上々の天気。

 空は抜けるように青く、風も爽やか。

 ホテルに荷物を置いて外に出た少年は、ガイドブックを時折見ながら屋台を覗き込んだり、食べ物を買って歩きながら食べていた。

 ほとんど夜店を回って買い食いする子供と同じである。

 もっとも、今少年がいるのは日本ではなく、広東語が飛び交う香港という街であったが。

 さすがに同じ東洋人ということもあって、歩いている人々の顔立ちは日本人とあまり変わらない。

 賑やかに露店の前で喋ってるおばちゃん達も、日本でよく見かける光景だったりする。

 香港は英国領だっただけに、英語が喋れれば一人で歩いても不便はないが、少年は明らかに観光旅行者風でありながら、流暢な広東語を話した。

 途中、フランス語しか話せない迷子の観光客に出会った少年は、驚いたことにフランス語で道を教えていた。

 まだ16・7才の少年。

 癖っ毛の黒髪に、大きな明るい色をした瞳。

 肌は白い方で、あまり陽に焼けてなく滑らかで、顔立ちはまるで人形のように整っていた。

 はっきり言って、誰が見ても美少年だ。

 しかし、綺麗なだけのお人形ではない。

 時折青紫に見えるその大きな瞳は、くるくるといたずらっ子のようによく動く。

 赤い唇には、ずっと楽しそうな笑みが浮かべられていて、まだまだ無邪気な子供という印象を受ける少年だった。

 言葉に不自由がないためか、少年は誰にでも気軽に話しかける。

「あれ??」

 ふと少年はずっと持っていたはずのものがなくなっていることに気づき、立ち止まってキョロキョロと周りを見回した。

 と、そこへ長身の男が近づいてくる。

「探し物はこれかな?」

 男が少年に差し出したのは、さっきまで持っていたガイドブック。

 日本で買ったものなので、当然日本語で書かれており、タイトルに食べ歩きベスト50などと書かれている。

「あ、それー!」

 少年は嬉しそうに男からガイドブックを受け取った。

「良かった〜〜これがなかったら、うまいもん食べに行けないとこだった!」

 少年は拾ってくれた青年に満面の笑みを浮かべて礼を言った。

「丁度、君がそれを落とすのを見てね。君は日本人?」

「そうだけど・・・お兄さんは違うよね?」

 男はずっと日本語を話しているが、イントネーションが少し日本人とは違う気がするのだ。

「ああ、やっぱりわかるかな」

 男は苦笑する。

「仕事の関係から日本人と商談することがよくあるんで日本語を習ったんだが、やはり発音がまだまだかな」

「うん、そうだね。でも、かなりうまいよ、お兄さん」

 スーツをスマートに着こなしたビジネスマンといった印象の男。

 30代前半といったところか。

 日本なら、快斗くらいの高校生が”おじさん”と呼ぶ年齢だが、整ったハンサムな顔立ちは、かなり若々しく見えるので、お兄さんと呼んでもおかしくはない。

「君はこの街に慣れてるのかい?」

「香港は初めてだよ。だからガイドブックがないと困るんだ」

 初めて・・・

 男はびっくりする。

「それで一人で歩いているのか。君は高校生?」

「うん、そう」

「連れはいないのか?」

「いないよ。香港には一人できたから。日本で知り合った人に招待されたんだ」

「招待された・・・ということは、ここの住人か」

 聞かれた少年は素直にコクンと頷く。

 初めて会ったばかりで、まだ名前も名乗りあっていない相手に、少年は無邪気なほど警戒心がない。

 この人懐こさは少年の性格か。

 そういえば、この少年は広東語を喋っていた。

 住民や観光客でごったがえしている中、少年は石ころの中に混じった宝石か、砂の中の金のように目だっていた。

 その容姿と生命力の輝きが人の目を引くのだ。

 男が少年の姿を初めてその目に捉えた時、彼は露店の主人と広東語で喋っていた。

 中国人といっていいほど流暢な喋り方で、時々ガイドブックらしい本を見ながら歩いているのを見て、台湾からの観光客かと思った。

 だが、少年が落としたガイドブックは日本語だった。

「君は広東語が達者だが、日本で習ったのか」

「習ったんじゃなく独学。一時期、香港映画にハマっちゃってさ。字幕なしでもわかるように勉強したんだ」

「独学で覚えたのか。それはすごいな」

「へへ。オレって結構ハマると凝る方なんだ」

 とにかく、ありがとうと少年は男にもう一度ペコリと頭を下げると踵を返した。

「ああ、ちょっと君。美味しい料理を食べたいなら、いい店を知ってるんだが」

 え、どこ?と少年はガイドブックに目を落とす。

 その子供っぽい仕草に、男は苦笑を浮かべた。

「多分、そのガイドブックには載っていないと思うが。丁度ランチの時間だし案内しようか」

「ほんと?ラッキーvこの本にもさあ、まず地元の人間からお勧めを聞くのが一番だって書いてあったんだ」

 ビジネスマンなら、商談でレストランを利用することもあるから、かなり期待できる。

 少年は嬉しそうに笑うと、まだ名前も知らない男についていった。

 

 

 香港でも指折りの高級ホテルの中に入っているレストランから、夕闇に包まれようとしている街が見える。

 男は窓からそれを眺めていた少年の肩に手をかけ自分の方に向かせると、ゆっくりと少年の赤い唇に口付けた。

 少年は驚きもせず、しかも男からの口付けに抵抗をみせることなく受け入れた。

 男はそれを意外だとは思わなかった。

 これほど魅力のある美少年だ。

 誰の目にも止まらないことなどある筈はなかった。

「いつまで香港にいるんだい?」

「学校を休んできてるから、明日の昼には帰るんだ」

 ほんとは、もっとゆっくり遊んでいきたかったんだけど、どうしても受けなきゃいけないテストがあるのだと少年は言った。

「残念だな。このまま、君と夜景を楽しみたかったんだが」

「料理、美味しかったよvお兄さん、スゴイ人だったんだね。こんな高級なとこ、アポなしで部屋を用意してもらえるんだから」

 いい土産話ができた、と少年はニッコリ笑う。

「また香港に来ることがあれば連絡したまえ。今度はもっと君が気に入るような店に連れていってあげるよ」

 そう言うと、男は少年に自分の名刺を渡した。

 プライベートな連絡先を記したそれは、めったに人に渡すことはない。

 実際、その名刺を持っている人間は世界中に5人しかいなかった。

 この香港においては二人だけだ。

 勿論、そんなことなど少年は知らないから、気軽にその名刺を受け取った。

「ありがとう、ミスター。絶対にまた来るね」

「待ってるよ、カイト」

 少年は名刺を口元に持っていくと、軽く首をかしげフッと笑みを浮かべた。

 まだ子供といっていい幼さの残る顔をしながら、少年はゾクリとするような艶を帯びた表情を見せる。

 自分の容姿がどれだけ男に強いインパクトを与えるかを少年は十分に熟知しているのだ。

 そこに、初めて街中であった時の無邪気さはない。

 だが、売春を目的に色気を振りまく美少年たちとは明らかに違う。

 媚びているわけでもないのに、その魅力にひきつけられるのだ。

(不思議な少年だ)

 もう一度、男と異国の少年は口付けをかわした。

 

 

 誰もが認める香港の美しい夜景を眼下に見て、白い翼を持った怪盗が優雅に高層マンションのベランダに降り立った。

 空には月が輝いているというのに、その姿を目にしたものはただの一人もいなかった。

「時間通りだな、キッド」

 そのマンションの最上階にあるフロア全部を自分の名義で買い取った、香港でも指折りの実力と金を持った男が、白い怪盗を出迎える。

「それが私のモットーですので」

 純白のマントを風になびかせた怪盗が、恭しく腰を折る。

 そうだったな、とミスター李は言い、彼を部屋の中へ招き入れた。

 広大といっていいほどの広い部屋。

 日本の標準マンションなら、それだけで部屋が埋まるほどの大きな応接セットが、ここでは普通に見える。

 バーにもなっているカウンターキッチンに、おそらくは全部合わせれば億にもなろうかという絵画や彫刻が置かれていた。

 あいにく美術品は専門外なので鑑定はできないが。

 まあ殆どが本物だろう。

 キッドはロココ調の巨大な一人用のソファに腰を下ろした。

 肘置きがなかなかにセクシーなカーブを描いている。

「ついさっき、ユン・清柳(シリュウ)と電話で話をしてね。とても魅力的な日本人少年に会って一緒に食事をしたと言っていた」

 黒い癖のある髪に、光の加減で青紫に見える瞳をした綺麗な少年だったそうだ、と李が言うと、脚を組み肘置きに両肘を置いて前で指を組んで座っていた怪盗キッドが薄く笑みを浮かべた。

「彼には、これから力を貸してもらわなくてはならないことがいろいろ出てきそうなのでね」

 私のために。

「最初の出会いとしては、結構うまくいったと思ってるんですが?」

「そのようだね。名刺を渡したと言っていた。余程気に入ったのだろうな」

「名刺は誰にでも渡すものでしょう?」

「彼が渡す名刺は二種類あってね。商談で渡す一般的な名刺と、特別な人間にだけ渡す名刺。私も持っているが、香港でそれを持っているのはあと一人しかいない筈だ」

 ほお?とシルクハットの影に隠れたキッドの瞳が大きく見開かれた。

「それは、かなり光栄だったというわけですね」

 プレミア付きか、とキッドはくくっと笑う。

「香港に着いたその日に、彼とそこまで接触できるとは」

 さすがだな、とミスター李は感心したように言った。

 いえいえ、とキッドはゆっくりと首を振る。

「この私を香港にまで来させ、あまつさえひと仕事させようというあなたの方が上手ですよ、ミスター李」

「では引き受けてくれるのだな」

「それが条件であるならばね」

 カウンターの中でカクテルを作っていた李は、椅子に座っているキッドに向けて何かを放った。

 キッドは組んでいた指を解き、それを右手で受け止める。

 キッドの手の中に収まったそれは、四角い小さな箱だった。

 一見木製のように見えるが、実は金属だ。

「いいのですか?先に頂いてしまって」

「君の腕を信じているからね。君が引き受けてくれたなら、アレはもう私のものだ」

 キッドは口端を上げるとスッと手首を回した。

 すると、彼の手の上にのっていた小箱が煙のように消え失せた。

「レイジは元気でしたか?」

「ああ。彼に会ったのは半年ほど前だが、実に変わった男だった」

 そして、恐ろしく頭がいい。

「私が敵に回したくないと思ったのは、あの男が初めてだ」

 いや、敵に回したくないのは君たちもだがね、と李は言う。

 キッドはふふ・・と笑った。

「我々はレイジにとってはゲームを行うための駒。しかし、ゲームを考えスタートさせたのは彼だが、動くのは我々です。始めた者は結末を知っているが、そこに至るまでの過程を決めて動くのは我々だということですよ」

「で?君たちの中心にいるのがミステリアスブルーというわけか」

 キッドはそっと瞳を伏せ、自分の胸に手を当てた。

「ミステリアスブルーは我々の心臓。この生命を繋いでくれる唯一無二の珠玉です」

 だからこそ命を賭けて守り抜いていかなくてはならない。

 あの愛しい、失うことなどできない稀有な存在を。

「おい、李?いるのか?」

 ふいに部屋に入ってきた男が、部屋の暗さに戸惑ったような声でミスター李を呼んだ。

「来たのか仁」

「何やってんだ、李。明かりがついてねえから、なんかあったのかと思ったぜ」

「悪かった。部屋の中で夜景を楽しみたいと思ったもんでね」

 李はそう言うと、カウンターを出てカクテルの入ったグラスを仁に手渡した。

 今頃何を・・・と眉をひそめた仁は、李がもう一つ用意していたグラスを手渡した相手を見て、ポカンと口をあけた。

 先月オークションで手に入れたという、年代物の椅子にゆったりと座る白い影。

 暗いからこそ、余計にハッキリと見える鮮やかな白。

 男が被っているシルクハットもスーツも靴までも全てが白く、顔は影になってよくわからないが、揺れているのは、おそらくモノクルの飾り。

 ここまできたら男の正体を間違えよう筈はなかった。

 か・・怪盗キッド!

 何故だ?

 何故こんなところに怪盗キッドが!

「その顔だと紹介の必要はないようだな、仁」

 李は絶句している友人の仁を見てニコリと笑う。

「李・・・・・おまえ」

「彼がドラゴンボーイ?」

 白い怪盗が、立ち尽くしている男を見ていった。

 笑みを浮かべている口元だけが見え、仁はムッとなって眉をしかめた。

 なんだ、ドラゴンボーイって?

「拳聖リン・タイジンが自分の後継者にとまで認めた拳法の達人だそうですね。あなたが15か16の頃でしたか」

 しかし、リン・タイジンが急逝し、後継者争いが激化したことであなたは愛想をつかして出ていったとか。

「・・・・・」

「私もね、中国のカンフーは好きですよ。ブルース・リーのドラゴンシリーズは特に気に入っていた。

 だから”ドラゴンボーイ”ってか?

 くだらねえ・・・・

「なんで、おまえがここにいるんだ?確かここ最近の活動は日本だったんじゃないのか」

「獲物があれば私はどこにでも来ますよ」

 日本だけが仕事の場ではない。

「おまえが狙うような宝石が、この香港に・・・」

 言ってから仁はハッとした。

「おい、まさか・・・・」

 アレなのか?と仁はミスター李の方に顔を向けた。

「正攻法では手に入りそうにないからな」

 おい〜〜そのためにキッドを呼んだってのか?

「けどあれは」

「そう。あれがSJであるなら、この私にもまんざら関わりのないものではないのですよ。もし私の求めるものであるなら、そのまま私のものにさせてもらいます」

「なつ・・!」

 仁はキッドの勝手な言い草に目を剥いた。

「あんなことを言わせていいのか、李!」

 李は苦笑する。

「おまえが怒ることじゃないだろう、仁。いいんだよ」

 いいって・・・どこがだ!

「この街の夜景は本当に美しいですね」

 ハ?と間抜けた顔で仁は窓の外を眺めているキッドを見た。

 外から入る明かりが、キッドの白い顔を照らし出す。

 通った鼻筋と形のいい唇が仁の目に映った。

 どうやら、かなり綺麗な顔立ちの男らしい。

 しかも意外と若い?

 身体つきも、警察を翻弄する怪盗にしては華奢に思える。

 まるで少年のような細さだ。

 思わず見とれた自分に気づいた仁は頭を振り、夜景の見える窓の方に視線を向けた。

 まさしく100万ドルの価値があると言われる、美しい夜景がガラス戸の向こうに広がっている。

 え?

 視線をキッドに戻した仁はキョトンと目を見開く。

 ついさっきまで椅子に座っていた筈のキッドがいなくなっていたのだ。

 慌てて首を巡らせたが、キッドの白い姿はどこにも見えない。

(な・・いつ消えたんだ!)

 まさしく消えたとしか表現できない唐突さに仁は声を失った。

「怪盗キッドは神出鬼没だからな」

「納得できん!オレは奴が椅子から立ち上がる気配さえ感じなかったぞ!」

 そういえば・・・奴の気配をオレは感じたか?

 最初から気配を感じていなかったような気がする。

 李の部屋に彼以外の気配があれば、入った時点で自分は警戒していた筈だ。

 しかし、感じたのは李の気配だけだった。

 だが、一瞬だけ感じた奴の気配を覚えている。

 キッドが仁を見て”ドラゴンボーイ”と呼んだ時だ。

 まるで抜き身の刃を押し当てられたようなヒヤリとする気配だった。

 あれが確保不能とされる犯罪者の気配なのか。

 

                                             終

BACK