今夜は早く休めと近藤に言われた土方だったが、やはり気になって一人かぶき町に向った。

 金剛が追っている犯罪者のこともある。

 それらしい天人の情報はいくつか入っていたが、まだ確実なものはなかった。

 かなり問題のある犯罪者らしいが、いまだに何も事件を引き起こさず地に潜ったまま状態であれば、探し出すのは相当困難だ。

 かぶき町は、人間だろうと天人だろうと身を隠すには都合のいい場所なのだ。

 

 一階が家主が経営しているスナック、二階が万事屋の住居兼事務所で、数年前からあのふざけた看板がかかっているという。

  万事屋がかぶき町にくるまで、どこで何をしていたかなどは全くわからないわりには、結構町の住人に好かれているようだ。

 昼間からパチンコをしていたり、公園で惰眠を貪ったりとダメ人間の見本のような男だが、土方を負かせるだけの剣の腕がある。しかも、攘夷浪士の桂とも面識があるとなれば無視はできない。

 だが、何故か今ひとつ気が乗らない自分がいるのも確かだ。

 気が乗らないってこと自体、職務怠慢で、真選組副長としてあるまじきことだと十分わかっているというのに。

(くそっ・・・あの野郎が相手だと、どうも調子が狂いやがる。感情が先にたって、まるでガキみてえな喧嘩になっちまう)

 近藤に言わせれば、総梧に対するのに似ているというのだが。

 ま、今夜は昨夜の侘びを言うくらいに留めておくか。

 昨夜のことは間違いなく自分が巻き込んだのだから。

「ん?」

 土方は、万事屋が住む二階から二人の男が下りてくるのに気づいて眉をひそめた。

 一人は銀髪で万事屋の主人だが、もう一人は笠を被った坊主だった。

 暗くて顔まではわからないが、笠の下から長く伸びた黒髪を見た途端、土方は駆け出した。

「おい!」

「あれ?鬼の副長さんじゃねえ。こんな時間までお仕事ですかぁ」

 大変だねぇ。

 いつもの間延びした眠たげな声をかけられ、思わず土方は力が抜けそうになる。

 土方が万事屋の前まで来たときには、もうさっきの坊主の姿は夜の闇に消えてどこにも見えなくなっていた。

 入り組んだ路地の多いこの近辺で見失うと、見つけるのはかなり困難だ。

(このあたりの見回りは・・・・くそっ!丁度交代の時間で近くにはいねえ!)

 今から呼んでも、もう無駄か。

「おい待て!」

 階段を半ばのぼりかけていた銀時を、土方が鋭い声で呼び止める。

「さっきの坊主は桂だな。いったい何をしにきてた?」

「ああ?坊さんの名前なんか知るかよ。たまたま前通ったから寿司やっただけだぜ?」

「寿司だあ?なめてんのか、テメー!ありゃあ、攘夷浪士の桂小太郎じゃねえか!知らねえとは言わさねえ!」

「何言ってんの、おまえ?もしかして、昨日の毒が頭に回った?」

「とぼけんなっ!」

 とぼけんなって言われてもなあ・・・

 銀時は困ったようにカリカリと頭をかいて、睨んでくる土方の顔を見下ろした。

「あ、そうだ。おまえ、時間あるか?あるなら、ちょっとウチ寄ってかねえ?茶入れるし」

「ああ?上等だ!てめえには聞きてえことが山ほどあんだ!」

 眉間に皺を寄せたまま挑むように階段をのぼってくる土方を、銀時は苦笑いしながら見ていた。

 定春は、さっきと同じように片目を開けて訪問者を確認すると、鼻をフンフン鳴らしながらまた目を閉じた。

「なんだあ?てめえんとこの犬は番犬じゃねえのか?」

 吼えもしやがらねえ。

「番犬として飼ったわけじゃねえ。あくまで、そいつは預かりもんなんだよ。だいたい、定春を見て逃げ出さねえ泥棒はいねえから心配いらねえ」

 確かに。

「そういや、以前はよく、てめえの頭に齧りついてやがったな」

「るせーよ。子犬ってやつぁ、なんにでも齧りつくもんだ。んなの気にしてたら犬なんか飼えねえって」

 和室を見た土方も、やはり座卓の上やその周りに乱雑に置かれた寿司の器に目を丸くした。

「なんだ?パーティーでもやってたのか?」

「んなもん、やるかよ。単に晩飯。お宅の局長さんに、昨日迷惑かけたって見舞金もらったもんで、寿司頼んだ。坊さんにも食ってもらったけど、まだ残ってんだよなあ」

「てっめえ!見舞金全部使って寿司頼んだってか!?」

 どこまで考えなし?このダメダメ人間めぇぇっ!

「まだ全然手ぇつけてねえのもあるし、食べてくんねえ?土方くん」

 捨てんのもったいねえし。

「・・・・・・」

 

 

 結局土方は刀を脇に置いて座卓の前にどっかと腰をおろすことになった。

 近藤にも真選組にも迷惑かけたし、万事屋にいたっては巻き添えで毒を飲まされ殺されかけたのだ。

 ここで怒って帰るわけにもいかない。

 だいたいのとこ、残りは四人前くらいか。

 夕飯前に屯所を出たから食べられない量ではない。しかし。

(いったい何人前頼んだんだ?これを三人で全部食べるつもりだったってーのか)

 どこまで考えなしなんだ、こいつら。

 銀時はニコニコしながら小皿と醤油を土方の前に置いた。

「おい万事屋。食べてやるから答えろ。さっきのは桂だな?」

「だから、名前は聞いてねえっつってんだろが」

 しつこいね、土方くんは。

 銀時は溜め息をつきながら、土方に割り箸を手渡す。

「ああ、そういや、昔いたな、土方くんみたいな奴。なんでもすぐムキになっちゃって、噛み付いてくるんだけど、妙に女にもててたガキが」

 銀時は客用の湯呑みを出してくると、急須の茶葉を入れ替えお湯を入れた。

「夏祭りン時、よしゃあいいのに、しんちゃんってぇ金魚すくいの得意な奴に挑んで見事撃沈しやがった」

 最初から勝てるわきゃなかったんだが。

「負けて、地面にそのままめりこむんじゃねえかと思うくらい項垂れてるそいつ見てたら、なんか可哀相になって、持ってた金魚一匹やったんだが。その金魚がえらくタフで。そいつの世話も良かったんだろうが、いつのまにかすげえでかくなっちまってよ。魚ってやつぁ、一生成長すんだよな、大串くん。知らなかったよ」

「ゴラッ、誰が大串だ!てめえ、わざと言ってんだろ!」

「まあまあ怒んなって。酒どう?」

「勤務中に飲めるわきゃねえだろが!」

「うん。そうだね」

 ふっと浮かべられた楽しげな笑顔に、土方は出しかけた文句を飲み込んだ。

(こいつ・・・こんな笑い方も出来んのかよ)

「なあ、大串くん。熱燗もできっけど?」

「だから、勤務中だっつーてんだろがァァァ!」

 人の話、全く聞いてねえだろ、てめえ〜〜俺は大串じゃねぇ!

 攘夷浪士たちに鬼と呼ばれ恐れられる真選組副長も、目の前にいる男が相手だとどうも勝手が違う。

 この男とは一度本気で刀を交えたことがあるが、あっさり刀を折られて負けた。今も悔しいが勝てる気はしない。

 そして攘夷浪士の中で二大勢力の一つと言われる桂一派と、なんらかの関わりを持っているのは間違いないのだが、簡単に尻尾をつかませてくれない。

 誰が見てもいい加減で怠け者のダメ人間の見本のような男が、この万事屋の主人の筈なのに。

「体調はもういいのか?」

 怒るのも空しい気分になって、土方は渡された割り箸をパキンと割った。

 見た通り、と銀時は軽く肩をすくめ、客用の湯呑みに茶を注ぐ。

「そっちは、もういいのかよ?」

「俺も見た通りだ。おめえのおかげでとにかく助かった。今度暇が出来たらなんか礼をする」

「へえ。奢ってくれんなら、美味いおでんを食いたいかな。昨夜はひでえ目にあったけど、それまでは結構楽しかったんだぜ」

 おめえと酒飲むのも悪かねえ。

 土方は、黒々とした瞳を大きく見開いた。

 銀時は瞳孔開いた凶暴な瞳もいいが、こんなガキが驚いたような瞳も悪くねえなあ、とクスリと笑った。

 

  ◇ ◇ ◇

 

「ひと月たったが、調子はどうでぇ?」

「とてもいいですよ。指を動かすのも大分慣れましたし」

 そうかい、と平賀源外は、どれ・・と袖をめくって己が作った義手の具合を確認した。

 左手の肘から下を失った男の腕は、今は源外が作った義手がつけられている。

 機械人形の腕を利用したものだが、首の後ろに埋め込んだチップから電気信号が送られて手首や指の関節が、スムーズとまではいかないが、生活に支障がない程度に動かすことができた。

 皮膚に似せた色と弾力は、一見しただけでは義手とはわからない。

 義手の男は、まだ若い。

 とはいえ、本人が言うには三十歳になるというから、若く見えるといった方がいいだろう。

 腰までの長い髪を一つに束ね、童顔だというその顔は女性の保護欲をそそりそうな整った顔立ちだった。

 以前はよく女と間違われることがあったという。

 紺地の着物に羽織と地味な身なりだが、それでもどことなく華があって一目を引く男だった。

「本当は左手だし、なくてもいいと思ってたんですけどね」

「いやいや、利き腕じゃなくても、ないよりはある方がずっといいよ。おまえさんは絵描きさんだし、いい絵を一杯描いてくれたらみんな喜ぶ」

 源外が言うと、男は微笑んだ。

 どことなく影のある男だが、源外はわりと男のことを気に入っていた。

 発明と絵描き。共に物を創造する者同士、通じるものがあるのかもしれない。

「そういえば、スナック”すまいる”の妙ちゃんの姿絵を描くんだってな」

「ええ。松野屋のご主人に頼まれて。妙さんのこと、ご存知ですか」

「かぶき町じゃ、あの娘は有名だからな。美人で人の扱いがうまく、そしてあの腕っぷしだ」

「ああ、聞いてます。大の男でも投げ飛ばすとか。何度か会いましたが、そんな風には見えませんでしたけど」

「そりゃあ、おまえさんだからだろう。彼女の逆鱗に触れたもんは誰であろうと地獄を見るよ」

 おまえさんは別だがな、と源外はニヤリと笑った。

「ところで、平賀さん。義手の代金のことですが」

「いらんと言ったろうが。そいつはもともとあったもんをちょいと手をくわえたもんで、たいして金はかかっとらん。ま、うまく使ってくれたら、大量生産して病院にでも売り込むから大事に使ってくれ」

「はい。ありがとうございます」 

 男は源外にペコリと頭を下げた。

 男が帰っていくと、源外は山積みになった鉄くずに埋もれるように寝ている男の白い頭を小突いた。

「オラ、そろそろ起きろ。よくそんなとこで寝られるもんだ」

 銀時は、目を開け欠伸をしながら身体をおこした。

「一週間ほど寝てなかったもんだから、やたら眠くてさあ」

「だからって、わざわざ寝にくるな。自分の家があるだろうが」

「家だと新八が煩くてなあ」

「ガキに心配かけてどうする。さっき電話があったぞ。なんか知らんが、体調が悪いのにいなくなったって心配しとった。どっか悪いのか?」

「いや。もう平気なんだけどね。ん〜〜じゃ帰るわ」

「そうした方がいいぞ」

 銀時は立ち上がると、曲がっていた背中を伸ばした。

「さっき誰かと話してたか?」

「客だ。最近江戸に来た絵描きさんで、おまえさんとこの従業員の姉さんの絵を描くそうだぞ」

「妙の?そりゃまた物好きな」

「あの娘は美人だからな。松野屋が、あの娘の絵が欲しいと頼んだらしい」

 妙にもモデル料が支払われるというので引き受けたのだろう。

 しかも、その絵師は若くてなかなかの男前だという。

(絵師か・・・・・)

 夢うつつだったが、なんか耳に入ってきた声は誰かの声と重なって聞こえた。

 どこか懐かしい・・・昔知っていた誰かに・・・・

 

 

 源外の所を辞してからまっすぐ家に戻った絵師の男を待っていたのは、スナックすまいるのキャバクラ嬢、妙だった。

 茶色の髪を一つに束ねた妙は、帰ってきた絵師に気づくとニッコリと微笑んだ。

 かぶき町でも評判の美少女で、明るく人当たりがよくしっかり者だと誰もが褒めちぎる。

 ただし、彼女を少しでも知れば、それに気の強さが加わり、怪力でバカ強い女という認識が出来上がるのだが。

 江戸に来てまだ一年と少し。

 まだかぶき町に足を踏み入れたことはなかったが、妙のことは自分の絵を気に入っていろいろ面倒をみてくれている松野屋の主人から話は聞いていたし、紹介もされていた。

 妙は、松野屋の主人がよく通うキャバクラのキャバ嬢ということだが、それとは別に彼女の亡くなった父親とも懇意だったという関係もあるらしい。

 そのせいか、店を一歩出ると、妙は松野屋の主人のことをを”おじさま”と呼ぶ。

「おかえりなさい、秋(あき)先生」

「ああ、すみません。待たせてしまいましたか」

「少し早めについてしまいましたけど、そんなに待ってませんわ」

 ほっそりした身体と、可愛らしい容姿の彼女を見れば、とても大の男を投げ飛ばすなど想像できない。

 だが、そういう少女だと聞いたから興味を持ち、絵を描くのを引き受けたといえる。

 男の師は美人画で名を知られる女絵師であったので、彼も美人画を描くことはあるが、それよりも田舎の風景を描く方が多かった。

 美人画はほとんど頼まれて描くくらいしかなかったし、江戸に来てからは本の挿絵を描くくらいで、絵らしい絵は描いていなかった。

 本当は頼まれても描くつもりはなかったのだが、松野屋に紹介された妙が、どことなく亡くなった師の夏(なつ)に似ていたから引き受ける気になった。

 そして、絵を頼んだ松野屋も、妙が自分の初恋の女性にそっくりだからという理由がある。

 どちらも彼女自身を見ていないことに申し訳なさを感じないわけにはいかないが、聡い彼女は薄々気づいているようで、絵のモデルという経験は嬉しいと喜んだ。

 今日は素描だけだからと、秋は妙に楽な姿勢をいくつかとらせ、それを白い紙に描き写した。

 妙は、白い紙に木炭を走らせる若い絵師の顔をじっと見つめた。

 あまりに童顔だったため、自分より十以上年上だと聞いた時は驚いたが、こうして真剣に自分の絵を描く男の顔を見るとやはりずっと大人だと感じる。

 友達のおりょうは、妙が秋に描いてもらうと言った時、かなり羨ましがり、そして悔しがった。

 かぶき町では一度も姿を見たことがなかったが、それでもキャバ嬢の間では男前の絵師として有名だったらしい。

 知らなかったのは、妙くらいだ。

 話はしたと、おりょうは言うのだが、どうやら右から左に聞き流していたらしい。

 まあ、あの頃すでにしつこいゴリラにつきまとわれており、いらいらして男の話など聞く気もなかったからだが。

「緊張しなくていいですよ。まだ素描ですから、好きに動いてもらっても構いません」

「あ、そうなんですか」

 動いてもいいと言われた妙は、ホッと息をつき、まわりを見回した。

 部屋は十畳くらいで文机しか置かれていない。

 あとは、絵を描く道具や、本、そしておそらくスケッチしたものだろう何百枚もの紙がまとめられ、障子とは反対側の壁に無造作に積み上げられていた。

「これ、秋先生が描いたものですか?」

 妙が聞くと、秋は、え?と顔を上げた。

 大きな目を瞬かせた顔は、やはり子供のように見えて可愛らしい。。

「ああ、大半はそうなんですが、亡くなった師のも混じってます。片付けようとは思うのですが、なかなか手をつけられなくて」

「見ても構いません?」

「どうぞ」

 妙は立ち上がると、積み上げられた束の一つを手にとって見た。

 たぶん、これは秋が描いた風景画だろう。

 山の風景や田舎家が何枚も描かれている。

 どれも優しいタッチで、どこか懐かしいと思わせる絵だった。

 ふと、妙は、他の紙とは明らかに古い紙の束を見つけ抜き出した。

 表紙の緑色の和紙は後からつけたのか、まだ新しく色落ちもしていなかったが、紙は古紙特有の匂いがした。

 表紙には”夏”と書かれてあった。

(そういえば、秋先生の師匠の名前は”夏”)

 美人画を描くことで有名だった、秋の亡くなった師匠の絵なのだろう。

 絵にはあまり興味がなかったので、女絵師”夏”のことは知らないが、とても綺麗な絵を描く人だったらしい。

 いったいどんな絵なんだろうと妙は興味を覚え表紙をめくった彼女だったが、見た途端、え?と驚いたように瞳を瞠った。

 描かれていたのは美人画でもなんでもない。

 それは、墨で描かれた三人のまだ幼い子供たちの絵だった。

 四〜五十枚はある紙全てに、同じ三人の子供たちが描かれている。

 年は十歳前後だろうか。いずれも男の子だが、女の子のように可愛らしい子供たちだった。

 髪をポニーテールにした瞳の大きな子供と、耳が隠れるくらいのところでザックリと切った髪型の子供、そして、天然パーマなのか、くるくると跳ね回った髪をした子供の三人。

 三人一緒の絵もあれば、一人ずつ顔を描かれたのもある。

 表情は豊かで、笑っている顔もあれば、拗ねていたり怒った顔もある。

(なんだか、この天パの男の子、銀さんに似てる)

 癖っ毛で、ふわふわした感じの頭は、本当にあの万事屋の主人にそっくりだ。

 思わず、くすっと笑みがこぼれる。

「ああ、それは夏先生が絵の修行のために放浪していた頃、立ち寄った村の子供を描いたものだそうです」

「そうなんですか。夏先生って美人画で有名な方と聞いてたので、ちょっとびっくりしました。こんな可愛らしい絵も描かれてたんですね」

 いつのまにか、そばに立っていた秋に驚きながら妙は素直な感想を口にした。

「子供を描いたのは、それだけだったみたいです。夏先生にとって、この子供たちはきっと特別だったのでしょう」

「とっても可愛らしいですものね。母性本能をくすぐられるとか」

「母性本能ですか」

 フッと笑われ、妙は照れたように首をすくめた。

「子供にはそういうものを感じさせられます。これが大人になったら、そんなものは感じませんけどね」

 この絵の天パの男の子は可愛らしいが、似てると思えるあの万事屋の主人は間違っても可愛くはない。

 あの坂田銀時という男は、こんな無邪気とも思える笑い方は、絶対にしないからだ。

 

 

 縁側に腰掛け、丸くなった金色の月を眺めていた秋は一つ息を吐いて、膝の上にのせていた緑色の表紙の画集に視線を落とした。 

 全てを失い、生きる気力すらなくした秋をこの世界に留まらせたのは、間違いなくこの一冊の画集だった。

 既に美人画で名を知られていた女絵師、夏と出会ったのは偶然というより運命だったのかもしれない。

 何より、夏が描いたこの絵が、秋に死を思いとどまらせた。

 秋は表紙を開き、十数年前に夏が描いた三人の子供の絵を一枚一枚眺めた。

 月明かりに照らされた絵は、どれも生気に溢れていた。

 楽しげに笑っている髪を一つにくくった男の子に、むっとした表情でつっかかっているような男の子。

 木の上にのぼっている天パの男の子に呼びかけているような二人の子供。

 縁側で折り重なって眠っている三人の子供たち。

 まるで、三人の子供たちの物語を描いた絵本のような画集。

 草むらに一人立ち、じっと上を見つめている黒髪の男の子に向けて、秋は懐かしそうに微笑んだ。

 高杉さん・・・・

 彼が見ているのは、葉を一杯茂らせた木の枝から顔を覗かせている白い髪の男の子。

 だらしなく枝に寝そべった銀髪の子供は刀をしっかり脇に抱え、逆に袖から伸びた白い腕は重力にまかせだらりと下げていた。

 顔は葉に半ば隠れて見えないが、口元だけは笑みを刻んでいた。

 秋は枝に寝そべる子供の絵を愛おしむように指を這わせた。

 坂田さん・・・・

 

 

「姉上が絵のモデルですか?」

 新八は、初めて聞いたという顔で目を瞬かせた。

「姉御がモデル、アルか。それってヌード、アルか?」

「んなわけないだろ!」

 何言ってんだよ、神楽ちゃん!

「そうそう。ヌードだったら、胸がデカイ女を選ぶって」

 何を好き好んでまな板みたいな女をだなァ。

「さらっと失礼なこと言わないでくれます?銀さん。姉上にぶん殴られますよ」

 妙は胸のことを言われると、相手を即効で半殺しにするほど怒り狂う。

 何度も経験してるのに、この万事屋の主人は、どうやらコリるということを知らないらしい。

「源外のジイさんの話じゃ、松野屋ってのが頼んだらしいぞ」

「松野屋さんですか。それならわかります」

 モデルの話は信じがたいが、松野屋の主人が絡んでるなら納得がいく。

「何?もしかして、おまえの姉ちゃんのコレだったりする?」

 親指を突き出す銀時に、新八は嫌そうに顔をしかめた。

「やめてくださいよ、銀さん。そんなんじゃありませんったら。松野屋さんは、僕の父の知り合いですよ。昔、母を巡って争ったことがあるって聞きました」

 おお〜と銀時と神楽が声をを上げる。

「恋のさやあてね。新八のとーちゃんもやるネ!」

「よっぽど美人だったか」

「小町と呼ばれるくらいでしたからね。僕はよく覚えてないんですが、亡くなった父に聞いたら、姉上に瓜二つだったとか」

「そりゃまた、物好きな」

 銀さん・・・と新八はハァ〜〜と息をつく。

「マジで殺されますよ」

「おまえがチクらなきゃ問題ねえって。そうか、顔だけは確かにいいからな、おまえの姉ちゃん。もしかして、性格も瓜二つか?」

「いえ。松野屋さんが言うには、姉上は顔は似たけど性格だけは似なかったそうです」

「つまり、松野屋は今でもおまえの母ちゃんが好きで、好きな女の絵が欲しいから頼んだって、そういうことか」

「多分・・・・」

「え?でも、松野屋っておっちゃんが好きだったのは新八の母ちゃんで、姉御じゃないね?」

「絵には性格までうつせねえからな。おとなしくしてれば、好きな女の絵ができるってこった」

「ええ〜〜それっておかしくないね」

「いや、きっと姉上は承知の上だと思うよ。松野屋さんがずっと母上のことが好きだったのは知ってるし」

 後は絵のモデルというのに興味があったとか。

 最近は携帯電話でも写真を撮れる時代だが、本職の絵師に描いてもらうというのはそうそうあるものではない。

「見てみたいなあ、姉上の絵」

「あ、わたしも見たいアル!姉御の絵」

「なんて言う絵師なんですか?」

「え・・・聞いてねえな。最近江戸に来た絵師だとか言ってたが。源外のじいさんなら知ってんじゃないか。なんか親しそうに喋ってたから」

「じゃあ、聞いてみます」

「じいさんに聞くより、家に帰って姉ちゃんに聞く方が早いだろうが」

「姉上は言いませんよ。言う気ならとっくに言ってます」

 じゃ、聞かねえ方がいいんじゃないかと銀時は思うが、口には出さなかった。

「それより、銀さん。身体、もう本当に大丈夫なんですか?まだ休んでた方がいいのに、出かけてなかなか帰ってこないんですから」

「ホントね。わたしが、ちょーっと目を離したらいなくなってたネ」

「目を離したって、おまえね。朝メシ食った後、定春と一緒に寝ちまってたろうが」

「明日の仕事は僕と神楽ちゃんとでなんとかなりますから、銀さんは明日こそ家でじっとしていてくださいね」

「新八くん。いつもと言ってること違うよ。銀さん大丈夫だから。毒なんてもうとっくに消えちまってるから」

「銀ちゃん、油断は禁物ね。大丈夫だと自己判断して、突然ポックリってこともあるって聞いたね」

 誰から?

「パチンコも駄目ですよ。飲みにいくのも駄目!」

 おいおい・・・・

「僕たちを心配させたんだから、それくらいは我慢してもらわないと」

 銀時は上を向いて、下を向いて、そして右見てから新八と神楽を見た。

「しょーがねえか」

 

 

「あれぇ、秋先生じゃないですかぃ」

 町中を歩いていた秋は、ふいに声をかけられ足を止めた。

 声の方を見ると、丁度呉服屋から出てきた黒い制服姿の男が三人、立ち止まった秋の方を見ていた。

 三人の内二人は知らない男だったが、彼らの中で一番若い男は何度か会って話をしたことのある男だった。

 まだ十代で少年といえる男は、確か名前は沖田総悟。

 江戸で凶悪犯罪を犯す攘夷浪士たちを取り締まる、特殊警察隊真選組の隊員だということだった。

 真選組の名は、江戸ではかなり名が知られているらしく、世情に疎い秋の耳にもすぐに入るくらいだった。

 評価は良い悪いが半々。いや、どっちかといえば、悪いほうが多いか。

 とにかく、治安を守るためとはいえ、時々やりすぎて反感をくらうことも多々あるという。

 だが、たまたま知り合ったこの少年隊士とは妙に話が合い、なんとなく昔の自分を見ているような気になった。

 彼も同じような印象を抱いたのだろう。

 会うと挨拶だけでなく、茶店で世間話をすることもあった。

「なんか久しぶりですねぃ。お仕事忙しいんですかぃ?」

「挿絵以外の仕事が入ったんでね。君も忙しいんじゃないかい、沖田くん」

 ええ、まあと沖田は頷く。

「最近、たちの悪ぃ連中が徘徊し、一般人を襲ってんでさぁ」

「攘夷浪士かい?」

「ま、そう装ってますがね。やるこた、おいはぎでさぁ。昨夜も、この店の主人が襲われて番頭が一人殺られちまいやしてね。先生も気をつけてくだせぇ。夜は外に出ねぇ方が無難でさ」

「しばらくは家にこもって仕事をすることになるから夜出ることはないね」

「そうしてくだせぇ。なに。すぐに捕まえやすから」

 沖田はそう言うと、先に歩き出していた仲間の二人の後を追っていった。

「さっきの男、てめえの知り合いか。何もんだ?」

 駆けてきた沖田の背後に見える男に、チラリと視線をやった土方が聞く。

 このあたりで土方が見かけたことのない男だった。

「秋先生といって、絵師でさあ。一年くれえ前に江戸に来たって言ってやしたが、知り合ったのは三ヶ月くれえ前で。殆ど家にこもって仕事されてるんで、俺もめったに会えねえんですけど、いい人でさぁ」

「秋先生なら知ってますよ。今は本の挿絵とか描いてますけど、以前は美人画とか描いてて。すっごく綺麗な絵で、ファンも多いんですよ。ただ数が少ないんで、美人画は出てくると凄い高値で取り引きされるって話です」

 

 沖田と別れ、三人の背を見送った秋は、ふっと息を吐いた。

 先に行った二人のうちの一人が、自分に鋭い目を向けたことは気づいていた。

 真選組が昔攘夷に関わったというだけで捕まえるようなことはしないということは聞いて知っている。

 彼らが相手にするのは、あくまで今現在攘夷を理由にテロ活動をしている者たちだ。

 だが、それでもあまりいい気持ちはしない。

 今も攘夷活動している者たちの中には、かつてあの戦争を戦っていた者もいるだろうからだ。

 特に、あの戦争の末期を戦ってきた者たちは、本当の地獄を知っている。

「あら、先生」

 彼らが出てきた呉服屋の前にしばらく立っていた秋は、前から歩いてきた中年の女性に声をかけられた。

 松野屋で女中をしている女だ。

「こんな所でお会いするなんてお珍しい。お買い物ですか?」

「ええ、まあ。新しい和紙を買いにね。さっき、知人にあって聞いたんですが、こちらの店のご主人が物取りにあわれたとか」

「ええ、ええ。ほんとにひどいこと。旦那さまには強い用心棒を頼んだ方がいいといつも言ってるんですけどね。全くかつて攘夷志士ともてはやされた人たちも、落ちるとこまで落ちましたわ。女でも金を持っていそうだとわかると襲うといいますもの。鬼兵隊といっても、今ではただの辻斬り、おいはぎですわ」

 秋は女の言葉に目を見開いた。

「鬼兵隊?」

 

 

 満月は過ぎても、まだ地上を照らす月の光は明るく、提灯の灯がなくても夜道を歩くのに不便はなかった。

 こういう夜は、犯罪も減るというが、最近はそういうことは関係なく通行人が襲われ被害にあっている。

 そのせいか、夜遅くなるとめっきり人の姿がなくなった。

「よお、兄ちゃん。こんな夜中にお参りか?」

 道の先に神社の石段が見える場所を歩いていた男を呼び止めたのは、五人の浪人だった。

 廃刀令が徹底された江戸で、帯刀が許されるのは幕府に関係した者が殆どで、それ以外は攘夷浪士と相場がきまっていた。

 暗闇から現れた男たちは、いずれも腰に刀をさしており、どう見ても幕府の役人には見えない。

 呼び止められた男は足を止めて、行く手を塞いでいる浪人たちを無言で見やった。

 そして、フッと息を吐きながら口端を上げた。

「昨日の今日では出てこないだろうとは思ったんだが。ああ、そういう風に考える獲物がよくいるってわけかな」

 昨夜この近くで襲われた人間がいると知っていながら、少しも動揺を見せない若い男に浪人たちは首をかしげた。

 獲物として狙いをつけたその男は、かなり身なりがよく金を持っていそうだし、刀をさしているわけでもない。

 どこかの大店の息子と言ってもいいような優男に鼻で笑われ、浪人たちは眉をしかめた。

 もしかして、護衛でもついているのかと思ったが、どこにもそんな気配はない。

 浪人たちを相手にできるだけの腕の覚えがあるのかとも思うが、どんなに見てもそういう風には見えなかった。

 ただの顔がいいだけのお坊ちゃんだ。

 たとえ、懐に得物を忍ばせていたとしても、刀で切りかからればそんなものは役にはたたない。

「ああ。最初に言っておくけど、私はただの絵師だから、そんなに金を持っているわけじゃない。昼間、買い物をしたので、手持ちは小銭くらいだ」

「だから、見逃せってか。甘いな、小僧」

 秋は苦笑した。

「小僧って呼ばれる年ではないんだけどね」

 ま、いいかと秋は肩をすくめる。

 実年齢より若く見られるのは昔からだ。

「実は、あんた方は鬼兵隊だと名乗っていると聞いてね。本当にそうなのか尋ねたいと思っていた」

「その通り。俺たちは鬼兵隊だ」

 ふうん、と秋は鼻を鳴らした。

「鬼兵隊というのは、攘夷戦争末期に高杉という侍が組織した義勇軍だと聞いている。戦争が終結して鬼兵隊の何人かが幕府に粛清された後に消えたというんだが、あんたたちはその名を使って強盗みたいな真似をしてるってわけか」

 さぞ、鬼兵隊を組織した高杉晋助は嘆いていることだろうな。

 こんな下種共に名を使われて。

 秋の蔑むような言い様に、浪人たちはカッとなった。

 なんの苦労もなく生きてきたような男に軽蔑されるのはよほど気に入らないらしい。

 こんな軽蔑されるような行為をしていてでも。

 怒りの形相で浪人の一人が刀を抜いて秋に襲い掛かった。

 ガキッ!と骨を切る音とは明らかに違う音が闇の中に響いた。

「・・・・・!」

 浪人が振り下ろした刀を受け止めているのは、秋の左手だった。

 本当なら切り落とされてもおかしくない状況であるのに、秋の腕は刀の刃を受け止めていた。

 まるで金属に向って刀を振り下ろしたような感触。

「悪いね。この手は義手なんだ」

 ニッと秋は笑うと、戸惑っている浪人の手から刀を奪い取り、返す刀で切り伏せた。

「貴様!」

 唖然としていた浪人たちは、仲間の一人が倒れるのを見て一斉に刀を抜いて秋に襲い掛かった。

 だが秋は、全く慌てる様子もなく、あっというまに四人の浪人たちをそれぞれ一太刀で切り伏せた。

「なんだ、これは。この程度で鬼兵隊を名乗るなど、身の程知らずにもほどがあるぞ」

 返り血すら浴びることなく五人の浪人を倒した秋は、あまりの情けなさに顔をしかめた。

 万に一つも期待していたわけではないが、これでは本当に情けない。

 江戸ではいまだ攘夷志士の生き残りが、幕府のやり方に反抗し戦い続けていると聞いていた。 

 だが、所詮暴れているのはこういう連中ばかりなのかもしれない。

 鬼兵隊を、ただ格好いいと言っていた若者を何人も知っている。

 あれから、まだ十年たっていないせいか、世の中は変わっても、まだ攘夷戦争時の記憶を残している者が大勢いる。

 だからといって、あの戦争で戦ってきた侍たちを汚していいわけではない。

 ふっと秋は、刀の刃を返し、視線を背後に向けた。

 いつの間にか、一人の男が秋の後ろに立っていた。

 服装が違うので、この連中の仲間ではないだろうが、まとう気が秋に警戒させた。

 おかしな格好の男だった。

 黒い上下の洋装にサングラス。

 逆立った髪にヘッドホンという奇妙ないでたち。背に負っているのは、三味線か。

「誰だ?」

「あ、それ拙者も聞きたいでござる。おぬし、何者かな」

「ただの絵師だが」

「ほお。じゃ、拙者もただの音楽プロデューサーでござるよ。その連中にちと用があったでござるが」

「用?」

「あそこの神社は、新曲ヒットをお願いする大事な場所でござるから、こんな連中にのさばられては迷惑だったでござる。役人はアテにならんし、斬ってくれて助かった」

「・・・・・」

「ただの絵師と言われたが、剣の腕はなかなかでござるな」

「護身のために少々習ったものだ」

「そうでござるか」

 笑みを浮かべるヘッドホンの男が、自分に危害を加える気がないとわかると、秋は持っていた刀を捨て歩き出した。

 ヘッドホンの男は秋にそれ以上何か言う気も、追うつもりもないのか、ただ黙って立ち去る秋を見送った。

「絵師・・・か。護身なんてとんでもないでござる。あれは明らかに実戦のための剣・・・・」

 何者だ?

 

 

 

 川に浮かぶ屋形舟から、三味線を爪弾く音が流れてきていた。

 その優雅な音色は、流れる水音と混ざり合い耳に心地よい響きをもたらす。

 船頭は近づいてくる人影に腰を浮かせたが、万斉だとわかると再び腰を落とした。

 万斉は舟に乗ると、膝をついたまま障子を開けて中に入った。

 声をかけずとも、中にいる男は誰が来たのかとうに察している。

 三味線を弾いていたのは、派手な模様の着流しに、顔半分を白い包帯で覆った若い男だった。

「早いお帰りだな、万斉。もう片付いたのかぃ」

 三味線の弦に指をかけたまま男が万斉に聞いた。

 鬼兵隊総督、高杉晋助。真選組が躍起になって所在を追っている男だった。

「拙者が殺る前に片付けてくれた御仁がいたでござる」

 ほおう?と高杉は顔をあげ隻眼を見開いた。

「五人まとめてかぃ」

「あっという間でござった」

「そりゃあ感謝してぇとこだが、そんな簡単に殺れる連中ではなかったろう。どこのどいつだ、殺ったのぁ」

「本人はただの絵師だともうしていたが」

「ふん。てめえと同じ、裏がある奴ってことかぃ」

「ただの絵師にしては戦い慣れていた。あれは実戦を相当に経験している者でござるな。放つ殺気に拙者の三味線が震えてござった」

「そいつは面白ぇな。で?もう調べてんだろ、そいつのこたぁ」

「絵師というのは本当でござった。一年ほど前に江戸に来て、原の森でずっと空き家だったある大店の別宅に一人で住んでいる。たまに本の挿絵を描いて生活しているというので、出版社の知り合いに聞いてみたのでござるが、絵師としては名がしれているのに、素性の方は全くわからないという答えでござった」

「どんな男だ」

「見た所、かなり若い男に見えたが、話してみると多分見掛けより年は上かもしれん。顔はどちらかといえばアイドル系でござるな。片手が義手のようでござった」

「義手・・・か」

「何故か奴らが鬼兵隊と名乗っていたのが気に入らない様子だった」

「気に入らないから皆殺しにした・・・か。面白ぇな、そいつぁ。しかも、童顔で義手だぁ?万斉。義手だったのはどっちだ?」

「確か、左手だったと。肘から下が義手でござったな」

 左、か。

 高杉は、くっと喉を鳴らした。

「そいつぁ、大いに心当たりがあるなぁ。そいつの名は?」

 秋、と万斉が答えると、高杉は肩をすくめ、くっくくと笑い出した。

「やはり、晋助の知っている男でござるか」

「ああ、知ってる。そいつぁ、間違いなく俺の知ってる奴だろうぜ」

「誰でござる?」

「ああ?おめえらの前身って奴だぁな」

 奴は、俺の”四鬼”だ。

 

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