月の夜、雪降りて

 

 地球の唯一の衛星は、神話においても女神として崇められる。ルナ、ダイアナ、あるいはアルテミス…呼び方はそれぞれ異なりはしても、やはり優美で麗しい存在である事には変わりがない。
 一際青白い輝きを強めた、満月の夜。
 遥か高みに在る女神に見守られ、地上では秘密裏の儀式が執り行われる。
 白手袋の指先が掲げたそれは、夜の支配者に見初められた石。全き姿を取り戻した月光をうけた宝石は、けれども沈黙を守ったままに何ら変化する事はなく。
 その姿に、支配者は溜息を落とした。

「…残念。今夜もハズレ、ですか」
 凍えた唇が抑揚のない…けれども意味深な言葉を紡ぎ、夜空にかざしていた石を握り締める。
 それは、盗んできたばかりのビッグジュエル。数年ぶりにお披露目となった宝石に、彼が求愛しないわけがなかった。けれどもそれは追い求め続けているモノではなく、モノクルの向こうの瞳が自嘲に彩られる。

「元より、期待してたわけでもないけどな…」
 口調さえ転じて、怪盗キッドは唇を引き結ぶ。
 彼にかけられた黒い時間魔法。効力を失う瞬間はもうそこまで近づいているというのに、何時終わるのかも分からずに繰り返される儀式が、ただ虚しく夜を終わらせる。
 何の保証もない行為だとは、分かってはいた。
 そう、始めから分かってはいたのだが、それでも。
 時折壊れそうな程痛くなる。
 心が…?
 それとも、道化を担わされたもう『半分』の自身が?

「ったく、馬鹿みてえだよな。なあ、キッド…」
 影は果たしてどちらか。
 眩いばかりの満月を瞳を眇めてみやりながら、彼は純白のマントをひるがえした。



 
 窓際のソファに身を預け僅かな明かりで本を読んでいた新一は、何かの音を耳にした気がして、ふと顔を上げた。読書中は活字に意識を集中しすぎて、周囲の状況というものをおざなりにしがちな彼だが、この時はどうしてだか外界に意識を引かれたのだ。
 父親から送られてきた、海外モノの推理小説から手を離し、立ち上がる。
 カタン、と小さく音がしたような気がするのは、気のせいだろうか。

「―――誰だ。誰かいるのか…?」
 殺人専門の探偵なんてやっていれば、度々危険に遭遇する。ここが自宅だからといって必ずしも安全圏であり得ない事は、新一自身が良く理解していたのだ。
 ひっそりと静まり返った室内にある気配は、彼だけのもの。

「〜〜っっ!」
 気のせいだったか、と思った瞬間、何者かに背後から抱き竦められ口を塞がれる。肌に感じる布の感触。それが相手が手袋をしているからだと理解した途端、その声は耳元で囁かれた。

「…大声を出さないでくださいね、名探偵。せっかくの逢瀬に邪魔など入られたくはないですから」
 言い含めるような声。
 否も応もなく立ち尽くす新一だが、相手はそれを了承と受け取ったようだった。

「不法侵入だぜ、怪盗キッド」
 その姿を確認してはいないが、声や着込んだ衣装から分かったのだろう。抵抗などする様子もなく、ただ呆れ混じりの口調で新一は呟く。

どうやって入った…なんて今更訊かねーけどよ。

 怪盗の手にかかれば鍵なんてないも同然だ。
 有名人という意識があまりない住人は、セキュリティにあまり気をかける事はない。盗む物なんて何もない、とどうやら思っているようであるが、工藤邸においては物よりも住人の方がよほど価値があるというものだった。

「…ところで何時までくっついてんだよ」
 背後から抱き締められていて身動きが取れなくなっている新一は、些か不機嫌そうに問いかける。別に解放されたところで警察にTELしようなどとは思ってもいないし、それはキッド自身も理解している筈なのだが。

「抱き心地があまり良いもので、離すのが惜しくなりましてvv」

「〜〜良いから、とっとと離しやがれヘンタイっっ」
 抱き締めついでに必要以上に接触してくる身体に焦れた新一が解放を促せば、返された言葉は緊迫感のないものだった。そして更に込められる力に反射的に繰り出した足技をかわし、名残惜しげにキッドの腕が離れていく。
 さすがにこれ以上はマズいと思ったのか。それとも他に思惑があるのかは、新一が知るところではない。

「お久しぶりですね、名探偵。今宵、女神の導きに従い訪れたご無礼を、どうかお許しください」
 数歩下がった位置で謳うように告げたキッドは、隙のない仕草で優雅に一礼する。
 動きに合わせて揺れる純白のマントは暗い室内でも映えて、無意識に新一は瞳を眇めた。
 芝居じみた気障すぎる態度は犯行現場で幾度か目撃したが、自宅でそれをやられると気恥ずかしすぎて、目のやり場に困るものがある。
 …のだが。

「許すの許さないのはどうでも良いけどよ…そんなんで探偵の家に押しかけてくんじゃねーっての。そもそも仕事帰りだろうが怪盗キッド」
 ド派手な演出で新聞紙上やTVのニュース番組などに登場し続けている怪盗の、今回の犯行の予告日は確か今夜だった筈だ。
 捜査の陣頭指揮を執っている中森警部には悪いが、やすやすと警察にとっ捕まるようなドジではないだろうし、ここにいるからには成功したのだろうと考え、新一は探るような視線を向ける。

「お会いしたくなったのは本当ですよ」
 何故、などと言われても困るが、不意に会いたくなったのは確かだ。
 工藤新一の自宅はとっくに知っていたし、本当は覗き見るだけのつもりだったのだが。
 けれども、月に照らされた横顔を見た途端、それだけでは気が済まなくなった。自分が見つめるだけではなく、相手にも見つめられたいと…衝動的に込み上げてきた欲求に従うまで、心の葛藤はあっけないものだった。

「ふうん。物好きだな。まあ良いけどよ」
 月明かりばかりが忍び込む室内では、相手の表情までは分からない。だから新一にはキッドがどんな顔をしていたかは分からないが、当人がそう言うのなら、きっとそうなのだろうと深読みもせず納得する。

「ところで、コーヒー飲むか?」
「え…?」
「だーから、コーヒー飲むかって訊いてんだよ。ちょうど取りに行こうと思ってたからな、ついでだ。一人分も二人分も変わんねーだろ」
「…いただけるのなら」
「んじゃあ待ってろ。適当に座っててくれて構わねーから」
 軽く言い置いて出ていく新一の後姿を見送り、キッドは人知れず吐息をつく。
 部屋が暗くて良かったと思わずにはいられない。そうでなければ、驚いた素の表情を見られていたところだ。

「なんだかな。俺も大概だけど、アイツも分かんねえ性格してんな」
 キッドの口調から彼本来のそれへと戻り、呟かれた言葉。
 まるで気心の知れた友人とでも話しているかのような、新一の警戒心のない口ぶりに、ただただ苦笑する。嫌われてはいないと思って良いのだろうか、これは。無防備すぎて、あれやこれやと考えてきた策略も、役に立ちはしない。
 やがて戻ってきた新一が持っていたのはマグカップ二つ。そのうちの一つをキッドへと渡し、自分の分のそれを一口啜ると、再びソファに座り直し本を広げた。

「あの、名探偵…?」
「んだよ」
 読書態勢に入っていた新一は、呼びかけに顔を上げる。何処か不機嫌そうなのは、キッドがいるからではなく、行為を邪魔された事によるものなのだろう。

「追い出さなくても良いのですか、私を」
「どうして?」
「訊ねているのは私の方なのですが」
「…だって、来たかったんだろてめえが」

 夜目の利くキッドの瞳には、不思議そうに首を傾げる新一の表情が映る。今更何を言い出すのかと言わんばかりのそれが、ジッと彼を見つめていた。
「宝石専門の怪盗に狙われるようなもんはうちにはねーしな。いたいって言うんなら、好きにすりゃあ良い。それに」

 つい、と新一の視線が流れ窓を見やる。
「雪、降ってきたからな。まあすぐに止むだろうけど、帰るんだったらそれまで待ってた方が良いと思ったし」
「これはこれは…迂闊でしたね。天気予報は確認していたのですが」
 ちらちらと降り始めた雪が、二人の視線を惹きつける。
 落ちた傍から溶けていくそれは、決して積もるほどの迫力はないが、予想していなかった変化にキッドは溜息をついてみせた。

「だから、止むまで暫く待ってりゃ良い。まあ勝手に入ってきたんだから、勝手に帰れば良いしな」
 一々見送りする必要もないだろ、てめーならと新一は告げ、これで用件は済んだかと本に視線を落とす。
 およそ探偵らしからぬ対応に、されたキッドの方は振り回されるばかりだった。

とんでもねえのに、捕まったみてーだな…

 身体ではなく、心が。
 内心で呟かれたそれは、決して嫌がるものではなく、むしろその事態を歓迎しているようでもあったのだけれど。
 コーヒーを口にする。
 そして、まだ降り止まぬ雪を眺めながら、怪盗キッドは何事かを思案するように瞳を眇めたのだった。

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