■■□ PARTNER
怖い…怖いんだ…… "アレ"が怖い…ボクをいじめるから。大切なものを奪っていくから。
独りになった。誰もいない。なにもない。 でもやっぱり"アレ"が怖い…どうしようもなく怖いんだ。
なら君が消してしまえばいい。すべて消えれば大丈夫さ。
ああ…ああ…そうか。
すべて………スベテ、ケシテシマエバ、イインダ………
* * *
「誰かいるのか?!どうしたんだ!」
それは、ミリにとっては神の声にも等しいものだった。 まさかこんな場所に、他に人がいるなんて…! 車のドアは開けっ放しだったため、誰かもわからぬその第三者の声は、当然犯人にも届いたようだ。 ミリを押さえつけていた力が緩む。 今だ…! ミリは恐怖をなんとか我慢して、渾身の力で目の前の犯人の顔を引っかいた。 昨日気合を入れて手入れをした爪だが、命には代えられない。無我夢中だったから、どこを引っかいているかなんてわからなかった。 だが、攻撃はきちんと効果があったらしい。低い悲鳴とともに、ミリから完全に手が離れた。 このチャンスを逃したら、二度と逃れることなどできない。 ミリは転がり落ちるようにして車から脱出すると、片方だけくっついていたハイヒールを脱ぎ捨て、声がしたほうへと走る。 「助けて…!」 声はかすれてしまっていた。 けれど必死の思いは幸いにも届いてくれたらしい。 「こっちだ!」 「大丈夫か?!」 数名の人がいるようだった。こちらへと近づいてくる音がする。 ミリもそちらへ向かって必死に走り続けた。途中何度も足をとられて転びそうになりながらも、決して諦めたりはしなかった。 そのとき、今逃げてきたほうから、去っていくエンジン音を聞いたのだ。 犯人はもう、追ってはこなかった。 その後まもなく、ミリはかけつけた人々に助けられた。そう、助かったのだ。 彼らは5人ほどの男女で、近所に住む人々だという。このあたりをちょうどパトロールしていたのだと教えてくれた。 「近頃は物騒な事件も多いからな。皆で話し合って交代で毎日見回ってたんだよ。そしたら悲鳴が聞こえてくるじゃないか!間に合ってよかった」
彼らの中の、地元野球チームの帽子を被った初老の男性が、震えるミリの肩をに自分が着ていた皮ジャンをかけてくれた。 こんなにも人の温かさを感じたのは、初めてかもしれない。 泣きたくはないのに、自然と涙が溢れてくる。 「警察へ行こう」 誰かの言葉に、ミリは頷いた。 そういえば、どこかでカバンを落としてしまった。だが、今引き返して捜しに行く勇気はない。そんなにお金も入っていなかったし、明るくなってからでも警察の人に捜してくれるようにお願いしよう。 皆で乗り込んだ車の中、ミリは長く息を吐いた。 もう大丈夫だという安心感からか、身体中から力が抜け、そのまま眠ってしまいそうだった。 これからまた、事情聴取は長くなるだろう。ならば少しくらいはいいだろうか、と好意の温かさに少し甘えることにした。
「お出かけ?」 今まで携帯の相手と話していた新一が通話を切ったところで快斗は尋ねてみた。 そうだ、と短い答えだけが返ってきて、慌しい様子で上着を着こみ、出かける用意をしている。ご苦労なことだねぇと呑気に眺めていたら、ふと動きを止めた新一の、呆れたような怒ったような、冷たい視線が投げつけられた。 「…なにのんびりしてんだ。お前も行くんだぞ」 「えぇ〜オレも〜?」 「例の事件絡みだ。また被害者が出た」 仕方ない、と快斗は重い腰をあげる。 同じように近くにおいてあった上着を羽織った。
「また現場検証に?」 「いや…今度の被害者は未遂で済んだんだ」 「未遂?」 「つまりは、まだ生きているってことだ。デイビットが先に病院に行っているらしいから、オレたちも行く。話を聞けるかどうかはわからないけどな」 先ほど印刷したばかりの紙の束を、手近にあった茶封筒に放り込んで小脇に抱え、出口へと向かう。 「彼へのおみやげに?」 「ああ。話は、車の中、だ」 「了解。運転は――やっぱり新一だよね」 「…お前はまだ道を知らないだろ」 「うん、まあね。ま、あと2日もあれば地理全部頭の中に叩き込めると思うから、そしたら今度はオレに運転させてよ」
キッドの呑気ないい様に呆れてなにも言えない。昨日は慣れない現場で青くなっていたやつが。 新一は勝手に、キッドはああいうことが平気だと思っていた。裏世界に関わっていたやつだから、きっとけろりとした顔でついてくるに違いないと。だから昨日の反応はひどく意外で――同時にわずかな失望を感じていたことに自身驚いた。 一体なにを期待していたというのか、バカバカしい。 今だ「新一」と呼ばれることにむず痒さを感じながら、助手席にキッドを乗せて車はマンションを静かに出た。 昨日も思ったことだが、1人増えただけで、車が重く感じる。 今だ不満はある。今まで独りで身軽にやってきたのに、と。どうやらキッドも同じことを思っていたようだが、適応力が高いというのか、能天気というのか、今はまったく気にしていないように見える。 もし…もしこの仕事を一緒にやってうまくいかなかったら、やっぱり独りがいいとアレフに訴えてみようか。 …絶対にOKはもらえまいが。 「――いち、新一?」 「あ?ああ…悪い」 「寝不足?新一あんまり寝てなさそうだもんね、忙しそうで」 ま、オレもそうなるんだろうけど。 あははとやっぱり能天気に笑うキッドに、ハンドルを握る手に力がこもる。 絶対に、いつもよりも疲れているのはこいつにも半分くらい原因があるはずだ。 まだ納得できていない、無理矢理つけられた『パートナー』。 「っ、犯人が過去のジャーナリスト絡みの事件関係者の可能性があるってのはFBIでも同じ見解なんだ。だが事例が結構あるから、これから一緒に絞り込んでいく」 車道に出ると、急にキッドは黙り込んだ。 真っ直ぐ前を見つめながら、脳内では宣言どおりこのあたりの地理をできのいい脳みそに叩き込んでいるのかもしれない。 新一は自身でも並よりは優秀であると自負しているが、こいつは常識をはるかに超えたレベルなのだとアレフが言っていた。 "できる"やつだとは思っていたが、まさかそんなにも"異常"だったとは思わなかった。そんなやつと何度も互角に(少なくとも新一にとって)渡り合えたことは、喜ぶべきことなのだろうか。 …今となっては、遥か遠い過去に思えるが。 とにかく、早く道を覚えてもらうにこしたことはない。そうすればこうして一緒に1つの車で行動しなくてもすむ。 パートナーといっても、四六時中一緒に行動する必要はないはずだ。 生き延びた被害者がいるという病院の前にはすでに、事件のことを聞きつけた報道関係者でいっぱいだった。 なにしろはじめての『生還者』である。彼らにとってもかっこうのネタなのだろう。 新一は、それらの喧騒を避けるために近くにあったショッピングセンターの駐車場を拝借し、そこから歩いて病院へと向かい、騒ぎを尻目にこっそりと裏口から中へと入った。 デイビットが話をつけてくれていたらしく、警備をしていた警官に名前を告げるとあっさりと通してくれた。もしかしたら、まるで子供のようなそっくりな双子、とでも告げたのかもしれない。 東洋人であるせいか、それ以外にも理由があるのかもしれないが、年齢よりも若く見られてなかなか信じてもらえないということは多かったのだが、今回はそれもなかったのだ。 「シン、待っていた」 入ってすぐに、ベンチに座ってなにやら書類を眺めていたデイビットが立ち上がり片手を挙げる。新一も同じように応えた。 「被害者の容態は?」 「ひどい打ち身があるが、大丈夫だ。意識もはっきりしているし、まだ怯えはあるが我々の質問にも応えてくれる」 「話せますか?」 「ああ、こっちだ」 案内された病室で、手当ての後が痛々しいながらも、聞いたとおり意識ははっきりしているようだった。 今も、検査のための入院だという。 ベッドの上で上半身を起こした状態で、彼女は女性の捜査官からの事情聴取を受けていた。 「つけられているのに気付いたのはいつからですか?」 「会社を出たとき、でしょうか。ずっと車がつけてくるのに気付いて…はじめは、気のせいだと思いました。他にも人はたくさんいたので、まさか標的が私とは」 「それより以前は?誰かにつけられたとか、家が荒らされていたとか」 「いいえ、まったく。今日がはじめてです」 疲れきった顔をしているが受け答えははっきりしている。 彼女の話を、新一はデイビットの後ろで静かに聴いていた。キッドの耳にも入ってはいるのだろうが、まったく関係ない方向をきょろきょろと見回している様子では聞いているのかはわからない。 思わず、真面目に働けと怒鳴りつけそうになったところで、デイビットに腕で軽くつつかれた。 「今、なにかわかるか?」 その言葉に、新一は彼女に意識を集中させた。 伝わってきたのは彼女が経験した『恐怖』だ。得体の知れないものに追いかけられる恐怖、殺されるかもしれない恐怖――彼女を捕らえたのは、男だ。 今までの5人の被害者のときと同じ『感情』を感じる。 何度か見たことがある快楽殺人の犯人とは違う。男が彼女に向けたのは、激しい憎しみである。 血走った、大きな目が見えた。 だが…ここでは、それだけだった。 新一はデイビットに小さく首を振ってみせる。デイビットはそうか、と小さく呟いただけだった。 事情聴取のほうでは今度は犯人の特徴についての話になっていた。似顔絵の作成も始まっている。 おそらくは恐怖を押さえ込みながら、彼女は1つ1つ、自分が見た犯人の特徴を並べていた。 「あ…でもそういえば、」 しかしその途中、眉を寄せながら、彼女が言った。 「なにか?」 「あの、犯人の顔なんですが…どこかで見たような気がするんです」 「本当か、それは」 思わず、といったように歩み寄って叫んだのはデイビットだった。 失礼、と咳払いをしたあと。 「どこかで会ったのですか」 「いえ、そうではなく――ああ、そうです、記事です、記事」 「記事?」 「ええ。今日私、社で昔の資料整理をしていたんです。そのときに偶然目に入った記事の写真の男に、そっくりだった気が…」 ああでも、と彼女は小さく笑って首を振った。 ごめんなさい、やっぱり私の勘違いだったわ。 自己完結をされていぶかしんでしまうのは仕方が無いだろう。犯人の手がかりになるかもしれないのだから。 「でもあの記事は確か、もう20年以上前のものですから、違いますよね。それに、その写真の男が亡くなったっていう記事でしたし」 「なるほど。しかし、念のためなんの記事だったか話していただけますか?もしかしたらなにか繋がっているかもしれませんので」 「は、はい…あれは確か――――」
「あった。これかな」 最初に見つけたのはキッドだった。 キッドが掲げた紙を新一は奪い取ると、デイビットと一緒に覗き込む。少し不満そうな顔をしたキッドも、遅れて加わった。 片っ端から印刷してきてよかったというべきなのだろう。早速役に立った。 記憶力のいい彼女に感謝する。 彼女が教えてくれた事件とは、とある会社員が自殺したというものだった。しかし、ただの自殺ではない。会社の金を横領した疑いをかけられ、"世間"に追い詰められた男の自殺である。 もしやと思って持ってきた資料の中を捜してみると、あったのだ。 その会社員は容疑を全面的に否定していたらしいが、警察の追及は厳しく、また連日マスコミが追い回すなどの状況に耐えられなかったのだろうというようなことが書かれていた。 その後実際に彼の無実が判明したことで、当時、結構な騒ぎになったらしい。 「私は戻ってこの事件についてさらに詳しく調べてみる」 「私は…今回の現場に行ってみてもいいですか?」 「わかった、向こうには伝えておく。こちらも、なにかわかったらすぐに連絡するよ」 デイビットを見送ってから自分も目的地へ向かおうとしたとき、先ほどまで事情聴 取をしていた女性捜査官に呼び止められた。 「彼女が、現場でバッグを落としたそうなんです。おそらく回収されていると思いますので、持ってきていただいても?」 「ええ、構いませんよ」 「ベージュのハンドバッグだそうです」 「わかりました」 小さく頷くと、新一は早足でその場を去った。 慌てて追いかけてくる足音を意識の外で聞きながら。
襲われた現場ではいまだ検証が行われており、テープの外ではマスコミと野次馬が病院ほどではないが集まっている。 人ごみを掻き分けながらテープに近づき、そこに立っていた警官に声をかけると、デイビットからの話が通っているらしくあっさりと中に通された。もちろん、キッドも一緒に。 キッドは病院を出たときからなぜか不機嫌のようで、車の中でもむっすりとしたまま一言もしゃべらなかった。 新一も別にキッドと話をしたいわけではないので特に気にせず放っておいた。そんな状態でもきちんとついてくるのだからいいだろう、と。 だから今は、目の前の事件のことに集中することにする。 雑草が生え放題の広い空き地はいたるところに車で踏み荒らした形跡があった。前と同じ、盗難車だろうか。 新一はその場に集中する。 力のことを知らない周りから見れば、急に黙り込んで空を睨みつけているようにしか見えない新一はかなりの不審人物だろう。訝しげな視線や好奇な視線が自分に集中していることはわかったが、無視した。 恐怖、憎しみ――病院で感じたものと同じだ。 命拾いした被害者、多くの人々に逃げていく車、再び訪れた静寂。だがそのすぐあとに静寂はまた崩された。 戻ってきた車。戻って、きた…? 消化しきれなかった憎しみを抱えて、男が車から降り立った。今ちょうど、新一が立っている場所へ。 新一の視線が足元へと移動する。 手が、伸ばされる。 ここで見つけた。あるものを。そして拾い上げる。―――ベージュの、ハンドバック。 「バッグを…」 「え?」 小さく呟かれた声は、傍らの警官にさえ届かなかったらしい。 「ベージュのハンドバッグが、落ちていませんでしたか」 視線はそのままに、今度ははっきりと尋ねる。 だが、新一には応えはわかっていた。 バッグの中を探る手、そして取り出したのは免許証だ。"ミリ・ファーディング"、被害者の名前と顔写真。 男の口が、歪められた。 「いいえ、回収されたのは被害者の靴だけで…」 言葉の途中で、新一は踵を返し、早足でその場を去る。 呼び止める声があったが気にしてはいられない。 「ちょ、新一?」 「…被害者が危ない」 追いかけてきたキッドにはそれだけを告げると、携帯を取り出しながら車に急いだ。 後ろで大きなため息がつかれていたことなど、気付くことなく。 それでも一応キッドが乗り込んだのを確認してから、新一は発車させた。スピーカーにして携帯をハンドル横にたてかける。 通話の相手は、デイビットだ。 「被害者が、危ない」 『どういうことだ』 「犯人はもう一度ミス・ファーディングを狙う。名前も知られた」 今はまだ、『生還者』である被害者の名前は公開されてはいなかった。 『わかった、警備を強化させよう』 「私…たちも、今から向かいます」 『ああそうだ、ついでだから報告しよう。先ほどの事件についてだ』 「なにかわかりましたか」 『自殺した会社員の名前はジョセ・フーキン。彼には妻と息子がいたが、その妻のほうも1年後に自殺したらしい。こっちも原因は、心労のためだと考えられている。随分長い間、マスコミは彼ら母子に付きまとったらしい』 「では、その息子は…」 『息子の名は、エディン・フーキン。母親の自殺後施設に引き取られた。今わかったのはこれだけだ。これからさらに詳しく調べてみる。またなにかあれば連絡する。ではすぐに応援を』 「よろしくお願いします」 通話が切れると、新一は深く息を吐いた。 30分弱走って到着する。先ほどと同じようにショッピングセンターの駐車場に車を停めると、新一は車を飛び出して病院へ向かって駆け出していった。
ああいうところは基本的に変わっていないんだろうな、と置いていかれた快斗は思う。 突っ走れば止まらなくて、周りが見えなくなって。 「でさ、たまにピンチに陥るんだよね」 そんな彼を、放っておけなくてついつい手を貸してしまうことも何度かあった。 いい加減、『おまけ』はつまらない。働け、といわれたからには、きちんと仕事をしようじゃないか。 騒がしい病院を見上げる。追い払っても追い払っても消えることのないマスコミたち。さぞや他の患者たちは迷惑していることだろう。 今はまだ、きっと来ない。それは、快斗の確信だ。 にやりと笑みを浮かべると、快斗は新一とは別の方向へ歩いていった。
to be continued
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