
 自民党の退潮に歯止めがかからないとすれば、次の政局はどうなるのだろう。民主党が勝利するとしても、安定過半数を得られる議席確保が可能だろうか。もし、過半数に達する政党がない場合は連立政権にならざるを得ない。民主を中心とした連立の場合、国民新党はまず問題はないが、問題は社民党である。安全保障政策に関してかなりの違いがある社民党と連立を組めるのだろうか。かつての自民党にもタカ派とハト派があったが、それと同じ次元で連立は可能だろうか。参議院の議席数は社民党のわずか5議席の協力があってはじめて与野党逆転となっていることから社民の抱きこみは避けられないだろう。
こんな不安定な政局での国会運営は容易ではないが、そうなれば大連立かといえば、そうはならないだろう。何故なら民主党の岡田幹事長は大連立には反対を表明しており、大連立構想に乗ろうとした小沢前代表が辞任寸前にまで追い込まれた経緯からしても大連立はないだろう。

しかし、小沢一郎氏は過去の政党遍歴からしても自民党を揺さぶり自分達の主張を貫くためには何でもするしたたかさを持っている。
かつて彼が率いる自由党が自民党と連立を組んだ時もそうであった。
小渕恵三総理の時代に、彼を必死に支えていた野中広務は官房長官であったが、その彼が不倶戴天の間柄であった小沢と話し合いをし、小渕を支えるために自・自連立を成し遂げたのである。
この頃の状況が、海野謙二著『野中広務 素顔と軌跡』に詳しく書かれている。小渕政権の「影の総理」と呼ばれた野中広務官房長官は、かつては「悪魔」とさえ呼んだ小沢に、「ひれ伏してでも」協力をお願いしたいと公言し小沢にアプローチをした。こうして平成11年1月、自民党と自由党は閣僚削減、公務員削減などに合意し連立政権を発足させたのである。
「悪魔」と手を組んだ野中は自分のことを、「ぶれることで政治生命が傷付いても、日本が21世紀に栄えれば政治家として満足だ」と述懐している。
私利、私欲ではなく、小渕を支えるという政治目的のためなら手段を選ばないという意味からすれば、大した男である。

野中も凄かったが、小沢も中々の役者であった。しかし、小沢は与党にくみしたが、政権内部で思うようにならないとわかればすぐに連立を解消し新党結成に走った。最終的には、よもやと思われた民主党との合体までやったのである。
自民党をぶっ潰し、政権確保のためなら何でもやる彼の生き様そのものであり、そこら辺の陣笠代議士が束になって掛かっても敵わない執念と凄さをもっているのである。
野中引退後、彼は古賀誠を後継として引き立てたのであるが、政治的度胸と度量の違いは歴然である。東国原知事に対する出馬要請などを見ても器量の違いを痛感する。今度の総選挙は自民党の選対委員長古賀誠と民主党副代表・選挙担当の小沢一郎の対決であるが、少し以前の経緯を思い返せば、何となく野中・小沢の因縁の対決ともいえそうだ。

どう出る、選挙後の民主党
さて、選挙後の議席数が最大の関心事だが、鳩山由紀夫がどんな政治手法を見せるのか、暫くは目を離せないようだ。
温厚そうでリベラルが売り物の鳩山由紀夫は、なりふり構わず多数派工作が出来るようなキャラクターとは思えないが、依然として副代表に小沢がいることからして、何が起きるかわからない要素もある。
少し旧い話しだが、鳩山自身も選挙後の政局に関して平成19年11月8日に、「次の衆院選で政権を取ることがかなわなかったら、自民党との大連立の話が復活する可能性は出てくる。」と述べ、次期衆院選に敗北した場合にも民主党が政権に参加する可能性があることを表明した。2年前の話しであるが、更に、11月13日の記者会見では、「次期衆院選で民主党が第一党になった場合、自民党の一部を取り込んだ形で連立政権を組む。」と表明し、総選挙に勝利した場合に自民党と連立することを明らかにしている。この辺りの鳩山の主張は単純でわかりやすいが、鳩山が党首になり麻生と初めての党首討論をしたときに、郵政問題に関して民主が政権を獲得したら西川社長に退陣してもらうとハッキリ言っていたが、こんなことが可能であろうか。わかりやすいが、その発言は二大政党の党首としては軽る過ぎるきらいがある。西川の更迭ができなければどう責任を取るのだ。

民主党の課題
 民主党は官僚制度を抜本的に改編するといっている。確かに彼らがいうように日本の行政執行体制は議院内閣制というより官僚内閣制との比喩が当たっている傾向はある。菅直人がいうように、つい先ほど総理から呼び出されて大臣に指名され、その省庁の所管事項がわかる筈がないのに、いきなり記者会見に臨むのである。そうなると、省庁の官僚がお膳立てした資料と耳打ちされた話しでお茶を濁すのが精一杯であり、就任早々から官僚の大臣支配が始まるのである。詰まるところ、行政の最高責任者である大臣が次々に代わるから、省庁や官僚からすれば『お客さん』でしかないのである。
政治家は国民の審判を経て国会議員になり、総理の組閣権限によって大臣になる。それに対して官僚は、難しい国家試験をクリアーして、入省後に国費で留学までさせてもらい、それぞれのエキスパートに育っていく専門家集団なのである。その官僚を使いこなすだけの「もの」を国会議員、すなわち大臣がもっているといえるのだろうか。ましてや、人集めパンダというべきか、彩りというべきか、新人に近い女性をいきなり大臣に据えるようなことをしていては官僚から「飾り物」「お客さん」以外の遇し方をされるはずがないではないか。
大臣と官僚の関係はこれで終わらない。政策の立案から根回しまで、すべて官僚がしているとまでは言わないが、その大半をこなしている事実は誰も否定できないであろう。そうなればまさしく官僚内閣制といわねばなるまい。問題はこの制度をどう変えるのかということだ。大臣に加え、副大臣、政務官の制度が採用されているのに、更に多くの国会議員を大臣室に送り込み政務を担当させようというのだが、その人材が現在の民主党にあるといえるのだろうか。自民党だって大した変わりはないだろう。しかし、このことは立法府の人材が激減することを意味し、三権分立の趣旨からして立法府がこれで良いのかの問題がある。

官僚の実態と問題点
アメリカの大統領には法案の提出権がない。大統領制は議院内閣制より三権分立が明確であるが、その代りに国会議員に、かなりの数の政務秘書が国費でつけられており法案提出権を行使し議員が立法を担っているのである。
日本は議院内閣制でシステムが違うが、それだけでなく以前からの官僚に凭れかかっているから、そんな代議士が育ってないのも問題である。その代わりに便宜を図らせるために官僚を手なずけ、官僚をコントロールしているつもりの政治家が多く、そんな議員を選挙民が重宝がる風土も問題なのである。こんな状態だから民主党がいう官僚機構の改編はそんなに簡単なことではない。率直に言って日本の官僚は素晴らしい人材が多いが、大臣が彼らの行動を規律あるものにする役目すら果たせていないのが問題なのである。
近年続けざまに発覚した省庁の不祥事は未だに後を絶たない。外務省もひどかったし、防衛庁もひどかった。農水省もそうだし、国交省の談合事件、厚労省の外郭である社会保険庁はもっと杜撰であった。だから官僚が叩かれるのである。

戦後の荒廃から立ち直るべく懸命に頑張っていた頃の官僚は国家目標に対する明確な目的意識をもち、決して高くない賃金で公僕として励んでいた。その代り役人は首を切られない身分保障があったのである。この時代には「官は不正をなさず」などの言葉が当然の如くに使われ、威厳と信頼を独り占めにしていた。官尊民卑が横行していた時代が今では懐かしく思い出されるが、国家目標が一応達成されかけた頃から、省益と退官後の天下り先確保に狂奔するようになり官僚の堕落が始まったのである。官僚の驕りは鼻持ちならないし、不祥事に手を染めるようになり腐敗の代名詞の如き状態となってしまったのは、やはり目的意識の喪失に原因がありそうだ。この責任の一端は行政府の責任者である大臣にあることは明白であり、この改革をメインに取り上げている民主党の主張は正しい。
しかし、なまじ中途半端なことでは改革は難しいだろう。そのためにはまず政権をとることだ、などといった小沢的発想ではなく、小沢的蛮勇を発揮しなければ実現可能性は低いといわねばなるまい。国民は期待しているだけに実現しなければその反動は大きなものになるだろう。
来年には参議院通常選挙が施行されることを忘れないで欲しいものである。

日本としての政治課題とは
自民党、民主党の次元だけでなく現在の日本では根本的な政治理念が欠落している感じがしてならない。目先の経済対策も大事ではあるが、アメリカとの関係はもとより、アメリカと中国との関係強化は日本にとって多大の影響を及ぼすことになるだろう。また、アジア諸国との関係も同様であるが、海賊法案の審議を聞いていても、やはり日本は能天気であり、依然ぬるま湯に浸かりきっている感じが拭えないのはどうしたことだろう。
自民党もだらしないが、民主党の安全保障政策はもっと頼りない。何よりもまとまりがなさ過ぎることが問題だ。
福祉国家建設も重要な政治課題であるが、もっと大事なものは国家の安全であるはずだ。国の基本法である憲法改正がやっと軌道に乗りかけた観があった安倍信三内閣の時代から、そのまま置き去りにされていることなど国家の基本問題についての取り組みも明確に示すべきだろう。

この夏に日本の政治が大きく変わろうとしていることは厳粛な事実である。
しかし、関係者だけが選挙の動向に関心を示している傾向は否定できそうにない。相変わらずマスコミは興味本意の対応を繰返しているが、本当にこれで良いのだろうか。

代議制民主主義と権力構造のあり方について基本に立ち返り考えてみようと思い、改めて勉強を始めたが容易に結論が導かれるほど簡単ではない。
しかし、傍観することは不作為であり、考え続けることと、何か手に合うことをしなければならないと実感している昨今である。           
(文中敬称略)

平成21年7月

松 室  猛

                



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