■■□ PARTNER
俺は独りだ。独りになった。独りであることを選んだ。
そう。選んだ、のに……
* * *
目の前で繰り広げられる"感動のご対面"を、快斗は動くこともできずに見ていた。 子供は随分とシンに懐いているらしく、にこにこと笑う。シンの方は…背を向けているので表情はわからない。だがきちんと抱きしめ返す腕に、彼にとっても大事な存在なのだとわかる。 しばらくそうして抱き合ったあと、少し体を離してシンが何かを問いかける。英語ではない言語。けれども快斗にもわかる、それ。 シンが話しているのはフランス語だった。そして子供が応えるのも同じ。
とにかく、この子供が座っていた方の扉、そっちがシンの部屋なのだろう。ということは反対側が快斗の部屋ということになる。 早く中に入りたいと思うのだが鍵はまだ渡されていない。シンが持っているはずだ。かといって話しかけるのも気が引ける。 早く自分の存在を思い出してくれ、と祈っていると、子供のほうが快斗に視線を向けた。 快斗を認めた目はどこか怯えているようにも見える。か細い声で誰?とシンに訊ねた。シンはそこで快斗のことを忘れていたことに気づいたらしく、ちらりとだけ快斗を見るとまたすぐに子供へと戻し、俺の友達だから心配いらない、そう言った。 その言葉に子供は安心したようだ。にこりと可愛らしく快斗へ笑いかけてくれる。 つられて快斗も笑う。
しっかし……友達、ねぇ…… この子を安心させるためとはいえ、あんなギクシャクした友人関係があるのかと思うと、笑えた。
シンは自分の部屋の鍵を開けると、子供を中へと促す。すぐに行くよ、と言って再び扉を閉め、今度はきちんと立ち尽くしたままの快斗へ向き直った。 一瞬見えた優しい笑みはどこへやら、快斗へ向けられる表情は先ほどと同じ仏頂面。
「待たせて悪いな…これがお前の鍵だ」
ポケットから取り出されたものは一般に鍵と言われるだろう銀色のそれと1枚の厚いカード。扉は電子錠になっていて、念のために普通の鍵もついているのだそうだ。 それらを受け取ると、もう用は済んだといわんばかりにシンは自分の部屋へ入っていこうとする。 快斗はその腕を掴んだ。思ったよりも、細かった。
「……なんだ?」
不機嫌を隠すことなく振り返る。けれど、振り払われることはなかった。
「あの子、誰?まさか名探偵の子供、じゃあないよね」
明るい金髪。明るい色の瞳。シンとはまったく似ていないその子と血が繋がっていないのは一目瞭然であるが思わず訊いてしまう。 思ったとおり機嫌はさらに下降してしまって。
「当たり前だ。……あの子のことは、話せば長くなる」
だから言わない。言外にそう言われたようで快斗は息をついた。 まぁなにかわけありだということは薄々感じてはいたが。
「んじゃあとりあえず…あの子は名探偵と一緒に暮らしているんだね?」
「そうだ」
「そんでもって名探偵には大切な存在だ、と」
「………ああ」
なにが言いたいんだ?そう言いたそうなシンににこりと笑うと、快斗は掴んでいた腕を放した。 呆然とするシンに背を向けて、自分の部屋の鍵を開ける。
「OK。それだけわかれば十分十分♪んじゃ、おやすみ〜」
ひらひらと手を振って、快斗は扉を閉めた。オートロックの音が小さく響く。 なんなんだ…?変なやつ…。 眉をひそめながらも、シンもまた自分の部屋へと入っていった。
そのころ、部屋の中では快斗は決意を新たにしていた。 新しい職場、そこでまさか出会えるとは思っていなかった存在。しかもパートナーとなってしまった。これは幸運と考えるべきこと。 なにしろ相手は、ずっと興味を持っていたやつなんだから。
だが相手はなかなかあの態度を崩そうとはしない。快斗との間に一線引いてくる。 せっかくだから、楽しくいきたいじゃないか。
「覚悟してろよ、名探偵…」
目の前にいきなり大きな影が立つ。 はじめはなにかわからなかった。お日様を背にしているその姿はまさしく黒い影でよくわからない。けれどそれは幼い自分にはとても大きく見える。 顔をあげて見上げれば、それが自分と同じ人の形をしているのがわかった。
怖い…
そう感じた。目の前のこの大きな影が、怖い。怖い。 それから逃れるために、走った。そうしないと、その影に取り込まれてしまいそうで。果てしない暗闇に呑みこまれてしまいそうで。 だってその人から、嫌なものを感じる。なぜかはわからないけれど、底のない暗闇を感じるのだ。
いつからか、そんなふうに他人から『暗いもの』を感じ取ることがしばしばあった。それはわずかでも恐怖を感じてしまうもの。 父さんに話したら、それは誰でも持っているものだから、気にしなくていいと笑っていた。それでも怖いのだと言えば、大丈夫と優しく抱きしめてくれた。 大丈夫大丈夫…それは皆が持っている『心の闇』。父さんも、お前も。
けれど今目の前にあるものからは今までに経験したものの何倍もの黒いどろどろしたものが感じられる。それは今までになく嫌なものだった。 がんばって走って、がんばって逃げていたつもりだったのに。 気がついたら小さな体は宙に浮いていて、目の前であの影が笑っていた。相変わらず、表情は見えない。けれど弧を描く唇が、笑っていることを教えてくれる。 そう、逃げようと必死になっていた相手の腕の中に、自分は囚われたのだ。
「やっ!いや!」
どうしようもない恐怖に涙が出る。無我夢中で暴れた。なんとかその腕の中から逃れようと。 けれど腕はびくともしなくて。自分の体も動かない。まるで蜘蛛の糸にかかってしまった獲物のように、逃れることができないのだ。 それでも暴れることをやめないでいると、影の大きな手が両目を覆ってきた。 それで本当に暗闇の中。何も見えない。
"――――――……"
聞こえてきたのは低い笑い声と異国の言葉。 だがその意味を理解する前に、唐突に意識は途切れた。
「…ッ!」
飛び起きた新一は、そこが見慣れてしまった自分のベットの上で、周りには誰もいないことに安堵の息をつく。もちろん、あの影もない。 カーテンの隙間からは明るい光が差し込み、今が夜明けであることを教えてくれる。 ベットに上体を起こした格好で、新一は大きく息を吐き額に手を当てた。嫌な汗をかいて前髪が額に貼りついてしまっている。それをかきあげた。
またあの夢か…
大きな影が追いかけてくる夢。そして囚われて――そこでいつも目が覚める。 夢だとわかっているのに、妙にリアルで生々しい。 夢の中で追いかけられていたのは確かに幼い自分であるようだったし、実際にあったことのような気もしてくる。忘れているだけだ、と。 最近になってよく見るようになった、悪夢。 目を閉じれば、すぐにでもあの黒い手が自分へ伸びてくるような、そんな感じがして。
「はぁ…」
気分が悪い……
あの夢を見て目覚めるとき、決まって具合が悪い。精神的なものがそのまま身体にも影響してしまっているのだろう。 そこまでわかっていても、改善方法がわからないのだ。
しかし、時間は止まってくれない。 どんなに休みたくても、自分に与えられた任務をこなさなければならないのだ、今日も。
新一はのろのろと起き上がると、いつもどおり支度を始める。着替えて、顔を洗って、朝食の用意をして。まだ寝ているだろうエティを起こして一緒に食べる。 それがいつもの光景だ。そして今日も変わらないと思っていた。 だが着替えをしているときに扉の向こうから音がした。そしてそれに続いて2つの声。 1つはエティのもの。だから問題はない。しかしもう1つの方は、今絶対に聞こえてくるはずのないもので。ボタンをとめていた手が止まり顔が強張った。 半ば胸をはだけた状態のまま、新一は扉へ駆け出していた。
「おはよ〜、新一v」
「……」
「オハヨ、シンイチ!」
「……」
リビングに入ったとたん目に入った光景とかけられた声に。新一は見事に固まった。起きたばかり、というのもあるが頭が働かない。 入り口のところで立ち尽くしたまま、ただそれらを見ていた。
「もう朝ごはんできるよv勝手にキッチン借りてごめんね〜」
「ケィ、料理、上手〜!」
「……ォイ」
思わず突っ込みなくなる。なんだか別な意味で頭痛がした。 なんでこいつがここにいるのか。扉には最新式のセキュリティがかかっていたはず。そう簡単に中へは入ってこられないはずなのに。 それなのになんでもないかのような笑顔で話しかけてくる。
そしてさらに問題なのが…
「ケィ、僕、他になにすればいい?」
「う〜ん、じゃあグラスを並べてくれる?きちんと3人分ね」
「わかった!」
パタパタと大きなスリッパを引きずりながらキッチンへと向かうエティ。そしてそれを笑顔で見送っているキッド。そして再び手を動かす。 エティは人見知りが激しい子だ。そう簡単に他人には懐かない。 けれど今のはどう見ても、かなり懐いてしまっているようで。
「お前…どういうつもりだ?そもそもどうやって入った!?」
詰め寄れば、相手は悪びれる様子もなくにっと笑う。
「これから一緒にやっていくっていうのに、ずっと眉間に皺寄せたままだしさぁ。どうせなら楽しくいきたいじゃん♪」
「なんでお前と仲良くしないといけないんだ」
「それに扉のセキュリティね、難解なシステムがあるとそれを突破したくなっちゃうんだよね〜、俺」
ほら、俺って怪盗なんてものやってるしv
暖簾に腕押し、糠に釘。 何を言っても、どんなにきつく睨みつけても、相手はのほほんと笑うだけでまったくこたえていない。それには思いっきり脱力してしまう。 しかしいくらパートナーとはいえ、それは組織に勝手に決められたこと。新一は独りで動くことを好んでいた。そしてこいつがキッドであれば同じだろうと、そう思っていたのだ。
怪盗キッドに協力者らしい協力者はいないと新一は思っている。 実際にはいるのだろうが、それでもその好意を受け止めながらも完全に心を許しているわけではない、勝手にそう想像していた。 やはり想像は想像でしかないということか。 この目の前で人懐こい笑みを浮かべる男を見ると、こいつがキッドであることも信じたくなくなる。
「とにかく!ずかずかと人の家に勝手に入って…」
「シンイチ?どうしたの?」
くるな!と言おうとして。キッチンからグラスを抱えてきたエティの声にぐっと詰まる。 小さな体にはグラスも大きく見えて、なんとも危なっかしい。
「怒ってるの…?」
不安げに見上げてくるエティに何も言えなくなった。 応えられないでいる新一に代わって、キッドがエティの傍まで歩み寄った。持っていたグラスを受け取りながら、大丈夫vと笑う。
「新一はね、寝起きで機嫌が悪いだけ。すぐに元に戻るからね」
「ホント?」
「ホントvだから、冷めないうちに一緒にご飯食べよv」
「うんv」
明るい笑顔に戻ったエティに新一はほっと息をついた。悔しいけれど、今はキッドに感謝する。 キッドはエティをイスに座らせ、自分も向かい側に座り、新一にも座るように促してきた。それに一瞬躊躇ったけれども、エティの前では言い争うなんてできない。 とりあえず言われるままに席に着いた。目の前には実際おいしそうな料理がまだ湯気を出している。
「「いただきます!」」
2人がそう口にして、食事が始まった。遅れながらも同じように小さく呟いて、新一も食べ始めた。キッドが作ったというその料理は予想外においしい。 エティはよっぽどキッドに興味を持ったのか、食べながらも話しかけている。憶えたばかりの日本語を懸命に使いながら。 そしてキッドもまたそれにきちんと応えてやっている。 本当に、すごい懐きようだ。一体こいつはなにをしたのか…。 けれどエティは笑っているし、この場を包む雰囲気がなんだかやわらかくて暖かくて。だから今はいいかと何も言わずに新一は食事を続けた。 ただし、あとからしっかりと言いたいことを言わせてもらう。
そういえば。新一はふと気づいたことがあった。
さっき起きたばかりのとき、あの夢のせいでもやもやしていたものが消えたような気がする。体のだるさもなくなった。そのおかげでこうしてきちんと食べられる。 なぜだろう…?そう考えて、浮かんだ応えに慌てて首を振った。
そんなはずはない。もういい、なにも考えない……。 そう思いながらも、新一はちらりとエティと楽しそうに話をしているキッドへと視線を移した。
食事を終えて、片付けを済ませて。そのあとようやくキッドは自分の部屋へと戻っていった。 その背を見て淋しそうな顔をしていたエティに、またすぐに来るよvと残して。エティはすぐに笑顔に戻って嬉しそうに頷いていた。 2人だけになった部屋で、新一はエティに訊いてみた。
「あいつ、気に入ったのか?」
「うん!おトイレに行きたくて起きて、この部屋にきたらいたの。びっくりしたけど、シンイチ友だちだって言ってたし。それに、すごいんだよ!」
話し出すうちに興奮してくる。
「ケィ、魔法が使えるの!なにもないところから、色んなものが出てきたんだよ!」
ああそういえば。あいつはマジシャンだったな。しかもかなり腕はいい。 エティのような子どもには、確かにマジックはかなりうけるだろう。『魔法』、そう思っても仕方がないかもしれない。あれはオトナでも驚く。 その『魔法』で、キッドはエティの心をしっかり掴んだのだ。
本当に、なに考えてやがる…
「…あいつが好きか?」
「うん、優しいし、好きだよv」
あ、でも。シンイチが1番好き!
付け加えられた言葉に、思わず顔がほころんでしまう。わずか6歳の子どもなのに、人の喜ばせ方を知っている。 ―――いや、子どもの場合は無意識か。 オトナのように裏のない言葉だから、だから素直に嬉しいと思える。
「そういえば、なんであいつは『ケィ』なんだ?」
「これ、もらったの!」
差し出されたのは小さなメモ紙だった。そこにはたった1文字だけ、『K』と記されている。おそらくはあいつが書いたのだろう。 エティが言うには、これが名前?と聞いたら、1番自分を表しているから、と言ったのだという。 確かに『K』は、自分が知っているあいつの両方の名称の頭文字だ。
『カフ』も『シン』もヘブライ語のアルファベット。だから社員は22人。 わかれば簡単なコードネーム。そこにある意味なんて知らないし、もしかしたらなにも意味なんてないのかもしれない。 そうであれと言われたから、そうしているだけ。
それに今は。それ以外に名をもたない。
新一は、さらにキッドのすごさを話そうとしているエティに苦笑いしながらその頭を撫でてやった。すると話すのをやめて嬉しそうに見上げてくる。 さらさらと、手触りのいい金糸が指の間を通り抜ける。
俺もお前が大事だよ。たった1人、失ったはずの名を呼んでくれるから。
パソコンのキーを打つ音だけが響く暗い部屋。そこに快斗は足を踏み入れた。入ったのは初めてで、そこに揃っている最新鋭の機器に感嘆の声をあげてしまう。 けれど先に来ていたパートナーは相変わらず冷たい反応で。目の前の画面にだけ集中している。
冷たいなぁ…まだまだ時間が必要、か。
やれやれ、と肩をすくめて、快斗は彼のもとへと歩み寄った。 後ろから覗き込むと、画面に出されているのは古い新聞記事のようで、シンはひとつひとつ慎重に見ながら次のページへとめくっていく。 中身は当然のことながら、すべて英語だ。 のぞきこんでも怒られないし隠されないということは、見てもいいということなのだろう。 それが今回起こっている事件についての資料集めであるということはわかる。
「なに調べてんの?」
さて、きちんと応えてくれるかな? そう思っていた快斗の意に反して、シンは一瞬ちらりと視線だけを快斗に向けると。
「今回の犯人はジャーナリスト自体をかなり憎んでいる人物だ。個人的な恨みではなく、ジャーナリストという存在を、な。被害者の共通点はそれだけだしな。だから今、それらしい事件を捜している」
あっさりと応えを返してくれた。 どうやら仕事上ではきちんとパートナーとして扱ってくれるらしい。それも不本意だ、と思っているような気がしないでもないが。
快斗はシンが使っているパソコンとは別に、他3台ほどのパソコンが置かれているのが目に入った。 このまま黙って後ろからのぞいているのもなんだし…。
「俺も手伝うよ。こっちのやつ、使ってもいいんだろ?」
「ああ。ここにあるのは全部組織の持ち物だ。社員は自由に使っていいことになっている。ここにあるものすべて、なんにでも、な」
意味深なことを言うシンに快斗は苦笑いをした。 シンが言っているのは怪盗業のことだろう。つまりはここにある機材を怪盗としての仕事に使ってもいいと、そういうことだ。 確かに、ここは非常に便利な場所だ。 しかもここが、快斗たちの暮らすマンションの地下にあるとなればなおさらに。
新一と同じように記事をひとつひとつ見ながら、快斗は別な話題を持ち出してみた。
「エティは、お留守番?」
「……俺が出かけている間は、下のジェシカに預けている」
「ジェシカ?って…一般の人も住んでるの?」
「いや。彼女は、アレフの奥さんだ」
思わず快斗は手をとめてしまう。 アレフ…アレフというのは快斗を案内した、所長である男だ。その奥方がこのマンションに暮らしているのだとシンは言う。 別に奥さんがいることには驚かないが…。
「その奥さんも組織の一員?」
「違う…だがすべてを理解し、そして見守っている。強い女性だ」
近所だから、お前も一度会ってくればいい。 1度も快斗の方を向かないままでシンはそう言った。 シンがエティを安心して預けていられる女性、それだけで彼女がかなりの大物であるとわかるが、快斗は別なことでも感心していた。
「やっぱり、所長でいるだけあって、あの人強いんだね」
「…?どういうことだ?」
「いいや、こっちの話。じゃああとでエティ迎えに行くがてら挨拶してこよ」
快斗の言葉に、シンは初めて手をとめた。そしてイスごと体を快斗の方を見る。見る、というよりも睨みつける、といったほうが正しいか。 それを感じながらも、快斗は画面から視線を外すことはなかった。
「エティを懐かせて、どうするつもりだ?」
「やだなぁ、すっごい聞こえの悪い言い方。俺はただ、純粋に仲良くしたいだけだよ」
「信じられるか」
「泥棒の言うことだしねぇ…信じたくなかったら信じなくてもいいけど。本当にそれだけだから、他に言いようがない」
まぁ、もっと仲良くしたいのは新一の方だけど。
本人の方を見ないままでにっと笑う。 快斗の言葉に新一はぐっと拳を握り締めた。
「それにしても…"エトワール"とは、なかなかすごい名前を付けたもんだね。まぁ、あっているといえばあっているけど…新一が、つけたんだろ?」
エティとは愛称。だから本名はなにかと尋ねたら、エトワールだとあの子は応えた。フランスでシンに拾われたとき、名を持たなかった自分に、その名前をくれたのだ、と。 それまでに特定の名前がなかったというのにも驚いたが…。どんな事情があったのかまでは訊けなかったし訊いてはいけないような気がした。 シンもきっと、そのことを話してはくれないだろう。
猫のように左右色が違う瞳。しかもどちらも不思議な色をしていた子ども。 あの子にどんな事情があったにしろ、『星』という名をつけられたとおり、この世界の中であの子は、シンにとっての星なのだろう。 なんとも気障なネーミングだと思って笑ったものだ。
「……ぶな」
「なに?」
わずかに自分の考えに入り込んでいた快斗は、シンが言った言葉を聞き逃してしまった。 ちらりと視線をうつせば、俯いたシンの姿がある。
「その名前を呼ぶな」
「新一って?なぜ?」
「そいつはもういない。そいつはもう、死んでしまったんだ」
俯いているために表情は見えない。 けれどきっと、なにかを耐えるような、噛みしめるような、そんな顔をしているに違いない。
「なんで?新一は新一、きちんとここにいるだろ?たとえ戸籍上は消えてしまっても、真実目の前にこうして存在している。たとえその瞳の色を誤魔化しても…少なくとも俺には、あんたは工藤新一以外の何者でもない」
「……!」
弾かれるように顔をあげたシン、いや新一は、零れ落ちるんじゃないかというくらいに目を開いて快斗を見ていた。
「昨日、独りで考えていた。いや、拘束されていたときにも考えたことがあった。『俺』という存在を消されたと知ったとき、現実味がなかった。そりゃそうだ、俺はまだこうして生きている」
「……」
「色々と思うこともあったよ。未練もある。たぶん一生消えない、な」
思い浮かぶのは、やはり置いてきた幼馴染のことだ。 考えるたびに、胸が痛む。
「でも戸籍上死んでいてもこの生活に不自由はなさそうだし、俺の意志はまだ残ってるし。割り切らないとやってけないだろ」
またパソコンに向き直って画面を動かし始める。 新一が快斗を凝視したまま動けないでいることに気づいていたけれども、快斗は新一の心を癒す、なんて立派なことは考えていない。 自分だって癒されてないのに、無理な話だ。 ただ、どうせ生きていくのならば楽しい方がいい。そう思っているだけ。 ずいぶん長く語ってしまったが…それはあくまで快斗の意見だ。どうするかは、やっぱり新一自身の問題。
ああでも1つ譲れないことがある。
「俺たちは互いに互いの事情を知っている。そんな相手の前でまで偽るのはいやだから、俺が呼ぶのは『新一』でいいんだ」
お、いくつかあったぜvジャーナリストがらみの記事が。
それらをとりあえず印刷するために、快斗は立ち上がった。どこかに紙があるはず…と探し始める。 いまだ黙ったままの新一はそのままで。
「勝手なことを、言うなよ……」
新一は小さく呟いた。それは本当に小さなもので、紙を探すのに集中しているキッドに届くはずはない。 頭が混乱しているのがわかる。 自分は、こいつのようにそう簡単に割り切るなんてことはできないのだ。
「お前…自分の存在を抹消されて、抵抗はなかったのか?」
ようやく紙を見つけて早速印刷をはじめているキッドに、新一は訊ねてみた。 ん〜と考えるそぶりを見せて。
「そりゃあるさ。実際に最初のうちは何回も逃げようとしてたからね。冗談じゃない!って」
実際に逃げても、数時間もしないうちにまた捕まってしまったけれど。 はじめのころはそんなことを何度も繰り返していたなぁとなんでもないかのように、まるでそれがいい思い出であるかのように懐かしむキッドがますますわからない。 この組織に入ったとき、自分の存在が消されると知ったとき、新一も少しは抵抗した。 こいつのように、逃げたことはなかったけれど…。
ああそうか、と思う。だからこいつかこんなに落ち着いているのか、と。 何度も何度も逃げ出して、何度も何度も抵抗して。それがすべて無駄に終わって。この組織の力を身をもって感じてしまったから、こいつはこうしていられるのだ、と。 新一はキッドとは違って逃げ出そうとはしなかった。口では拒否しながらも、行動にうつさなかった。 与えられた結果に、仕方がない、それでもいいかと簡単に諦めてしまった。 それが、こいつとの違い。
「まぁまぁ。そんなに難しく考えるなよ。簡単に応えがでるもんなら、とっくに出ているはずだろ?今はとりあえず、やらなきゃいけないことをやろうぜ」
印刷し終わったものをとんとんと机の上で揃えて。まとめて新一へ差し出してきた。 とにかくこいつを終わらせないと、自分たちが本当にやりたいこと、できないだろ?そう付け加えて、また明るく笑う。 これがこいつのスタイルなのか。おかしなやつ…。
「そりゃ、そうだな…」
資料を受け取って、ほんの少し、新一も笑うことができた。
追ってくる気配に、必死に逃げる。塗装されていない道ともいえない道では、走ることを妨げる障害物がたくさんあるが、それでも全速で走りぬけた。 のびた草木が剥き出しの足を傷つけようとも、そこから血が出ようとも、気にしていられない。 だって今追いかけているモノに捕まってしまったら、自分は殺されてしまう。そんな確信があった。
狂った殺人鬼。今世間で騒がれている"journalist hunter"。 とにかく無差別で襲うというその悪鬼に、自分もジャーナリストであるから気をつけないとね、と同僚たちと笑っていたのはつい先ほどのことなのに。 それが本当に現実になって自分に襲いかかるなんて思わなかった! 走りながら、涙が溢れてきた。 でも泣いていてもなにも解決しない。とにかく逃げなければならないのだ。 涙を腕でぬぐって、新聞記者ミリ・ファーディングは逃げた。
だがそのとき、無情にもエンジン音が彼女へと近づいてくる。 生えている小さな木や草を容赦なく踏み潰して、どんどんとミリの方へと迫ってきた。片方だけのライトが、ミリを捉える。 それがミリの脇を通り抜け、エンジン音が彼女の隣に来たとき。
「いやぁっ!」
ミリの体は、車の中へと引きずり込まれていた。
to be continued 03/6/11 HOME BACK
麻希利さんへv は、半年振りで大変申し訳ありませんです(大汗) 意外なところで再会し、パートナーとなった二人のこれからが気になってました。 新一は頑なですけど、さすがキッドは順応性があって逞しいですね。 なんというか、どんな状況にあろうとめげないとこと、明るく物事を考えようとする所とか。 新ちゃんには何やら過去がありそうですが。 まだ再会したばかり。二人の関係はこれからですね。 ファイトだ、快斗(^^) 麻希利 |