■■□ PARTNER
呼び求めるわたしに答えてください わたしの正しさを認めてくださる神よ。
苦難から解き放ってください 憐れんで祈りを聞いてください。
(旧約聖書『詩編』)
* * *
『まただ!また被害者が出たらしいぞ!』 『ああ、例の"journalist hunter"か…もう5人目だ』
高いビルが立ち並ぶ街全体を見渡せる自分の背丈よりも大きな窓のすぐ傍に何をするでもなくただ立っていると、同僚たちのそんな会話が自然と耳に入ってきた。 それでも視線は外に流したまま。驚いて振り向いてみせるには自分はそんな話に馴れすぎた。 それでも聞き流せる内容でもない。だってそれは自分に与えられた"仕事"に関わることだから。
『またラヴコールだぜ?今すぐ来て欲しいってよ』
自分にかけられた声にようやく振り向いた。 言葉をかけた同僚は湯気を立てた使い捨てのコーヒーカップ片手に大変だなと言って苦笑いする。それに応えるように肩をわずかに竦めて、同じように笑ってみせた。
自分と同じように、聞かされる内容に驚く者なぞこの場には誰ひとりとしていない。 ここは、そういう場所だ。
『ああそういえば…』
思い出したかのように自分の机に向かっていた別の同僚が動かしていた手をとめて椅子ごと自分の方へと向いた。
『今日だったろ、新入りが来るの。もうすぐのはずだ。お前の相棒になるんだ、折角だから連れて行けよ』
早く慣れてもらわないとこっちが困るからな〜。軽い物言いで、それでも目だけは真剣な光を宿らせて言う。 彼に言われたことでああそういえば。忘れていた、いや、忘れていたかったことを思い出した。 そうだ、今日だった。やつがここへ…自分の隣へと来るのは。 まったく、何の因果なのか……思い出したらどんどんと気が滅入ってくる。
『同じ国のやつなんだろう?うまくいくんじゃないのか?』
俺としては女じゃないことが非常に残念だけどな。遊び人といわれる男が笑った。隣の女がその頭を叩く。 かけられた言葉にわずかに口の端を持ち上げた。
『…さぁ……それはどうかな…?』
聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いて、再び窓の外へと視線を移す。はるか下に見える道には平日だというのに多くの人々が往来していた。 この街も、忙しないところだ。あの街と、同じ…… そんな街で出逢ったあいつ。自分とは相容れぬ正反対の立場の男だった。いつも馬鹿にしたように笑っていた、むかっ腹の立つドロボウ。 もう二度と、逢うことはないと思っていた相手。そんな男と、まさかこんなことになるとは……巡り合わせというものはわからないものだ。
でもまぁ今は――――――
「同じ穴の狢、か………」
『Kaether(ケテル)』
社員はたったの22人。協力者は世界中に無数。 基本的にどんな仕事でも請け負う「何でも屋」のようなものだ。 メンバーの素性は一切不明。 しかし全員が厳選された「プロ」であり、これまでに依頼された仕事のほとんどを遂行してきた優秀な組織である。 22人の社員それぞれにはコードネームが与えられ、活動は警察への協力だったり、ときには裏世界でも動く。 その名は表裏どちらの世界でも広く知られていた………
「な〜んて漫画みたいな話が本当にあるとはね…」
速いスピードで流れていく景色をぼんやりと眺めながらぽつりと呟く。 真昼間からこんな猛スピードで走っていて捕まらないかと思ったが、幸いなことにサイレンは聞こえてこない。 単なる独り言のつもりだったのだが、すぐ隣に座る男にはしっかりと聞かれていた。 男はちらりとこちらへ視線を流して、それから小さく笑った。
『他人事ではないのだぞ。きちんと現実として受け取ってもらわなければ困るな』
『わかってるって。これが夢だ〜なんて思っちゃいないから。今までも非現実なことを経験してきてるし、いまさら逃げやしないって』
『それでいい。お前はこれからそのメンバーの1人として働いてもらわなければいけないのだからな、「元」怪盗君』
最後にわざとらしくつけられた代名詞に苦笑いがこぼれる。 一応自分では「現役」のつもりなのだが、この「仕事」を引き受ければ怪盗として活動できる時間はほとんどなくなってしまうだろう。 だがこれを引き受けたのも必要な情報を手にするためなのだから、諦めるつもりは毛頭ない。
そう、活動範囲が広い組織だからこそ、自分が欲しい情報が今まで以上に入ってくるのだ。その情報網はせいぜい利用させてもらう。 そして組織側もそれを条件として認知していた。彼らにとっては与えた仕事をきちんとこなしてくれれば自由にさせてくれるのだという。 もっとも今までのように派手に表舞台に立つことはできないのだが。
「怪盗キッド」はすでに、この世にいないことになってるしな……
自分が捕まったと同時に偽りの「事故」によって「キッド」は死んだことになっている。 それを聞いたのは少し後になってからなのだが、その時は怒りを感じる前にそこまで用意周到に物事を運ぶ彼らに呆れてしまった。 近々「黒羽快斗」の方もこの世から消えることになっている。そうしてここにいるのは名前をもたないモノとなる。 それによって非常に動きやすくなることは確かだろう。自分を「縛る」戒めがなくなってしまったのだから。 けれどもやっぱり自分自身が戸籍上とはいえ消えてしまうのだから、それなりに思うこともたくさんある。 受けいれるのにかなりの時間を要した。 置いてきてしまった幼馴染。幸せになってほしいと、自分がそうするのだと。 そう考えていた……
あ〜…やめやめ。もう考えねぇって決めたんだっけ。
これまでに何度も循環してしまっていた考えだ。組織に入ると決めてからは、もう二度と考えまいと決めたのに、もうこれだ。 もっとも、簡単に忘れられるほど自分は強くはないから、仕方がないかもしれないが。 これを、「未練」というのだろう。きっと、たぶん一生付きまとう。
『これで、ようやく22人全員が揃ったよ。君を迎えられて嬉しい』
深いところへ沈みかけていた思考を再び浮上させたのは、隣の男の話だった。 40代くらいの、口髭をたくわえた一見英国紳士のような穏やかな笑みを絶やさない男。 簡単な説明で、彼は同じ組織のメンバーで上司になる男だと聞いた。
『俺を迎えられてって…今まで22人いなかったのか?』
『ああ。君を入れて、初めて22人全員が揃う』
『22って数字になにか意味があるのか?』
『まぁ意味があるといえばある、ないといえばない』
なんじゃそりゃ…、と快斗はわずかに眉をひそめた。 一体自分はどんな組織に入れられようとしているのか…今更ながらに不安になってきた。
『私はかつてぜひ入ってほしい者たちが2人いた。だがどんなに勧誘しても、彼らは決して首を縦には振らなかった。だから2席はずっと空席のままだったのだよ。他の者をなんて考えられなかった』
『それをなんで俺が?』
『……君が、彼の意志を継ぐものだからさ。そしてその空席に相応しい能力も持ち合わせている。そのうちの1人というのは「黒羽盗一」、君のお父上だからね』
『…親父を?』
初めて告げられたことに素直に驚いた。説明の中でそんなことは一度も話されなかったから。 確かに父盗一は「初代キッド」として世界中で活動していたけれども、あの敵対する組織以外にその正体を知るものがいるとは思わなかった。 まぁ、裏世界というのは広いようで狭いものだとは思うが。
『あれ、今「2人」って言ったよね?ってことはもう1人も見つかったってことか』
『ああ、5年程前にね。彼も、2代目なのだが』
『ふぅ〜ん』
ま、別に興味はないけどね。 思っていることがわかったのか、男は意味深ににやりと笑った。
『そして彼は君のパートナーとなる男だよ。仲良くやることだ』
『パートナー…?って俺1人で活動するんじゃないわけ?!』
『1人で動く者もいるがね、大抵はパートナーと常に2人で行動する。……監視の意味もあるしね。なぁに、年も同じようだし、うまくやれるさ』
『………』
一気に気分が重くなる。1人で気兼ねなくできると思っていたのに…… 人見知りはあまりしない方だけれど、それでも常に一緒というのは気が進まない。今までだって、本当のところは1人だったのだから。 同い年だというけれども、一体どんな人物なのか…そもそも相手は自分のことをどこまで知っているのか…… あれこれと快斗が考えている間に、車は唐突に停車した。どうやら目的地に到着したらしい。 けれども男はまだ降りようとはせず、今までよりも少し表情を引き締めて快斗を見た。
『もう一度確認する、ここからの君の立場はわかっているな?』
『…… "ここにいるのは「怪盗キッド」でも「黒羽快斗」でもない。「ケテル」の一員、コードネーム「カフ」。与えられた仕事は最後まで遂行する。" これでいいんでしょ?』
『結構だ。それと、そのピアスは、決して外すな』
快斗の左耳につけられた小さなクロス型のシルバーピアスを指差して念を押す。それには発信機が埋め込まれてあるのだと聞いた。 理由はどんな状況にも対応できるようにするためとのことだが、本当のところはどうかね、と思う。 快斗は了解、と肩を竦めて見せた。
『では行くか』
先に下りた男から少し遅れて、大きく息を吐いたあと、快斗もまた車を下り立った。 そこはオフィスビル街にある近代的なビルのうちの1つで、比較的新しい建物であった。
軽い音を立ててエレベーターが開く。やってきたのはビルの最上階だった。 そしてそこがケテルの事務所、らしい。 想像していたものよりもかなり綺麗で快斗は拍子抜けする。これでは普通の会社となんら変わらない。裏世界でも顔のきく組織の本部だから、一体どんなところに連れて行かれるのかと思っていたのだ。 そんな快斗の思考にはおかまいなしに、一緒に来た男はどんどんと奥のほうに進んでいってしまい、快斗は慌ててその後を追った。 1番奥の扉が開かれる。その向こう側には机が行儀並べられた大きな部屋があった。
それまで半ばのほほんとしていた快斗は、促されるままにその部屋に入って気を引き締めた。 入った瞬間にここは違うと感じた。正確に言えばそこにいる人々から感じられる空気、といったものであろうか、それが研ぎ澄まされた快斗の神経を刺激する。 その感じはどこかあの白い衣装を纏って仕事をしている時の緊張感にも似ていた。 すぐにわかる。ここにいる者たちは、皆、タダモノジャナイ……。 その緊張感がひどく心地よくも感じられて、快斗の口元には自然と笑みが浮かんでいた。それを見とめた案内人の男もまた、満足そうに笑う。 彼は両腕を背中で組むと、快斗と向き合うようにして立った。
『ここがこれから君の職場だよ。そしてここにいるのは皆君の仲間だ』
周りからは興味津々な視線が投げかけられる。何人かはどうでもいいのか自分の仕事に集中しているのだがほとんどが快斗を見つめていた。 快斗はそれに怯むことなくにっこりと笑ってみせる。
『コードネーム"カフ"。お手柔らかにお願いしますね、先輩方』
それを見てほぅ?と面白そうに笑う者、ただじっと見つめるもの、興味が失せたように仕事へと戻っていく者、反応は様々だった。
『先ほども言ったようにここには君のほか21人の社員がいる。それぞれの名前は随時覚えればいい。とりあえず私はアレフ、ここの所長だ。君にはとにかく早く仕事に慣れてもらわねばならん』
『ま、努力はしますけどね』
『その点のサポートは君のパートナーに任せてある。わからないことは彼になんでも聞くといい。紹介しよう』
上司となった男、アレフに呼ばれて1人の男が歩み寄ってきた。 その瞬間、ぞわりと快斗の体は粟だった。無意識のうちに両の目が大きく見開かれる。 忘れられない、その感覚。変わっていない、その気配。 記憶と違っていたのは幾分大人びた顔と頬にかかるくらいに伸びた艶やかな髪とあの美しい色彩がなくなった瞳、そしてそれを覆うようにかけられたメガネ。 それでもこの胸を高鳴らせる空気はそのままだ。自分を拒絶する、強い意志を秘めた瞳も。 できるならば、再び逢いたいと思っていた人。
『……コードネーム"シン"。よろしく』
差し出された手をとるのも声を発することも忘れて、快斗はしばらく目の前に現れた人物を凝視していた。 なぜ、という疑問は浮かんでこなかった。いや、浮かんでいたのかもしれない。 だが今快斗の心を占めていたのは、どんな形にしろ再びこうして彼と対峙することができたことに対する大きな歓喜だった。 彼は握り返されない拳を不満に思うこともなく、ただそのままの状態で快斗の視線を受けとめていた。
そんな2人の間の沈黙を破ったのはアレフであった。
『カフ?どうしたのかね?』
きっと何もかも知っているのだろうアレフの笑いを含んだ声に快斗はようやく我に返り、目の前に差し出された手に自分の手を重ねた。 彼に触れるのは、5年ぶりであった。 すぐに離れていってしまった手を少し淋しく思う。思ったよりも彼の手は温かかった。
『…来て早々悪いがこれから仕事へ行く。お前も、一緒に来い』
『仕事?』
『詳しい説明は移動の車でする。行くぞ』
そのまま快斗の脇をすり抜けてエレベーターホールへと向かう彼の背を言われるままに追った。 その後ろ姿を、アレフはしばらくその場に立ったまま楽しげに見送っていた。
「今の仕事はFBIからの要請を受けている。今日、5人目の被害者が出たらしい」
車を運転しながら淡々と説明を続けるシンの声を聞きながら、助手席に座る快斗はざっと渡された資料へも目を通していた。 そこには今まで起こった事件の概要が記されている。
最初の殺人が起こったのは1ヶ月前だった。 その時の被害者は朝方自宅に帰宅したところを狙われた女性であった。 視界と口をガムテープで封じられた上で体中をめった刺しにされたらしい。現場は血の海、その残虐ぶりはあまりにも悲惨であったという。 2人目の被害者は男性、こちらもまた同じように帰宅途中を狙われた。3人目も男性、4人目は女性。そして今回の被害者は女性であるという。 犯行現場はばらばらであるのだが、その手口が似ていたため同一犯とされFBIが捜査にあたっているのだという。 だが、被害者同士に交流はなく、唯一の共通点が彼らの職業がジャーナリストであったということと、その仕事ぶりから犯人が男であろうという予測だけ。 あれだけ派手に犯行が行われたにもかかわらず手がかりは一切なし、目撃証言も得られない。 世間ではこの犯人は"journalist hunter"と呼ばれて話題となり、全国で厳重警戒をしている。 だがいくら調査してもまったく解決の糸口が得られず、焦りを感じ始めたFBIからケテルへと協力要請が来たのであった。
「それで俺たちが担当になったわけね」
「そういうことだ。…なにか質問は?」
「ないよ。ただし、この件に関しては……ね」
持っていた書類の束を無造作に自分の腿に置くと、快斗は運転席のシンを見てにやりと笑った。 見ていなくても気配でわかっているはずのシンはなにも言わずにただ前を見つめるだけだ。表情も、まったく変わらないままで。 それでも快斗は先ほどまではどこか追いやられていた疑問を口にのせてみる。
「なんであんたがこんなところにいるわけ?"名探偵"」
「………」
「あのアレフ、って人の話だと5年前からいたみたいだし?」
「………」
「まぁあの怪しげな組織が絡んでいるんだろうけど」
「………」
「……黙秘権ってわけですか」
だんまりを続けるシンに快斗はため息をついた。 そんな快斗に、シンはわずかに視線を動かすだけ。
「…お前には、関係のないことだ」
「そう言われるとは思ったけどね。まぁあんたが素直に応えてくれるとは思っちゃいないよ」
書類の束をくるくると丸めて筒を作り、快斗はそれでぽんぽんと手を叩き始める。その扱いにシンは眉をひそめた。 FBIからコピーしてもらった大事な書類を、こいつは……
「でも1つだけ合点がいった。もう1人っていうのは工藤優作氏のことだったんだ」
世界的な推理小説家。彼にはアメリカで仕事をしたときに一度だけ逢ったことがある。 一筋縄ではいかないあの人が父盗一と共に組織に目をつけられていた。妙に納得できる。
「名探偵のその稀なる才能も認められて、お声がかかったってわけだ」
「………それだけじゃないさ」
どこか隠し続けることを諦めたように大きく息を吐いて、シンは言葉を繋いだ。 ようやく成立した、初めての会話らしい会話だった。
「化け物なIQ持ってるお前と違う。いくら"工藤優作"の息子でも、ただの高校生を組織は勧誘したりはしない」
「化け物なんてひどいな〜」
茶化すように言う快斗をシンは無視した。快斗は彼のそんな態度に大仰に拗ねてみせる。が、全然相手にしてくれない。 冷たいの。内心ため息をついた。 まぁ、馴れ合いなんて期待してはいなかったけどね。
「じゃあ一体どんな理由が?」
「……すぐにわかる」
言いながら、ハンドルを握る手にわずかに力がこもったことに快斗は気がついた。瞳は真っ直ぐに前を向いたままで変わらない。 けれども快斗は、シンに起こったわずかな感情の変化を敏感に感じ取った。
不意に来る前、自分だけに言ったアレフの言葉がよみがえる。
"君たちの仕事は、おそらく刑事事件関連が多くなるだろう。「彼」はそっちの方では非常に優秀で寄せられる信頼と期待は大きいからね…"
あのときは、シンの日本での「高校生探偵」としての実績を言っているものだと思っていた。 実際に彼は数々の事件を解決してきたのだし。世界でもトップだと言われている日本警察から大きな信頼を寄せられていた探偵。 それをアレフが―――組織が知っていたとしてもなんの不思議もない。(なにしろ自分の正体でさえばればれだったのだから) だが、その他にもなにかあるというのだろうか?………いや、きっとなにかがあるのだろう。 シンが探偵としての能力以外に見込まれ、そしてわずかでも感情を動かしてしまう何かが。
そうこうしているうちに、車がある一軒の家の前でとまった。そこにはたくさんのパトカーがとまっていて、さらにまわりには多くの野次馬が押しかけている。 静かになった車からシンがさっさと降りてしまう。快斗も同じように降りて彼のあとに続いた。 野次馬をかきわけ、事件があったと思われる家へと近づくと、警官となにやら話をしていたスーツ姿の男がそれに気づき、片手を挙げながら近づいてきた。 シンも同じように手をあげて応えている。どうやら知り合いらしい。
『待っていた。すまないがすぐに現場へ』
『了解。……また、ですか?』
『また、だよ…』
シンの問いに苦々しげに顔をゆがめながら呟いた男は、ふとシンの後ろに黙って立っていた快斗へと視線を向けてきた。今、気づいたらしい。 視線でシンに誰か、と問いかけているようだ。 シンもそれに気づいて、ああ、と顔を快斗の方へとむけた。
『うちの新しい社員です。私の助手をしてくれます』
『ああ、前にアレフから聞いたことがある。君が最後のメンバーか』
君もずいぶんと若いな。 快斗の顔を見ながら、侮蔑でもなく驚きでもなく、ただの事実を述べるように男は呟いた。 自分に向けられたその言葉は、こっちに来てからというもの、耳にたこができるくらいに聞かされていたのでいまさら気にならない。 にっこりと得意の外面を浮かべて、快斗は男に手を差し伸べた。
『カフ、です。よろしく、Mr…』
『レイモン。デイビット・レイモンだ』
『Mr.レイモン。失礼ですがあなたは警察の方、ですか?』
『おや、聞いてないのかい?FBIだよ。私がシンに依頼をした』
彼とはもう3年の付き合いでね、とわずかな笑みと共にレイモンは付け加えた。 そうですか、と快斗も相槌を打つ。 (自称)現役の怪盗である自分が現役FBIと握手をしている。なんとも面白いことだと思う。
『では2人ともついてきてくれ。現場を見てもらいたい』
快斗と手を離すと、レイモンはすぐに踵を返して2人を誘導する。 シンは黙ってそれについていき、快斗も同じようにはじめての「仕事場」へと近づいていった。
外にいたときからそうであったが、中に入るとそれはいっそう強まった。 家中に充満した、血の匂い。 怪盗なんてものをやっていたせいで刺客に狙われることはしばしば、怪我なんてものも仕事のたびにしていたかもしれない。 危険な目にあうのも、闇の世界というものにも慣れてしまっている。
それでも。それでも。
ここの空気は不快だ。吐き気をもよおすほどに。 惨殺死体なんて、今までそう何度も拝んだことはない。いや、もしかしたら、あの書類に書かれていたようなひどい状態のものなんて見たことはない。 それでもこれが「仕事」だから。割り切ってみても、やっぱり不快だ。 どんどんと強くなる匂いに、快斗は無意識に口元に手を当てた。 それに気づいていたシンは、被害者がまだその場にいるという部屋の前で立ち止まり、快斗と向き合うようにして立つ。 険しい表情で快斗を強く見据えた。
「ここにいた方がいい。きっと…もっと辛くなる」
「…でも仕事だろう?それならば、慣れないといけない。そうだろう?」
「………」
眉をしかめながら、それでもそれ以上の言葉をシンは紡ぐことができなかった。 目の前の快斗はひどく顔色が悪い。だが彼の言うことももっともで。 少し逡巡してから、同じように快斗を見ているレイモンに話しかけた。
『被害者の遺体には…なにか、被せていますか?』
『……ああ。あの状態は、まともな人間なら誰もが長く直視することなんてできないさ』
『そう、ですか』
そのとき快斗は、またシンの中の微妙な感情の変化を感じ取っていた。 今度は先ほどよりも、わかった。 シンは今、なにかに傷ついた……… だがそれも、再び自分を見上げてきた時に消えてしまう。
「今日は、入り口のところにいろ。それだけで、いい」
頷くと同時に、3人はいまだ鑑識が調査を続けている現場へと足を踏み入れた。
「っ?!」
それは、地獄絵図だと快斗は思った。 あちらこちらに散っている赤い赤い血。飛び散っているのは、被害者の肉片なのだろう。白い布が被せられている被害者の近くに転がっている凶器と思われる刃の長い包丁。 そして、自分の体を包み込む、強烈な匂い。 快斗は再び口を覆った。吐き気が、ひどくなる……隣にいたレイモンが、宥めるように背を叩いた。 そんな中を、シンはゆっくりと被害者へ向かって歩いていく。彼に自分のような様子は見られない。 やはり、慣れ、なのか……
快斗はそのままシンが自分の見ている前で布をめくるのかと考えていた。そうでなければなにもわかってはこないだろうから。 だがシンは一向に布に手をかけることはなく、ただただ見つめるだけ。 そしてそのあとはその場で部屋を見渡した。
重い沈黙の後、シンの口からでた言葉に快斗は目を瞠った。
『…被害者は白人女性、今までと同じように目と口を封じられ、胸部腹部を数箇所刺されている。あちこちに抵抗したときについたと思われる打撲や傷……強い女性だったのようだ』
間違いは?と快斗の隣にいるレイモンヘ問いかける。 そのとおり、とレイモンは応えた。 シンは次にその部屋についていた窓へと歩み寄った。侵入場所と思われるそこは割れていて、破片が床に飛び散っている。シンが歩くたびに音を立てた。 シンは今度はその割れた窓をじっと凝視している。
『…犯人はここから侵入したことに間違いはない。そいつはここからずっと被害者を観察していた。そして侵入するタイミングを図っていたんだ。そして……帰るときもここから出ていった』
『車、か?』
『ええ……おそらく盗難車でしょうね』
ふむ、とレイモンは考え込んだ。シンも同じように考え込んだ。 快斗だけが、ついていけない。その、状況に。
なぜ、わかった…?彼は、シンは…なぜ、わかった? 遺体に触れていないのに。 まだなんの話も聞いていないのに。 まるで見ていたかのように。戸惑いもなく言い切った。
不思議な、力…?
"じゃあ一体どんな理由が?"
"すぐにわかる"
…………その、不思議な力のせい?
別なことに意識がもっていかれた快斗をよそに、シンとレイモンはどんどん話を進めていく。2人で部屋の中を歩き回りながら。残されているかもしれない手がかりを求めて。 シンが再び被害者のそばにしゃがみこんで、じっと見つめていた。 ………いや、きっと目の前のものを見ているんじゃない。 彼は、他の者たちには見えない「何か」を、その両目に映しているのだ。快斗はそう思った。
『…暴行を受けた様子はない。犯人の目的は、ただ殺すことだけだ。彼女に向けられたのは、激しい恨みだけ…今までと同じです』
ぽつりとシンが言う。
『他の被害者との関係を調べよう。……また、なにも出ないとは思うがね。盗難届が出されている車と、周囲の目撃証言もやらせよう』
『私も、自分なりに調べてみますよ。なにかわかりましたら連絡しますから』
『…わかった』
レイモンの合図で、担架を持った者が入ってくる。 それと入れ違いに、シンは快斗を促して、その部屋を出ていった。
外に出たときの、吸い込んだ空気が嬉しかった。 大きく深呼吸をしてから、すでにシンが乗り込んでいる車の助手席へ座る。車は動き出し、いまだ騒がしい現場をあとにした。 車の中は対照的に静かだった。 シンが、今日はもう自宅へと戻ると言った。快斗の住処へも案内するから、と。それにわかった、とだけ応えて。 それから2人ともなにも話さなかった。 快斗はずっと、横で運転するシンの横顔を見つめていた。
それから小一時間走って到着したのは、市街地からは少し外れたところにある高層マンションだった。こちらも事務所と同じように新しい建物だ。 車はそのまま地下駐車場へと入っていく。隅の方に停まってから、エンジン音が消えた。
ここが目的の場所であるのは確かだ。 だが快斗もシンも、車から降りようとはせずに、ただじっとしていた。重い沈黙が2人を包み込む。 チッ、チッ、チッ、チッ…… シンがつけているらしい時計の針が奏でる音だけが、時間が動いていることを知らせてくれていた。
困った、と快斗は思う。 シンが作り出す、この沈黙の意味が読み取れない。彼は一体何を考えているのか。感情がなにも伝わってこない。そこにあるのは「無」。温かくもなければ、冷たくもない。 あの不思議な力について、自分にどう思われているのか不安なのか。 それともそれについてなにかを言ってほしいのか。 ただ単に考え事をしているのか。 それがわからないから、快斗もつられて沈黙するしかなかった。
確かに、不思議な力だと思う。 目には見えないものを、確かに彼は「見て」いた。他の人には感じられないものを「感じ」ていた。ガラスに覆われたその双眸で。華奢なその体で。 それは透視能力のようにも思えたが、それとも少し違う気もする。 とにかく快斗は驚いた。この目の前の彼がそんな力を持っていることに対しては。以前逢ったときには、そんな力がある、なんてことはわからなかったのだし、そこまで深く関わることもなかった。 非常識な力、なんてものは、近くに自称魔女という女がいたから、今更驚かされることなんてない。力のことに関して言えば、向こうの方が上手なのだから。 でもシンがそんなことを知っているはずもない。(クラスの中にも自分以外はいなかったのだから) だから不意に考えたのだ。 あんな力をはじめて見せられたときの人の反応なんてものは容易に想像がつく。何度も捜査協力していたようだし、彼も経験したはずだ。 そんなことから、彼は自分にどう思われているのかが気になるのではないか、と。 けれど、感情は流れてこない。
いいかげん、この沈黙が嫌になったから、自分が破ることにした。 力のことはとりあえずおいておいて。言いたいことがあるのだ。
「あのさ…さっきはごめん」
「……?」
静寂を破った音声に、わずかにシンの体が震えたことに気づいたが、その内容が理解しがたかったらしく、シンは顔を快斗の方へ向けて眉をひそめた。 快斗は真っ直ぐに前を向いたまま、少し照れくさそうに頬をかいた。
「あの現場で。俺、全然協力、とかしなかっただろ?本来なら、手伝わないといけないらしいのに。逆に迷惑かけてさ」
「……ああ」
シンは快斗の言ったことに少し驚いたような顔を見せ、だがすぐに小さくため息をつくと、シートに深く体を沈め、目を閉じた。 その場の空気が、わずかに穏やかになったような気がした。
「気にすることはない。レイモンさんも言っていたように、あの状態を見たらお前の反応が普通だ。警官の中にはお前より酷い状態のやつもいたしな」
シンは目を開けると、キーをとり、車のドアを開けた。片足を地に付けながら、快斗にも出るようにと目で促してくる。お前の部屋に案内するから、と。 快斗は言われるままに車を降りた。 誰もいなくなった車に鍵をかけながら、シンがぽつりと呟いた。
「俺の感覚が、ただ麻痺しているだけさ…」
それに応える前に、シンはさっさと歩き出してしまった。 正確には、少し哀愁が含まれていたような彼の言葉に、何も言えなかった、のだが。
そのマンションは、最新式のセキュリティシステムに守られたとても綺麗なところだった。別に言えば、とっても高そうな場所。 シンの話では、ここは組織の持ち物のひとつなのだという。 快斗もいくつか父から引き継いだ隠れ家としてのマンションは持っているのだが、やはり人間の心理というか、凄いものを見たときには驚いてしまうものだ。 ここにセキュリティはもちろん外からの侵入を防ぐことが第一の目的なのであろうが、快斗には中にいるものを出さないようにする、豪華な監獄のようにも思えた。
「俺たちの部屋は最上階だ。それぞれの部屋にも少しばかりのセキュリティシステムがある」
エレベーターを待ちながら、シンが簡単な説明をしてくれる。 が、快斗はその中の1つの言葉が引っかかった。
「……ちょっと待った。俺"たち"?」
「………最上階に部屋は2つだけだ。ひとつは俺の部屋、もうひとつがお前だ」
やがてやってきたエレベーターに乗り込む。 エレベータの中まで広い。
「ってことは……お隣さん?」
「そういうことだ」
まじかよ……住むところまでご近所さんとは……… 予想外のことに驚く。ポーカーフェイスも忘れてしまうほどに。 だがシンの方もその状況を喜んでいるようにも思えなかった。むしろ、その逆、かもしれない。
「ああ〜……つまり、名探偵は俺の監視役ってことね」
信用されてはいないとは思っていたけどね……
「……さぁな」
組織の考えは、俺にはわからない。
小さなGを感じると、エレベーターが最上階でとまった。快斗が最初に出る。 下り立った場所、そこには本当に長い廊下を挟んで向かい合うように扉が2つあるだけだった。このマンションの規模を考えると、部屋はかなり広そうだ。 それだけはまぁいいかな、と快斗は苦笑した。
扉の方へ足を踏み出そうとした時、向かって右側の扉の前になにかがあるのに気がついた。 もぞもぞと動いているそれは、人が蹲っているのだとわかる。しかも小さな子供のようだ。 顔は立てた膝の間に埋めて見えない。小さくなっている姿はひどく弱弱しい印象を与える。明るい金髪だけが、廊下を照らす電灯の中できらきらと光っていた。 あの子は一体誰だろう?その疑問は、自分の後ろから来た人によってすぐに解決した。
「エティ!?なぜここに…?」
驚きを含んだシンの声に、その子供は弾かれるようにして顔をあげた。 零れ落ちそうなくらいに大きな瞳が快斗を押しのけるようにして前に出たシンの姿を映したとき、とても嬉しそうにふわりと笑い、立ち上がって駆けてくる。 そのなんとも可愛らしい生き物がシンの足に飛びつくのを、快斗は呆然と見つめていた。
to be continued 02/1/18
麻希利さんへv このお話で目指したのは、今までとはちょっと立場が反対な2人とどこか普通な人の快斗。 続きはずっと気になっていたので大いに楽しませて頂きました。 新ちゃんが先輩になってるせいか えらくクールな感じで、その分快ちゃんが可愛く感じられます。 まあ、もともと可愛いんですけど。 似た設定を平新で読んだことあるんですけど 快新でとなると雰囲気がすっごく変わってなんか緊迫感がありますね。 某ドラマですが、アレかな? 麻希利 |