東都駅からタクシーでマンションに戻った毛利蘭は、顔を覗かせた管理人に帰宅の挨拶をすると下りて来たエレベーターに乗り込んだ。

 十七階のボタンを押すと、エレベーターは扉を閉じてゆっくりと上昇していく。

 たった一人を乗せたエレベーターの中は空調の音のみで静かだった。

 はぁ・・・と蘭は壁にもたれ、疲れたように息を吐き出した。

 二泊三日の出張だった。

 行きも帰りも飛行機だったので身体はそれほど疲れていないが、精神的な疲労が蘭の心を重くしていた。

 睡眠不足もあるだろう、軽い眩暈を感じた。

 できれば、何も考えずゆっくりと眠りたかったが、まだ仕事が終わったわけではないのでそれは無理だ。

 部屋に荷物を置いたら、上司に報告しに行かなければならない。

 疲れているからと言えば上司は明日でもいいと言ってくれるだろう。

 だが、それはできなかった。

 上司が実の母親だからこそ、そんな甘えは許されないと蘭は思っている。

 母親の事務所に入ると決めた時からそれは覚悟していたことだ。

 実際、全く知らない弁護士のもとで働いていれば気は楽だったかもしれない。

 自分でも意地っ張りだと思うが。

 大学に在学中に司法試験を受け合格した蘭だが、勿論すぐに弁護士としてばりばりと働けるわけではない。

 大学に入って間もなく、忙しそうな母親をみかねて手伝っているうちに弁護士に興味がわいた。

 ま、きっかけがなかったわけではないが、とにかく一度受けてみようと思って頑張ったら合格した。

 親友の鈴木園子には相当に呆れられたが、しかし、蛙の子は蛙よねえと妙な納得もされた。

 彼女は今は結婚し子供もいて幸せな生活を送っている。

 不満なのは、夫が家に落ち着いてくれないということだろうか。

 相変わらず試合のための海外遠征が多いようだ。

 だが可愛い息子と二人の生活もまんざら悪いものではないと園子は言う。

 ゴーイングマイウェイの園子だが、保育園に通っている一人息子をとても可愛がっている。

 が、他人が見るとまだ幼い息子が奔放な母親の面倒を健気にみてるように思えるらしい。

 確かにあの二人の息子にしてはしっかりしていると蘭も思うが。

 だが、あのお嬢さま育ちの園子が、生まれた赤ん坊の世話を他人まかせにせず一生懸命頑張って育てていたのも蘭は知っていた。

 三時間ごとの授乳やおしめの取替え、夜泣きをすればそれこそ腕の感覚がなくなるまで抱いてあやしていたのだ。

 赤ん坊は愛情がなければ育てられない。

 園子は愛する人との間に生まれた息子を、心の底から愛していた。

 だからこそ、育児ノイローゼ?何それ?なのである。

 園子曰く”そんなもんにかかるほど暇じゃなかったわよ!”だった。

 あれは最初の高校の同窓会の時だったか。

 その時のことを思い出して蘭はクスッと笑う。

 今も園子は蘭にとって一生つきあっていきたい大切な親友だ。

 エレベーターをおりた蘭は鍵を出して自分の部屋のドアを開ける。

 母親は資金を出してあげるから職場に近い分譲マンションを買えば?と言ってくれたが、大学を卒業したばかりの自分には不相応だと中古の賃貸マンションを借りた。

 なんとか自分のお給料で払っていける家賃であったし、事務所まではバスで二十分の距離だというのも良かった。

 部屋に入ると、着替えなどが入ったバッグを床に置いて蘭はソファに腰を下ろした。

 ほぉっとひと息つく。

 軽くシャワーでもしてから出かけようかなと蘭が思った時、ベッド脇のサイドテーブルの上の電話が突然鳴り出した。

 最近は携帯電話だけで十分に用が事足りるのだが、母親の英理が自宅に電話はあった方がいいというので置いている。確かに弁護士の仕事をする上では携帯より固定電話の方が都合のいい場合があった。

 蘭はソファから立ち上がり受話器を取る。

「はい、毛利です・・・・・もしもし?」

 かかってきた電話を取った蘭だが、一向に話し出さない相手に眉をひそめた。

「もしもし?どなたですか?」

 再度蘭がかけてきた相手に問いかけると、電話はプチッと唐突に切られた。

「・・・・・・・」

 イタズラ電話?

 電話を引いてから、この手の電話がかかってきたのは初めてというわけではないが、なんとなく蘭は嫌な予感を覚えた。

 その不安は、今自分が受け持っている依頼のせいもあったが。

 依頼は、ある夫婦の離婚問題だった。

 妻の方が高校の時の後輩で、蘭に直接相談してきたため彼女が担当することになったのだが。

 彼女の夫は金融関係の会社に勤めており、仕事振りは真面目で入社以来一日も休んだことがないという。

 しかし、仕事人間かというとそうでもなく、残業や休日出勤は一切しないという主義らしい。

 休日は彼女を連れて出かけたり、買い物につきあったりといい夫振りを周囲に見せている。

 しかし、彼女はそんな夫を怖いと感じていた。

 どこがというハッキリした理由はないようだったが。

 罵倒されるとか、暴力を振るわれるとかいうのはないし、生活費もきっちり手渡されお金の苦労もない。

 ただずっと子供が出来ないことが悩みといえば悩みだった。

 病院で一度診てもらったが、彼女の方にはなんの問題もなかった。

 で、子供が欲しい彼女はつい夫に病院で診察を受けてもらえないかと口にした。

 その時の夫の目を今も忘れられないと彼女は蘭に言った。

 これまで見たことがないほど恐ろしい目だったという。

 夫は、そのうちなと言ったきり何も言わなかった。

 もう二度とその話題を出すなという無言の圧力を感じたと彼女は言った。

 たった一度目にした夫の顔が彼女に離婚を考えさせた。

 自分から言い出したことだから慰謝料を払ってもいい、今の夫と別れたいという彼女の必死の訴えに蘭は依頼を引き受けた。

 とにかく話を聞こうと思い会った彼女の夫は、おとなしそうで、確かに真面目な印象の男だったが。

 あの日のことを思い出して蘭は、くっと顔を険しくしかめた。

 蘭はすぐさま床に置いたままのバッグから報告書の入った紙袋を取り出すと、ピンクのショルダーバッグに入れた。

 そして財布と携帯電話もショルダーバッグの中に突っ込むと、ようやく帰ってきた部屋に落ち着くことなく出かけていった。

 

 マンションを出た蘭は、できればタクシーを捕まえたかったが、生憎走ってるタクシーは一台もなく、仕方ないので駅へ向かった。

 バス停の方が近かったが、バスが来るのを待つより駅まで行ってタクシーに乗るほうが早いという判断からだった。

 依頼者の夫は近所の評判もよく、職場での評価も悪いものではなかった。

 愛妻家で、妻との時間を大切にする男だと思われているので、残業をしたがらないことで文句を言う者も殆どいない。

 傍から見れば、妻である彼女の我がままである。

 だが、彼の生まれ故郷で少年時代を送った小樽では、なんとも言いがたい不気味な噂があったのだ。

 彼にとって蘭は、自分の物だと思い込んでいる彼女を奪おうとする憎むべき人間・・・・間違いなくそう認識されている。

 人当たりがよく、にこやかな仮面を被って蘭に接した男。

 蘭が小樽であの事件の真相に気づくとは思ってもいなかっただろう男。

 直接自分に向かってくるなら対処は簡単だ。

 相手がどんな凶器を持ってこようが、押さえ込む自信はある。(さすがに銃を持ち出されると危険だが)

 大会に出ることはもうないが、今も空手の鍛錬を怠ってはいない蘭だ。

 しかし、もし、あの事件が彼によるものなら・・・・

 駅には着いたが、いつもは十台近くいるタクシーが、この日は二台しかおらず、しかも五〜六人が並んでいたのでしばらく待たなくてはならないようだった。

 どうしよう・・・と考えていた所、突然蘭は名前を呼ばれた。

「蘭さん、こっち!」

 声の主は丁度二台目のタクシーに乗ろうとしていた女性だった。

「青子さん?」

 それは中森青子だった。

 蘭が青子に手招きされるまま歩み寄ると、そのままタクシーに乗るよう促された。

「青子、実家に戻るとこなんだけど、蘭さんは?」

「あ・・・これから母の事務所に」

「だったら方向一緒だから丁度いいね」

 青子はそうニッコリ笑うと、運転手に行き先を告げた。

 蘭は予想外の成り行きに目を瞬かせる。

「なんか、急いでるみたいに見えたから」

 悪かったかな、と今になって心配そうに見つめてくる青子に蘭は、ううんと首を振った。

「いつもはバスなんだけど、タクシーが早いと思って来たから」

 でも、止まってるタクシーが少なかったからどうしようかと思っていたのだと蘭が言うと青子は、ホッとした顔で笑った。

「じゃ、声かけて良かったのよね!青子、思ったことすぐに行動しちゃうから後でいつも後悔しちゃうんだ」

 ありがとう、助かったと蘭が礼を言うと、青子はてへっと笑いながら首をすくめた。

 高校生の頃、初めて会った時はどことなく顔立ちが似ているので姉妹のようだと園子たちに言われたが、今は少し感じが違ってきているように思える。

 多分変わったのは自分だ。

 青子はあの頃のまま、少女のように無邪気で愛らしかった。

 大学が同じだったのでずっと仲良くしていたのだが、卒業後はお互い仕事が忙しくなかなか会う機会がなかった。

 中森青子は大学卒業後、東都郊外にある幼稚園に勤めていたが、二年前米花小学校の教師をしている男性と知り合い結婚。すぐに子供が出来て今は専業主婦で育児に専念している。

「今日、お父さん非番だから子供預けてるの」

「お出かけだったの?」

 うん、と青子は頷く。

「今日は、快斗の命日だから。お墓参りにね」

 あ・・・と蘭は口元を覆った。そうだった。

 青子の幼馴染みで、蘭もよく知っていた黒羽快斗が不慮の事故で亡くなってもう七年になろうとしていた。

「毎月お墓参りに?」

「うん。だって、おばさんフランスにいるから快斗のお墓に行けないし。でも、祥月命日には必ず日本に戻ってくるんだよ」

「そう・・・」

「でもね、青子が行かなくても快斗は人気者だったから、お花が絶えることってないんだ。高校の時、快斗と一緒にバカやってたクラスメイトも、時々お墓に来てはいろいろ喋ってるんだって」

「・・・・・・」

 黒羽快斗とは高校の時知り合った。

 初めて会った時は、工藤新一にそっくりなので本当にびっくりした。

 実際、蘭が渋谷でスレ違った時は新一だと思ったのだ。

「快斗が海で助けた女の子いたでしょ?あの時、小学生だったけど、今はもう高校生でモデルとかやってるんだよ。この前、テレビで歌を歌ってたけど、すっごくうまかった」

「へえ〜そうなんだ」

「いい子なんだよ。あの子、快斗の命日にはちゃんとお墓参りにくるんだ。今日は仕事で九州に行くからって、前日にお墓を掃除してくれたの」

 あの日、祖父の家に遊びに来ていた幼い少女は誤って海に落ち、たまたま近くにいた快斗が荒れた海に飛び込んだ。

 少女は助かったが、しかし力尽きた快斗はそのまま波間に消えた。

 あの荒れた海で命綱なしに少女を助けるのは無謀な行為だった。

 そんなことはわかっている。しかし、快斗は放ってはおけなかったのだ。

 海に消えた快斗の遺体は、今も見つかっていない。

 だから、お墓には遺品だけで快斗はいないのだが。

「快斗って、お魚が大嫌いだったんだよ。それこそ、名前を聞くのも嫌だってくらい」

 なのに、海で死んじゃうなんてバカみたい、と青子は呟く。

「青子さん・・・・・」

 中森青子にとって黒羽快斗は幼馴染みであると同時に、初恋の相手でもあった。

 あまりにも近すぎて、恋を形にすることはできなかったが、それでも彼らは互いを本当に大事な相手と認識しあっていたと思う。

 幼馴染みで初恋・・・・でもそれを素直に表に出すことなく終わってしまった恋・・・

 自分も彼女と同じだ、と蘭は青子を見て思った。

 ずっと身近にいて一緒に生きてきて、好きなのに素直に好きだと言えなくて。

(新一は・・・・そんなわたしのことをずっと大切に思ってくれていたのに)

「工藤くん、まだ見つからないの?」

 黙り込んだ蘭に青子が尋ねる。

 工藤新一の行方がわからなくなってから、やはり七年が過ぎる。

 快斗が海で亡くなる三ヶ月前のことだ。

 大学を休学して北欧に行くと行って日本を発った新一は突然消息を絶った。

 何か事件に巻き込まれたのではないかと、彼の両親も必死に探したようだが、今も行方がわからない。

 去年、新一らしき遺体がスェーデンで見つかったという連絡が入ったが、すぐに違うとわかった。

 生きているのか死んでいるのか、それがわからないから辛い・・・・

「わたしね、快斗は生きてるって今も思ってるの」

 だって、遺体は見つかってないんだし。

「もしかしたら助かってて、でも記憶なくしてて帰ってこれないんじゃないかって」

 快斗にとって魚だらけの海は悪夢以外の何物でもないし、全てなかったものにしたいって、そう思っても不思議じゃないでしょ?

 ねっ?と青子は楽しそうに笑った。

「そうね。新一も根っからの推理バカで事件オタクだから、今もどこかで事件に関わってて帰って来れないのかもしれないわね」

 うん、きっとそう!と二人は互いの幼馴染みのことをそう評価して笑いあった。

 

 

 くしゅん、と小さなくしゃみが聞こえ、慌ててブランケットを掴んで飛んできた快斗だが、彼自身も盛大なくしゃみをして新一に思いっきり嫌な顔をされた。

 あれえ?と快斗は目を潤ませながら鼻の下をこする。

「あ・・と、寒かった新一?」

「寒くねえよ。風邪ひきかけてんのはおめーの方じゃねえの?」

 う〜ん、と唸って快斗は額に手を当てた。

「熱はないよ。ってか、オレめったに風邪ひかねえし」

「バカは風邪ひかねえって?」

 オレは天才!と快斗は腰に手を当てそりかえる。

「あれじゃねえ?誰かがオレの噂してたってやつ」

 ああ、とソファに寝転がって本を読んでいた新一は肩をすくめた。

「そういや、今日はおまえの命日だったよな。誰かがおまえのマヌケ振りを笑ってるってのなら納得」

 ひでえ〜〜と快斗はくしゃっと顔をしかめた。

 そして腕組みしながら唸る。

「・・・そうかあ、今日はオレの命日だったか」

 っていうか、よく覚えてたよなあ新一。

「よりによって、海で死ぬなんて真似をやらかしたおまえにかなり呆れたからなあ」

 実際、あの頃快斗は、死ぬなら山で遭難がいいかと言っていたのだ。

「う・・・それはま、たまたまさあ。女の子は助けなきゃいけなかったし、これでいいかあとか思ってさ」

「それで大笑いか」

 笑われてねえって、と快斗は苦笑する。

 しかし、快斗の魚嫌いを知ってる奴にはお笑いかもしれないか。

 女の子を助けあげたはいいが、服の中に入り込んできた魚にパニくっって溺れかけたのは事実。

 新一に爆笑されるから死んでも言えないが。

「とにかく、かけとけよ。新一はオレと違って風邪ひきやすいんだからさ」

 言って快斗は手に持っていたブランケットを新一の身体にかけた。

「あ、そうそう。蘭ちゃん、東都に帰ってきたみたいだぜ」

 また本を読み出していた新一が、快斗の言葉に顔を上げた。

「今頃、マンションで身体休めてるかも」

 新一は、そうかと言って再び本のページに視線を落とした。

 快斗は寝そべっている新一の方に腰を屈めてきた。

「うまい再会を段取りするからね。久しぶりに蘭ちゃんとゆっくりしたらいいよ」

 彼女と会えるのは、江戸川コナンとしていられる、今この時期しかないのだから。

「おまえはいいのかよ?」

 中森さん、と新一が言うと快斗はふっと笑った。

「いやいや〜青子と顔あわせようと思ったら、オレ幽霊になんなきゃ」

 言ってから、その考えにう〜んと唸って目を細める。

 夜中こっそりと枕元に立って、やっvってのも一興かもと快斗は笑う。

 実際やるんじゃないかというくらい、快斗の顔は乗り気になってる。

 確かに、実は生きてましたと言っても消えた当時と全く変わってない姿じゃ異様だろう。

 幽霊という方が確かに現実味はある。(幽霊が現実的というのもなんだが)

 ふん、と新一は鼻を鳴らすともう快斗が何を言っても聞こえないという顔で読書に没頭した。

 

 わかった、と言って通話を終えた携帯を手の中に握りこんだ快斗は、ホテル内のオープン喫茶でコーヒーを飲みながら雑誌のページをめくっている新一のもとへ戻った。

 二人ともごくありふれた綿のシャツとジーパン姿。

 新一が黒縁眼鏡をかけているので、双子のように似た顔立ちの二人だが見た印象を違えている。

 類稀な美少年たちというわけではないが、人の目を引く整った顔立ちの彼らは良くも悪くも他人の記憶に残る。

 とはいえ今さら、かつて日本警察の救世主と呼ばれマスコミにもよく出ていた高校生探偵のことを覚えている者はそういないだろうし、快斗にいたっては普通の高校生だったのだからそれほどまわりを気にすることはなかった。

 だいたい当時十七・八の高校生が、今も少年でいるわけはないのだから、その点も安心できる。

 ちょっとむつかしい表情で椅子に腰かけた快斗に気づき、新一は見ていた雑誌から視線を上げた。

「どうした?」

「うん・・・なんかヤバイかも」

 蘭のことか?と新一は眉を寄せる。

 快斗は江戸川コナンと毛利蘭の感動かつ劇的再会を画策している。

 別にコナンが蘭に連絡とって会いに行くでもいいじゃないかと新一は思うのだが、快斗はそれじゃもったいないと言うのだ。

 新一が江戸川コナンとして毛利蘭に会える機会は今この時しかないというのに、ただ会って喋って、はいサヨナラじゃ味気なさ過ぎると快斗は主張した。

 だったらオメーはどうなんだよ、と新一が言うと、快斗は既に計画を立てていたらしくニッと楽しそうな顔で笑ったので新一は面白くない。

 ま、そこが地味な探偵と派手な怪盗の違いか。

 どんなことでも演出しないと気がすまない、根っからのエンターティナーなのだ。

「蘭ちゃんが小樽に出張したのは、今担当している依頼のためだったんだけどさ」

「どんな依頼だ?」

「ある夫婦の離婚問題。奥さんの方が別れたがってんだけど、旦那が承知しない。奥さんは金は一円もいらないって言うし子供もいないから養育費もいらないしさ」

「離婚したい原因はなんだ?男の方の素行か?」

「いや、近所でも会社でもいたって評判がいいんだよな、これが。奥さんに暴力振るうわけでもないし、休みには買い物につきあって荷物を持って歩くような優しい旦那」

 だから、男の職場でも近所でも離婚問題は気がついてもいないって感じ。

 女の方も誰彼と相談しまくるような性格でもないようだし。

「依頼者は、蘭ちゃんの高校の時の後輩だったって話。だからかなあ、蘭ちゃんにだけはいろいろ話してたみたい」

 とにかく、調べても離婚という言葉は縁のない夫婦としか出てこない。

 まわりの評価とは違う夫婦像を知っている第三者は、きっと相談を受けた毛利蘭だけだろう。

「で、なんで蘭は小樽に行ったんだ?」

「その旦那が小学校を卒業するまでいたのが小樽だったんだ。中学から大学まではずっと東都なんだけど、蘭ちゃんは気になったのかもしれないね」

 悪い噂もなく評判のいい男。

 しかし、会ってみて何か感じたのかもしれない。

 もと刑事で、そして探偵だった父親と数え切れない事件に遭遇した経験と、優秀な弁護士である母親譲りの勘から。

「普通は離婚問題で旦那の小学校時代なんて調べに行くことなんてないよね」

 けど、彼女は行った。そして、何かを掴んだのかもしれない。

「気になったんで調べさせた」

 子供時代も、頭はいいけどさほど目立たないおとなしい少年だったらしい。

 評価も東都時代と殆ど変わらないが。

「一つ、気になることがあるんだよな」

 なんだ?と新一はテーブルの上に身を乗り出して快斗を見る。

「そいつが小学校を卒業する少し前に、火事で一家全滅したとこがあるんだ。夜中に突然火の手が上がってあっという間に炎に包まれ、寝ていた家族全員逃げることもできず焼死したそうだ」

「もしかして、放火か?」

「時限式の発火装置が見つかったから放火だよな。犯人はまだ捕まってない」

「蘭はそれを調べてたのか」

「うん、そう。死んだ子供の一人がそいつと同級生だったんだ。手の付けられない暴れん坊だったそうだぜ。けど、なんでかそいつだけには手を出さなかったって話だけど」

 時間があれば、もっと詳しく調べられるんだけどな、と快斗が言うと新一は顔をしかめ考え込むようにして顎に手を当てた。

「やっぱ気になる・・・よね、新一」

 蘭ちゃんのことだし。

「・・・・・・・」

 握りこんでいた携帯がふいに振動を始めたので快斗は持っていた手で器用に開き操作し始めた。

 メールだったらしい。

 しばらくメールを読んでいた快斗は、だめか〜とがっくりしたようにうなだれた。

「どうした?」

 ん・・・と快斗は顔を上げる。

「実は今夜、蘭ちゃんが妃弁護士と一緒にとあるパーティに参加するって情報を手に入れたから、丁度いいかなあと思ったんだけど。これがさあ、主催者が招待した客しか駄目ってやつで・・・・なにしろ一年前に招待リストが作られてて欠席以外に変更なしってんだよな」

「割り込みはできないっていうのか」

 そう、と快斗はうなずく。

「パーティは船ん中であって、招待された客が揃ったら港を離れて海上でパーティが行なわれるって趣向」

 入り口で厳重なチェックがあるし、招待された人間が行かれなくなったからって、代わりの人間が行くのはペケ。

「厳しいな」

「指紋チェックまでやるってんだから相当なもん」

 ま、だから一年前からリストがキッチリ作られてんだけど。

「今夜のことだから、向こうのデーター書き換えるのも無理だしさあ。んで、李家の関係者ってことでなんとかならないかなあと交渉してみたけど」

 やっぱ駄目だった、とため息をついて快斗はテーブルに突っ伏した。

 新一は眉間にしわを寄せ、目の前の快斗をにらみつける。

「おまえ・・・李家の双子を使うつもりだったんじゃねえだろうな」

「あ、いや・・・だって」

 ゴン、と新一の拳が快斗の後頭部にめり込む。

「ふざけてんじゃねーぞ、こら」

 女装した姿など死んでも蘭に見せられるかっ!

 ふえ〜〜と快斗は涙目で新一を見上げる。

「だって新一・・・気になるだろ」

 そりゃあ、それだけ厳しいチェックなら心配いらないだろうけど。

 でも、万が一ということもある。

「江戸川コナンとして会うのは別の機会にして、蘭ちゃんを近くで見守るってのは重要じゃない?」

 む・・・と新一は言葉を詰まらせ、浮かしていた腰をストンと椅子の上に落とした。

 快斗の言うことは間違っていない。

 今夜蘭に何かがあるとは断言できないが、何もないとも言い切れないのだから。

「もう少し、そいつのこと調べてみるけど、問題は今夜船ん中であるパーティだよな」

 港にずっと停泊してるんだったらやりようもあるが、一端港を出てからの海上パーティとなるとむつかしい。

 海から船にもぐりこむなんてのは、やっぱり考えたくもないし。

「やっぱり招待客として船にもぐりこむのが一番なんだけど」

 なんか方法がないかなあと快斗は、む〜んと唸って考え込んだその時だった。

「今夜のパーティというのは、マダムクラスエの誕生パーティのことか」

 唐突に割り込んできた声に二人は飛び上がった。

 声の主が誰であるかなどすぐにわかったが、それでも視線を向けて顔を確認すればゲッとなって思わず身体が引く。

 誰かがテーブルに近づくのさえ気づかないほど考えに集中していたわけでもないのに、声を掛けられるまで気付かなかったのはこの男だったからか。

 とはいえ、大怪盗の名を欲しいままにしている黒羽快斗としては情けないことこの上ない。

(やはり、こいつ・・・ただもんじゃねえよな)

 自分と似た匂いを感じるこの男、オードマン伯爵・・・・・

 知ってるのか、と新一が問うと、彼は勿論と答え頷いた。

 整いすぎたその顔から冷たい印象すら受ける男だが、新一に対する眼差しは優しい。

 香港で麗花と初めて顔を合わせてから、この男の新一への執着はあからさまなくらいだが、今のところ危機感を覚えるほどではないから対応を決めかねているという段階だ。

 だが、この男の正体がハッキリしないことと、将来新一にとって害にならないとも言い切れないから用心にこしたことはない。

 この男は決して、彼らの味方では有り得ないのだから。

「マダムクラスエとは社交界で知り合ってね、彼女が日本人と結婚しフランスを離れるまで良き友人としてつきあわせてもらった。今夜のパーティにも招待されているよ」

「日本に来たのはそのためか」

「理由の一つではあるな」

 嘘をつけ、と快斗は思う。

 この男が、社交界で知り合っただけの女の誕生パーティに、招待されたからといって日本までのこのことやってくるとは到底思えない。

 確かにマダムクラスエは結構な美人という噂だが、他に目的がない限り彼女に会うため日本まで来るということはない筈だ。

 そこまで甘い男ではないと快斗は見ている。

 自分に似た面があるからこそ特に。

 伯爵が日本に来た本当の理由はわからないが、少なくとも理由の一つに新一のことがあるのは間違いない。

「わたしの連れだと彼女に言えば、君一人ならパーティに参加できなくもないが」

「本当か!」

「・・・・・・・・・」

 快斗は眉をひそめて金髪の男を見つめた。

 李家の名を出しても叶わなかったというのに、この男が言えばなんとかなるというのが気に入らない。

 この男がそう口に出すからには、確実に船に乗れるだろうが。

「・・・・・引き換えに何を要求する?」

 何も、と伯爵は首を振った。

「レディがわたしとパーティに行ってくれるだけで満足だからね」

 後ほど迎えにくる。

 伯爵は言って新一の手を取ると甲に軽く唇を押し当てた。

 さすがに、公共の場でそんな真似をされては新一もたまったものではない。

 伯爵が現れた時からチラチラと視線を向けられていたのに、突然の少年へのキスにまわりがざわめいた。

 一斉に好奇の目で見られた新一は真っ赤になって男の手を振り払うと、怒りの形相を浮かべてその場から立ち去った。

「・・・・・・・」

 ふふ・・と楽しげな笑みを浮かべながら新一の背を見送る伯爵の顔を快斗は胡散臭げに睨みつける。

 今さら、新一へのふざけた行為に怒る気はないが、どうもこの男は油断できない。

 はっきり言って気に入らないのだ。

 睨みつけてくる快斗の瞳を伯爵は面白そうに見返した。

「怒った時の君の瞳もなかなかに美しいな」

 光の加減や感情の起伏によって快斗の瞳はアメジストに輝く。

 新一の蒼い瞳とは違うものだが、やはり魔物の瞳だと伯爵は笑む。

 天使の顔に魔物の瞳。

 そのアンバランスさがたまらなく興味深い。

「止められるものなら、止めたいという顔だな」

「他に方法があるならね」

 くくっと伯爵は咽で笑う。

「心配するな。彼の意思を無視した行為を強制するようなことはない」

 だったら、さっきのキスは無視した行為じゃないってのかよ?と快斗は小さく鼻を鳴らす。

 今は・・・と声にして出されなかった続きがわからないほど快斗も鈍くないつもりだ。

 伯爵が去って一人その席に残った快斗は、椅子に座りなおすとテーブルの上に置いたままの自分の携帯を掴んだ。

 そして、電話する前にウェイトレスを呼んでケーキセットを頼む。

(ったく、糖分補給しないと、やってらんねえ)

 

 

 もう今日何杯目かわからないコーヒーを飲みながら捜査資料を読んでいた服部平次は、鳴り出した携帯を取って耳に当てた。

 資料を読んでいる途中なので、誰からの電話かも確認していない。

 常にその調子なので、たまにわけのわからない勧誘とか暇つぶしのいたずら電話を相手にすることになる。

 暇なら相手をしてやらなくもないが、今のように忙しい時となれば恫喝を飛ばす。

「はい・・・ああ、なんやおまえか」

『平ちゃん、今暇?』

「暇なわけあらへんやろ。机の上には目を通さなきゃなならない資料が山になっとるわ」

『へえ〜忙しいんだ、検事って』

「そりゃあな。貧乏暇なしや」

『それ、どっか違うんじゃないの、平ちゃん』

「違わへんわ。今飲んでるコーヒーはインスタントやでインスタント!おまえらみたいな超高級志向とは違うんや」

『ふ〜ん。大変だね。今度いい豆贈ろうか』

「いらんわ。検事が賄賂もろてどうする!」

『え〜〜?友達でしょ、オレたち』

 ダチやけどな、と平次はため息をつく。

 喋りながらも資料を読んでいる平次は確かに忙しい。

「それより、用はなんや?まだこっちおんのやろ?」

『いるよ。新一がまだ蘭ちゃんと会ってないからね』

 平次の太い眉が僅かに寄る。

『新一が彼女と会えるのは今しかないから』

「・・・・そうやな」

『で、それ関連なんだけど平ちゃんに調べて欲しいことがあるんだ』

「なんや?」

『二十年前に小樽で起こった時限発火装置による放火事件。夜中に起こったんで一家全滅してる』

 平次は資料を読むのを中断する。

『その事件の詳しい捜査状況を知りたい。資料が残ってたらベスト』

「なんやそれ?なんでそないなこと知りたいんや?」

『蘭ちゃんが今担当してる依頼に関係してんだよ。なんかヤバイ気がしてさ。杞憂に終わればそれでよしってとこだけど。頼める?平ちゃん』

「わかった・・・急いどんのか?」

『今夜、船上でマダムクラスエの誕生パーティがあって、蘭ちゃんが招待されてる』

「ああ、あれか。聞いとるわ。招待客はVIPや有名人がぞろぞろやってのに、目立った警備やったらいらへんって言われたと警視庁がぼやいとった」

 そいつがヤバイんか?と平次は表情を険しくする。

 招待客は百人を超えている筈だ。

 主催者とその関係者、船員やパーティのために雇われた従業員に警備員も含めたら三百人近く船に乗る筈だ。

 船は港を出るから完璧な密室状態。

 そんなところで問題など起こされては危険極まる。

『仕事を依頼した女性の夫が蘭ちゃんに逆恨みしてる可能性があるってだけで、事件が起こるという確信は今んとこないんだけどね』

「二十年前に起こった放火、その男が関係しとるんか?」

『それも可能性だね。蘭ちゃんは疑いを持ったようだけど』

「よし、わかった。小樽に知り合いの刑事がおるからそいつに調べさすわ。わかったら連絡する」

『頼むね、平ちゃん』

「で?あいつはどないすんねん?」

『勿論船に乗るよ。蘭ちゃんのそばにね』

 江戸川コナンとしてだけど。

「は?どうやってや?招待されてへんやろ、あいつは」

『コネがあってさ。新一だけ船に乗れることになった』

 コネ・・・なあと平次は息を吐く。

「おまえは?」

『港までは行くよ。けど、万一のことがあったら見逃してね、平ちゃん』

「・・・・・・・・」

 平次はむ〜んと思いっきり鼻の頭にしわを寄せた。

「検事に向かってそないな事言えんのは、おまえだけやで」

 共犯だから、と答える快斗の面白がってる顔が見えるようだった。

 

 

 港に停泊している純白の船に次々と着飾った人々が集まっていく。

 乗船までに厳重なチェックがあるので、乗り場には招待客の列ができていた。

 招待状と指紋のチェックをした後、手荷物検査まであるのは前もって連絡を受けていたので驚くことではないが、しかしそこまでするべきことなのかと首を捻る客たちも多かった。

 遊園地で人気アトラクションに乗るための行列並だが、こちらはパーティの招待客なので皆正装しており、そこだけ特別な空間のように見える。

 幸い妃弁護士と娘の蘭は早めに港に着いていたので、長い列が出来る前に乗船することが出来た。

「もの凄い列ができてるわよ、お母さん」

 甲板から下を眺めていた蘭が、瞳を瞬かせながら声を上げる。

「ほんとね。早すぎるかと思ったけど、良かったわ」

「チェックが凄く厳しいけど、何かあるの?」

 蘭が尋ねると英理は苦笑し、ええと頷く。

「去年の誕生パーティはホテルで行われたのだけど、酒に酔った暴漢者が紛れ込んで招待客に怪我を負わせたのよ。今年はそんなことが絶対あってはならないと会場を船という、簡単に入り込めない場所にし、チェックも厳重にしたわけ。招待された人たちは大変だけど、前もって連絡を受けていたから文句は言えないわよね」

 さ、行きましょうと英理は蘭を促し、会場となっているホールへと入っていった。

 誕生パーティの会場となった純白の大型船”レダ”は、マダムクラスエが結婚しフランスから離れる時、彼女の祖父がお祝いとした贈ったものだという。

 花嫁道具の一つとしては、飛びぬけて高価なものだ。

 庶民的感覚の日本人には想像できないし、ついていけない。

(蘭・・・・・)

 ずっと入り口を見ていた少年は、ホールに入ってきた二人の女性を見つめた。

 十年たっても美貌が衰えていない法曹界の女王とその娘。

 母親の美貌を受け継いだ蘭は、ローズピンクのイブニングドレスがよく似合っていた。

 少女の頃は長い髪を下ろしていたが、今はアップにして、顔の両側だけ長く髪をたらしていた。

 反対に母親の英理は、昔は髪をアップにしていたが、今は短く切っている。

 美貌の母娘は当然ながら人の目を引く。

(すっげえ、目立つ母娘・・・下手に声かけられねえじゃねえか・・・・)

 う〜〜と新一は唸る。

 といって、声もかけず離れた所から見てるというのも来た意味がない。

 ホールには既に招待客の大半が集まっており、動き回っている従業員もいれたら中は人・人・人の状態。

 近くにいれば別だが、離れていれば蘭が新一に気づく確率はかなり低い。

 なにしろ、彼女は同じホール内に新一が来ていることを知らないのだから。

 いや、工藤新一ではない。江戸川コナンだ。

「全く・・・そんな地味な服装では彼女の目にとまりはしないぞ」

 壁の花と化してホールの隅にひっそり立っている新一に向け、呆れたように話しかけてきた男に目を細める。

 思わず腰が引けるほどど派手な男が、新一にカクテルを手渡す。

 ダークグレイの英国スーツをスマートに着こなした金髪の紳士は、ホールに現れた時から人の注目を集めまくっていた。

 どこの誰かなんてわからなくても、整った美貌は十分に関心を集める。

 招待客ではない新一が船に乗れたのはこの男のおかげだから邪険にはできないが、できればそばに寄ってほしくはない。

 女性の目がさっきからチラチラとこちらに向けられているのがわかる。

 金髪の美貌の紳士と、高校生らしい少年が一緒にいればかなり異質で好奇の目で見られるのは当然だ。

 自分だって、もしそんな二人を見れば絶対に好奇心が疼く。

「オレのこと、主催者になんて言ったんだ?」

 そこが一番気になる。

 知り合いだとしても、今回のパーティは招待客に関してはかなり厳しい規制をされている。

 あの快斗がいろいろ手を回しても承諾を受けられなかったというくらいだ。

「決まっている。今私が最も大事に思っている人だと」

 げ〜〜。

「マジでんなこと言ったのか!」

「それくらい言わないと彼女は頷かない。ただの知り合いなど、私には腐るほどいるからな」

 彼女の好奇心をそそってこそ得られる権利だ。

「絶対、オレは女だと思われているぞ」

 実は男だとわかったら、どう思われることか。

 この男がゲイだと思われるのはどうでもいいが、自分がその相手だと思われるのはぜーったいごめんだ。

 嫌そうに顔をしかめる新一を伯爵は楽しげに見つめた。

 青いブレザースーツに、野暮ったい黒縁の眼鏡をかけた少年は、できるだけ目立たないよう気配すら消してはいるが、気づけばこれほど輝いて目立つ人間はいない。

 香港の李家の館で初めて見た双子の美貌は噂に違わぬもので、彼は一目で気に入った。

 特に、双子の一方に彼は惹かれた。

 顔を合わせ話をし、そして真の姿を知った彼は、李麗花こそが、ずっと探し続けた唯一だと確信したのだ。

 だが、そんなことが彼らにわかる筈はなく、自分が唯一と思っても彼にはそうではないこともわかっている。

 アプローチをかけるたびに嫌な顔をされ、避けられているが、それもまた楽しい。

 裕福な伯爵家に生まれながら、平凡な生き方ができなかったからこそ、奇跡のような存在が彼の目に眩しく映る。

「では、この先は私も干渉しないから好きにすればいい。だが、今回のは借りだと覚えてくれたまえ」

「・・・・・何をしろと?」

「たいしたことではない。私が望んだパーティにパートナーとして出てくれればいい」

 勿論、麗花としてな、と伯爵が言うと新一はむっつりした。

 どうせそんなことだろうと思っていた。

 伯爵はクスッと笑うと優雅な仕草で新一から離れていった。

 そして、ホールに入った時から目をつけていたのだろう、美しい女性のもとへ歩み寄り話しかける。

 ドッと湧いて遠巻きに見ていた他の女性たちも集まっていったので、その空間だけが急に華やかなものとなった。

 再び一人になった新一は、蘭の様子をじっと見つめた。

 今のところ危険な兆候はない。

 まあ、ここまで厳重なチェックと警備なら船の中で何かが起こるということもないだろう。

 ふと、蘭の表情が変わったので何だ?と見ると、どうやら携帯の着信らしく慌ててバッグから取り出す様子が見えた。

 メールだったようで、蘭は画面の文字をじっと読み、ちょっと驚いたように瞳を瞬かせた。

 蘭は英理の方を向くと何かを言って、スッとホールの出口へ向かって歩き出した。

「・・・・・・・・」

 新一はもたれていた壁から、トンと離れると蘭の後を追った。

 当然ながら、出て行く蘭を見守っていた英理が新一に気づいた。

 新一は出る前に、怪訝な顔で自分を見つめる英理の方を振り返り、軽く手を上げて見せた。

 英理は、え?と不思議そうに瞳を瞬かせたが、青いブレザースーツに黒縁眼鏡を見て誰なのか思い当たったのか驚いた表情で娘の後についていく少年の後姿を見送った。

 

 

 日の暮れた港の展望台からは船の明かりが見え、キラキラと美しい光景が広がっている。

 夕方港を出た白い大型船”レダ”の明かりも遠くに見える。

 船の様子を双眼鏡で見ていた快斗は、今のところ何も起こってないのを見てゆっくりと手を下ろした。

「黒羽!」

 展望台まで上がってきた平次が、柵の前に立つ快斗の方へ駆け寄った。

「遅なってスマン」

 二十年前の放火事件の捜査資料や、と平次は抱えていた黒いカバンからファイルを出して快斗に渡す。

「もとの資料は厚さ六センチの分厚いもんやったらしいけど、時間もあらへんし重要なとこだけ要約してファックスしてくれたわ」

「サンキュー、平ちゃん」

 快斗は街灯の下でファイルをめくった。

「当時、放火の常習者だった男を捕まえ取り調べてたらしいけど、結局そいつの真犯人は見つからんかったらしい。小学生らしい子供を見たゆう目撃者もおったんやけどな」

 現場近くで、走ってきた子供に突き飛ばされたとその証言者は怒っていたのだが、まっすぐに歩けないほど泥酔し、記憶もあやふやだったのであまり重要視されなかったようだ。

「この時限発火装置・・・・・」

 ファイルに書いてあった、放火に使われた発火装置の図入り説明を見て快斗は首を傾げる。

 小学生が作るにしては、かなり凝った作りだが、高学年ともなれば授業でラジオの組み立てなどやる所もあるしそう難しいものではない。

 気になったのは。

 平次はニッと意味ありげに口端を引き上げる。

「黒羽もそれとおんなじもん、見たことあるんやろ」

「映画か・・・?」

「当たりや。三十年以上前に公開された映画やけどな。今もレンタルで人気あってよう見られてるらしい」

 オレも見たことあるけどな、と平次は言う。

 そういえば、快斗もレンタル店で借りて見たクチだ。

 主人公の若い刑事は当時人気の俳優だったが、若くして癌で亡くなり今も惜しまれているという。

 確か新一の母親、藤峰有希子が彼と共演したことがあった筈だ。

「その映画の中で放火のアリバイに使われたんが、その発火装置や」

 当時、そのことに気づいたもんもおって、週刊誌にも記事が載ったそうやけどな。

「公開当時、百万人以上が見た映画やし、放火があった頃に主役の俳優が病死したから追悼番組でテレビでも放映もされとった。つまりや、その映画を見たもんやったら、この発火装置を知ってるいうわけや」

「そんなに複雑なもんじゃないし、材料はホームセンターで買えるものだから犯人の特定は難しかったってわけか」

 指紋は?

 快斗が訊くと、平次ははぁ〜と息を吐いた。

「んなもんついてたら、捜査もちょっとは進展したんやろうけどな」

「それが子供のだったら、酔っ払いのおじさんの証言が重要なもんになってたし?」 

 そうや、と平次は頷く。

「もし・・・・ホンマにそいつが犯人やったとしたら末恐ろしい奴やったってことや」

 なんしろ、当時小学生やったんやから。

「・・・・・・・・」

 会話が途切れシン・・・となった中、携帯の着信音が突然音高く鳴り響いた。

 今二人がいる展望台は日が暮れると立ち寄る人間はあまりないらしく、まわりを見ても人影はなかった。

「周りが静かやと、ホンマにデカく聞こえるわ。心臓に悪いったらあらへん」

 平次はぶつぶつ言いながらベルトにつけていたケースから携帯電話をつかみ取る。

「おう、オレや。奴を見つけたか?・・・えっ?」

 なんやとお!

 平次は大きく目を剥いた。

「ホンマに港におったんか!間違いないんやろな!・・・はあ?どこの制服着とるって?船ん中に持ってったって、何をや!?」

「・・・・・・!」

 捕まえい!今すぐとっ捕まえて吐かせるんや!

 

 

 ブリッジから連絡を受けた警備員二人が、まわりを確認しながら客用船室のあるフロアへと降りていった。

 甲板に続くホールでは今、船の持ち主であるマダムクラスエの誕生パーティの真っ最中だ。

 ホールの下には、長期の航海も可能な船室が二十五あり、視聴覚室やカジノも完備している。

 今回は海上でのパーティのみなので船室が使われる予定はない。

 彼らが向かっているのは客用船室のあるフロアのさらに一階下のフロアだった。

 そこには食料や船旅に必要な雑貨などを収納する広い部屋が三つある。

 つい先ほど荷を運び込んだ会社から、指定された倉庫とは違う部屋にいくつかの荷が間違って置かれたようだという連絡が入り、彼らが確かめに降りたのだが。

「なんか、やたら数が多かったが、いったいなんの荷なんだ?」

「あれは来月神戸で行なわれる港フェスティバルで使われる花火だそうだ」

「花火!そんな危険なもんを船に積んだのか!」

「火の気さえなければ爆発はしないさ」

 船の中は勿論火気厳禁で、煙草も船内では吸うことを禁じている。

 吸えるのは甲板の上だけだ。

 それも指定された場所以外は禁止になっていた。

「とはいえ、固定もせずに置いたというのは問題だ」

 今は波が穏やかだからいいが。

 揺れて荷が破損したら、中身が火薬なだけに危険だ。

 間違って入れたという船室の前まで来た警備員の一人がドアを開けたその時、閃光が走ってドアが壁ごと吹き飛んだ。

 

 ホールから甲板に出た蘭は、船尾に向かって歩いていた。

 船の明かりで足元が見えるが、影になってる部分は見えにくく、コンと蘭は足先を何かにぶつけた。

 なんだろう?と下を見ると、厚さ三センチほどの四角い板だった。

 何かの蓋のようにも見えるが。

「危ないなあ。躓いて転んだら怪我しちゃう」

 なんなのかはわからないが、後で船の人に言っておこうと蘭は思う。

(それより、いったいどうしたんだろう、園子)

 鈴木財閥の娘ということで、園子も今夜のパーティに招待されていたが、彼女は参加しないと言っていたのに。

 あたし、マダムクラスエって好きじゃないのよねえと園子は出ない理由を蘭に喋った。

 園子自身にではないが、彼女の知人がマダムクラスエに強烈な嫌味を言われているのを目撃し一気に印象が悪くなったのだという。

 だが、何故かギリギリで船に乗ったらしい。

 で、さっき蘭が依頼を受けた高校の時の後輩、美那子の夫のことで話したいことがあるというメールを送ってきたのだが。

 誰にも知られず二人で話したいということは、園子の方にも何かあったということだろうか。

 そもそも、最初に美那子から相談を受けたのは園子だった。

 正義感の強い彼女はかなり憤慨し、必ず力になるからと美那子に言ったらしい。

 園子から連絡を受け、蘭は美那子に会い依頼を受けることになったのだ。

「園子?どこ?」

 まわりを見回しながら自分を待っているだろう園子を探していた蘭は、ふいにガクンと身体のバランスをくずした。

 キャッ!と蘭は悲鳴を上げた。

 甲板に広げ置いてあったシートに右足を乗せた途端、ズボッと下に抜けたのだ。

「蘭!」

 後ろにいた新一が、前につんのめって倒れこむ寸前に手を伸ばし彼女の腕を掴んだ。

 爆発はその瞬間起こった。

 

 

「なんやっ!」

「・・・・・・・!!」

 展望台に立っていた二人は突然の爆発音にギョッとなった。

 振り返ると、暗い海に炎が赤々と浮き上がっていた。

 続いて赤や白、黄色の火柱が次々と上がっては弧を描いて海へと降り注ぐ。

「花火か?」

 平次は驚いたように目を瞬かせる。

 双眼鏡で船の状態を見ていた快斗の表情が厳しい。

「どうなってる、黒羽?」

「船尾の半ばあたりから火が出てる。パーティ参加者は全員上のホールにいるだろうから心配はいらないだろうけど」

 爆発したのは船室のあるあたりか?

 火は出てるが、爆発音はもう聞こえない。

「あの船、花火なんか積んどったんか」

 平次の携帯が鳴る。

「捕まえたかっ?で、どうや?吐いたか?」

 なにぃ!なんも言いよらんって・・・ぶん殴ってでも吐かせろや!

 うがあ〜〜と平次は喚いて頭をかきむしる。

 おそらく、そこまではできないとでも言われたのだろう。

 電話の相手が誰かはわからないが、警察関係者であることは確かであるから、被疑者とはいえぶん殴るなどできないのは当然だ。

「今どこや?・・・・わかった!そっち行くからそいつ逃がすんやないぞ!」

 通話を切った平次は、海の方を見ている快斗に話しかけた。

「もう事故連絡が行っとるやろうからすぐに海保が動く筈や。おまえも一緒に来るか、黒羽」

 快斗はゆっくりと平次を振り返った。

 手に持っていた双眼鏡を平次に向けて投げる。

 なんや?と平次は投げられた双眼鏡を受けとめ、快斗を見た。

「そっちは平ちゃんにまかせるよ。オレは」

 新一を迎えにいく、と快斗が答えると純白のベールが平次の視界に広がった。

 バサッと音をたてて広がった白い翼。

 フワリと白い大きな鳥が、暗い海に向かって飛んでいった。

「見逃せ・・・か」

 あたりを見回して、目撃者となるような人間が誰もいないことを確かめてから平次は、ハァ・・・と息を吐く。

「ま、見られてへんし、ええか」

 

 

 突然の爆発音と衝撃に船内は大騒ぎになったが、幸い招待客には転んだ怪我や割れた食器による怪我くらいですんでいた。

 船の損傷も沈むほどではなく安定していたが、爆発したのが花火だとわかり、しかも警備員二人が大怪我を負ったので招待客やスタッフの女性だけ先に救命ボートで港に戻ることになった。

 後は海保が船に乗り込んで船内の状況を確認し二次災害を防ぐことになる。

 甲板は不安な表情でまわりを確かめたり、携帯で話をしたりする人々が溢れていた。

 海上に落とされた救命ボートには救命胴衣をつけた招待客たちが次々と乗り込んでいく。

「らーん!」

 英理は娘の姿を探して甲板を歩いたが、彼女を見つけることができなかった。

 先に甲板に出ていたなら、もうボートに乗ってる可能性があるとスタッフにも言われたが。

 爆発が起こったのは、蘭がホールを出て間もなくだった。

 英理は見送った娘の後ろ姿と、彼女を追うように出て行った少年の姿を思い浮かべる。

 自分に向けて手を上げてみせたあの少年は、間違いなく”あの子”だった。

 江戸川コナン。

 英理の夫である毛利小五郎のもとに預けられていた子供。

 有希子の親戚の子供だという話だったが。

 幼く愛らしい見かけにかかわらず、頭が良くて行動力のある子供だった。

 何度も蘭はあの子に、それこそ命を助けられたと言っていた。

 そう・・・あの子がついていれば、と英理は思う。

 蘭に何かあったとしても、きっとあの子が助けてくれている。

 そう確信があった。

 それにしても、と英理はくすっと笑う。

(大きくなったわね、あの子)

 海外にいる両親のもとに戻ったのが十年前。

 今は十七・・・高校生か。大きくなってて当たり前よね。

 

 

 足元の床が抜けたかのようにガクン前に身体が傾き、浮遊感を覚えた。

 まさか穴の上にシートがかぶさっているとは思わなかった。

 明るい昼であれば踏むことはなかっただろう。

 足元もはっきりしない暗さであったから油断した。

 落ちる!

 スーッと血の気が引き、心臓が引き絞られるような気がした。

 深さがどのくらいあるのかわからないから、余計に焦る。

 高いビルの屋上から落下したような恐怖を覚えた。

 と、蘭!と誰かが自分を呼ぶ声が聞こえ、続いて誰かの手が腕を捕まえる。

 あの時、船が振動しなければその手に支えられて落ちなかったかもしれない。

 だが、突然起こった爆発音と振動が支えるはずの足元を不安定な状況にした。

 蘭は悲鳴をあげ、堅く目を閉じた。

 彼女の腕を掴んだ誰かは、共に落下しながらもう一方の腕を背に回し引き寄せた。

 抱かれた腕の温かさを感じ目を開けようとした蘭は、激しい衝撃を身体に感じ意識を飛ばした。

 どのくらい意識がなかったのかわからないが、そんなに長くではなかったと思う。

 衝撃を感じたが、それほど強いものではなかったし。

 まだぼんやりとした感じだったが、うっすら瞳を開けるとホッとしたような声が頭の上からした。

「気がついた?どっか痛いとこある?」

 心配そうな、どこか掠れたような声。

 落ちた場所は真っ暗ではなく、赤いランプがいくつかついていたので蘭は自分を上から覗き込むようにして見ている人物の顔を見ることができた。

(・・・え?)

 心配そうに見つめてくるその顔は。

 ええぇぇぇっ!?

「新一!」

 身体を起こそうとして膝をついた途端痛みが走り蘭は顔をしかめた。

 落ちた時に右膝を打ったらしい。

 左足は大丈夫だ。

「右足?あ、ちょっと腫れてるかな、膝」

 しかし、触れた感じでは折れてはいないようだ。

「新一・・・・・」

 蘭の身体を抱きとめていた少年は苦い笑いを浮かべる。

「違うよ。蘭・・・ねーちゃん」

 蘭は瞳を瞠った。

「まさか・・・コナンくん!?」

 うん、と彼は頷く。

「やだ、ホントに?」

 眼鏡壊れちゃったけど、とフレームが曲がりレンズにヒビの入っている眼鏡を彼はかけてみせる。

 蘭は見開いた瞳を瞬かせた。

「本当にコナンくんなのね」

 驚いた。

 蘭の記憶には江戸川コナンは今も小学生の姿だから驚くのは無理はない。

「もう・・・十年たつんだものね」

 そう、いつまでも子供のままでいるわけはないのだ。

 子供は成長し大人になっていく。

「そうよね。歩美ちゃんたちも大きくなってるんだものね」

 コナンくんだけ子供のままなんて有り得るわけない。

 それにしても・・・と蘭は目の前の顔を懐かしそうに見つめた。

「コナンくんって、新一の子供の頃にそっくりだって思ってたけど」

 成長したらほんとに新一と瓜二つだ。同じ年なら双子と言っていいほどに。

「・・・・・・・っ」

 ふいに漏れた低い呻き声と顔をしかめる彼に、蘭はハッとなって身を引いた。

「コナンくん、怪我してるの!胸?まさか、折れたんじゃ?」

「あ・・・大丈夫だよ。ちょっと打っただけだから。心配しないで」

「もしかして・・・わたしを庇ったから」

 そうだ。そうでなければ自分はもっとひどい怪我を負っていた筈だ。

 落下し穴の底にたたきつけられる前に、彼が下敷きになって庇ってくれたのだ。

「・・・ごめんね。わたしが不注意だったから」

 泣きそうな顔で蘭は少年に謝った。

 会いたいとは思っていたが、こんな再会はひどすぎる。

「蘭・・・ねーちゃんのせいじゃないよ。この状況は仕組まれたものだから」

「え?」

「ここは多分倉庫・・・上から荷を下ろして、取り出すのはそこの扉」

 言われて初めて背後のドアの存在に気づいた蘭は、傷む足を引きずりながらドアの前までいって取っ手を掴んだ。

 だが、押しても引いてもドアはビクとも動かなかった。

「駄目!外から鍵がかかってるわ!」

 誰か!誰かいないの!

 蘭はドアを叩いたが、誰かがやってくる気配はなかった。

「今日は荷物が何も入ってないけど、どっちにしても蓋が開いたままっていうのはおかしいよね」

 それに、蓋のかわりにシートが被せてあったなんて、作為が働いてるとしか思えない。

「まさか・・・わたしを落とすためだって言うの!?」

 そんな・・・・え?でも、じゃあ園子からのメールは。

 蘭は携帯を確かめようとしたが、落下の時にバッグを落としてしまったらしい。

 見回してもバッグが見当たらないということは、甲板の上かもしれない。

「メールは間違いなく園子の携帯からだったわ」

「じゃあ、犯人が携帯を手に入れて蘭・・ねーちゃんにメールしたのかもしれないね」

「犯人って・・・・・」

 あの男なんだろうか。

「・・・・・・・・」

 つ・・・と痛みに呻き胸を押さえて前屈みになった少年に、蘭は慌てて駆け戻る。

「コナンくん!」

「上着・・・のポケットに携帯が・・・・」

 蘭はわかったと頷くと、ポケットを探って青い携帯電話を取り出した。

「園子・・・ねーちゃんに電話してみて」

「う、うん」

 まだ犯人が携帯電話を持っている可能性はあるが、園子の安否を知ることができるかもしれない。

 蘭は園子の携帯の番号を指で押す。

 呼び出し音がかなり長く聞こえた。心臓がドキドキと早鐘を打つ。

(園子・・・お願い、無事でいて・・・!)

『はい』

 出てきた相手の声が男の声だったので、蘭はぐっと息をつめた。

 あの男の声かどうかはわからなかったが、園子の携帯が別の人物の手にあることは間違いなかった。

『誰や?』

 え?関西弁?

「もしかして・・・・服部くん?」

 相手はえっ?と言って、僅かな沈黙が流れた。

『ちょー・・・ネーちゃんなんか?なんでこの携帯にかけてくんねん?』

「わたし、園子の携帯にかけたのよ。園子は!?」

『園子って、鈴木財閥のお嬢さんかいな。ここにはおれへんで。この携帯は船に発火装置仕掛けたアホが持ってたんや』

「まさかそれって・・・」

『そや。ネーちゃんの依頼人が離婚したがってる旦那や。そいつ、今捕まえて締め上げてるとこやけど、今どこおんねん?まだ船ん中おんのか?』

「知ってるんだ、服部くん。うん、まだ船の中なんだけど」

 と、ふいに平次と話していた蘭の方に手が伸びてきて携帯を取られる。

「服部?」

『工藤か!やっぱネーちゃんと一緒におったんやな。大丈夫か?』

「ああ、心配ねーよ。今船室にいて状況がわかんねーんだけど、どうなってるかわかるか?」

『爆発は一度だけやったようやな。火が出たのは見たけど、沈没するほどの損傷やなかったわ。とっ捕まえたこいつを締め上げるため離れたから、今現在の船の様子はわからへんねやけど・・・・って、工藤、なんで船室におるん?普通はみんな甲板に誘導されるやろ』

「気にすんな。甲板から下の倉庫に落っこちただけだから」

『な・・なっにぃぃ〜〜!おまえ、そないなことへろっと言いなや!怪我は!』

「蘭が足痛めた」

『おまえはどうやねん?』

「オレは平気だ」

 う〜〜と平次は唸る。

 新一の平気だは絶対に信用できないことを平次は長年のつきあいで学んでいる。

 おそらく、足を痛めたという毛利蘭よりも重傷だろう。

 彼女から携帯を取って換わったのは、自分の状況を言わせないために違いない。

『黒羽がおまえ迎えに行く言うて飛んでったわ。沈む心配はないし、おとなしくネーちゃんと待っとき』

 通話を切ってフッっと息を吐き出した、自分の顔をじっと見つめる蘭に気付き首をかしげた。

「なに?」

「新一。新一なんでしょ?」

「なんで?オレは」

「もう嘘をつかないで!」

 これ、と蘭は小さな巾着袋を手のひらにのせて新一に見せた。

 新一は、あ・・・という顔でその巾着袋を見つめる。

「さっき、ドアの方に行く時に見つけたの。これ、わたしが新一にあげたお守り袋だよ。いなくなる前までずっと新一が持ってたのをわたし知ってる。これ、落としたのはコナンくんだよね」

「・・・・・・・・」

「やっぱり・・・やっぱり、コナンくんが新一だったのね」

「違う!」

「違わない!だったら何故このお守りを持ってるの!」

 それに・・・と蘭は顔を歪めてじっと新一の顔を見つめた。

「わたしが新一を見間違えると思うの?何故わたしがずっとコナンくんを新一だと疑ってたかわかる?顔が似てたってからだけじゃない。コナンくんの中に新一がいたからだよ」

 小さな頃からずっと一緒で、ずっとずっと好きだったから。

 わたしにとっては、一番近い存在だったから。

「・・・・・・」

 新一は俯いたまま黙り込み、蘭はじっと彼からの答えを待つ。

 もう騙されない。彼は江戸川コナンだけど、工藤新一なのだ。

 新一は俯いたままため息をついた。

「新一?」

「・・・・・蘭」

「新一なのね?」

 ああ、と新一は頷く。

「けど、コナンじゃねえよ。おまえに会いたくて、コナンの振りをしただけだ」

「え?だって・・・・」

 どう見ても目の前の新一は自分と同じ二十七歳の男には見えない。

 コナンが成長した姿というのならわかるが、違うというなら成長が止まってるということになる。

 そんなバカなことが。

「蘭・・・・」

 新一は顔を上げた。

「おまえの言うとおり、オレは工藤新一さ。けど、もうオレはおまえが知ってる工藤新一じゃない」

「新一?」

「オレ、八歳の頃半年ほどいなかったのを覚えてるか?」

「え、ああ・・・確か二学期に入ってすぐにアメリカに行くって」

「アメリカには行ってない。日本にいたんだ。もう、オレの身体はもたなかったから、異常がわかる前に親がオレを隠したんだ」

「もたないって、なんなのそれ?」

「オレは八歳の時に発症した病気で身体ん中がボロボロになってたんだよ」

 嘘!と蘭は叫ぶ。

 だって、新一はあの頃からサッカーボールを蹴って走り回っていたではないか。

 病気だったなんて信じられない。

「特殊な病気でさ、当時の医学では治すことが不可能で」

 もっとも、今だって無理なんだけどさ。

 そしてオレは八歳の時、一度死んだ。

「・・・・・・!」

 蘭は驚きに瞳を瞠り、口元に手を当てた。

 信じられない。信じられるわけがない!

「いや、オレもさあ、よくは覚えてねえの」

 新一は苦笑を浮かべて笑う。

「そのこと聞いたのは、副作用が出始めた高校生の頃だし」

「副作用って?」

「極秘で研究されてた新薬を試したんだよな。勿論臨床実験もまだで非合法なやつ」

 けど、親はオレが助かるならなんだって構わないってんで試したんだ。

 ほら、あの二人だからと新一は首をすくめる。

「治療は効いてオレの命は繋がったけど、十五を過ぎた辺りから副作用が出始めた。目に見えて影響がでてきたのは十七を過ぎた頃かな」

「・・・・・・・」

 新一が自分の前から姿を消した頃だと蘭は思い出す。

 新一は事件で帰れないと言っていたが。

 あの頃、どうして新一が自分のもとへ帰ってこないのか不安で、もしかしたらコナンくんが新一じゃないかと何度も疑ったりもした。

 今もそうだと思った。

「副作用って、いったいどんなの?」

「・・・・見てわかんだろ。成長しねえんだよ」

「・・・・・・・」

「と言っても、成長が止まったわけじゃねえけどさ」

 老化がゆっくりなんだと新一は言う。

 普通の人間の一年が老化の遅い自分には十日にもならない。

 下手したら、たった一年の成長に二十年はかかっちまう。

「この状態がいつまで続くかわからない。もしかしたら、突然老化が早まる可能性がないとも言えねえし・・・前例がねえからなんとも言えねえんだよ」

「新一を治療した人は!?その薬を作った人はなんて言ってるの?」

 あ、そいつ行方不明、と新一はハ・・と笑った。

「全く無責任にもほどがあるけどさ。でも、そいつが作った薬がなければ、オレは八歳で死んでたわけだから」

「新一・・・・・」

「だから、おめーの前から・・・いや、オレを知る全ての人間の前から消えることにしたんだ。丁度、普通でいられる時期が限界にきてたから」

 蘭、おまえも変に思ってたんじゃねえの?

 訊かれて蘭は言葉を飲み込んだ。

 確かに大学に入ってから新一が殆ど変わってないことは気付いていた。

 もうちょっと身長が欲しかったのにというグチを聞いたし、蘭ももう少し太った方がいいねと新一に言ったこともある。

 普段は子供じみていたりするのに、事件にかかわる時は大人びていた新一。

 だからなのか、高校の時から全く成長してないなんて思いもしなかった。

 だが、確かに二十歳が限界だったのかもしれない。

「もう二度と会うことはできねえって諦めてたけどさあ、コナンの存在を思い出して。今なら、江戸川コナンでおめーに会えるんじゃないかって」

「じゃ、コナンくんは?」

「あいつもこっち来たけど、都合でもう日本を出た。少年探偵団の面々とは会ったみたいだけどな」

「そう・・・」

 バカね、新一・・・・

 話し終えた新一は瞳を閉じると、長く息を吐き出した。

 痛みが走ったのか、眉がしかめられる。

「新一!」

「心配・・・ねえよ。アバラやっちまったみてえだけど、バッキリじゃねえから」

 おめーはどうなんだ?と問われ蘭は首を振りながら大丈夫と答えた。

 痛みはあるが、鍛えているからこんなのはどうということはない。

「新一はずっと一人でそんな身体を抱えて生きていくの?」

「・・・・・」

「わたし、ずっと新一のそばにいてもいいよ」

 ううん、いたい!と蘭は言う。

 ずっと黙ってた新一に腹が立つというより、気づかなかった自分に腹が立つ。

 あんなに近くにいたのに。

 新一は、フッと笑う。

「さんきゅーな、蘭・・・けど、おめーはオレに関わんねえ方がいい。オレが消えることにしたのはな、もっとヤバいことがあるからなんだ」

「何?」

「オレにとってはこいつは副作用だけど、そうは思わねえ連中が世の中にはいるってことさ」

 蘭はすぐに新一の言ってる意味を悟った。

「まさか・・・薬を作った人が行方不明って・・・・」

「そ、逃げてんだよ、そいつらから」

 もっとも、喰えねえ根性悪なやつだから、悲壮感はゼロだけどな。

 ちょっかいかけた奴等はみんな返り討ちにあってるし、と新一は笑った。

 それにな、と新一は心配そうに自分を見る蘭に言った。

「副作用を抱えてんのはオレだけじゃない」

 なあ?と新一の視線が蘭の背後に向けられた。

 はっとして振り返った蘭の目に、舞い降りてくる白い大きな鳥の姿が映る。

 え・・ええぇぇぇ〜っ!

「怪盗キッド!?」

 ここ数年名前を聞かなくなった稀代の怪盗の姿に蘭は声を失うくらい驚いた。

 なんでここに怪盗キッドが!

 出会ったのは蘭がまだ高校生の頃。

 怪盗は親友の園子の憧れの王子さまであった。

 新一はニヤリと笑う。

「やっと来たのかよ、快斗」

 え?と蘭は瞳を瞬かせ、新一を、そして音もなく着地したキッドを見つめた。

「・・・・・・」

 キッドはしばらく黙って二人を見ていたが、小さく息を吐くとニコリと蘭に笑いかけた。

「久しぶり、蘭ちゃん」

「く・・・黒羽くん?」

「うん」

 キッドの格好をした黒羽快斗が、ゆっくりと二人の方へ歩み寄ってきた。

「・・・・遅いじゃねえかよ」

「ごめん、新一。避難が始まっててそこかしこにライトがついてるからさあ、大回りしてきた」

 快斗は屈みこんで新一の状態を確かめる。

「肋骨にヒビが入ってる?」

 多分な・・・と新一は顔をしかめ息を吐く。

 呼吸がしにくい。息をするたびに、痛みが走る。

「蘭ちゃんは打撲だね。骨は心配ないみたい」

 快斗は蘭の膝の具合を確かめ、そう診断を下す。

「ホントに黒羽くんなの?」

「そうだよ」

 蘭は瞳を瞠りながら、十年前と全く変わらない黒羽快斗の顔を見つめた。

「生きてたのね」

「快斗もオレとおんなじ薬を服用したんだ」

「オレの場合は単にデータ取るための臨床実験だったみたいだけどね。オレって身体だけは強いからさ」

「快斗・・・・」

「実験って・・・いったいなんなのよ、それ!」

 根性悪の科学者だからさあ、と快斗は新一と同じことを言った。

 本当にサイテーの科学者のようだ。

 彼もやはり新一と同じ理由で姿を消したのだろうが、でも死んだと思い込んで毎月お墓参りしている青子ちゃんはどうなるのだ。

「黒羽くんが怪盗キッドだったの?」

 うん、そうと頷く快斗を殴ってやりたいと蘭は思った。

 騙されていた青子ちゃんもだが、正体を知らず、ずっとキッドを追いかけていた中森警部が気の毒すぎる。

 だが、それには蘭にはわからない事情があるのだろう。

「んじゃまあ、こっから脱出しようか」

「快斗、蘭を先に連れて上がれ」

 駄目よ!と蘭は叫ぶ。

「大怪我してるのは新一の方なんだから!黒羽くん、早く新一を病院へ!」

「蘭、オレは病院に行く必要はないから」

「どうしてよ!新一は肋骨にヒビが入ってるのよ!」

「・・・・・」

 黙り込んだ二人の顔を、蘭は困惑の表情で見つめる。

「ど・・うして?」

 どうしてなの、新一・・・?

 蘭は新一の腕を抱きしめるように両手で掴んだ。

 細い腕。別れたあの日と全く変わらない新一に蘭は悲しくなった。

 ずっと安否を気にして、会いたいと願っていたのに、やっぱり新一は遠い。

「彼女は私が連れて行こう」

 鍵がかけられていたはずの扉がふいに開いて、金髪の男が入ってきた。

「伯爵!」

 なんで?と問う美しい少年たちに向けて伯爵は笑みを浮かべた。

「この私が大切な者から目を離すと思ったか?」

 暗にずっと新一の動向を見ていたという男の台詞に新一は眉間を寄せる。

 この男がすんなりここへ来たというなら、新一と蘭が甲板からこの倉庫に落下したのを見ていたということだ。

 そして、快斗が来ることも見通していたに違いない。

 入ってくるタイミングも計っていたかのようで、少年たちにはあまり気分のいいものではなかった。

 伯爵が足を痛めた蘭を腕に抱き上げた。

「新一・・・・」

「じゃあな、蘭」

 離れる寸前に二人の指先が触れ合った。

「また、会えるよね、新一」

 ああ、と新一は頷く。

 黒羽くんも、と蘭の視線が新一から快斗に移る。

 またね、蘭ちゃんvと快斗は彼らしい笑顔を見せて手を振った。

 快斗は怪我をしている新一の負担が少ないよう抱きかかえると、ベルトのスイッチを押した。

 暗いので気づかなかったが、キッドの背中側に装着したベルトから細いワイヤーが伸びていた。

 その細いワイヤーは、スイッチが押されたと同時にスーッっと巻き上がり新一を抱えた白い怪盗の身体を引き上げていった。

 蘭を抱えた伯爵も、それを見送ると開いた扉から通路に出た。

 そして、誰もいなくなると扉は低い音をたてながら閉じていった。

 

「なんや、バレちまったんかい」

「新一が蘭ちゃんからもらった手作りのお守りを持ってたからさあ」

 ああ、まあ・・・そりゃしゃーないなと平次はうんうんと頷く。

 新一を抱えた快斗は、甲板を越え上空に待機状態だったハンググライダーまで戻り、そのまま船上空から離脱した。

 現場が暗かったことと、ライトが脱出のためボートに乗り込んでいる中央部分に集中していたため、反対側船尾に気づく者は誰もいなかった。

 離脱した後、マスコミのヘリが飛んできたので、まあ時間差だったが。

「幼馴染みの女の子からもろたもんって、そう離せないもんやもんな」

 平次も幼馴染みである和葉からもらったお守り袋を、彼女が結婚した今も手放せないでいる。

 中に入ってる鎖もそのままだ。

 服部、とベッドに横になった新一が呼ぶと立っていた彼は、ん?と腰を屈めた。

「なんで結婚しなかったんだよ」

「和葉とか。う〜ん、なんでやろ・・・やっぱ、近すぎたせいかもしれへんわ。ガキの頃から兄妹のようにずっと一緒やったしな。まあ腐れ縁みたいなもんになっとったんかも」

「結局、思い切るだけの覚悟がなかったんじゃねーのか」

「ああ〜、そりゃキツイわ工藤」

 平次は顔をしかめ自分の頭を撫でた。

 まあ、半分はそうなんやろうけどな、と平次はグチる。

「後悔してんの、平ちゃん?」

 さっさとコクっておけばさあ、今頃はおしどり夫婦だったかも。

「後悔はしとらんわ」

 ふ〜ん、と快斗はベッドの端に座って新一の様子を確かめる。

「痛みはどう、新一?」

「平気だ。明日には治る」

 ええ体質や、と平次は肩をすくめた。

 肋骨にヒビが入ってるのに、一日で完治というのは羨ましい話だ。

 だが、その代償は大きいかもしれないが。

「服部・・・犯人はどうした」

「勿論、警察の手に引き渡したわ」

 これから、こってり締め上げてやるわ、と平次は指を鳴らしながら口端を引き上げた。

「鬼の平次の恐ろしさ、たっぷり思い知らせてやるでぇ!」

 ガハハハと声を上げて笑う平次を、新一と快斗は苦笑しながら眺めた。

 やっぱり、人の十年は面白い。

 

 蘭は病院で治療を受けた後、母親のマンションで休養をしていた。

 軽い打撲ということだったが、二〜三日安静にするように医者に言われたので、英理がそばにいることにしたのだ。

 美那子の夫が逮捕されたことは服部平次から聞いた。

 二十年前の事件は既に時効だが、今回の事件に繋がるものだからと調査するとのことだった。

 若いが凄腕と言われている彼だから、きっと真相をハッキリさせてくれるだろう。

 美那子も、これであの男と離婚することができる。

 はぁっとベッドに横になっていた蘭は、枕元においていた携帯が鳴り出したので手に取ると身体をおこした。

 枕を背中に当てて座り、携帯を耳に当てる。

「青子さん?」

『蘭さん、怪我したって聞いたから。大丈夫?』

「うん、ありがとう。足、ちょっと打っただけでたいしたことないの」

『そう、良かった!テレビでもニュースやってたよ。蘭さん、あの船に乗ってたんでしょ?』

「ええ、母と。なんか、わたしも事件体質みたい。新一のこと、言えないね」

 蘭はそう言って笑う。

『蘭さん、ほんとに工藤くんと繋がってるんだね。あのね、蘭さん。青子、ゆうべ快斗に会ったの』

「え?」

 会ったと言っても夢なんだけどね、と青子は苦笑する。

『霊体でもいいから会いに来い!って青子思ってたんだけど、もしかしたら、アレ、そうなのかもしれない』

 だって快斗、高校生のままに見えたもんと青子は言った。

『なんか、すごく懐かしくて。わたしも高校生の頃に戻ってる気がしちゃった。ゆうべね、子供が熱出しちゃって、すっごく大変だったの。で、明け方近くにやっと熱下がってホッとしてうとうとしてたら、快斗が子供の頭を撫でてたの』

 可愛いねって。

『快斗ね、ずっと青子のこと見守ってるから幸せになるんだよって』

 青子、嬉しかったけど、快斗やっぱり死んだんだって思った。

「青子さん・・・・・」

『夢の中の快斗がね、青子がヘコんでたらカツ入れに来るからって言うの』

 青子、そんな弱虫じゃないのに、と彼女は小さく笑う。

『ごめんね、変な話して。なんか蘭さんには話しておきたくて』

「いいのよ、青子さん。わたしもね、ゆうべ新一に会ったの」

『えっ?ホント!』

「でも、高校生の時の新一だった。怪我したわたしのそばにずっといてくれたの」

『あ・・・そうなんだ。うん・・・良かったね、蘭さん』

「青子さんも」

『うんvあ、子供落ち着いたし、明日お見舞いに行くから』

「ありがとう。子供さん、お大事にね」

 蘭は通話を切ると、ベッドに座ったまま窓の方に顔を向けた。

 青い・・・新一の瞳のように青い空が窓の外一杯に広がっていた。

 


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