松室猛のTMニ水会定例講演・資料

 平成18年11 戻る


日韓の歴史的経緯と領土問題


日韓の歴史的経緯と領土問題


近隣諸国との外交の現状は・・

「主張する外交」を標榜した安倍晋三新政権が発足し平成18年10月8日、首相訪中としては5度目の中国訪問に踏み切った。就任早々に中・韓を訪問をしたことをいささか奇異に感じたこともあったが近隣諸国との関係改善を最優先に考えたのは北朝鮮の暴走が懸念されていた時期だけに日本国内では格別異論はなかった。

靖国問題を外交交渉のカードとしてトップ会談を拒否し続けた中国であるが、中国国内において?小平氏ほどのカリスマ性がなかった江沢民氏が国内をまとめるために徹底して反日感情を植えつける政策をとり続けた。この路線の行き過ぎを修正しようとする動きは上海人脈の更迭となり中国特有の動きを見せているが、拍車をかけたのは皮肉なことに小泉総理の8月15日の靖国参拝であった。
当初は声高に参拝すべきでないと国内外ともに騒がしかったが、参拝後の各紙の世論調査の結果は一転してこれを評価する雰囲気が高まった。
中国側にしてもこれ以上反日を煽れば日本の反中感情がより高まり国益に反するとの思惑があったことは明らかである。しかし、靖国問題だけで首脳会談に応じない中・韓が、それぞれの国内事情とわが国の政権交代を契機に関係修復の機運が高まったことは喜ばしいことである。また、近隣諸国の首脳が胸襟を開き話し合うことは北朝鮮の独善的な悪あがきを阻止するためにも大変有効であるとの認識は各国にあるようだ。しかし韓国は依然として少し動きが違うようなのは何によるものなのだろうか。

「過去を水に流す」外交政策は正しいのだろうか
温家宝首相・胡錦涛国家主席の両氏は最高の敬意を表して安倍総理を迎え、靖国問題にも触れてはいたが、行くとも行かないとも言わない安倍総理の発言にさほどの食い下がりをしなかったのは関係修復への意思と見るべきだろう。
丁度タイミングよく北朝鮮の核実験問題が前段にあったので相互協力の話ができたのも幸いであった。しかし一方では1年半前に暴徒が荒れ狂った北京の日本政府公館や日本料理店が多大の被害を被ったが、政府としては未だに修復等の対応をしていないのみか、一切謝罪をしようとしない態度を我々は簡単に許してはならない。特に、あの時の中国政府のコメントは「この事態を招いた責任は日本側にある」といった理不尽さは許し難いものであり、こんな馬鹿な発言は断じて見逃すべきではない。

ややもすれば日本人は「過去のことは水に流す」対応をしがちであるが、外交交渉は常に是々非々を貫く姿勢が大事であることを改めて指摘しておきたい。
問題はこれからの相互の対応だろうが、2国間や国際的課題の解決で協力し合う「戦略的互恵関係」を目指すというのなら中国は言葉だけでなくもっと率直に北の核開発に対するべきだと考えるが当初は国連制裁決議に関してかなり逡巡していたが、最終的には何とか全会一致の決議にこぎつけたのは中国にとっても良かったと理解すべきだろう。

安倍総理の韓国訪問で感じたこと
中国訪問を終え韓国に向かった10月9日に北朝鮮は核実験を敢行したが、金大中氏の太陽政策の後を受けた盧武絃大統領の親北ぶりは韓国内でも批判が高まり路線変更を考慮し始めた時に、訪中・訪韓をすることになった安倍総理は運の良い人だと言えそうだ。
それでも今回の訪問で中・韓の対応に違いがあったのは象徴的だ。
安倍晋三・盧武絃会談では会食時間を含め3時間の会合の中で40分間靖国問題を話題としていたそうだが「いい加減にせよ」と思わずつぶやいてしまった。
韓国は自らも被害者なのに拉致に関しても然るべき対応もせず、この期に及んでもなお太陽政策とは恐れ入った感覚である。
さすがに韓国内にも対北政策について不協和音が巻き起こり盧武絃大統領の支持率が急降下しているが、この対策として反日を強調する愚かさははた迷惑も甚だしく困ったものである。
彼は歴史認識を云々するだろうが、靖国問題に関して韓国がとやかくいうこと自体がおかしいのではないだろうか。反日に関する暴動、反乱はあったが日韓は戦争状態にはなく彼らが靖国参拝を云々すること自体が的外れだと考えるのだが、内政の失敗を外に向ける施策として反日を煽る愚を国民が知り始めているのも事実のようだ。
しかし韓国の歴史捏造と徹底した反日教育で育った世代が素直に日韓友好を具現できるだろうか。

今回のテーマは過去に複数回取り上げてきた問題であるが、もう一度新政権発足を機に両国との関係改善の糸口が見つかりそうな予感の中で簡単に両国との歴史的関係を振り返り、今後の付合い方を模索してみることにした。

歴史を読み解く難しさ
中・韓との関係は韓国の近代史を眺めてみれば随分昔から相互に因果関係があり、いずれか一国だけを取り上げて検証するよりも双方の歴史的な流れを合わせて読み解く方がより判りやすいようだ。

歴史について我々レベルが文献をひもとく時に一番苦しむ点は、歴史家によって見解が異なることである。
具体例は枚挙にいとまがないが、先の自民党総裁選の際に麻生太郎氏が語っていたのを聞き初めて知ったが、アメリカの南北戦争のことを南部の人は今でも北の侵略だと言っているとのことだった。ことほど左様に歴史の受け止め方が違うのに何をもって史実だと言うのか、実に悩ましい問題がある。自らの見解を史実だと言い張り異論を許さない偏狭さがあったりするが、我々は何をもって史実とするのか実に悩ましい限りである。特に国策として歴史を捏造する中・韓両国などと歴史認識について論争することで何ほどの成果が期待できるというのだろうか。数々の国内問題から目をそらすために隣国である日本を敵視し反日を煽る国策を史実に照らして逐一検証し反論していけば、両国の国策そのものを否定しなければならなくなる場合があると思うが、そんなことを両国が了解する筈がないだろう。
ある意味では安倍晋三総理が言うように歴史については専門家の判断に委ねるべきかも知れないが、可能な限り両論を検証しながら今回は主として韓国の近代史を眺めてみたい。

韓国近代史の概略
中国、ロシアと接する朝鮮はどの時代をみても外国の強い影響を受けている。
影響と言うよりもむしろ侵略を受けたり、結託をして紛争を続けた歴史と言える。
朝鮮と日本の歴史の根本的に違う点は外国との関係である。

・韓国最初の国家
まず歴史的に韓国の前身である朝鮮の国家の起源は、紀元前195年頃に中国の燕が漢に滅ぼされ、現在の韓国に逃れた燕の衛満が北部に衛満朝鮮を建国したのが最初の国家だとされている。
いまさら国家の起源を検証しても意味がないが、朝鮮半島の歴史は抗争の繰り返しであり、最初の頃は「伽?」(カヤ)と呼ばれる小国家軍が存在していたが562年に「新羅」に組み入れられ「高句麗」「百済」の本格的な三国時代を迎える。581年隣国の中国に「隋」が誕生すると新羅と百済は隋と同盟し高句麗と対峙し、618年に「唐」が誕生すると唐も朝鮮を支配しようとするが高句麗と新羅が同盟して唐に対峙した。しかし、やがて唐は新羅と連合して百済を滅ぼす。
・ 663年 白村江(ハクスキノエ)の戦い。(日本軍初の海外出兵で敗戦)
百済は復興をかけて大和朝廷に援軍を乞い日本は初の海外出兵として船団を送るが破れる。これを機に多くの百済人が日本に渡来する。大阪に残る百済の地名の謂れがここから始まる。
・ 668年 唐と新羅が高句麗を滅ぼし統一新羅が誕生。
その後、唐と新羅は体制の違いから対立するが、結局は唐から冊封を受ける。
統一新羅は約1世紀にわたり平和に推移するが、貴族の台頭、庶民の圧迫から後百済、後高句麗が興り後三国時代となり約40年続く。
その後、後高句麗が統一し国号を「高麗」として史上二番目の統一国家となる。
コリアと呼ばれるのは「高句麗−こうくり」に由来する。
・ 1259年 モンゴルが侵略
海戦に弱いモンゴルに対抗するため王城を江華島に移すが間もなく降伏。元の属国となる。 
・ 1274・81年 元寇の役
高句麗は元から二度にわたる元寇の先導役を命じられる。台風により失敗。
・ 1368年 「明」誕生。明が高句麗より元を追放。親明派と親元派が対立、親元派は旧領土の遼東半島を奪還するため明と戦うと称して出かけるが、時の将軍李成桂は引き返し反対派を粛清し政権を奪取し、国王になる。
・ 1392年「朝鮮」・李王朝誕生 (室町時代)
この時点で国号を「朝鮮」と改め「李朝」が誕生する。
・1592・97年 豊臣秀吉 朝鮮出兵(文禄、慶長の役)
 当初はほぼ全域を掌握したが明や義兵の反撃で膠着状態となる。(方広寺の耳塚)
二度目の出兵をするが秀吉の急逝で終結。
徳川幕府は李朝と関係修復を図り、後に朝鮮通信使が渡来することになる。
・ 1644年 清国建国。「清」は朝鮮に対し臣下の礼を求めたがこれを拒否。そこで大軍をもって朝鮮を押さえ込み「清」の属国とする。

明治以降の日韓の関係
・1868年 (明治元年)明治政府は朝鮮に対し修好条約提議
  明治政府が王政復古を各国に通知。朝鮮に対して国書を送るが天皇の文字に拘り国書の受理を拒否する。宗主国は中国であり勅、皇の言葉は属国に対する言葉であるとするのが理由。
  この非礼に対し征韓論が沸騰。−これに対し富国強兵に努めるべしの反論があり西郷隆盛の征韓論は下野し日本最後の内戦、西南戦争につながった。
・ 1871年 日清修好条約締結、それでも朝鮮は日本との修好を拒否し続けた。
その理由は大院君(李王朝高宗国王の実父)の排外主義によるものであった。
・ 1875年(明治8年)江華島事件勃発
漢城(ソウル)近くの江華島に軍艦雲揚丸が給水に立ち寄った際砲撃を受ける。即座に反撃し撃破上陸して占領。(日本側の挑発であるとする説あり)
・ 1876年 日鮮修好条約締結。
「朝鮮国は自主独立の国にして日本国と平等の権を有せり」と朝鮮の自主独立を明記した。中国と宗主国、属国であった朝鮮にとって画期的かつ歴史的な出来事であった。(この史実に両論あり−領事裁判権、関税付加権)
その頃の朝鮮には絶えざる内訌(内紛)があった。
国王は疎外され、皇后の閔妃(ミンピ)の一族が開化派として権力を握っていた。
国王の父、大院君は守旧派であった。
・ 1882年 壬午事件
閔妃が日本から軍事顧問を招き新しい軍隊を作ったが、旧軍と軋轢が起こり暴動が起きた。日本人軍事顧問や多くの日本人が殺された。守旧派が開化派を強圧し閔妃は一度は落ち延びるが、清が鎮圧し大院君を清に拉致。
閔妃を復権させ清が政・軍の実権を握る。この時日本は公使館を襲われた事などに関し多額の賠償金を要求、同時に公使館警護のため軍の駐留を認めさせた。
その頃、米英仏露伊に対し開国―ロシアの進出激化―清とロシアの勢力争い顕在化。親清派と親露派の葛藤激化
・ 1885年 福沢諭吉、叛覆常なき朝鮮と嘆いて「脱亜論」を発表
改革の意思を示さない朝鮮から手を引くべしと主張。
・ 1891年 東学党の乱―日本出兵、清出兵。
西学に反対する東学党と称する新興宗教の団体が李朝の腐敗と外国排斥のため乱を起こすが日・清の軍事介入を招くことを危惧し政府と和解する。乱は収まり全州和議となるが乱の後に日清の撤兵をめぐり日清戦争へ。
・ 1894年(明治27年) 日清開戦
日本勝利するも日清戦争で得た遼東半島の放棄を露仏独の3国が日本に勧告。(3国干渉)三国を相手に戦えなかった日本の弱みを見た朝鮮は「親露・侮日」  
 の流れが起きた。
・ 1895年 閔妃暗殺(乙未事件・日本軍の関与と謀殺説がある)
・ 1896年 朝鮮の親露派によって朝鮮国王がロシア公使館に連れ込まれる事態が発生、以後一年間国王はここで政務を執ることになった。(露館播遷)
この事態により急速に朝鮮におけるロシアの利権が拡大し、清の支配する満州では日本が返還させられた遼東半島を露が租借し日本側を刺激し対立が深まっていった。
・ 1897年 朝鮮は国号を「大韓帝国」と改称し皇帝を名乗る。

韓国独立の可能性はあったのか
朝鮮の改革を巡っては、壬午軍乱や甲申事変のような政変があったが、いずれも蜂起は失敗に終わった。こうした中で政権を手にした閔氏は、自らの手で改革を行うにはあまりにも無能であった。このつけは全て民衆に振り向けられ、民衆の不満は高まっていった。1883年から各地で農民の蜂起(民乱)が起きていた。1894年春に全羅道古阜郡で起きた民乱が、甲午農民戦争に発展した。
韓国独立への動きは金玉均の甲申政変とそれを引き継いだ開化派の残党が甲午改革を自主的に進めようとした時点ではあった。李朝はいずれの場合も自らの手で国内改革を潰した。以後の李朝による独立の可能性は全くなかったと言うべきだろう。むしろ逆に清に出兵を要請したことが引き金となり日本軍の進出となり遂に日清戦争へとつながったのである。
しかし、金玉均の動きに関する日本側の関与に関して、借款問題での政策変更や交渉の当事者である竹添進一郎弁理公使の独断や本国政府との軋轢など数々の要因があったようで、中途半端な関与が混乱を増幅した側面もある。
金玉均の独立運動は李王朝の内紛を避け王を担いだ運動を指向していたが結局は李朝の実権を握る閔妃一族により追われ日本に亡命の後上海で暗殺された。
そこで登場するのが李容九の一新会(日韓合邦運動)であった。民族の尊厳の確保のために大アジア主義を掲げ、国内で最大限の努力をした李容九を売国奴と決めつけ国内で活動をせず外国で抗日運動をした安昌浩や李承晩を愛国者抗日の闘士と評するのは不当であるとする説もある。(呉善花氏の見解)
・ 甲午改革 1884年朝鮮全土で起きた農民の蜂起。
・ 甲申事変は1994年にソウルに起きたテロ事件であり、これに伴って、日本公使館が焼き討ちされた。事件は、金玉均・朴泳孝・洪英植ら開化党が、閔妃縁戚が牛耳る政権にテロをかけたものである。
日韓併合への道
・ 1899年(明治32年)
フランスは広州湾を99年間租借、ロシアは関東州を設置−諸国の清国侵出が重なった。
・ 1900年 義和団事件 フランス宣教師殺害。日英米露仏伊が軍事出動し鎮圧。露は制圧後も満州に4000名の兵を駐留させ事実上占領を続けた。
日本は日英同盟を、露は仏と同盟を結び南進に備えていた。その間シベリア鉄道完成、南進に向かって万全の態勢が整った。
日本は露の満州からの撤兵を、露は39度線で韓国を分割し統治を提案してきたが相互に拒否。遂に露が満州の占領を宣言するに至った。
・ 1904年(明治37年2月8日) 日露戦争勃発
露国の南下政策と朝鮮支配権をめぐり日本軍仁川上陸、旅順港で露艦攻撃
韓国は中立宣言していたが無視、日本軍勝利、漢城(ソウル)からロシアを追い出す。駐兵と土地利用権を取得。
(旅順、203高地で155日間の戦い。乃木希典大将、水師営でのステッセル会談。 明治38年、東郷元帥日本海海戦にてバルチック艦隊を撃破、大勝利。)
日露ポーツマス条約で露から韓国における政治、軍事、経済の特権を受け継ぐ。遼東半島の租借。樺太の南半分を領有した)
・ 同年2月 日韓議定書調印
? 侵略、内乱に対し日本軍への便宜供与
? 韓国の独立、領土保全を保障
? 日本の承認なしに第3国と条約締結をしない
日本は韓国の保護国化について、米がフイリッピンを支配することと相互承認した。
第1次日韓協約で財政顧問、外交顧問の受け入れを約束させ、
第2次日韓協約で日本外務省が実質的に外交を行なうことと、日本代表部として統監をおくことを取り決めた。
第3次日韓協約で統監の権限と日本人顧問を廃止し、韓国政府の各部の次官に日本人の任命を決めた。
・ 1905年(明治38年)日韓協定 韓国を日本の保護国とした。
統監政治―初代統監、伊藤博文。
・ 1909年6月伊藤博文統監辞任、同年10月(明治42年)ハルピン駅にて安重根により暗殺さる。
日露戦後、朝鮮は各国に日本との調停を働きかけるがすべて無視された。
特にオランダにおける万国平和会議に密使を送り直訴しようとしたことを日本側が問題視し混乱を収束させるため併合を宣言。
・ 1910年(明治43年)日韓併合 
日韓協定は3回に及び遂に併合条約に至る。
この条約の合法・違法の両論があるが、後の朴正煕大統領に時代に「日韓基本条約」が締結され過去の条約はすべて無効と決定された。
・ 国号を朝鮮に改めさせる。漢城を京城と改め初代朝鮮総督府を京城におく。
初代総督・寺内正毅陸軍大将。
「日帝36年」の幕開け
「内鮮一体」「皇国臣民化」「創氏改名」「朝鮮語禁止」
日韓併合により多額の社会資本整備費を投入し教育改革も進めたが、内朝一体を唱えながら、二等国民として蔑視したことなどから反感を助長した。
・ 1919年(大正3年)3・1独立運動起きる。最後の国王の葬式の日に独立宣言を発表。

第二次世界大戦終結
・1945年(昭和20年)朝鮮開放「光復」
   当時の朝鮮には独立の受け皿となる勢力がなく愛国者、民族主義者、過激派などが混在し、そのまとまりのなさが米・ソ連の進駐を許し分断国家となる。

・1948年(昭和23年)大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国成立 
韓国の初代大統領に李承晩、北朝鮮は金日成が国家主席に就任
・李承晩氏はハーバードを経てプリンストン大で博士号取得。
米から帰国して就任。親米・反日で権威主義、非民主的者で選挙干渉を繰り返し失脚。日本文化を公序良俗に反するとして制限。
・金日成はモスクワから帰国、スターリンの指名で国家主席に就任。
金日成はソ連極東軍第88特別旅団の第一大隊長(大尉)であった。
スターリンから認定され朝鮮の北半分の共産党代表になった。ソ連から帰国したときに凱旋将軍を演出したが国民は金日成将軍が余りに若すぎるので別人かと疑ったが(別人説あり)ソ連の秘密警察の目があったのでそのまま収まった。

・1950年6月25日 朝鮮戦争勃発
 北朝鮮が一時は全土を制圧したが、国連軍としての米軍が押し返した。
その時点で中国が参戦。38度線まで押し返され停戦協定締結。
 現在もなお停戦中であり、この停戦協定に韓国は加わっていない。
これが北朝鮮が対話の相手はアメリカであるとする理由にもなっている。

日韓の領土問題の発端
・1952年 海洋主権宣言(李ライン設定)
200マイルの設定には米中も抗議をしたが無視。
竹島(独島)を不法占拠し実効支配下においた。(日韓の領土問題発生)
日本漁船拿捕329隻・死者44人・抑留漁民3929人
日本漁民開放の条件として収監中の凶悪犯を含む韓国人犯罪者の釈放を要求。
在日韓国人の在留許可を要求−日本側はこれを受け入れた。
自大主義、小中華主義者‐韓国は絶対正しい、日本は邪悪であると決め付け。
・1960年(昭和35年)李承晩失脚、ハワイに亡命。
・ 1960年 尹 善(ユンポソン)大統領に就任
・ 1961年 朴正煕、(パクチョンヒ)軍事クーデターにより大統領に就任。
 朴大統領は日本の陸軍士官学校卒。 セマウル運動(新生活運動)展開。
 経済復興に取り組み、今日の韓国の礎石を築き上げた。

・1965年(昭和40年)日韓基本条約締結
条約は7条からなる。第2条では、両国は日韓併合(1910年)以前に朝鮮、大韓帝国との間で結んだ条約のすべてを放棄することを確認し、第3条では日本は韓国が朝鮮にある唯一の合法政府であることを確認し、国交を正常化した。
この条約によって日本は韓国に対して多額の政府開発援助(ODA)を行い、韓国はその資金を元に「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を遂げた。
この条約で日本人が残した韓国内の財産請求権を放棄した。

この時点で李ラインも消滅したが、後の日韓漁業協定締結の際に時の総理であった橋本龍太郎氏は歴史認識の問題と不可分で「経済水域の設定は実務面で話し合う問題」と腰砕けの対応をした。

「日韓基本条約」
正式名称「財産及び請求権に関する問題解決ならびに経済協力に関する日本国と大韓民国との協定」13年間に及ぶ交渉の結果日韓関係が正常化した。

経済協力の内容 
無償借款 3億ドル
低利融資 2億ドル
民間借款 3億ドル  
当時のレートで2,880億円、現在の貨幣価値で換算すると約1兆7千280億円支払った。日朝両国に国家間の賠償責任が終わっている根拠。

軍事政権らしい強権的な体制がとられ都市部中心の産業振興で格差が拡大し、農村や中小企業が取り残されるなどの歪みを生んだ。また、日本からの個人補償を流用した事を国民に公開しなかったため、後に賠償請求の見解の違いなどで日韓関係に禍根を残すことになった。
・ 1979年 朴大統領、KCIA長官により射殺
・ 1979年 崔圭夏(チェギュハ)朴暗殺後大統領代行から大統領に
・ 1980年 全斗煥(チョンドハン)軍事クーデターにより大統領に就任
  光州事件。金大中氏の故郷で起きた軍政批判の暴動を軍を出動させ制圧。
  大韓航空機爆破事件勃発。憲法改正で任期7年、その後任期は5年。
・ 1887年 盧泰愚(ノテウ)大統領就任
1988年 ソウルオリンピック開催、
1991年 国連加盟。北朝鮮も同時加盟
・ 1993年 金詠三(キムヨンサム)大統領に就任。初の文民大統領
・ 1998年 金大中(キムデジュン)〃   〃 太陽政策提唱
初の南北首脳会談開催。ノーベル平和賞受賞
・ 2003年 盧武絃(ノムヒョン)大統領に就任、現在に至る。
太陽政策を継承、反日強硬派。左翼民族主義運動派世代の代表。
金詠三大統領までは反共・反北政策。金大中から容共、親北路線
盧武絃大統領は支持率20%台まで落ち込んだ時があったが反日キャンペーンで40%まで回復した事実がある。反日は盧武絃の生きる道となっている。

迷走する対北政策
盧武絃氏の北朝鮮政策は核問題の対応をめぐり韓国世論を分断する騒ぎとなっている。しかし韓国ナンバー2の韓明淑首相は、「核実験は1次的には北朝鮮の責任だが米の制裁と金融圧迫が原因である」と米国の責任を追及している。このような流れの中で盧武絃氏は包容政策(太陽政策)は放棄できないと発言したり、国連決議に伴う対北制裁にどう対処すべきか迷走が感じられる。
太陽政策としての北支援の象徴は金剛山観光事業と開城工業団地建設事業だが、外交通商省や国防省などの対米協調ないし国際関係重視派は再検討論が多く、大統領官邸筋や統一省は支援維持派が多いようである。与党ウリ党と野党ハンナラ党は全面対決の様相である。そんな時に統一相の李鐘?氏(イジョンソク)が辞意を表明し、盧武絃政権の外交・安全保障関係の3閣僚が交代することになったが、交代により政策変更の可能性を期待する向きもあるが大統領自身が迷走している事実は変わらないようだ。

韓国の潘基文氏国連事務総長に就任
こんな情勢の中で韓国から国連事務総長が選任されたが、今後国連決議を韓国が無視するようなことは許されず盧武絃大統領はこの面からも対北政策の変更は避けられないだろう。
・潘基文(バンギムン)外交通商部長 − 1944年生まれハーバード大修士
韓国のマスコミの論調には彼を評して「イエスマン、米べったり、本音を言わず無味無臭」との評価もあるが、外柔内剛で盧武絃路線の対日強硬路線に沿って日本批判を繰り返した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
国連事務総長は安保理の推薦で総会で承認されるシステムで、常任理事国や主要国首脳会議に参加しているような大国からは選出されないことが慣例化しており日本の選出は事実上望めない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
変わることない反日政策
盧武絃政権の反日に関する象徴的な出来事
・2004年3月「日帝強制占領下反民族行為の真相糾明に関する特別法」制定
(旧名:日帝強占領下親日反民族行為真相究明特別法、通称親日反民族特別法)
「親日反民族行為者財産帰属特別法」
特別法の目的は親日派と認定された人物、およびその子孫が所有する財産を没収するための法律。ただし、没収対象となるのは日露戦争開始前から韓国独立前までの間、反民族、反国家行為の対価として取得、相続もしくは贈与を受けた財産に限られる。また、親日派認定を受けた本人はその多くが死亡しているため、対象者は子孫などの遺産相続者となる。事後法ではないかという懸念のほか、本法律の運用は連座制、および財産権の侵害ではないかとする意見もある。

このような滅茶苦茶な法律までつくり国内でも親日派を締め出そうとしているのが盧武絃大統領である。こんなのが大統領である限り日韓の新時代は実現しそうにないだろう。

竹島(韓国名 独島)をめぐる領土問題

所在地−島根県隠岐郡隠岐の島町
竹島は北緯37,9分 東経131,5分、隠岐島の北西157キロにある。
東島(女島)、西島(男島)と呼ばれるふたつの小島とその周辺の総計37の岩礁からなり、総面積は約0.23km2で、東京の日比谷公園と同程度の島である。
1905年(明治38年)「他国においてこれを占領したりと認めるべき形跡」のないことを確認の上閣議決定で日本領として島根県告示40号で公示した。
したがって日本の領有は日韓併合以前からの日本の領土であるが、1952年(昭和27年)韓国は一方的に領有を宣言し李ライン内に取り込んだ。
最頂部は西島が海抜168m、東島が海抜98m。周囲は断崖絶壁で通常は人の住むことができる環境ではないが、軍に準ずる装備を持つ韓国の武装警察官(独島警備隊)40名などが常駐し占拠している。

日本側はその都度抗議をしているが実効性はない。そこで日本は国際司法裁判所に提訴して決着をつけようと韓国に呼びかけたが韓国側は固有の領土であるとしてこの申し出を拒否し現在に至っている。

・1951年の講和条約で日本固有の領土と認められたが、韓国は鬱陵島、済州島、巨文島を領有とされたが韓国は3島の他、竹島、波浪島、対馬を返還するように米国に要求したが対馬は言うまでもなく日本固有の領土であり、波浪島は伝説の島で実在せず、竹島は日本領で韓国が領有した史実はないので連合軍は受け入れなかった。講和条約で日本領が確認されたから韓国は武力占領に出たのである。

韓国の中・高歴史教科書においては、17世紀末に韓国の漁民安龍福が松島(現在の竹島)が朝鮮の領土であることを認めさせるため日本に渡ったことを大きく記すなど、中高生に独島(竹島)領有の正当性を教育している。しかし安龍福の証言は日本側での発言と韓国内での発言と全く違うことを言っており信憑性がない。彼は一介の漁民でしかなかったが後に将軍になっている。
両国の主張には島の呼び名もいい加減であったり、存在しない島が出てきたりしており何をもって史実とするかは大いなる問題であるが竹島に関しては韓国の領有する時期はなかったと見るのが国際的解釈でもある。
現実に講和条約でもそのことが認められ日本領とされたのである。
最近の韓国では官民挙げての広報が盛んであり、反日政策の一断面として国民に竹島問題に強い関心を向けさせている。例えば竹島が韓国の領土であるという内容の“独島はわが領土”という歌があり幼稚園児にまで歌わせている。
これは国際法上で正式に紛争として扱うことを避けつつ、国内外で韓国の領土であることを周知させ、実効支配を既成事実化しようとする狙いであろう。
・ 2005年3月 島根県議会は「竹島の日」条例を制定
・ 2005年6月 馬山市「対馬の日」条例制定
さすがに韓国政府は「対馬の日」条例の撤回を要求するコメントを発した。 
外交通商省報道官は「馬山市議会が、対馬の日の条例を可決したことは愛国心から十分に理解できる」との立場を示した上で「独島(竹島)を守ろうとする助けにならず、むしろ不必要な混乱を誘発する可能性があり、自制すべきだ」と指摘した。

海洋に関する国際法はどうなっているか
海洋は自由航行の認められた公海と沿岸国の主権がおよぶ領海(外国船舶は無害通航権を行使すれば領海内でも航行できる)とに分けられる。
領海について国によって様々な距離が主張された。多くは3海里ないし12海里であったが、中には200海里まで自国の領海であると主張する国が現れてきた。沿岸国に領海を認めることは慣習的に国際法として定着していたが、その距離については長年決着を見なかった。そこで国連が中心になり、沿岸国の権利と自由通航の確保を両立させるための条約制定会議が行われ、その結果定められたのが国連海洋法条約である。
つまり、排他的経済水域とは、沿岸国の権利と自由通航の確保という矛盾する要請を同時に満足させるための方策として考え出されたものである。200海里もの広範な領海を設定していた国の主張を経済的主権に限定して認める代わり、自由航行のできる水域を確保したのである。
1994年 国連海洋法条約発効(米は未批准)
領海は12海里(22、22キロ) 1海里は1,852キロメートル(緯度1分の長さ)
排他的経済水域(EEZ, exclusive economic zone)とは
排他的経済水域 原則200海里。沿岸国の領土から200海里までと規定されており、この水域内では沿岸国の排他的(独占的)な海底資源・水産資源などの利用が認められている。ただし、排他的経済水域は領海ではないため主権は及ばず、他国の船が平穏に航海する自由は認められる。沿岸国の間で200海里の幅がとれない水域はその中間線をもって境界線とする。

竹島の今後はどうなるだろうか
「竹島が日本の領土になることは戦いによって奪いとる以外にない」とまで韓国側から煽動されていながら、辛抱強く外交交渉を続けると言うのなら、言うべきことを明確に言う姿勢が不可欠なはずだ。
国際司法裁判所に提訴するというだけが日本の対応なのか。韓国はそれすら拒否しているではないか。こんな対応を我々日本人が納得しないのは当然だ。
しかし、李ラインの設定から今日まで韓国の実効支配が続いている現状からして平和裡に竹島問題が解決する可能性は皆無と言わねばならないだろう。

竹島の問題のみならず、ロシアとの領土問題に国後・択捉・歯舞・色丹の北方4島問題があるが、いずれも戦後60年の経過があり、領有に関する歴史的事実がどうであれ実効支配されている厳然たる事実がある。これらが返還される可能性も極めて難しいと言わねばならないだろう。しからば力で奪い返すことが可能かといえば、日本は憲法上も国民世論としてもそれを許容しないだろう。

領土問題が我々に示している現実は、力の強いものが不法に占拠したら、それに屈服するしかないと言うことなのだろうか。

1982年(昭和57年)4月、アルゼンチンがイギリス領フォークランド諸島へ侵攻し占領したことがあった。フォークランド諸島は南米大陸の南端、アルゼンチンから約500キロ沖合いの島で、面積12.173平方キロ、人口2.967人の小さな島である。
サッチャー首相は直ちにアルゼンチンとの国交断絶を宣言し、この島を奪還するため軍隊を派遣し戦ったのである。
その際チャールズ皇太子が一軍人として出兵したことは世界中の話題になった。イギリスは本国から遠く離れた小さな島に対してでも「領土」のなんたるかを国民に明確に示し、敢えて戦争に踏み切ってまで領土を護ったのである。
領土とはこのようなものである。

しかし日本は国際紛争を解決する手段として外交交渉以外の方法を持たないし、その手段の正当性は理解できるが、相手側が軍事力を持って理不尽な対応をしてくるときに、日本国憲法の前文に記された理念だけを唱えることしかできないのだろうか。

数々ある政治課題の中で、一番不条理だと感じることは中・韓に対する謝罪外交と、言うべきことも言えない弱腰外交であると度々指摘してきた。
この問題は中韓だけに問題があるのではなく、日本国内の政財界、マスコミにも、あたかもそれらを容認するが如き風潮があることにも我慢のならない思いを抱き続けてきた。安倍新政権には主権国家としてのプライドを持って「主張する外交」を貫いて欲しいものである。

最後に日本国憲法の前文の一部を抜粋しこの稿を閉じることにしたい。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」


平成18年11月

松 室  猛


参考文献 「コリアビギナーズブック」  花房孝典・情報センター出版局

「日本・中国・朝鮮近現代史」 青木祐司・幻冬舎

「竹島は日韓どちらのものか」 下條正男・文芸新書

「なぜ中韓になめられるのか」 矢山太郎・扶桑社

「韓国併合への道」  呉善花・文芸新書・

「日本の国境」    山田吉彦・新潮新書

「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

     



戻る