松室猛のTMニ水会定例講演・資料

 平成19年7 戻る






今夏の参議院議員選挙は安倍政権の今後を占う上で大変興味のある選挙である。憲法改正のための国民投票法が成立し、本来なら憲法改正もその争点であった筈なのに、現状では年金問題が大きく浮上しそれどころではなくなった観がある。社会保険庁のでたらめさは筆舌に尽くし難いもので、その役所の長官が退職金を得て天下りをしていることを国民は許さないだろう。政権基盤にも多大の影響を及ぼすに至っているのは当然である。

こんな時期の参議院選挙に選挙民はどう反応するだろうか

顧みると、これら一連の出来事は効率よく利用されなかった保養施設「グリーンピア」への過度の投資、その挙句の果ての破綻、年金の収納率を上げるために納付免除者のでっち上げなど、この省庁の役人の仕事がいかにでたらめであったかを改めて国民の前に露呈した歴史に残る不祥事であった。その管理責任を全うできなかった政府の責任も否定することは出来ないだろう。
しかし、これほどの問題でも日本人はあきれ返ってはいたが、さほど怒りをあらわにしないようだったが、年金のデーターが5000万件も不明となれば話は別で、高齢化が進む中で年金生活者に与える影響が深刻であるに留まらず、それを支えている将来の受給者にとっても大きな影響を与えるだけに選挙に響かない筈はなく、政権与党が野党よりも不利であることに違いはないだろう。
それでも選挙予測として、自民党は「勝てないだろうが、大負けもしないだろう」といわれているようだが、判ったような判らない話だが「言い得て妙」とはこのことで、野党が圧勝するとも考えられない。詰まるところ官僚不信や政治家不信がここまでくれば選挙に行かない人が増え、最低投票率を更新するのではないだろうか。ネガティブな考え方であるが、投票率が下がるとどちらの陣営を利するのか、今度の選挙は予測し難いようだ。

でたらめ過ぎる事件が多発する状況の中で選挙結果に思いを巡らせるより、こんな時期にこそ、何故こうなってしまったのか、これからどうすべきかを心静かに考えてみる必要がありそうだ。

桜井よしこ氏が憲法改正に関して雑誌正論に次のような一文を書かれている。
『今、どれくらいの日本人がこの国の一員であることに誇りを持ち、愛する者やふるさとや祖国の未来を信じ、次の世代に希望を託すことができているだろうか。戦後の日本が、この国に生まれ、暮らし、この国で生を全うした人々の国でありながら、余りにも長い間、国家として迷走し、日本国民の願いとは別に他国の要求や「操作」に屈して本来の日本とは異なる姿を形成してきたからではないかと私は思う。そのような方向へと日本を引きずったのは紛れもなく占領当時のGHQである』
この文章だけを読めば短絡と思われるかも知れないが、彼女の主張は現行憲法には日本国として伝統も誇りも欠落しており、そのように意識的に仕向けたのはGHQで、その結果、行政府は存在しても国家そのものの存在を否定しているのは占領軍がつくった憲法と占領政策の遺物だからというものである。

このままではいけない日本の現状

しかし、憲法を変えたからといって総ての社会事象が一度に変わることなどあり得ないだろうが、最近のあらゆる分野で起きる出来事には、かつては無かった事件があり過ぎると感じている人は多いし、もはや放置できないところまで来ていることは事実である。

親が子を、子が親を平然と殺害するといった、生きとし生けるものの本能にももとる行為がいかに多いか、それも残虐極まりない方法で発生すると居たたまれない感情に襲われるのはごく普通の感覚であろう。
検事長を経て公安調査庁局長を務めた者が、こともあろうに朝鮮総連を相手に詐欺罪を犯し逮捕されるに至っては誰を信じれば良いのか。検事長は「認証官」であることを忘れるとは不届き極まりない。
ジェンダーフリーやニートなどのカタカナ言葉に象徴される風潮も我慢がならないが、ファンドの席捲によってあぶく銭を得る新世代がもてはやされたり、グローバルスタンダードなる言葉に踊らされ、外資がどんどん日本の企業を食い荒らしている状況を放置できないと思う感覚を、時代錯誤と呼び、国粋主義とあざけることができるだろうか。

何故これほど日本が滅茶苦茶になってしまったのかを考えてみると、日本人でありながら、国は勿論のこと、家庭も含め地域社会や自分が勤める企業に対してすら帰属意識が希薄になっている傾向に気が付く。確かに日本独特の終身雇用制度や、「系列」と称されるビジネスモデルも段々と少なくなってきたし、競争原理が幅を利かし、その結果格差が広がり、西洋風個人主義が蔓延し、地域どころか家族間の意志疎通を図るよりも愛玩動物(ペット)に入れ込む風潮が蔓延していることは、おぞましい感じがするくらいである。
偏向の問題をさておくとして、マスコミの報道も随分と変わってきた。
他愛のないことだが、大リーグでの日本人選手の動向がNHKのニュースに逐一取り上げられることにも違和感を感じる。この時期に日本を代表するような打者が、ようやく8〜9本のホームランしか打てないし、3割に届かない打率なのにニュースになるとは、能天気な日本を象徴しているような気がしてならない。海外における他の分野でもっと活躍している日本人がいるのに、こんな事しか日本人を明るくするネタが無いというのだろうか。
やっぱり最近の日本は、どこかおかしいのではないか。

この原因の一つに国家に対する考え方があるのでは・・・

短絡的であるとの謗りを恐れずに言えば、独立国としての日本のあり方に、余りにも主体性が無さ過ぎ、誇りどころか日本人であることを時には恥ずかしいとさえ感じるのは、物心両面における諸外国からの蹂躙に対し、国が何もしないからだといえば言い過ぎだろうか。
北方領土、魚釣島、尖閣列島などの領土問題、経済水域をめぐる侵犯問題、南京虐殺、従軍慰安婦問題、靖国参拝に対する外国からの謂れなき干渉、歴史の捏造、主権侵害の最たる拉致問題、それに迎合するが如き一部の政治家やマスコミの現状などなど、我慢ができない状態は何によってもたらされたものだろうか。

近隣から馬鹿にされ、蔑まれ、謝ってばかりいる父親が自分の子どもに対しては、誇りを持て、家族を愛する気持ちを持てと説いても子どもに馬鹿にされるだけで説得力などあるはずがない。こんな環境で育った人間が自己中心的で刹那主義的になるのはある意味では当然の帰結である。
こんな状態で、いかに教育の場で愛国心を説いたところで効果が無いのは当たり前である。もっとも日の丸を侵略の旗印だと教えたりする教師に愛国心が教えられる筈はないが、「家族愛とは家族への」、「愛国心とは国家への」帰属意識そのものなのである。
これらのすべてが、国の基本法である憲法に起因するといえば文字通り短絡だろうが、日本という国そのものに対する基本的な感覚の欠如、即ち国家に対する帰属意識が希薄であることは由々しい問題である。こんな風潮が家庭を、そして地域社会を混乱させている一因であることは間違いない。

安倍総理が言う「戦後レジームからの脱却」とは何か

安倍総理は「戦後レジームからの脱却」を掲げ教育基本法の改正と憲法改正問題を真正面から取り組むことを宣言し、第一段階の教育基本法の改正を成し遂げたが、本番は憲法改正であろう。憲法改正は昭和30年代から議論されながら「侵略戦争の責任」を諸外国より重く受け止める風潮があり、タブー視する傾向が強かったが、国の基本法としての憲法が現状に合わなくなってきたので、憲法そのものを戦後レジームの産物と捉え、そこから脱することが当面の課題であるとするのが現政権の見解である。
そこで、憲法改正問題の論点は数多いが、憲法の成立過程と国の防衛に関する論点を政治的側面から分析することにした。

憲法制定の歴史に関する諸見解

憲法制定の歴史をひもとけば、成文憲法として世界で一番早く出来たのはアメリカの憲法で1776年の独立宣言に端を発する。次いで1789年のフランスの人権宣言であるが、両者に共通するものは為政者の圧制、搾取などの悪政に抵抗し国家を滅ぼした点である。即ち公権力を敵対視し、個人の権利と自由を守るために憲法が制定されたのである。従って人権を謳いあげ国家権力を制限することが主題であったが、自由と人権を守るためには国家権力が不可欠であり、この二律背反を調和させるために腐心したのが諸外国の憲法であった。

日本国憲法は第二次大戦の敗戦によって「占領軍から押し付けられたもので、英文和訳であるため日本語としてもおかしい」という意見があり、独自憲法の制定を主張するグループがある。

現行憲法の策定過程に関する諸説を要約すれば、日本側が憲法素案を示したがGHQが受け入れず、逆に2週間ほどの間につくられたGHQ案を逐条に検討しながら和訳したものだということになりそうだ。
憲法制定以前の連合国との交渉の経過には「ポツダム宣言」の受託をめぐるやり取りがあった。
1945年7月26日にベルリン郊外のポツダムにおいて開かれた、米・英・中華民国の三国の連合国側は日本に対して無条件降伏を要求する文章をまとめたが、最初の段階で日本側はこれを黙殺した。そこで連合国側は8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆を投下し、壊滅的な惨害を目の当たりにした日本は8月14日の御前会議で「ポツダム宣言受託」を決し、その旨を連合国側に通告したのである。
日本国内では受託通告の翌日の8月15日が玉音放送の日で、この日が終戦の日と思っているが、これは日本国内だけのことで、連合国側に通告され、双方の最前線に届くのは何日か後であり、正式な終戦の日はミズリー号の艦上で降伏文書に署名した9月2日である。

問題は、なぜ当初にポツダム宣言を無視したのかであるが、天皇を中心とする日本の国体を戦争終結後も護持しようとしたことに起因するのである。
当時の官僚と政治家は、何としても天皇を守らねばならないとの強烈な使命感があり、万世一系の天皇家が、実際上の権力がなくとも、戦国時代はもとよりどんな時代にも冒しがたい権威の象徴だった日本という国の特殊性を連合国に理解させるために大変な努力をしたのは厳然たる事実である。

ポツダム宣言の内容が憲法に盛り込まれたのは当然であるが、戦争の終結を既定の事実と捉えていた連合国側は戦後の日本をどう位置付け、どんな国体にすべきかを検討していた事実がある。当時としては、形は違うが天皇制をどうにか容認させた憲法草案を受け入れ、一日も早くGHQの管理体制から抜け出すために問題のある憲法であることを承知しながら受け入れたとの見方は間違いではないようだ。

帝国議会で新憲法制定に関する議論が行われたときに、どんな議論があったのかは興味があるが、結論から言って反対をしたのは戦後初の東大総長で貴族院議員でもあった南原繁氏と共産党の野坂参三氏だけだそうである。
南原繁氏は憲法制定に関し、個々の条文に対して反対したのではなく、憲法改正の手続きとして国民投票をして国論を統一すべきであるとして反対し、共産党の野坂参三氏は「人民共和国憲法草案」を提案していたので反対であったが、その草案には軍備不保持の条項はなく、彼の演説には自衛権を有しない憲法はおかしいというのもあった。
日本共産党が当初新憲法制定に反対をしたことを記憶している人は少なくなったが紛れもない事実であり、戦後しばらくは云々されたが、コペルニクス的転回をした共産党はその後、護憲勢力として活動するのである。

その後の講和条約の締結に際しても、全面講和か単独講和かをめぐり国論を二分する動きがあったが、全面講和を目指し時間を浪費するよりも独立を勝ち取るために単独講和を選択したのは一日も早い占領体制からの脱出であった。


現行憲法の特質

日本国憲法には前文の前に「上諭」と呼ばれる天皇の言葉があるが、それによると現行憲法は明治憲法を改正したものになっており、国体の形状や天皇主権から国民主権になっているなど根本的に異なる憲法でありながら、新憲法ではなく改正憲法となっている。しかし、明治憲法を前提としその改正とするなら、明治憲法75条には摂政がおかれている間は憲法改正ができないと規定されており、当時は占領下でGHQがすべての権限を掌握しており天皇には統治権はなく、すべての権限を奪われていたのだから75条に違反することになり憲法改正そのものが無効であるとする意見がある。(南出喜久治氏)
しかし、現行憲法が無効であるとすれば戦後60年の歴史がおかしくなるので、(南出説は、そうではないとする意見だが、)ここでは憲法が現状になじまない点が多すぎることを理由に改正の是非を考えることにしたい。

戦後レジームがもたらした功罪論議

安倍晋三総理は本年四月の「新憲法制定推進の集い」で「現行憲法を起草したのは憲法に素人のGHQの人たちだった。基本法である以上成立過程にこだわらざるを得ない」と発言している。
特に議論の対象となっているのは憲法の前文と、第2章、戦争の放棄・第9条であるが、第7章、財政・89条の公金の支出に関する条文の中にも私学助成に関する矛盾などがあり、数多くの問題を包含しているのが現行憲法である。

憲法第9条をめぐる学校現場における混乱は激しかったが、教諭の対応は苦渋に満ちたものであっただろう。通常の国語力では、どう読んでも戦力が持てない筈の憲法でありながら、これを憲法違反であると教えれば国が憲法違反を犯していることになるからである。このような是々非々を明確に示せない混乱の中で教えることも大変だが、学んだ戦後世代も不幸な世代であり、価値観の混乱の一原因となっているのではないだろうか。
その後、この傾向はますますエスカレートするのである。
1950年6月25日の朝鮮戦争勃発によってアメリカのご都合主義的な対応が始まり、警察予備隊の設立が命じられ8月10日に発足した。それが52年に保安隊と改められ、54年(昭和29年)に自衛隊の発足につながるのである。その都度憲法解釈を歪めつつ、騙し騙し今日に至ったのは不自然極まりない対応であった。これを解釈改憲論と呼ぶなどは、ご都合主義の典型である。
講和条約締結後は「独立国日本」であるはずが、アメリカは好き勝手に日本を操っていた事実がここにも見られるのである。

顧みると55年体制と称される昭和30年の保守合同の結果、自由民主党が誕生し、その少し前に左右両派社会党は合併して日本社会党を結成しており、わが国で始めて二大政党制が誕生した。
しかし、自民党を除く当時の社会党と共産党は現行憲法の前文と9条を根拠に非武装中立論を主張し、自衛隊を憲法違反と断定していた。
当時の日本労働組合総評議会(総評)は、資本主義体制の打破と階級闘争を行動目標に掲げており、傘下のすべての団体はこの見解を容認し、その中で大きなウエイトを占める日教組は当然この路線を踏襲し、社会党と共産党を支援していた。遵法闘争などの言葉を用いながら公務員の枠を超える労働争議が頻発していた。当時を顧みれば、政治、教育の場の混乱の責任は誰が悪いのでもなく憲法解釈に基づく意見の対立であったと見るべきだろう。

「自衛権」は国際法上認められているとする法理は誰しもが是認するところであるが、それでも自衛隊は違憲であるとする勢力は小さなものではなかった。

社会党の自衛隊違憲論は、平成6年6月に晴天のへきれきのごとく誕生した自・社・魁政権の誕生まで続いたが、総理に就任した村山富市氏の社会党は、この時点で大転換をし自衛隊を容認するに至った。
その後、社会党は衰退の道をたどり遂に消滅するにいたったのである。
自民党は綱領のなかで自主憲法の制定を謳っているが、占領政治からの脱却と自主憲法制定は自民党結党時からのテーゼであり、現在も引き継がれている。
憲法が公布されてから60年の歳月が流れ、タブー視されてきた憲法論議がようやく日の目を見るに至ったのである。憲法の制定過程を別にしても筋の通った憲法にしなければとの声が大きくなってきたのは当然である。本年5月に憲法改正のための手続きとして憲法96条を受けて国民投票法を制定し、これから3年間、憲法審査会での検討期間を置いて憲法改正の具体的な作業に入るが、これが安倍総理がいう「戦後レジームからの脱却」の第一段階である。

戦後レジーム評価論

その反面、憲法前文および第9条の戦争放棄の条項は世界に向けて平和主義を表明した崇高なるもであると主張するグループがあり、戦後レジームにこそ意味があるとする見解がある。
「9条の会」の人たちがその代表格だが、メンバーは9人で井上ひさし・梅原猛・大江健三郎・奥平康弘・小田実氏・加藤周一・澤地久枝・鶴見俊輔・三木睦子の各氏である。各地で9条の会が講演会を開いているが、その講演録を読むと戦争反対の例の話ばかりで、それ程の説得力はない。
この動きとは別に、戦後レジームこそ日本に繁栄をもたらしたとするユニークな論を展開しているのに立花隆氏がいる。立花隆氏の説のあらましを紹介すると、
『我々はいま世界に誇ることができる歴史上最良の憲法を持っている。その憲法のおかげで、戦後日本というレジームは、日本の歴史上最大の成功をおさめ、大日本帝国の存続期間よりも長い期間、平和のうちに繁栄を続けている。それだけの成功をもたらした戦後レジームは当然守り続けるべきであり、これを破壊する理由はまったくない。戦後レジームこそ日本繁栄の基盤であった。アメリカのサイエンスもテクノロジーも実は半分以上が軍関係予算や人材によってまかなわれており、核融合、スーパーコンピューター、宇宙航空などの先端技術はほとんど軍事予算でまかなわれている。それに対し軍からの資金援助まったくなしで、世界とがっぷり四つに組むだけの科学技術力を発展させた国は日本以外にはない。軍産複合体を存在させずに経済発展を成し遂げたという意味で世界に誇れるものである。特に憲法第9条という戦後レジームがあったからであり、それを捨てるべきでない』
しかし、自国の安全と防衛を人任せにして、ひたすら経済発展に取り組んできたことから、日本をエコノミックアニマルと蔑む国際的評価を生み、主権国家としての誇りや民族意識を喪失させ、日本民族を堕落させたとする見解にどう抗弁するのだろうか。そして、現行憲法の理念と内容が余りにも国際情勢から乖離する結果になっていることに対する認識不足であるとの批判がある。

日本国憲法前文の検証

戦後のレジームに対する見解にも賛否両論があることを理解した上で、個々の問題点を検証するに際し、まずまず憲法の前文を考えてみたい。

この憲法前文は、国民主権と平和主義を明確に謳い、その理念は「美しい言葉で」書かれているが、平和主義に関しては、素直に読んでも敗戦国が戦争責任を自覚させられ、その反省文のような感じがするし、日本以外の諸外国は、こよなく平和を愛しており、こちらが何もしなければ他国が侵略することなどあり得ないというきれい事に端を発している。
法理論的には前文に法的拘束力はないものと解されているが、それなら日本国としての独自性が織り込まれても良いのではないか、どう考えても文節が長すぎて翻訳調であり、従ってこのような文言はまったく欠落している。

隣人を信じて、こちらが誠意を尽くせば必ず応えてくれるという人間関係は美しいし、誰もが望むところである。しかし、大戦後の世界中の力の空白区や力の不均衡な地域では次々と国際紛争が起きているのは厳粛な事実であり、数え切れないほどの局地戦争がおきている。ところが、日本国憲法では「諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と平和を維持しようと決意した」となっており、憲法さえ守っておれば平和が維持されると信じているようだが、こんな事を本当に信じている人がいるのだろうか。紛争地域の諸国民は、公正でもなく信義もないから紛争が起きるのではないのか。国際社会はそれ程のお人好しでも、聖人君子の集まりではないのだ。
わが国を取り巻くアジア諸国の対応を見ても、こんなきれい事で済ませられる情勢でないのは一目瞭然ではないか。

朝鮮戦争などは、同じ民族でありながら激しい侵攻を繰り返し、双方の後ろ盾の力によってようやく国土を分断し停戦したではないか。「隣国の公正と信義によって平和が維持されている」のではないのである。朝鮮戦争は終結したのではなく、今尚「停戦」でしかないことを忘れてはならない。
日本だけが何もせず、ひたすら諸外国を信じ、侵略があればアメリカとの安全保障条約によって守られることで済むのだろうか。さすがに現行憲法下でも自衛権に基づく専守防衛のための戦力の保持を多くの国民が許容しているが、幸い60年間直接的な侵攻はなかったが、これもアメリカとの安保条約の恩恵である。
ところが、もし日米の合同訓練中にアメリカの戦艦が襲撃された時に日本は憲法上の制約があり、集団的自衛権を行使できないとの理由で傍観していることが許されるだろうか。

集団的自衛権に関する見解

日本を完全に武装解除させて戦力の保持をまったく認めなかったアメリカは、朝鮮戦争の勃発によって限定的な武装を容認することにしたが、日本側は憲法との関連でその武力の行使はあくまで限定的で「必要最小限」に留めるものと規定したのである。従って専守防衛のみであり、集団的自衛権も、権利は有しているが行使はできないとしたのは、「必要最小限」を超えるものであるとした内閣法制局の見解でしかないのである。このことを政府はオウム返しにいい続けてきたのであるが、さすがにここに来てこの不自然さを解消するために、四つの具体的なケースを挙げて憲法解釈見直しを検討する「有識者懇談会」を本年4月に立ち上げ、9月に結論を得ることになっている。

前文の解釈の中で自衛権の問題まで取り上げたが、この問題は、第二章・戦争の放棄・第9条の問題につながるのである。

憲法 第二章・戦争の放棄について

この規定を、世界に誇りうる宝物であると「9条を守る会」の人たちはいうが、果たしてそうだろうか。まず条文を見てみると

第1項の規定は、制定当時は自衛権を放棄するものではないが自衛権の発動としての戦争も放棄し、一切の戦力と交戦権を否定するものと解されていた。
しかし制定時の国会で最大の論点になったのは自衛のための戦争まで放棄されたものかどうかであった。即ち放棄説と非放棄説に分かれるのであるが、

放棄説は、侵略戦争を禁止した不戦条約の文言に似ているから、自衛のための戦争は放棄されていないと解し、2項であらゆる戦力の保持が禁止される結果、自衛のための戦力も戦争も放棄したものと解するのである。
非放棄説は、芦田修正と呼ばれる第2項の冒頭の文言の、「前項の目的を達するため、」の「前項」とは、「国際紛争を解決する手段として」は放棄する、という点だけを受けていると解し、自衛のための戦力の保持は禁止されていないと解する説である。

(2)項でいう「交戦権」は、国際法上交戦国に認められる敵艦船の拿捕や敵領土を占領統治したりする交戦権とは違い、このような意味での交戦権は否定されたが、自衛のために戦う権利が否定されたわけではないとする説があるが、
「国際紛争を解決する手段」と「自衛のための戦い」との区別は何なんだろう。
また、外国からの侵略行為に対する自衛行為(実力行使)が国権の発動ではないという言い方は正しいのだろうか。

少しくらい憲法を学んでも、とてともじゃないが正しく理解できないのが現在の憲法論議であり、解釈であるが、いずれにしろ、国の基本法である憲法を読むのに、こんな持って回った解釈をしなければならないこと自体がおかしいのである。現行憲法を文理解釈すれば軍隊は持てないし交戦できないのである。それを解釈改憲などとフザケタ表現で辻褄を合わせていること自体が間違いなのである。従って、自衛のための軍備を有することは自衛権との関係でも是認されていることを前提にすれば、9条の全文を「国語」に改正すべきである。

自民党の改正案はどうなっているか

現時点では自民党以外の政党は正式な憲法改正案を示していないので、自民党の改正案を検討してみたが、新憲法草案は10章・99条からなっており現憲法と同じであるが、前述したとおり9条の1項は原文通りとなっており、2項は全文削除で、新しく条文を起草している。9条の?は次の通りである。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

九条の二 わが国の平和と独立ならびに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣    を最高指揮権者とする自衛軍を保持する。

自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動を行なうにつき、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。

自衛軍は、第一項の規定による任務を遂行する活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために協調して行なわれる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、また国民の生命若しくは自由を守るための活動を行なうことができる。

前二項に定めるものの他、自衛軍の組織及び統制に関する事項は、法律で定める。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

自民党案に示された9条二項は、義務教育課程の国語力でも正しく理解できる。憲法に限らず法律とは本来このような文体であるべきだと考える。

憲法改正は第2章・第9条だけではなく、第7章・第89条なども問題であるが、すべてを網羅するのはこの稿では無理なので、憲法の成立過程と9条だけを取り上げたが、天皇に関しては第1章で8条にわたる規定があるが、天皇は国民の総意に基づく象徴(symbole)となっているが、君主なのか元首なのか規定はない。国事行為の規定から見れば元首に近いと思われるが憲法を改正するのなら明確にすべきではないだろうか。
改正点として取り上げられている項目に「環境権」「プライバシー権」「知る権利」「知的財産権」「犯罪被害者の権利」などがあるが、これからの3年間の憲法審査会の審議を見守りたい。

憲法や教育基本法を改正したから、すべての問題が解決するわけではないことはこの稿の前段でも述べたが、基本法に誇りが持てない国民はやはり不幸だと思う。法学者が見識を振りかざさずとも素直に読める憲法を制定すべきではないだろうか。
まず、戦後レジームから抜け出し、祖国に誇りを持てるようにするためには、現憲法の成立過程のような、「取り敢えず独立することが先だ」などといった妥協から、問題の多いことを承知で憲法を認めた愚を繰り返さず、じっくり3年間かけて議論をすべきであろう。

しかし、現時点でも3年後に憲法審議会として結論を出そうとする動きに対し、与党間に不協和音があることは嘆かわしい限りである。

平成19年7月                 松 室  猛


参考文献

    立憲主義と日本国憲法・高橋和之
日本国憲法無効論 渡辺昇一・南出喜久治
憲 法   ・     PHP研究所編
新憲法草案  ・  自由民主党
雑誌 「月刊・現代」・「正論」  各7月号
憲法9条、未来を開く    岩波ブックレスト
憲法を変えて戦争へ行こうという
  世の中にしないための18人の発言

岩波ブックレスト


参 考 資 料

自民党の憲法改正案の前文



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