フランス漫歩

2010.02.28〜03.06



[パリに向かって]パリに向かう飛行機の出発が12:20、指定された集合時刻が、その2時間前、それで、JR大阪駅8:53発の関空快速で関西空港に向かうことにした。関空に向かうのはほぼ1年ぶり。
 1時間ほどで、JR阪和線日根野に着き、ここで紀州路快速と分割される。関西空港線にはいると、南海電車の路線と合流、大きなビルのあるりんくうタウンを過ぎ、海を渡って空港島へと進む。

関西空港10:02到着、連絡通路を渡り、空港ターミナル4階の団体旅行受付指定ブースへ行く。そこで、空港利用料などを払い、旅行会社の係員から、航空券(eチケットの控え)、ホテルの予約票(バウチャー)、それに、パリ市内の地下鉄などに乗れるカルネという切符10枚をパッケージしたものなど受け取る。

次に、航空券をもって、航空会社のカウンターの列に並び、搭乗券を入手する。飛行機に乗るのに、こういった手順を踏む必要があるわけで、空港に2時間前集合、というのもわかる気がする。
 まだ、旅行保険に入ってないので、去年と同じ会社で、最低のプランに入っておく。去年は、なんのトラブルもなかったわけで、だから、今年は入るのやめ、としてもいいのだが、やめたときに限って・・・、なんてことになるのも、癪だし、で、けっきょく、入ることになる。一度入り始めると、 やめたそのときに限って何かあっては、と思うから、やめられませんね。

次が手荷物検査、いちいち鞄の中、細かくチェックされると時間がかかりそうなものだが、最近は、検査機器が進歩したのか、身に着けた時計、ズボンのバンド、小銭などの金属類と手荷物一切、機械に通すだけ、カラダのほうはゲートをくぐるだけ、いたって簡単に終わってしまう。

そして、出国審査、昔のようにカードに記入する必要もなく、旅券を提示して出国スタンプを押されるだけで、すんなり終わる。
 審査ゲートをくぐり出国フロアの免税品店を横目に、ペットボトル入りの飲み物だけ、確保してから、指定された出発ゲートまでウイングシャトルという連絡電車で移動する。

飛行機への搭乗が始められるまで、まだ1時間近くあるので、椅子に腰かけ、空港へ来る途中で買ってきたパンを、すこしお腹にいれておく。機内で食事が出るのは確かだが、離陸して飛行機が安定飛行に移ってからだから、ふだんの昼食時に比べ大幅に遅くなるのが確実だからだ。

搭乗案内があるまで、おとなしく持ってきた文庫本を読みながら過ごす。今回持ってきたのは、ジョン・ラスキンの『建築の七燈』である。
 近代の建築史に関して学校で習ったことを思い起こせば、彼の思想は、イギリスでアーツ・アンド・クラフツ運動をやっていたウィリアム・モリスに大きな影響を与え、モリスの運動が大陸のほうに影響及をぼして、アール・ヌーヴォー、ユーゲント・シュティールなど世紀末に生じた新しい建築の流れを先導し、そして、技術の進歩と呼応してモダニズム建築へ、とつがっていくことになる。

それで、この文庫本は、1849年に出た本の1880年版の訳本。岩波文庫の一冊として出版されたもの。初版が出たのは、1930年、手元のはリクエスト復刊として2009年に出た12刷だが、言い回しは古臭いは、やたらに漢字が多いは、しかもそれが今は使わない旧字体ときたら、読んでいても、なかなか前に進まない。ほんとに読んで理解できているのかさえ不安ながら、読むだけでも難儀しているのがほんとのところ。

出発の30分くらい前に搭乗案内があって、順々に乗り込んでいく。得た座席は、一番後ろであった。降りるのに時間がかかりそうな位置だが、通路側なので、気がねなくトイレに立てるのがいい。
 定刻くらいに飛行機は動きだしたものの、そろそろと離陸のスタート位置へ移動、ようよう離陸の順番がきてパリに向かって飛び立ったのだった。

飛行機は、近畿を横切り、中部地方を縦断して日本海からシベリアへと飛行する。
 乗った飛行機は、いままで乗った飛行機のように天井からぶら下がったモニターを見るというのとは異なり、各座席にモニターが付いていた。天井ぶら下がりモニターだと、流される映画の内容は限定されていて、見る気になれない場合は、文庫本読んだりしていたが、この新しい飛行機の場合、各座席のモニターから各自映画など好きに選べるようになっていて、選択できる映画の内容も豊富。けっきょく、機内で文庫本は読む気にならず、座席のモニターで映画を何本か見て過ごす。

機内食を取り、間食のカップヌードルをすすり、オレンジジュースを飲んだり、トイレに立ったりして、パリまで、約13時間近くを過ごしたのだった。
 ロシアからスカンジナビア半島の付け根あたりからバルト海を渡り、デンマークからドイツ、ベルギーをかすめて、フランスにはいり、ようようパリのシャルル・ド・ゴール空港に着いたのだった。雨が降ったあとの曇り空、といった天候だった。

空港に着陸したのは、現地時間の16:40頃で、予定時刻17:15よりすこし早く着いたのかと思ったけれど、この空港はとても広く、所定の駐機場所まで地上を延々と走りまわり、ビルと飛行機をつなぐ連絡橋がつながれ、そしてドアがあけられ、飛行機を降りたら定刻くらいになっていた。

[初日のパリ]着いたのは広大な空港施設のなかで、シャルル・ド・ゴール2という大ターミナル、そこだけでも、「柿の種」のような格好をした大きな駐機ビルが西からA・B、C・D、E・Fと南北に対になって並んでおり、飛行機がたどり着いたのは、ターミナルEの一部らしいのだが、E・Fの対から離れて東側にあるビルだった。

飛行機から降りたのは、座席が一番後ろだったこともあり、最後のほうだった。
 用をたそうと、トイレによると、朝顔の位置が日本より高いのに驚いた。はねかいりを防ぐには、これくらいの高さが必要かもしれないけど、違和感ある高さだった。

人の流れを追うようについて行くと、ターミナル間を連絡するシャトルトレインの乗り場があって、それに乗ると本来のターミナルEに運ばれた。
 人のあとについて行くと、入国管理のブースが並んでいて、審査を受ける。フランスの場合、カードを記入する必要がないので助かる。審査といっても、旅券を見せただけで、質問など何もなく、ポンとスタンプを押されて旅券が返された。何か質問されたらどう答えようか、と身構えていただけに、すこし拍子抜けするくらいの簡単な入国審査であった。

その先、預け荷物の受け取りへと、ふつうの人たちは行くが、機内に持ち込んだ手荷物が荷物のすべてなので、また、税関に申告するものも、なにも持ち込んでないので、そのまま出迎えの人たちが待つホールに出る。今回は、誰も出迎えの人はいないので、そういった人たちを横目にずんずん進んで行く。

現在地を確認しないまま適当に歩いていたら、ターミナルEとFをつなぐ広い通路を歩いており、ターミナルFにたどり着いた。帰りの飛行機はここから乗ることになっているから、カウンターの様子などを見ておく。

空港からパリ市内へは、バスのほか鉄道が通じていて、鉄道駅は、C・DとE・Fの対になったターミナルビルの間にあって歩いて行けるので、案内標識に従って進んで行くと、難なく駅にたどり着いた。

この駅には、パリ市内への鉄道路線のほか、TGVの路線が通じている。
 コンコースに自動券売機が並んでいたが、その券売機で使えるのは、カードかコインで、紙幣は使えない。紙幣くらい使える機器を置けよ、といいたくなるがしかたない。並んでいる自動券売機のそばに紙幣両替機があるのを発見、これで、紙幣をコインに換えて切符が買える。

自動券売機は、タッチパネル式のもので、多言語対応、といっても日本語はないので、英語表示にして画面をタッチしていくと、パリ市内までの切符を簡単に購入できた。
 そして、乗り場へ向かおうとして驚いた。改札口が閉鎖されているではないか。確かに、何かの案内があちこちに掲示されていたのは目にしていたのだが、内容まで確認しておらず、切符を購入することに気を取られ、駅が閉鎖、鉄道が運休になっていることに、まったく気がつかなかったのだ。

昨年、ロンドンを訪れたさい、日曜日には地下鉄が補修工事とかで運休する個所がある、なんてことを経験してはいたが、まさか、空港と市街地との連絡路線が運休するとは思っていなかった。
 切符は買ってしまったが、仮に払い戻しができるとしても、はたして窓口で意を通じさせられるかどうか。それより、パリ市街地に行くには、どうすればいいのだ、とすこし焦ってきた。

この駅にはTGVがやってくるのだが、これでパリ市内に行けるのだろうか。RER線が運休するなど想定してなかったので、こんなことは、調べていない。乗ったが最後、トンでもないところに運ばれては、それこそ大変なことになる。ここは、すこし冷静になって、次、何をすべきか考えた。

けっきょく、電車の切符は無駄にするほかなく、ここは、バス乗り場を探しに、来た道を引き返すのが無難との考えに落ち着いた。
 バスは、エールフランスがやっているエアポートバスとロワシーバスというバスがあって、ホテルの所在位置を考え、ロワシーバスに乗ることにした。

バス乗り場は、ターミナルE・Fをつなぐ通路のなかほどにあるのがわかった。待合室に自動券売機が置いてあったが、ここのも紙幣は使えない。先ほど紙幣をコインに両替しておいたので、買おうしたのだが、駅にあるタイプの券売機と違い、操作がよくわからず、うまくいかない。けっきょく買うのをあきらめた。バス車内でもなんとかなるだろう。

しかし、困ったことに、バスが一向に来ないのだ。横にディズニーランド行のバス乗り場があって、そちら方面へのバスはあるのに、オペラ・ガルニエ行がまったく来ない。ガイドブックには、15〜20分間隔であるとあったが、日曜日のせいなのかどうか、まったく姿を見せない。

まだ明るかった空がしだいに暗くなってきた。ほかにバスを待つ人がいたから待つことができたようなものだ。バス待ちの列の途中に並んだのだが、たぶん1時間くらいバスがこなかっただろうと思える。あたりが暗くなってようやくバスがやってきた。

バスは2台つながった連接車で、切符をもたずともバス車内で運賃を払うことはできた。バスは満員、早くから並んでいたおかげで、座ることができたのはさいわいであった。
 空港から市内へバスは走る。暗くなったなか走っているので、あまり街並みの様子はわからない。大きな操車場のような鉄道施設のそばをとおり、市街地をとりまく外周道路をしばらく走り、市街地にはいっていった感じ。街灯に照らされた様式建築風装飾をもつ街並みに、初めてパリを感じたのであった。

空港からノンストップ、40分あまりで、オペラ・ガルニエ、つまりガルニエが設計したオペラ座の横に着いた。
 傘をさすほどではないが、小雨が降っていた。暗いなか、バスを降りてから、立ちどまってガイドブックを出して、これから進むべき方向を確認し・・・なんてやっていられる状況ではないなと感じられた。いかにも、私には行くべき目的地があるんです、といった態で、バスを離れていかなければならないな、と思ったのだ。

オペラ座とホテルの位置関係は、ガイドブックの地図をよく見て、頭にいれていたので、バスを降りてから、まず、コンパス(方位磁石)で、進むべき方位を確認してから、すぐに歩き出した。
 まだ、午後8時をまわったころだったが、たいがいの店が休業する日曜日のせいなのか、人通りもほとんどない。交差点そばに付近の地図が掲げられていたので、信号待ちしつつ、改めて位置を確認し、歩いて来た方向に間違いのないことにすこし安心、さらに進むべき方向を再確認した。

道路が縦横十文字に交差しているだけなら、わかりよいのだが、パリの街のように、斜めに道路が交差してたりすると、うっかり違った道に進んでしまったりする。  (翌日も、実は、日が暮れてから同じようなルートでホテルまで歩いたのだが、道を取り違えて、すんなり帰り着けなかった。パリに来た早々、道に迷うことなくホテルにたどりつけたのは、いま思うと、奇跡的だったのかもしれない)

オペラ座の北側にはデパートなどが並んでいるのだが、日曜日は休みでひっそり、街角に何気なしに人が立っていたりすると不気味、小雨を避けるように寝ているホームレスの姿も目にした。足早に通り過ぎる。

位置確認の目印となるサント・トリニテ教会を過ぎ、間違いない道を選んでホテルへ近づいていることを確信してから、通り名の入った詳細地図を出して、正確な位置を確かめた。パリの住所は通り名で表示されるようで、通り名は、通りの角に掲示されており、すぐわかる。

次の通りが目的の通りであることがわかり、すこし余裕がでてきた。コンビニのような商店が開いていたので、そこで飲料水などを購入しておく。バスを降りてから30分ほど歩いて、ようやくホテルに着いた。

ホテルのフロントで、予約票を渡すと、ルームキーをくれた。いい部屋なのかどうかより、とにかく落ち着きたかった。現地時間の午後8時半過ぎ、日本時間では、時差8時間あって翌日の午前4時半、なかば徹夜状態ながら、空港に着いてからのいろいろで、すこし興奮ぎみ、眠たい感じはなかった。

部屋にはシャワー設備しかなく、隣の話し声もよくもれてくる。あまりよいホテルとは思えなかったが、それでも、部屋に掲げてある料金表によると、1泊175ユーロとあって、パリのホテルは、質の割にすこぶる高いと思った。ひとりで泊まるからなおさらなのだが・・・。

[パリ(その1)]あまり熟睡した感じがしないまま朝を迎える。天気がよければ、ル・ランシーのノートル・ダム教会を見に行こうと考えていた。電車に間違いなく乗るためには、下車する駅名はもちろんのこと、どこ行きの電車に乗らなければならないか、メモ帳にメモして、いちいちガイドブックなどを見直さなくてもいいようにしておいた。フランス語表記の発音は、英語のように読むと、まったく違う場合があるので、間違いないように手っ取り早く確認するには、必要な地名をメモしておくに限る。

朝6時過ぎに起きると、外はまだ薄暗く、明るくなるのは7時を過ぎてからのようだった。
 テレビをつける。フランス語は、かいもくわからないが、今日の天気がどうか知りたいわけで、適当にチャンネルをあわせ、モーニングショーのような番組のなかでやっている天気予報を見つける。しゃべっている言葉はわからないけれど、画面をみていると、天気の様子はある程度察しがつく。今日の天気はよさそうだ。

7時からホテルの朝食の時間で、地下の食堂でパンなどたらふく食う。ここは小さいホテルだが、日本人観光客の利用も多そうだ。この時期、春休み、卒業旅行でパリを訪れている大学生が多い。
 すっかり明るくなった7時半過ぎにホテルを出て、まず、フランス国鉄(SNCF)のサン・ラザール駅に立ち寄る。駅の様子の観察、時刻表などの資料の入手のためだ。

郊外から通勤客を乗せた列車がやってきては、ホームから地下鉄の乗り場のほうへと人の流れが続く。
 ホームに改札口はなく、切符に日付などを印字する機械(刻印機)が設置されていて、乗る人が各自、それを使って、切符に日付を入れて列車に乗る。切符のサイズにより刻印機は2種類ある。

切符の自動券売機はあるが、コインかカードしか使えない。混んでないので、せっかくなので、自動券売機をためしてみる。後日、行ってみようと思っているルーアンを行き先に選んで操作、タッチパネル式の画面、英語表示にして、適当に操作するうちに、だいたい操作方法がわかった。いま切符を買うわけでないが、ルーアンまで片道20.5ユーロであることがわかった。往復は倍額である。

サン・ラザール駅をあとにオスマン・サン・ラザール駅に行く。地下に入り、長い通路を歩かされて改札口まできた。自動券売機で切符を買う。操作は、先ほど練習したので慣れたもの。空港など主な駅名はパネル上に表示されているが、それにない駅は、画面を切り替えて、駅名入力、アルファベットの最初の文字を入力すると、それが頭に付く駅名がいろいろ表示されて、そこから目的の駅を選ぶ。アルファベット表記の駅名をメモしてきたので、目的の駅名もすぐに見つけ出すことができる。ル・ランシーまでの切符をコインで買って、改札を抜ける。

サン・ラザール駅のような国鉄駅には改札はないが、こちらには自動改札口があって、最初、どうするかわからずとまどうが、切符を投入するような隙間があって、入れると日付など印字されて出てくる。ICカードに対応した改札口もある。

日本の自動改札の切符には裏面全面に磁性体が塗布されているが、ここのは、切符の中央部幅5mmほどの帯状で、長手方向に塗られているだけだ。
 改札には、バーとその先に扉が付けられていて、切符を引き抜くと、バーが軽く動くようになって、カラダで押し入ると扉も開く。バーだけだと無札で飛び越える人がいるから、扉も付けた、という感じ。

どこの駅だったか忘れたけれど、実際、扉のないバーだけの改札口を乗り越えている人を見たことがあるし、これはメトロでだが、出口の扉をあけたとき、そこを通り合わせた人が出口からはいってくる、なんてことがあった(改札入るのに、切符を使わなくてよいわけで、無札なのだ)。係員に見つからなければなにやってもいい、って感じだ。ガイドブックには、まれに車内や連絡通路で検札が行われることがあるとあったが、一度も出合ったことはない。

パリ市内の鉄道路線には国鉄のほか、RATP(パリ交通公団)がやっているメトロ(地下鉄)が14路線(1、2、3・・と数字で呼ばれる)とRER(高速郊外鉄道)が5路線(A、B、C、D、Eとアルファベットで呼ばれる)走っていて、RERの路線は、市街地は地下を走るが、郊外では地上に出てSNFCの路線に乗り入れ(フランスの鉄道路線は複雑で、詳細はよく知らないが、乗り入れと いうより複々線で走っている感じ)、行き先も2、3枝分かれしていてるとこもある。空港と市街地を結ぶ、昨日乗れなかった鉄道はRERのB線である。

オスマン・サン・ラザール駅は、RERのE線の地下駅で、地下でものすごく大きな空間を作ったな、と感じさせるような大きな地下駅だった。この駅は、始発駅で、末端の行き先は2箇所あって、乗り間違えないようにしないといけない。通勤の乗り換え客など乗りたい電車に乗るために、地下構内をダッシュしている人も見受けられるが、間違えないように、モニターで表示される出発時刻、行き先を確認しながら最地下のホームへ降りていった。

乗ったのは、Chelles Gournay行の二階建ての電車である。日本では定期的に車体を洗浄してきれいにしているが、こちらはそんなことされてないようで、埃まみれで、大きな落書きがあってもそのままである。窓ガラスも埃でくすんでいる。車内もでかでかと落書きがあったりして、日本よりあきらかにきたない感じ。

電車は郊外に向かう方向だから空いていた。座席に座っていると、勝手にドアが閉まり、電車が動き出した。細かい車内放送はないが、車内放送は、何かやっているようである。たぶん、駅名の案内だと思うのだが、何をいっているか言葉はさっぱり聞き取れない。

頼りにできるのは、ドアのところに掲げられている路線図である。ホームに掲げられた駅名と路線図とを見比べて、下車する駅まで、あといくつ、と気をつけるほかない。
 ただ、注意しないといけないのは、この路線図、同じものが左右のドア上に掲げられている。片側は、電車の進行方向と、路線図の駅の位置方向が同じだが、反対側は逆になり、とくに途中から電車に乗った場合、混乱してしまう。国鉄線やRER線の電車は左側通行しているから、進行方向左側ドアの路線図を見ればよい、ということがわかってくれば問題ないのだが。

つぎのマゼンタ駅は、RERのB線、C線の北駅との乗り換え駅で、国鉄のパリ北駅ともつながっている。しばらく走ると地上に出て、パリ東駅から出ている路線と複々線のような格好で走る(実際はもっと多くのレールが並んでいたように思うが、どのような路線なのか、よくわからない)。

オスマン・サン・ラザール駅から20分ほどでル・ランシーに着いた。電車から降りるときには、ドアについているボタンを押してドアをあける。日本のJRの電車にも冷気・暖気を逃がさないため、長く停車する駅ではボタンを押してドアをあける、ことをやっているのでとまどいはない。ドアのロックが外れる音と同時にドアを開けると、電車がまだ完全に停まってなかったりすることもある。

この駅、正式には、Le Raincy Villemomble Montfermeilという長ったらしい駅名のようだ。築堤になった路線のホームから南のほうに教会堂が見えたのので、あれがそうかと早合点して行ってみる。 郊外住宅が建ち並んだ一角にある高い尖塔のある教会堂、でも、なんか、写真で見知った雰囲気と違う。

改めて、駅に戻り、駅の案内板で所在を確認するとまったく違っていた。めざすノートル・ダム教会堂は、駅の南側ではなく、北側にあった。由緒ありそうな教会堂がいたるところに建っているから、 注意しないといけない。

駅から北へ5分ほど歩いたところにあるノートル・ダム教会堂は、1923年に建てられたもので、設計はオーギュスト・ペレ。ペレは、最初期の鉄筋コンクリート造を行った建築家として知られ、若かりしコルビュジエが一時期、彼のもとで働いたりしている。

この教会堂の特徴は、鉄筋コンクリート造で、しかも仕上げが、世界初といわれる、打ち放しなのだ。コンクリートの仕上げ表現として打ち放しは、いまや安藤さんはじめ、多くの人たちが手がけて きているが、これが、その最初の実例といわれる。

当時、コンクリートは、石に替わる材料として用いられ、表面には石などを張り付けて仕上げられていた。しかし、この教会堂は、予算の制約で、それができず、打ち放しになった、ということを、昔、藤森先生から聴いたことがある。

ゴシック調の高い鐘楼が正面中央にそびえ、堂内にはいると独立柱32本で半円筒ヴォールト天井を支え、壁は網目状のスクリーンブロックがつまれ、そこにはめられた色ガラスから入ってくる光が堂内を照らしている。それで幻想的な室内空間を創っている。

ここには、日本語のパンフ(日本で出版された近代建築に関した書籍からのコピー)も置かれていた。近代建築に関心がある人たちが訪れるのだろう。
 教会堂を見学したあと、次はサン・ドニに大聖堂に行くことにした。ル・ランシー駅に戻り、ここからパリ市内方向に2駅戻ったNoisy le Sec駅に向かう。自動券売機で切符を買うのにも慣れてきた。

オスマン・サン・ラザール行の電車に乗って、Noisy le Sec駅で下車する。掘り割りのようなところを線路が通っており、跨線橋をあがったところに駅舎があった。駅前、線路をまたぐようにしてある道路上にトラム(路面電車)が走っていて、ここからサン・ドニまでのT1という路線である。
 電車は、2両1編成になったもので、その格好は、日本でも、たとえば富山ライトレールで走っているような、軽快そうな電車である。

日本を発つとき、旅行会社からパリ市内の地下鉄などに乗れる切符10枚を受け取ったが、パリ市内の自動券売機でも売られているカルネという10枚一組でパッケージされた回数券である。パリの交通機関の運賃は、ゾーン制で、この切符で、パリの中心部を走るメトロ(全線)、RER線に使えるほか、バスやこのトラムにも乗ることができる。
 オスマン・サン・ラザール駅から乗ってきた、RER線の場合、ル・ランシーは、このゾーンから外れるので、この切符が使えず、別に切符を買ったわけだ。

このトラムで、回数券を初めて使ってみる。
 ここは、始発駅で、けっこう利用者がいる。何ヶ所かの乗降口から車内に入ったところには、刻印機が設置されていて、ホームで購入した切符などをそれに挿入して、日付などを印字してもらう。降りるときは、そのまま下車するから、無札でも、その気になれば乗り降り可能である。

じっさい見ていると、律儀に刻印機で印字している人がほとんどだが、なかにはそのまま何もせず下車していく人もいる。係員による車内検札がほとんど行われないのだろう。
 電車はパリ郊外、北東部の10キロほどの区間を走る。日本と、さほど変わらない格好をした高層住宅などが建ち並んでいたりする。

La Courneuve-8 Mai 1945という、いわくありげな電停(メトロ接続駅でもある)があったりし、サン・ドニに近づき、昔からの街並みになってきて、45分くらいかかって、国鉄・RER線のSaint-Denis駅前に着いた。トラムの途中で下車してもよかったのだが、ここから東へ2kmほどのところにあるのが、サン・ドニ大聖堂である。サン・ドニの街並みをぶらぶらしながら見に行く。

トラムが前を走る教会堂は、1866年に建てられたサン・ドニ・ド・レストレ教会堂である。この教会堂は、ちょうど、サン・ドニ大聖堂から西に伸びる軸線に向かい合うように建っている。そこから人が行き交う商店街のような通りを進んでいくとサン・ドニ大聖堂があった。

西洋の建築史で習ったことのおさらいだが、ヨーロッパ独自の建築様式としてロマネスク建築があるが、フランスでは10世紀末から11世紀のはじめに建てられたもので、修道院を舞台に、修道士による修道士のための施設、という建築である。

このロマネスク建築とは性格のまったく異なる建築が12世紀中頃から北フランスで建てられ始めたのが、ゴシック建築で、かんたんにいえば修道院の閉鎖的なものから一般民衆の信仰のための聖堂として建てられていったものだ。

それで、このサン・ドニ大聖堂は、そういったゴシック建築の原型といわれるもので、元々は、王家の廟所であった修道院を1140年ごろからここの院長シュジェが改築しはじめた。玄関廊(ナルテクス・1140年献堂、南塔は1148年完成)の真ん中に大きなバラ窓を配置してあって、三つの出入口が西側にある。これを調和正面というのだそうだが、この聖堂こそゴシック大聖堂の定型の第一歩を示すものだそうである。

内陣の改築(1144年献堂)では、周歩廊と放射状祭室に尖頭アーチと交差リブ・ヴォールトを活かした天井ヴォールトをかけ、柱間にいっぱいにステンドグラスを配し、明るい光の空間を実現している。ステンドグラスはもちろんキリスト教に関係したさまざまな図像が描かれる。
 教会堂を見学して、昼頃になった。街中にはマクドなどもあったが、きょうは、日本から持ってきたパンが残っているので、これをを昼食とした。

サン・ドニ大聖堂の近くにあるメトロ13号線のバトリク・ド・サン・ドニ駅から地下鉄に乗ってモンパルナス駅に向かう。メトロには、回数券が使え、RER線の改札同様難なく抜ける。注意しなければならないのは、電車の行き先である。RER線では、電車は左側通行していたが、メトロでは右側通行しているようだった。なにげなく、日本と同じように左側通行のつもりでホームに立つと、逆向きの電車に乗ってしまうことになる。

ホームには駅名が、でかでかと描かれているが、長ったらしいアルファベット表示だからそれを見て、いまどこ、次どこ、というのを判断するのはたいへんだ。だから、乗り込んだ駅から下車する駅まで、駅の数を確認し、停車するたびに、ひとつ、ふたつ・・と数えて、下車するほうが賢明に思えた。

乗り込んだ最初のうちは、下車する駅がかなり先なので座席に座っていたが、いくつか駅に停車するうちに、下車する駅があといくつ目の駅かわからなくなってきて、けっきょく、席を立って、ドア上に掲げられている路線図の駅名と、ホームの駅名を照らし合わせて、あといくつ目と確認するほかなかった。

地下鉄電車のドアも開ける操作は下車する人が行わなければならない。ドアのところについているレバーに、それを動かす方向の矢印が掲示されてもいるが、下車する人の様子を見ていれば、どうしなければならないか、わかってくる。

このドア開けのレバー、路線によっては、ボタン式の新しい電車が走っている場合もあるし、メトロ14号線のように自動運転がされ、ホームドアが設けられている新しい路線では、電車のドアも自動で開く。

ロダン美術館最寄りのヴァレンヌ駅だったと思うが、「考える人」像がホームに建っていた。サン・ドニから電車に乗って30分ほどで、モンパルナス・ビヤンヴニュ駅に着いた。国鉄モンパルナス駅につながっており、地上にでると60階建てのモンパルナス・タワーが駅に向かい合って建っている。

モンパルナス駅舎は、モダンスタイルの駅舎で、大きな駅である。ここまで来たのは、時間があれば、ここから電車に乗って、シャルトルまで行くことを考えており、時刻表を入手したり、駅の様子を確認にきたわけだ(けっきょく、今回の旅行中に行けなかったが)。ついでに待合室のトイレも借用、ただし有料である。

パリには多くの美術館、博物館があるが、きょうは月曜日で休館しているところが多い。で、街歩きすることにして、まず、ここから地図をたよりにエッフェル塔のほうに向かって歩き始める。
 モンパルナス駅に沿って西に向かい、パストゥール大通りを北に向かう。近くにパストゥール研究所があるらしい。メトロ6号線が地上に出て高架を走る。シェフラン大通りを行くとユネスコ本部がある。

陸軍士官学校(1753〜75年 アンジュ−ジャック・カブリエル設計)の向かいにあるシャン・ド・マルス公園がエッフェル塔へと広がっている。エッフェル塔は、1889年、フランス革命百周年を記念して行われた第四回パリ万国博覧会のときに建てられた鉄塔で、設計はフランスを代表する鉄骨構造の技術者ギュスターヴ・エッフェル。

エッフェル塔の足もとにあるイエナ橋でセーヌ川を渡るとシャイヨ宮の前に広がるトロカデロ庭園がある。シャイヨ宮は、1937年第六回パリ万国博覧会の展示施設として建てられた建物で、現在は、各種の博物館として利用されている。
 通りに面してアパルトマンが並んでいる界隈を歩く。ガイドブックを見るといろいろ記念館とか博物館があるようだ。

円形のフランス放送会館を過ぎてしばらく行くと、くねくねした鉄細工の門扉を見つけた。パリで最初に建てられたというアール・ヌーヴォー建築カステル・ベランジェである。1898年頃建てられたもので、設計はエクトール・ギマール、装飾された壁面のテラコッタや彫刻に流れるようなアール・ヌーヴォーの曲線が見られる。 
 ほかにも、この界隈にはアール・ヌーヴォーで装飾された建物が散見され、ギマール自邸(1912)なども残っている。

表通りから少しはいったところにあるのがコルビュジエのラ・ロッシュ、ジャンヌレ邸である。コルの支援者であるロッシュと実兄のための2棟続きのL字型の白い建物である。1923年から1925年にかけて建てられたもので、現在、ル・コルビュジエ財団の本部になっている。ラ・ロッシュ邸の部分が公開されていて、訪れたときも、建築をやっていると思われる日本人学生が何人か来ていた。

この建物には水平連続窓があったり、ピロティで浮かせているところなど、コルの「近代建築の5原則」を感じさせるものだが、通りから少し引っ込んだところにある建物を見て、まわりを取り巻く数階建てのアパートに取り囲まれた旗竿のような感じの敷地に建つ都市型住宅の原型を感じてしまった。

日本の都市型住宅と違い、ここは敷地面積も広く、木立もあり、余裕があり、ピロティ部分も細い柱があるだけなのだが、日本ならそこにクルマが停められるスペースとして機能するのだろうな、なんて思いが広がった。

入口をはいると広い吹き抜けのホールがあったり、ピロティ上の2階の部屋は湾曲した壁面に沿って、少し勾配がきつめながらスロープで3階につながっていたり、屋上庭園があったりする。建物のなかで回遊性があって歩きまわるのが楽しくなる、住居とギャラリーをかねた住まいであることが体感できた。
 館内にはコルの絵画や家具なども置かれている。お土産にコルが関与した建物の写真、所在地などが記された地図を購入する。

メトロ9号線ジャスマン駅から地下鉄に乗り、ストラスブール・サン・ドニ駅、ここは8号線4号線との接続駅でもある、で下車した。地上に出ると、近くにサン・ニド門とサン・マルタン門という17世紀に建てられた門がある。
 ここから南のほうに数百m行ったところにポンピドゥー芸術文化センターがある。ここへは、メトロの最寄り駅が別にあるが、乗り換えに時間をかけるより歩くほうを選んだ。

ポンピドゥー芸術文化センターの建物は、レンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースの設計で1977年に建てられた建物、ハイテック・スタイルと呼ばれる建築の先駆けとなったもので、鋼管フレームによる構造体、設備のための配管などがむきだしになっていることなど、当時、景観論争を呼び起こしたことでも知られる。確かに、パリ市内の旧来からの景観からすれば、浮いた外観ではある。

4、5階には国立近代美術館がはいっていて、外部に設けられた透明チューブのエスカレーターで登って行く。訪れたときは、5階の近代絵画などが展示されているフロアは閉鎖されていて見られなかったのが残念。6階のギャラリーではPierre Soulagesの"painter of black and light"という作品展が行われていた。6階まで上がるとけっこう高く、カフェが設置されているのだが、パリ市内が見渡すことができる。そのあと4階の現代美術のさまざまな作品が展示されているフロアを一巡する。

ここの美術館は午後9時までやっていて、夕方訪れてもゆっくり見ることができる。近代美術のフロアが見られなかったのが残念であるが、しかたない。ポンピドゥー・センターをあとに西のほうに向かって歩く。

夕食時分になって、どこで食事しようかと思うところなのだが、なにぶんフランス語をまったく解しないし、英語も自信があるとはいえない。けっきょく、日本語の通じるところで食事するほかない わけだ。ガイドブックの案内に従い日系食堂がいくつかあるメトロ・ピラミッド駅近くのSte-Anne通りへ行くことにした。

 
その通りの一軒で夕食、日本円に換算すると、割高な感じである。日系食堂でチップを渡す必要があるのかどうか、迷うところだが、まあ、パリまで来て、せこいことしてもはじまらない、というか、 そこは気前よく払ってやることにしよう。料金よりちょっと多めの金額をお札で出して、釣りを受け取らずにそのまま出てきた。

食事を終えてオペラ大通りに出てくると暗くなっていた。人通りも多いし、昨日のように大きな荷物を抱えてるわけでもなく、そんな物騒な感じもないので、ここから歩いてホテルまで帰ることにした。距離は2kmほどだ。
 ガルニエのオペラ座のそばを通り、昨日と同じ道をたどったつもりだったのに、まったく違う道を取ったらしく、どこにいるかわからなくなって、少しあせった。小一時間かかって、なんとかホテルに たどりつけたけれど。

 

[パリ(その2)]あまり熟睡した感じがしないまま朝を迎える。天気がよければ、ポワシーへサヴォア邸を見に行こうと考えていた。
 夜の間に雨が降ったようだが、すでに上がっており、きょうも天気はよさそうだ。
 7時からホテルの朝食の時間で、地下の食堂でパンなどたらふく食う。

サヴォア邸が公開されるのは、朝10時くらいからと思われるので、それまで、モンマルトル界隈を歩いてみようと思った。モンマルトルの丘は、ホテルから北東に1kmほどのところだから近い。
 パリの朝は、いたるところゴミ回収やら歩道の清掃やらの仕事人が働いている。歩道には、犬の糞がそのまま、ということが多く、気をつけなければならない。

クリシー大通りに面して建つムーランルージュの前に出た。赤い風車が載っているナイトクラブである。
 そこからモンマルトルの丘に登って行く。メトロ12号線のアベス駅のあるアベス広場、メトロの出入口は、ギマールのデザインしたもので、アール・ヌーヴォーの装飾が残る。広場に面してあるサン・ジャン・ド・モンマルトル教会堂は、1894-98年に建てられた鉄筋コンクリート造による初めての教会堂ということだ。

坂道、階段などたどるとユトリロの描いたパリの情景が残っていそうな雰囲気のある街並みである。
 丘の頂にあるのが高さ約80mの大きなドームを載せた白亜のサクレ・クール聖堂である。ビザンティン系ロマネスクをリバイバルさせたもので、アバディの設計、1876-1914年に建てられた。大きなドームを持ち、左右対称に小ぶりなドームがある姿は均整がとれ絵になる聖堂である。南側には、パリの市街地を見渡すことができる。

モンマルトルの丘から適当に道を下ってくると、ロシュシュアール大通りに出た。メトロ2号線アンヴェール駅に行くつもりが、反対方向に歩いてしまい、4号線との接続駅でもあるバルべス・ロシュシュアール駅に着いた。2号線のほうは、この駅の手前で地上に出て、高架に対面式の駅がある。メトロは右側通行であるから、それを意識して高架ホームへの階段を登った。

メトロ2号線の電車に乗る。この路線は、いろいろな路線と接続しているので、ラッシュというほどの混みようではないが、乗り降りが激しい。
 シャルル・ド・ゴール・エトワール駅で下車する。この駅は、エトワールの凱旋門のそばにある駅で、地上にでると、門が建っていた。

ジャン−フランソワ・シャルグランの設計で1836年に建てられたもので、新古典主義建築を代表する建物のひとつ。オーダーはなくて、単純な幾何学的形態の巨大な門の壁面には彫刻による豊かな装飾がなされている。古代ローマ皇帝の慣例にのっとり、ナポレオンの戦勝を記念して計画されたもので、代表的な戦いなどの彫刻で飾られている。

凱旋門を見上げてから、今度は、RERのA線に乗って、サヴォア邸のあるポワシーに向かう。ポワシーは、回数券が使える範囲外なので、自動券売機で切符を買った。
 A線は、パリ中心部を通り東西に伸びている路線なのだが、路線が、西側では3カ所に分かれいて、そのひとつの終点がポワシー(Poissy)なのである。駅ホームに全駅が縦に並んだ、『時刻表』タイプの一枚ものの時刻表が掲示されていたので、電車の時刻を調べようとした。

路線は、先で3方向に分かれるはず、と思ってその時刻表をみていたら、列車が停車しないとか、ほかのルートを経由する、という記号(たとえば、「|」のような)がなくて、見慣れた『時刻表』の印象からすると、電車がそのまま行く、というより、乗り換えて行く、と間違った解釈をしてしまったのだった。

それで、行き先をよく確認もせず、分岐する駅で下車すればいいだろうと、やってきた電車に乗ったのだった。
 次のラ・デファンス・グラン・アルシュ駅は、新凱旋門最寄駅で、この界隈には個性的な現代的オフィスビルが並んでいるようだ。駅は地下にあってそこらあたりの様子はわからないが、すこし広い構内を有する駅で下車する通勤客も多い。

次のNanterre Prefecture駅が分岐駅で、ここで下車すればいいのだな、とドアの前で用意していたら、電車は停車せず通過してしまい、そのうち地上に出て、次のNanterre Universite駅に停まったのであった。駅名からして、近くに大学があるのだろう。あわてて下車した。

この駅には、すこし離れて別のホームがあったが、それは、サン・ラザール駅から伸びている国鉄線であった。RER線のパリ市内方面行電車は同じホームの反対側にがくることがわかった。
 しばらく待って、パリ方面行電車に乗り、次のNanterre Prefecture駅で下車した。下車した同じホームの反対側で電車の行き先を確認すると、こちらもパリ市内方面行で、この駅は2層構造になっていることがわかり、反対方向の電車に乗るには別のフロアに行かなければならないようだった。

あわててホームを移動して、ホームの電車行き先案内掲示板のPoissyにランプがついているのを確認して、次の電車に乗った。しばらく走ると地上に出た。こちらの路線もサン・ラザール駅から伸びている国鉄線と複々線となっている。

まだ、分岐駅で乗り換える必要がある、と思い込んでいたので、分岐駅のMaisons Laffitte駅に着くなり下車してしまった。
 ところが、乗り換えの電車などどこにも停まっておらず、電車が出て行ってから、そのまま乗っていてよかったことに気がついた。しかたなく、次のPoissy行きを待って、ようやくポワシーに着くこと ができた。シャルル・ド・ゴール・エトワールから30分くらいで着くはずが、倍の時間かかってしまった。やれやれ・・
 この駅はサン・ラザール駅からの国鉄線の駅でもある。

ポワシー駅前の観光案内板にもサヴォア邸が載っていて、この街では、名所のひとつのようだった。駅から歩くと20分くらいかかるのだが、道案内の標識も出ていて迷うことはない。バスの便もあるようだ。

サヴォア邸は、コルビュジエの代表作のひとつである。サヴォア家の週末別荘として1931年に建てられた。コルは、1927年に、いわゆる「近代建築の5原則」というのを明文化するのだが、サヴォア邸は、この5原則−ピロティ、屋上庭園、自由な平面、横長連続窓、自由なファサード、を集約して表現されたものとされる。

教科書で見知った建物、広い敷地に建つその姿にすこし感動する。細い柱に支えられ空中に浮いたような四角い白い建物のまわりを一周し、そして室内空間を堪能する。地元の高校生のような団体も来ていたが、建築をやっている学生だと思える日本人も多かった。

ポワシー駅に戻り、パリ市内までの切符を買って改札を抜ける。RERのA線の行き先のひとつは、Maなんとかという駅だった、とうろ覚えのまま、そのMaだけを見て、ホームに上がってしまった(正確にいえば、その駅は、Marne la Vallee Parcs Disneylandというディズニーランド最寄り駅らしいのだが)。

よく確認すればよかったのだが、やってきたのは、Mantes la Jolie行であった。Ma・・la・・が似ているとはいえ、まったく違う駅だったのだ。
 パリ方面からやって来たので、ここで折り返すのだろう、くらいに考えて乗り込んでみたものの、終点なら下車するはずの人たちが乗ったまま、おかしい、違うと思っ瞬間、ドアが閉まり、電車は動きだしてしまった。

きょうは、朝から乗り間違いばかり繰り返している。
 駅付近に家々がすこし、まとまって建っているVillennes sur Seineという国鉄駅で下車することになってしまった。こんなことがなければ降りることがないようなところである。

駅舎はあるが、ちゃんとした改札口はなく、下車した乗客は適当に構内から出ていった。あまりうろうろして、変に思われると困るので、ここではおとなしく、反対側のホームへ跨線橋を渡って、パリ方面行を待つ人になったのだった。
 たまに、急行列車が走る。しばらく駅で待っていると、電車に乗る人も集まってきて、サン・ラザール行の電車がやってきた。ポワシー駅でRER線に乗り換えるのも面倒になって、このまま、サン・ラザール駅に向かうことにした。パリはゾーン制だから、RER線で市内へ行こうが、国鉄で行こうが同額のはずなのだ。

[パリ(その2)]サン・ラザール駅に着いた。改札もなく、そのまま、乗客たちはメトロ乗り場などへ進んでいく。何事もなかったように、あとに続いて駅をあとにした。
 もし、ポワシー駅で、電車を乗り間違えないで、RER A線で戻ってきたときは、オーベル駅で下車するつもりだったので、予定より30分ほどはロスしたように思えるが、サン・ラザール駅から歩き始めても大きな違いはない。

駅前からトロンシェ通りを南に下ると、古代神殿を思わせる巨大なコリント式柱列が周りに並ぶ新古典様式のラ・マドレーヌがある。18世紀なかばに起工された建物だが、ナポレオン帝政下で「栄光の神殿」として工事が進められたものので、設計はピエール・ヴィニョン、1842年に完成したときに、すでにナポレオンは亡く、当初の教会堂に戻された。

カプシーヌ大通りを東にとって、進んで行くと、オペラ大通りと交差、そこにガルニエのオペラ座がある。1861年ナポレオン3世が建設を命じ、行われた設計競技でシャルル・ガルニエが入賞を果たす。ナポレオン3世の第二帝政期(1852〜70年)様式を「スゴンタンピール」といわれるが、その代表例である。

 そのまま、道なりに進んでいくと、オスマン大通りに合流し、その近くにあるのが、パッサージュ・パノラマである。1800年頃に設けられたもので、パリに残るパッサージュの中でもっとも古い形式を保持しているといわれる、狭い通りに店舗が並ぶアーケード商店街である。

お腹がすいて来たので、道すがら、フランスパンにハムなどを挟んだのを売っているパン屋があったので、そこにはいって求める。何種類かあったが、無難そうなのを、これこれ、と指差しで選んで、なんとか買えた。飲み物とかもあって、店内で食すこともできるようだが、30cmくらいのパンをかじり ながら歩く。道で歩きながら食べている人とか、屋外でそんなものを食べている人はけっこう見かける。

南に進むと証券取引所があった。柱列の並ぶ新古典様式の建物。南西方向のシテ島を目ざし、円形の商品取引所のそばなどを通りながら、適当に道をとって、しばらく行くとセーヌ川べり、ポン・ヌフのそばに出た。川べりの歩道には、土産物、古本などを並べた屋台が並んでいる。

サンジュ橋を渡りシテ島にはいり、パリのノートルダム大聖堂のほうに向かう。この聖堂は、1163〜1250年頃に建てられたもので、初期ゴシックの大聖堂の代表である。
 シテ島から南側のカルチェ・ラタン界隈を徘徊する。3世紀頃のローマ植民地時代の公衆浴場跡とゴシック様式の修道院長邸宅で構成される中世美術館(火曜日は休館していた)やソルボンヌ大学がある。

その近くにパンテオンがある。サント・ジュヌヴィエーヴ教会堂として着工されたが、フランス革命を経て1790年の完成後は、フランスの国民的偉人の墓所とされた。
 平面は十字形で、中央に巨大なドームを載せている。バロックから新古典主義への転換期の建物で、ジャック−ジェルマン・スフロの設計。

パンテオンの北側には、サント・ジュヌヴィエーヴ図書館がある。アンリ・ラブルーテトの設計で1843〜50年に建てられた。ファサードはネオ・ルネサンス様式で古典的な外観をしているが、室内では、鋳鉄を露わに使用し、鉄とガラスを使った最初の公共建築らしい。

また、パンテオンの北東側には、サンテティェンヌ・デュ・モン教会堂がある。1517〜1625年に建てられたもので、ゴシックの影響のもとにルネサンス風もみられるという教会堂である。

パンテオンのあるサント・ジュヌヴィエーヴの丘からシュリー橋のほうへ下っていく。アラブ世界研究所へ行こう思っていたのだが、途中、工事をやっていて歩道を歩けないものだから、それを避けるように進んでいくうちに、パリ第6・7大学の構内に迷い込んでしまった。けっきょく、通り抜ける通路を見つけることができず、たまたま見つけたトイレを借用してもと来た道を引き返して外に出た。

アラブ世界研究所は1987年に建てられた現代建築で、ジャン・ヌーヴェルの出世作といわれるものだ。南側は細かなアラベスク模様で壁面を埋めており、入口は、建物の谷間のような狭い通路をはいっていく。

歩みを西方へ転じて、サン・ジェルマン・デ・プレ界隈を徘徊。いろんな商店がある地区のようだ。「無印良品」の紙袋を下げて歩いている人も見かけた。
 オデオン座のそばを通り、リュクサンブール宮殿へ。この宮殿は1615〜24年に建てられたもので、アンリ4世が王妃マリー・ド・メディシスのために建てたフランス古典主義による宮殿、王妃が幼少を過ごしたフィレンツェのパラッツォ・ピッティに倣ったことで、イタリア風も混じる建物、設計は王室建築家に任命されたサロモン・ド・ブロッス。南側(前庭)は広い公園になっている。

宮殿から北のほうに行くと初期のフランス新古典主義的な傾向をもつとされるサン・シュルピス教会堂がある。この教会堂は、1733〜45年に建てられたもので、双塔のファサード部分は、イタリア人建築家ジョバンニ・ニッコロ・セルヴァンドーニに設計になり、すでに完成していた建物に付け足されたもの。ドリス式にイオニア式オーダーを2段に積み上げ、バロック的なにぎやかな表現はなく、新古典主義的な造形への移行を感じさせるものとなっている。

セーヌ川をカルーゼル橋で渡り、ルーブル宮を縦断する。きょうは、火曜日で、美術館は休館日なのだが、要人の見学でもあったのか、ルーヴル美術館周辺はパトカーなどがあちこちに停まり、多くの警官も出ていて、歩道の通行も規制されたりしていた。
 きょうも、Ste-Anne通りの日系食堂で夕食を取る。とても不味かった。日暮れて、歩いてホテルに向かうが、またしても途中で迷う。

[ルーアン]あまり熟睡した感じがしないまま朝を迎える。きょうはルーアンまで足を伸ばそうと思う。きょうも天気はよさそうだ。7時からホテルの朝食の時間で、地下の食堂でパンなどたらふく食う。

ホテルからサン・ラザール駅に向かい、窓口で切符を買う。先に入手しておいた折り畳み式の時刻表を見せ、乗りたい列車を指さし、地名のルーアン、あとはSingle ticket(片道切符)、2nd Class(2等)と付け加えると、意が通じたとみえて切符を発券してくれた。運賃は先日確認したように20.5ユーロであった。

トーマスクックの『時刻表』によると、サン・ラザール駅からルーアン右岸駅まで140km、20.5ユーロ≒2500〜2600円程度で、JRよし少し高いか、まあ同程度といったところだろう。
 得た切符なのだが、サイズは、JRのみどりの窓口で発券される切符より大きく、飛行機の搭乗券くらいある。窓口で列車を指定したので、列車の時刻も印字されている。この列車、Corail Intercites という高速都市間列車である。

サン・ラザール駅は行き止まり式のホームがずらっと並んでいるのだが、ホームにはいるところに刻印機が設置されている。自動券売機で得られるふつうサイズの切符用と大サイズ用のがあって、大サイズ用に切符を入れると、日付とか印字してくれる。ガイドブックの記述によると、これをしなければならないようだ。

選んだ列車はサン・ラザール8:20発のルーアン行、9:49に着く予定である。列車の終着駅が目的地なので安心して乗っていられる。10両くらい客車が並んだ先に武骨な機関車がついている。
 2等車を示す「2」とある車両に乗り込み発車を待つ。座席は固定式で、前向き、後ろ向き、車両の前後でそんな向きに並んでいる。車体は掃除された様子がないので、窓ガラスは埃まみれでくすんでいる。車内も日本に比べてきたない感じ。乗客は少ない。

定刻、滑るように動き出した。始動時に、がくがく揺れないのがいい。サン・ラザール駅から伸びる路線が平行して何本もあって、上野駅の行き止まりホームから東北本線の電車にでも乗ったような感じ。
 この列車は快速運転で、都市近郊の駅には停まらない。10分も走ると都心の建物から郊外住宅のような建物が並び、そして15分も走ると雑木林広がる車窓とへと変わってくる。

蛇行して流れるセーヌ川を突っ切るように路線が延びている。しばらくすると、昨日、下車した、ポワシー駅を通過し、乗り間違えて降り立ったVillennes sur Seine駅も通り過ぎた。
 30分くらい走って最初の停車駅Mantes la Jolie駅に着いた。車内放送(何をいっいるか理解できないけれど)もあって、定刻である。
 ルーアンに向かう路線、セーヌ川に沿った平野部を走っているが、家々がまばらにあって、遠くに低い山並みが続く、日本の車窓でいえば、なんとなく東北本線の感じに似ているかな、なんて思ったのだった。

列車は、ルーアンまでに停車するのは4駅だけという快速運転で、軽快に走っていた。Val de Reuil駅からルーアンに向かう人がけっこう乗ってきた。
 あと数分で終点ルーアンに到着するとき、Sottevi le Rouenという駅に突然停車した。車内放送もあって、停車した理由をいっているみたいなのだが、理解不能、何かのトラブルがあったのだろう。
 15分ほど停車して動き出したが、セーヌ川の鉄橋を渡り、トンネルに入ったところで、またストップ。しばらく停車して動き出し、ようようルーアン駅に着いたときには、定刻を30分ほど遅れていた。

ルーアン駅はトンネルとトンネルの間に駅がある。ホームから階段を上がると、駅舎があって、改札がないからそのまま駅前広場につながっている。
 メトロも走っている。ノルマンディー地域の都会というが、高層ビルが林立しているような都市ではない。

ルーアンには、先に述べた『建築の七燈』で「ルワン大寺」などと何度かふれられているルーアン大聖堂がある。この大聖堂は、モネの連作のモデルともなったことで知られる。
 また、15世紀、イギリスとの百年戦争でフランスを救ったジャンヌ・ダルクが、捕らえられ、宗教裁判で異端として火刑に処せられた、その場所でもある。

駅前からセーヌ川に続く通りがジャンヌ・ダルク通りで、しばらく行くと右手にジャンヌ・ダルクの塔という城壁がある。
 この街には、木造軸組で3、4階建ての町屋が軒を連ねている。不揃いの木組みを露わにして、漆喰で塗り上げた壁とが、独特の景観を創っている。

そんな街並みを散策しながら、まず、ルーアン大聖堂へ行く。1145〜1250年頃に建てられ、正面の塔などは16世紀に設けられたもので、ゴシック様式の聖堂である。大聖堂正面、向かって右側の塔は「バターの塔」(先の『建築の七燈』では「牛酪塔」と記され、1485〜1507年の建立に係る。牛酪塔と名づけられた所以は、信徒が四旬齋の間に牛酪を用いる許可を得る為めに獻じた金を以て建てられたからである、と訳者注がついている)の上のほうには、末期ゴシック様式のフランボワイヤンの装飾が見られる。また、19世紀に設けられた鉄製の中央尖塔は152mあるそうだ。

訪れたときは、正面左側の部分で補修工事が行われており、工事シートに覆われていた。
 大聖堂の東側にあるサン・マクルー教会堂は、1436〜1520年に建てられた大聖堂に比べ小ぶりな教会堂で、扉口の尖頭のアーチや三角破風に彫金細工のような繊細華麗に施された曲線と反曲線を組み合わせた火炎のような文様、フランボワイヤンがもっと近くで見ることができ、その様子がよくわかる。

大聖堂から西へジャンヌ・ダルク教会のほうに伸びるのが、大時計通りで、大時計を掲げた門が途中にある。
 ジャンヌ・ダルク通りを渡ったところジャンヌ・ダルク教会堂がある。ここで処刑が行われたらしい。大きな屋根が特徴的な現代建築の教会堂である。

市内には、ジャンヌ・ダルク博物館をはじめ、いろいろな博物館があるが、そのなかでルーアン美術館に立ち寄る。
 キリスト教関連の絵画、貴族の館にでも飾られていたような肖像画など、多くの絵画が並べられていた。最後の方には印象派のモネ、シスレーといった作品も並べられていた。

午後1時過ぎに駅に戻ってきた。帰りのパリまでの切符を窓口で買う。今回は、列車を指定して買わなかったので、列車の時刻など印字されていない。
 列車まで少し時間があったので、駅構内の売店でフランスパンにハムなどをはさんだのを買って、昼食とした。

時間があったので、地下鉄を見に行ってみた。走っている電車はトラム(路面電車)のような車両で、たぶん都市部では地下を走り、郊外では路面を走る、そんなシステムなのではなかろうか。どんな所を走っているかなど、なんの予備知識も持ち合わせてないので、きょうは眺めるだけにしておく。

切符を刻印機にかけて、日付など印字してからホームに降りる。帰りの列車はル・アーブルからやってきた列車である。ルーアンから乗る人もけっこうあったが、車内は空いていた。終点まで乗るので気は楽である。

ルーアンを出ると終点サン・ラザールまで途中停まらない。そんな列車であるせいか、しばらくすると車掌が検札にやってきた。言葉はわからないが、雰囲気で、検札だな、とわかる。パリ滞在中、切符の検札に遭遇したのはこれっきりであった。
 ルーアン右岸駅を13:59に出て、サン・ラザール駅には15:10に着いた。帰りはトラブルなく、遅れることもなかった。

[パリ(その3)]きょうは、このあとルーヴル美術館に行こうと思っていた。水曜日は夜10時までやっているので、これから行っても時間を気にせず、ゆっくり見物できる。

メトロの駅にはルーヴル美術館最寄りの駅があるが、サン・ラザール駅からだと、途中で乗り換えが必要になる。それで、時間もあるし、美術館まで、少し歩くつもりで、メトロ3号線に乗って、ブルス駅で下車した。

ここは、昨日、歩いた証券取引所最寄り駅である。南の方へ少し歩くと、ギャルリー・ヴィヴィエンヌというアーケード街がある。パリ市内に点在するパッサージュのひとつだが、豪華で上流階級向けのものをギャルリーと称して区別するらしい。ガラス屋根で覆われた明るいアーケード街に店舗が並ぶ。

そこを西に行くと国立図書館がある。外壁は補修工事か、工事シートで覆われていた。この建物は、昨日、そばを通ったサント・ジュヌヴィエーヴ図書館を設計したアンリ・ラブルーテトの設計で1862〜68年に建てられた。17世紀に建てられた貴族の邸宅を再生したものらしい。
 そこを南に向かうと、モリエールの噴水がある。さらに進むとアンドレ・マルロー広場に出て、コメディ・フランセーズがある。

ルーヴル美術館にはいる。中庭にあるガラスのピラミッド(1989)は、イオ・ミン・ペイの代表作であるが、ここが入口、手荷物検査が行われている。
 ルーヴル美術館は、なにしろ広くて膨大なコレクションが並ぶ美術館であるから、まずは超有名な、ここならではの作品を最初に見に行くことにした。日本語の館内案内図をもらってスタートする。

美術館は、リシュリュウ、ドゥノン、シュリーの3つの翼(建物)がつながっている。まずは、ダ・ヴィンチの「モナリザ」をめざす、つもりが、最初に進んだのがシュリー翼のほうだったので、1階の古代ギリシャ美術フロアで「ミロのヴィーナス」を見てから、ドゥノン翼にまわって、2階のイタリア絵画のフロアに進む。

 さすがに有名な絵画だけに広いフロアに掲げられた「モナリザ」は、多くの人たちが取り囲んでいた。
 そのあと、フランス絵画の大作、ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」だの、ジェリコ「メデュース号の筏」だの、順々に見て歩き、次にリシュリュウ翼3階へ向かおうとするが、閉鎖されている箇所があったりして、あっちうろうろ、こっちうろうろ、階段を上がったり、下がったりすることになる。

リシュリュウ翼3階には、17世紀フランドル派、オランダ派の絵画で、フェルメール、ルーベンスといった画家の作品が並ぶ。さらに、シュリー翼3階のフランス絵画へ。
 絵画を中心に見てまわっていたが、さすがに疲れてきて、どこを見て、どこを見てないか、そんなことも、よくわからなくなってきた。3時間近く館内を歩きまわって、まだまだ見てないところもあるはずだったが、外に出る。

ルーヴル美術館から北に向かい、連日訪れているSte-Anne通りの日系食堂で夕食を取る。あいかわらずの味である。
 きょうは、歩き疲れたので、ピラミッド駅からメトロに乗って帰ることにした。メトロ14号線は新しい路線で、完全自動運転されているらしい。ホームドアが設けられており、車両のドアもいちいち開けなくてよい。

サン・ラザール駅で、長い通路を歩いて13号線に乗り換える。行き先をよく確認して乗車ホームを選ぶ。都心から郊外に向かう路線なので、午後8時頃のこの路線は、けっこう混雑しており、最初にやってきた電車は、乗るのをあきらめるくらいの混雑を呈していた。ホテル最寄り、次のリエージュ駅で下車した。

[パリ(その4)]あまり熟睡した感じがしないまま朝を迎える。きょうも天気はよさそうだ。パリを自由に散策できるのもきょう1日限り。シャルトルまで行ってみたい思いもあったのだが、それはまたの機会ということにして、きょうは、オルセー美術館とヴェルサイユに行くことにした。
 7時からホテルの朝食の時間で、地下の食堂でパンなどたらふく食う。

美術館に行く前に、ラ・ヴィレット公園に行ってみることにした。ホテルから北の方に少し行くとメトロ13号線と2号線の交わるプラス・ド・クリシー駅がある。そこから2号線に乗ってジョレ駅に向かう。
 この路線、アンヴェール駅を出ると地上に出て、高架を走るようになって、パリ北駅に通じる何本ものレールをまたぎ、ラ・ヴィレットの税関所のそばを通る。ジョレ駅で5号線に乗り換えてポルト・ド・パンタン駅で下車する。

ラ・ヴィレット公園は、かつての食肉市場と屠殺場を、1980年代に公園として整備したところで、音楽博物館、科学産業博物館などの施設も設けられている。ポルト・ド・パンタン駅は公園南側の最寄り駅である。
 ラ・ヴィレット公園の広い芝生上に「フォリー」と呼ばれる格好が異なる赤い構造物が30ほど点在している。公園の見取り図を見ると、ほぼ縦横格子状にそれらが配置されている。

この公園を設計したバーナード・チュミは、ポスト・モダンの観点から「ディコンストラクティヴィズム(脱構築主義)」の建築家のひとりとして知られる。この公園では、積極的な機能をもたない断片的な形態のフォリーと呼ばれる建物を敷地内に散在させ、機能主義的にとらえることのできない、予期できない出来事の誘発を試みようと考えられたもので、チュミの建築思想を造形化したものといわれている。

ルールク運河から小船が係留されているラ・ヴィレットの船溜まりに沿って歩を進める。水辺の遊歩道に柵はなく、水面との距離も近く、親水空間とはこういう感じなのだろうな、と思わせる。
 閘門があって、運河はさらにサン・マルタン運河のほうへと続いていくが、その近くにあるのが、地下鉄からも見える、ラ・ヴィレットの税関所である。この建物は、パリ市を取り囲む市壁の各所に、入市税を取り立てるために建設されたひとつである。訪れたときは、補修工事のためか、工事用シート で覆われている部分もあった。

建物は、1784〜89年に建てられたもので、設計したのは王室建築家クロード−ニコラ・ルドゥーである。正方形プランの中央に円筒を載せるという単純な幾何学形態を使い、古典主義的な装飾もなく簡素である。
 税関所から南西方向に数百m行くとパリ東駅がある。ストラスブール方面などへの列車が発着する大きな駅である。19世紀中頃に建てられたもので、鉄を使ってホームの大空間を構成し、外観はルネサンス様式で、大きな半円のガラス窓をもつ左右対称の建物である。設計は、フランソワ・A・デュケネ。

東駅から北へ少し行ったところにあるのがパリ北駅である。ここも鉄を使ってホームの大空間を構成し、都市の顔として古典的な権威ある駅舎が造られている。東駅より少しあとの完成だが、同時代の駅舎である。設計は、J.イグナツ・ヒットルフ。

地下にはRER線の北駅がある。B線とD線が並び、少し離れたところにあるE線のマゼンタ駅ともつながっているから大きな地下駅である。行き先を間違えないよう、注意して乗らねばならない。
 ここからB線に乗り、サン・ミッシェル・ノートルダム駅でC線に乗り換えて、ミュゼ・ドルセー駅で下車した。オルセー美術館最寄り駅である。パリ市内区間だけの乗車なので、RER線でも回数券が使用できる。

    
オルセー美術館の建物は、1900年に開催された万国博覧会のために建てられた駅舎を1986年に改装して、19世紀なかばから20世紀初頭、つまり印象派などが活躍する時代、の画家たちの作品を展示する美術館となった。
 美術館に10時頃に着いた。9:30開館だから開館直後の混雑が一段落、といった頃合いを見計らってやってきたのだ。
 ここでも手荷物検査が実施されている。日本語の館内案内は、館内改装工事の関係で、新たに作られておらず、英語版でがまんする。

やはり、最初に向かうのは、印象派の画家たちのフロアである。教科書でおなじみ、ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」とか、モネの「日傘の女」などなど、いやいや、ほんまもんを見ると心底感動してしまいますね。
 2時間半ほど見学してから、RERのミュゼ・ドルセー駅に戻り、C線に乗って、ヴェルサイユに向かう。ヴェルサイユは、回数券で乗れる範囲を外れるので、自動券売機で切符を購入して改札を抜ける。

この駅から西方に向かう行き先には3つあったが、そこはまちがいなく、ヴェルサイユ宮殿に一番近いヴェルサイユ・リヴ・ゴーシュ駅行を選んで乗った。
 電車はセーヌ川に沿って走り、しばらくすると地上に出た。トラム3号線に接続するPont du Garigliano駅、トラム2号線に接続するIssy Val de Seine駅を過ぎ、35分ほどで終点ヴェルサイユ・リヴ・ゴーシュ駅に着いた。

駅から少し北をヴェルサイユ宮殿に伸びるパリ大通りを進んで宮殿に向かう。この宮殿は、フランス絶対王政最盛期を象徴するブルボン朝の太陽王ルイ14世の宮殿で、世界遺産にも登録されている。
 パリから西へ20kmほど離れたヴェルサイユは、先代のルイ13世が王太子のころ、狩猟のための宿泊地として、1624年に質素な城館を建てたのがはじまりらしい。

その後、ヴェルサイユは忘れられていたが、ルイ14世が大蔵卿フーケの城館ヴォー・ル・ヴィコントに触発されて、その設計者である建築家ルイ・ル・ヴォー、室内装飾の画家シャルル・ル・ブラン、造園家アンドレ・ル・ノートルを徴用し、新宮殿を造営することにしたのだ。1662年から宮殿の改造が進められた。

ル・ヴォーは、1668年、旧館をそのまま残して、南北の両側に旧館をはさむようなひとまわり大きな建物を建てた。それ以降、ジュール・アルドゥアン−マンサールによる「鏡の間」の建設をはじめ、全長600m近い翼部をもつ巨大建築になっている。
 また、ヴェルサイユの庭園は、広大で、フランス式庭園を大成したル・ノートルの代表作である。

ローシーズンのせいか、午後のせいか、訪れている人たちは多いものの、すんなり入場券を買うことができ、館内にはいることができた。順路に従って館内をまわる。
 最初にロココで装飾された礼拝堂を覗く。アルドゥアン−マンサールの工事を引き継ぎ完成させたのはロベール・ド・コットである。天井には、聖書をテーマにした絵画が描かれている。

各部屋には絵画など飾られ、内容がよくわからないまま、順々に見ていく。2階に上がり、鏡の間、王の寝室などみてまわる。
 ル・ノートルの庭園のスタイルは、フランス式庭園といわれ、18世紀を通じて諸国の宮廷に模倣されていくが、その特徴のひとつが、館を中心あるいは、起点として庭園の中央を貫く力強い軸線、遠くまで見通せるヴィスタを形成していることである。そして、特にその軸線沿いは左右対称性を持たせて庭園全体を構成している。

宮殿から出て、その軸線に沿って歩いてみる。庭園の中にある森はボスケと呼ばれる。このボスケの中に小さな庭園が造られている。周囲が樹林で囲まれてるので、入口で入手した案内図にあるような それらは、こんな歩き方をしいいても見えてこない。なにしろ広大すぎる庭園なのである。

宮殿から1.5kmほど離れたところにトリアン宮殿がある。グラン・トリアンとプティ・トリアンに分かれていて、グラン・トリアンは、ルイ14世が家族との静養のための離宮として、1688年、アルドゥアン−マンサールの設計で建てられたもので、イタリア風の建物になっている。

プティ・トリアンは少し時代が下がって、ルイ15世のために、アンジュ−ジャック・カブリエルが設計して、1761〜64年に建てられたものだ。バロック的なにぎやかな表現が消えて簡潔な直方体による 形態をもつ新古典主義の建築である。

のちに、ルイ16世から贈られた王妃マリー・アントワネットは、庭園の一部をイギリス式庭園に改造し、水辺に沿って農村の住まいを模した田舎家をいくつか建てさせたりしている。1777〜87年にかけて建てられた田舎家の古びた茅葺き屋根など、なかなか趣がある。さらに農場があって、羊などが飼われている。

こんな奥まったところまで来ると、かなりの時間が経っていて、ヴェルサイユに3時間くらいいた。
 庭園をあとに、王妃大通りを行くと、ヴェルサイユ・リブ・ドロワット駅に出た。駅前にスーパーがあったので、食料など買う。考えてみれば歩きまわるのに夢中で、昼、食べてなかった。

 
ヴェルサイユ・リブ・ドロワット駅から出ている電車はサン・ラザール駅に向かう。自動券売機で切符を購入、刻印機で刻印してから17:06発の電車に乗る。
 電車は、セーヌ川左岸の丘陵のようなところを走る。東には広がるパリの市街地が遠望できる車窓風景であった。ラ・ディフェンスを通って、30分ほどでサン・ラザール駅に戻ってきた。

午後5時半過ぎ、これからどこかに行くといっても、時間的に中途半端である。回数券があと2枚残っている。明日、空港へ行く予行演習でもやっておこうかと、RERのE線の駅、オスマン・サン・ラザール駅に行くことにした。

サン・ラザール駅前の地下鉄入口からだと、くねくねとけっこう歩く。回数券で改札を抜けて、さらに下のホームに降り、停まっている電車に乗って、次のマゼンタ駅で下車した。
 乗り換え案内表示を確認して、連絡通路を行くと、北駅の地下コンコースにたどり着いた。

ここは、今朝来たところである。B線の南方面行きの電車に乗り換えて、次のシャトレ・レアール駅で下車、ここでA線に乗り換えてオーベール駅に戻ってきた。この駅は、RER線のサン・ラザール乗り換え駅だから、30分ほどかけて、ぐるっとまわってきたことになる。

連日訪れているSte-Anne通りの日系食堂で夕食を取る。
 きょうも、歩き疲れたので、ピラミッド駅からメトロに乗って帰ることにした。メトロ14号線に乗り、サン・ラザール駅で、長い通路を歩いて13号線に乗り換え、ホテル最寄りのリエージュ駅で下車した。これで、もらった回数券を使い切ったことになる。

[日本に向かって]今日は、日本に向けて帰る日である。パリに来るときは、直行便だったが、帰りは、KLMオランダ航空(エールフランス航空とは同じグループの航空会社である)の便で、 アムステルダムで乗り継ぐことになっている。

シャルル・ド・ゴール空港からアムステルダムに向かう飛行機の出発時刻は13:05である。常識的に、空港には2時間前に着けばいいし、パリ市内から空港まで、1時間かかるとして、パリ市内を9時半から10時までに出ればいいと思われた。つまり、1時間あまり時間があるわけだ。

しかし、たいした荷物ではないにしろ、それなりに抱えているのは確かだし、余裕なく、あれも見てない、これも見てない、とせわしなく歩きまわるのもどうかと思われる。
 で、けっきょく、ホテルで、ぼけっとしてるのもなんだし、ここにきて、思わぬトラブルに巻き込まれても困るし、との思いから、早めに、まっすぐ空港に向かうことにしたのだった。

8時前にホテルをチェックアウトし、サン・ラザール駅のほうに向かい、昨日、確認しておいたように、オスマン・サン・ラザール駅への地下連絡通路をたどり、RERのE線改札口前へ、そして自動 券売機で空港までの切符を買った。運賃は、初日に確認してあるので、その分の小銭をあらかじめ用意しておいた。

改札を抜け、地下ホームへ。時間に余裕があるからあわてない。乗り換えるのは次のマゼンタ駅だから、どの列車に乗ってもよい。3分ほどでマゼンタ駅に着き、北駅への連絡通路を歩いて、B・D線 の地下コンコースへ向かう。落ち着いて、空港への列車の時刻、ホームを確認する。きょうはちゃんと動いていた。そして、もうひとつ下のホームへ降りていく。

やって来た電車が空港行きであることを、もう一度よく確認し、乗り込んだのであった。8時半過ぎの電車は、スシ詰め状態じゃないが、けっこう混んでいて、座れなかった。空港までの途中にParc des Expositionsという駅があって、展示場のようなところの施設があるのだろうが、そこでいくぶんすき、座ることができた。北駅から30分ほどで、アエロポール・シャルル・ド・ゴール2TGV駅に着いた。パリに着いた日、閉鎖されていた駅である。

駅からターミナルFに向かって歩く。初日に歩いているので、戸惑うこともない。
 ターミナルFで、今度は、航空会社のカウンターで、搭乗券を入手しなければならない。列に並んでもよかったのだが、預ける荷物はない。自動チェックイン機が数台並んでいて、そちらはすいていた ので、ものは試しに自動機で搭乗券を得てみよう思った。

タッチパネルの表示を日本語にし、指示に従って操作していく。旅券を挿入したり、eチケットに記された数字で、どれが入力すべき数字なのかわからず、何度かやり直しはしたが、関空までの搭乗券を入手することができた。やればできるものだ。次回は戸惑うことなくできるだろう、たぶん。

搭乗券が入手できると、こちら側には座る場所もないので、手荷物検査を、さっさと済ませて、飛行機の搭乗口のある、あちら側のエリアにいくことにした。オランダは同じシェンゲン協定国なので、 ここでは旅券に出国スタンプは押されない。

手荷物検査といっても、機械に通すだけだから、すぐに終わった。飛行機の搭乗案内があるまで、免税品店で、残ったコインなどを使ってしまおう、と考えた。いくらかのお土産を買ってしまうと、やることはなく、あとはおとなしく搭乗案内が始まるのを待つしかない。まだ2時間以上時間があった。

パリからアムステルダムまで1時間あまりだから、機内で出されるのは、クラッカーのような菓子と飲み物とくらいだろう。それを見越して、昨日、ヴェルサイユ駅前のスーパーに立ち寄って、パンを仕入れておいたのだ。正午頃に、お腹に入れておく。

出発の20分くらい前に搭乗案内がなされ、飛行機に乗り込む。この路線、KLMの便だと思っていたが、使われているのは、エールフランスの機材だった。
 乗客の搭乗が終わって、13:05頃に動きだし、離陸して飛行機が安定すると、飲み物とお菓子が配られ、1時間あまり14:20頃、アムステルダムに着いた。外は小雨が降っていた。

ほぼ1年ぶりに降り立ったスキポール空港である。ここも広い空港である。降りたゲートから関空に向かう飛行機の搭乗ゲートに向かう途中に旅券チェックするところがあって、そこで旅券にスタンプが押された。
 昨年の場合、こんなところを通らなかったのは、イギリスは協定国のなかでも別扱いだったからなのだろう。

広い空港ターミナルを移動して、いちばん外れにあるのではないかと思われる関空行の搭乗口にたどり着いた。
 関空に向かう便の出発は17:25、昨年と便名は同じながら出発時刻が2時間ほど遅くなっている。だから関空到着時刻もずれている。サマータイムが始まると、変わるのかもしれないけれど、おかげで、ここで3時間の待ち合わせ。昨年は、ロンドンからアムステルダムに向かう便がすこし遅れ、広い空港内の移動を考え、やきもきしたが、これだけ余裕があると、あわてる必要がなくてよい。また、おとなしく待つ。

出発時刻の30分くらい前に搭乗案内があって、手荷物検査をまた受けて、飛行機に搭乗する。
 関空に向かう飛行機は、昨年乗ったのと機種が変わっていた。前回は古い747系だったけれど、今回は777系で、座席ごとにモニターがついている機種だった。おかげで、関空まで、途中、居眠りしたときもあったけれど、映画を数本見続けたのであった。

飛行機はオランダからドイツをかすめて、バルト海を渡り、ロシアを抜けて、モンゴルから中国の天津あたりを経て、韓国から福岡、そして瀬戸内、四国をかすめるように飛んで、関空に接近する飛行ルートをとった。

アムステルダムを発って11時間あまり、ほぼ定刻12:35頃、関空に無事着いた。先端の到着ゲートからウイングシャトルで空港ビルに移動し、入国審査も旅券にスタンプ押すだけで簡単にすみ、預け 荷物がないからすぐ税関検査へと続く。今回は、手荷物をあけて調べられることもなく、あっさり終わる。

昼飯時なのだが、機内で、夕食、夜食、朝食、その合間に飲み物もけっこう飲んでいて、お腹へった気がしなかった。
 そのまま、JR関西空港駅に向かい13:10発の関空快速に乗って、大阪に向かったのであった。


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