許されざる賭け




 カティスは小高い丘の上に立っていた。
 そこから見渡す景色は、地平線まで続く草原と抜けるような青い空。
 この惑星に降り立った時から、カティスは毎日幾度となくこの丘に足を運び、変わらぬ緑と青のコントラストを眺め続けた。
 その月日、10年と8ヶ月。
 そんな日常の繰り返しも、昨日の深夜に舞い込んだ一通のメールによって幕を閉じた。

『アス、ソチラヘムカウ』

 なんの色気もない無機質な文字を、カティスは何度も何度も読み返した。
 この文字こそが自分の、いや、二人の無謀な賭けが勝利を収めたことを告げているからだ。
 カティスは安堵の声を発したのと同時に歓喜の色を瞳に浮かべたが、それは一瞬のことで、すぐに顔を引き締めた。
 この勝利が、どれほどの大事を引き起こすかが分かっているからだ。
 全宇宙の生命と己の欲望とを天秤に掛け、迷うことなく己の欲望を選んだのだ。この大罪は決して許されるものではない。
 二人が犯すこの罪は、想像もつかない苦しさで己の心を押し潰していくだろう。その中で正気を保つことは不可能に近い。
 しかし、すでにこんな賭けをすること自体正気の沙汰とは思えない。
 ならば気に病む必要などない。

 放棄したのだから、人間の持つ良心の全てを。
 冷酷な悪魔に売り渡したのだから、この身勝手な勝利と引き換えに……。
 カティスは痛いほど握りしめていた拳をため息と共に解き放った。

 ――もう後戻りは出来ない。

 固い決意を抱きつつ、カティスはもう一度緑の海原へと視線を移し、そこに動く人影を見つけて思わず息を飲んだ。
 遠くに見えるのは、まぎれもなくカティスの待ち焦がれた人だった。
 10年という月日の流れを感じさせない、別れた時と同じ姿。ただ一つ違うのは髪の色と瞳の色だった。
 カティスの顔に後悔の色が滲んだ。
 こちらへと真っすぐに歩いてくる愛しい人に、自分はどれほどのものを捨てさせたのだろうか……。

 自信。
 プライド。
 誇り。
 忠誠心。
 そして、父と母から譲られた自慢の髪と瞳の色さえも。

 自分とさえ出会わなければ、自分とさえ愛し合わなければ、堂々と胸を張って選ばれた者としての人生を全う出来たはずだった。
 先程の固い決意が脆くも崩れて行くのを、カティスは苦い思いで自覚した。


「半年ほど見ない間に随分老けたな。カティス」
 強ばった表情のカティスに向かって、漆黒の髪と瞳をした男はカラカウような口調で話し掛けた。
「10年と8ヶ月だ」
「そんなッ、に!?」
 カティスの答えに、男は驚きのあまり声を詰まらせた。
「ああ」
「そうか、じゃあ俺達は勝ったてわけだな」
「オスカー!」
 カティスが男の名前を叫ぶ。
「なんて声を出すんだカティス。それになんだその面は。俺達は勝ったんだぜ? アンタが生きている間に俺が聖地を抜け出して、俺の生まれた故郷の惑星に辿り着くことが出来れば俺達の勝ち、出来なければ負けってな。そもそもアンタが言い出したことだろう?」
「そうだが……」
「苦労したんだぜ。主星の外界へちょっと出かけるのとはワケが違うからな。こいつがなければ…シャトルに搭乗する前に見つかって、俺は聖地に連れ戻された」

 オスカーは左手にあるIDカードをカティスの胸元に突き出した。
 カティスは微かに震える手でそのカードを受け取り、ため息を一つついた。
「よく盗めたな。お前に泥棒の才能があるとは知らなかった」
「生憎だがそんな才能は俺にはない。あいつは、知っていたんだ。俺達の関係も、俺達が何をしようとしているかも。全部承知の上で、あいつはわざと俺の目に触れる場所へこのカードを置いたんだ」
 二人の脳裏に、不器用だが優しかった銀髪の少年の顔が浮かんだ。
 間接的とはいえ、これほどの大罪の片棒を担がせてしまったことに深い罪悪感を覚える。
 カティスとオスカーは同時に頭を下げ、心からの詫びと感謝の言葉をそっと口にした。

「苦しまなければいいがな……」
 独り言のように呟くと、オスカーはどこか虚ろな視線を地平線へと送り、暫くボンヤリと眺めていたが、突然風を切るようにカディスの方へと向き直った。
 それはまるで、後悔と未練を同時に振り払うかのような勢いだった。

 カティスを射ぬく漆黒の瞳。その視線の強さにカティスは圧倒されそうになる。
 瞳の色は違っても、その奥から放たれる光と熱は昔と少しも変わらない。
 この強さこそがオスカーが持つ本質そのものなのだ。
 その視線に晒されて、カティスはもう一度決意を新たにした。
 
 ――後悔はしない。
 ――聖地を、全宇宙を敵に回しても、二人にとってはこれが最良の選択だったのだ。


「行こうぜ。すぐに追っ手が来る。たとえこれが高性能の偽造IDカードでも、王立派遣軍の情報網も甘く見たら痛い目にあうぜ」
 そう言って、オスカーはカティスを急がせた。
 だがそんなオスカーをカティスは慌てて引き止める。
「ちょっと待ってくれオスカー。この惑星を離れる前に、どうしても一緒に行ってほしいところがあるんだ」
「一緒に行ってほしいところ?」
「ああ」
「どうしても行かなくてはいけない所なのか?」
「どうしてもだ」
 カティスのキッパリとした返事に、オスカーは小さく肩を竦めた。
 普段は柔らかで温和な男だが、その芯の部分にある頑固さは十分に知っている。
 本当は一秒でも早くこの惑星を離れて、出来るだけ主星から離れた辺境の惑星へと移動しなければならないというのに……。
 
「30分だけだぞ」
「ありがとう」
 オスカーの言葉に、カティスは太陽のような満面の笑みを浮かべながら歩き出した。
 その背中をオスカーはウンザリした表情で付いて行く。
 カティスが自分を何処に連れて行こうとしているかは分からない。でも離れるわけにはいかなかった。
 
 ――二人で居るために、自分は守護聖を……聖地を捨てたのだから。



「ここ……か!?」
 オスカーは驚きの声を上げた。
「そうだ」
 神妙な顔をしたカティスの視線の先にあったものは、四角い白の墓石だった。
 オスカーはそこに刻まれた名前を食い入るように見つめ、すぐに嗚咽の声を上げ始めた。
 頭を垂れ、小刻みに震わせるオスカーの肩を、カティスは何も言わずに抱き寄せる。
 オスカーがこの草原の惑星を離れて聖地へと召されたのは18歳の時だったが、オスカーの中ではまだそれほど時間は経過していない。
 だが無情にも聖地は、着実にオスカーとオスカーの家族との間を引き裂いていたのだった。
 どんなに頭では分かっていても、こうして家族の死を目の当たりすれば動揺するのも無理はない。
 その上、聖地を捨て、守護聖としての立場を放棄し、女王陛下や仲間を裏切り、宇宙を滅亡へと追いつめるためにここに居るのだから、オスカーを苛む心の痛みは計り知れないぐらいに重い。

 それでも二人が同じ時を生きるためには、これより他に道はなかったのだ。
 サクリアが枯れ、守護聖でなくなった者が聖地に止まることなど到底許されるものではない。
 だとすれば、オスカーが聖地を捨てる以外に、他にどんな方法があったと言うのだろうか?
 これから二人を待ち受けるものは、逃亡者としての流浪の生活。
 オスカーから放たれるサクリアを頼りに、聖地は必死で炎の守護聖の行方を探すだろう。
 初めのうちは、聖地を下界の時間の流れにあわせて捜索するだろうが、炎のサクリアを失った宇宙の状態を考えればそう長くは出来ないはずだ。
 もう守護聖の誰一人として欠かすわけにはいかないのだから、残された8つのサクリアを維持するためにも、いずれは聖地の時間の流れを緩やかにせざるを得ない。
 王立研究院が炎のサクリアを感知して、その場所を特定するまでには数週間を要し、聖地での数週間は下界の数年に及ぶ。
 そのタイムラグを利用して、カティスとオスカーは逃げ続ける。
 髪を染め、瞳を隠し、名前を変えて、オスカーのサクリアが尽き果てるまで逃げ続ける。
 それが二人の選んだ道だった。


「すまなかったオスカー。辛い思いをさせてしまって」
 カティスの声に、オスカーは涙を拭いながらゆっくりと髪を左右に散らした。
 そんなオスカーにカティスは優しく語りかける。
「でもな。どうしても二人でここへ来たかったんだ。ここへ来て、キチンとご挨拶をしたかったんだ」
「挨拶?」
「ああ。お前のご両親に、お前を貰って行くってな」
オスカーの顔が泣き笑いに崩れた。
「アンタ馬鹿か!?」
「ああそうだな。確かに大馬鹿者だ。でもしたかったんだよ。だからこそ、この惑星を待ち合わせの場所に選んだんだ」
「……カティス」
「これで思い残すことない。さあ行こうか?」
 カティスはオスカーの背中を優しく叩いて、墓石へと背中を向けた。
 その時、オスカーが囁くような声で「ありがとう」と言ったのを、カティスは聞き逃さなかった。

 ――お許し下さい。オスカーを連れて行くことを。
 カティスは遠ざかる墓石に向かって心の中で語りかける。

 ――お許し下さい。あなた方の大切な息子に、反逆者の汚名を負わせてしまうことを。
 シャトルに搭乗した後も、見えない墓石に向かってカティスはなおも語り続けた。

 ――どうかお許し下さい。それでも、どうしても離れられないのです。

 じっと祈りを捧げるカティスの両手を、オスカーの左手が優しく包み込んだ。
 絡み合う視線。この手が離されることは二度とない。


 二人を乗せた運命のシャトルは、遥か彼方の楽土(らくど)を目指す。
 宇宙が滅びるのが先か、オスカーのサクリアが尽きるのが先か。それは誰にも分からない。


 宇宙の未来を巻き込んだ賭けが、今、まさに始まろうとしていた。