欠ける月〜Arios Side〜




 ショーウィンドウのガラスに映った緋の色に、俺の心臓は止まりそうなくらいにドクンと音を立てた。
 変わらない鮮やかな色。
 そして…ゆっくりと振り向けば、緋色の髪とは対照的な氷蒼の瞳が、驚きに見開かれて俺の姿を捕らえていた。
「……アリオス?」
 どこか疑うような響きを含んだ低音ボイスに、俺は半ば呆然としながら片手を上げて応えていた。

 オスカー。
 俺はちゃんと笑えているか?
 お前の目を見て笑えているのか?

 それだけが、俺の頭を駆け巡っていた。


「変わらないな、お前は」
 そう言ったお前の方も、少しも変わっていなかった。
 バランスのよい身体にひっついている嫌みなほどの長い手足も、10人の女が10人とも振り返るであろう端正な顔立ちも、自信に満ちた表情も、キザったらしい仕草も、何もかもが変わらない。
 変わったのは……。

「当たり前だ。あれからこっちは半年しか経ってねぇ」
 俺の口をついて出た“半年”の言葉に、オスカーが僅かに眉を顰めた。

 そうだオスカー。
 お前が聖地を去ってから、俺の身体はまだ半年しか時を刻んでいない。
 それなのに、それなのにお前は。

「たった半年か?外界では7年なんだがな……」
 オスカーの口から滑りで出た“7年”の言葉に、今度は俺の方が軽い眩暈を覚えた。

 隔たれた時間。
 こうして、お前は年を重ねて行くんだな。
 そうして、俺を置き去りにして行くんだな。

 思わず覗き込んでしまった氷蒼の瞳の奥には、ぶざまなほど動揺した自分が映っていた。
 そんな俺にオスカーは微笑みかける。
 以前と比べて幾分やわらかくなった眼差しが、残酷なほど時の流れを感じさせ、よりいっそう俺の胸を締めつけた。

 ――それでも

 唇の片方を吊り上げて笑う独特の笑みは、29歳になっても変わってはいなかった。




「退任っ!?」
 突然の予期せぬ言葉に、俺は思わず声を裏返した。
「だってお前はまだ…」
 俺がまだ言い終わらぬうちに、オスカーは先を続けた。
「まだ22だ。歴代の守護聖の中じゃ早い方だが、驚くほどの歳でもないらしい」
「だからってお前……」
「ああ、そうだな。今まで黙っていて悪かった。本当はもっと早く言うべきだったのにな」
「あたりめぇだっ!俺だって……」
「何度も言おうと思ったさ」
「そんなこと言ってんじゃねぇ!!」
 
 不毛な言い合いは延々と続いた。
 その間、オスカーは何度も俺の話を遮った。
 それはまるで、俺の口から出る言葉に怯えているようだった。
 何の根拠も無いが、俺はそう確信していた。
 なぜなら、俺自身が怖かったからだ。自分が出すであろう答えが……。

 ――オスカーの退任

 それは俺が、オスカーかアンジェリーク=コレットか、どちらを選ぶかを意味するものでもあった。簡単に言えば、オスカーと共に外界に降りるか、アンジェリークの居る聖獣の聖地にとどまるか、だ。
 俺自身、その答えを出すのは当分先のことだと思っていた。
 守護聖の退任は、もちろん個人差もあるが大抵は30歳前後だ。
 18歳で聖地に召されたオスカーも、こうした平均的な守護聖と同じ経過を辿るだろうと、俺は信じて疑わなかった。
 それが……まさに青天の霹靂だった。
 こんなにも早く“その日”が来ようなどと、想像もしていなかった。
 無意識のうちに先送りにしていた事実を突然に突きつけられ、俺の頭は激しく混乱した。
 オスカーと共に居たいという想いと、アンジェリークの側に居てやりたいとの想いが目まぐるしく交錯する。
 アリオスとしての思い出が、俺にオスカーと共に行くことを後押しし、レヴィアスの記憶が、俺を聖地へと引き止める。
 俺の心は、まさに窓から見える銀の月と同じだった。一日として同じ形を保てない。あの不実な月と……。

「すまねぇ。俺は……」
『決められない』と続く言葉は、またしてもオスカーによって遮られた。
「迷いがあるのうちは動かない方がいい」
 思い掛けない言葉に、俺は目を見開き、唇をきつく噛んだ。『見透かされてる』と、そう思った。
「また同じ後悔はしたくないだろう?」
 オスカーが、エリスのことを言っているのは明白だった。
 エリスを守りきれなかった後悔が、激しい罪悪感となって、俺の心を今もなお責め立てている。その過ちを二度と繰り返すなと、オスカーは俺に言っているのだ。

 でもオスカー、俺はお前と離れてもきっと後悔する。
 聖地を去ればレヴィアスが後悔し、お前と別れればアリオスが後悔する。
 相反する二つの心がある限り、両方が同時に満たされることなど永遠にありはしない。
 だからお前に“それ”を決めて欲しい。いや、俺の迷いを断ち切って欲しい。
 これは甘えなのだろうか?

「だっだらお前は?お前はどうしたいんだ?」
「俺か?俺は……」

 覚悟を決めた俺の問いに、結局、オスカーは何も答えなかった。
 何も告げずに黙って聖地を去っていった。

 俺がそれを知ったのは、オスカーの退任から3日後のことだった。




 一つ年上になった大人びた顔を、俺は食い入るように見つめる。
 身振り手振りを交えて、現在の近況を話すお前に軽く相槌をうちながら、俺は片時もお前から目を逸らせない。
 そんな俺に、時おり穏やかな笑みを向けながら、お前は話し続ける。
 会話が途切れたら、二人の間に流れるであろう息苦しいほどの沈黙を避けるために、止めどなく話し続ける。
 何の根拠もないが、俺はそう確信していた。

 そうだオスカー。俺には分かる。お前のことは誰よりも。
 分かってるはずなのに、あの時のお前の“答え”だけが分からない。
 なぜ何も言わなかった?
 なぜ言葉にしなかった?
『俺か?俺は……』の後に、お前は何を言いたかったんだ。


「じゃあな」
 そう言って立ち去ろうとするオスカーの声が、俺の思考を現実へと引き戻した。

 形の良い薄い唇に笑みを浮かべながら踵を返すと、緋色の髪が軽やかに揺れた。
 軍人特有の歩行で真っすぐに歩くオスカーの背中は、瞬く間に小さくなっていく

 もう二度と、こんな偶然はないだろう?これが本当の最後だろ?
 それなのにお前はアッサリと去って行くんだな。
 俺のことなど、もうどうでもよくなったかのように。

 オスカー。
 あの時、お前が俺に『一緒に来い』と言ったなら、きっと俺は何もかも捨ててお前に付いて行っただろう。
 後悔はしたかもしれない。
 でも、迷わず聖地を後にしただろう。
 だがお前は“想い”を言葉にしなかった。
 だからお前の“想い”は俺には伝わらない。

 オスカー。
 お前があの時口にしなかった言葉に、俺はいつか辿り着けるのか?
 どうすれば、そこに行けるんだ?
 それが分からない限り、俺はここからもう一歩も動けない。


 溢れそうな滴を零さぬように、俺は空を見上げた。
 不細工に欠けた不実な月が、黙って俺を見つめていた。


 愚かな俺を、静かに哀れんでいた。



Orios Side