松室猛のTMニ水会定例講演・資料

 平成21年5 戻る




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この稿は二水会講演会が100回目を迎えたのを機に、来し方を振り返るために綴ったものです。私は黒田了一知事の2期目、即ち昭和50年から平成14年の引退までの間大阪府議会議員として歴代知事と大阪府を語り続けてきました。戦後の新体制発足直後の赤間文三氏と左藤義詮氏の時代は議員ではありませんでしたが当時の社会情勢や選挙情勢などは今日までの流れと関係がありますので合わせて振り返ってみることにしました。

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歴代知事の就任期間と次点候補との得票差 

赤間文三氏の知事選挙(自由党・昭和22年〜34年 3期で引退)

初戦の対抗馬は社会党の香月保で5千7百票差、
2回目は社会党の杉山元次郎と24万票差、
3回目は無所属の小畑忠良と10万票差

左藤義詮氏の知事選挙(自民党・昭和34年〜46年 3期・4期目で落選)

初戦は無所属の小畑忠良と1万5千票差 
2回目無所属の小畑忠良と24万票差 
3回目は無所属の菅原昌人と130万票差

黒田了一氏の知事選挙(社・共推薦 昭和46年〜54年2期・3期目で落選)

初戦は左藤義詮と2万4千票差 
2回目は湯川宏と45万票差 (黒田氏はこの時点で社会党推薦から外れた)

岸 昌氏の知事選挙(無所属・昭和54年〜平成3年 3期で引退)

初戦は黒田了一と12万1千票差 
2回目は亀田得治と92万2千票差 
3回目は各橋徹也と111万票差  

中川和雄氏の知事選挙(平成3年〜7年 1期で引退)

初戦は角橋徹也と110万票差 

横山ノック氏の知事選挙(平成7年〜12年2月 1期と1年弱で辞任)

初戦は平野卓也と47万7千票差 (自・公・民推薦)
2回目は鯵坂真と143万票差

太田房江氏の知事選挙(自・民・公推薦平成12年〜20年 2期で引退)

初戦は鰺坂真と36万票差・共産推薦
(平岡達人氏を自民党府連が擁立し、党本部と分裂選挙となるが3位で敗退)
2回目は江本孟紀と88万7千票差

橋下 徹氏の知事選挙(自民府連推薦・平成20年〜現在1期の1年余り)

初戦は熊谷貞俊と83万3千票差(民主・社民・国民新推薦)

赤間文三知事の時代
赤間文三氏は東大を経て内務省に入省。民選最初の大阪府知事に就任。
知事を3期務めた後に自民党から参議院議員となり、後に法務大臣を務めた。
この時代は米軍の占領下で、吉田首相から社会党の片山哲内閣になるなど社会全体が混乱期であった。22年の6月には日本教職員組合が結成された。
25年には朝鮮戦争が勃発し、警察予備隊が発足、29年には自衛隊になった。26年の対日講和条約、日米安保条約締結に至る時代である。28年頃からテレビ放送が始まり30年は力道山全盛の時代で日本中が沸きかえった。
昭和30年代に入り「もはや戦後ではない」といわれ、朝鮮戦争の特需で著しい経済発展を遂げた。

最初の選挙の対抗馬は社会党公認の香月保氏であるが、彼とは福岡県立修猷館中学の同級生であった。2選目の対抗馬は杉山元次郎氏だったが彼は農民運動家で衆議院議員を経て知事選に出馬、落選後衆議院に返り咲き最後は衆院副議長を務めた。三選目の対抗馬は小畑忠良氏であった。彼は住友本社の経理部長を経て企画院次長や大政翼賛会事務総長を務めた後、官選愛知県知事、東海北陸地方総監を勤めた大物候補であった。
赤間氏は知事を引退した後、参議院議員に当選した。その時点で当時大阪府の職員であった谷川秀善氏を国会議員秘書に任命した。谷川氏は赤間氏の引退まで秘書を勤めた。退任後谷川氏は大阪府に復職し副知事まで勤め、その後参議院議員を務めている。

左藤義詮知事の時代
左藤義詮氏は京大卒業後大谷学園理事長・学長を務め、後に参議院議員となり防衛庁長官に就任。その後赤間文三氏の引退を受け知事選に立候補し当選した。

昭和34年の選挙結果は
左藤義詮氏 1,004,575票
小畑忠良氏   989,151票 (1万5千4百票差)

2回目の選挙の対立候補は小畑忠良氏であり、3回目の選挙は弁護士で共産党推薦の菅原昌人氏であった。初戦は僅差の勝利であったが2回目、3回目は余裕のある戦いであった。4回目の選挙で大番狂わせが起きるのであるが、その時代背景を追ってみると高度経済成長とともに歪が感じられるようになっていたことが挙げられる。
左藤府政発足時の昭和34年4月にはロイヤルウエディングと呼ばれた皇太子と美智子さんの結婚式が挙行された。しかし安保条約反対闘争がピークを迎え、全学連が国会に突入し東大生樺美智子さんが死亡する事件などがあった。
60年安保騒動が一段落し35年には所得倍増計画が発表された。38年11月にケネディ暗殺。39年東京オリンピック開催、40年、ベトナム戦争泥沼化、42年、四日市市でぜんそく公害訴訟、43年、水俣病を公害病に認定、公害が社会問題化した時代であった。

大阪府においても高度経済成長期で、臨海工業地帯を造成するため堺の海岸線を埋め立て大規模工場を誘致したが、この頃から大阪でも公害が問題視されるようになった。水の都大阪は煙の都となり、たなびく煙が繁栄の象徴のように言われた時代でもあった。また、大規模住宅団地の造成にも積極的で、千里の住宅団地は全国的に有名になり各地からの視察が相次いだ。北大阪急行電鉄線を新御堂筋と共に開通させるなど大規模開発の盛んな時代であった。

同じ時期に日本初の万国博覧会を千里丘陵で開催し大成功を収めた。万博閉幕の翌年に知事選挙を迎えたが、前年に日本万国博覧会を成功させていた現職の左藤義詮氏は、「黒田という人は、見たことも聞いたこともない」と発言、再選を確信していた。しかし、選挙戦で黒田了一氏は「大阪にきれいな空を取り戻そう」と公害・環境対策を訴え当選した。
当時を振り返れば、蛇の目のシンボルマークのバッジが日毎に増えていく様は記憶に新しいところである。この頃から選挙に際してシンボルマークやシンボルカラーが使われ出したようだ。
この選挙は大番狂わせと言われたが、選挙期間中でも圧勝を確信していた左藤氏の傲慢振りは顰蹙を買い、黒田氏に敗れるべくして敗れ、初の革新系大阪府知事が誕生したのである。

黒田了一知事の時代
黒田了一氏は三高を経て東北大に学び立候補の直前まで大阪市大法学部の教授であった。その彼が日本社会党と共産党の支持を受け現職の左藤義詮氏に挑む形で立候補した。昭和46年春の黒田了一知事の登場は、当時の地方政治にとってはまさに青天の霹靂であった。

昭和46年の選挙結果は
黒田了一氏 1,558,170票
左藤義詮氏 1,533,263票(2万4千9百票差)

それまでの府議会は自民党が万年知事与党として君臨しており府庁内でもそのことが当たり前の如く感じられていたのが、完全に逆転したことで随所にためらいがあった。
左藤時代は理事者と議会の連携が緊密で、理事者主導の府政運営が続いていたが、一挙に逆転したために従来とは違う議会活動が始まった。しかし革新府政の影響は随所で顕著となり議員の特権的待遇は陰を潜めるようになっていった。
黒田知事は就任後、公約に掲げた公害規制をはじめ、老人医療無料化、「15の春は泣かせない」の名セリフで府立高等学校増設などを推進した。
低所得者層を重視した福祉政策を取り入れたが、これが財政赤字を生み自民党や財界などから批判を招いた。加えて同和行政を巡って社会党との軋轢が激しく、もともと社会党大阪府本部は反共派が多いこともあり、次第に同党は反黒田のスタンスを取るようになった。

大阪府で野党となった自民党はこのままでは大阪が危ないと感じ、コントロールの意味を兼ね自治省から岸昌氏を副知事に招いた。しかし、革新府政を標榜する黒田氏と岸氏が相容れるわけは無く、徐々に軋轢が嵩じて岸氏は2期目に庁内放送を通じて「スケープゴート」発言をして府庁を去った。
このような経過を経て昭和50年の黒田府政2期目の大阪府知事選では、総評と同盟は共産党と袂を分かち反黒田で合意するに至った。この動きはやがて社・公・民3党が連携することになり、桃山学院大学学長の竹内正己氏を独自候補として擁立するに至った。
自民党も左藤知事の副知事だった湯川宏氏を擁立し、共産党単独の推薦となった黒田了一氏と戦ったのであった。支持母体からすれば算術計算では竹内候補の圧勝であったはずが、両者を退け45万票の大差で黒田了一氏が再選された。
史上初の日本共産党単独与党の知事が誕生したことは当時衝撃的なニュースとなり、UPI通信は、「日本共産党が、史上初めて自らのガバナー(知事)を持った」と世界に報じた。

昭和50年の選挙結果は
黒田了一氏 1,494,040票
湯川 宏氏 1,043,702票 (その差は45万票)
竹内正巳氏   947,664票 (100万票に届かなかった。)

その後、舞台裏では反黒田陣営が形成され、自民・新自クが中心となり岸昌氏を反黒田統一候補として担ぎ出しに動いていた。社公民・社会民主連合もこれに乗るが、総評は反自民・反独占に沿わない候補であると待ったを掛け、亀田得治氏ら社会党の一部が離党して黒田了一氏を応援するなど混乱が見られた。当時の自民党は不祥事続きで、昭和49年に金脈問題で田中角栄辞任、51年にはロッキード疑惑で田中角栄が逮捕されるに至った。

岸昌知事の時代
岸昌氏は東大法学部を経て自治省に入り、自治省行政課長、自治大学校長、初代日本政府沖縄事務所長、自治省官房長などを歴任し請われて昭和46年大阪府副知事に就任した。
選挙に際して自民党への風当たりが強かったことなどから自民を除く各党が相乗りで岸選対を組織し、自民党は後乗りで選挙に加わった。この時のセリフが「ブリッジ共闘」であった。実にふざけた選挙態勢であったが、それ程自民党への風当たりが激しかったのである。

昭和54年の選挙結果は
  岸 昌氏  1,792,856票
  黒田了一氏 1、671,812票

12万票の差で岸氏が当選した。彼は典型的な官僚タイプで、「人事の岸」などと自認していた様だが、無難だが風通しの悪い府政運営であった。
この頃から東京への一極集中が加速し、大阪では東京と大阪は日本を代表する二大都市だと称し、「複眼構造」などの言葉を多用し東京都と肩を並べるべく奔走していたが、その格差は拡がるばかりであった。
元来大阪は首都ではなく商都大阪であると自らを慰めていたが、官には頼らない土性骨も段々と影を潜め大阪の経済レベルは低下の一途をたどるに至った。これらに追い打ちをかけるように、昭和39年に工場等制限法(近畿圏の既成都市区域における工場等の制限に関する法律)、47年に工業再配置促進法、48年に工場立地法といった、いわゆる工場三法が次々と制定された。それ以前の昭和41年には中部圏開発整備法が制定され、製造業が近畿圏から中京圏へ流出するきっかけとなり、大阪にとって打撃となった。
中央官僚出身の岸氏は中央政府の意向に抗し難いようで急激に大阪の活力がそがれていった。当時のキャッチフレーズが「大阪の復権」であり「大阪に活力を取り戻そう」であったことが懐かしく思い出される。

2選目は中曽根内閣に時代で、土光敏夫臨調の二期目であった。「増税なき財政再建」「肥大化した財政の減量化」が合言葉であった。
この時の対立候補は社会党のエースであった亀田得二氏であったが92万票の大差で再選された。3選目は府職労の各橋徹也氏が対立候補だったが111万票の大差で三選された。
天皇陛下の崩御を受け「昭和」の時代は64年で終わりを告げ、新しい元号は「平成」と決定された。大阪の復権への夢を掛けて、公害の無い24時間空港の建設機運が高まり海上空港構想が進められた。

中川和雄知事の時代
中川和雄氏は東大法学部を卒業後、旧厚生省に入省。昭和32年に大阪府へ出向し、生活環境部長、出納長、副知事等を歴任した。岸氏の引退を受け副知事から知事選に挑むことになったが、岸氏からの引継ぎは決してスムーズではなかった。
何故か中川氏に対する不協和音が大きく、なかなか中川氏に一本化されなかった。
当時自民党大阪府連会長は塩川正十郎氏であったが、彼はアンチ中川の急先鋒であった。その頃塩川正十郎氏は胃癌を患い胃の摘出手術を受けた直後であった。そんな関係もあり当時府連の幹事長代理を務めていたので塩川会長の名代で度々この種の会合に出たが、各党ともに強力な支援という雰囲気はなかった。自民党が支持を明確にしない限り各党もハッキリしないのは当然で、重苦しい雰囲気の会合が続いた。塩川氏がこの間の事情を大阪市会議員団に説明するため市議会を訪問した際に大量の吐血をし急遽再入院することになり、この時点で自民党府連幹事長であった中山正暉氏が会長代行となり、急転直下中川和雄氏で知事候補が一本化されたのである。
象徴的な出来事として記憶に残っていることは、中川和雄氏の事務所開きの際に街宣車の上で岸知事と中川候補が並んでいたが、岸氏が挨拶をした際に一言も中川の名前を出さなかったのは両者の不仲を象徴する異様な出来事であった。
しかし、選挙結果は共産党単独推薦の角橋徹也氏に110万票の大差で当選した。
平成3年の選挙の結果は
  中川和雄氏  2,064,708票
  角橋徹也氏  1,112,660票

在任期間中に関西国際空港の開港などを実施した。在職中の平成7年1月に阪神・淡路大震災が発生した。
世の中はいざなぎ景気といわれた時代で、いわゆるバブル景気に浮かれていた。バブルの引き金になったのは昭和60年のプラザ合意とされているが、当時ドル高による貿易赤字に悩むアメリカはG5諸国と協調介入する旨の共同声明を発表した。これにより急激な円高が進行し、1ドル240円前後だった為替相場が1年後に120円台まで急伸した。円高による打撃を受ける輸出業界を救済するために金融緩和策がとられ、過剰な流動性が発生した。
これが歴史に名を残した「バブル経済」と呼ばれた時代である。
過剰な資金が不動産投資や株式投資に向かい信用創造が膨らんだ。中曽根内閣は貿易摩擦解消の為、国内需要の拡大を国際公約し,これまでの緊縮財政から一転、公共事業の拡大政策をとったのも懐かしい出来事であった。
大阪府でも税制をまったく触らずとも毎年税収増が続き極めて裕福であった。車を購入するに際しても高級車ほど売れ行きがよく、納車まで1年待ちが当たり前であった。銀行がカネを貸し不動産取得を奨励する時代で、家庭の主婦までが株式投資に走った時代であり、世界中を日本の円が席捲した時代であった。
中川知事は有り余るカネを一度に支出することを避け、国際交流センター、文化振興財団などを立ち上げたのは評価できる功績であるが、カネまみれの時代に利権を漁る議員を側に近づける傾向が目立ち、遂に自分自身も後援会の経理をめぐり多額の不正が発覚し再選出馬を見送らざるを得なくなったのである。

平成6年に後援会の事務局長が政治資金収支報告書に虚偽の記載をしたとして大阪府警に政治資金規制法違反で逮捕された。翌年の知事選挙に出馬を断念せざるを得なくなり引退を表明。大阪府知事では唯一1期のみ務めた知事となった。

横山ノック知事の時代
選挙直前になって候補者が無くなり、後任者の選定に入ったが、いわゆる「玉の潰し合い」となって何人かの候補が浮かんでは消えていった。この原因の最たるものは、各党が相乗りしやすい候補者でなければならぬことであるが、自民が良くても公明が同意しない、社会党が同意する候補は他党がダメだと言った繰り返しで選挙の告示直前まで候補者が絞り込めなかった。
この経過の中には文字にすることが憚られる出来事があったが、現役政治家が複雑に絡んでおり、名誉にかかわることもあるので記述は省略する。
最終的には旧科学技術庁の事務次官を務めた平野卓也氏が大阪出身だということで候補者となったが、ポスターの印刷が間に合うかどうかといったギリギリの決定であった。

その時に名乗りを上げたのが横山ノック氏であった。
横山ノック氏は昭和7年神戸市生まれで楠高等小学校を経て米軍キャンプで働き、後にお笑いタレントとして活躍した。全国区参議院議員に2回、大阪地方区からも2回当選した。平成7年に参議院議員を辞職し政党に頼らない無党派であることを旗印にし、大阪府知事に立候補し当選したのである。

平成7年の選挙の結果は
  横山ノック氏  1,625,256票
  平野卓也氏   1.147,416票
  小林勤武氏     570,869票

ノック氏当選直後の議会はオール野党状態ではあったが、芸人としての知名度と愛着の持たれるキャラクターから府民の人気は高く、議会などでは真面目に答弁する姿勢やAPEC首脳会議の成功などが評価され、平成11年の2期目の選挙では235万票という大阪新記録の得票によって再選された。
選挙の前段では、彼の知名度が抜群なために、政党人からは誰も候補者として名乗りを上げようとしなかったが、共産党だけは鰺坂氏を擁立した。
しかし、選挙そのものは、10万票に届かない候補7名を含め合計9名の候補者が出馬し、なんとなく白けた選挙ムードが漂っていた。
その選挙の最中にハレンチ事件を起こし、就任後10ヶ月で辞任に追い込まれた。大阪府庁始まって以来の不祥事であった。

当初は、彼が知事であることは否定しないが、どうしても彼を受入れることが出来なかった。彼は「自分は参議院議員としての長年の経験がある」との自負があったようで地方議員を呑んでかかっていたようであった。議員と談合はしないだとか、密室の協議はしないなどと当時はやりのセリフを多用していた。こんな状況下で知事の顔を見るのは議場や委員会室などの公務の場所だけで、廊下で会ってもお互い目をあわすことは無かった。このように極めて水臭い関係からいろんな確執があったが、ある日早朝に彼の訪問を受けた。知事公室長だとインターホンで告げられたので、家の者が出るとSPと共に知事が玄関先に立っていた。いまさら帰れともいえず来宅を受け入れ、話をすることになったが、その時初めて彼に「話し合い」と「談合」とは違うことなどを懇々と言って聞かせ、もっとフランクに議員と接触すべきだと告げた。
それからというものは、文字通り箸が転んだ様なことまで相談が持ちかけられ、行政のしきたりが判らない彼を、府の幹部職員が意のままに動かそうとする傾向があったので、そうはさせてはならないということで議会が一斉に監視・監督するようになり、その事が結果として議会の活性化に繋がったことは懐かしい思い出である。
全国で自治体が関与している三セク破綻が相次いだが、その中でも破綻処理のリーディングケースと言われた泉佐野コスモポリスの破たん処理を初め、バブルに浮かれて破綻の危機に瀕していた信用組合の再建のための議論などで夜を徹したこともいく度もあった。
ある意味では議員生活の中でもっとも充実していた期間であったかも知れない。ノック知事の功罪を問われ即座に答えられることは、結果として議会を活性化させたことと、利権漁りの議員をつくらなかったことが挙げられる。しかし、このことは彼に政治的影響力がなかったからそうなったまでの話だったようだ。

太田房江知事の時代
ノック知事の辞任を受けて次の候補者を擁立する必要があったが、平成11年12月29日の朝日新聞朝刊の1面に、いきなり太田房江氏の擁立が決まったと報道された。その詳細は、在阪新聞各社がその日の朝刊を相互に交換する時間に(真夜中の2時半頃に毎日行なわれている)某社の府庁詰めのキャップから電話が入り太田房江氏のことを知っているかと問い合わせがあった。
眠り込んでいた時間に電話で起こされたからわからなかったのではなく、まったく知らないので、何のことかと逆に尋ねると大阪の知事候補だというから驚いた。
まさに青天の霹靂で、太田房江氏が何者かも判らなければ事前に何の相談も無かったので、それこそ蜂の巣を突っついたような騒ぎになった。当時の府連会長は中馬弘毅氏だったが府議団には何の連絡もなかった。彼がこの経過を知らないはずはないのに彼の説明は釈然とせず、党本部の決定であろうとも絶対に承服できないとの思いであった。そこで中馬府連会長を呼び出し急遽議員団会議を招集し議論をしたが、理不尽な決め方は承服できない、府連会長として責任を取る意味も含めて中馬氏自身が立候補すべきだということになった。彼はこの時、紅潮した顔で「大変名誉に思う」とコメントし一件落着かと思われたが、彼自身の変節もあり後述する理由で実現しなかった。
時は12月の下旬を迎えていた。しかし、どうしても党本部の思惑が納得できない府議団は、選挙の日程が切迫していることから1月1日に府連と府議団の幹事長が上京し急遽党本部に対し選挙の責任者である幹事長と総務局長の来阪を要請した。思い返せば、時期としては大変非常識な1月の3日の府連会合への出席要請であったが、それ程、選挙日程との関係で切迫していたのであった。当時の幹事長は森喜朗氏であったが、党本部からは幹事長代理の野中広務氏と総務局長の鈴木宗男氏が来阪し、1月3日の夜に大阪駅前のヒルトンホテルで自民党府連の緊急拡大役員会を開催した。
正月の3が日であるにも関わらず各地支部長と各級議員の総数およそ200人が参集し文字通り歯に衣を着せぬ話し合いをしたが、野中氏は党本部が決定したことだと譲らず、先約があるとの事で席を立ち、残った鈴木総務局長が応対をしたが結論に至らず話し合いは決裂した。
その翌日府連で緊急選対会議が開催され、その席で中馬氏は知事選に出るために党本部の推薦を得たいので上京すると言い出したが、党本部が推薦する訳はなく無駄なことだと主張したが、それでも行くというので上京することを了解した。

翌日携帯に電話が入り「今、首相官邸を出たとこだが、総理が立候補すべきでないといっているからと出馬しない」といってきた。電話を通してであるが、活字にすることを憚る言葉で罵倒したことを鮮明に覚えている。

候補者選びが白紙に戻った時点で、文句ばかり言っている訳にもいかず、次なる候補者選びに入ったが、清風学園の平岡達人氏がその意欲が在ると仄聞し急遽清風学園に行き交渉を開始した。忘れもしない1月9日の宵戎の夜であった。
彼は教育者であり政治家ではなかったので無理もないのだが、自民党が推薦してくれるのなら出馬しても良いとの意向であった。ところが党内手続きとしてはすでに亀裂が入っている事態だったので本人から推薦要請がなければ対応できないと申し入れ、強引に推薦申請書を書いてもらったのであった。
その日の深夜に府連の代議士会がロイヤルホテルで開かれていたので、そこへ平岡達人氏からの推薦要請書を持ち込み議論をした。その前段で中馬会長は皆から顰蹙をかっており彼の辞任を要求したところ、府連会長代行に柳本卓治氏が指名された。指名したのは当時浪人中だった塩川正十郎氏であるが、谷川参議院議員が府連の選対事務総長であったことから谷川氏をはずすのはおかしいと異議を申し入れたところ、塩川氏は両者が協力してやれば良いのではと折衷案が出され了承した。
そこで平岡氏の推薦を協議するように迫ったが出席の代議士は意向を明確にしなかったので強引に大阪府連として緊急選対会議を召集し決すべきだと主張した。ところがその事に対して在籍の代議士は明言を避け結論に至らなかったが、その中で塩川氏が言った言葉が忘れられない。彼は、「我々は太田を推すが、君らは平岡でやればいいじゃないか。あまり硬く考えずにファジーに行こうよ」というセリフであった。その時とっさに出た言葉は、「冷蔵庫の宣伝じゃあるまいし、ファジーに行こうとはどうゆうことなんだ」と噛み付いたことがあった。私は塩川会長時代に府連改革の作業を担当していたが、当時の塩川会長とお互いに確認し合っていたことは、「透明性のある府連運営」と「府連の行為はすべてを会議の議を経て決する」約束があることを指摘し、絶対に選対会議をするべきであると主張した。この意見には代議士連中も抗し難く、しぶしぶ選対会議を招集することに漕ぎつけた。その時の条件は、もし選対会議の採決の結果平岡氏の推薦がダメだとなればそれに従うと約束し選対会議の開催が決まった。
1月10日に緊急選対会議が召集された。当日の早朝から代議士は選対会議のメンバーの多数派工作を進めていたが、地方議員側も負けずに対応し、選対会議での採決の結果、自民党大阪府連は平岡達人氏を推薦することに決した。
党本部と大阪府連とが分裂選挙をすることになった歴史的な日であった。
この選挙が歴史に残る理由は単に分裂選挙であっただけでなく、府会議員が100万円づつ持ち寄り選挙資金にしようと呼びかけたところ、1人のみが反対したが、その他の府会議員はすべて資金の拠出を了解し磐石の纏まりをしていたことであった。地方議員を軽く見ていた党本部や代議士連中を見返し、筋を通すための戦いであった。
しかし太田氏は自民党本部、公明党大阪府本部、民主党の推薦候補となり平岡側は自民党大阪府連単独推薦となり、急ごしらえの苦しい体制ながら必死になって戦いを進めた。

平成12年2月の選挙結果は
太田房江氏 1、380、589票
鰺坂  真氏 1、020、483票
平岡達人氏   574、821票

太田房江氏は昭和26年生まれで東大経済学部を経て通産省に入り、直近は岡山県の副知事であった。本名は斎藤房江であるが旧姓の太田房江を通称名としていた。
太田知事は日本で初の女性知事誕生と騒がれたが、さしたる実績もなく財政急迫が加速していた時代であった。銀行税の創設を呼びかけたが応じなかったので、東京に次いで議員提案で銀行税の導入を決めた。そして高校における保護者負担の公私間格差を埋めきれず、遂に府立高校の授業料の値上げを提案させ可決した。「痛みを分かち合う政策」と称されたが、苦しい時代であったのは事実である。

2度目の選挙の時に彼女は当初政党推薦を受けずに無党派で行くと宣言していたが、タレントの江本孟紀氏が出馬すると表明した途端に、なりふり構わず政党推薦を要請し自民・公明・民主・社民の推薦を得て選挙に臨んだ。

平成16年2月の選挙結果は
  太田房江氏  1,558,625票
  江本孟紀氏    670,717票
  梅田章二氏    505、167票

彼女の言動で記憶に残っていることは、大相撲の春場所で優勝力士に贈る大阪府知事賞の贈呈を巡り、女人禁制の土俵に知事自らが上がりたいという意向を示したが、日本相撲協会に拒まれた。また、今話題のふるさと納税に対しては石原慎太郎東京都知事とともに反対の意思を表明した。
平成19年11月の大阪市長選挙では、各党がそれぞれ支援する候補者を擁立していたので、自分自身が各党からの推薦を受けていた太田氏は中立の姿勢をとっていた。しかし、民主党推薦の平松邦夫氏が当選すると、平松氏の事務所に飛んで行き、横に並んで一緒に万歳をしていた姿がテレビで大きく報じられた。市長就任後に市長室を表敬訪問することは儀礼的にも当然であり両党とも異存はないが、対立候補である關淳一氏を擁立していた自民党・公明党は、知事の良いとこどりのパフォーマンスを強く批判した。
敢えて彼女の実績を挙げるとすればシャープ新工場などの企業誘致、関西国際空港の二期工事完了・第二滑走路供用開始などが挙げられるが、金銭感覚の麻痺とも言われた関係企業の集まりで挨拶する程度で多額の報酬を得ていたり、選挙のみを意識する打算的な動きが嫌われ、追われる如く退任した。

橋下知事の時代
昭和44年生まれの38歳。北野高校を経て一浪の後、早稲田大学経済学部を卒業。卒業の年に司法試験に合格。北野時代は進級が危ぶまれる成績であったらしいが、部活には熱心でラグビー部に所属し花園にも出場し高校の日本代表メンバーにも選ばれ東西対抗にも出場した。両親が離婚し母親に育てられたが、北野高校の同級生の妻との間に3男4女の子どもがいる。
弁護士として活躍する傍らテレビタレントとしても売れっ子であった。
テレビで活躍していた橋下氏を知事にとの声が何処からとなく上がった。それに対して彼は2万%ないと言い切っていたが、いつの間にやら自民党本部と接触をしていたようで、その後、何処でどうなったのかは詳しく判らないが、堺屋太一氏の筋から、彼が知事選に立候補する意向があり自民党府議団幹事長の朝倉秀実氏に会いたいと連絡が入った。手堅く、慎重な対応をされる朝倉氏は複数の府議会議員と同席の上で彼と幾たびか会い話が進展し、府連相談役に対して意見を求められた時に初めて彼の出馬の経緯と意向を知ったのであった。
彼と会った時は、茶髪ではなく、きちんとスーツを着た爽やかな感じのする好青年であった。選挙にいたる前段で堺屋太一氏とも相談していたようでマニフェストの作成にも関与されていたとの情報もあり、詳しくは判らないが信頼がおける感触があった。

選挙時は選管の委員長であったために選挙運動の実態についてはまったく知らないが、対立候補である民主推薦の阪大大学院教授の熊谷貞俊氏を大きく引き離し圧勝であった。

平成20年2月の選挙結果は

  橋下 徹  1、833,857票 自民府連推薦
  熊谷貞俊    999、082票 民主・社民・国民新推薦
  梅田章二    518,563票 共産推薦

就任以来1年が経過したが、爽やかな語り口と持ち前のハッキリとものをいう姿勢に共感する府民は多く、今尚圧倒的な支持率を保っている。
しかし、WTCへの庁舎移転に関して驕り昂ぶりが随所に感じられ危惧されたが、最後に府議会が彼の独走にブレーキを掛けたのは評価される出来事だった。

彼の人気の源泉は、なまじ中途半端な行政経験がないだけに大胆な改革構想を打ち出す姿勢が評価されている点だ。この1年間は走りづめに走り続けていただけに息切れしないかと心配されたが、これからの府政運営は並大抵ではなくWTC問題の頓挫を契機に、一呼吸おく姿勢も必要ではないだろうか。
綺羅星の如き顧問やアドバイザリースタッフも、彼が問いかけてこそ機能するものであり、問われないことにまで口を挟まないだろうから、彼の方からもっと接触をし活用することが必要であろう。
得がたいキャラクターの持ち主だから大きく育って欲しいと願っているが、さて、これからの彼はどんな道を歩もうとするのだろうか。

これからの大阪はどうなるのだろう
駆け足で大阪府政を歴代知事を中心に振り返ってみたが、現在の大阪は危機的な財政状況にあり知事を中心に如何に頑張っても、府の努力、すなわち自力だけでは改善されない制度上の問題点が数多くある。
橋下知事になって、国との関係を洗い直そうとする動きが新たに出てきたことはかつて無い出来事であり評価できる。しかし、このような事情を知れば知るほど、東京(中央)を変えねば地方が変わらないとの思いが強くなり、地方から東京を変えることに専念するのが良いのか、直接東京に乗り込む方が早いのかの選択をすることになりはしないだろうか。
私自身の28年間の地方議員の経験からしても、幾度か地方からの声が東京に届かないもどかしさに呻吟した経験があり、彼は若いだけに無限の可能性を信じているようなので、近き将来の彼の進む道が見えるような気がしてならない。

いずれにしろ誰がその任に着いても難しい時代ではあるが、中川和雄知事の時代に過剰流動性といわれた景気の高揚期も経験したし、景気は循環することから何時までもこんなに厳しい時代は続かないだろうと思いたい気持もある。
しかし、果報を寝て待つ姿勢は執行権者には許されないだろう。
だからと言って、ポピュリズムといわれる迎合主義的な姿勢や劇場型の政治姿勢だけでは選挙には勝てても難局に立ち向かい改革することにはならないから政治は難しいのである。

1人の若者の才能にすべてを委ねて、高みの見物をすることは許されない。
これからも弛まぬ監視と、届くか、届かないかに関わらず、出来得る限りの提言を続けねばならないだろう。

平成21年5月
松 室  猛


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