「いない・・・・」 キッチンへ入ったまま戻ってこない亜矢が心配になり見に行った美奈子は、少女の姿がどこにもないことに愕然となった。 いったいどこへ?と見回した美奈子は、勝手口の鍵が開いていることに気がついた。 まさか外へ出ていった? どうして! 何か用が出来たなら必ず自分に言う筈だ!黙って外に出るわけがない! 「美奈子・・・・」 青ざめた友人の顔を見て英理も心配そうに眉をひそめた。 「あの子、携帯を持ってなかった?」 英理に言われ美奈子は、あっと思い出す。 確かに亜矢はいつも部屋にいる時以外は、ベルトにつけた皮のケースに携帯電話を入れて持っていた。 そうだ、携帯で居場所を・・・と考えた美奈子は急いでバッグを置いている部屋に戻った。 部屋に残っていた河合伸也が、慌てたように戻ってきた美奈子に首を傾げた。 「何かあったんですか?」 「あなた・・・何かしたんじゃないでしょうね?」 そう美奈子に睨まれた伸也は顔をしかめた。 「何かってどういうことですか?」 「あの子がいなくなったのよ!いったいどういうことなの?」 「オレが何かしたっていうんですか!」 伸也はムッとした顔で彼女に言い返した。 「ちょっと美奈子。彼はずっとここにいたのよ」 「仲間がいるのかもしれないじゃない」 その人物が亜矢を連れ去った可能性がないとは言い切れないのだ。 「オレはあなたの目には悪人ですか。そんなにもオレが信用できませんか?」 「出来るわけないでしょう!あなたは”SIN”じゃないんだから!」 「だから!どうしてそう断言できるのか聞きたいもんですね!」 「ああ、それはボクも聞きたい」 感情的になって今にも掴みあいになりそうな二人だったが、落ち着いた少年の声が聞こえるとハッとなって言葉を飲み込んだ。 声の方に視線を向けると、先ほどから席を立つことなくゆったりした姿勢で椅子に座っていた工藤新一が、口元に薄く笑みを浮かべて二人を見つめていた。 確かに綺麗な顔をした少年だが、この時の彼は表情のせいもあるのだろうか、二人の目には壮絶な美貌に映り思わず絶句する。 「話を続けましょう。座ってください」 でも・・と美奈子が言いかけると、新一は微笑んだ。 「大丈夫。彼女のことは心配ありませんよ」 そう言い切る新一を美奈子は不思議そうに見る。 「もしかして、あの子がどこに行ったのかわかってるの?」 ええ、と新一は頷く。 「彼女はボクの友人と一緒にいます。話が終わるまで彼が側にいますから安心して下さい」
まるで図ったように亜矢が一人でキッチンに入るとすぐに携帯にメールが入った。 誰だろう?とケースから取り出してみて亜矢は驚いた。 メールはあの”月子”さんからだったのだ。 しかも、ここに来ているという。 どうしよう・・・・ 亜矢は迷った。 この前の夜、玉置美奈子は自分の代わりに”月子”に会いにいった。 誰も来なかったわ、と美奈子は言ったが実は亜矢は疑問に思った。 ”月子”はちゃんと待ち合わせ場所に来たのではないか、と。 しかし、亜矢のことを誰よりも親身になって考えてくれる美奈子を問い詰めることなど出来なかった。 美奈子を信じられなかったら、自分にはもう頼る者が誰一人いなくなってしまう。 どうしよう・・・と亜矢は考える。 美奈子たちがいる方を見、それから持っていた携帯電話をグッと握り締める。 ごめんなさい、と心の中で謝ってから亜矢は勝手口のドアを開け外へ出ていった。 太陽は既に中空を通り過ぎてはいたが、日が暮れるまでにはまだ数時間あった。 明るい空の下。風はやや強めに吹いていて亜矢の髪を乱した。 ”月子”は別荘のある場所から少し下った場所にいるとメールしてきた。 そこには大きな楠が一本立っている。 それは少しの風でも、無数の葉を蓄えた枝が揺れてサワサワと音をたてた。 静かな場所だから、余計にその音は大きく耳に響いてくる。 だが、その音は騒音とは別物で、とても心地よく耳に入ってくるので亜矢は結構気に入っていた。 (・・・え?) 亜矢は木の下に立つ白い人影を見た瞬間、あまりの驚きに足が止まった。 その人物は上から下まで純白に包まれていた。 頭には真っ白なシルクハットをかぶり、真っ白なスーツを身につけている。 白いマントが風になびいていて、まるで映画のワンシーンでも見ているようだ。 彼が誰かなんて、亜矢でも知っている。 というか、学校でもよく話題になっていて、かの名探偵工藤新一と並ぶほどの有名人だ。 でも、まさか・・・と亜矢は首を振る。 こんな所に、あの”怪盗キッド”がいる筈はない。 そんなことは絶対に有り得ない。 第一、あそこにいるのは”月子”さんでなければならないのに。 そう考えた途端、亜矢はさらに困惑を覚えた。 普通なら、いる筈のない怪盗を見れば誰でもまず本物かどうかを疑うだろう。 だが、亜矢の前に立っているその純白の人物は、コスプレしている偽物というにはあまりにも美しかった。 勿論、亜矢は本物の怪盗キッドを見たことがない。 テレビに映る怪盗は遠すぎたり、ぼやけてたりでハッキリしなかったし。 だから本物かどうかなんてわかる筈はないが。 落ち着け、落ち着けと心の中で何度も呟き、 「あなたが”月子”さん?」 半信半疑で亜矢が問いかけると、木の下に立つ純白の人物はニッコリと微笑んだ。 「そうですよ、AYAさん」 偽物だと思うのが当然の状況。 しかし、自分に微笑みかけてくれた怪盗は信じられないくらい綺麗だった。 月の輝く夜、夢のようなマジックを披露しながら空を舞う純白の紳士。 誰だって憧れる。 たとえ、それが犯罪者と呼ばれる者であったとしても。 「本物なの?」 亜矢が問うと彼は、さあ?と曖昧に笑った。 「私が本物のキッドかそうでないかはあなたの判断におまかせします」 真実なのは、私があなたをこの場所へ招待した”月子”だということ。 白い手袋をした彼の右手が彼女を招く。 亜矢が側まで歩み寄ると、突然目の前にバラの花束が現れた。 いったいどこから出したのかと不思議に思うほど見事な黄色いバラの花束。 「あなたのお好きなクリームイエローです。お気に召して頂けましたか?」 あ・・と亜矢は大きく瞳を見開いた。 「ありがとう!ええ、とても!」 手に余るほど豪華なバラの花束からはとてもいい匂いがした。 男性からこんな贈り物をもらうのは生まれて初めてだ。 ふいに、スッと伸ばされた手の先に白い鳩が現れた。 これも、どこから出てきたのか亜矢にはさっぱりわからない。 鳩は彼の手から離れ飛び立ったかと思うと、亜矢の周りを一周飛んで消えた。 あっと思って振り向くと、亜矢の足元にそれまでなかった折りたたみの椅子が置かれてあった。 いったいどうやって? 彼はあの場所から少しも移動していないというのに。 まさに魔法でも見ているようだった。 純白の紳士は、亜矢に向け優雅に会釈した。 「どうぞお座りください、レディ」 これより、あなたのために少しばかりのマジックを披露させて頂きます。 「え?」 亜矢は何が何やらで、白いマジシャンを見つめながらパチパチと目を瞬かせた。 言われた通り椅子に腰掛けると、突然彼の手の中にトランプカードが出現し、まるで生き物のように彼女の目の前で舞い踊った。 (わあ〜〜v) 亜矢は、まるで夢でも見ているような華麗なマジックの数々に瞳を輝かせ歓声を上げた。
「では、真実を一つ一つ明らかにしていきましょうか」 美奈子と英理が椅子に座ると、新一はそう切り出した。 「ちょっと待って、工藤くん。真実というのはどういうこと?彼が”SIN”でないことを証明するということかしら」 「そうですね。彼がどこの誰で、何を目的としてここへ来たかということも聞いておく必要があるでしょう」 でもその前に、と新一は美奈子の方に視線を向けた。 「あなたから話をしてもらった方が彼も話しやすいかもしれませんね」 玉置さん? 美奈子は眉をひそめた。 「わたしが何を話せばいいのかしら、探偵さん?」 「あなたが初めて三嶋亜矢さんを見た時からのことを」 会った・・・ではなく、新一は”見た”という表現をしたことに美奈子は戸惑った。 いったい彼は何を聞きたいというのか。 「あなたは”SIN”に会ったことがありますね?そうでなければ”SIN”の容姿のことを言える筈がない。亜矢さんは”SIN”を綺麗だと表現した。でも、あなたは違うと言った」
あの子はとてもいい子だったけど、お世辞にも綺麗な子じゃなかったわ。
「そうでしたね?」 「・・・・・・・」 「それとも”SIN”がどこの誰かということを既に調べてわかっていたということでしょうか?」 美奈子は、諦めたように息を吐くと、いいえと首を振った。 「やっぱり、名探偵をごまかすことは無理のようね」 「どういうことなの、美奈子?」 「英理・・あなたから工藤新一を連れてくるという連絡を受けた時、ちょっと甘く考えていたのよ。彼のネームバリューは河合伸也から目的を聞き出す時のいい牽制になるってくらいしか考えてなかったの。マスコミはえてして物事を大袈裟に伝えるしね」 日本警察の救世主という表現も、マスコミが勝手に考えて人気を持ち上げたものだと思っていた。 「でも、違ったようね。彼の能力は誇大表現でもなんでもなかったようだわ」 まさか、ずっと隠し通してきた秘密をこうも簡単に見抜かれるとは思わなかった。 「わたしが誰か、あなたの推理を聞いていいかしら?」 本当に彼にわかっているなら、全てを話してもいいと美奈子は思った。 「あなたは、亜矢さんが言っていた女性・・・迷子になっていた彼女が会った人ですね」 えっ!と英理と伸也は驚いた顔で美奈子を見つめた。 「美奈子、あなた・・・・」 「それって、カマかけじゃないわね?」 「いいえ。確信を持って答えてますよ」 負けたわ・・と美奈子は再度溜息をつく。 「わたしから話をするわ」 あの時・・・わたしは死に場所を探して彷徨っていたのよ。 「美奈子!」 英理はとんでもない告白を聞いて目を見開いた。 それを新一が抑え彼女に話の先を促す。 「英理も知ってるように、わたしは小さい頃から親に虐待されてきたわ。中学に入った頃、わたしは衰弱死寸前の所を発見され保護された。そして、わたしは両親のもとから離され叔母に引き取られたの。叔母はそれまでの悲惨な生活を忘れさせてくれるほど大事にしてくれたわ。でも、虐待されてきた事実はどうしても記憶から消えることはないのよ」 何年もカウンセリングを受け、大学に入って英理、あなたに会った頃は大分落ち着いていて普通の生活ができるようになっていたわ。 でも、あれは突然やってきた・・・・ 「フラッシュバック」 新一が言うと、美奈子は頷いた。 「ええ、そうよ。まさか何年も思い出しもしなかったことなのに急にくるとは思わなかった。まあ、原因はあったのだけど」 それは、実の母親から受けた電話だった。 完全に縁を切っていたはずなのに、どうして連絡先がわかったのか。 母親は、彼女に一言も詫びることなく金を貸してくれと言ってきた。 高利貸しから金を借りて追い詰められているのだと。 百万でいいからと母親は言った。 それがなければ首をくくるしかないのだと。 実の子である自分が死んでも構わないと虐待を繰り返した母親からの泣き言に美奈子はキレた。 彼女は母親に向かって、勝手に死んだらいいのよ!と叫んで電話を切った。 それは自分には当然言っていいことだと思った。 しかし、その夜、美奈子は悪夢にうなされ、どうしようもないくらいのうつ状態に囚われたのだ。 美奈子は手首を切って死のうとしたが死にきれず、車を走らせた。 場所はどこでも良かった。 静かな場所なら。 高速に乗って車を走らせた美奈子は、途中サービスエリアに入った。 別に目的はなく、ただ疲れたから休むために。 自販機とトイレだけの場所だったからそう人がいなくて丁度良かった。 死ぬつもりでいたのに笑える話よね。 でも、それがわたしの運命を変えることになった。 「車の中で休んでいたわたしは、子供の泣く声をきいて窓を開けて見たの。そうしたら、小さな女の子が男に殴られていたわ」 ごめんなさい、お父さん!と泣きながら繰り返す女の子にわたしは過去の自分を見た思いだったわ。 父親らしい男は、女の子が泣くとさらに怒って叩いていた。 そのうち男はそこで待ってろと女の子を立たせたまま、トイレの方へ行ってしまった。 女の子は言われた通りそこから動かずに待っていたが、用をすませて戻ってくる男の姿を見た途端、急に男とは反対の方に向かって走り出した。 それを見た男は、怒りの形相を浮かべ追いかけていった。 「女の子がガードレールの下をくぐって降りていくのを見てわたしは迷わず車を下りて後を追ったわ」 時間は夜十時を回ってて真っ暗だったし、追いかけていった男があの子に何をするか心配だったから。 下手をすると、あの男は女の子を殺してしまうという危険性もあったから先に保護しようと思ったの。 「で、見つけられたの?」 「ええ。見つけたわ。わたしは怯えるあの子を落ち着かせようと抱きしめて・・・・その時”SIN”に会ったのよ」 ・・・驚いたわ、と話を聞き終えた英理が低い声で呟いた。 まさか、三嶋亜矢が出会った恩人の女性が友人の美奈子だったとは。 「でも、どうして言わなかったの?あの子はあなたにずっと会いたいと思ってたんでしょう?」 「言えなかったのよ。わたしと会った時のあの子は、とても傷ついていたから」 思い出させたくなかった。 「あなたが三嶋氏の担当になったのも、もしかして」 「三嶋氏に連絡をとったのはわたしなのよ。意識をなくしたあの子を病院に運ぶ時、身元がわかるようなものがないか探したら、古ぼけたお守り袋の中から小さく折りたたまれた写真が出てきたから。顔はハッキリとはわからなかったけれど、名前があったの」 三嶋源一郎という名前がね。 三嶋財閥のことは知ってたけれど、まさかあの子が孫だったとは思わなかった。 「電話をかけたら、三嶋氏は文字通りすっ飛んできたわ。駆け落ちして行方がわからなくなっていた娘のことをずっと気にかけていたらしいの。駆け落ちした相手の男は、あの子が二歳の時に病死し、その後の行方が全くわからなかったらしいわ」 え?と英理は首を傾げた。 「じゃあ、あの子と一緒にいた男は・・・・」 「多分、あの子の母親がどこかで知り合って一緒に暮らしていた男だったんでしょうね」 だから、あの子はその男のことを父親だと思っていた。 だが、母親が事故で亡くなると男にとっては子供は邪魔なだけの存在だ。 子供の母親が三嶋財閥の一人娘であることを男が知っていたら、あの子はもっと早く祖父のもとに戻れたかもしれない。 「母親は言わなかったんですね」 「ええ。多分駆け落ちした自分はもう二度と父親のもとへは戻れないと思っていたんでしょうね」 母親が生きている間は、男もとりあえず優しい父親だったらしいわ。 まあ、かなりの美人だったらしいし、その男は彼女のことは本気だったんでしょう。 「聞いていいですか?」 それまでずっと黙って美奈子の話を聞いていた河合伸也が口を開いた。 「子供を追っていったその男は、どうなったんです?」 先に子供を追っていった男よりも、何故早く見つけられたのか。 いくら暗いとはいえ、幼い子供の足に追いつけない筈はない。 「何故、そんなことを聞きたいの?あなた、いったい誰?」 「オレは、その男の息子です」 「・・・・・・!」 美奈子は息が止まるほど驚いた。 息子!あの男の・・・! 「父は、その日から行方がわからないんです。父が乗っていたと思われる車もいつのまにか消えていて、誰もその不自然さに気がついていない」 「あなた、父親の行方を知るためにここへ来たの?」 英理が問うと、伸也はコクンと頷いた。 「でも、父の行方を知りたいのは肉親だからじゃない。父は、母やオレに暴力をふるい続け、あげくのはてに捨てたんですから」 母は父に好きな女が出来たことを早くに知っていた。 それでも時々家に帰ってくる父が、いずれは自分のもとに戻ってくることを信じていた。 だから父からおまえとは別れるという電話を受けてもなかなか信じなかった。 結局お金がなくなって家賃が払えず、追い出されるようにしてマンションから小さなアパートに移った。 生活のため母親は、貯金を全部はたいて買った軽自動車で配送の仕事を頑張った。 「オレはそれで十分幸せだったんです。でも母は違った。父のことが忘れられなかったんです」 あんなにひどい目にあったのに。 「あの日、母は父に会いにいこうとしていたんです。母を捨てる原因となった女性が事故で死に、図々しくも父は電話してきたんです。オレは途中までそのことを知らなくて・・・」 母から”伸也もお父さんに会いたいでしょう?”と言われた時は心底愕然とした。 この人はいったい何を言ってるんだ、と。 オレは信じられなくて、それが母の弱さだと思って怒って、そして飛び出した。 「あのサービスエリアが待ち合わせの場所だったみたいです。父は結局現れなくて、やっと母は諦めて新しい土地へ向かいました・・・・でも、あの夜、父はあそこに来てたんですね。もう少し早く来ていれば、玉置さんが目撃したシーンをオレも見ていたかもしれない」 僅かな時間差でスレ違い、その後の彼らの運命が大きく変わったのだ。 「オレはあの夜、父に会わなくて良かったと今も思ってます。でも、父があの後どうなったのかオレは知りたい」 どうして?と美奈子は尋ねた。 彼は父親の存在を認めていない。 彼も自分と同じように暴力を受けていた過去があるからその気持ちはわかる。 母が・・・と伸也は言った。 「母がまだ父を忘れていないから」 いつかは自分に会いに来てくれると母親は本気で信じているのだ。 「・・・・・・」 美奈子は迷うように視線を揺らしてから溜息をついた。 「河合くん・・・気持ちはわかるけど、知ってどうなることでもないわ」 「やはり、知ってるんですね。教えてください!オレはもう父は生きてないと思ってるから何を聞いても驚きません!」 違いますよ、と新一は言った。 「玉置さんは、あなたの気持ちを考えて迷ってるわけじゃない」 「え?」 「あなたは、玉置さんが父親を故意か過失かはわからないが死なせたと考えているんでしょう?」 オレは・・・と伸也は新一の言葉に動揺の色をみせた。 「確かにオレはそう思ってます。でも、それは仕方ないことなんだ。玉置さんの話では、あの男はまだ小さかった彼女に暴力を振るって怖がらせていた。あんな男、殺されても仕方がない!」 「暴力の被害者だったあなたがそう思うのは無理ありませんが、でも」 殺されて当然という人間はいないんですよ。 「そんなことは、暴力にあったことがないから言えるんじゃないですか!」 被害者が心と身体にどれだけの傷を負ったのかなんて、第三者に理解できる筈はない! そうね、と美奈子は頷いた。 「確かに同情はされても理解してもらうことはむつかしいわ。でも、だからと言って一人で抱え込めば傷は広がるばかり・・・・工藤くんはそう言いたいのね?」 微笑む少年の顔を見てふと美奈子は疑問を感じる。 何故彼は亜矢をこの場から引き離したのか。 まさか、彼は真相を既に把握していたというのだろうか? そんなこと、あるわけがないと思いながらも美奈子は、この名探偵と呼ばれる稀有な能力を持った彼ならとも思ってしまう。 (いいえ、わかる筈はないわ。このことを知っているのは、あの時あの場所にいたわたしと”SIN”の二人だけなのだから) そう否定した美奈子だが、ふいにあることに思い至り、あっ・・と心の中で叫んだ。 もう一人、真相を知っている人間がいる。いや・・いたというべきか。 「工藤くん、まさかあなた・・・・三嶋源一郎氏から?」 「三嶋氏からかどうかはわかりませんが、差出人不明の手紙をもらったことがあります。こういう事件を考えたが解けるかと、結構挑戦的な書き方だったのでついのってしまったんですが」 でも真相を解いても、相手がどこの誰かわからなければ答え合わせしようがありませんでしたけどね。 そう・・・と美奈子は苦笑した。 内容は聞かなくてもわかる。多分そうなのだ。 三嶋源一郎は、高校生探偵として有名になっていた工藤新一が、己が行なった犯罪に対しどう審判を下すかを試したのだろう。 犯罪はどんなに隠してもいつか白日の下に晒される。 そうなった時、工藤新一は三嶋氏が送った告白文(おそらくそうなのだろう)に気付くだろうと彼は考えたに違いない。 残されることになる自分の愛する孫娘のために、彼はリスクを覚悟で賭けに出たのだ。
二人の後を追った美奈子は途中見失ったが、男の激昂する声を聞きつけ急いでそこへ向かった。 彼女がようやく二人の姿を見つけた時、心配した通りのことがそこで行なわれていた。 女の子は男に激しく殴られていた。 頭や顔を平手で殴り身体を蹴り付けて・・・・ 泣いて謝る女の子に、美奈子は昔の自分を重ねて体がすくんだ。 今も後悔し続けている。 何故あの時すぐにあの場に飛び出さなかったのかと。 子供に暴力を振るう男の姿に、美奈子は恐怖を覚え出ていけなかったのだ。 そして、声も出せず立ち竦んだ彼女の見てる前でそれは起こった。 女の子は手で頭を庇うように抱えこみながら男から逃げようとしたが、足がふらつき倒れそうになった。 思わず膝をつき身を庇うように丸くなって地面に伏せた女の子の腹に男の蹴りが入る。 いや、実際は暗い中、逃げる女の子を追おうとして急に屈みこまれて足をとられてしまったのだ。 男は前に傾き、そして暗闇の中に消えた。 一瞬何が起こったのか美奈子にはわからなかった。 男の悲鳴が小さくなって消えていくのをただ茫然と聞いていた。 震える足を叱咤しながら美奈子は男が消えた方へと歩いた。 草が生い茂っていてわからなかったが、そこは崖になっていた。 下はまるで真っ黒な穴でもあいているかのように何も見えない。 男がどうなったのか美奈子には確認する術はなかった。 子供を見ると、地面にうずくまったまま震えていた。 「もう大丈夫よ。怖い人は行ってしまったから」 美奈子が優しく話しかけながら腕に抱き上げたが、女の子の震えはなかなかおさまらなかった。 よほど怖かったのだろう。 (この子は多分、父親がどうなったか知らない) 目を堅く閉じ、手で耳を押さえてうずくまっていたから悲鳴も聞いていないだろう。 その方がいい、と美奈子は思った。 あの男が生きていたとしても、もうこの子は渡さない。絶対に。 「どうしたの?」 突然背後から声をかけられた美奈子はびっくりした。 まだ幼い子供の声。 まさか、こんな所に? 震える女の子を抱きしめたまま振り返ると、小さく首を傾げてこちらを見つめている男の子が立っていた。 迷子?とその男の子が聞いてきたので、美奈子はええ、と頷いた。 「ふ〜ん」 ゆっくりと歩み寄ってきた男の子が、ついさっき男が落ちていった崖下を覗きこむのを見て美奈子はギクリとした。 (この子、まさか・・・!) 見ていた? 男の子は今度は美奈子に抱かれている女の子の顔を覗き込み話しかけた。 「ねえ、お腹すいてない?お菓子ならあるけど、食べる?」 女の子は泣いて赤くなった瞳を大きく見開いて男の子を見つめる。 こっち、と男の子は言って美奈子の上着の裾を掴み引っ張った。
多分あれはほんの数時間のことだったと思う。 互いにどこの誰かもわからない、たまたまそこで会っただけの三人。 男の子が案内してくれた場所には小さなテントが張ってあって、奇妙なことだが大人の姿はどこにもなかった。 よいしょ、と彼がテントから引っ張り出したスポーツバッグの中にはギッシリとお菓子が詰まっていて美奈子たちを驚かせた。 懐中電灯の明かりの中、三人でお菓子を食べて、たわいのないお喋りをして、笑って、そして・・・・ 男の子は眠ってしまった女の子を抱いた美奈子をサービスエリアまで送ってくれた。 別れるとき美奈子が名前を聞くと、彼は女の子が持っていた小さな絵本を指差した。 月と兎の絵が描かれたその絵本には”SIN”と書いてあった。
「あの子を車に乗せ病院に連れていってから、わたしは三嶋氏に連絡をとった。彼はすぐにやってきたわ。 三嶋氏があの子の実の祖父だと確認してから、わたしはあの夜に起こったことを全て話したの。そうしたら三嶋氏は、後のことは全て自分にまかせてくれればいいからと」 三嶋氏はあの子に会えたことを喜んでいたし、本気で心配していたからまかせても大丈夫だとわたしは思ったの。 だから、わたしはすぐにそこから離れた。 面倒なことになりたくなかったし、それに三嶋氏が来たことでわたしがやるべきことは何もなかったから。 「父は・・・あの男はどうなったんです?」 「わからないわ。でも・・・・」 あの夜からぷっつり消息が途切れ、いまだに行方がわからないということは恐らく・・・・・ 「・・・・・・・」 彼らはもう言葉を発する気にはなれず黙った。 三嶋氏は何も言うことなくこの世を旅立っていった。 全ては孫娘を、そして孫娘を助けてくれた美奈子を守るために。 「新一くん、あなたに届いた手紙にはどういうことが書かれていたの?もしかして、崖から落ちた彼のことがその後どうなったかということが・・・・」 英理がそう問うと新一は首を小さく振った。 「本当に三嶋氏から送られたものなのかボクにはわかりませんから、なんともお答えできません。あれは挑戦ではなく告白だったかもしれませんが、きっと表には出してはならない真実もあるのだとボクは思います」 「あら言うわね。本当にそれでいいの?」 「ええ。ボクは刑事や検事ではなく、探偵ですからね」 「でも河合くんには納得できないんじゃない?」 いいえ、と河合も首を横に振った。 「表には出してはならない真実・・・・それだったらオレにも納得できます」 河合伸也の目には、ガラス戸の向こうからこちらへ駆けてくる少女の姿が映っていた。 何か嬉しいことがあったのか、彼女の顔はとても幸せそうで明るく輝いている。 あの子の笑顔を奪うような真実なら、いっそ封印されたままでいいと彼は思った。
新一はここに泊まっていけばいいという美奈子の誘いを、友人が待っているからと断り、一人三嶋家の別荘を出ていった。 河合伸也は”SIN”として亜矢の支えになることに決めた。 彼もまた亜矢と同じ過去を持つ人間だったから。 快斗は、大きな木の下で新一を待っていた。 「これで舞台は閉幕?」 快斗がニッと笑って訊くと新一は、まだこれからさと答えた。 二人の少年は並んで歩いた。 「腹減っちゃったなあ。バイク止めてる近くに釜飯やってる店があったけど寄ってかない?」 「行ってもいいけど、おまえの驕りな」 なんでえ〜〜と快斗は喚くが、嫌とは言わないあたりが姫君に弱い彼らしい。 「なあ、新一。やっぱ、新一が”SIN”じゃねえの?」 新一はクスッと笑って肩をすくめた。 「さあ?どうかな」 |